越中一向一揆(1489~1581)
越中一向一揆(1481年~1581年):百年王国興亡史
序章:百年王国の黎明
本報告書は、日本の戦国時代において、越中国(現在の富山県)に約一世紀にわたり存在した特異な政治・軍事勢力「越中一向一揆」の全貌を解明するものである。その期間は、在地領主・石黒氏を打倒した文明13年(1481年)の蜂起から、織田信長の部将・佐々成政によって組織的抵抗が終焉を迎える天正9年(1581年)までとする。
越中一向一揆は、しばしば単なる「農民反乱」として語られることがある。しかし、その実態は、守護権力の不在という政治的空白を突き、浄土真宗本願寺教団の強固な信仰と組織力を基盤として、越中の一角に独立した領国を形成・維持した「宗教的領国(テリトリー国家)」と捉えるべきである。隣国・加賀の「百姓の持ちたる国」が守護を完全に放逐して成立したのに対し、越中一向一揆は、神保・椎名といった在地武士勢力、さらには越後の上杉謙信という強大な外部勢力と常に対峙し、時に連携し、時に激しく衝突しながら存続した点に、その歴史的特異性が見出される。この複雑な地政学的環境こそが、一揆の性格と運命を規定する決定的な要因となった。
本報告書は三部構成を採る。第一部「信仰と土着権力の衝突」では、権力の真空地帯と化した越中に、いかにして一向一揆という新たな支配者が誕生したかを詳述する。第二部「混沌の時代」では、一揆、神保氏、椎名氏の三勢力が鼎立する状況と、そこに「軍神」上杉謙信が介入することで引き起こされた激動を描き出す。そして第三部「天下布武の波と王国の終焉」では、織田信長による天下統一の奔流が、この百年王国をいかに飲み込んでいったかを追跡する。
特に、その歴史的転換点となった三つの主要な合戦、「田屋河原の戦い」「般若野の戦い」「尻垂坂の戦い」については、あたかもその場にいるかのような時系列での詳細な分析を行い、一揆の興亡の力学を浮き彫りにすることを目的とする。
第一部:信仰と土着権力の衝突 ― 独立国家の誕生(1480年代~1520年)
越中一向一揆の勃興は、偶発的な農民蜂起ではない。それは、室町幕府の権威が失墜し、守護大名の領国支配が形骸化するという「政治的真空」と、本願寺教団による強力な「宗教的インフラの整備」という、二つの巨大な潮流が越中の地で合流した必然的な帰結であった。本章では、一向宗門徒が単なる信仰共同体から、在地武士を打倒し、自らの領国支配を確立するに至った過程を詳らかにする。
第一章:乱世の越中 ― 権力の真空地帯
守護・畠山氏の形骸化
室町時代、越中は三管領家の一つである畠山氏が守護職を世襲していた 1 。しかし、15世紀後半になると、畠山氏の領国支配は著しく弱体化する。その主たる原因は、中央政界における絶え間ない権力闘争であった。応仁の乱(1467年~1477年)の要因の一つとなった畠山政長と畠山義就の家督争いは、乱後も尾州家(政長流)と総州家(義就流)の分裂抗争として続き、当主たちは京と河内・紀伊を転戦することに明け暮れた 2 。
特に、明応2年(1493年)の「明応の政変」は決定的であった。管領・畠山政長が細川政元らのクーデターによって自刃に追い込まれると、越中守護であった尾州家の影響力は大きく後退する 2 。当主たちは領国である越中に在国することなく、その実効支配は守護代である神保氏や椎名氏に完全に委ねられることとなった 5 。しかし、その守護代たちもまた、越中の覇権を巡って互いに抗争を繰り返し、領内は事実上の無政府状態、すなわち「権力の真空地帯」と化していたのである 3 。この伝統的権威の不在こそが、一向一揆という新たな権力が、既存の支配層からの直接的な弾圧を受けることなく、その勢力を着実に拡大するための絶対的な前提条件となった。
蓮如の布教と信仰共同体の形成
