最終更新日 2025-09-02

辰市の戦い(1567)

元亀二年、大和国で筒井順慶と松永久秀が激突した辰市の戦い。順慶は将軍義昭の支援を得て、辰市城を囮に松永軍を誘引し、伏兵と挟撃で大勝。この勝利で順慶は大和の覇権を確立したが、結果的に織田信長の大和支配を盤石にし、義昭の信長包囲網構想の最初の失敗となった。

元亀二年の大和決戦:辰市の戦い 詳細報告書

序章:大和の覇権を賭した一日

本報告書は、戦国時代の大和国(現在の奈良県)における勢力図を決定づけた「辰市の戦い」の全貌を、多角的な視点から徹底的に解明することを目的とする。合戦に至るまでの複雑な政治的背景、合戦当日の詳細な時系列分析、そして戦いがもたらした歴史的影響の三部構成で、この戦国史における重要な一戦を論じる。

まず、本報告書の主題となる合戦の年代について明確にしておく必要がある。一般に流布する情報の中には、この戦いを「1567年」の出来事とするものが見受けられるが、これは松永久秀が東大寺大仏殿を焼き払った永禄十年(1567年)の事件との混同である 1 。本報告書が主題とする、筒井順慶が松永久秀の軍勢を決定的に打ち破った戦いは、信頼性の高い同時代の一次史料、すなわち興福寺多聞院の僧・英俊が記した『多聞院日記』の記述に基づき、

元亀二年(1571年)八月四日 の出来事として論を進める 3

元亀二年の辰市の戦いは、単なる局地的な戦闘ではない。それは、永禄二年(1559年)の松永久秀の大和侵攻以来、十数年にも及んだ筒井氏と松永氏の宿命的な抗争における最大の転換点であった 6 。この一日の戦いの結果は、大和国の支配権の帰趨を決したのみならず、将軍・足利義昭と織田信長との間に生じつつあった対立の力学を反映し、ひいては信長の畿内制覇戦略にも少なからぬ影響を与えた。まさに、大和の未来、そして畿内の情勢を左右する、極めて重要な戦いであったのである。

第一部:辰市の戦いに至る道程 ― 大和国を巡る十二年の確執

元亀二年八月四日、なぜ筒井順慶と松永久秀は辰市の地で激突しなければならなかったのか。その根源は、十二年前に遡る。この部では、両者の間に横たわる根深い対立の構造と、戦いを不可避ならしめた中央政情の力学を解き明かす。

第一章:梟雄・松永久秀の大和侵攻と筒井氏の雌伏(永禄二年~永禄七年)

戦国期の大和国は、興福寺を頂点とする寺社勢力と、その配下にある「衆徒」や「国民」と呼ばれる国人武士たちが複雑に共存する、特異な支配構造を有していた 8 。筒井氏は、興福寺一乗院の官符衆徒として大和北部に勢力を張る、由緒ある名門であった 9

この静謐とは言えない均衡が破られたのは、永禄二年(1559年)のことである。当時、畿内に絶大な権勢を誇った三好長慶の重臣・松永久秀が、大軍を率いて大和国へ侵攻を開始した 3 。成り上がりの余所者である久秀と、大和の名門たる筒井氏との、長きにわたる抗争の幕開けであった 11

この時、筒井家の当主であった筒井順慶(幼名・藤勝)は、まだ十一歳の少年に過ぎなかった 3 。父・順昭が天文十九年(1550年)に若くして病没したため、わずか二歳で家督を継いだ悲運の当主である 12 。順慶を後見人として支えていた叔父の筒井順政も、久秀の侵攻が激化する永禄七年(1564年)に客死し、若き順慶は強力な後ろ盾を失ってしまう 9

久秀の軍事力は圧倒的であった。順慶は、父祖伝来の居城である筒井城を追われ、奈良盆地東方の山中にある詰城・椿尾上城などでの潜伏と、散発的なゲリラ戦を余儀なくされる苦難の日々を送った 3 。この雌伏の時代に味わった屈辱と、故郷を奪われた無念さが、後の彼の慎重かつ周到な戦略眼を養う礎となったことは想像に難くない。

