野田・福島の戦い(1570)
元亀元年、織田信長は摂津野田・福島に籠る三好三人衆を攻囲。天然の要害と雑賀衆の鉄砲隊に苦戦する中、石山本願寺が突如蜂起し、信長は窮地に陥る。この戦いは信長包囲網の原点となり、信長は畿内での長期戦を強いられ、後の石山合戦へと繋がる因縁の始まりとなった。
元亀元年の激震「野田・福島の戦い」-信長包囲網の原点と石山合戦の序曲-
序章:元亀元年の畿内-天下布武の前に立ちはだかる者たち
元亀元年(1570年)は、日本の歴史が大きく動いた転換点であった。この年の6月、織田信長は徳川家康と共に浅井・朝倉連合軍を「姉川の戦い」で撃破し、その武威は天下に轟いていた 1 。しかし、その強烈な光は、同時に濃い影を生み出していた。信長の急進的な天下布武事業は、旧来の権威や秩序を重んじる勢力にとって、看過しがたい脅威として映っていたのである。この畿内に渦巻く複雑な政治情勢こそ、「野田・福島の戦い」を理解するための不可欠な序章となる。
三者の鼎立:織田信長、足利義昭、三好三人衆
当時の畿内情勢は、主に三つの勢力の思惑が複雑に絡み合うことで形成されていた。
第一に、 織田信長 である。尾張の一大名から身を起こし、「天下布武」を掲げて破竹の勢いで勢力を拡大する革命児であった。永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛を果たし、畿内における軍事的覇権を確立したが、その支配基盤は未だ盤石とは言えなかった 2 。彼の力は、圧倒的な軍事力と、既成概念に囚われない革新的な政策にあった。
第二に、室町幕府第15代将軍、 足利義昭 である。信長によって擁立された彼は、当初、信長を「御父」と呼ぶほど良好な関係を築いていた 4 。しかし、その内には失墜した将軍権威の回復という強い野心を秘めていた。信長が義昭に突きつけた「五か条の条書」は、事実上、将軍の権限を大幅に制限し、軍事・政治の実権を信長が握ることを宣言するものであった 5 。このため、両者の協調関係の水面下では、徐々に不協和音が生じ始めていた 6 。この戦いにおいて義昭は信長と共に出陣するが、それは両者の蜜月がまだ続いていたことを示すと同時に、その後の破局を予感させる重要な文脈となっている。
そして第三の勢力が、かつての畿内の覇者、 三好三人衆 (三好長逸、三好政康、岩成友通)である 8 。主君・三好長慶の死後、畿内を牛耳っていた彼らは、信長の上洛によってその地位を追われ、本拠地である阿波(徳島県)へ撤退を余儀なくされていた 10 。永禄12年(1569年)には京の義昭を襲撃する「本圀寺の変」を起こすも失敗に終わっており、信長への復讐と畿内への返り咲きを虎視眈々と狙っていた 11 。
この戦いは、単なる領土を巡る軍事衝突ではなかった。それは、畿内支配の「正統性」を巡る代理戦争の様相を呈していた。信長は、足利義昭という室町将軍の「権威」を擁することで上洛を成功させ、自らの行動を正当化した 6 。彼の戦略は、軍事力と政治的正統性の両輪で進められていた。一方、三好三人衆は、かつて13代将軍・足利義輝を殺害した過去を持つが故に 13 、義昭を奉じる信長から見れば「逆賊」であった。しかし、彼ら自身には三好長慶以来、長年にわたり畿内を統治してきたという「実績」があり、信長こそが秩序を破壊する「成り上がりの侵略者」と見なしていた 13 。野田・福島の地は、これら二つの異なる「正統性」が、初めて大規模な軍事力をもって激突する運命の舞台となったのである。
第一章:開戦への序曲-摂津に燻る反信長の狼煙
阿波からの反攻計画:周到な準備と好機の到来
