近江・高島郡湖岸戦(1573)
天正元年、信長は武田信玄の死と足利義昭追放に乗じ、琵琶湖西岸の高島郡を制圧。大船団と磯野員昌を使い、浅井・朝倉攻めの後方脅威を排除し、近江支配の礎を築いた。
「Perplexity」で合戦の概要や画像を参照
天正元年の湖西制圧:織田信長による「近江・高島郡湖岸戦」の全貌
序章: 天正元年の戦略地図と高島郡の重要性
天正元年(1573年)は、織田信長が天下統一事業の主導権を決定的に掌握した、日本の歴史における一大転換点であった。長年にわたり信長を苦しめ続けた「信長包囲網」が、この年を境に音を立てて崩壊していく。この激動の年に行われた「近江・高島郡湖岸戦」は、一見すると小規模な地方作戦に過ぎないように見える。しかし、その戦略的背景と歴史的意義を深く掘り下げると、信長の冷徹かつ合理的な戦略思想と、来るべき浅井・朝倉両氏の滅亡に不可欠な布石であったことが明らかになる。
元亀争乱の最終局面と信長包囲網の瓦解
元亀年間を通じて、信長は浅井・朝倉、武田、三好三人衆、そして石山本願寺といった諸勢力による多方面からの軍事的・政治的圧力に晒されていた。しかし、天正元年に至り、この状況は劇的に変化する。最大の脅威であった甲斐の武田信玄が、西上作戦の途上で4月12日に病没したのである 1 。これにより、信長は東方からの圧力が大幅に軽減され、長年の宿敵であった北近江の浅井長政と越前の朝倉義景に全戦力を集中させることが可能となった。
さらに、政治的な局面においても信長は主導権を握る。7月には、反信長勢力の旗頭として画策を続けていた室町幕府第15代将軍・足利義昭を、槇島城の戦いを経て京から追放した 1 。これにより、信長は「将軍の権威」という敵対勢力の大義名分を完全に無力化し、浅井・朝倉両氏を政治的にも軍事的にも完全に孤立させることに成功した。信長包囲網は、その中核を成す二つの柱を同時に失い、事実上瓦解したのである。
表1:天正元年(1573年)主要関連年表
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月日 |
出来事 |
関連人物/勢力 |
備考 |
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2月 |
足利義昭、信長に対し挙兵 |
足利義昭、織田信長 |
信長包囲網の再燃 3 |
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4月12日 |
武田信玄、信濃駒場で病死 |
武田信玄、武田勝頼 |
包囲網の最大戦力が離脱 1 |
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5月22日 |
信長、佐和山城で大船の建造を開始 |
織田信長 |
琵琶湖の制海権掌握を企図 3 |
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7月3日 |
足利義昭、宇治・槇島城に籠城 |
足利義昭 |
信長との最終的な決裂 3 |
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7月上旬~中旬 |
近江・高島郡湖岸戦 |
織田信長、磯野員昌 |
本報告書の主題。浅井・朝倉攻めの前段階 4 |
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7月18日 |
信長、義昭を京から追放 |
織田信長、足利義昭 |
室町幕府の事実上の滅亡 1 |
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8月8日 |
信長、小谷城総攻撃のため出陣 |
織田信長、浅井長政 |
浅井・朝倉攻めの本格化 5 |
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8月20日 |
一乗谷城の戦いで朝倉義景が自害 |