この政治的混乱期と時を同じくして、北陸の宗教地図を塗り替える大きな動きがあった。本願寺八世宗主・蓮如による精力的な布教活動である。天台宗徒など旧仏教勢力からの弾圧を逃れた蓮如は、文明3年(1471年)に越前吉崎に道場(吉崎御坊)を建立し、北陸布教の拠点とした 7 。
蓮如の布教の特色は、難解な教義ではなく、「御文(御文章)」と呼ばれる平易な仮名書きの手紙を用いて、「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも救われるという教えを説いた点にある 8 。この分かりやすさは、戦乱に疲弊した農民や地侍の心に深く浸透し、越中においても急速に本願寺門徒が形成されていった 7 。
重要なのは、蓮如の布教が単に個人の信仰に留まらなかったことである。それは「講」と呼ばれる門徒の水平的な組織を各地に形成し、強い連帯感と相互扶助の精神を持つ巨大な社会ネットワークを構築した。このネットワークこそが、後の武装蜂起における驚異的な動員力と組織力の源泉となるのである。
二大拠点「瑞泉寺」と「勝興寺」の成立
越中における本願寺教団の拡大には、二つの中心的な寺院の存在が不可欠であった。一つは、本願寺第五代・綽如によって明徳元年(1390年)に建立された井波の瑞泉寺である 9 。そしてもう一つが、文明3年(1471年)に蓮如自身が砺波郡土山に創建した土山御坊、後の勝興寺である 7 。
これらの寺院は、単なる宗教施設ではなかった。特に瑞泉寺と勝興寺は、広大な寺領と多数の門徒を擁し、やがて堀や土塁を巡らせた「城郭寺院」へと姿を変えていく 10 。門徒衆が情報を交換し、意思決定を行い、有事の際には武装して結集する、まさに一揆の政治・軍事拠点としての機能を担うようになった。こうして、越中には伝統的な武家権力とは全く異なる、信仰を基盤とした新たな権力構造が着々と築き上げられていったのである。
第二章:田屋河原に響く鬨の声(1481年)
合戦の背景 ― 信仰と領主権の衝突
急速に勢力を拡大する一向宗門徒の存在は、越中の在地領主たちにとって看過できない脅威となっていた。特に、砺波郡西部を支配する福光城主・石黒光義は、自らの領主権が門徒の団結によって侵食されることに強い警戒感を抱いていた 11 。
文明13年(1481年)春、石黒光義はついに決断を下す。同じく一向一揆の伸長に苦慮していた隣国・加賀の守護、富樫政親と連携し、一揆の最大拠点である井波瑞泉寺の討伐を計画したのである 12 。これは、越中における旧来の武家支配と、信仰を基盤とする新興勢力との間で、雌雄を決する最初の全面衝突であった。
両軍の布陣と兵力
- 石黒軍: 福光城を拠点とする石黒光義の軍勢は、約1,600名 12 。在地武士を中心とした、比較的統制の取れた軍隊であった。彼らは、自らの所領と支配体制を守るために戦った。
- 一揆軍: 瑞泉寺からの檄に応じて、般若野郷、山田谷、五箇山など、砺波郡一円から門徒衆が集結した。その数は5,000名を超えたと記録されている 7 。彼らの武装は竹槍、熊手、鎌といった農具が主体であったが、「進者往生極楽、退者無間地獄」という信仰に裏打ちされた士気は極めて高く、死を恐れない強固な団結力を持っていた 7 。
戦況詳解 ― リアルタイム分析
- 開戦: 文明13年(1481年)春、石黒光義率いる討伐軍は、本拠の福光城を出陣し、瑞泉寺を目指して東へ進軍を開始した。これに対し、瑞泉寺に結集した一揆軍は、石黒軍を平野部で迎え撃つべく出陣。両軍は、福光と井波の中間地点にあたる山田川の河原、「田屋河原」(現在の南砺市田屋)で対峙した 11 。
- 激突: 河原を挟んで布陣した両軍は、鬨の声を合図に正面から激突した。兵力では一揆軍が圧倒的に優勢であったが、戦闘経験と武具に勝る石黒軍は奮戦し、序盤は一進一退の攻防が続いた。