雌伏の時を過ごしていた三好三人衆にとって、元亀元年(1570年)は絶好の機会であった。信長は姉川の戦いに勝利した後、主力を率いて本拠地である美濃・岐阜へ帰還しており、畿内の軍事力は手薄になっていた 1 。この機を逃さず、彼らは周到に準備された反攻作戦を発動する。彼らの挙兵は衝動的なものではなく、信長の動向を冷静に分析した上での、計算され尽くした戦略であった。
摂津国人衆の動揺:池田氏の内紛と荒木村重の暗躍
三好三人衆の反攻計画において、決定的な突破口となったのが摂津における内紛であった。当時、摂津の有力国人であった池田勝正は、信長方として地域の統治を担っていた 10 。しかし、元亀元年6月、三人衆の巧みな調略により、勝正は同族の池田知正と、家臣であった荒木村重によって居城の池田城から追放されてしまう 10 。このクーデターにより、摂津の軍事バランスは大きく揺らぎ、三好三人衆は畿内における重要な橋頭堡を確保することに成功した。
元亀元年七月二十一日:摂津上陸と野田・福島への布陣
摂津における内応の成功を受け、三好三人衆は行動を開始する。元亀元年7月21日、彼らは阿波・讃岐など四国の兵、約1万3000を率いて阿波を出航し、摂津に上陸した 10 。軍勢は摂津中嶋に進出すると、直ちに野田・福島の地に布陣し、既存の砦を拠点とした大規模な改築工事に着手した 11 。これは、信長の来襲を予期し、長期的な籠城戦に備えるための戦略的行動であった。反信長の狼煙は、今や畿内に明確な形で上がったのである。
第二章:対峙する両雄-戦力と陣容の徹底分析
野田・福島をめぐる攻防は、当時の畿内における主要な勢力が集結する総力戦の様相を呈した。両軍の陣容を分析することは、この戦いの特質を理解する上で極めて重要である。
織田・足利連合軍の陣容
信長が動員した軍勢は、単なる織田家の軍団にとどまらなかった。
- 総大将: 織田信長が総指揮を執り、将軍・足利義昭も自ら出陣した。義昭の参陣は、この戦いが逆賊を討つ「幕府の公戦」であるという大義名分を織田軍にもたらし、その正統性を内外に誇示するものであった 6 。
- 畿内勢力: 最も注目すべきは、三好本家の当主である三好義継と、稀代の梟雄として知られる松永久秀が信長方に参陣したことである 10 。これは、かつて畿内に君臨した三好一族が、三人衆派と義継・久秀派に分裂し、深刻な内紛状態にあったことを象徴している 16 。このほか、河内の畠山秋高や、細川藤孝ら幕府奉公衆といった畿内の諸将が信長の下に馳せ参じた 10 。
三好連合軍の陣容
一方、籠城する三好方もまた、多様な勢力からなる連合軍であった。
- 中核: 三好三人衆が中心であったが、厳密には三好宗渭(政康)は前年に死去しており、この戦いでは三好長逸と岩成友通が主導していた 10 。にもかかわらず「三人衆」という呼称が使われていることは、この名が反信長勢力の一大ブランドとして機能していたことを示唆している。
- 四国からの援軍: 三好家の本拠地である阿波・讃岐・淡路からは、三好康長、安宅信康、十河存保といった一族の有力者が援軍として駆けつけた。また、阿波三好家の実権を握る重臣・篠原長房も後方支援を行った 10 。
- 反信長勢力の結集: 軍勢の中には、信長によって美濃を追われた前領主・斎藤龍興や、その他の浪人衆も含まれており、野田・福島城は反信長勢力の結集地としての役割も担っていた 1 。
第三勢力・傭兵集団の動向
この戦いの構図をさらに複雑にしたのが、傭兵集団の存在である。特に紀伊を本拠とする雑賀衆は、当時最新鋭の兵器であった鉄砲の扱いに長けた戦闘のプロフェッショナル集団として、その名を轟かせていた。
- 三好方は、鈴木孫一(重秀)が率いる雑賀衆の一部を傭兵として雇用し、城の防衛力の中核に据えた 1 。
