都於郡城の戦い(1587)
九州平定における「都於郡城の戦い」―戦略的帰結としての無血開城―
序章:落日の覇者、昇竜と対峙す
天正15年(1587年)、日向国都於郡城で起こった一連の事象は、通俗的には「都於郡城の戦い」として知られる。しかし、この出来事の本質を理解するためには、単一の城を巡る攻防としてではなく、九州全土の覇権を賭けた巨大な戦略のうねりの中に位置づけ、その必然的な帰結として捉え直す必要がある。それは、九州統一を目前にした地方の覇者・島津氏と、天下統一を成し遂げんとする中央の昇竜・豊臣秀吉との、軍事力、戦略思想、そして政治的権威のすべてを懸けた衝突の縮図であった。
九州統一の夢と現実
天正14年(1586年)の時点で、薩摩の島津氏は、その勢威の絶頂にあった。耳川の戦いで豊後の大友氏を、沖田畷の戦いで肥前の龍造寺氏を破り、九州の三大勢力はその均衡を完全に失っていた 1 。島津の軍勢は破竹の勢いで北進を続け、九州の統一はもはや時間の問題であるかに見えた。しかし、この急激な勢力拡大こそが、中央政権の介入を招く最大の要因となる。島津の圧迫に耐えかねた大友宗麟が、関白・豊臣秀吉に臣従し、救援を求めたことで、九州の運命は大きく転換する 1 。
秀吉は天正13年(1585年)、関白の権威をもって九州の諸大名に停戦を命じる「九州停戦令」を発した 1 。これは、武力によらず、中央の権威によって地方の秩序を再編しようとする秀吉の天下人としての方針を示すものであった。しかし、九州の大半を実力で手中に収めつつあった島津氏にとって、この命令は到底受け入れがたいものであった。家中の激しい議論の末、島津義久は現状の圧倒的優位を無視した秀吉の国分案を「神意」を理由に拒否し、九州統一戦を続行する道を選ぶ 1 。ここに、地方の実力主義と中央の政治的権威が正面から衝突し、大規模な軍事介入は不可避となったのである。
日向の要衝・都於郡城
この来るべき決戦において、島津氏が日向方面の戦略拠点として最も重視したのが都於郡城であった。この城が持つ意味は、単なる軍事拠点に留まらない、多層的な重要性にあった。
第一に、それは「日向支配の正統性」を象徴する城であった。都於郡城は、南北朝時代に伊東祐持によって築かれて以来、約240年にわたり日向国に君臨した伊東氏の本拠地であり、最盛期には「伊東四十八城」と称される支城網の中核を成していた 2 。島津氏が天正5年(1577年)に激しい攻防の末、伊東義祐を豊後へ追放してこの城を奪取したことは、日向の新たな支配者が誰であるかを内外に宣言する、極めて象徴的な出来事であった 3 。九州平定という存亡の機において、島津義久が弟の義弘、家久らと軍議を開き、方面軍の司令部を置いたのは、この城が持つ政治的権威を拠り所としたからに他ならない 1 。
第二に、その地理的・構造的特徴がもたらす軍事的優位性である。標高約100メートルのシラス台地の突端に築かれたこの城は、遠くから眺めるとあたかも舟が浮いているように見えたことから、「浮舟城」という雅名で呼ばれた 8 。南九州特有のシラス台地は、火山噴出物が堆積してできたもので、加工が容易でありながら、一度削り取ると垂直に近い急峻な崖を形成する特性を持つ 2 。都於郡城の築城者はこの特性を最大限に活用し、本丸と二ノ丸の間には深さ10メートル以上、長さ100メートルにも及ぶ巨大な空堀を穿ち、各曲輪の側面は切り立った切岸となって、敵の接近を物理的に阻んだ 2 。それは、石垣を用いずとも、自然地形を巧みに利用することで鉄壁の防御力を実現した、中世山城の傑作であった 2 。
島津氏にとって都於郡城とは、軍事的には日向方面軍の兵力集結地であり、政治的には日向支配の正当性を担保する象徴であった。故に、この城の運命は、単なる一城の存亡に留まらず、日向における島津支配体制そのものの崩壊を意味することになるのである。
第一部:二つの奔流 ― 豊臣軍、九州を席巻す
