最終更新日 2025-08-31

道明寺の戦い(1615)

慶長二十年五月六日 道明寺の戦い ― 豊臣方、最後の野戦戦略とその破綻

序章:落城への序曲

慶長二十年(1615年)五月六日、河内国(現在の大阪府東部)の道明寺周辺で繰り広げられた激戦は、大坂夏の陣の帰趨を事実上決定づけた、豊臣方にとって最後の、そして最大の野戦戦略の試みであった。この戦いを理解するためには、まずその半年前に終結した大坂冬の陣の講和が、豊臣方にとっていかに致命的なものであったかを認識せねばならない。

慶長十九年(1614年)末の冬の陣は、真田信繁(幸村)が構築した出城「真田丸」での攻防に象徴されるように、豊臣方が籠城戦において徳川方の圧倒的な大軍を巧みに食い止めた戦いであった。しかし、徳川家康が仕掛けた心理戦と大砲による威嚇射撃の前に、城内の淀殿らは和議へと傾く。この和議の条件こそが、家康の周到な策略であった。表向きの条件に加え、徳川方は「再度の戦を防ぐため」と称し、大坂城の堀、それも難攻不落の要であった広大な外堀と二の丸・三の丸の堀までをも埋め立て、城郭を破壊したのである 1

これにより、かつて日本最強と謳われた大坂城は、その防御機能のほとんどを喪失した「裸城」と化した 3 。この物理的な武装解除は、豊臣方の戦略的選択肢を根本から覆すものであった。もはや、冬の陣のような籠城戦は不可能であり、城外での野戦によって徳川軍を迎え撃つ以外に道は残されていなかった 5 。この状況は、豊臣方内部の戦略対立を先鋭化させた。大野治長ら豊臣譜代の家臣たちは依然として籠城に一縷の望みを託そうとしたが、真田信繁や後藤基次(又兵衛)ら、戦場の現実を知る浪人衆は、城外での積極的な迎撃作戦を強く主張した 6 。結果として、堀を失ったという厳然たる事実が、野戦論を後押しせざるを得ない状況を生み出した。

一方で、徳川方は講和後も一切の油断を見せず、次なる戦への準備を着々と進めていた。国友の鍛冶に大砲の追加製造を命じるなど 7 、その狙いが豊臣家の完全なる滅亡にあることは明らかであった。夏の陣における徳川方の総兵力は約15万5千。対する豊臣方は、冬の陣から離散した者も多く、約5万5千と、その兵力差は絶望的であった 8

冬の陣の講和は、軍事的な停戦ではなく、徳川方が豊臣方の戦略的自由を奪い、必勝の態勢を整えるための巧妙な罠であった。物理的に城を無力化し、豊臣方を不利な野戦へと引きずり出す。この家康の冷徹な長期戦略こそが、道明寺の戦いという悲劇の舞台を整えたのである。

第一章:決戦前夜 ― 両軍の戦略と動き

慶長二十年五月、徳川の天下を盤石にするための最後の戦いが始まった。徳川家康は、圧倒的な物量を背景に、大坂城を確実に包囲殲滅するための作戦を発動する。

徳川方の挟撃作戦

徳川軍の基本戦略は、二方面からの挟撃であった。徳川家康・秀忠親子が率いる約12万の主力本隊は、京から河内街道を南下し大坂城の東方を目指す 10 。これと同時に、家康の六男・松平忠輝を名目上の総大将とし、伊達政宗、本多忠政、松平忠明、水野勝成といった歴戦の将が率いる約3万5千の別働隊が、大和国(奈良県)を経由して西進する 10 。この二つの大軍が、大和と河内の国境地帯である道明寺付近で合流し、一大兵力となって大坂城の南、平野・住吉方面から総攻撃をかけるという、壮大かつ盤石な計画であった 10

豊臣方の迎撃計画 ― 国分の隘路

この徳川方の動きを察知した豊臣方首脳部は、唯一の勝機を、寡兵が大軍を破るための戦術の定石である「各個撃破」に見出した。徳川軍本隊と大和方面軍が合流する前に、兵力の少ない大和方面軍を叩く。その決戦の場として選ばれたのが、大和川と金剛山地に挟まれた「国分(こくぶ)」の隘路であった 3 。この一帯は、丘陵と川に阻まれた狭隘な地形で、大軍の展開を許さず、少数の兵力で敵の進軍を食い止め、撃破するにはまさに理想的な場所であった 4 。豊臣方にとって、この地形の利を最大限に活かすことこそが、絶望的な兵力差を覆すための唯一の活路だったのである。

