最終更新日 2025-08-31

躑躅ヶ崎館の戦い(1582)

天正十年・甲斐府中陥落の真相:「躑ugsakuヶ崎館の戦い」の時系列的再構築

序章:落日の名門・武田氏

天正十年(1582年)、戦国時代の日本において、かつて天下にその名を轟かせた甲斐武田氏は、滅亡の淵に立たされていた。七年前の天正三年(1575年)に行われた長篠の戦いは、単なる一合戦の敗北に留まらず、武田家の屋台骨を根底から揺るがす致命的な打撃となっていた。この戦いで、武田信玄以来の宿老である馬場信春、山県昌景、内藤昌豊といった歴戦の将帥たちを数多く失ったことは、軍事力の低下以上に、武田勝頼の統治基盤を著しく脆弱化させた 1 。信玄という絶対的なカリスマを失った勝頼にとって、宿老たちの存在は家臣団を統制する上で不可欠な重石であったが、その喪失は家中の結束に微細ながらも深刻な亀裂を生じさせていた。

さらに、武田氏を取り巻く外交環境は絶望的なまでに悪化していた。信玄時代には同盟関係にあった相模の北条氏政との甲相同盟が破綻し、武田氏は西の織田・徳川、東の北条という、当代屈指の勢力によって三方から包囲される戦略的劣勢に陥っていたのである 1 。この状況下で、勝頼は一大決心を下す。織田・徳川連合軍の侵攻を想定し、父祖三代の本拠地であった躑躅ヶ崎館から、より防御力に優れた新府城(山梨県韮崎市)へと本拠を移転したのだ 2

躑躅ヶ崎館は、信虎、信玄、勝頼の三代約60年にわたり武田氏の政治中枢として機能した居館であった 4 。背後に詰城である要害山城を控え 6 、南に広大な城下町を擁するこの館は、合戦のための「城塞」というよりも、領国を治めるための「政庁」としての性格が極めて強かった 4 。その構造は、武田氏が敵を領国内に引き込んで戦うのではなく、国境の外で積極的に迎撃するという、信玄時代までの攻撃的な国防戦略を前提としていたことを物語っている 9

したがって、新府城への移転は、単なる軍事上の拠点変更ではなかった。それは、信玄以来の「攻勢的国防」戦略の破綻を公に認め、領国の中心部での籠城戦を想定する「守勢的国防」への転換を内外に示すものであった。この戦略思想の転換は、家臣団や領民に対し、武田氏の衰退を強く印象づける結果となった。来るべき織田信長の侵攻を前に、甲斐の名門はすでに内部から崩壊の兆しを見せていたのである。

第一部:崩壊の序曲(天正十年二月)

第一章:木曽谷の離反

天正十年(1582年)正月、武田領国の緊張は頂点に達していた。そして二月一日、武田氏滅亡の直接的な引き金となる事件が発生する。信濃木曽谷の領主であり、武田一門衆にも名を連ねる木曽義昌が、織田信長に内通し、離反したのである 2 。義昌の離反は、美濃と信濃を結ぶ木曽路を織田軍に明け渡すことを意味し、武田領国の西の守りを根底から覆すものであった。

報せを受けた武田勝頼は激怒し、即座に断固たる処置を取る。新府城に人質として預けられていた義昌の母、嫡男、そして娘を処刑したのだ 3 。この行為は、裏切り者には容赦しないという勝頼の強い意志を示すものであった。しかし、この苛烈な対応は、家臣団に忠誠を再確認させるどころか、むしろ逆効果となった可能性が高い。織田軍の圧倒的な軍事力を前に、武田家の将来に不安を抱く他の国人衆にとって、この人質処刑は「捕らえられて家族を殺される前に、一刻も早く織田方に寝返り、家族の安全を確保すべきだ」という強烈な動機付けとなり、裏切りの連鎖を誘発する土壌を醸成してしまったのである。

第二章:織田・徳川連合軍、発進

木曽義昌の離反は、武田氏殲滅の好機を窺っていた織田信長にとって、まさに待ち望んだ報せであった。二月三日、信長は武田討伐の総動員令を発する 11 。作戦は、武田領を四方から同時に侵攻し、一気に殲滅するという壮大なものであった。総大将には嫡男の織田信忠を任命し、伊那方面から信濃へ侵攻させる 2 。これに呼応し、同盟者の徳川家康は駿河方面から、家臣の金森長近は飛騨方面から、そして関東の北条氏政もまた駿河・関東方面から進軍を開始し、武田領に対する一大包囲網が形成された 10

