最終更新日 2025-09-07

豊後岡城の戦い(1586~87)

天正十四年、豊後岡城は島津大軍に包囲された。若き城主・志賀親次は寡兵で数ヶ月徹底抗戦し、巧みな戦術と不屈の精神で猛攻を退けた。孤塁を守り抜き、九州の命運を繋いだ死闘である。

豊後岡城の戦い(1586-87年)全史:孤塁の若武者、九州の命運を懸けた攻防

序章:本報告書の目的と構成

天正14年(1586年)から翌15年にかけて、九州の豊後国(現在の大分県)で繰り広げられた「豊後岡城の戦い」は、戦国時代の九州における勢力図を決定づけた「豊薩合戦」の中でも、特異な輝きを放つ籠城戦である。九州統一を目前にした島津氏の大軍に対し、わずか19歳の若き城主・志賀親次(しが ちかつぐ)が寡兵をもって数ヶ月にわたり徹底抗戦し、遂にはこれを退けたこの戦いは、単なる一地方の攻防戦に留まらない。それは、天下統一を推し進める豊臣秀吉の巨大な戦略と、信仰と忠義に生きた一人の武将の不屈の精神が交錯した、歴史の転換点であった。

本報告書は、この「豊後岡城の戦い」について、合戦の背景となる九州全体の政治・軍事情勢から、両軍の将帥の人物像、攻防の舞台となった岡城の実像、そして具体的な戦闘の推移を時系列に沿って詳細に分析・記述するものである。特に、島津軍の猛攻を支えた志賀親次の卓越した戦術と、その行動を突き動かした複合的な動機に深く迫ることで、この戦いが持つ真の歴史的意義を明らかにすることを目的とする。九州の戦国史における本合戦の重要性と、志賀親次という武将の類稀なる活躍を、多角的な視点から解明していく。

第一章:合戦前夜 – 九州を覆う戦雲

岡城の戦いは、孤立した事象として発生したわけではない。それは、九州全土の覇権を巡る島津氏、大友氏、そして中央の豊臣政権という三者の思惑がぶつかり合った、巨大な地殻変動のクライマックスの一部であった。

1-1. 九州の覇者・島津氏の野望:九州統一への道程

1580年代半ば、薩摩の島津氏は、島津義久、義弘、歳久、家久の「島津四兄弟」と称される傑出した指導者たちの下、その勢力を飛躍的に拡大させていた 1 。肥後の龍造寺氏を沖田畷の戦いで破り、九州の大部分をその影響下に置き、残る最大の障壁は北東部に拠る名門・大友氏のみとなっていた。島津氏の最終目標は、大友氏の本拠地である豊後国を制圧し、悲願である九州統一を成し遂げることにあった 2

この頃、中央では羽柴秀吉が関白に就任し、天下統一事業を急速に進めていた。島津家、特に島津家久らは、秀吉が本格的に九州へ介入する前に豊後を制圧し、九州全土を掌握するという既成事実を作り上げることで、来るべき秀吉との交渉を有利に進めようという戦略的意図を持っていた 2 。そこには、迅速に九州を平定しなければならないという一種の焦燥感が存在した。

1-2. 落日の名門・大友氏:宗麟の苦悩と秀吉への救援要請

かつて九州六ヶ国に覇を唱えた大友氏も、天正6年(1578年)の日向耳川の戦いでの島津氏に対する歴史的大敗以降、その勢威は見る影もなく衰退していた 5 。往年の勢いを失った大友家からは家臣や国人衆の離反が相次ぎ、当主・大友義統とその父・宗麟の支配領域は、豊後一国とその周辺にまで縮小するという窮状に陥っていた 7

もはや自力で島津の侵攻を食い止めることは不可能と判断した大友宗麟は、最後の望みを中央の新興勢力に託す。天正14年(1586年)、宗麟は大阪城に赴いて秀吉に謁見し、大友家が豊臣政権に臣従することと引き換えに、島津氏討伐の援軍を要請した 8 。この宗麟の決断が、豊臣政権による大規模な九州介入、すなわち「九州平定」の直接的な引き金となったのである。