慶長二十年五月五日の軍議

作戦を具体化するため、五月五日、大坂城南方の天王寺に布陣していた後藤又兵衛、真田信繁、毛利勝永、明石全登といった豊臣方の主力を担う将たちが、前線基地である平野まで出向き、軍議を開いた。ここで、以下の作戦計画が合意された。「翌六日の払暁(夜明け前)を期し、各隊は道明寺付近に集結。徳川大和方面軍が国分の狭隘な地に進入したところを奇襲し、これを殲滅する」 3 。この固い約束が、翌日の戦いの行方を左右する重要な伏線となる。

この決戦に投入された両軍の戦闘序列は、以下の通りである。

軍団

指揮官

主要部隊

兵力(推定)

徳川方(大和口方面軍)

総大将:松平忠輝

先鋒大将:水野勝成

約35,000 10

本多忠政、松平忠明、伊達政宗など

豊臣方(大和口迎撃部隊)

(統括指揮官不在)

先鋒隊

後藤基次(又兵衛)

2,800 3

第二陣

薄田兼相(隼人)、明石全登、山川賢信

約3,600 6

後詰

真田信繁(幸村)、毛利勝永

約12,000 15

この布陣が示すように、豊臣方は後藤又兵衛、真田信繁といった、当時最高の戦闘能力を持つとされた浪人衆の精鋭をこの作戦に投入した。それは、この一戦が豊臣家の命運を賭けたものであることを何よりも雄弁に物語っていた。

第二章:暁の濃霧、崩れた作戦

運命の慶長二十年五月六日。豊臣方が練り上げた起死回生の作戦は、戦場を支配した一つの偶然の要素によって、開始される前に崩壊へと向かう。

午前0時、後藤又兵衛の出陣

五月五日の夜、軍議で交わした約束を違えることなく、後藤又兵衛は麾下の兵2,800を率い、宿営地であった平野を一番乗りで出発した 3 。先鋒としての責務を果たすべく、闇夜を縫って東へ、決戦の地である道明寺へと向かった。彼の武人としての律儀さと、作戦遂行への強い意志が、皮肉にも彼自身を孤立の淵へと追いやる第一歩となった。

戦場を覆った濃霧

この日の未明、大和から河内にかけての一帯に、かつてないほどの濃い霧が発生した 2 。一寸先も見えぬほどの乳白色の帳は、全ての音を吸い込み、方向感覚を麻痺させた。この濃霧が、後藤又兵衛に続こうとしていた豊臣方の後続部隊の行軍を著しく妨げたのである 14

驚くべき遅参 ― 組織的欠陥の露呈

後藤又兵衛に続くはずであった真田信繁、毛利勝永、薄田兼相、明石全登らの部隊は、この濃霧の中で深刻な遅延に見舞われた 3 。これは単なる天候による不運ではなかった。豊臣軍の構造的な脆弱性が、濃霧という触媒によって一気に露呈した瞬間であった。

豊臣軍の主力は、全国から集まった浪人衆であり、いわば「寄せ集め」の軍勢であった 2 。彼らは個々の武勇には優れていたものの、統一された指揮系統の下での訓練を受けておらず、部隊間の連携や伝令システムは未成熟であった。土地勘のない兵も多く、夜間、しかも視界が全く効かない濃霧の中での行軍は、部隊の統制を極めて困難にした。兵は道に迷い、部隊は分散し、集結地への到着は絶望的に遅れたのである 3 。徳川方にも同様の霧は立ち込めていたはずだが、彼らが予定通りに行動できたのは、大名を中心とした統制の取れた組織力の差に他ならなかった。豊臣方の作戦失敗は、天運に見放されたのではなく、そもそも複雑な連携作戦を遂行できる組織的能力を欠いていたという、必然の結果であった。