朝倉義景、織田信長 |
朝倉氏滅亡 1 |
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9月1日 |
小谷城の戦いで浅井久政・長政が自害 |
浅井長政、織田信長 |
浅井氏滅亡 1 |
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9月 |
磯野員昌、杉谷善住坊を捕縛 |
磯野員昌、杉谷善住坊 |
信長狙撃犯の処刑 8 |
琵琶湖西岸の戦略的価値 ― 高島郡という「回廊」
信長が浅井・朝倉氏を滅ぼす最終作戦を発動するにあたり、高島郡の平定は絶対不可欠な前提条件であった。琵琶湖西岸に位置するこの地域は、京と若狭・越前を結ぶ西近江路や九里半街道といった主要交通路を扼する、文字通りの「戦略的回廊」であった 10 。この回廊が敵の勢力下にある限り、織田軍が北近江の浅井氏本拠・小谷城に主攻勢をかけた場合、常に側面および後方から攻撃を受ける危険性に晒される。大規模な軍事作戦において、兵站線の確保は何よりも優先されるべき基本原則であり、高島郡の制圧はこの兵站線を盤石にするための鍵であった。
さらに、信長は琵琶湖の水運が持つ戦略的価値を深く理解していた。湖西の港湾を制圧することは、兵員や物資を迅速かつ大量に輸送する水上ルートを確保するだけでなく、湖を挟んで敵対勢力が連携することを妨害し、分断する効果も持っていた 11 。5月から佐和山城で建造を進めていた大船は、まさにこの制海権を完全に掌握するための切り札であった 3 。
「湖岸の砦線」の実態 ― 高島七頭と浅井氏の支配
当時の高島郡は、単一の大名によって統治されていたわけではなく、「高島七頭」と称される在地国人領主たちの連合体によって分割支配されていた 4 。彼らは近江源氏佐々木氏の流れを汲む一族であり、それぞれが居城を構え、半独立的な勢力を保っていた 15 。元亀争乱が始まると、地理的に近い北近江の浅井氏、そしてその同盟者である越前の朝倉氏の影響下に入り、その多くが反信長陣営に与した 13 。彼らの城砦群は、琵琶湖の西岸に沿って点在し、織田方から見れば敵の「砦線」を形成していたのである。
しかし、この軍事行動の実態を詳細に分析すると、大規模な野戦や激しい攻城戦が行われた形跡は乏しい。『信長公記』などの史料に見られるのは、「攻撃」「追い込む」「開城」といった記述が中心である 4 。これは、本軍事行動が、敵主力を撃破することを目的とした伝統的な「合戦」とは本質的に異なることを示唆している。むしろ、来るべき小谷城・一乗谷城での決戦を前に、後方の脅威を排除し、兵站線を確保するために、敵の拠点網を無力化することを目的とした、計画的かつ効率的な「戦略的掃討作戦」と捉えるべきであろう。信長は、圧倒的な軍事力による威圧と政治的調略を巧みに組み合わせ、最小限の損耗で湖西全域を制圧するという、極めて合理的な戦略を実行したのである。
第一章: 高島郡の在地領主たち ―「高島七頭」の実像
織田信長の掃討作戦の舞台となった高島郡の政治的・軍事的状況を理解するためには、この地を支配していた在地領主「高島七頭」の実態を把握することが不可欠である。彼らは一枚岩の勢力ではなく、その複雑な成り立ちと立場が、信長の迅速な制圧を可能にする一因となった。
近江源氏佐々木氏の血脈と勢力範囲
「高島七頭」とは、鎌倉時代に高島郡田中郷の地頭に任じられた近江源氏佐々木信綱の次男・高信を共通の祖とする一族を中心とした国人領主の総称である 14 。惣領家は清水山城を本拠とした高島氏(佐々木越中守家)であり、その分家として平井氏(佐々木能登守家)、朽木氏、永田氏、横山氏、田中氏が郡内各地に土着し、それぞれが城館を構えていた 4 。これに佐々木氏とは別系統とされる山崎氏を加え、七家を指すのが一般的である。彼らは室町幕府の直轄軍である奉公衆を務めたこともある名門であり、郡内に城砦を網の目のように張り巡らせ、戦国時代に至るまで半独立的な支配体制を維持していた 4 。
表2:高島七頭と主要居城一覧