第二章:中央政情の激動と筒井順慶の反攻(永禄八年~永禄十一年)

永禄七年(1564年)の三好長慶の死は、畿内の政治情勢を一変させた。絶対的な権力者を失った三好家中で、松永久秀と三好長逸・三好宗渭・石成友通ら「三好三人衆」との間に深刻な権力闘争が勃発する 9 。この三好家の内紛は、雌伏していた筒井順慶にとって千載一遇の好機となった。

順慶はこの機を逃さず、久秀と対立する三好三人衆と巧みに連携し、反松永の旗幟を鮮明にする 11 。永禄九年(1566年)、三好三人衆の軍事支援を背景に、順慶は攻勢に転じる。松永方の兵力が畿内の各地に分散し、大和国内が手薄になった隙を突き、ついに念願であった本拠・筒井城の奪還に成功したのである 9 。この時、順慶は興福寺成身院で得度し、「陽舜房順慶」と号した。これは、単なる元服の儀式ではなく、興福寺官符衆徒の棟梁として、大和国主としての正統性を内外に宣言する、極めて政治的な意味合いを持つ行為であった 9

しかし、順慶の栄光は長くは続かなかった。この時期の筒井氏の浮沈は、彼自身の軍事力以上に、畿内中央の権力構造の変動に完全に連動していた。彼が結んだ上位権力、すなわち三好三人衆の盛衰が、そのまま順慶の運命を左右したのである。

永禄十一年(1568年)、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たすと、畿内の勢力図は再び塗り替えられる。信長の上洛に際し、いち早くその協力者となった松永久秀は、信長から大和一国の支配を改めて公認されるという、見事な政治手腕を見せた 9 。一方で、信長に敵対した三好三人衆は畿内から駆逐され、その庇護下にあった順慶は政治的な梯子を外される形となった。織田信長という圧倒的な軍事力を後ろ盾に得た松永方は大和で反攻を開始し、順慶は再び筒井城を追われ、東山中へと退くことを余儀なくされた 9 。この一連の出来事は、戦国中期の国人領主が、いかに中央の動向に翻弄されていたかを示す典型的な事例と言える。大和国内の軍事バランスは、常に畿内全体のパワーバランスの従属変数であり、辰市の戦いもまた、この大きな構造の中で理解する必要がある。

第三章:元亀年間の力学 ― 将軍義昭の思惑と信長包囲網の胎動(元亀元年~元亀二年)

信長によって将軍の座に就けられた足利義昭であったが、彼もまた傀儡に甘んじる器ではなかった。次第に信長の掣肘から逃れ、独自の権力基盤を築こうと画策し始める。その過程で、信長の有力武将でありながら、幕臣としての顔も持つ松永久秀の存在が、義昭にとって次第に目障りになっていった 11

両者の対立を決定的にしたのは、久秀が幕臣である畠山秋高や和田惟政を攻撃した事件や、幕府の直轄地であった山城南部にまで勢力を伸ばそうとした野心的な動きであった 15 。義昭にとって、これらは将軍の権威に対する明白な挑戦と映った。

ここに、義昭は久秀を牽制し、その力を削ぐための絶妙な「駒」を見出す。それが、久秀と不倶戴天の敵であり、大和に根強い地盤を持つ筒井順慶であった。元亀二年(1571年)六月、義昭は公家の名門・九条家の娘を自らの養女とし、順慶に嫁がせるという異例の措置を取る 11 。これは、順慶を将軍家の縁者として遇し、その反松永の戦いに「大義名分」を与えるという、極めて高度な政治工作であった。

将軍・足利義昭という新たな権威を後ろ盾に得た順慶のもとへ、これまで日和見を決め込んでいた、あるいは松永方に与していた大和の有力国人衆(中坊氏、箸尾氏など)が次々と馳せ参じた 11 。松永氏は、かつて自らが信長を後ろ盾としたように、今度は順慶が義昭を後ろ盾としたことで、大和国内で急速に孤立していく。