1-3. 「惣無事令」と豊臣政権の介入:中央と地方の角逐

秀吉は、全国の大名に対し、大名間の私的な領土紛争を禁じる「惣無事令」を発していた。大友宗麟からの救援要請は、この命令を島津氏に遵守させ、自らの権威を九州に及ぼす絶好の口実となった 10 。しかし、島津氏は秀吉の停戦命令を事実上黙殺する 4

当時の島津当主・義久をはじめとする首脳部には、鎌倉以来の名門である島津家が、出自の低い「成り上がり者」である秀吉の命令に従う必要はないという強い自負と反骨心があった 4 。この対立の根底には、単なる領土紛争を超えた、より本質的な問題が存在した。それは、伝統的な地域権力としての誇りを持つ島津氏と、新たな中央集権体制を構築しようとする豊臣政権との間の、秩序と権威を巡るイデオロギー闘争であった。島津氏による豊後侵攻の強行は、秀吉が築き上げつつあった「天下」の秩序そのものへの公然たる挑戦であり、秀吉にとって九州平定は、自らの天下統一事業の正当性を証明するために、決して避けては通れない戦いであった。

1-4. 戸次川の惨敗:豊後の危機と岡城の孤立

宗麟の要請を受け、秀吉は直ちに先遣隊の派遣を決定する。総大将には子飼いの仙石秀久を任じ、長宗我部元親・信親父子、十河存保ら四国の諸将を中心とした部隊が豊後へ渡った 10 。しかし、この救援軍は豊後の戦況を好転させるどころか、破局的な結末を迎える。

天正14年12月12日、豊後戸次川(へつぎがわ)において、軍監である仙石秀久が秀吉からの待機命令を無視し、独断で島津家久軍への攻撃を強行した 11 。数に劣る豊臣先遣隊は、島津軍お得意の伏兵戦術「釣り野伏せ」の罠に完璧にはまり、組織的抵抗もままならぬまま壊滅 10 。この一戦で、長宗我部家の嫡男・信親や十河存保といった有力武将が討死し、豊臣方の先遣隊は完全に崩壊した。

この「戸次川の戦い」での惨敗は、大友氏にとって致命的であった。大友義統は本拠地の府内城を放棄して北へ逃走し、豊後における大友軍の防衛線は事実上消滅した 13 。これにより、豊後国内の諸城は島津軍の前に次々と開城、あるいは占領され、岡城は豊後南部における数少ない抵抗拠点として、敵地の中に完全に孤立無援で取り残されることになった。本来であれば、豊臣軍と連携して島津軍を挟撃するはずであった岡城は、この敗北によって、豊臣本隊が到着するまでの時間をたった一城で稼ぎ出すという、絶望的かつ極めて重要な戦略的役割を背負わされることになったのである。

第二章:両軍の陣容 – 将帥と城郭

絶望的な状況下で始まった岡城攻防戦。その勝敗の行方は、両軍を率いる将の器量と、戦いの舞台となった城郭の特性に大きく左右されることとなる。

2-1. 攻め手・島津軍:総大将・島津義弘と豊後侵攻部隊

島津氏の豊後侵攻は、日向方面から北上する島津家久の軍勢と、肥後方面から東進する島津義弘の軍勢という、二つのルートで進められた 14 。このうち、豊後南部の要衝・岡城の攻略を担当したのは、島津四兄弟の中でも「鬼島津」の異名で知られ、武勇において特に優れた島津義弘が率いる部隊であった 13

義弘が岡城包囲に投入した兵力については諸説あるが、1万5千から2万、一説には3万ともいわれる大軍であったと伝えられている 16 。対する岡城の守備兵は、わずか1,500名ほどであり、その兵力差は実に10倍以上という圧倒的なものであった 17 。義弘の麾下には、歴戦の猛将である新納忠元なども名を連ねており、質・量ともに島津軍の優位は揺るぎないものに見えた 17