- しかし、驚くべきことに、織田方もまた雑賀衆・根来衆を味方につけていた 10 。これにより、同じ雑賀衆に属する者たちが敵味方に分かれ、互いに銃口を向け合うという、イデオロギーではなく契約に基づいて動く傭兵集団ならではの皮肉な状況が生まれたのである 11 。
この傭兵集団の動向は、単なる戦力補強以上の意味を持っていた。彼らの忠誠は金銭や契約によって左右されるため、戦況次第では寝返りも辞さない不安定な要素であった。さらに重要なのは、雑賀衆の多くが浄土真宗の門徒であったという点である。この信仰の絆が、後に石山本願寺が蜂起した際、彼らの行動に決定的な影響を与え、戦局を大きく左右するキャスティングボートを握ることになる。織田方についていた部隊が戦闘を停止、あるいは中立化するだけでも、信長が期待していた火力は失われ、同時に敵の火力が増強されるという二重の打撃を受ける可能性を秘めていた。
項目 |
織田・足利連合軍 |
三好連合軍 |
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総兵力(推定) |
約40,000 - 50,000 10 |
当初上陸時: 約13,000 11 |
籠城時: 約8,000 11 |
総大将・主要指揮官 |
織田信長, 足利義昭, 三好義継, 松永久秀, 柴田勝家, 佐久間信盛 |
三好長逸, 岩成友通, 安宅信康, 篠原長房, 斎藤龍興 |
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特殊戦力 |
雑賀・根来衆(鉄砲隊) 10 |
鈴木孫一率いる雑賀衆(鉄砲隊) 1 |
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構成勢力 |
織田軍、幕府軍(奉公衆)、大和・河内勢、摂津の一部国人 |
阿波・讃岐・淡路勢、池田衆(荒木村重ら)、反信長浪人 |
第三章:戦場の地政学-河口のデルタ地帯が意味するもの
野田・福島の戦いの戦術を理解するためには、当時の戦場の地理的環境、すなわち地政学的な特徴を把握することが不可欠である。
天然の要害としての野田・福島
現存する「石山合戦配陣図」などの史料によれば、当時の野田・福島周辺は、現在の大阪市街の姿とは全く異なっていた 21 。この地域は淀川の河口に形成された広大なデルタ地帯(三角州)であり、西は大阪湾に面し、北・東・南の三方を川に囲まれた、さながら島のような地形をしていた 11 。周囲は低湿地であり、大軍が自由に展開するには多くの制約があった。この地形こそが、三好三人衆がこの地を拠点として選んだ最大の理由であった。
三好三人衆による城砦の改築
三好軍は、この天然の要害を最大限に活用するため、大規模な防御工事を施した。『細川両家記』には「猶似て 堀をほり 壁を付け 櫓を上げさせ」と記されており 25 、彼らが既存の砦を基礎としながらも、新たに堀を深く掘り直し、土塁や塀といった城壁を築き、要所には櫓を建設して射撃拠点としたことがわかる 11 。急ごしらえではあったが、地形と人工的な防御施設を組み合わせた堅固な防衛網を構築したのである。
攻防への影響
この特異な地形は、攻める織田方にとって大きな障害となった。圧倒的な兵力を擁していても、湿地と河川に阻まれて兵力を一点に集中させる力攻めは困難を極めた 10 。そのため、信長は真正面からの突撃を避け、城砦を遠巻きに包囲し、兵糧攻めと調略によって内部から切り崩し、さらには対岸に築いた砦や櫓からの遠距離射撃によって敵を疲弊させるという、より時間と手間を要する戦術を選択せざるを得なかった。この戦いは、兵力差だけでは決着がつかない、地形が戦術を規定した典型的な事例であった。
第四章:合戦のリアルタイム詳解-一刻一刻を追う戦況の変転