二月十二日、織田信忠率いる本隊が、岐阜城から出陣した 10 。その兵力は一万八千 13 とも五万 10 とも言われ、いずれにせよ武田方が動員しうる兵力を遥かに凌駕する大軍であった。甲州征伐の火蓋は、ここに切られたのである。

第三章:雪崩を打つ信濃戦線

織田信忠軍の侵攻は、驚くべき速度で進んだ。その進軍を容易にしたのは、武田方国人衆の相次ぐ寝返りであった。二月十四日、信濃伊那郡の松尾城主・小笠原信嶺が織田方に降伏し、信忠軍の先鋒として道案内役を務める 10 。これを皮切りに、信濃南部の武田方諸城は、まるで雪崩を打つかのように崩壊していった。

二月十六日、鳥居峠で行われた合戦では、木曽義昌軍が武田軍に勝利を収める 3 。この敗北は、信濃における武田方の組織的抵抗力をほぼ完全に奪い去った。二月十八日には、飯田城主の保科正直が戦わずして城を放棄し、高遠城へと逃亡。これを聞いた大島城の武田信廉(信玄の弟)もまた城を捨てて逃走し、南信濃の主要拠点は次々と無抵抗で織田軍の手に落ちた 10

この信濃戦線の崩壊は、単なる軍事的な敗北ではなかった。それは、信玄が巧みに築き上げた国人衆による地方支配システムの完全な瓦解を意味していた。国人領主たちは、武田家への旧恩や忠誠よりも、自領の安堵という現実的な利益を優先したのである。戦国大名の支配体制が、絶対的な忠誠ではなく、実利に基づいた極めて脆い契約関係の上になりたっていたという事実が、ここに露呈した。

第四章:駿河からの衝撃

西の信濃戦線が崩壊しつつある中、南の駿河方面からも武田氏にとって致命的な報せがもたらされた。二月二十日以降、徳川家康軍が駿河への侵攻を開始し、二十一日には早くも武田氏の駿河支配の拠点であった駿府城を占領する 10

そして二月二十五日、甲州征伐の行方を決定づける最大の裏切りが起こる。武田一門の筆頭格であり、信玄の娘婿でもあった駿河江尻城主・穴山梅雪(信君)が、信長の調略に応じ、徳川家康に内通したのである 10 。梅雪は周到に準備を進め、雨夜に紛れて甲府にいた人質の妻子を救出し、徳川方への寝返りを果たした。

二月二十七日、諏訪上原城で木曽義昌討伐の軍議を開いていた勝頼のもとに、梅雪離反の報が届く 10 。木曽義昌や小笠原信嶺といった外様の国人衆の裏切りとは、その衝撃の度合いが全く異なっていた。武田一門の重鎮である梅雪の離反は、家臣団に対し「もはや武田家の中枢ですら勝頼を見限った」という強烈なメッセージとなり、彼らの忠誠心を繋ぎ止めていた最後の楔を打ち砕いた。

軍事的に見ても、梅雪の裏切りは致命的であった。これにより駿河から甲斐府中へ至る道が完全に開かれ、勝頼は背後を突かれる危険に直面した。もはや木曽攻めを継続することは不可能となり、勝頼は断腸の思いで軍を返し、本拠である新府城への撤退を余儀なくされたのである 10 。武田家の崩壊は、もはや誰の目にも明らかであった。

第二部:甲斐府中、機能停止(天正十年三月一日~七日)

三月に入ると、武田氏の崩壊は最終段階を迎える。甲斐本国の最終防衛線が突破され、政治・軍事中枢であった甲斐府中は、戦闘を交えることなくその機能を停止した。この一週間こそが、名ばかりの「躑躅ヶ崎館の戦い」の実態であった。

日付

織田信忠軍(伊那口)

徳川家康軍(駿河口)

金森長近軍(飛騨口)

北条氏政軍(関東口)