- 戦局の転換点: 戦いが最も激しくなったその時、戦況を根底から覆す一報が石黒軍にもたらされる。この戦闘の最中、瑞泉寺に加勢すべく南下してきた加賀の一向一揆勢(湯涌谷衆)が、田屋河原の主戦場には向かわず、巧みに二手に分かれて行動していたのである。一手は石黒方の重要拠点である育王山惣海寺を、そしてもう一手は、主力が不在で手薄になっていた石黒光義の本拠・福光城を直接攻撃した 10 。
- 石黒軍の崩壊: 本拠地と背後の拠点を同時に急襲されたという知らせは、前線で戦う石黒軍の兵士たちに致命的な動揺を与えた。指揮系統は瞬く間に崩壊し、兵士たちは戦意を喪失。軍は総崩れとなり、戦線は完全に瓦解した。この作戦は、単なる烏合の衆には実行不可能な、高度な情報収集能力と連携に基づいたものであった。一揆勢が、主戦場で敵主力を拘束しつつ、別動隊が敵の兵站と指揮系統の中枢を叩くという、極めて洗練された戦術を実行したことを示している。
- 結末: 敗走を悟った石黒光義は、福光城へは戻らず、主従16名と共にその場で自刃して果てた 7 。福光城と惣海寺は一揆勢によって焼き落とされ、砺波郡に勢力を誇った国人領主・石黒氏は、この一日で歴史から姿を消した。
戦後処理と「門徒の支配」
田屋河原の戦いにおける圧倒的な勝利により、一向一揆勢は砺波郡一帯をその勢力下に置くことに成功した 12 。これにより、越中西部に「門徒による自治」の時代が幕を開ける。ただし、『瑞泉寺記録帳』などの記述を詳細に検討すると、即座に郡全域が完全な門徒領国制になったわけではなく、支配が及ばない地域も一部存在したことが示唆されている 7 。石黒氏滅亡後も、その支配体制は段階的に、そして着実に確立されていったと考えられる。この勝利は、一揆勢に絶大な自信を与え、彼らの行動はさらに大胆になっていく。
第三章:越後の龍を討つ(1506年)
背景 ― 守護代の内紛と一揆勢力の介入
田屋河原の戦いから25年後、越中一向一揆は、もはや一郡の支配者というに留まらず、越中全体の政治情勢を左右する巨大な勢力へと成長していた。この頃、越中では守護代の神保氏と椎名氏の対立が激化していたが、神保慶宗は一向一揆と強固な同盟関係を結び、その軍事力を背景に勢力を拡大していた 14 。
この状況を打開するため、名目上の越中守護であった畠山尚順は、国外の勢力に助けを求めた。白羽の矢が立ったのは、隣国・越後の守護代であり、当時「戦上手」として名を馳せていた長尾能景(上杉謙信の祖父)であった 14 。
般若野の合戦(永正3年/1506年9月18日)
- 長尾軍の進撃: 永正3年(1506年)9月、畠山氏の正式な要請を受けた長尾能景は、精鋭を率いて越後を出陣。越中へと侵攻し、神保慶宗・一向一揆連合軍の討伐に向かった。
- 戦況詳解 ― リアルタイム分析:
- 布陣: 長尾軍と神保・一揆連合軍は、砺波郡の般若野(現在の砺波市)で対峙した 16 。長尾軍には、神保慶宗と敵対する越中の国人領主たちも加わっており、当初は長尾方が優勢と見られていた。
- 裏切り: 9月18日、両軍が激突。しかし、戦闘の最中に、長尾軍の一翼を担っていたはずの神保慶宗が、突如として軍を反転させ、戦線を離脱した 16 。これは事前に一揆側と綿密に打ち合わせられた、計画的な裏切りであった。
- 長尾軍の孤立と壊滅: 神保軍の離脱により、長尾軍は側面を完全に露呈し、一向一揆の圧倒的な大軍に三方から包囲される形となった。予期せぬ事態に軍はたちまち大混乱に陥り、指揮系統は麻痺。総大将の長尾能景は、わずかな手勢と共に奮戦するも、衆寡敵せず、壮絶な討ち死を遂げた 16 。長尾軍は壊滅的な敗北を喫し、越中から敗走した。
戦後の影響 ― 越後との長き遺恨
般若野における長尾能景の敗死は、越中一国の枠を超え、北陸全体の政治力学に巨大な衝撃を与えた。この一戦は、越中一向一揆が、もはや在地領主レベルの敵ではなく、隣国の大名家当主を討ち取るほどの軍事力と、敵を欺く高度な政治的交渉力(神保氏との連携)を併せ持つ、戦国大名に比肩する存在であることを天下に知らしめたのである。