野田・福島の戦いは、約一ヶ月にわたり、畿内の情勢を一変させる激しい攻防が繰り広げられた。その経過を時系列で追うことで、戦場の緊迫感と劇的な状況の変化を詳らかにする。
8月17日~25日:前哨戦と信長の急行
- 8月17日: 阿波から上陸した三好軍は、ただちに軍事行動を開始した。彼らが最初の標的としたのは、織田方の前線基地として機能していた古橋城であった。この城を守るのは三好義継と畠山秋高の兵、わずか300から400名程度であった 11 。三好軍の圧倒的な兵力の前に古橋城はなすすべもなく、守備兵はほぼ全滅するという凄惨な結果に終わる。三好軍はその勢いを駆って、近隣の榎並城も攻略した 10 。
- 8月20日: 古橋城陥落の凶報は、直ちに岐阜の信長のもとへ届けられた。事態を重く見た信長は、即座に親衛隊である馬廻り衆3,000を率いて岐阜城を出立するという、驚くべき迅速さで対応する 10 。
- 8月23日: 信長は京の本能寺に到着。ここで三好義継、松永久秀ら畿内の味方勢力と合流し、軍勢は一挙に4万にまで膨れ上がったと記録されている 10 。
- 8月25日: 軍備を整えた信長は、満を持して京を出立。決戦の地、摂津へと駒を進めた 11 。
8月26日~9月11日:天王寺の対陣と織田軍の締め付け
- 8月26日: 信長は、野田・福島城の南東約5kmに位置する天王寺に本陣を構えた 10 。さらに天満森、川口、渡辺、神崎、難波といった要所に部隊を配置し、野田・福島城を完全に包囲する陣形を敷いた 10 。
- 8月28日: 軍事的な圧迫と並行して、信長は得意の調略を開始する。これにより、三好方についていた三好政勝(三人衆の一人とは別人)や香西越後守らが降伏し、織田方に寝返った 10 。籠城する三好軍の結束に、早くも揺らぎが見え始めた。
- 9月3日: この戦いの正統性を決定づける出来事が起こる。将軍・足利義昭が、細川藤孝(幽斎)の守る中島城へ自ら出陣したのである 10 。これにより、織田軍は名実ともに「幕府軍」となり、三好軍は将軍に弓引く「賊軍」という立場に追い込まれた。
- 9月8日: 信長は包囲網をさらに強化するため、新たに楼岸砦と川口砦を構築。さらに、味方である三好義継と松永久秀に命じ、野田・福島城の北方に位置する浦江城(海老江)を攻略させた 10 。これにより、三好軍は四方から完全に孤立させられた。
- 9月11日: 総攻撃の準備が整った。信長は城に接近するため川の一部を埋め立てさせ、城の周囲には多数の攻撃用の櫓を建設。そこに鉄砲隊を配置し、決戦の時を待った 10 。
9月12日:運命の一日-戦況の頂点と暗転
この日は、戦いの趨勢を決定づけるはずであった一日が、誰も予測しなかった形で劇的に暗転した、運命の日となった。
- (昼)織田軍、総攻撃を開始: 織田方の援軍として参陣していた雑賀・根来衆2万(鉄砲3,000丁と伝わる)が、遠里小野、住吉、天王寺に布陣 10 。信長はこれを合図に、前日に構築した櫓群から一斉に鉄砲を撃ちかけさせた。野田・福島城は、轟音と共に凄まじい銃弾の嵐に見舞われた。これは、長篠の戦いに先駆けて鉄砲が集団的に運用された、画期的な戦術であった可能性が指摘されている 11 。
- (夕刻)三好方の降伏申し出と信長の拒絶: 織田軍の圧倒的な火力の前に、籠城する三好軍は耐えきれなくなった。ついに彼らは白旗を掲げ、講和を申し出る 10 。しかし、勝利を確信した信長はこれを冷徹に一蹴。敵の完全殲滅を期して、攻撃の手を緩めなかった 10 。