この一連の経緯を深く考察すると、辰市の戦いの本質が見えてくる。これは単なる筒井順慶の個人的な復讐戦ではない。実質的には、「将軍・足利義昭が、織田信長の強大化を危惧し、その有力武将である松永久秀を排除するために、筒井順慶を代理人として仕掛けた戦い」という側面を色濃く持つ。義昭は、信長と直接対決する段階には至っていなかったが、その手足ともいえる久秀を叩くことで、信長の力を間接的に削ごうとしたのである。この戦いは、後に顕在化する「信長包囲網」の、極めて初期の、そして大和国という局地における具体的な現れと見なすことができる。辰市の戦いの真の仕掛人は、奈良盆地の東山中に潜む順慶ではなく、京の都に座す将軍・足利義昭その人であったのかもしれない。

第二部:元亀二年八月四日 ― 辰市の戦い、刻一刻

将軍義昭の思惑、そして筒井順慶の宿願が交錯し、大和国の緊張は頂点に達した。元亀二年八月四日、ついに両軍は辰市の地で雌雄を決する。この部では、史料に基づき合戦当日の両軍の動きを時間の経過と共に再構築し、戦場の様相を詳報する。

第一章:戦いの序幕 ― 辰市城の築城と両軍の配置

決戦の火蓋は、一つの城の築城から切られた。元亀二年七月、筒井順慶は腹心の将・井戸若狭守良弘に命じ、辰市(現在の奈良市東九条町・西九条町付近)に急遽、城砦を築かせた 3 。『多聞院日記』によれば、八月二日にはその普請が始まったと記されている 16

この「辰市城」は、地理的・戦術的に極めて巧妙な位置に築かれていた。松永方が押さえる筒井城から北東へ約6km、そして久秀の嫡子・松永久通が守る本拠・多聞山城からは南西へ約6kmという、まさに松永勢力圏の心臓部に楔を打ち込む地点であった 3 。これは、松永久秀に対し、この邪魔な存在を放置するか、あるいは主力をもって攻撃するかの二者択一を迫る、極めて挑発的な行為であった。順慶の狙いは、久秀の主力をこの辰市城に誘引し、野戦で一挙に殲滅することにあった。辰市城は、籠城を目的とした堅固な要塞ではなく、敵を誘き出すための戦略的な「釣り餌」だったのである 16

その構造も、この目的を反映していた。『多聞院日記』や『筒井家記』によれば、辰市城は短期間で築かれた堀と塀からなる、いわゆる「陣城」であったと推測される 16 。恒久的な石垣や天守を持つ城ではなく、あくまでも野戦における拠点として設計されていた。これは、持久戦ではなく、後述する伏兵部隊との連携による決戦を期していたことの証左である。

この挑発に対し、老練な松永久秀は即座に反応した。彼はこの筒井方の橋頭堡を、その機能が完全に整う前に叩き潰すべく、総力を挙げての出陣を決意する。

両軍の兵力と布陣は、以下の通りであったと推定される。

  • 松永・三好連合軍 : 総兵力は約一万 18 。松永久秀が信貴山城から、嫡子・松永久通が多聞山城から、そして同盟者であった三好義継が河内・若江城から、それぞれ軍勢を率いて出陣した 3 。大和における松永方の総力を結集した大軍であった。
  • 筒井軍 : 総兵力は明らかではないが、松永軍に比べて寡兵であったことは間違いない 19 。その作戦は、兵力を二つに分けるものであった。井戸良弘が率いる少数の精鋭部隊が辰市城に籠城して敵の攻撃を引きつけ、その間に筒井順慶率いる主力部隊が、周辺の山城(東山中の高樋山城、椿尾上城、西方の白土城など)に潜伏し、反撃の機を窺うという、周到な計画であった 3

【表1:辰市の戦い 両軍の編成と推定兵力】

勢力

総大将

部隊構成

主要武将

兵力(推定)

出撃拠点

役割

松永・三好連合軍

松永久秀

久秀本隊

松永久秀

約10,000

信貴山城

攻城主力

久通隊

松永久通

多聞山城

攻城主力

三好義継隊

三好義継

若江城

援軍

筒井軍

筒井順慶

籠城部隊

井戸良弘

不明(寡兵)