天正15年(1587年)春、豊臣秀吉が発動した九州平定作戦は、単なる兵力による圧殺ではなく、周到に計画された二正面作戦であった。東から弟・秀長率いる方面軍が、西から秀吉自ら率いる本隊が、二つの巨大な奔流となって九州を席巻し、島津氏を戦略的劣勢へと追い込んでいった。
第一章:秀長の東征 ― 日向への道
秀吉は、九州の東半分、すなわち豊後・日向方面の攻略を、最も信頼する弟・豊臣秀長に委ねた。その軍容は、総大将・秀長の下に、軍監として黒田孝高、そして毛利輝元、小早川隆景、吉川元長ら毛利勢、宇喜多秀家ら山陽・山陰の諸将を加えた、総勢10万ともいわれる未曾有の大軍であった 1 。これに対する島津軍の総兵力は最大でも5万程度とされ、その兵力差は絶望的であった 1 。
天正15年3月、豊前小倉に上陸した秀長軍は、豊後へと進撃を開始する。これに対し、豊後府内などに展開していた島津義弘・家久の軍は、圧倒的な兵力差の前に正面からの決戦を避け、戦略的撤退を選択せざるを得なかった 1 。大友方の佐伯惟定らの追撃を受け、損害を出しながらも日向へと後退した義弘らは、3月20日、都於郡城にて当主・義久と合流し、防衛方針を協議する 1 。
秀長軍は島津軍を追って日向へ入り、4月6日には日向北部の要衝・高城を包囲した 1 。しかし、秀長は堅城である高城を無理に力攻めしようとはしなかった。城を十重二十重に囲んで兵糧攻めにしつつ、その真の狙いは別にあった。高城を「餌」として、都於郡城に集結している島津軍主力を救援におびき出し、野戦にてこれを殲滅すること。これこそが秀長の描いた戦略であった。その布石として、彼は島津軍が高城救援に向かう際に必ず通過するであろう要衝・根白坂に、あらかじめ砦を築かせ、空堀や板塀で徹底的に要塞化し、宮部継潤らの精鋭部隊を配置して万全の迎撃態勢を整えていた 6 。決戦の舞台は、豊臣軍によって周到に準備されていたのである。
第二章:秀吉の西征 ― 肥後への道
時を同じくして、九州の西側では秀吉自らが率いる本隊が、電撃的な進軍を開始していた。3月29日に小倉に上陸した秀吉は、休む間もなく筑前へと軍を進める 1 。その最初の目標は、島津方に与する筑前の有力国人・秋月種実の拠点、岩石城であった。4月1日、蒲生氏郷、前田利長らを先鋒とする豊臣軍は、標高450メートルの険峻な山城である岩石城に猛攻を加え、圧倒的な鉄砲攻撃により、わずか1日でこれを陥落させた 6 。
この岩石城の瞬時の陥落がもたらした心理的衝撃は、計り知れないものがあった。秀吉軍の圧倒的な攻撃力と、抵抗が無意味であることを悟った秋月種実は、本拠の古処山城に籠るも、秀吉の巧みな心理戦の前に戦意を喪失し、4月3日に降伏する 1 。この出来事は、九州の諸将に秀吉への抵抗がいかに無謀であるかを悟らせる、絶大な宣伝効果となった。これを境に、それまで島津の威勢に服していた肥前・筑後の国人衆は、戦わずして次々と豊臣方に寝返っていく 1 。
秀吉の二正面作戦の真の恐ろしさは、ここにあった。東の秀長軍が日向から圧力をかけ、島津軍主力をその方面に釘付けにする。その間に、西の秀吉本隊が破竹の勢いで南下し、島津方の諸城を切り崩し、その支配基盤を根底から破壊していく。島津義久は、都於郡城で秀長軍に備えるために主力を集結せざるを得なかったが、その結果として、秀吉本隊が迫る西側の守備は致命的に手薄になるという、解決不可能な戦略的ジレンマに陥ったのである 7 。島津方は、秀吉の描いた巨大な戦略の掌の上で、選択肢を一つ、また一つと奪われていった。
第二部:日向の雌雄、根白坂に決す
九州の覇権の行方は、天正15年4月17日、日向国根白坂において事実上決した。この戦いは、島津氏の命運を左右するだけでなく、都於郡城の運命をも直接的に決定づける、九州平定における天王山であった。
勢力 |
総大将 |
主要武将 |
推定兵力 |
備考 |
豊臣軍 |
豊臣秀長 |
黒田孝高、小早川隆景、宮部継潤、藤堂高虎、宇喜多秀家 |
約80,000 - 100,000 |
根白坂砦守備隊 約10,000を含む |
島津軍 |
島津義久 |
島津義弘、島津家久、島津忠隣、伊集院忠棟、山田有信 |