- (夜半)「時に本願寺、鐘を打ちて…」-石山本願寺、突如蜂起: 織田軍の誰もが勝利を信じて疑わなかったその時、事態は急変する。野田・福島の南東、わずか4kmの距離に位置する石山本願寺で、突如として寺内の鐘が乱打された 11 。それを合図に、かねてより準備していた一向一揆の門徒たちが一斉に蜂起。織田軍が後方の兵站拠点としていた楼岸砦、川口砦に対し、闇夜の中から無数の鉄砲を撃ちかけ、奇襲を敢行したのである 10 。完全に意表を突かれた織田軍は、背後からの攻撃に大混乱に陥った。『細川両家記』は、その時の衝撃を「信長方仰天なく候」と簡潔ながらも鮮烈に記録している 11 。
9月13日以降:戦線の崩壊
- 9月13日: 石山本願寺の参戦は、絶望の淵にあった三好軍の士気を劇的に高揚させた。勢いづいた三好軍は城から打って出て、織田軍が築いた堤防を決壊させることに成功する。折悪しく、この日は強い西風が吹き、大阪湾から高潮が押し寄せたため、淀川の水が逆流するという異常事態が発生した 11 。溢れ出た水は織田方の陣地の多くを水浸しにし、軍は機能不全に陥った。信長が築き上げた鉄壁の包囲網は、一夜にして崩壊の危機に瀕したのである。
第五章:戦局の急転-なぜ本願寺は立ち上がったのか
石山本願寺の突然の蜂起は、この戦いの流れを決定的に変えた。信長すら「仰天」したこの行動の裏には、どのような動機があったのか。その要因は、単一ではなく複合的なものであったと考えられる。
顕如の檄文の分析:「信長、仏法を破却すべし」の真偽
本願寺第11世法主・顕如が蜂起に際して全国の門徒に発した檄文には、「信長が本願寺を破却(破壊)せよと、確かに告げ来た」ため、やむなく立ち上がったと記されている 11 。これが事実であれば、本願寺の行動は信仰を守るための自衛戦争ということになる。
しかし、この主張にはいくつかの疑問点が存在する。第一に、信長がそのような命令を下したことを示す書状などの一次史料が一切発見されていない。第二に、本願寺側以外の同時代史料に、この命令に関する記述が見当たらない。そして第三に、信長が「仰天した」という記録 11 や、蜂起のタイミングが三好軍の窮地を救い、本願寺にとってあまりにも好都合である点から、この「破却命令」は、蜂起を正当化し、門徒の結束を高めるための「大義名分」、すなわちプロパガンダであった可能性が極めて高いと分析されている 11 。
蜂起の複合的要因:政治的判断か、宗教的使命か
では、真の動機は何だったのか。それは、宗教的、地政学的、そして政治的な要因が複雑に絡み合った結果であった。
- 宗教的・経済的圧迫: 信長は上洛後、本願寺に対して矢銭(軍資金)5,000貫を要求し、顕如はこれを支払っている 30 。また、比叡山延暦寺など他の宗教勢力に対する信長の強圧的な態度は、本願寺に強い危機感を抱かせたことは間違いない。
- 地政学的脅威: 最も直接的な動機は、眼前に迫った軍事的脅威であろう。織田軍が本願寺の目と鼻の先である天王寺に4万もの大軍を駐留させ、さらに楼岸・川口に砦を築いたことは、本願寺を包囲し、その兵站線を断つ意図の表れと受け取れた 34 。野田・福島が陥落すれば、次に信長の矛先が向くのは石山本願寺であることは明白であった。この切迫した危機感が、先手を打って行動を起こさせた。
- 高度な政治的判断: 石山本願寺は、単なる宗教施設ではなかった。広大な寺内町を擁し、全国に張り巡らされた門徒のネットワークを通じて絶大な経済力と動員力を持つ、一大政治勢力であった 32 。信長の急速な畿内統一事業は、本願寺が享受してきた独立性と既得権益を根本から脅かすものであった。そこで顕如は、三好三人衆や、水面下で連携していた浅井・朝倉といった反信長勢力と手を結び 32 、信長の力を削ぐことで自らの政治的地位を保とうとする、極めて高度な政治的判断を下したと考えられる。
