最終更新日 2025-09-07

都之城(都城)の戦い(1587)

都之城の戦い(1587年):九州の覇権と天下統一の狭間で

序章:九州の覇者、天下人に挑む

天正15年(1587年)、日向国(現在の宮崎県)都之城をめぐる一連の出来事は、単なる一地方の城の攻防戦として語ることはできない。それは、戦国乱世の最終局面において、自力で九州の覇権を握らんとした島津氏と、天下統一を目前にした豊臣秀吉との間に繰り広げられた、軍事的、政治的、そして時代の価値観そのものを賭けた壮大な衝突の一幕であった。この「戦い」の真相を理解するためには、まずその背景にある九州の情勢と、二人の傑物の対峙に至るまでの経緯を解き明かす必要がある。

1. 天正15年(1587年)までの九州情勢:三強鼎立から島津の覇権へ

16世紀後半の九州は、長きにわたり三つの大勢力が覇を競う動乱の時代であった。北部に豊後国を本拠地とするキリシタン大名・大友氏、西部に肥前国を拠点に急速に台頭した龍造寺氏、そして南部に薩摩国を根城とする島津氏である 1 。この三強鼎立の均衡を打ち破り、九州統一に最も近づいたのが島津氏であった。

島津氏は、鎌倉以来の名門であり、中興の祖と称される島津貴久の代に薩摩統一を成し遂げた 2 。その跡を継いだのが、嫡男で総帥の島津義久、武勇に優れた次男・義弘、知略に長けた三男・歳久、そして戦術の天才と謳われた四男・家久という、歴史上稀に見る結束力と能力を誇る兄弟であった 2 。彼らは父の悲願であった三州(薩摩・大隅・日向)統一を成し遂げると、その矛先を九州全土へと向けた。

天正6年(1578年)、島津氏は日向国高城川(耳川)において、南下してきた大友宗麟率いる大軍を迎え撃つ。この「耳川の戦い」において、島津家久らの奮戦と巧みな戦術により大友軍を壊滅させ、北九州の雄であった大友氏を衰退へと追い込んだ 1 。さらに天正12年(1584年)には、肥前の龍造寺隆信が島原半島に侵攻すると、島津家久を大将とする寡兵をもってこれを「沖田畷の戦い」で撃破し、龍造寺隆信本人を討ち取るという大金星を挙げた 3

二大勢力を事実上無力化した島津氏は、九州のほぼ全域を手中に収めつつあり、その覇権はまさに確立寸前の状況にあった 2

2. 豊臣秀吉の「惣無事令」と島津氏の反発

時を同じくして、中央では織田信長の後継者として天下統一事業を推し進めていた豊臣秀吉が、関白の地位に就き、その権威を確立していた 6 。秀吉は天正13年(1585年)、天皇の権威を背景として、全国の大名に対し私的な合戦を禁じる「惣無事令」を発布した 7 。これは、戦国時代を通じて続いてきた実力主義の論理を否定し、豊臣政権を中心とする新たな中央集権的秩序を全国に強制するものであった。

この命令は、島津氏の侵攻によって滅亡の危機に瀕していた大友宗麟にとっては、まさに渡りに船であった。宗麟はすぐさま大坂城の秀吉に謁見し、その保護下に入ることで命脈を保とうとした 9 。しかし、破竹の勢いで九州統一を目前にしていた島津義久にとって、この命令は到底受け入れられるものではなかった。彼らにとっては、自らの武力で切り開いてきた道を、出自も定かではない成り上がり者と見なしていた秀吉に差配されること自体が屈辱であり、内政への不当な干渉と映ったのである 7 。結果、島津氏は惣無事令を公然と無視し、大友領への侵攻を継続した 9

この島津氏の態度は、単なる状況判断の誤りや驕りから来るものではない。それは、己の実力こそが正義であるという戦国乱世の価値観と、中央の権威による秩序を再構築しようとする豊臣政権の価値観との、根本的な衝突を象徴する出来事であった。島津氏からすれば、源頼朝以来の名門としての誇りが、秀吉の命令を拒絶させた 2 。一方で秀吉にとって、この公然たる反抗は、自らが築き上げつつある天下の秩序への明確な挑戦であり、これを武力で討伐することは、自らの絶対的な権威を全国の大名に示すための絶好の機会となった 9 。九州平定は、もはや単なる領土紛争の仲裁ではなく、新しい時代の支配者が古い時代の覇者にその力を知らしめる、象徴的な意味合いを持つ戦いへと昇華したのである。