2-2. 守り手・志賀親次:信仰と忠義に生きた若き城主

この島津の大軍に敢然と立ち向かった岡城城主・志賀親次は、合戦当時、数えで21歳(一説に19歳)という若武者であった 16 。彼の置かれた状況は、単に敵に包囲されているという以上に複雑であった。実父である志賀親度(道益)は、主君・大友義統との確執の末に失脚し、あろうことか島津方に内通していたのである 14 。親次の籠城戦は、主君への忠義を貫く戦いであると同時に、父の裏切りに抗う、いわば実父への反逆という側面も持っていた。

さらに、親次の人物像を語る上で欠かせないのが、その篤い信仰心である。彼は「ドン・パウロ」という洗礼名を持つ熱心なキリシタンであった 17 。当時の宣教師が残した記録によれば、若き日の親次は受洗を周囲に反対された際、自らの信仰の証として腕に剣で十字架を刻んだという逸話が残るほど、その信仰は純粋かつ情熱的なものであった 20

この親次の背景を鑑みると、彼の絶望的な状況下での徹底抗戦の動機が、単なる主君への忠誠心だけでは説明できない多層的なものであったことが浮かび上がってくる。第一に、キリスト教を厳しく弾圧する方針であった島津氏の支配を断固として拒絶し、自らの信仰世界を守り抜くための「信仰の防衛」という側面 14 。第二に、島津に与した父や周辺の南郡衆の裏切りによって汚された志賀一族の名誉を、自らの命を懸けた忠義によって回復しようとする「名誉の回復」という強い意志。そして第三に、宣教師ルイス・フロイスが好意的に描いたように、若く、正義感と武勇に溢れた親次自身の「個人的な気質」。これら三つの要素が複雑に絡み合い、常人には不可能と思われた驚異的な抵抗精神を生み出す源泉となったのである。

2-3. 天空の要塞・岡城:合戦当時の「土の城」としての実像

志賀親次が立て籠もった岡城は、標高325メートル、比高95メートルの舌状台地に築かれ、三方を断崖絶壁に囲まれた天然の要害であった 14 。その険峻な地形は、後に豊臣秀吉をして「あなどりがたし」と言わしめたほどである 16

しかし、ここで極めて重要な事実を指摘しなければならない。現在、岡城跡を訪れる人々を圧倒する壮麗な総石垣の城郭は、この戦いから約8年後の文禄3年(1594年)以降に、新たな城主となった中川秀成によって近世城郭として大改修されたものである 21 。志賀親次が島津の大軍を相手に守り抜いた1586年当時の岡城は、石垣を多用した「石の城」ではなく、土を盛り上げて作った土塁や、地面を掘って作った空堀などを主とした、いわゆる「土の城」だったのである 22

この事実は、志賀親次の防衛戦に対する評価を根底から見直させるものである。彼は、後世に築かれたような最新鋭の石垣の城に守られていたわけではない。自然の断崖絶壁という地形を最大限に活用し、土造りの防衛施設を巧みに組み合わせることで、10倍以上の兵力差を覆したのである。これは、城の堅固さ以上に、城主・志賀親次の戦術家としての卓越した能力と、城兵たちの士気の高さを何よりも雄弁に物語っている。

第三章:岡城攻防戦クロニクル – 孤塁の死闘

戸次川での味方の惨敗により、岡城は完全に孤立した。ここから、若き城主・志賀親次による、数ヶ月にわたる孤軍奮闘が始まる。その戦いは、単なる受動的な籠城ではなく、知略と奇策を駆使した能動的な防衛戦であった。

岡城の戦いと九州全体の戦況(1586年11月~1587年4月)

年月日(西暦/和暦)

岡城および周辺での出来事

九州全体の戦況(豊薩合戦)