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氏族名 |
主要居城 |
居城の所在地(現在の地名) |
元亀・天正期における動向(推定) |
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高島氏(越中氏) |
清水山城 |
高島市新旭町安井川 |
浅井・朝倉方 |
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平井氏(能登氏) |
平井城 |
高島市新旭町熊野本 |
浅井・朝倉方 |
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朽木氏 |
朽木城 |
高島市朽木 |
独立・中立(織田方に協力的) |
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永田氏 |
永田城 |
高島市永田 |
浅井・朝倉方 |
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横山氏 |
横山城 |
高島市武曽横山 |
浅井・朝倉方 |
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田中氏 |
田中城 |
高島市安曇川町田中 |
浅井・朝倉方 |
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山崎氏 |
五番領城 |
高島市安曇川町五番領 |
浅井・朝倉方 |
元亀争乱における各家の動向と複雑な立場
元亀元年(1570年)、浅井長政が信長から離反し、元亀争乱が勃発すると、高島七頭の多くは地理的・政治的に近い浅井・朝倉方に与した 17 。特に、湖西の街道沿いに位置する田中城は、浅井氏にとって織田方の南下を食い止める重要な拠点と見なされていた 18 。
しかし、彼らの忠誠は決して絶対的なものではなかった。その代表例が朽木氏である。朽木氏は将軍家との深い繋がりを持ち、独自の政治的判断を下す傾向があった。元亀元年、信長が朝倉攻めに失敗し、浅井・朝倉軍の追撃を受ける絶体絶命の窮地に陥った際、朽木元綱は信長一行を自領内に保護し、京への撤退を助けた(いわゆる「朽木越え」)。このことからも分かるように、朽木氏は浅井氏と一線を画し、独自の生き残りを模索していた 19 。
天正元年(1573年)夏、信玄の死と義昭の追放という劇的な情勢変化は、高島七頭の領主たちの心を大きく揺さぶったに違いない。これまで頼みとしてきた浅井・朝倉氏の衰亡が誰の目にも明らかになる中で、彼らの将来性に大きな疑問符がついた。この状況は、織田方への寝返りや恭順を模索する者を生み出す土壌となり、信長の調略が効果を発揮しやすい環境を整えていた。彼らの結束は、強力な庇護者の存在に依存しており、その庇護者が揺らぐと、連合体そのものが内側から崩壊する脆弱性を抱えていたのである。
鍵となる城砦群の構造と戦略的位置づけ
信長の作戦目標となったのは、湖岸沿いに連なるこれらの城砦群であった。中でも特に重要視されたのが、木戸城と田中城である。
- 田中城: 安曇川右岸、泰山寺野台地の先端部に築かれた山城で、「上寺城」とも呼ばれる 18 。標高は約220メートル、比高は60メートルほどであるが、三方が急峻な地形で守られ、最も高い曲輪からは安曇川流域の平野と琵琶湖を一望できる、街道監視の要衝であった 21 。城の遺構は、連郭式に並ぶ曲輪群や土塁、堀切などから構成され、元は松蓋寺という寺院があった跡地を改修して築城されたと考えられている 17 。
- 木戸城: 『信長公記』で田中城と並び称される拠点であり 4 、現在の滋賀県大津市木戸周辺にあったと推定される。湖岸に極めて近く、琵琶湖の水運と西近江路が交差する、水陸交通の結節点を押さえる重要な城であった。
