郡上八幡城の戦い(1580)
慶長五年、遠藤慶隆は旧領郡上八幡城を攻囲。城主稲葉貞通は犬山より帰還し、奇襲で遠藤軍を撃破。武士の意地を見せ城を奪還後、和議を結んだ。関ヶ原前哨戦の異聞である。
慶長五年 郡上八幡城の戦い ―旧領回復に賭けた執念と武士の意地―
序章:慶長五年の郡上八幡 ―関ヶ原前夜の北濃
日本の戦国時代史において、特定の合戦の年代は、その歴史的文脈を理解する上で決定的な意味を持つ。ご提示いただいた「郡上八幡城の戦い(1580)」に関する情報について、詳細な調査を行った結果、本件の主題となる大規模な攻防戦は、天正八年(1580年)ではなく、その20年後、天下分け目の関ヶ原の戦いの前哨戦として**慶長五年(1600年)**に発生したものであることが明らかとなった 1 。天正八年前後は、遠藤慶隆が織田信長に仕えていた時期であり、本稿で詳述する合戦の直接的な背景とは異なる。本報告書では、この慶長五年(1600年)の合戦を「郡上八幡城の戦い」として定義し、その詳細を時系列に沿って徹底的に解説する。
慶長三年(1598年)の豊臣秀吉の死は、日本の政治情勢に巨大な権力の真空を生み出した。これを機に、五大老筆頭の徳川家康と、五奉行の石田三成との対立が先鋭化し、全国の大名は家康率いる「東軍」と三成を中心とする「西軍」への二分を余儀なくされる。慶長五年、家康が会津の上杉景勝討伐へ向かった隙を突き、三成が挙兵。日本全土を巻き込む大戦乱、すなわち関ヶ原の戦いの火蓋が切られたのである。
この天下分け目の大局において、美濃国(現在の岐阜県)は、東西両軍が直接対峙する最前線となった。美濃を制する者が天下を制す、との言葉通り、この地での戦況は本戦の行方を占う上で極めて重要であった。その美濃の北部、飛騨との国境に位置する郡上郡の要衝が、郡上八幡城である。この城を巡る攻防戦は、単なる局地戦に留まらない。それは、豊臣政権下で旧領を追われた武将の執念、家の名誉を重んじる武士の意地、そして一族内部の対立といった、戦国末期の複雑な人間模様が、天下の趨勢という巨大な奔流に飲み込まれていく様を凝縮した、象徴的な戦いであった。
利用者様が把握されていた「遠藤氏内訌に豊臣方が介入」という構図は、年代こそ異なるものの、この慶長五年の合戦の本質を鋭く捉えている。本合戦は、郡上八幡城の旧城主・遠藤慶隆(東軍)と、その同族でありながら西軍に与した遠藤胤直との対立、すなわち「遠藤氏の内訌」を一つの軸としている。そして、この内訌に、現城主の稲葉貞通を含む西軍(豊臣方)と、慶隆を支援する東軍(徳川方)が深く介入し、代理戦争の様相を呈したのである。本報告書は、この複雑に絡み合った戦いの全貌を、各登場人物の動機から紐解き、合戦の推移をあたかもリアルタイムで追体験するかのように詳述していく。
第一章:盤上の駒 ―合戦に至る各将の動静
郡上八幡城の戦いは、複数の武将たちの個人的な動機と政治的な計算が複雑に交錯した結果、引き起こされた。彼らがどのような背景を持ち、何を賭けてこの戦いに臨んだのかを理解することが、合戦の全貌を把握する鍵となる。
旧領奪還を期す執念の人、遠藤慶隆(東軍)
この物語の主役は、遠藤慶隆(えんどう よしたか)である。遠藤氏は、室町時代から郡上郡に勢力を張った東氏の庶流であり、慶隆の父・盛数の代に下剋上を果たして郡上の支配者となった名門であった。慶隆も父祖伝来の地を受け継ぎ、郡上八幡城主として君臨していた。しかし、天正十六年(1588年)、天下人となった豊臣秀吉の政策により、慶隆は郡上八幡領を没収され、加茂郡小原(現在の岐阜県加茂郡白川町)七千五百石への転封を命じられた。この理不尽とも言える改易は、慶隆の心に秀吉とその政権に対する深い恨みを刻み込んだ。