1586年11月~

島津義弘軍、豊後へ侵攻開始。岡城を包囲。

島津家久軍、豊後へ侵攻。

1586年12月12日

-

戸次川の戦い 。豊臣先遣隊が島津家久軍に大敗。

1586年12月13日

-

島津家久軍、大友氏の府内城を占拠。

1586年12月初旬

入田宗和が降伏を勧告。志賀親次はこれを一蹴。

大友義統、高崎山城へ退避。豊後各地の城が次々陥落。

1586年12月2日~5日

第一次滑瀬橋の戦い 。島津軍の猛攻を撃退。

島津軍、豊後北部(玖珠郡など)の平定を進める。

1586年12月24日

第二次滑瀬橋の戦い 。稲富新助隊の夜襲を撃退。

-

1587年2月28日

鬼ヶ城の決戦 。志賀親次の奇策により島津軍に大勝。

-

1587年3月

-

豊臣秀長率いる10万の軍勢が豊前国に上陸、進軍開始。

1587年4月

島津義弘軍、豊臣本隊の接近を受け、岡城の包囲を解き日向へ撤退開始。

豊臣秀吉本隊も九州に上陸。九州平定が本格化。

3-1. 緒戦:降伏勧告と若き城主の決意(1586年12月初旬)

力攻めの前に、島津義弘はまず揺さぶりをかけた。島津方に内通していた入田宗和(親次の父・親度を寝返らせた張本人)を使者として城内に送り込み、降伏を勧告させたのである 16 。宗和は、「もはや望みなき大友家に忠節を尽くすのは無益である。いかに堅固な城といえども、これだけの大軍に包囲されれば落城は免れない」と、巧みに説得を試みた。

しかし、若き城主の決意は揺るがなかった。親次は宗和の言葉を遮り、毅然としてこう言い放ったと伝えられる。「この城が薩摩の手で攻め落とせるものなら、攻めてみてもらいたい。豊後にも歯のたたぬ城が一つや二つはあることを、とくとお見せしよう」 16 。この有名な逸話は、親次の徹底抗戦の意志が、開戦当初から明確であったことを示している。

3-2. 第一次滑瀬橋の戦い:鉄壁の渡河防衛(1586年12月2日~5日)

降伏勧告を蹴られた島津軍は、本格的な攻撃を開始する。岡城の南側を流れる大野川(白滝川)に架かる「滑瀬橋(ぬめりぜばし)」は、城へ取り付くための主要な攻撃路であった 23 。島津軍はこの橋の確保を目指し、12月2日から4日間にわたって、新手を次々と投入する波状攻撃を仕掛けた 16

しかし、親次は敵の狙いを完全に見抜いていた。彼は事前に川岸に堡塁(ほるい)を築き、そこに鉄砲隊を重点的に配置していた。橋を渡ろうと殺到する島津兵に対し、城方から一斉に銃弾が浴びせられる。正確な射撃の前に島津兵は次々と倒れ、ついに一兵も対岸に渡ることを許されなかった 16 。多大な損害を出した島津義弘は、この方面からの力攻めが困難であることを悟り、一旦兵を退かざるを得なかった。

3-3. 第二次滑瀬橋の戦い:暁闇の奇襲と迎撃(1586年12月24日)

正面からの攻撃を諦めた義弘は、配下の稲富新助に兵5千(一説に千)を与えて岡城の監視を命じ、自身は別方面の攻略に向かった 16 。手柄を立てようと功を焦った稲富新助は、12月24日の未明、闇に紛れて滑瀬橋へ奇襲を敢行する。

だが、この動きもまた、親次の見るところであった。彼は敵の夜襲を事前に察知し、完璧な迎撃態勢を整えていた。正面の橋のたもとに鉄砲隊を待ち伏せさせると同時に、別動隊を密かに川下に迂回させ、敵の背後を突かせたのである 16 。何も知らずに橋へ殺到した稲富隊は、正面からの銃撃と、予期せぬ背後からの攻撃に挟撃され、大混乱に陥った。進退窮まった稲富隊は大損害を被って敗走。島津軍による二度目の攻撃も、親次の周到な迎撃策の前に完璧な失敗に終わった。

3-4. 鬼ヶ城の決戦:城主、自ら戦場を演出す(1587年2月28日)