約20,000 - 35,000 |
都於郡城より出撃した高城救援軍 |
第一章:決戦前夜(天正15年4月17日)
秀長軍による高城の包囲は、島津指導部にとって耐え難い屈辱であり、放置できない戦略的脅威であった。西から秀吉本隊が刻一刻と薩摩に迫る中、局面を打開するためには、東の日向方面で一気に決戦を挑み、秀長軍を撃破する以外に道はない。この判断の下、島津義久は、弟の義弘、家久ら一族の主力を率い、総勢2万とも3万5千ともいわれる大軍を動員して、都於郡城から高城救援へと出撃した 1 。これは、九州最強と謳われた島津軍団が、その存亡を賭けた乾坤一擲の賭けであったが、同時に、秀長が周到に仕掛けた罠へと自ら足を踏み入れる瞬間でもあった。
その頃、決戦の地と定められた根白坂では、豊臣軍の迎撃態勢が完璧に整えられていた。砦の守将・宮部継潤は、幾重にも巡らされた空堀と板塀によって陣地を堅固にし、その背後には数千挺ともいわれる鉄砲隊を隙間なく配置していた 14 。地形の利を最大限に活かし、近代兵器である鉄砲の火力を集中運用できるよう設計されたこの要塞は、突撃を戦術の要とする島津軍にとって、まさに死地となるべく作られていたのである。
第二章:九州最強軍団の崩壊
4月17日夜半、島津軍は得意の夜襲によって根白坂砦に襲いかかった 14 。しかし、豊臣方はこの攻撃を完全に予期していた。闇を切り裂いて一斉に火を噴いた数千挺の鉄砲は、凄まじい轟音と共に鉛の弾幕を形成し、砦に殺到する島津の兵を次々となぎ倒した 16 。九州最強を誇った島津軍の猛攻は、堅固な防御陣地の前に完全に足止めされ、戦線は膠着状態に陥った 14 。
この均衡を打ち破ったのは、一人の武将の独断に近い果敢な行動であった。秀長本隊では、軍監の尾藤知宣が「救援は不可能、動くべからず」と消極策を進言し、秀長もそれに従おうとしていた 14 。しかし、このままでは好機を逸すると判断した秀長麾下の藤堂高虎は、命令を半ば無視する形でわずか500の手勢を率いると、巧みに迂回して島津軍の側面に猛然と襲いかかったのである 17 。
この予期せぬ側面からの攻撃は、正面の攻略に集中していた島津軍に致命的な混乱をもたらした。この好機を、百戦錬磨の将たちが見逃すはずはなかった。小早川隆景、黒田孝高らが即座に麾下の部隊を動かし、藤堂隊と呼応して島津軍に挟撃を仕掛けた 14 。これにより、島津軍の指揮系統は完全に崩壊。大将格の島津忠隣や猿渡信光らが次々と討死し、軍は統制を失って総崩れとなった 1 。
この根白坂の戦いは、島津氏が得意としたお家芸「釣り野伏せ」を、豊臣軍がより巨大なスケールで、かつ周到な準備をもって逆用した戦いであったと言える。高城という「囮」に誘い出され、根白坂という「伏兵」が待ち受ける死地に誘い込まれ、側面からの奇襲によってとどめを刺されたのである 18 。島津は、自らが最も得意とする戦術の型にはめられ、完膚なきまでに打ち破られた。それは単なる軍事的な敗北に留まらず、戦術思想においても豊臣方が一枚上手であったことを証明するものであった。
第三部:浮舟城、落つ ― 都於郡城の戦い
根白坂での決定的敗北は、あたかも巨大なダムの決壊のように、日向方面における島津の戦線すべてを押し流した。その濁流が真っ先に飲み込んだのが、方面軍司令部であった都於郡城である。通称「都於郡城の戦い」とは、実際には火花を散らす戦闘ではなく、根白坂の戦いという決戦が生み出した、必然的な戦略的帰結であった。その本質は、敗北した側による合理的な損害管理(ダメージコントロール)の判断プロセスそのものであった。
第一章:敗残の将、城へ(4月17日夜~18日)
根白坂で完膚なきまでに叩きのめされた島津義久・義弘は、文字通り命からがら、僅かな手勢と共に都於郡城へと敗走した 7 。九州最強を謳われた精鋭軍の主力が、一夜にして壊滅したという報は、都於郡城に残っていた将兵に計り知れない衝撃と絶望をもたらしたであろう。もはや、豊臣の大軍を迎え撃つだけの兵力も、士気も、この城には残されていなかった。