この戦いは、信長の「合理主義」と、本願寺が持つ「信仰」という非合理にも見えるパワーとの最初の本格的な衝突であった。信長は、兵力差、兵器の優劣、調略の成否といった計算可能な「合理的」要素に基づいて戦況を判断し、9月12日の夕刻には勝利を確信していた 10 。しかし、彼の計算には、本願寺という巨大な宗教組織が持つ「信仰」という変数が含まれていなかった。顕如の檄文一つで、死をも恐れぬ数万の門徒を瞬時に動員できるこの特異な力 35 は、信長がこれまで対峙してきたどの武士団とも異質のものであった。野田・福島で味わったこの予期せぬ苦戦は、信長に宗教勢力の恐ろしさを初めて骨身に染みて痛感させ、後の長島一向一揆における根切りや比叡山焼き討ちといった、より苛烈な対応へと繋がる原体験となった可能性は否定できない。
第六章:崩壊する戦線-信長包囲網の完成
石山本願寺の蜂起は、単独の出来事では終わらなかった。それは連鎖反応を引き起こし、信長を絶体絶命の窮地に追い込む「信長包囲網」を完成させる最後のピースとなった。
背後からの脅威:浅井・朝倉連合軍、近江へ出陣
本願寺の蜂起は、かねてより反信長の機会を窺っていた勢力に絶好の口実と時間を与えた。北近江の浅井長政と越前の朝倉義景は、本願寺の動きに呼応する形で連合軍を組織 11 。信長が摂津の戦線に釘付けになっている隙を突き、近江へ侵攻した。連合軍は信長方の重要拠点であった宇佐山城(城主:森可成)を攻撃し、京の喉元にまで迫る動きを見せたのである 15 。
二正面作戦の危機:京の防衛と信長の決断
これにより、信長は摂津の野田・福島で三好・本願寺連合軍と対峙しつつ、同時に背後の近江から京に迫る浅井・朝倉連合軍にも対処しなければならないという、最悪の「二正面作戦」を強いられることになった。畿内の本拠地である京が脅かされる事態に、織田軍内部でも動揺が広がり、重臣の柴田勝家らが信長に撤退を進言するに至った 11 。
9月23日:野田・福島からの全面撤退
目前の敵を殲滅寸前まで追い込みながらも、背後の脅威を放置することはできなかった。信長は苦渋の決断を下す。9月23日、彼は野田・福島の包囲を解き、全軍を京へ撤退させることを命令した 11 。この困難な撤退戦においては、前田利家や金森長近らが殿(しんがり)を務め、追撃する敵軍を防ぎながら味方を無事に退かせるという重責を果たしたことが記録されている 40 。
第一次信長包囲網の完成
この一連の動きは、信長の軍事キャリアにおける最大の危機を現出させた。東には甲斐の武田信玄、北には越前の朝倉義景と近江の浅井長政、そして西には摂津の三好三人衆と石山本願寺。これら反信長勢力が期せずして連携し、信長を四方から取り囲む一大連合、すなわち歴史に名高い「第一次信長包囲網」が、この瞬間に完全に形成されたのである。野田・福島の戦いは、その包囲網を完成させる最後の引き金であった。
終章:戦いの遺したもの-終わりと始まり
痛み分けの講和と、その後の各勢力
織田軍の撤退により、野田・福島の戦いは籠城していた三好・本願寺連合の戦略的勝利という形で幕を閉じた 10 。信長は京に戻った後、近江で浅井・朝倉軍と対峙(志賀の陣)。こちらも決着がつかず、最終的には朝廷の仲介により、全ての勢力との間で一時的な和睦が成立した。三好三人衆との和睦交渉においては、彼らと旧知の間柄であった松永久秀らが仲介役を務めたとされている 10 。しかし、これは根本的な対立が解消されたわけではなく、嵐の前の静けさに過ぎなかった。
石山合戦という泥沼:10年戦争の幕開け
この戦いがもたらした最も重大な結果は、信長と石山本願寺との間に、修復不可能な敵対関係を生み出したことである。野田・福島での蜂起をきっかけに、両者の間には天正8年(1580年)に勅命講和が成立するまで、足掛け10年にも及ぶ泥沼の長期戦争、すなわち「石山合戦」が開始されることとなった 12 。この戦いは信長の天下布武事業における最大の障害となり、彼の勢力と資源を長期間にわたって消耗させ続けた。