二度にわたる手痛い敗北にもかかわらず、島津義弘は岡城攻略を諦めなかった。年が明けた天正15年2月、周辺の諸城を平定した義弘は、三度目の正直を期して再び大軍を率いて岡城に迫った 16

ここで親次は、籠城戦の常識を覆す、大胆不敵かつ奇抜な行動に出る。彼はもはや城内で敵を待ち受けるのではなく、自ら決戦の舞台を演出し、敵をそこへ誘い込むという壮大な策を弄したのである。これは、彼の類稀な戦術眼と、敵の心理を巧みに操る能力を示すものであった。

親次は島津の陣に矢文(やぶみ)を射込み、次のような趣旨の挑戦状を送りつけた。「いつもの滑瀬口での戦いでは互いに面白くあるまい。もし雌雄を決するおつもりならば、岡城の支城である鬼ヶ城(おにがじょう)を合戦の場としたい。ご望みとあらば、こちらから川の渡りやすい浅瀬までご案内つかまつろう」 16

この前代未聞の挑発に、さすがの島津方も乗らざるを得なかった。翌日、島津の大軍が指定された場所へ移動すると、親次は約束通り、敵前で雑兵に川の瀬踏み(安全な渡河地点を示させる行為)をさせ、敵を完全に油断させた。島津軍が渡河を終え、鬼ヶ城の丘陵を潮のように攻め上ってきたその時、親次の采配が閃く。地の利を完璧に把握している志賀勢が、丘の上から三方より一斉に攻めかかったのである。高所から駆け下る少数精鋭の志賀勢に対し、斜面を攻め上る大軍の島津勢は身動きが取れず、その陣形はたちまち崩壊した 16

島津軍は総崩れとなり、川に落ちる者、民家に逃げ込む者で大混乱に陥った。『大友興廃記』によれば、この一戦で志賀勢は370もの首級を挙げたとされる 16 。この決定的ともいえる大勝によって、猛将・島津義弘はついに岡城の攻略を断念せざるを得なくなった 24

3-5. 城外戦:受動的籠城から能動的防衛へ

志賀親次の戦いは、単に城に籠って耐えるだけのものではなかった。彼は機を見ては積極的に城外へ打って出て、島津軍に占領された周辺の支城を奪還する作戦を幾度となく展開していた 16 。例えば、西方の駄原城では、偽って城を明け渡して敵を油断させ、岡城からの救援部隊と共に挟撃してこれを壊滅させるなど、多彩なゲリラ戦術を駆使していた 16

これらの行動は、単なる武勇の誇示ではない。籠城戦の究極目的が、味方の援軍(この場合は豊臣本隊)が到着するまでの「時間稼ぎ」であることを深く理解した上での、極めて合理的な戦術であった。城外での積極的な軍事行動は、敵の兵力を岡城への包囲から引き剥がして分散させ、敵の補給や部隊間の連携を妨害し、そして何よりも籠城する味方の士気を高く維持するという、複数の戦略的効果をもたらした。親次は、岡城という拠点を巧みに利用した「機動防御」を展開していたのであり、これは戦国時代の籠城戦術の中でも特筆すべき事例と言える。

第四章:戦局の転換 – 豊臣本軍の到来と島津の撤退

岡城における志賀親次の局地的な勝利は、やがて九州全体の戦局と連動し、最終的な結末へと繋がっていく。

4-1. 岡城の抵抗がもたらした戦略的遅滞

志賀親次による数ヶ月にわたる驚異的な抵抗の結果、島津義弘が率いる肥後方面軍は、豊後南部に完全に釘付けにされた 13 。これにより、島津軍が当初目論んでいたであろう、豊後全域を迅速に制圧し、北上して豊前に展開する豊臣先遣隊(毛利勢など)と合流、あるいはこれを撃破するという戦略目的は達成不可能となった。

岡城の抵抗は、それ自体が戦術的な大勝利であっただけでなく、豊臣政権が20万ともいわれる本格的な九州征伐軍を編成し、九州へ派遣するための、かけがえのない貴重な時間を稼ぎ出したのである。まさに、一城の抵抗が九州全体の戦局を左右する、戦略的な遅滞行動として完璧に機能したと言える。