秀吉の死後、天下が徳川家康と石田三成の間で揺れ動く中、美濃の最大大名である岐阜城主・織田秀信は西軍への加担を表明し、慶隆にも西軍への参加を要請した。周囲の大名のほとんどが西軍になびく中、慶隆はこれを拒絶する。彼の胸中には、秀吉への恨みを晴らし、何としても旧領・郡上八幡を奪還するという、燃えるような執念があった。家康率いる東軍に与することは、その千載一遇の好機であった。『遠藤記』には、慶隆が秀吉や三成に対して抱いていた積年の恨みが、東軍参加の決断を後押しした心情として記されている。
慶隆はただちに家康と連絡を取り、八幡城奪還の許可を願い出た。家康は、慶隆の同族である遠藤胤直が西軍に与したことを知らなかったものの、慶長五年七月二十九日付で「郡上は両遠藤に与える」という朱印状を発給し、慶隆の軍事行動を公認した 1 。これにより、慶隆の旧領回復戦は、東軍の公式な作戦行動として正当化されたのである。
意地と誇りの城主、稲葉貞通(西軍)
慶隆に代わって郡上八幡四万石の城主となっていたのが、稲葉貞通(いなば さだみち)である。彼は、織田信長の美濃平定に貢献し、「西美濃三人衆」の筆頭として名を馳せた猛将・稲葉一鉄(良通)の嫡男であった。父・一鉄は頑固な性格で知られ、「頑固一徹」の語源になったという説もあるほどだが、貞通もまたその気性を受け継ぎ、武士としての意地と誇りを何よりも重んじる人物であった。同時に、茶人としても知られ、千利休とも交流があった文化人の一面も持ち合わせていた。
関ヶ原の戦いが勃発すると、貞通は直属の上位領主である岐阜城主・織田秀信に従い、西軍に加担した。そして、東軍の西上を阻止すべく、主力の兵を率いて犬山城の守備に就いた 1 。このため、遠藤軍が郡上へ侵攻した際、八幡城は城主不在という危機的状況に陥ることになる。
しかし、貞通の立場は一枚岩ではなかった。彼は東軍の勇将・福島正則と旧交があり、正則から密かに東軍への寝返りを促す書状を受け取っていたのである 1 。西軍への忠誠と、旧友からの誘い、そして天下の形勢。貞通の心は、この時点で既に大きく揺れ動いていた可能性が高い。彼のこの葛藤が、後の合戦において予測不能な展開を生むことになる。
一族の相克:遠藤胤直(西軍)と金森可重(東軍)
この合戦を「遠藤氏内訌」たらしめたのが、遠藤胤直(えんどう たねなお)の存在である。彼は慶隆の分家筋にあたる犬地城主であったが、宗家の慶隆とは袂を分かち、織田秀信の要請に応じて西軍に加担した。秀信から鉄砲30丁と弾薬という具体的な軍事支援を受け、上ヶ根(うわがね)に砦を築いて布陣し、東軍についた慶隆と公然と敵対した 1 。小領主が生き残りをかけて、宗家とは異なる政治判断を下すという、戦国時代にはしばしば見られた悲劇的な構図がここにもあった。
一方、慶隆にとって最も頼りになる援軍が、娘婿の金森可重(かなもり ありしげ)であった。彼は飛騨高山城主・金森長近の子であり、関ヶ原の戦役が始まった当初は江戸にいた。しかし、家康から直接、本領の飛騨へ戻り、舅である慶隆を助けて郡上を攻略せよとの命令を受ける 1 。この家康の直接介入は、彼が北濃の戦いを極めて重視していたことの証左である。婚姻関係という個人的な絆と、総大将からの厳命という公的な義務が、可重を郡上へと向かわせた。
このように、郡上八幡城を巡る戦いは、単なる東軍対西軍の軍事衝突ではなかった。「旧領回復」という慶隆の個人的な執念、「武士の意地」を貫こうとする貞通の矜持、「一族内の主導権争い」という慶隆と胤直の相克、そして「主家への忠誠」や「婚姻による義理」といった、武将たちの様々な思惑が複雑に絡み合った人間ドラマであった。この盤上で、彼らは自らの運命を賭けた駒として、動き出すことになる。