辰市城

敵軍誘引・遅滞

主力(後詰)

筒井順慶、福住順弘、山田順清

不明(主力)

高樋山城、椿尾上城、白土城など

伏兵・挟撃

第二章:合戦詳報 ― リアルタイム時系列分析

早朝~午前:松永軍の進発と集結

元亀二年八月四日、夜が明けきらぬうちから、大和盆地とその周辺はにわかに騒がしくなった。総大将・松永久秀は居城・信貴山城を発し、ほぼ時を同じくして、嫡男・久通は多聞山城から、三好義継は若江城から、それぞれ辰市を目指して進軍を開始した 3 。各部隊は奈良盆地南部の要衝・大安寺付近で合流を果たし、一万の堂々たる大軍に膨れ上がった 3 。この時点では、松永軍の将兵の士気は極めて高く、築城まもない小城など一蹴できると、短期決戦での勝利を確信していたであろう。

正午~午後:辰市城への猛攻

辰市城に到着した松永軍は、直ちに城への攻撃を開始した。数の上で圧倒的に優位に立つ松永軍は、小細工を用いず、力攻めを選択した 3

その攻撃は熾烈を極めた。一部の兵は急造の塀に取り付き、これを引き倒そうと試みる。また、別の部隊は土砂や刈り取った木々を運び込み、堀を埋め立てて突撃路を確保しようと躍起になった 3 。城内からは、井戸良弘率いる籠城部隊が、鉄砲や弓矢で応戦したと推測される 20 。寡兵ながらも、地形と防御施設を巧みに利用し、大軍の猛攻を必死に食い止めた。彼らの任務は、城を死守することではない。筒井軍主力が作戦行動を開始するまでの貴重な時間を稼ぐこと、そして敵兵を城攻めに釘付けにし、疲弊させることにあった。

午後:筒井軍、反撃の狼煙 ― 周辺城砦からの一斉蜂起

松永軍の将兵が、目の前の辰市城攻略に心血を注ぎ、その集中力と体力が頂点に達し、そして消耗し始めた、まさにその時を、筒井順慶は見逃さなかった。

順慶の勝利は、単なる偶然や幸運の産物ではない。それは、彼が熟知する大和の「地の利」を最大限に活かし、周到に計画された伏兵・挟撃作戦の賜物であった。彼は、松永軍という巨大な敵の力を、辰市城という一点に集中させた。そして、その周囲にあらかじめ配置しておいた複数の伏兵部隊で、同時に多方向から攻撃を加えることにより、敵の指揮系統を麻痺させ、数的劣勢を覆すという壮大な戦術を構想していたのである。

史料によれば、筒井軍主力は「東山中の高樋山城、椿尾上城、大和郡山市の白土城、西丘陵の郡山支城から一気に出撃した」と記録されている 3 。これは、単一の部隊による後詰(援軍)ではなく、定められた合図に基づき、複数の拠点から同時に行動を起こす、高度に連携された作戦であったことを示唆している。松永軍は辰市城のみを注視し、背後や側面からの奇襲を全く想定していなかった。この油断が、彼らの命運を分けた。

午後、順慶の合図と共に、反撃の狼煙が上がった。東方の山中からは福住順弘や山田順清らの部隊が、西方の丘陵地帯からは順慶の本隊が、一斉に鬨の声をあげてなだれを打って松永軍の背後と側面に襲いかかった 3

夕刻:挟撃、そして潰走 ― 松永軍、未曾有の大敗

予期せぬ方向からの奇襲に、松永軍は色めき立った。攻城戦に集中していた部隊は、すぐには態勢を立て直せない。その混乱を突き、辰市城に籠もっていた井戸良弘の部隊も城門を開け放ち、最後の反撃に打って出た 3

これにより、松永軍は前方(辰市城)、後方、そして側面からの三方攻撃を受ける完全な包囲下に陥った。攻守は、この瞬間、劇的に逆転した。指揮系統は寸断され、部隊間の連携は失われ、兵士たちは恐慌状態に陥った。もはや組織的な抵抗は不可能であった。