- 清水山城: 高島七頭の惣領家である高島氏の居城であり、国史跡に指定されている 14 。標高約226メートルの主郭を中心に尾根上に曲輪を配置した放射状連郭式の堅固な山城で、高島郡中南部を一望できる支配の拠点であった 4 。特筆すべきは、城の斜面に多数の竪堀を並べた「畝状空堀群」と呼ばれる防御施設が見られる点である 13 。この形式の防御施設は越前朝倉氏の城郭で多く見られることから、清水山城が朝倉氏の技術的・軍事的支援を受けて改修された可能性が指摘されており、両者の密接な関係を物語っている 13 。
信長の戦略は、これらの城を一つ一つ力攻めにするという非効率なものではなかった。むしろ、圧倒的な軍事力、特に後述する大船団という新兵器を誇示することで、地域全体の戦意を根底から覆し、抵抗の無意味さを悟らせることに主眼があった。個々の城を攻略するのではなく、在地領主たちの連合体としての結束を心理的に破壊することで、最小限の労力で湖西全域を手中に収める。これは、信長の極めて合理的かつ計算高い戦略思想の現れであった。
第二章: 作戦前夜 ― 1573年、春から夏へ
天正元年7月の高島郡への軍事行動は、決して偶発的なものではなく、春から夏にかけて周到に準備された計画の集大成であった。信長は、武力行使に先立ち、軍事的、政治的、そして人的な布石を的確に打っていた。
佐和山城での大船建造と制海権の掌握
信長は、将軍・足利義昭との対立が深まっていた天正元年5月22日、東近江の拠点である佐和山城に入り、そこで大船の建造を命じている 3 。この行動は、琵琶湖という広大な「内海」の制海権を完全に掌握するという、信長の明確な戦略的意図を示している。この大船は、単に兵員や物資を対岸へ輸送するための舟ではない。湖上から敵の城砦に直接的な軍事圧力をかけることが可能な、いわば「移動式の湖上要塞」としての役割が期待されていた。大鉄砲などを備え、その威容を誇示すること自体が、湖岸の敵対勢力に対する強力な威嚇となる。この大船の存在が、後の高島郡掃討作戦において決定的な役割を果たすことになる。
元浅井家臣・磯野員昌の役割 ― 高島郡統治の先兵
この作戦を現地の最前線で主導したと考えられるのが、元浅井家臣の磯野員昌である。員昌は、かつて浅井氏の猛将として知られ、元亀元年の姉川の戦いでは、その凄まじい突撃で織田軍の本陣近くまで迫ったと伝えられるほどの武将であった 8 。しかし、姉川の戦いの後、居城の佐和山城が織田軍によって敵中に孤立。元亀2年(1571年)2月、ついに信長に降伏した 24 。
信長は、この猛将を処刑することなく、その能力を高く評価した。佐和山城と引き換えに、浅井氏の勢力圏の西端である近江高島郡を与え、新庄城を居城とさせたのである 24 。これは、元敵将を積極的に登用して在地統治に当たらせるという、信長の現実主義的な人材活用術の典型例である。
信長が員昌を高島郡に配置したことには、二重、三重の戦略的意味合いが込められていた。第一に、員昌の武勇と経験をもって、複雑な情勢の高島郡をまとめ上げ、平定するための実行部隊長としての役割である 28 。第二に、これは員昌に対する過酷な「踏み絵」でもあった。旧主・浅井氏に連なる在地勢力を自らの手で掃討させることで、その忠誠心を試すと同時に、もはや浅井方へは後戻りできない状況に追い込む狙いがあった。そして第三に、員昌が持つ旧浅井家臣としての人脈や、高島郡の地理・人間関係に関する知識を利用し、調略活動を円滑に進めるという情報戦の側面も含まれていた。高島郡湖岸戦の成功は、この絶妙な人事戦略の成功でもあったと言える。
湖岸の協力者 ― 林与次左衛門員清の存在
さらに信長は、作戦開始以前から高島郡内に協力者を確保し、足がかりを築いていた。そのことを示すのが、林与次左衛門員清という人物の存在である。『信長公記』によれば、信長が7月に大船で高島郡を攻撃した際、当時すでに信長の支配下にあった員清の本拠地(現在の高島市勝野、乙女ヶ池周辺)を陣所として利用したと記されている 29 。