都於郡城が誇るシラス台地の天険も、この状況下ではその戦略的価値をほとんど失っていた。籠城戦とは、味方からの援軍、すなわち「後詰め」が到着するまでの時間稼ぎという側面が極めて強い戦術である 20 。しかし、根白坂の戦いで壊滅したのは、まさにその「後詰め」となるべき島津軍の主力部隊そのものであった。援軍の望みが絶たれた城は、堅固な要塞から、敵に包囲されれば逃げ場のない「袋の鼠」へと変貌する。義久と義弘は、この冷徹な現実を直視せざるを得なかった。
第二章:追撃、そして無血開城(4月19日以降)
根白坂での勝利の報を受けるや、豊臣軍は即座に追撃態勢に移った。秀吉の甥である豊臣秀次が率いる一軍が、敗残兵の掃討と重要拠点の確保を目的として、都於郡城へと進軍を開始する 7 。
この迅速な動きに対し、島津指導部の判断もまた早かった。義久と義弘は、都於郡城での無益な抵抗を断念。これ以上の兵力の消耗を避け、薩摩本国での最終防衛に戦力を温存するため、城を放棄してさらに後方へと撤退することを決断した。義弘は西方の飯野城へ、そして根白坂で奮戦した家久もまた佐土原城へと兵を引き、防衛ラインを薩摩・大隅の国境まで後退させたのである 7 。
したがって、豊臣秀次軍が都於郡城下に到達した時、そこに激しい抵抗は存在しなかった。城はすでに島津軍主力によって放棄されていたか、あるいは降伏勧告に即座に応じる程度の守備兵が残るのみであった可能性が極めて高い。各資料が記す「都於郡城を攻略」という記述は、激しい攻城戦の末の陥落を意味するのではなく、抵抗を受けることなくこの戦略的要衝を占領・制圧したという事実を指していると解釈するのが最も妥当である。
この都於郡城の無血開城は、島津氏が日向国における組織的抵抗を完全に終結させたことを意味した。かつて伊東氏から奪い、日向支配の象徴とした「浮舟城」は、戦うことなくその旗を降ろした。それは、武力の衝突による結末ではなく、根白坂で下された軍事的審判が、政治的・戦略的な帰結として現れた瞬間であった。
第四部:終焉と再生
都於郡城の失陥は、日向一国における島津支配の終焉を告げる弔鐘であった。この報は、西から薩摩本国に迫る秀吉本隊の圧倒的な進軍の報と相まって、島津義久に最終的な決断を迫ることになる。それは、九州の覇者としての誇りを捨て、一族の存続を賭けた苦渋の選択であった。
第一章:降伏への道
根白坂の敗戦と都於郡城の喪失がもたらした衝撃は、島津家の抵抗の意志を根底から打ち砕いた。東の秀長軍が日向を制圧する一方、西の秀吉本隊は島津方の防衛線をいともたやすく突破し、4月27日にはついに薩摩本国の玄関口である出水城にまで到達、城主の島津忠辰は戦わずして降伏した 1 。島津家は東西から完全に包囲され、もはや組織的な抵抗は不可能な状況に追い込まれていた。
これ以上の抗戦は、一族郎党の無益な死と、家の滅亡を招くだけである。この冷徹な現実を悟った島津義久は、ついに降伏を決意する。根白坂の敗戦からわずか4日後の4月21日には、家老の伊集院忠棟らを人質として秀長の陣に送り、和睦を申し入れていた 1 。そして天正15年5月8日、義久は自ら剃髪して仏門に入り、「龍伯」と号すると、墨染の衣をまとって川内の泰平寺に本陣を置く豊臣秀吉のもとを訪れた 1 。秀吉は、俗世を捨てた姿で降伏の意を示した義久に対し、「一命を捨てて走り入ってきた」としてその罪を赦し、ここに九州平定は実質的な終結を迎えたのである 24 。
第二章:戦後の仕置と新たな秩序
戦後、秀吉は筑前筥崎において、九州の新たな領土配分、すなわち「九州国分」を発表した。島津家は、かつて支配した九州の大半を没収され、薩摩・大隅・日向の一部(諸県郡)のみを安堵されるという厳しい処分を受けた 1 。