3. 九州平定の号令:空前の大軍、西へ

島津氏の反抗を受け、秀吉は九州征伐の決意を固める。天正14年(1586年)、まず毛利輝元、吉川元春、小早川隆景といった中国地方の軍勢を先鋒隊として九州へ派遣した 9 。そして翌天正15年(1587年)3月1日、秀吉は自ら総大将として、総勢20万とも25万ともいわれる空前の大軍を率いて大坂城を出陣した 2 。この軍事行動は、天下統一事業の総仕上げであると同時に、その先に見据える朝鮮半島への出兵をも視野に入れた、国家規模の壮大なデモンストレーションであった 12 。九州の覇者・島津氏は、今や天下人そのものを敵に回すこととなったのである。

第一章:二正面作戦の開始 ― 豊臣軍、日向へ

九州に上陸した豊臣軍は、島津氏の息の根を確実に止めるべく、周到に練られた全体戦略に基づき行動を開始した。その鍵となったのが、島津軍の戦力を分散させ、各個撃破を狙う大規模な二正面作戦であった。

1. 豊臣軍の全体戦略:秀吉本隊の西路と、秀長軍の東路

天正15年3月25日、赤間関(現在の下関市)に到着した秀吉は、ここで最終的な軍議を開き、全軍を二手に分けることを決定した 13

第一軍は、秀吉自らが総指揮を執る本隊である。小倉に上陸後、筑前、筑後、肥後といった九州の西側を南下し、島津氏の本拠地である薩摩の心臓部を直接衝くルートを進んだ 9

第二軍は、秀吉が最も信頼を置く異父弟・豊臣秀長を総大将とする、10万にも及ぶ大軍であった。こちらは豊後国から日向国へと南下し、九州の東側から島津領を制圧していく東ルートを進軍する役割を担った 9

この二正面作戦は、島津軍の得意とする戦術を封じる上で極めて効果的であった。島津の強みは、精強な兵力を一点に集中させ、奇襲や伏兵といった戦術(釣り野伏せなど)を駆使して敵を撃破する機動戦にあった。しかし、西と東から同時に大軍が迫る状況では、兵力をどちらの方面に集中させるかという困難な選択を迫られる。どちらか一方に対応すればもう一方が手薄になり、兵力を分散させればどちらの戦線も支えきれなくなる。豊臣軍の挟撃作戦は、島津軍の選択肢を奪い、広大な防衛線で引き伸ばされた状態での消耗戦を強いる、まさに必勝の戦略だったのである。

2. 豊臣秀長軍(日向方面軍)の編成:歴戦の武将たち

都之城が直接対峙することになったのは、豊臣秀長が率いる日向方面軍であった。この軍は単なる別動隊ではなく、豊臣政権の精鋭を結集した「第二の本隊」とも言うべき陣容を誇っていた。

総大将の豊臣秀長は、秀吉の弟というだけでなく、天正13年の四国征伐では総大将として長宗我部元親を降伏させるなど、大軍の指揮経験も豊富な当代屈指の名将であった 15 。彼の冷静沈着な指揮と人徳は、多くの武将から信頼を集めていた。

その配下には、秀吉の懐刀として知られる軍師・黒田孝高(官兵衛)が軍監として従軍し、全体の戦略を補佐した 9 。さらに、中国地方の雄・毛利輝元と、その叔父で「毛利両川」と称された智将・小早川隆景、備前の若き大名・宇喜多秀家といった豊臣政権の中核をなす大名たちが、それぞれ大部隊を率いて参陣していた 9 。先鋒には、元比叡山の僧侶という異色の経歴を持ちながら勇将として知られる宮部継潤や、築城の名手としても名高い藤堂高虎といった実力派の武将が名を連ねていた 16