道明寺到着、そして絶望

夜が明け始める頃、後藤又兵衛の部隊は予定通り道明寺に到着した。しかし、彼の目に映ったのは、いるはずの友軍の姿がどこにもないという信じがたい光景であった。愕然とする又兵衛に、物見からの報告がさらなる絶望をもたらす。目標地点である国分の隘路には、すでに敵である徳川方大和方面軍が展開を完了しており、鬨の声を上げているという 3

この瞬間、豊臣方の作戦は完全に破綻した。奇襲によって敵を各個撃破するという計画は水泡に帰し、逆に又兵衛の部隊2,800は、3万を超える敵の大軍の眼前に孤立することになったのである。

第三章:小松山の死闘 ― 後藤又兵衛、孤高の奮戦(午前4時頃~正午頃)

作戦の完全な破綻を悟った後藤又兵衛は、しかし撤退という選択をしなかった。歴戦の勇士である彼の脳裏には、即座に次なる一手、そしてそれが自らの死地となるであろうという覚悟が浮かんでいた。

【午前4時前】又兵衛の決断 ― 小松山への布陣

又兵衛は、遅れてくるであろう友軍のために、自らが盾となり時間を稼ぐことを決意する。彼は即座に部隊に石川を渡らせ、対岸の小松山(現在の玉手山公園、古代の玉手山古墳群が点在する丘陵地)を占拠するよう命じた 3 。これは、攻撃作戦から防御的な遅滞戦術への瞬時の切り替えであり、彼の卓越した戦術眼と、味方を見捨てないという武人としての矜持を示すものであった。小松山は、高低差に富み、古墳の墳丘を天然の砦として利用できる防御の要地であった 10 。又兵衛は、この地形を最大限に活用し、わずか2,800の兵で10倍以上の敵を迎え撃つ陣を構えたのである 4

【午前4時】開戦

徳川方は、小松山に豊臣方の部隊が布陣したことを察知し、直ちに包囲攻撃を開始した。先鋒の松倉重政隊、奥田忠次隊が小松山に殺到し、戦いの火蓋が切られた 3 。又兵衛はこれを冷静に迎え撃ち、緒戦で敵将・奥田忠次を討ち取るという目覚ましい戦果を挙げる 3 。孤立無援の状況にありながら、後藤隊の士気は天を衝く勢いであった。

【午前中】8時間に及ぶ攻防

又兵衛の奮戦に対し、徳川方は水野勝成、堀直寄、そして奥州の覇者・伊達政宗らが率いる大軍を惜しげもなく投入し、小松山に波状攻撃を仕掛けた 2 。後藤隊は兵数で圧倒的に劣りながらも、又兵衛の巧みな指揮と地の利を活かした戦術によって、数度にわたり徳川勢を撃退した。その戦いぶりは鬼神の如く、敵である徳川方からも「摩利支天の再来」と賞賛されたという 16 。しかし、兵の消耗は激しく、一人また一人と歴戦の兵が倒れていった。

【正午前】伊達勢の猛攻と被弾

8時間に及ぶ死闘の末、後藤隊は満身創痍となっていた。その機を捉え、伊達政宗配下の猛将・片倉重長(重綱)が率いる鉄砲隊が、小松山の又兵衛本陣に狙いを定め、一斉射撃を加えた 5 。数百丁の火縄銃から放たれた鉛玉の豪雨は、ついに又兵衛を捉えた。一説によれば、この銃撃によって又兵衛は致命傷を負ったとされる 3

【正午頃】壮絶な最期

もはやこれまでと悟った又兵衛は、動けるだけの負傷者を後方に下げさせた後、残った僅かな兵を率いて小松山を下り、眼前の徳川軍に最後の突撃を敢行した 3 。その壮絶な突撃は、敵数隊を蹴散らし、大軍の中に一筋の血路を開いたが、衆寡敵せず、ついに力尽きた。又兵衛は、敵に首を渡すことを潔しとせず、家臣の吉村武右衛門に介錯を命じ、その生涯を閉じた 4 。時に正午頃、後藤隊は主君の後を追うように壊滅した。

後藤又兵衛とその部隊が命と引き換えに稼いだ8時間は、遅参した後続部隊が戦場に到着するための、あまりにも大きな代償であった。

第四章:誉田の激突 ― 真田信繁 対 伊達政宗(正午頃~午後4時頃)

