最終更新日 2025-09-03

金川城の戦い(1575)

天正三年、宇喜多直家は謀略を駆使し、主君浦上宗景の天神山城を内側から崩壊させた。毛利氏と結び、織田信長に対抗する直家の下剋上は、中国地方の勢力図を塗り替える転換点となった。
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天神山城の戦い(1575年)全史:梟雄・宇喜多直家、主家を喰らう下剋上の全貌

序章 - 梟雄、覚醒の刻

戦国時代の備前国(現在の岡山県南東部)に、宇喜多直家という武将がいた。斎藤道三、松永久秀と並び「戦国三大梟雄」と称される彼は、その生涯を通じて数多の謀略を巡らせ、ついには主家を滅ぼし一国の大名へと成り上がった。彼の下剋上を象徴する戦いが、天正3年(1575年)に終結した「天神山城の戦い」である。しかし、この戦いを理解するためには、まず直家という人物の成り立ちと、彼が力を蓄える過程を深く知る必要がある。

宇喜多直家の出自と流浪の幼少期

宇喜多氏は古くから備前に根を張る一族であった。直家の祖父・宇喜多能家は、備前守護代であった浦上氏の重臣として三代にわたり仕え、その忠節と功績は高く評価されていた 1 。しかし、天文3年(1534年)、主家内の政争に巻き込まれ、同僚であった島村盛実の軍勢に居城の砥石城を攻められ自害。これにより、名門であった宇喜多氏は一日にして没落の憂き目に遭う 1

当時わずか6歳であった直家(幼名:八郎)は、父・興家と共に城を脱出し、流浪の身となった 2 。父も心労がたたったのか早くに病没し、孤児となった直家は商家に身を寄せ、あるいは牛飼いのような仕事をして糊口をしのいだという 4 。この不遇と屈辱に満ちた少年時代の経験は、彼の精神に深く刻み込まれた。それは、強者への飽くなき渇望と、目的のためには手段を選ばない冷徹な合理主義、そして二度と誰にも虐げられはしないという固い決意の源泉となったのである。この時期に培われたとされる、他の武将にはない経済感覚も、後の彼の勢力拡大を支える一助となった 5

浦上宗景への仕官と勢力拡大

天文12年(1543年)頃、母方の縁を頼り、直家は備前で最も勢いのある天神山城主・浦上宗景に仕える機会を得る 2 。『古今武家盛衰記』によれば、美少年で才知に富んでいた直家は、主君・宗景の目に留まり、衆道(男色)の相手を務めるほどの寵愛を受けたとされる 4 。この寵愛が、彼の立身出世の最初の足掛かりとなった。

やがて直家は武将としての頭角を現し、戦功を上げて乙子城を与えられると、祖父の死で四散していた旧臣たちが彼の元に馳せ参じ、宇喜多家再興の狼煙が上がった 2 。直家は宗景の忠実な家臣として、その期待に応え続けた。永禄2年(1559年)、宗景の命を受け、かつて祖父を死に追いやった仇敵・島村盛実と、彼と結託していた舅の中山勝政を謀殺 5 。主君の命令という大義名分のもと、自身の復讐と領地拡大を同時に成し遂げるという、彼一流の狡猾さを見せつけた。

この頃から、直家の立場は単なる宗景の直臣という枠を超え、独立性の高い「傘下の国衆」としての性格を強めていく 9 。彼は主家の力を利用して備前国内の敵対勢力を次々と排除し、その所領を併呑することで、自身の勢力を雪だるま式に拡大させていったのである。

下剋上への第一歩 - 金川城の戦い(永禄11年/1568年)

宇喜多直家の名を備前一国に轟かせ、彼の下剋上への道筋を決定づけたのが、天正3年(1575年)の天神山城の戦いに先立つこと7年前、永禄11年(1568年)の「金川城の戦い」であった。この戦いの相手は主君・浦上宗景ではなく、西備前に一大勢力を築いていた松田氏である。

西備前の雄・松田氏との対立

金川城(現在の岡山市北区)を本拠とする松田氏は、古くから備前西部を支配してきた名門国衆であり、浦上氏にとっては常に警戒を要する存在であった 10 。当初、直家は主君・宗景の仲介により、自身の長女を松田元輝の嫡男・元賢に嫁がせ、婚姻同盟を締結していた 10 。しかし、これは直家にとって、敵対勢力を内側から切り崩すための布石に過ぎなかった。彼の謀略において、血縁関係は信頼の証ではなく、相手を油断させるための最も有効な道具であった 4

周到な調略と外堀の埋め立て

直家は金川城攻略にあたり、決して力攻めを選ばなかった。彼の真骨頂は、戦う前に勝敗を決する周到な調略にある。

第一に、彼は松田氏の重臣であり、自身の妹婿でもあった虎倉城主・伊賀久隆を味方に引き入れることに成功する 4 。これにより、松田氏の内部に楔を打ち込み、その結束を乱した。