そして、この事件は越後との間に、長きにわたる血の遺恨を残した。父・能景の非業の死を知った長尾為景(上杉謙信の父)は、神保慶宗を仇敵とみなし、その復讐に燃えた。これ以降、為景は十数年にわたり執拗な越中侵攻を繰り返し、永正17年(1520年)12月、ついに新庄の戦いで神保慶宗を破り、自刃に追い込んで本懐を遂げる 16 。しかし、この父子の代に刻まれた越中への執着と介入の歴史は、その子である上杉謙信の時代へと引き継がれ、越中一向一揆の運命を大きく左右していくことになる。この一戦は、越中内部の問題を、北陸全体の地政学的な問題へと拡大させた「画期」であった。
第二部:混沌の時代 ― 三つ巴の抗争と謙信の影(1521年~1576年)
長尾為景による神保慶宗討伐後、越中は一時的な安定を見るかに思われたが、それは新たな混沌の時代の幕開けに過ぎなかった。一向一揆、神保氏、椎名氏という三つの勢力が、互いに覇を競い、離合集散を繰り返す「越中三国志」とも言うべき時代が到来する。そして、この複雑な力学の中に、父祖の因縁を背負った越後の「軍神」上杉謙信が介入することで、越中の戦乱はさらなる激化の一途をたどるのである。
表1:越中一向一揆 主要合戦一覧表
年月日(西暦/和暦) |
合戦名 |
場所 |
主要指揮官(一揆軍 vs. 敵軍) |
推定兵力(一揆軍 vs. 敵軍) |
結果 |
歴史的意義・特記事項 |
1481年 春 (文明13) |
田屋河原の戦い |
越中 砺波郡 田屋河原 |
瑞泉寺門徒衆 vs. 石黒光義 |
5,000 vs. 1,600 |
一揆軍の圧勝 |
在地領主・石黒氏を滅亡させ、砺波郡における一揆の支配権を確立。 |
1506年10月4日 (永正3.9.18) |
般若野の戦い |
越中 砺波郡 般若野 |
神保慶宗・一揆連合軍 vs. 長尾能景 |
不明 vs. 不明 |
連合軍の勝利 |
越後守護代・長尾能景を討ち取り、越後長尾氏との長きにわたる因縁を生む。 |
1572年 9月初旬 (元亀3) |
尻垂坂の戦い |
越中 新川郡 尻垂坂 |
杉浦玄任 vs. 上杉謙信 |
4,000 vs. 10,000 |
上杉軍の圧勝 |
一揆の軍事力が事実上壊滅。上杉謙信による越中平定が決定的なものとなる。 |
第四章:越中の鼎立 ― 一揆・神保・椎名の相克
16世紀中盤の越中は、大きく三つの勢力によって分割支配される状態が続いた。西部の砺波郡を確固たる地盤とする 一向一揆 、射水・婦負郡を中心に富山平野を支配する守護代の 神保氏 、そして東部の新川郡を拠点とする同じく守護代の 椎名氏 である 6 。
彼らの関係は、単純な敵対関係ではなかった。越中の覇権を巡り神保氏と椎名氏は長らく対立していたが 20 、神保長職は一向一揆と結んで椎名氏を攻撃することもあれば 21 、状況によっては神保氏と椎名氏が和睦することもあった 22 。この三勢力が互いに牽制し合い、同盟と裏切りを繰り返す不安定なバランスこそが、この時代の越中の特徴であった。そして、この絶え間ない内乱が、外部の超大国である上杉謙信に、介入の絶好の口実を与える土壌となったのである。
第五章:軍神、越中へ ― 上杉謙信の侵攻
越後の龍、長尾景虎(後の上杉謙信)が越中へ繰り返し軍を進めた背景には、複数の戦略的意図が複雑に絡み合っていた。
- 大義名分としての盟友救援: 謙信の出兵は、多くの場合、神保長職の圧迫に苦しむ同盟者・椎名康胤からの救援要請に応えるという形を取っていた 23 。これは、自らの軍事行動を正当化するための「表向きの理由」であった。