第二章:北濃の戦い ―郡上八幡城攻防戦のリアルタイム詳解
慶長五年八月末、郡上八幡城を巡る攻防の幕が切って落とされた。数日間にわたるこの戦いは、二転三転する劇的な展開を見せる。ここでは、その経過を時系列に沿って克明に再現する。
表1:郡上八幡城の戦い:両軍の構成と推定兵力
合戦開始時点での両軍の戦力は、以下の通りであった。攻城軍は籠城軍を数で上回るものの、山城の堅固さを考えれば、決して圧倒的な優位とは言えなかった。
陣営 |
軍勢 |
総大将・主要武将 |
推定兵力 |
備考 |
東軍 |
遠藤・金森連合軍 |
遠藤慶隆、遠藤慶胤、金森可重 |
約1,050 |
旧領奪還を目指す攻城軍 |
|
遠藤慶隆軍 |
遠藤慶隆 |
約800 |
弟・慶胤の別働隊400余を含む 1 |
|
金森可重軍 |
金森可重 |
250 2 |
飛騨からの援軍 |
西軍 |
稲葉軍 |
稲葉貞通、稲葉通孝 |
750(籠城時) |
城主・貞通は犬山に出陣中 |
|
郡上八幡城守備隊 |
稲葉通孝(貞通の末子) |
750 2 |
寡兵のため領内の浪人・町人・農民を動員 1 |
|
稲葉貞通本隊 |
稲葉貞通 |
3,000 2 |
9月3日に戦場到着 |
戦いの舞台:難攻不落の山城・郡上八幡城
郡上八幡城は、標高354メートルの城山に築かれた典型的な山城である。城の南には吉田川、西から北にかけては小駄良川が流れ、天然の外堀として城下町と城本体を護っていた。特に南側は切り立った崖となっており、力攻めは不可能に近い。城主となった稲葉貞通は、この天然の要害にさらに手を加え、高く堅固な石垣を築き、防御力を高めていた。
城の縄張りは、急峻な地形を巧みに利用していた。大手口(正面)から本丸へ至る道は複雑に折れ曲がり、虎口(入口)の石段は意図的に不規則かつ急勾配に作られていた。これは、攻め寄せる敵兵の足を止め、頭上からの攻撃を容易にするための工夫である。一方、搦手口(裏門)にあたる北側は、尾根続きであるため防御の要となり、二重の濠や巨大な堀切が設けられ、厳重に固められていた。この堅城を、城主不在とはいえ、少数の兵で守るのが稲葉軍であった。
合戦前夜(八月二十八日~三十一日):東軍、郡上へ進撃
慶長五年八月二十八日、遠藤慶隆はついに動いた。兵400余を率いて本拠の小原を出陣すると、稲葉方の警戒網を巧みに避け、飛騨川を渡河して郡上領内へと侵入した 1 。道中、麻ヶ滝(現在の岐阜県下呂市金山町)に配置されていた稲葉方の守備隊を撃破し、その勢いを内外に知らしめる 1 。慶隆は軍を二手に分け、法師丸と野尻に布陣。さらに弟の慶胤が率いる別働隊400余も沓部口から攻め入り、八幡城への圧力を強めた 1 。
時を同じくして、飛騨から南下した金森可重の軍勢も郡上領内に入った。可重は稲葉勢との小競り合いを避けながら慎重に進軍し、八幡城の東に位置する滝山に本陣を構えた 1 。さらにその別働隊は五町山に布陣。これにより、遠藤・金森連合軍は、八幡城を赤谷(遠藤軍)、滝山(金森軍本隊)、五町山(金森軍別働隊)の三方から包囲する態勢を完成させた 1 。決戦の時は迫っていた。
九月一日:総攻撃の火蓋
九月一日、遠藤・金森連合軍による八幡城への総攻撃が開始された。
【午前~午後】大手口の攻防
遠藤慶隆が率いる本隊は、城の南を流れる吉田川を渡り、大手口へ殺到した 1。城内からは、城代の稲葉通孝が指揮する守備兵による激しい鉄砲射撃が浴びせられる。慶隆軍はこれに応戦しつつ、防御柵を次々と破壊。ついに大手の一の門へ取り付き、激しい白兵戦の末、門内への乱入に成功した 1。また、慶隆の別働隊は裏木戸を攻撃し、守備兵を撃破して二ノ曲輪へと突入した。