後藤又兵衛が小松山に散った頃、戦場ではようやく豊臣方の後続部隊が姿を現し始めていた。しかし、それは連携の取れた援軍ではなく、戦術的に最悪とされる「戦力の逐次投入」の始まりであった。

【正午頃】逐次投入の悲劇

後藤隊が壊滅するのとほぼ時を同じくして、薄田兼相(隼人)、明石全登、山川賢信らの部隊が道明寺付近に到着した 3 。彼らは又兵衛の苦戦を知り、救援すべく徳川軍に突撃するが、すでに徳川方は小松山を制圧し、万全の態勢を整えていた。連携を欠いたまま個別に突撃した豊臣方の各部隊は、優勢な徳川軍によって次々と各個撃破されていく 2 。「橙武者」と揶揄されながらも奮戦した薄田兼相も、この乱戦の中で討死を遂げた 3

【午前11時~午後】真田・毛利隊の到着と戦線再構築

さらに遅れて、ついに真田信繁、毛利勝永という豊臣方の二大主力が戦場に到着した。彼らは、後藤隊・薄田隊の敗残兵を収容し、誉田(こんだ)村(現在の誉田八幡宮周辺)から藤井寺にかけて新たな防衛線を構築。ようやく乱れきっていた戦線を立て直すことに成功した 3 。戦いの舞台は、小松山から誉田・藤井寺の平地へと移った。

【午後】真田信繁 vs 片倉重長

戦線を再構築した豊臣軍に対し、徳川方からは伊達政宗軍が攻撃を開始した。その先鋒を務めたのは、後藤又兵衛を追い詰めた片倉重長であった 3 。この両者の戦いは、単なる白兵戦ではなく、戦国時代を通じて進化を遂げた鉄砲戦術の応酬という、極めて高度なものであった。

片倉率いる伊達の騎馬鉄砲隊が、射撃による弾幕を張りながら真田隊に迫る 15 。これに対し、真田信繁は兵士たちに「伏せ」を命じ、敵の銃弾をやり過ごさせた。反撃がないと見て前進してきた片倉隊が、真田隊の目前まで迫ったその瞬間、信繁の号令一下、伏せていた兵が一斉に起き上がり、至近距離から火縄銃を斉射した 21 。この巧みな戦術は完璧に成功し、伊達勢の先鋒は予期せぬ反撃に大混乱に陥り、一時的に後退を余儀なくされた。この一戦は、戦国末期の戦闘が、個人の武勇だけでなく、統制された集団による戦術運用の巧拙によって決せられる、新たな時代に入っていたことを示している。

【午後2時半頃】退却命令

真田隊の奮戦により、徳川軍の進撃は一時的に停滞し、両軍は誉田の地で睨み合いの状態となった。しかしその最中、大坂城から伝令が到着する。それは、この道明寺の戦いと並行して河内方面で戦われていた「八尾・若江の戦い」において、豊臣方の木村重成、長宗我部盛親らが徳川軍本隊に敗れ、木村重成が討死したという敗報であった 3 。東方からの徳川軍本隊の脅威が迫る中、豊臣方首脳部は大和方面軍にこれ以上の損害を出すことを避け、全軍への退却命令を下した。

【午後4時頃】撤退開始

命令を受け、豊臣軍は真田隊を殿(しんがり)として、大坂城南方の最終防衛線である天王寺方面への撤退を開始した 3 。この際、水野勝成らが追撃を主張したにもかかわらず、伊達政宗らが兵の疲労を理由に反対したため、徳川軍による本格的な追撃は行われなかった 3 。これを見た真田信繁は、馬上で悠然と采配を振りながら、「関東勢百万と候え、男は一人もなく候(関東武者は百万いると聞くが、本当の男は一人もいないと見える)」と嘲笑したと伝えられている 4 。それは、翌日の最終決戦を前にした、日本一の兵(つわもの)の最後の矜持であった。

第五章:戦場の残響 ― 伊達政宗の謎と戦いの結末

道明寺の戦いは、後藤又兵衛の死と真田信繁の撤退によって幕を閉じた。しかし、この戦いにはいくつかの謎、特に伊達政宗の不可解な行動が残されている。彼の行動を分析することは、この戦いの深層と、戦国時代の終焉における有力大名の立ち位置を理解する上で不可欠である。