これは、織田軍が敵地に乗り込むにあたり、上陸拠点や兵站基地を事前に確保していたことを示す重要な証拠である。林氏のような在地勢力を事前に味方に引き入れておくことで、地理に不案内な織田軍も円滑に作戦を展開でき、現地の詳細な情報を得ることが可能となった。このように、信長の作戦は、大軍による正面からの攻撃だけでなく、内部からの切り崩しという、周到な準備に支えられていたのである。
第三章: 湖岸掃討作戦 ― 時系列による戦闘経過の再現
天正元年7月、周到な準備を終えた織田信長は、ついに高島郡の湖岸地帯に連なる浅井・朝倉方の城砦群を掃討する作戦を開始した。この作戦は、水軍と陸上部隊が連携した、当時としては画期的な立体作戦であり、その迅速な展開は高島の在地領主たちを震撼させた。
7月6日:作戦始動 ― 大船団、坂本へ
作戦の火蓋は、圧倒的な示威行動によって切られた。7月6日、信長は佐和山城で建造させた大船に自ら乗り込み、琵琶湖を横断して湖西の拠点である坂本へと移動した 3 。この航海は、単なる部隊移動ではない。湖の制海権が完全に織田方の手にあること、そして湖西への本格的な軍事行動が開始されることを、敵味方の全てに宣言する一大デモンストレーションであった。湖上に浮かぶ、これまで誰も見たことのない巨大な軍船の姿は、湖岸の城砦に籠る者たちに、計り知れない心理的圧迫を与えたはずである。
7月上旬~中旬:水陸からの挟撃作戦
坂本に拠点を確保した信長は、直ちに水陸両面からの挟撃作戦を展開した。『信長公記』には、「信長、大船にて高島郡を攻撃。陸からも木戸・田中両城を攻める」と、その作戦の骨子が簡潔に記されている 4 。
- 湖上班(水軍): 信長本隊が座乗する大船団は、琵琶湖上を自在に移動し、目標である木戸城や田中城の眼前に迫った。当時の技術では、船からの砲撃が城郭に致命的な損害を与えることは困難であったかもしれない。しかし、この艦隊の真の価値は、物理的な破壊力以上に、その存在自体がもたらす威圧感にあった。大鉄砲による威嚇射撃や、大軍が今にも上陸してくるかのような動きを見せることで、籠城側の注意を湖岸に釘付けにし、その士気を削いでいった。これは、最新技術を駆使したスペクタクルを演出し、旧態依然とした在地領主たちに時代の変化と圧倒的な力の差を見せつける、信長ならではの心理戦であった。
- 陸上班: 湖上班の動きと呼応して、陸路からの攻撃も開始された。この部隊の中核を担ったのは、高島郡の地理と内情を熟知する磯野員昌の軍勢であったと考えられる。員昌は、事前に調略されていた林与次左衛門員清のような在地協力者と連携し 29 、山中の道や街道を進み、木戸城・田中城の背後へと迫った。
湖上からの威圧と、陸路からの実質的な包囲。この水陸一体となった立体的な作戦は、山城に籠って敵の攻撃をやり過ごすという、従来の国人領主たちの常識を遥かに超えるものであった。
7月中旬~下旬:木戸・田中城の陥落
水陸からの同時攻撃という、想定外の戦術に直面した城兵たちの抵抗意欲は、急速に失われていったと推測される。すでに武田信玄は亡く、将軍義昭も追放され、頼みとする浅井・朝倉氏の敗色は濃厚であった。このような状況下で、織田の大軍に単独で抗戦しても勝ち目がないことは明らかであった。
結果として、木戸・田中両城では大規模な戦闘は発生せず、城主たちは織田方に降伏し、城を明け渡した 18 。この迅速な無血開城に近い結末こそ、信長の戦略の真骨頂であった。力攻めによる無用な損害を避け、威圧と調略によって戦わずして敵を屈服させる。この効率性の追求が、信長の戦争の特徴であった。攻略後、田中城は明智光秀の管轄下に置かれたとされ、軍事作戦の完了と同時に、織田政権による新たな支配体制への移行が迅速に進められたことを示している 20 。
作戦完了と主力部隊の転進
高島郡の湖岸地帯が完全に平定されたことで、織田軍の背後の安全は確保された。これにより、信長は後顧の憂いなく、全主力を北近江の浅井氏本拠・小谷城へと向けることが可能になった。高島郡の平定からわずか2週間ほど後の8月8日、信長は岐阜を出陣し、小谷城への総攻撃を開始する 6 。この一連の動きは、高島郡湖岸戦が、浅井・朝倉殲滅という大戦略の中に緊密に組み込まれた、計算され尽くした前哨戦であったことを雄弁に物語っている。