しかし、秀吉の戦後処理の巧みさは、単なる領土削減に留まらなかった。彼は、島津家の内部に巧みな分断の楔を打ち込むことで、その政治的弱体化を図ったのである。まず、当主である義久に薩摩を、弟の義弘に大隅を、という形で別個に所領を安堵した 1 。これは当主の権威を相対化させ、兄弟間に潜在的な対立構造を生み出す狙いがあったと考えられる。さらに、和平交渉で人質となり、戦後は石田三成ら豊臣政権の中枢と緊密な関係を築いた家老・伊集院忠棟を重用し、主家とは別に日向庄内に8万石もの所領を与え、「主家と同格の処遇」とした 6 。これは家臣団の序列を根底から覆し、島津家内部の統制を著しく困難にさせるものであった。
こうした秀吉の巧みな分断統治は、島津家内部に深刻な亀裂を生んだ。降伏後も徹底抗戦を主張したとされる次兄・義弘や三兄・歳久と、現実的な和平路線を主導した義久や伊集院忠棟との間には、埋めがたい確執が残った 26 。そして、九州平定が終結した直後の7月、日向方面で最も武功を挙げた猛将である末弟・島津家久が、居城の佐土原城で謎の急死を遂げる 18 。公式には病死とされるが、そのあまりに都合の良いタイミングから、豊臣政権にとって最も危険な存在であった家久を排除するための、秀吉や秀長による毒殺説が当時から囁かれ、今なお歴史の謎として残っている 28 。
結論:戦史における都於郡城の戦いの真価
天正15年(1587年)の「都於郡城の戦い」は、その名に反して、大規模な戦闘が行われたわけではない。その歴史的真価は、単独の攻城戦としてではなく、豊臣秀吉による九州平定という巨大な軍事作戦全体の中で捉えることによって初めて明らかになる。
本件は、九州の覇権を決定づけた「根白坂の戦い」という決戦が生み出した、必然的な**「戦略的帰結」**であった。その本質は、武力と武力の衝突ではなく、軍事的な優劣が完全に決定した後の、敗者による合理的な拠点放棄のプロセスにある。主力野戦軍を失った城がいかに無力であるか、そして後詰めの望みなき籠城がいかに無意味であるかを、都於郡城の無血開城は冷徹に物語っている。
一つの城の運命が、方面軍全体の敗北、そして天下人の周到な二正面作戦によって、いかにして戦闘を交えることなく決定づけられたか。都於郡城の事例は、戦国末期の戦いが、個々の戦闘の勝敗以上に、兵站、情報、そして何よりも高度な戦略思想によって支配されていたことを如実に示している。都於郡城の静かなる開城は、秀吉の軍事・戦略思想の完全なる勝利と、九州の独立した戦国時代を駆け抜けた島津氏の組織的抵抗の終焉を、何よりも雄弁に象徴する出来事として、戦国史にその名を刻んでいるのである。
引用文献
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- 都於郡城 | 九州隠れ山城10選 | 九州の感動と物語をみつけようプロジェクト https://www.welcomekyushu.jp/project/yamashiro-tumulus/yamashiro/20
- 都於郡城 - 宮崎県 https://miyazaki.mytabi.net/tonokori-castle.php
- 242年にわたり日向の地を治めた伊東氏の居城・都於郡城【宮崎県西 ... https://www.rekishijin.com/21624
- 天正五年十二月 島津義久 伊東家を調略し日向国を制圧す。伊東義祐 大友氏を頼り豊後に逃る - 佐土原城 遠侍間 http://www.hyuganokami.com/kassen/takajo/takajo2.htm
- 1587年 – 89年 九州征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1587/
- 根白坂の戦いとは - わかりやすく解説 Weblio辞書 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E6%A0%B9%E7%99%BD%E5%9D%82%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 都於郡城跡-栄えた過去に想いを馳せる、荘厳な山城 https://saito-yurunavi.jp/see/tonokorijo/index.html