【表1:豊臣秀長軍(日向方面軍)の主要武将一覧】

役職

武将名

兵力(推定)

主な経歴・役割

総大将

豊臣秀長

約100,000

秀吉の弟。四国征伐総大将。政務・軍事両面で秀吉を支える。

軍監

黒田孝高

-

秀吉の筆頭軍師。戦略立案と戦況分析を担当。

主力部隊

毛利輝元

約30,000

中国地方の雄。豊臣政権の有力大名。

主力部隊

小早川隆景

約15,000

毛利両川の一人。智謀に長け、軍事経験豊富。

主力部隊

宇喜多秀家

約10,000

備前の大名。秀吉の養子格。

先鋒部隊

宮部継潤

不明

元比叡山の僧侶。秀吉配下の勇将で、後の根白坂で活躍。

先鋒部隊

藤堂高虎

不明

築城の名手。秀長配下の実力派武将。

この陣容は、島津氏が日向方面で直面した脅威が、単なる兵数の差だけでなく、将の質、戦略、組織力においても圧倒的であったことを物語っている。

3. 日向侵攻の開始:防衛線の崩壊

天正15年3月、準備を整えた秀長軍は、ついに日向への侵攻を開始した 13 。その進軍速度は凄まじく、圧倒的な物量の前に、島津方が築いていた防衛線は為すすべもなく崩壊していく。

3月15日、豊後府内にまで進出していた島津義弘・家久の軍は、秀長軍の接近を知り、日向への戦略的撤退を開始した 13 。3月20日には日向の都於郡城に集結し、義久も交えて軍議を開き、防衛体制の立て直しを図った 13 。しかし、豊臣軍の勢いはそれを許さなかった。3月29日には、日向北部の要衝である松尾城が陥落 19 。島津方の諸城は、次々と陥落するか、あるいは戦わずして降伏するしかなかった。日向の戦況は、開戦からわずかひと月足らずで、島津にとって絶望的なものとなっていた。

第二章:日向の雌雄を決す ― 根白坂の死闘

日向の防衛線が次々と突破される中、豊臣秀長軍は南部の最重要拠点・高城へと迫った。この地で、九州の覇権を賭けた事実上の決戦が行われることになる。

1. 戦略拠点「高城」の包囲

天正15年4月6日、豊臣秀長軍は日向南部の要衝・高城を完全に包囲した 13 。高城は、かつて島津氏が耳川の戦いで大友氏の大軍を破った栄光の地であり、島津にとっては聖地とも言える場所であった 1 。この因縁の地を、今度は10万という圧倒的な大軍で包囲したのである。

この絶望的な状況下で高城を守っていたのは、島津軍屈指の猛将として知られる山田有信であった。彼が率いる兵は、寄騎(援軍)を合わせてもわずか1,500程度。文字通り桁違いの兵力差の中、有信は徹底抗戦の構えを見せ、壮絶な籠城戦が始まった 13

2. 島津軍の決断:起死回生の総力戦

高城が持ちこたえている間に、島津首脳部は都於郡城で最後の決断を迫られていた。高城は日向における最後の防衛拠点であり、ここを失えば薩摩・大隅への道が完全に開かれてしまう。また、このまま時間をかければ、西から進軍する秀吉本隊が薩摩に到達し、挟撃されて全滅する未来は明らかであった。

この危機的状況を打開するため、島津義久は一大決断を下す。義弘、家久ら弟たちと共に、動員可能な全兵力約3万5千を率いて都於郡城から出陣し、高城を包囲する秀長軍の背後を突くという、起死回生の総力戦に打って出たのである 11 。これは、島津にとって九州の覇権を賭けた最後の大きな賭けであった。正面からの決戦では勝ち目がないことを承知の上で、局地的な勝利によって豊臣軍に一撃を加え、戦況を膠着させ、少しでも有利な条件での和睦に持ち込む以外に、島津家が存続する道はないと判断したのである。