野田・福島の戦いが戦国史に刻んだ意味:信長最大の苦境の原点
結論として、元亀元年(1570年)の野田・福島の戦いは、単なる一地方の攻城戦にとどまるものではない。それは、戦国史の大きな転換点であった。
第一に、姉川の戦いの勝利で順風満帆に見えた信長の天下統一事業を、初めて本格的に頓挫させた戦いであった。
第二に、この戦いを契機として「第一次信長包囲網」が完成し、信長は生涯最大の軍事的・政治的危機に直面することになった。
第三に、この戦いは、10年にわたる石山合戦の序曲であり、信長に宗教勢力の恐ろしさを痛感させた。
そして最後に、この戦いは、戦国時代の戦いの様相が、武士団同士の組織的な抗争から、宗教勢力、傭兵集団、国人衆といった多様なプレイヤーを巻き込んだ、より複雑で総力戦的なものへと変質していく画期をなすものであった。
この戦いでの苦い経験なくして、その後の信長による比叡山焼き討ちのような苛烈な宗教弾圧も、広大な戦線に対応するための方面軍団制の導入 43 といった戦略の多角化もなかったかもしれない。野田・福島の戦いは、織田信長の戦略思想と、ひいては戦国時代の歴史そのものを大きく動かした、決定的な一戦として記憶されるべきである。
引用文献
- Battle of NODA Castle FUKUSHIMA Castle - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=tVj_S_kT6aE&pp=ygUNI-e5lOeUsOWwmumVtw%3D%3D
- 近世(安土桃山時代~江戸時代)|織田信長は足利義昭をなぜ将軍職につけたのか|中学社会 https://benesse.jp/kyouiku/teikitest/chu/social/social/c00738.html
- 織田信長や徳川家康を苦しめた一枚岩の集団~一向一揆 – Guidoor Media https://www.guidoor.jp/media/nobunaga-versus-ikkoikki/
- 室町幕府15代将軍/足利義昭|ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/muromachi-shogun-15th/shogun-ashikagayoshiaki/
- やっぱり無能?足利義昭はなぜ織田信長を裏切ったのか? - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/ashikagayoshiaki-betrayal/
- 10分で読める歴史と観光の繋がり 足利義昭・織田信長の連立政権、仏教勢力との経済戦争/ゆかりの 茶の湯の発祥、ものづくり都市〝堺〟/西の難攻不落、月山富田城/比叡山延暦寺と坂本城 | いろいろオモシロク https://www.chubu-kanko.jp/ck.blog/2023/03/21/10%E5%88%86%E3%81%A7%E8%AA%AD%E3%82%81%E3%82%8B%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E8%A6%B3%E5%85%89%E3%81%AE%E7%B9%8B%E3%81%8C%E3%82%8A%E3%80%80%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD%E3%83%BB%E7%B9%94%E7%94%B0/
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