4-2. 豊臣秀長の豊後上陸と戦況の激変

天正15年(1587年)3月、志賀親次が待ち望んだ「後詰め」が、ついに現実のものとなる。秀吉の弟・豊臣秀長を総大将とする10万の大軍が、海を渡り豊前・豊後に上陸を開始したのである 27 。この圧倒的な兵力を誇る豊臣本隊の出現により、九州における軍事バランスは一瞬にして崩壊した。

自軍の背後に巨大な敵軍が出現したことを知った島津義弘と家久は、もはや豊後での作戦継続は不可能と判断。豊後各地からの撤退を決定し、岡城の包囲を解いて、本国である日向・薩摩方面へと兵を引き始めた 2 。志賀親次と岡城の兵たちは、ついに長きにわたる包囲から解放されたのである。

4-3. 九州平定の終焉

戦局はここから一気に動く。豊臣秀長軍が東から、そして秀吉自らが率いる本隊が西(筑前・肥後)から、挟み撃ちにする形で島津領へと侵攻した 27 。島津方は各地で敗北を重ね、抵抗を続けるも、その勢いを止めることはできなかった。最終的に当主・島津義久が降伏し、ここに豊薩合戦、そして秀吉による九州平定は終結した 8

第五章:歴史的意義と後世への影響

豊後岡城の戦いは、九州の戦国史、ひいては日本の天下統一史において、重要な足跡を残した。その歴史的意義と後世への影響を多角的に考察する。

5-1. 豊薩合戦における岡城の戦いの戦略的価値

結論として、岡城の戦いは、豊薩合戦における豊臣方の勝利に不可欠な貢献を果たしたと言える。もし岡城が早期に陥落していれば、島津義弘軍は豊後北部へ迅速に進出し、豊臣本隊が到着する前に九州の情勢が島津有利で固まっていた可能性は否定できない。志賀親次の奮戦は、島津の戦略に致命的な遅滞を生じさせ、秀吉に九州平定を完遂させるための時間的猶予を与えた。一城の籠城戦が、天下統一という大きな歴史の流れに直接的な影響を及ぼした稀有な事例として、高く評価されるべきである。

5-2. 「天正の楠木」– 志賀親次への歴史的評価

志賀親次の武勇と智謀は、敵味方双方から最大級の賛辞をもって称えられた。敵将であった島津義弘は、親次の戦いぶりを、南北朝時代の伝説的な名将・楠木正成になぞらえ、「天正の楠木」と絶賛したと伝えられている 17 。また、天下人となった豊臣秀吉も親次の功績を高く評価し、九州平定後に直々に感状を与えてその忠功を激賞した 17

しかし、その後の親次の人生は、その功績に比して必ずしも報われたものとは言えなかった。主家である大友家が文禄の役での失態により改易されると、親次もまた浪々の身となり、諸大名家を渡り歩くこととなる 17 。戦国の世の非情さを象徴するような後半生であった。

5-3. 難攻不落の城から「荒城の月」へ

戦いの後、岡城は中川秀成の居城となり、近世城郭として壮大な総石垣造りに大改修された 21 。江戸時代を通じて岡藩の藩庁として存続したが、明治維新後に廃城令によって建物はすべて取り壊された。

しかし、戦国の記憶を刻むその壮大な石垣は残り、後世、この地を訪れた若き作曲家・瀧廉太郎に強いインスピレーションを与えた。そして、不朽の名作である唱歌「荒城の月」が生まれるモチーフとなったのである 14 。戦国の世に繰り広げられた激しい攻防の舞台は、時を経て、栄枯盛衰の無常と滅びの美学を象徴する国民的な文化遺産へとその姿を変えた。志賀親次が守り抜いた「土の城」の記憶は、壮麗な「石の城」の遺構と、物悲しくも美しいメロディーの中に、今なお生き続けている。

引用文献

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  27. 1587年 – 89年 九州征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1587/
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