論点1:伊達政宗による味方討ち「神保相茂事件」

道明寺の戦いの翌日、五月七日の天王寺・岡山の戦いにおいて、伊達軍が友軍であるはずの水野勝成勢に属する神保相茂隊を、背後から鉄砲で一斉射撃し、壊滅させたとされる事件が記録されている 24 。この攻撃により神保相茂は討死し、彼の部隊はほぼ全滅した 26 。遺臣らが抗議すると、政宗は「神保隊が敵に崩されて乱れたため、自軍が巻き込まれるのを防ぐべく、やむなく撃った。伊達の軍法に敵味方の区別はない」と主張して全く意に介さなかったという 24 。一説には、手柄を焦るあまり、前方にいて邪魔になった神保隊を排除したとも言われている 27 。この冷徹非情な判断は、政宗が徳川軍の一員としてではなく、あくまで伊達家の利益を最優先する独立した戦国大名としての意識を強く持ち続けていたことを示唆している。

論点2:政宗はなぜ真田隊への追撃を拒んだのか

道明寺の戦いの終盤、先鋒大将の水野勝成は、撤退する真田隊への追撃を再三にわたって政宗に要請した。しかし政宗は、兵の疲労や弾薬の不足を理由に、これを頑なに拒否した 3 。これは本当に兵を惜しんだだけの軍事的な判断だったのだろうか。後世、好敵手である真田信繁の武勇に敬意を払い、武士の情けとして見逃したという美談も語られている 21 。しかし、より現実的な解釈も可能である。すなわち、豊臣家の滅亡と徳川の天下がもはや確定的な状況で、自軍の貴重な戦力を無駄に消耗することを避けたという、冷徹な政治的計算である。徳川による新たな治世が始まる中で、強大な伊達軍の力を温存しておくことこそが、伊達家の安泰と幕藩体制下での発言力を確保する上で最も重要であると、政宗は判断したのかもしれない。彼の行動は、戦国を生き抜いた大名としての、最後の生存戦略であったとも考えられる。

戦いの損害と戦略的影響

この一日で、豊臣方は後藤又兵衛、薄田兼相といった経験豊富な指揮官を失い、数千の兵力を喪失した 6 。これは単なる兵の損失以上の、致命的な打撃であった。大坂城の南東を守るための迎撃作戦は完全に破綻し、徳川軍は大坂城の最終防衛ラインである天王寺口まで、もはや大きな抵抗を受けることなく進軍することが可能となった。

道明寺の戦いでの勝利は、徳川方にとって、翌五月七日の最終決戦「天王寺・岡山の戦い」における絶対的な優位を確立することを意味した。豊臣方は、この重要な前哨戦で主力の多くを失い、士気も低下し、疲弊しきった状態で最後の戦いに臨むことを余儀なくされたのである 7 。道明寺の戦いは、大坂城落城への道筋を決定づけた、紛れもないターニングポイントであった。

終章:滅びの美学

道明寺の戦いは、大坂夏の陣における一戦闘に留まらず、約150年続いた戦国という時代の終焉を象徴する、壮絶な墓標であった。

後藤又兵衛が、作戦破綻という絶望的な状況下で、友軍のために己の命を盾とした8時間の奮戦。真田信繁が、優勢な敵を前にして見せた卓越した戦術と、撤退の際に示した不屈の精神。彼らの姿は、たとえ滅びゆく側にあろうとも、己の武と名誉を懸けて最後まで戦い抜くという、戦国武人の「滅びの美学」そのものであった。

しかし、その一方で、この戦いは豊臣方の組織的限界を無慈悲に暴き出した。個々の武将の武勇は目覚ましいものがあったが、寄せ集めの軍勢であるが故に組織としての連携を欠き、濃霧という不確定要素の前に作戦が脆くも崩れ去った事実は、豊臣政権がもはや時代を担う統治能力を失っていたことを象徴している。徳川家康が長い歳月をかけて築き上げた、巨大で統制の取れた近世的な軍事・政治システムの前には、戦国時代的な個人の武勇だけではもはや抗うことはできなかったのである。