- 地政学的な要請としての対武田戦略: 謙信にとって最大の宿敵は、甲斐の武田信玄であった。信玄は、謙信の背後を脅かすため、越中・加賀の一向一揆を巧みに扇動し、反上杉の兵を挙げさせていた 25 。謙信にとって、信濃川中島で信玄と対峙するためには、まず背後にある越中を平定し、後顧の憂いを断つことが絶対条件であった。川中島の戦いと越中侵攻は、表裏一体の戦略として密接に連動していたのである 27 。
- 明確な領土的野心: 謙信は、神仏への願文の中で「賀州と越中の凶徒は悉く退散」「越中・信州・関東・越後、藤原謙信分国」と記しており、越中を自らの領国として完全に支配下に置こうとする明確な意図を持っていた 24 。
これらの動機に基づき、謙信は永禄年間(1558年~1570年)を中心に、十数回にわたり越中へ出兵した。永禄3年(1560年)には、一向一揆と結んだ神保長職の居城・富山城を攻略し、長職を増山城へと敗走させた 21 。さらに永禄5年(1562年)には増山城を攻め、長職を降伏させるなど 25 、着実に神保氏の勢力を削いでいった。しかし、謙信が関東出兵などで越中を留守にすると、神保氏や一向一揆が再び勢力を盛り返すという状況が繰り返され、越中の完全平定は、謙信にとって長年の課題であり続けた。
第六章:尻垂坂の血戦(1572年)
背景 ― 信玄の西上作戦と一向一揆の蜂起
元亀3年(1572年)、戦国時代の情勢を揺るがす大事件が起こる。武田信玄が、ついに上洛を目指し、大規模な西上作戦を開始したのである。これに呼応したのが、織田信長と石山戦争を繰り広げていた本願寺宗主・顕如であった。顕如は、信長包囲網の一環として、また信玄の西上を側面支援するため、北陸の門徒衆に対し、上杉謙信を越中に釘付けにするよう指令を下した 25 。
この指令を受け、加賀・越中の一向一揆は一斉に蜂起した。総大将には、本願寺から派遣された坊官であり、武闘派として知られる杉浦玄任(すぎうら げんにん)が就任 30 。一揆軍は破竹の勢いで上杉方の諸城を攻め、富山城をも攻略。その勢いは頂点に達し、謙信による越中支配は根底から覆されようとしていた 33 。
両軍の布陣
- 上杉軍: 報告を受けた謙信は、自ら約1万の軍勢を率いて越中へ進軍。一揆勢力圏の喉元に位置する新庄城に本陣を構え、富山城奪還の機会を窺った 31 。
- 一揆軍: 富山城に立てこもり、上杉軍の攻撃に備えた。兵力は約4,000と上杉軍に劣っており、加賀からの援軍の到着を待つ状況であった 31 。しかし、信仰に支えられた彼らの士気は高く、籠城戦で地の利を得ていた。
戦況詳解 ― リアルタイム分析
- 前哨戦(8月): 謙信は富山城への攻撃を開始するが、一揆軍の抵抗は予想以上に激しく、容易には落ちなかった。いたずらに兵を損耗することを嫌った謙信は、一度兵を引き、新庄城にて対陣する 33 。両軍は新庄城と富山城の間、約一里(約4km)の距離を置いて睨み合い、膠着状態が続いた 34 。
- 決戦(9月初旬): 援軍の来ない籠城戦に利なしと見たか、あるいは謙信の巧みな誘いにかかったか、一揆軍は富山城を出て野戦での決着を選択する。謙信もこれに応じ、両軍は両城の中間に位置する「尻垂坂」(現在の富山市西新庄付近)で決戦の時を迎えた 33 。
- 雨中の激闘: 合戦が始まると、まるで天が戦の凄惨さを嘆くかのように、何日も激しい秋の長雨が降り続いた 31 。ぬかるむ足元で両軍は激突。泥と血にまみれながら、壮絶な白兵戦が繰り広げられた。この戦いは凄まじさを極め、続出する戦死者の流血によって、近くを流れる「びや川」が真っ赤に染まったと後世に伝えられるほどであった 31 。
- 結末: 激闘の末、戦局は戦国最強と謳われた上杉軍に傾いた。信仰心と自己犠牲の精神で戦う一揆軍に対し、長年の実戦で鍛え上げられた上杉軍は、組織的な戦闘能力、統率力、そして何よりも謙信自身の卓越した戦術眼において、明らかに上回っていた。一揆軍は次第に押され、ついに戦線は崩壊。杉浦玄任は敗走し、一揆軍は壊滅的な打撃を受けた 31 。