この戦いにおける松永方の損害は、甚大を極めた。『多聞院日記』は、その生々しい結果を記録している。久秀の甥である松永佐馬進、同孫四郎、そして養子の松永久三郎、さらに重臣の河奈辺伊豆守、渡部兵衛尉、松岡左近といった名のある武将を含む五百余りが討死し、負傷者もまた五百人にのぼったという 3 。これは、松永久秀が「大和へ侵入して以来の最大の惨敗」 3 であり、彼の波乱に満ちた軍事的人生においても、類を見ない大敗北であった 5

生き残った兵士たちは、武器武具を投げ捨て、我先に逃走を始めた。追撃をかわすため、民家に火を放って煙幕を張りながら、文字通りほうほうの体で多聞山城へと敗走した 3 。この歴史的な大敗により、松永方は前線拠点である筒井城の維持も不可能となり、これを放棄せざるを得なくなった。総大将の松永久秀は信貴山城へ、嫡子・久通は多聞山城へと、それぞれ散り散りになって退却していった 3 。元亀二年八月四日の夕日は、大和の新たな支配者の誕生と、一人の梟雄の時代の終わりを静かに照らしていた。

第三部:戦後の大和と畿内 ― ひとつの戦いが変えた勢力図

辰市の戦いは、わずか一日の戦闘であったが、その影響は計り知れないほど大きかった。この戦いは大和国の勢力図を根底から覆し、畿内全体の政治情勢にも新たな力学を生み出した。この部では、戦いがもたらした短期的および長期的な影響を分析し、その歴史的意義を確定させる。

第一章:勝者と敗者 ― 筒井順慶の覇権確立と松永久秀の凋落

勝者である筒井順慶にとって、この勝利はまさに起死回生の一打であった。彼はこの戦いの直後、松永方が放棄した本拠地・筒井城を、実に十二年ぶりに奪還した 3 。この軍功により、大和国における順慶の声望は決定的なものとなり、長年の雌伏の時を経て、名実ともに大和の国主としての地位を確立したのである 7

一方で、敗者となった松永久秀の失ったものは、兵士や城以上に大きかった。甥や養子、そして譜代の重臣といった、彼の軍事力を支える中核的な人材を数多く失ったことは、回復不能な打撃であった 4 。この敗北により、久秀は大和国内における支配基盤を完全に喪失し、その権威は大きく失墜した 21 。以後、彼は畿内の一大勢力としての地位を失い、織田信長の麾下の一武将という立場に甘んじることになる。辰市での惨敗が、六年後の天正五年(1577年)、信貴山城における悲劇的な最期へと続く、長い凋落の始まりであった 21

しかし、勝利した筒井軍も決して無傷ではなかった。援軍を率いて駆けつけた一族の重鎮・山田順清をはじめ、多くの将兵がこの激戦で命を落とした 3 。また、家老の竹内秀勝もこの戦いで受けた傷がもとで、後に命を落としている 16 。この多大な犠牲は、順慶が得た勝利がいかに紙一重のものであったか、そしてその代償の大きさを示している。

第二章:織田信長への臣従と大和国の平定

辰市の戦いがもたらした最も重要な政治的帰結は、大和国が織田信長の勢力圏に完全に組み込まれたことであった。この戦いの後、勝利者である筒井順慶は、将軍・足利義昭ではなく、当時畿内における最大の実力者であった織田信長に接近する。明智光秀の斡旋を通じて、順慶は正式に信長に臣従した 18 。信長は、実力で大和を平定した順慶の能力を高く評価し、彼を新たな大和の支配者として公認したのである 7

ここに、歴史の皮肉とも言うべき事態が生じる。そもそもこの戦いは、将軍・足利義昭が、信長の勢力拡大を牽制するために、松永久秀を叩かせようと画策したものであった。義昭は、順慶が勝利すれば、彼が将軍の忠実な僕として大和を治め、自らの影響力がこの地に及ぶことを期待していたはずである。