3. 根白坂の攻防:【時系列解説】天正15年4月17日

【戦いの前夜】

島津軍の救援行動は、百戦錬磨の豊臣秀長や黒田官兵衛にとって完全に想定内であった。秀長は、島津軍が高城へ向かう際に必ず通過しなければならない、高城の南方に位置する根白坂に、あらかじめ万全の迎撃態勢を整えていた。坂の各所に砦を築き、大量の鉄砲隊を配置するなど、陣地を要塞化して島津軍を待ち構えていたのである 11。

【4月17日 夜半】

島津軍は、一縷の望みを託し、お家芸ともいえる夜襲を敢行した。闇に紛れて根白坂の豊臣軍陣地へ全軍で突撃を開始する 11。薩摩隼人の勇猛さをもって敵陣を混乱させ、一気に突破しようという狙いであった。

【戦闘開始~夜明け】

しかし、島津軍を待ち受けていたのは、周到に準備された豊臣軍の迎撃網であった。島津軍の突撃は、堅固な砦と柵、そして一斉に火を噴く数千丁の鉄砲によって阻まれた。特に、宮部継潤が率いる部隊は、島津軍の最も激しい攻撃を正面から受け止めながら一歩も引かず、逆に押し返すという目覚ましい奮戦を見せた 16。島津軍の奇襲は完全に失敗し、逆に計算され尽くした豊臣軍の罠に自ら飛び込む形となった。

【敗走】

夜明けまで続いた激戦の末、勝敗は決した。島津軍は島津忠隣をはじめとする多くの有力武将を失い、軍は総崩れとなった。義久、義弘らはわずかな手勢とともに、命からがら都於郡城へと敗走した 11。

4. 戦いの帰結:戦国最強軍団の敗北

根白坂での完敗は、単なる一戦闘の敗北以上の、決定的な意味を持っていた。それは、戦国時代を通じて最強と謳われた島津軍団の伝統的な戦術が、完全に破綻した瞬間であった。

島津の強さは、個々の兵の比類なき勇猛さと、奇襲や「釣り野伏せ」に代表される、敵の意表を突く巧みな戦術にあった 20 。しかし、秀長軍は島津の戦術を事前に研究・予測し、それを無力化するための物理的な陣地(砦や柵)と、それを支える圧倒的な物量(鉄砲)を用意していた 11 。これは、個人の武勇や局地的な戦術の巧みさが戦争の勝敗を決した時代から、兵站、情報、組織力、そして経済力といった総合的な国力が勝敗を決する新しい時代への、明確な転換点を象徴する戦いであった。

この歴史的な敗北により、島津氏による組織的な抵抗は事実上終焉を迎えた 11 。総大将である島津義久は、もはや降伏以外の選択肢を完全に失ったのである 24

第三章:都之城、開城の刻 ― 抵抗から恭順へ

根白坂での主力の壊滅は、日向各地に残る島津方の諸城の運命を決定づけた。その中でも、南日向の政治・軍事の中心であった都之城の動向は、九州平定の最終局面を象徴する出来事となった。

1. 都之城の戦略的価値と城主・北郷氏

都之城は、日本最大の荘園であった「島津荘」発祥の地という歴史的象徴性を持ち、豊かな都城盆地を支配する南九州の要であった 25 。この地を拠点としていたのが、島津一門の中でも特に武勇に優れ、半ば独立した勢力として知られていた北郷氏である 25

当時の当主は、老練な北郷時久と、その嫡男で勇将の誉れ高い北郷忠虎であった 29 。彼らは島津本家と共に数々の戦いを潜り抜け、周辺の伊東氏などの勢力を駆逐して、自らの力で庄内(都城盆地)を統一したという強い自負を持つ一族であった 25 。彼らにとって都之城は、単なる居城ではなく、一族の誇りと栄光の象徴そのものであった。

2. 【時系列解説】都之城開城までのプロセス(推定:天正15年4月下旬~5月上旬)

「都之城の戦い」とは、石垣をめぐる物理的な戦闘ではなく、情報、権威、そして主家への忠誠心が交錯する中で、一つの城が降伏へと至るまでの政治的なプロセスそのものであった。