武田方の動向・主要な出来事

2月上旬

岐阜城出陣準備

浜松城出陣準備

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木曽義昌離反、勝頼が人質処刑

2月中旬

岐阜出陣→岩村着陣。伊那郡侵攻、松尾城・飯田城・大島城を無血占領

浜松出陣→駿河侵攻開始

飛騨より信濃へ侵攻開始

駿河東部へ侵攻開始

鳥居峠で敗北。南信濃の防衛線が崩壊

2月下旬

飯島へ進軍、高遠城へ迫る

駿府城占領。穴山梅雪と内通

深志城(松本城)方面へ

駿河・上野方面で圧力を強める

穴山梅雪離反。勝頼、諏訪から新府城へ撤退

3月2日

高遠城を一日で攻略。仁科盛信自害

甲斐へ侵攻開始

深志城へ迫る

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高遠城陥落。甲斐への門戸が開かれる

3月3日

上諏訪へ進軍、諏訪大社を焼き討ち

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深志城開城

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勝頼、新府城を放棄し岩殿城へ向け逃亡

3月7日

甲府へ無血入城。躑躅ヶ崎館を接収

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甲斐の統治機構が完全に崩壊

第一章:高遠城、玉砕

三月二日、織田信忠率いる三万の大軍が、甲斐への入り口に位置する最後の要衝、高遠城を包囲した 10 。城を守るのは、勝頼の異母弟である仁科盛信。信忠は降伏を勧告するが、盛信は武田家の誇りを胸に、使者の耳と鼻を削いで送り返し、徹底抗戦の意思を明確に示す 10

同日、信忠軍は総攻撃を開始した。盛信と城兵たちは、圧倒的な兵力差にもかかわらず、獅子奮迅の抵抗を見せた。城内の女性たちも薙刀を手に戦ったと伝えられ、織田軍にも多大な損害を与えた 14 。しかし、衆寡敵せず、城はわずか一日で陥落。仁科盛信は城に火を放ち、自刃して果てた 10

高遠城の壮絶な玉砕は、勝頼に二重の衝撃を与えた。一つは、甲斐本国への門戸が完全に開かれたという軍事的な絶望。そしてもう一つは、最後まで忠義を尽くした肉親の死を、援軍も送れず見殺しにするしかなかったという精神的な打撃であった。この時点で、勝頼の継戦能力と意志は、事実上、潰えていたと言ってよい。

第二章:新府城炎上

高遠城落城の報は、直ちに新府城の勝頼のもとへ届けられた。もはや籠城して織田の大軍を防ぎきることは不可能と判断した勝頼は、三月三日の未明、苦心の末に築き、完成間近であった新府城に自ら火を放ち、放棄するという苦渋の決断を下した 4

燃え盛る居城を背に、勝頼と家臣団は今後の退路を巡って最後の評定を開いた。ここで意見は二つに割れる。

一つは、信玄にその才を見出された新興の将、真田昌幸が提案した、自身が城主を務める上野国の岩櫃城への退避案であった。岩櫃城は天然の要害に築かれた堅城であり、再起を図る拠点として申し分なかった 11。

もう一つは、郡内地方に強固な地盤を持つ譜代の国人領主・小山田信茂と、勝頼の側近である長坂長閑斎が強く推した、信茂の居城である岩殿城への退避案であった 16。

最終的に、勝頼は小山田信茂の岩殿城を目指すことを選択する。この決断は、武田家の運命を決定づけた。軍事的な合理性で考えれば、岩櫃城の方が遥かに安全な選択肢であったはずだ。にもかかわらず、なぜ勝頼は岩殿城を選んだのか。その背景には、当時の勝頼が置かれていた複雑な状況があった。権威が失墜しつつあった勝頼にとって、新興勢力である真田昌幸に頼ることには、自らの求心力をさらに低下させる危険があった。一方で、譜代の有力国人である小山田信茂に庇護を求めることは、伝統的な秩序に依拠する形となり、家臣団をまとめる上で政治的に無難な選択と映った可能性がある。加えて、長篠の戦い以降、勝頼が信玄以来の老臣よりも長坂長閑斎のような自らの側近を重用していたことも、この決断に大きく影響したと考えられる 18 。結果として、勝頼の決断は、純粋な軍事合理性よりも、失墜した権威を補強しようとする政治的配慮と側近への信頼が優先されたものであった。そして、この判断が、武田家を滅亡へと導く最後の引き金となったのである。