戦後の影響 ― 上杉氏の覇権確立
尻垂坂の戦いは、越中一向一揆にとって決定的な敗北であった。この一戦で、一揆の中核をなす軍事力は事実上壊滅し 15 、組織的な抵抗は不可能となった。謙信はこの勝利の後、富山城を始めとする越中の諸城を次々と奪還し、反上杉勢力を一掃した 25 。
この戦いは、「信仰の軍隊」と、上杉謙信という稀代の戦術家が率いる「プロフェッショナルな軍隊」との組織的な質の差が、勝敗を分けた典型例であった。また、この戦いの引き金が武田信玄の西上作戦という天下の情勢と完全に連動していたことは、越中がもはや一地方の係争地ではなく、天下分け目の戦いの一翼を担う戦略的要衝であったことを示している。
尻垂坂の戦いの後、弱体化した一向一揆と上杉謙信との間で和睦が成立。天正4年(1576年)までに、謙信は最初の出兵から実に16年の歳月を経て、ついに越中をほぼ平定することに成功したのである 36 。
第三部:天下布武の波 ― 王国の終焉(1577年~1581年)
上杉謙信によって越中の覇権が確立されたかに見えたが、その支配は長くは続かなかった。謙信の突然の死は、越中に再び権力の空白を生み出す。しかし、その空白を埋めたのは、かつての一揆勢力ではなく、東から怒涛の勢いで迫る織田信長の「天下布武」の奔流であった。本章では、約一世紀にわたり越中に君臨した一向一揆の「王国」が、織田軍の圧倒的な軍事力の前に完全に終息させられる過程を追う。
第七章:謙信死す ― 権力の再編
天正6年(1578年)3月、上杉謙信が春日山城で急死する。この巨星の墜落は、北陸の政治情勢を一変させた。謙信の後継者を巡り、養子の景勝と景虎の間で家督争い(御館の乱)が勃発。上杉家はこの内乱によって国力を大きく消耗し、越中への影響力を急速に失っていった。
これまで謙信という絶対的な存在によって抑え込まれていた越中の一揆勢力や在地武士たちは、その軛から解放された。しかし、それは同時に、これまで上杉氏が防波堤となってきた東からの新たな脅威、織田信長の勢力と直接向き合うことを意味した。越中は、新たな支配者を迎えるべく、再び動乱の時代へと突入する。
第八章:佐々成政の越中平定
織田信長の北陸方面軍
天下統一を着々と進める織田信長は、北陸方面の攻略を宿老・柴田勝家に一任していた。その与力として配属されたのが、佐々成政と前田利家である 37 。彼ら北陸方面軍は、天正3年(1575年)に越前一向一揆を殲滅すると、その勢いのまま加賀、能登へと侵攻。そして謙信死後の好機を逃さず、ついに越中へとその矛先を向けた。
一揆拠点の掃討戦(~1581年)
佐々成政は、上杉家の混乱に乗じて再び蜂起した一向一揆の残存勢力や、上杉方に与する国人衆の拠点を、一つずつ着実に攻略していった。この時期の戦いは、尻垂坂のような大規模な野戦ではなく、山城や城郭寺院に立てこもる一揆勢力を、織田軍が誇る圧倒的な物量と鉄砲隊で攻め落とす、殲滅戦の様相を呈した。
特に天正9年(1581年)には、越中一向一揆最後の牙城ともいえる五箇山の門徒衆との間で、窪城などを巡る激しい攻防戦が繰り広げられた記録が残っている 38 。しかし、織田軍の組織的で近代的な軍事力の前に、もはや一揆勢に抗う術はなかった。
天正九年(1581年) ― 組織的抵抗の終焉
この年までに、佐々成政は越中における主要な反抗勢力をほぼ制圧した。この多大な功績を信長に認められ、成政は越中一国を与えられ、富山城主となった 37 。
この**天正9年(1581年)**こそが、越中一向一揆が、独立した政治・軍事勢力としての組織的抵抗を終え、その約一世紀にわたる歴史に事実上の幕を下ろした年として定義される。これ以降も散発的な抵抗や、後の支配者に対する蜂起はあったものの、もはや領国を形成し、戦国大名と渡り合うほどの力は完全に失われたのである。
第九章:一揆の終息と遺産
佐々成政の支配から豊臣・前田体制へ