- 【宮崎県のお城/飫肥城・延岡城・佐土原城・都於郡城】伊東氏と島津氏の激闘と、九州を代表する戦国大名ゆかりの城 - 城びと https://shirobito.jp/article/1802
- 内城 - 日本200名城バイリンガル (Japan's top 200 castles and ruins) https://jpcastles200.com/tag/%E5%86%85%E5%9F%8E/
- シラスの浸食地形と中世山城 - かだいおうち Advanced Course https://www.sci.kagoshima-u.ac.jp/oyo/advanced/geology/fort.html
- 日本の山城:山岳部の地形を利用して築かれた土の防御施設 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00731/
- 検索詳細|みやざきの文化財情報 https://www.miyazaki-archive.jp/d-museum/mch/details/view/1840
- 根白坂の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E7%99%BD%E5%9D%82%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 豊臣VS島津の最終決戦!『根白坂の戦い』は島津の野望が潰えた瞬間だった - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=yeAcq_SP6j0
- 古戦場めぐり「九州征伐・根白坂の戦い(宮崎県木城町)」 | mixiユーザー(id:7184021)の日記 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1953903486&owner_id=7184021
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- 「籠城戦」って勝ち目はあるの?【超入門!お城セミナー】 - 城びと https://shirobito.jp/article/271
- 籠城戦 ~城を守る合戦~/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/58782/
- 超入門! お城セミナー 第90回【歴史】籠城戦に勝利するための秘訣とは何か? https://shirobito.jp/article/1060
- 九州の役、豊臣秀吉に降伏 - 尚古集成館 https://www.shuseikan.jp/timeline/kyushu-no-eki/
- 【羽柴秀長への指示と豊前支配】 - ADEAC https://adeac.jp/miyako-hf-mus/text-list/d200040/ht050220
- 伊集院忠棟(いじゅういんただむね)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8A%E9%9B%86%E9%99%A2%E5%BF%A0%E6%A3%9F-1053707
- 「島津歳久」は島津四兄弟の中でただ一人、秀吉に屈しなかった計略知略の男だった! https://sengoku-his.com/602
- 島津家を救った高野山 -義久・義弘の兄弟対立はなぜ防がれたか- https://sightsinfo.com/koyasan-yore/okunoin-shimazu
- 秀吉の命による毒殺か? 島津きっての猛将、四男家久急死の真相とは https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/8576/
- 島津家久急死の真相は? | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/yorons/136