【午前~午後】搦手口の死闘
一方、金森可重が担当した城北の搦手口では、凄惨な戦闘が繰り広げられていた。二重の濠と巨大な堀切、そして城兵の決死の抵抗に阻まれ、金森軍は遅々として前進できない。幾度となく突撃を繰り返すも、その度に多大な死傷者を出し、攻めあぐねる状況が続いた。この時の激戦を物語るように、城の搦手には、討ち取った金森方の兵の首を洗い、実検に供したとされる「首洗い井戸」の伝説が今なお残っている。
【午後】二ノ曲輪の混乱
大手口と搦手口、双方で激戦が続く中、戦況はさらに混乱の度を増す。搦手側で苦戦していた金森軍の一部が、東木戸を破って二ノ曲輪へ進入することに成功した 1。しかし、そこには既に裏木戸を破って突入していた遠藤軍の別働隊がいた。攻城戦の混乱と視界の悪さから、両軍は互いを敵兵と誤認し、しばらくの間、味方同士で斬り合うという悲劇的な事態が発生した 1。
【日没】
やがて同士討ちは収まり、体勢を立て直した遠藤・金森両軍は連合して二ノ門から二ノ丸への攻撃を開始した。しかし、城兵の抵抗は衰えることなく、ついに日は暮れた。一日中続いた猛攻にも城は落ちず、寄せ手は疲労困憊し、それぞれの陣営へと兵を引き揚げていった 1。
九月二日:束の間の和議
一夜明け、慶隆と可重は軍議を開いた。昨日の総攻撃で城の堅固さと城兵の士気の高さを思い知った両将は、これ以上の力攻めは損害を増やすだけだと判断。城中へ軍使を送り、降伏を勧告する方針に切り替えた 1 。城を守る稲葉通孝も、主力の貞通本隊が不在のままでは、いずれ落城は免れないと悟っていた。彼はこの降伏勧告を受け入れ、和議が成立した。慶隆は城兵から人質を取り、吉田川の対岸にある愛宕山に本陣を移した。事実上、戦いは東軍の勝利に終わり、慶隆の長年の悲願である旧領回復は、目前に迫っているかに見えた。
九月三日:稲葉貞通、驚天動地の奇襲
しかし、この合戦は誰もが予測し得なかった劇的な展開を迎える。
貞通の帰還と武士の意地
犬山城にあって八幡城の急報に接した稲葉貞通は、即座に軍を返した。長子の典通や中山城主の稲葉忠次郎らもこれに合流し、三千の兵は郡上目指して強行軍を続けた。そして九月三日未明、ついに八幡城下に到着する 1。そこで貞通が耳にしたのは、城が既に和議を結んだという報告だった。これを聞いた近臣たちは攻撃の中止を進言したが、貞通はそれを一蹴し、こう言い放ったと伝えられる。
「たとえ款(和議)を送ったとしても、目前に敵を見て戦わないということは武名を汚す。敵を討ち破って城を取り戻し、その上で和議を結んでも遅くはない」
この言葉は、貞通の行動が単なる軍事的合理性に基づいたものではないことを示している。西軍の一員として戦うという以上に、一度は敵の手に落ちかけた自らの居城を、己の力で奪い返すという、稲葉家の当主としての名誉と武士としての意地を貫くための行動であった。それは、最終的に東軍に恭順するにせよ、無抵抗の敗将としてではなく、一人の武人として対等な立場で事を収めたいという、彼の矜持の表れであった。
【早朝】愛宕山奇襲
その日の早朝、郡上盆地には深い霧が立ち込めていた 1。和議が成立したことで完全に油断しきっていた愛宕山の遠藤軍本陣に、稲葉勢三千が霧を隠れ蓑にして襲いかかった。勝利の祝杯をあげていたかもしれない遠藤軍は、全くの不意を突かれた。
本陣崩壊と慶隆の脱出
慶隆の本陣は大混乱に陥り、瞬く間に崩壊した。この絶体絶命の危機に、慶隆の忠臣たちが奮戦する。遠藤慶重(長助)、鷲見保義(忠左衛門)、粥川五郎左衛門、粥川小十郎、餌取作助の五人の武士は、慶隆を逃がすための盾となり、壮絶な討死を遂げた 1。彼らの犠牲を祀る「五人塚」は、今も愛宕神社の境内に残されている 3。慶隆自身は、家臣に背負われるなどして辛うじて本陣を脱出し、命からがら吉田川を渡り、小野山に布陣していた娘婿・金森可重の陣へと逃げ延びた 1。