【4月17日以降】絶望の報

根白坂における島津本隊の壊滅的な敗北という知らせは、都之城に籠る北郷氏に計り知れない衝撃を与えた。これにより、籠城を続けたとしても外部からの救援は絶望的であり、城は完全に孤立したことが明らかになった。

【4月下旬】豊臣軍の威圧

根白坂を突破した秀長軍の先鋒部隊は、破竹の勢いで南日向へと進軍した。豊臣秀次(秀吉の甥)の軍勢が、都之城からもほど近い三ツ山や野尻の岩牟礼城まで侵攻したという情報は、都之城に直接的かつ強烈な軍事的圧力を加えた 11。城の周囲は、すでに豊臣の大軍によって制圧されつつあった。

【北郷氏の抵抗と苦悩】

このような絶望的な状況にあっても、北郷時久・忠虎親子は、当初、都之城に拠って最後まで抵抗する姿勢を見せた 31。これは、島津一門としての意地と、戦わずして先祖代々の本拠地を明け渡すことへの強い抵抗感の表れであった。彼らは、自らの武勇を尽くして城を枕に討死することも覚悟していたと考えられる。

【島津本家からの降伏命令】

しかし、彼らが戦う道は、敵ではなく味方によって閉ざされる。根白坂の敗戦後、島津義久は豊臣方との和睦交渉を開始し、4月21日には人質を差し出して秀長に恭順の意を示した 13。そして天正15年5月8日、義久は自ら剃髪して僧形となり、薩摩川内の泰平寺に陣取る秀吉本人の前に出て、正式に降伏した 7。この過程で、義久から島津氏の全家臣団に対し、豊臣軍への一切の抵抗を停止し、城を明け渡すよう厳命が下された。

【降伏の決断と開城】

島津氏の統制下において、「本家の命」は絶対であった。北郷氏は、自らの誇りをかけて戦う道が主君によって断たれたことを知り、苦渋の決断を下す。一説には、秀吉が時久の武勇を惜しみ、子の忠虎に書状を送って降伏を勧告したとも伝わっており、これも彼らが面目を保ちつつ降伏する一助となったのかもしれない 32。最終的に、北郷氏は本家の命令に従い、都之城の城門を開いた 31。

こうして、南九州の堅城・都之城は、大規模な攻城戦が行われることなく、無血で開城した。この一連の出来事こそが、「都之城の戦い」の真の姿である。それは、北郷氏の葛藤に象徴されるように、戦国武士が自らの実力と誇りで運命を切り開く時代が終わり、巨大な中央政権の政治秩序の中に組み込まれていく過程そのものであった。

第四章:戦後の秩序 ― 新たな支配体制の構築

島津義久の降伏により、豊臣秀吉による九州平定は事実上完了した。戦後、秀吉は九州に新たな支配体制を構築するための「国分(くにわけ)」、すなわち領土の再編に着手する。都之城と北郷氏の運命も、この大きな政治的再編の波に呑み込まれていくことになった。

1. 九州平定の完了と秀吉による「九州国分」

天正15年6月7日、秀吉は筑前箱崎(現在の福岡市)に陣を構え、九州の諸大名に対する戦後処理を発表した 13 。これが「九州国分」である。

最大の焦点であった島津氏に対しては、その命脈を保つことは許されたものの、領地は大幅に削減された。九州のほぼ全土を支配下においていた島津氏の所領は、本拠地の薩摩と大隅、そして日向国諸県郡のみに限定され、それまで切り従えてきた領土の大部分を没収された 7 。これは、島津氏の力を削ぎ、二度と豊臣政権に刃向かうことができないようにするための措置であった。

2. 都之城の運命:北郷氏の転封と伊集院忠棟の入城

九州平定に際し、最後まで抵抗の意思を見せながらも主家の命に従い降伏した北郷氏は、一旦はその所領を安堵された 25 。しかし、その安堵は長くは続かなかった。

文禄4年(1595年)、太閤検地の実施後、秀吉は突如として北郷氏に対し、先祖代々の本拠地である都之城を離れ、薩摩国祁答院(現在の鹿児島県さつま町周辺)へと領地を移すよう命じた(転封) 8