第四章: 戦後処理と北近江の新秩序
高島郡湖岸戦の完了は、単なる軍事的勝利に留まらなかった。信長は間髪を入れず、この地域に新たな支配体制を構築し、来るべき統一政権の礎を築いていった。戦後処理は、信長の支配者としての冷徹な現実主義と、将来を見据えた構想力を如実に示している。
高島郡の新支配者・磯野員昌
湖岸戦における功績により、磯野員昌は名実ともに高島郡の支配者としての地位を確立した。元亀2年(1571年)の降伏からこの地を与えられていた員昌は、この作戦を主導したことで信長の信頼を確固たるものとし、天正6年(1578年)に失脚するまで、郡内の統治を担った 24 。員昌は新庄城を拠点として民政にあたり、戦乱で疲弊した地域の安定化に努めた 8 。旧浅井氏の猛将が、織田政権の尖兵として旧同盟勢力を平定し、その地を治めるという構図は、戦国乱世のダイナミズムを象徴している。
杉谷善住坊の捕縛 ― 新領主による「忠誠の証」
員昌が信長への忠誠を決定的な形で示したのが、天正元年9月の「杉谷善住坊捕縛」事件である。杉谷善住坊は、元亀元年(1570年)に近江千種越で信長を鉄砲で狙撃したことで知られる人物であった 5 。暗殺は未遂に終わったものの、信長の怒りは凄まじく、善住坊は長らく逃亡生活を送っていた。
その善住坊が高島郡内に潜伏していることを突き止めた員昌は、これを捕縛し、信長のもとへ引き渡した 5 。これは、単なる犯罪者の逮捕ではない。員昌が自らの領内から信長の宿敵を排除し、旧主への未練を完全に断ち切り、信長に絶対的な忠誠を誓うという、極めて政治的な意味合いの強い行動であった。この功績により、員昌は信長の信頼をさらに深め、高島郡における自身の支配を正当化したのである。
明智光秀の関与と大溝城への布石
湖岸戦の後、田中城が明智光秀に与えられた、あるいはその管轄下に置かれたという記録は 20 、信長が湖西地域の戦略的重要性を深く認識し、最も信頼する側近の一人である光秀をこの地域の経営に関与させたことを示唆している。
この動きは、さらに大きな構想へと繋がっていく。天正6年(1578年)、失脚した磯野員昌に代わって高島郡の新たな領主となったのは、信長の甥である織田信澄であった。信澄は、明智光秀の縄張り(設計)によって、琵琶湖の入江(乙女ヶ池)を巧みに利用した本格的な水城である大溝城を築城する 11 。これは、湖岸戦による在地国人領主の旧式な山城群の制圧が、単なる支配者の交代に終わるのではなく、織田政権の統一的な都市計画・城郭配置構想に基づき、琵琶湖の水運を最大限に活用する新たな拠点網へと再編されていく第一歩であったことを示している 36 。在地勢力の城はことごとく破却され 10 、近世的な城郭と城下町へと変貌を遂げていくのである。
高島七頭の末路 ― 服属か、滅亡か
湖岸戦と、それに続く8月の浅井・朝倉氏の滅亡によって、高島七頭は完全にその政治的独立を失い、織田政権の支配下に組み込まれた 7 。信長に抵抗した者の多くは所領を没収され、歴史の表舞台から姿を消していった。しかし、全ての家が滅亡したわけではない。例えば、かねてより独自の動きを見せていた朽木氏は、巧みに時代の流れを読み、信長、そして後の豊臣秀吉、徳川家康と主君を変えながらも家名を保ち、江戸時代には交代寄合として存続することに成功した 15 。このことは、戦国乱世を生き抜くためには、単なる武力だけでなく、時流を的確に読む政治的判断力がいかに重要であったかを物語っている。
結論: 「湖岸戦」が持つ歴史的意義
天正元年(1573年)7月に行われた「近江・高島郡湖岸戦」は、その規模や戦闘の激しさにおいては、戦国時代の数多の合戦の中で目立つものではない。しかし、その歴史的意義は、織田信長の天下統一事業全体を俯瞰する視点から見直すことで、極めて重要であったことが明らかになる。
戦略的掃討作戦としての再評価