道明寺の戦いは、古い時代の個の力が、新しい時代の組織力と物量によって打ち破られた戦いであった。この戦いの火光が消えた時、戦国の世もまた、その最後の輝きを終えようとしていた。そして戦場は、徳川による二百数十年間の安定した治世へと続く、静かな道の始まりとなったのである。

引用文献

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  2. わかりやすい 大坂(大阪)冬の陣・夏の陣 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/oosaka.html
  3. 道明寺の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%98%8E%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  4. 後藤又兵衛隊、小松山へ - 藤井寺市観光協会 https://www.fujiidera-kanko.info/volunteer/modelkosu15.html
  5. 片倉家と真田幸村 - 白石市 - しろいし観光ナビ https://shiroishi-navi.jp/detail/detail_4854/
  6. 大坂の陣 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3
  7. 大坂夏の陣 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7033/
  8. 玉手山と大坂夏の陣 | 大阪府柏原市 https://www.city.kashiwara.lg.jp/docs/2014041800015/
  9. 大坂の陣 https://www.asahi.co.jp/rekishi/04-09-04/01.htm
  10. 大坂夏の陣・道明寺合戦 ウォーク - 藤井寺市観光協会 https://www.fujiidera-kanko.info/volunteer/20160127_domyojikassen_tirashi.pdf
  11. 戦国の最後!豊臣家の破滅を決めたしくじり合戦【大坂夏の陣・道明寺の戦い】世界の戦術戦略を歴史解説~徳川家康・伊達政宗率いる15万を撃退できるか? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=nMnW5lebspU
  12. 道明寺の戦い、誉田の戦い、八尾・若江の戦い~激戦!大坂夏の陣 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/3842
  13. 道明寺・誉田の戦い関連地 - 歴旅.こむ http://shmz1975.cocolog-nifty.com/blog/2019/09/post-a238b2.html
  14. 道明寺・誉田の戦い - 羽曳野kk https://www.habikino-kk.net/post_story-%E9%81%93%E6%98%8E%E5%AF%BA%E3%83%BB%E8%AA%89%E7%94%B0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84/
  15. 【歴史夜話#5】『わが友なる敵』真田幸村vs伊達政宗 - note https://note.com/coco_waon/n/n3625d0f6ebcf
  16. ハイキング・ウォーキング!!後藤又兵衛の末裔(自称)が激戦地の大坂夏の陣「道明寺・誉田合戦」を歩く - note https://note.com/jungoto/n/n9eb7e1b0be2b
  17. 大坂の陣と柏原コラム3 小松山の戦い、片山の攻防 https://www.city.kashiwara.lg.jp/docs/2014122600046/
  18. 大坂夏の陣① 道明寺の戦い・後藤又兵衛基次奮戦の地 小松山(玉手山)古戦場を訪ねる - 大阪あそ歩 https://www.osaka-asobo.jp/course1081.html
  19. 大坂夏の陣「道明寺の戦い」!後藤又兵衛基次、決死の奮戦"小松山古戦場跡" https://favoriteslibrary-castletour.com/goto-matabee-komatsuyama/
  20. 小松山の戦いで散った後藤又兵衛の名は? | 大阪府柏原市 https://www.city.kashiwara.lg.jp/docs/2015031300034/
  21. 「真田丸」vs「独眼竜政宗」の対決"道明寺の戦い"!~誉田の激闘 - 高速バス https://www.bus-sagasu.com/blog/22991/
  22. コース(2) 大坂夏の陣道明寺合戦コース - 藤井寺市 https://www.city.fujiidera.lg.jp/kanko/plan/course2.html
  23. 伊達政宗&真田幸村 2体セット専用ケース【道明寺・誉田の戦い】を再現 - 謙信 https://www.art-kensin.jp/SHOP/SA-0015-set.html
  24. 伊達政宗 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%94%BF%E5%AE%97
  25. 大坂夏の陣東軍最倒霉的人-神保相茂 - WTFM 風林火山教科文組織 https://wtfm.exblog.jp/12722783/
  26. 神保相茂(じんぼう すけしげ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E4%BF%9D%E7%9B%B8%E8%8C%82-1083235
  27. え、撃つんすか?戦国最強武将たちのぶっ飛びエピソード〜伊達政宗、毛利元就編 https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/82311/