第三章:主を失った躑躅ヶ崎館

三月三日から六日にかけて、勝頼一行が東の岩殿城を目指して落ち延びていく一方、甲斐国の政治・経済の中心地であった府中(甲府)は、統治者を失った完全な無政府状態に陥った。武田氏三代の栄華を象徴する躑躅ヶ崎館もまた、もぬけの殻となった。

この数日間こそが、「躑躅ヶ崎館の戦い」と称される事象の核心である。それは、刀や槍を交える物理的な戦闘ではなかった。統治機構そのものが崩壊し、権力が消失したことによって生じた、静かなる混乱と麻痺の状態そのものであった。勝頼が館に火を放ったという記録も散見されるが 21 、いずれにせよ、織田軍が到着した時点で、この館が政治的中枢としての機能を完全に失っていたことは間違いない。残された領民や家臣たちは、迫りくる織田軍という外部の脅威と、治安の崩壊という内部の脅威に同時に晒され、極度の不安と恐怖の中にいたと推察される。

第四章:「躑躅ヶ崎館の接収」-織田信忠、甲府に入る

三月七日、織田信忠率いる本隊が甲府へ入った。予想された抵抗は全くなく、無血での入城であった 10 。信忠は、主を失った躑躅ヶ崎館を接収し、本陣とした。

占領は迅速かつ苛烈に進められた。信忠は直ちに甲斐国内に残る武田一門、親族、そして重臣たちの捜索を命じた。捕らえられた者たちは、信玄の弟である武田信廉や一条信龍らを含め、ことごとく処刑された 10 。これは、武田家再興の芽を完全に摘み取るための、徹底した掃討作戦であった。

同時に、信忠は織田長益、団忠正、森長可らを上野国方面へ派遣し、武田領の残敵掃討と制圧を続行させる 10 。この日をもって、甲斐国の軍事・行政中枢は完全に織田氏の手に落ち、武田氏の統治機構は名実ともに機能停止した。ユーザーが当初提示した「武田氏本拠・館の接収戦。家臣団は離散し、甲斐の軍事・行政中枢は機能停止」という状況は、まさにこの三月七日の出来事を指している。しかしそれは、激しい攻防の末の「接収戦」ではなく、すでに崩壊しきった統治機構の残骸を、織田軍が一方的に処理したという、静かな、しかし決定的な終焉の瞬間であった。

第三部:天目山の悲劇(天正十年三月八日~十一日)

第一章:最後の裏切り

甲斐府中が織田軍の手に落ちた頃、勝頼一行は最後の希望を託し、小山田信茂の居城・岩殿城を目指していた。三月九日頃、一行は鶴瀬(現在の甲州市)あたりで信茂からの迎えを待っていた 10 。しかし、彼らを待っていたのは、温かい出迎えではなく、冷酷な裏切りであった。

小山田信茂は、織田方への降伏を決意していた。彼は郡内への入り口である笹子峠を兵で固めて封鎖し、主君である勝頼一行の行く手を阻んだのである 25 。史料によっては、一行に向けて鉄砲を撃ちかけたとも伝えられており、その離反の意思は明確であった 10

信茂の裏切りは、単なる個人的な不忠として片付けられるものではない。それは、戦国時代の国人領主としての、冷徹な現実主義に基づいた行動であった。小山田氏は甲斐の譜代家臣でありながら、郡内地方に強い独立性を保つ領主であった 26 。彼にとっての第一の責務は、武田家への忠誠よりも、先祖伝来の領地と領民を守ることであった。もはや勝頼に味方しても共倒れになることは必定であり、織田方と交渉して自領の安堵を確保することこそが、領主としての唯一の生きる道であると判断したのである 26 。この裏切りによって、勝頼は最後の逃げ道を断たれ、完全な絶望の淵へと突き落とされた。

第二章:滅びの道程

最後の希望を打ち砕かれた勝頼一行は、進路を天目山へと向けた。しかし、主君の威光が完全に失われた今、一行の結束を保つことはもはや不可能であった。道中、家臣たちの離散が相次ぎ、あれほどの大軍を率いていた武田家の当主に従う者は、わずか四十数名にまで減少していた 2

三月十一日の未明、心身ともに疲れ果てた一行は、天目山麓の田野村という小さな集落にたどり着いた 10 。ここで勝頼は、もはやこれまでと覚悟を決め、妹の松姫らを落ち延びさせると、残った者たちと最後の別れの宴を開いたと伝えられている。