しかし、結果は全く逆であった。勝利した筒井順慶は、名目上の権威に過ぎない将軍よりも、実質的な天下人である織田信長に仕えるという、極めて現実的な政治判断を下した。これにより、義昭は松永久秀という目障りな存在を排除することには成功したものの、その代償として、大和国という重要な戦略的地域を、そっくりそのまま政敵である信長に献上する形となってしまった。辰市の戦いは、義昭が主導した「信長包囲網」構想が、彼の意図せざる結果を招き、むしろ信長の支配を強化するという、最初の失敗例となったのである。この出来事は、もはや将軍の権威だけでは戦国の武将たちをコントロールできない時代の到来と、新たな天下人による秩序形成へと時代が大きく移行していく過程を、鮮やかに象徴している。

結論:辰市の戦いが戦国史に刻んだもの

元亀二年八月四日の辰市の戦いは、その規模に比して、戦国史において極めて重要な意味を持つ一戦であった。本報告書の分析を通じて明らかになったその歴史的意義を、以下に総括する。

第一に、 大和国史における画期 としての意義である。この戦いは、永禄二年以来、約十二年間にわたって続いた大和国の混乱と抗争に事実上の終止符を打ち、筒井順慶による統一支配を確立した決定的な戦いであった。これにより、大和国は戦国大名による一円支配という、新たな時代へと移行した。

第二に、 戦術史における意義 である。寡兵であった筒井軍が、地の利を最大限に活用し、辰市城という「陣城」をおとりに敵主力を誘引し、伏兵と籠城部隊との連携による完璧な挟撃作戦で大軍を破ったこの戦いは、戦国時代の戦術を考察する上で極めて優れた事例である。それは、単なる兵力差が勝敗を決定するのではなく、周到な計画と情報、そして地形の活用がいかに重要であるかを示している。

第三に、 畿内政治史における転換点 としての意義である。将軍・足利義昭が信長を牽制するために仕掛けたこの戦いが、結果的に織田信長の大和支配を盤石にするという皮肉な結末をもたらした。これは、室町幕府の権威が完全に失墜し、新たな天下人による中央集権的な秩序形成へと時代が不可逆的に移行していく過程を象徴する出来事であった。

最後に、 人物史における意味 である。この一戦は、二人の宿敵の運命を劇的に分けた。幼少期からの苦難を乗り越えてきた若き当主・筒井順慶にとっては、彼の武将としての評価を不動のものにした生涯最大の勝利であった。一方で、梟雄として長年畿内に君臨してきた松永久秀にとっては、その栄光に終止符を打ち、破滅への序曲となった、忘れ得ぬ大敗北であった。辰市の戦いは、二人の武将の人生そのものを映し出す、象徴的な一戦だったのである。

補遺:戦いを彩った人物と城

筒井順慶 ― 忍耐と知略の将

筒井順慶(1549-1584)は、大和国の名門に生まれながら、その生涯の大半を宿敵・松永久秀との抗争に費やした武将である 12 。少年期に本拠を追われるという苦難を経験し、雌伏の時を耐え抜いたその経歴は、彼に慎重かつ現実的な性格を植え付けた。辰市の戦いで見せた、寡兵をもって大軍を破る周到な知略は、彼が優れた戦術家であったことを証明している。

しかし、彼の慎重さは、時に優柔不断と見なされることもあった。特に本能寺の変の後、明智光秀と羽柴秀吉のどちらに与するか態度を決めかねたことから、「洞ヶ峠の日和見」と後世揶揄されることになる 22 。だが、これもまた、常に自らの置かれた状況で最善手を探り続けた、彼の現実主義的な処世術の現れであったとも評価できる 14 。派手な武勇伝こそ少ないが、彼は困難な時代を生き抜き、見事に家名を再興した、粘り強い知将であった。

松永久秀 ― 梟雄の実像

松永久秀(1508?-1577)は、「主君殺し」「将軍殺し」「東大寺焼き討ち」の三つの大悪事をなしたとされ、下剋上を象徴する「梟雄」として知られる 24 。しかし、その評価は一面的なものに過ぎない。彼は三好長慶の有能な家宰として頭角を現し、多聞山城のような先進的な城郭を築き、茶の湯を愛する当代一流の文化人でもあった 26