そして、主を失った都之城に新たな領主として入城したのは、伊集院忠棟であった 8 。伊集院忠棟は島津家の筆頭家老という重臣でありながら、九州平定の際にはいち早く秀吉との和睦交渉の窓口となり、豊臣政権と個人的に強い繋がりを築いていた人物であった。

3. 新たな火種:「庄内の乱」への伏線

この一連の人事は、単なる戦後処理や領地再編に留まらない、秀吉による極めて巧妙かつ冷徹な大名統制策であった。秀吉は、島津氏の強さが、本家と北郷氏のような有力一門との固い結束にあることを見抜いていた。そこで、在地に強い影響力を持つ北郷氏をその土地から物理的に引き剥がし、代わりに中央政権である豊臣と直結する家臣・伊集院忠棟を配置したのである。これは、島津本家の領国支配の心臓部に、楔を打ち込むに等しい行為であった 8

伊集院忠棟は、秀吉から直接朱印状を与えられるなど、島津家臣でありながら準大名のような特別な扱いを受けており、その権勢は島津本家を脅かすほどになっていた 36 。彼を都之城に入れることは、島津家内に豊臣政権の代理人を置き、内部からその統制を弱体化させる狙いがあった。

この措置は、案の定、島津家内に深刻な権力闘争と不信感の種を蒔くことになった。伊集院氏の増長を快く思わない島津義弘の子・忠恒(後の家久)との対立は、日増しに深刻化していく。そしてこの対立は、慶長4年(1599年)、忠恒による伊集院忠棟の暗殺という形で爆発する。父を殺された子の伊集院忠真は、都之城に立てこもって島津本家に反旗を翻した。これが、島津家中最大の内乱とよばれる「庄内の乱」である 25

秀吉が仕掛けた「時限爆弾」は、彼の死後に爆発した。この内乱は、天下分け目の関ヶ原の戦いの直前に島津家の国力を大きく疲弊させ、島津義弘が関ヶ原へわずかな兵力しか率いていけなかった遠因の一つとなったのである 37 。都之城をめぐる戦後の処遇は、遠く関ヶ原の戦いにまで影響を及ぼす、壮大な伏線となっていた。

結論:九州平定における都之城制圧の歴史的意義

天正15年(1587年)の「都之城の戦い」は、その名が示唆するような激しい攻城戦があったわけではない。しかし、豊臣秀吉による九州平定という歴史的事業において、極めて重要な意義を持つ出来事であった。

第一に、この一件は**「戦い」の概念そのものを再定義**した。都之城の開城は、物理的な武力の衝突によってではなく、根白坂での決定的敗北という情報、そして主家からの降伏命令という絶対的な権威によって決着した。これは、在地領主の抵抗と最終的な恭順の過程を描き出す、一つの象徴的な「政治戦」であった。

第二に、都之城の無血開城と、その前提となった根白坂での島津軍の敗北は、 戦国時代の終焉を告げる鐘の音 であった。個々の武士の勇猛さや奇襲戦法といった旧来の戦術が、情報力、組織力、そして圧倒的な物量で勝る豊臣政権の「近代的な」軍事力の前に無力化されたのである。これは、一地方勢力が自らの武力で覇を唱える時代が終わり、巨大な中央政権による統一的な秩序の時代が到来したことを、九州の地で明確に示した出来事であった。

第三に、戦後処理における秀吉の采配、特に北郷氏を転封させ伊集院忠棟を都之城に入れた人事は、 未来への巧みな布石 であった。これは単なる領地再編ではなく、島津家の内部に深刻な亀裂を生み出す「時限爆弾」を仕掛けるに等しい、冷徹な分断統治策であった。この措置が後の「庄内の乱」を引き起こし、島津家の国力を削いだことは、豊臣政権の巧みで恐るべき大名統制策の好例として、歴史に深く刻まれている。

付録

九州平定・日向方面作戦 時系列表(天正15年/1587年)

【表2:九州平定・日向方面作戦 時系列表(天正15年/1587年)】

年月日

豊臣軍(秀長軍)の動向

島津軍の動向

関連事項

3月

豊後より日向へ侵攻開始

豊後より撤退、都於郡城で軍議 (3/20)