越中の新たな支配者となった佐々成政であったが、彼の治世もまた、天下の大きな流れに翻弄される。天正10年(1582年)の本能寺の変の後、成政は羽柴秀吉と対立。小牧・長久手の戦いでは徳川家康と結んだが、天正13年(1585年)、秀吉が自ら率いる10万を超える大軍に富山城を包囲され、降伏を余儀なくされた 22 。
秀吉によって越中は没収され、その後、前田利家の嫡男・利長に与えられた 22 。こうして、越中の支配者は、在地の一揆勢力から、織田家の部将・佐々成政へ、そして天下人・豊臣秀吉の代理人である前田氏へと、外部の巨大権力者の手に完全に移り変わった。
歴史に刻まれた「百姓の持ちたる国」の記憶
軍事的には完全に制圧された越中一向一揆であったが、その百年にわたる自治の歴史が遺した影響は、決して小さくなかった。そのことを示す象徴的な事実がある。天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、全国の土地と人民を直接把握するために断行した「太閤検地」である。
この全国一律の政策は、越中においては例外的な扱いを受けた。検地は秀吉の役人ではなく、新たな領主である前田家に委ねられ、その検地帳には村全体の石高のみが記され、個々の耕作者の名は記されないなど、旧来の土地所有関係を大きく変更しない、極めて穏便な形が取られたのである 41 。
なぜ、絶対的な権力者である秀吉がこのような特例を認めたのか。それは、新たな支配者たちが「一向一揆の再発を恐れたため」であったと言われている 41 。軍事力で門徒衆を屈服させることはできても、彼らの心に深く根差した信仰と、百年にわたり培われた自治の精神を根絶することは不可能である。もし強硬な検地によって土地所有関係を乱せば、再び大規模な一揆を招きかねない。その統治コストを考えれば、ある程度の譲歩をして懐柔する方が得策であると、秀吉や前田氏は判断したのである。
これは、越中一向一揆が物理的に滅ぼされた後も、その社会構造と潜在的な抵抗力が、為政者にとって無視できない「脅威」として生き続けていたことを何よりも雄弁に物語っている。百年続いた「門徒の自治」の記憶は、新たな支配者の統治政策にさえ影響を及ぼす、目に見えない強大な遺産として、越中の地に深く刻み込まれたのであった。
終章:越中一向一揆が戦国史に遺したもの
文明13年(1481年)から天正9年(1581年)までの約一世紀にわたる越中一向一揆の歴史は、戦国時代という変革期における、一つの社会・政治勢力の勃興から滅亡までを鮮やかに描き出している。
守護権力の崩壊という時代の好機を捉え、浄土真宗本願寺教団の強固な信仰と組織力を武器に、彼らは武家支配を打倒し、越中西部に「門徒の国」を現出させた。しかし、その独立は、上杉謙信という戦国時代屈指の軍事的天才の前に大きな壁に突き当たり、最終的には、より強大で中央集権的な織田信長による天下統一の過程で、その組織は完全に解体された。その歴史は、中世的な在地権力が、より近世的な統一権力に取って代わられていく時代の縮図そのものであった。
越中一向一揆の終焉は、宗教勢力が大名として領国を支配し、政治・軍事を動かし得た時代の終わりを告げるものでもあった。その後の豊臣秀吉による刀狩りや兵農分離政策は、世俗権力が宗教を完全にその支配下に置く新たな時代の到来を象徴している 42 。
しかし、彼らの闘争は決して無に帰したわけではない。前述の通り、一揆の記憶は近世の加賀藩(前田家)統治における、真宗門徒への慎重な対応策の基礎となり、この地域の社会と文化に深く影響を与え続けた。越中一向一揆は、戦国乱世の敗者ではあったかもしれないが、その百年間の抵抗と自治の経験は、日本の歴史に確かな足跡を遺したのである。
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