彼の裏切りと見える行動も、当時の複雑な政治状況の中で、自らの勢力を維持するための必死の選択であったという側面もある 28 。辰市の戦いでの敗北は、彼の軍事的能力の限界というよりは、将軍・義昭の介入によって大和国人衆の支持を失い、完全に政治的に孤立した「アウェー」の戦いを強いられたことが最大の敗因であった。彼は単なる悪人ではなく、旧来の権威が崩壊していく戦国の世を、自らの才覚のみを頼りに生き抜こうとした、時代の申し子であったと言えるだろう。

辰市城 ― 戦国期「陣城」の役割

辰市の戦いの勝利に、戦場となった「辰市城」の存在は不可欠であった。この城は、恒久的な支配拠点としてではなく、特定の戦闘目的のために、短期間で築かれた「陣城(じんじろ)」であった 3

陣城は、敵の進軍を阻むための防衛拠点として、あるいは敵城を攻める際の攻撃拠点として、戦国時代を通じて数多く築かれた 29 。辰市城の役割は後者であり、さらに言えば、敵主力を特定の場所におびき寄せ、伏兵との連携によって殲滅するための「おとり」という、極めて高度な戦略的役割を担っていた。その簡素な構造は、長期の籠城を想定していないことの証であり、まさにこの一戦のためだけに築かれ、その役割を完璧に果たした「使い捨ての城」であった。戦国時代の戦いが、巨大な城郭をめぐる攻防戦だけでなかったことを、辰市城の存在は雄弁に物語っている。

引用文献

  1. (松永久秀と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/41/
  2. 東大寺の歴史 https://www.nara-wu.ac.jp/grad-GP-life/bunkashi_hp/hist_todaiji/hist_todaiji.html
  3. 辰市城の合戦 | 大和&伊勢志摩散歩 http://yamatojiblog.blog.fc2.com/blog-entry-1147.html
  4. 松永久秀と若江三人衆の血縁関係 - 志末与志著『怪獣宇宙MONSTER ... https://monsterspace.hateblo.jp/entry/matsunaga-wakae
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  18. 筒井順慶は何をした人?「洞ヶ峠を決め込んで光秀と秀吉の天王山を日和見した」ハナシ https://busho.fun/person/junkei-tsutsui
  19. 激闘!辰市城の戦い - M-NETWORK http://www.m-network.com/tsutsui/t01_07.html
  20. 筒井城跡で永禄期の鉄砲玉出土 - M-NETWORK http://www.m-network.com/tsutsui/t_ex01.html
  21. 一代の風雲児、信貴山に散る。松永久秀(9) - 大和徒然草子 https://www.yamatotsurezure.com/entry/hisahide09
  22. 筒井順慶なる人物|【note版】戦国未来の戦国紀行 https://note.com/senmi/n/n5a9ee2b948da
  23. 秀吉を不快にさせた筒井順慶の「慎重」さ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/36586/2
  24. 松永久秀は何をした人?「信長を二度も裏切った極悪人で平蜘蛛を抱えて爆死した」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/hisahide-matsunaga
  25. Mr.謀叛と言われた男。下剋上と裏切りを繰り返した戦国時代の梟雄、松永久秀とは? https://samuraishobo.com/samurai_10013/
  26. 多聞山城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%81%9E%E5%B1%B1%E5%9F%8E
  27. 『松永久秀と下剋上』|京右衛門 - note https://note.com/kyoemoon/n/na03701cd77b1
  28. 下剋上の典型とされる松永久秀は、謀反人どころか忠義の人であった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2176)】 https://enokidoblog.net/talk/2021/03/47702
  29. 一城のまちの戦国時代一 - 米原市 https://www.city.maibara.lg.jp/material/files/group/47/13.pdf
  30. 5 韮山城攻めの付城について https://www.city.izunokuni.shizuoka.jp/bunka_bunkazai/manabi/bunkazai/documents/2syo56.pdf