貞通は慶隆を深追いすることはなかった。彼の目的は、敵将の首ではなく、城の奪還にあったからだ。貞通は、追い払った遠藤軍を尻目に、意気揚々と郡上八幡城への入城を果たした。
九月四日:二度目の和議と終結
自らの手で城を取り戻し、武士としての面目を保った稲葉貞通は、翌九月四日、再び遠藤方へ和議の使者を送った 1 。慶隆方もこれ以上戦いを継続する意思はなく、この申し入れを受諾。ここに、数日間にわたって繰り広げられた血で血を洗う攻防戦は、二度目の和議によってようやく完全な終結を迎えたのである。
第三章:戦後の動静と歴史的意義
郡上八幡城での激しい攻防は、関ヶ原の戦いという大局から見れば一局地戦に過ぎない。しかし、その戦後処理は、戦国から江戸へと移行する時代の価値観と、徳川家康の巧みな政治手腕を如実に示している。
慶隆の戦後処理と関ヶ原への道
稲葉貞通との和議が成立すると、遠藤慶隆は休む間もなく次の行動に移った。彼の視線は、もはや八幡城ではなく、郡上領内でもう一つの脅威となっていた同族・遠藤胤直に向けられていた。慶隆は直ちに兵を東濃へ返し、九月五日、西軍に与して上ヶ根の砦に籠る胤直を攻撃した 1 。既に岐阜城が落城寸前であることなど、西軍の不利な戦況を伝えて降伏を促すと、胤直はこれに応じ、砦を明け渡した。これにより、慶隆は郡上郡全域の平定を成し遂げたのである。
一連の戦果を、慶隆は信濃の下諏訪に進軍していた徳川秀忠(家康の嫡男)の軍へ報告した。秀忠は慶隆の功績を賞賛し、感状を送った 1 。その後、慶隆は急ぎ西へ向かい、九月十四日、関ヶ原の本戦を翌日に控えた赤坂(現在の岐阜県大垣市)の徳川家康本陣に到着。家康に直接戦況を報告し、その労をねぎらわれた後、東軍本隊に合流して天下分け目の決戦に臨んだ 1 。
勝者たちの行方 ―論功行賞の謎
九月十五日、関ヶ原の戦いはわずか一日で東軍の圧勝に終わった。戦後、徳川家康による論功行賞が行われ、郡上八幡城を巡って戦った武将たちの運命も決定された。その結果は、単なる勝敗だけでは測れない、極めて政治的なものであった。
慶隆の郡上拝領
東軍として多大な功績を上げた遠藤慶隆は、その執念を実らせた。戦後、正式に郡上郡一円二万七千石を与えられ、念願であった郡上八幡城主の座に返り咲いた。ここに郡上藩が立藩し、慶隆はその初代藩主となったのである。
貞通の加増転封
最も注目すべきは、稲葉貞通の処遇である。彼は西軍に属し、東軍である遠藤軍と激しく戦い、多くの死傷者を出した。通常であれば、改易(領地没収)もしくは減封(領地削減)となってもおかしくない。しかし、家康が下した裁定は意外なものであった。貞通は罪を問われるどころか、一万石を加増された上で、豊後国臼杵(現在の大分県臼杵市)五万石への転封を命じられたのである。
この一見不可解な処遇の背景には、いくつかの要因が考えられる。第一に、第二章で考察したように、貞通の奇襲攻撃が「武士の面目を保つための儀礼的な戦闘」であったこと。彼は最終的に東軍に恭順する意思を示しており、その意地を貫いた行動が、かえって家康に武人として評価された可能性がある。第二に、東軍の有力武将である福島正則らが、旧友である貞通のために家康へ強力な仲介を行ったこと 1 。そして第三に、家康自身のプラグマティズム(実用主義)である。頑固だが有能な武将である貞通を罰して敵に回すよりも、恩賞を与えて味方として取り込み、新たな支配体制の安定に利用する方が得策だと判断したのだろう。貞通の加増転封は、彼の武威を認めつつも、政治的に不安定な美濃の地から遠ざけるという、絶妙な政治判断の結果であった。