秀吉本隊、小倉上陸 (3/29)

3月29日

日向北部の松尾城を陥落

防衛線の後退

-

4月6日

日向南部の要衝・高城を包囲

義久ら、都於郡城から救援に出陣

-

4月17日

根白坂にて島津軍を迎撃、撃破

根白坂にて夜襲を敢行するも大敗

日向方面の戦いの趨勢が決まる

4月21日

秀長、義久からの和睦交渉を受諾

義久、人質を出し和睦を申し入れる

秀吉本隊、肥後八代に到着 (4/19)

4月下旬

都之城を含む南日向の諸城へ進軍

北郷氏、抵抗を試みるも孤立

-

5月上旬

-

北郷氏、本家の命により都之城を開城

-

5月8日

秀吉、川内・泰平寺にて義久の降伏を受理

島津義久、剃髪し秀吉に正式降伏

九州平定、事実上の完了

5月19日

秀長、義弘の降伏を受理

島津義弘、飯野城を開城し降伏

-

6月7日

秀吉、箱崎にて九州国分を発表

-

島津氏は薩摩・大隅・日向一部に減封

引用文献

  1. 九州三国志 ~九州の戦国時代~ https://kamurai.itspy.com/nobunaga/9syu3gokusi.htm
  2. 島津義久の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/98845/
  3. 島津義弘の年譜、活路を無理矢理こじ開けて乱世を生き抜く - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2023/01/28/064011
  4. 島津義久~九州制覇を目指した島津四兄弟の長男 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4690
  5. 武がしめすもの - -都城島津家史料にみる「武」 https://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/uploaded/attachment/17002.pdf
  6. www.touken-world.jp https://www.touken-world.jp/tips/11100/#:~:text=%E3%80%8C%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%AD%BB%E5%BE%8C%E3%80%81,%E3%82%92%E9%99%8D%E4%BC%8F%E3%81%95%E3%81%9B%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
  7. No.161 「豊臣秀吉の九州平定と熊本城&本丸御殿」 - 熊本県観光連盟 https://kumamoto.guide/look/terakoya/161.html
  8. 豊臣政権と都城 - 宮崎県都城市ホームページ https://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/site/shimazu/9101.html
  9. 【秀吉の九州出兵】 - ADEAC https://adeac.jp/yukuhashi-city/text-list/d100010/ht2040100010
  10. 島津義久は何をした人?「雑なウソでひきこもって家康から九州の領地を守った」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yoshihisa-shimadzu
  11. 根白坂の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E7%99%BD%E5%9D%82%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  12. 文禄・慶長の役 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
  13. 1587年 – 89年 九州征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1587/
  14. 大 和郡 山城 http://www.tokugikon.jp/gikonshi/304/304shiro.pdf
  15. 豊臣秀長:歴史の影に輝く、もう一人の「天下人」 - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/toyotomihidenaga/
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  18. 歴史の目的をめぐって 豊後国[国] https://rekimoku.xsrv.jp/6-timei-28-bungonokuni.html
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  24. 九州の役、豊臣秀吉に降伏 - 尚古集成館 https://www.shuseikan.jp/timeline/kyushu-no-eki/
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  27. 都 城 市 https://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/uploaded/attachment/9718.pdf
  28. 日向 都之城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/hyuuga/miyakono-jyo/
  29. 北郷時久 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%83%B7%E6%99%82%E4%B9%85
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  31. 11代 北郷忠虎(ほんごうただとら) 1556~1594 - 宮崎県都城市 ... https://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/site/shimazu/36616.html
  32. 武家家伝_北郷氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/s_hongo.html
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  34. 12代 北郷忠能(ほんごうただよし) 1590~1631 - 宮崎県都城市ホームページ https://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/site/shimazu/36617.html
  35. 都之城 月山日和城 松尾城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/kyushu/miyakonojousi.htm
  36. 都城(宮崎県都城市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/9497
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  38. 庄内の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%84%E5%86%85%E3%81%AE%E4%B9%B1
  39. 都城の見所と写真・200人城主の評価(宮崎県都城市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/596/