第三章:忠臣たちの奮戦と武田氏の最期

三月十一日、巳の刻(午前十時頃)、滝川一益が率いる織田軍の追手が、ついに田野村に迫った 10 。武田家の最期の時が来たのである。

この絶体絶命の状況下で、一人の武将が鬼神の如き働きを見せた。譜代家臣の土屋昌恒である。昌恒は、勝頼らが自害するための時間を稼ぐべく、隘路にただ一人踏みとどまった。そして、片手で崖の藤蔓を掴みながら、もう一方の手に持った刀で、押し寄せる織田軍の兵を次々と斬り伏せたという。この壮絶な奮戦は、後に「片手千人斬り」として伝説となり、敵である織田方の公式記録『信長公記』にすら「比類なき働き」と記され、賞賛された 2

昌恒が命を賭して稼いだ時間の中、武田家の最後の儀式が執り行われた。嫡男の信勝(当時16歳)は元服を済ませ、父とともに奮戦した後、自刃。そして、武田勝頼(37歳)も、継室である北条夫人(19歳)とともに自らの命を絶った 10 。これにより、源氏の名門として甲斐に君臨した武田氏の嫡流は、ここに完全に滅亡したのである。

終章:灰燼の中から

武田氏の滅亡をもって、甲州征伐は終結した。織田信長は、長年の宿敵を滅ぼした余勢を駆って、武田の旧領に対する戦後処理を断行した。甲斐国は信長の重臣・河尻秀隆に、上野国と信濃二郡は滝川一益に、そして駿河国は同盟者である徳川家康に与えられた 10

信長が命じた占領政策は、極めて過酷なものであった。河尻秀隆らに対し、武田の遺臣を登用することを厳禁し、徹底的な弾圧を命じたのである 22 。これにより、生活の糧を失った多くの旧武田家臣は潜伏を余儀なくされ、一部はゲリラ的な抵抗を続けた。その結果、甲斐・信濃の治安は極度に悪化し、新たな支配に対する不満が渦巻くこととなった 22

この状況を、徳川家康は冷静に見据えていた。彼は信長の命令に表向き従いつつも、裏では武田の旧臣たちを密かに保護し、その能力を高く評価していた 11 。家康のこの行動は、単なる温情からではなかった。信長の過酷な政策が統治を不安定にすることを見抜き、その不満の受け皿となることで、将来的に武田家が遺した「人材」という最大の遺産をそっくり手に入れるための、計算され尽くした布石であった。河尻秀隆が家康の動きに不満を抱き、信長に密書を送ったという逸話は、この時点で織田・徳川同盟に深刻な亀裂が生じていたことを示唆している 22

そして天正十年六月二日、本能寺の変が勃発する。信長・信忠親子が横死すると、武田の旧領は瞬く間に権力の空白地帯と化した。河尻秀隆は甲斐の国人一揆によって殺害され、滝川一益らも領地を放棄して逃亡した 22 。この機を逃さず、家康はかねてより保護していた武田遺臣を道案内として甲斐へ進駐。北条氏、上杉氏との間で武田旧領を巡る争奪戦、すなわち「天正壬午の乱」が勃発した 22 。最終的に家康はこの乱を制し、甲斐・信濃を掌握。武田の旧臣たちを徳川家臣団に組み込み、後の天下取りに向けた大きな基盤を築き上げたのである。

結論として、「躑躅ヶ崎館の戦い」と称される一連の出来事は、物理的な戦闘がほとんどないまま、一個の巨大な戦国大名が内部から崩壊していく過程を克明に示している。それは、軍事力だけでなく、家臣団の掌握、外交戦略、そして人心の重要性を後世に伝える教訓となった。そして、武田氏の滅亡という悲劇は、徳川家康という次代の覇者がその遺産を巧みに継承し、飛躍する契機となった。主を失った躑躅ヶ崎館の無血接収は、戦国時代の終焉と、新たな統一政権の胎動を告げる、象徴的な出来事だったのである。その後、館は徳川家臣の居城となるなど変遷を経たが、甲府城の築城が本格化すると廃城となった 9 。現在は武田神社が鎮座し、武田三代の栄華と悲劇の歴史を静かに今に伝えている 9

引用文献

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