胤直の改易
一方で、最後まで西軍としての立場を崩さなかった遠藤胤直の運命は過酷であった。彼の岳父である金森長近(可重の父)が家康に助命を嘆願したものの、聞き入れられることはなく、所領は全て没収された。同じ遠藤一族でありながら、時勢の読みと立ち回り方の違いが、その後の家運を大きく分ける結果となった。
合戦が残した史料と伝説
この激しい戦いの記憶は、二つの対照的な史料によって後世に伝えられている。一つは、勝者である遠藤家の視点から編纂された軍記物『遠藤記』である。そしてもう一つが、敗者となった稲葉家の視点から描かれた『郡上八幡城合戦絵図』(通称『濃州郡上合戦図』)である。この絵図は、稲葉氏の転封先である大分県臼杵市の教育委員会に現存しており、城の構造や攻防の様子を視覚的に伝えている。両者を比較検討することで、合戦の姿をより立体的に浮かび上がらせることができる。
また、郡上八幡城とその周辺には、今も戦いの痕跡が色濃く残る。「首洗い井戸」や「五人塚」といった史跡は、この地で繰り広げられた死闘の激しさと、そこに生きた人々の物語を静かに語り継いでいる。
結論:郡上八幡城の戦いが語るもの
慶長五年九月、美濃国郡上郡で繰り広げられた郡上八幡城の戦いは、関ヶ原の戦いという巨大な歴史の転換点において、一地方で発生した局地戦であった。しかし、その内実を深く掘り下げると、この戦いが単なる城の争奪戦に留まらない、戦国末期のダイナミズムを凝縮した象徴的な出来事であったことがわかる。
この戦いは、まず第一に、旧領回復という一点に全てを賭けた武将・遠藤慶隆の「執念」の物語である。豊臣秀吉によって奪われた故郷を取り戻すという彼の個人的な悲願は、天下分け目の大乱という好機を得て、ついに成就された。彼の行動は、戦国武将が土地といかに強く結びついていたか、そしてその執着が時として歴史を動かす原動力となり得ることを示している。
第二に、稲葉貞通が見せた行動は、武士としての「意地」と「名誉」が、単純な勝ち負けや政治的利害を超えて重要視された時代の価値観を浮き彫りにする。一度は和議を結びながら、あえてそれを覆して実力で城を奪還し、その上で再び和議を結ぶという彼の行動は、現代的な合理性では測れない。しかし、それは自らの武名を汚さず、家の誇りを守り抜くための、彼なりの儀式であった。そして、その「意地」が徳川家康に評価され、意外な結果を招いたことは、戦国から江戸へと移行する過渡期における、複雑な論功行賞の実態を物語っている。
最後に、遠藤慶隆、稲葉貞通、そして遠藤胤直という三者三様の結末は、乱世を生き抜くための「戦略」と「駆け引き」の重要性を我々に教えてくれる。時勢を読み、大義と実利を天秤にかけ、時には個人的な感情を乗り越えて決断を下す。慶隆の執念が実を結び、貞通の意地が意外な活路を開き、胤直が時勢に乗り遅れ没落した様は、戦国の世を生きた武将たちのリアルな姿そのものである。
郡上八幡城の一戦は、関ヶ原という巨大な歴史の歯車を動かした、無数の小さな、しかし熱く激しい人間ドラマの一つとして、記憶されるべき戦いである。
引用文献
- 八幡城の合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E5%90%88%E6%88%A6
- 徳川方と豊臣方の争いになると、遠藤慶隆は徳川家康に従うことを約束し、郡上 https://userweb.mmtr.or.jp/gil9243/YKhome/eytkou.htm
- 美濃 郡上愛宕山遠藤慶隆陣所 八幡城と相対する遠藤氏の陣所址 ... http://kyubay46.blog.fc2.com/blog-entry-464.html