本報告書で詳述した通り、この軍事行動は、敵主力の撃破を目指す伝統的な「合戦」ではなく、主作戦である浅井・朝倉攻めを成功させるための地ならしとして実施された、極めて合理的かつ計画的な「戦略的掃討作戦」であった。信長は、在地国人領主たちの連合体という脆弱性を見抜き、大船団という新兵器による心理的威圧と、磯野員昌を用いた内部からの調略を組み合わせることで、最小限の損耗で目標を達成した。これは、信長の戦争観が、個人の武勇や名誉を重んじる中世的なものから、目的達成のために最も効率的な手段を選択する、冷徹な近世的合理主義へと完全に移行していたことを示す象徴的な事例である。
信長の統一事業における位置づけ
この湖岸戦は、信長の統一事業において、いくつかの重要な意味を持っていた。
第一に、 水陸両用作戦の成功例 であること。大船団と陸上部隊を緊密に連携させたこの立体作戦は、信長の軍事思想の先進性を物語っている。琵琶湖を単なる障害物ではなく、兵員や物資を迅速に投射するための「内海」として活用するこの戦略思想は、後の安土城築城と、そこを拠点とした天下支配の構想へと直結していく。
第二に、 兵站線確保の重要性 を改めて示したこと。もし高島郡の敵対勢力を放置したまま小谷城へ主攻勢をかけていれば、織田軍は常に後方を脅かされる危険を冒すことになったであろう。この作戦の成功なくして、8月の浅井・朝倉両氏の迅速な滅亡はあり得なかった。戦争の基本原則を忠実に実行した好例である。
第三に、 新たな支配体制のモデルケース となったこと。高島七頭に代表される在地国人領主の城砦網を解体・破却し 10 、織田家の一門や直臣(磯野員昌、明智光秀、織田信澄)による、より近世的で統制の取れた新たな支配拠点(新庄城、そして後の大溝城)を築く 34 というプロセスは、信長が他の地域を征服し、支配下に組み込んでいく上での基本モデルとなった。
近世近江支配への礎
天正元年の高島郡平定は、戦国時代を通じて続いた近江国の在地勢力による分割支配に終止符を打ち、統一政権による直接支配への道を切り開いた。この湖西地域の制圧は、後の豊臣秀吉による大津・坂本の城下町整備や、徳川幕府による彦根藩の設置など、近世を通じて続く近江国の戦略的重要性に基づいた支配体制の原点となった。
結論として、「近江・高島郡湖岸戦」は、戦国時代の終わりと、統一政権による新たな時代の幕開けを告げる、小さな、しかし決定的に重要な一歩だったのである。それは、信長の天下統一事業が、単なる領土拡大ではなく、旧来の秩序を破壊し、新たな支配システムを構築する過程であったことを明確に示している。
引用文献
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- 1573年 – 74年 信玄没、信長は窮地を脱出 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1573/
- 近江における佐々木一族/高島七頭とその城郭 - 滋賀県 https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/2042290.pdf
- 140 『信長公記』を読むその12 巻6 後半:元亀4・天正元(1573)年 https://ameblo.jp/ebikenbooks/entry-12787114926.html
- 信長事績 元亀4年/天正元年|うそく斎@歴史解説 - note https://note.com/brave_usokusai/n/ncb3b1e34b255
- 浅井長政の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7483/
- 【びわ湖源流の郷・高島市より】新庄城で高島郡を支配した磯野員昌 - webアミンチュ https://www.webaminchu.jp/news/1088/
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