第二に、永禄10年(1567年)の明善寺合戦において、松田氏が三村氏への援軍を送らなかったことを口実に両者の関係を悪化させる 13

第三に、鹿狩りと称する場を設け、そこで「鹿と間違えた」と嘯き、松田氏の重臣・宇垣与右衛門を鉄砲で射殺するという挑発行為に出る 4 。このような陰湿な揺さぶりは、松田家中に底知れぬ恐怖と疑心暗鬼を植え付け、その戦意を内側から蝕んでいった。

合戦の経過:電光石火の攻略

外堀を完全に埋め尽くした直家は、永禄11年(1568年)7月、ついに牙を剥いた。

  • 7月5日 : 内応していた伊賀久隆が金川城の支城である道林寺丸に伏兵を忍ばせ、奇襲を敢行。瞬く間に城は包囲され、松田元輝・元賢親子は籠城を余儀なくされる 13
  • 7月6日 : 宇喜多直家の本隊が到着し、伊賀勢と合流。本丸への終日の猛攻が開始される。この戦闘の最中、城主・松田元輝は伊賀勢の鉄砲によって射殺された 13
  • 7月6日夜~7日未明 : 父の死後、指揮を執っていた元賢は、多勢に無勢と悟り、弟と共に城を脱出。しかし、その逃亡経路は直家に筒抜けであった。伊賀の伏兵に発見された元賢は、壮絶に斬り込み討死を遂げた 13

夫の死の報せを聞いた直家の娘は、程なくして自害したと伝わる 13 。この戦いは、土地の人々に深い悲しみをもたらし、落城が7月7日であったことから、この地域では長く七夕祭りが行われなくなったという 13

この勝利により、直家は岡山城の北方を固める戦略的要衝・金川城を手中に収め、弟の宇喜多春家を城代として配置した 11 。備前国内において、もはや浦上・宇喜多連合に対抗しうる勢力は存在しなくなった。そして、備前の力関係は、主君・浦上宗景と、あまりにも強大になりすぎた家臣・宇喜多直家という、二極対立の構図へと静かに移行していったのである。

主家との亀裂 - 天神山城の戦いに至る道

金川城の戦いを経て、備前国内の支配を盤石にした浦上宗景と宇喜多直家。しかし、共通の敵が消滅したとき、かつての共闘関係は、水面下での熾烈な権力闘争へと変質していく。その亀裂を決定的にしたのが、遠く畿内で天下統一を進める織田信長の存在であった。

浦上宗景の勢力拡大と織田信長への接近

浦上宗景は、一連の戦いを経て備前ほぼ一国と美作・播磨の一部を支配下に置く、名実ともに戦国大名へと成長していた 18 。彼は自らの地位をさらに強固なものとするため、中央の覇者である織田信長との関係強化に乗り出す 19 。天正元年(1573年)11月、宗景は上洛して信長に謁見し、多大な贈り物を献上した。その見返りとして、彼は信長から「備前・播磨・美作の三ヶ国における支配権を安堵する」という破格の内容が記された朱印状を獲得する 18 。これは宗景にとって、生涯の頂点ともいえる外交的勝利であった。

「三国安堵の朱印状」がもたらした波紋

しかし、この一枚の朱印状が、浦上家の運命を暗転させる引き金となった。この安堵状は、備前国内で既に独立した勢力を築き上げていた宇喜多直家の存在を完全に無視するものであったからだ 18 。直家にとって、これは自らの支配権が中央権力によって公に否定され、再び宗景の完全な臣下へと引き戻されることを意味した。到底、容認できるものではなかった 18 。直家はこの宗景の行動を「宗景存外之御覚悟(宗景の思いもよらない振る舞い)」と捉え、長年仕えた主君との完全な決別を決意する 18 。宗景が手にした外交的勝利は、足元にいる最も危険な家臣を、修復不可能な敵へと変貌させたのである。

宇喜多直家の毛利氏への接近と大義名分の獲得

織田信長という強大な後ろ盾を得た宗景に対抗すべく、直家は西国に覇を唱える毛利輝元との連携を急速に強化する 18 。これにより、備前国内の主従対立は、図らずも「織田信長対毛利輝元」という二大勢力の代理戦争という側面を帯びることになった 19

さらに直家は、単なる謀反人という汚名を着せられることを避けるため、巧みな政治工作を展開する。彼は、かつて宗景が暗殺した兄・浦上政宗の孫であり、浦上家の正統な嫡流である久松丸を、播磨の小寺氏から引き取って庇護下に置いた 18 。そして、「正統な後継者である久松丸様を奉じ、家を篡奪した宗景を討つ」という大義名分を掲げたのである 18 。これにより、直家の反乱は、私的な野心によるものではなく、主家の筋目を通すための「義挙」であるという体裁を整えることに成功した。この大義名分は、後に浦上家中の国人衆を切り崩していく上で、絶大な効果を発揮することになる。

天神山城の戦い(天正2年~3年/1574年~1575年):合戦の時系列詳解

天正2年(1574年)3月、宇喜多直家はついに主君・浦上宗景に対して兵を挙げた。約1年半に及ぶこの戦役は、単なる軍事衝突に留まらず、調略、外交、心理戦が複雑に絡み合った、直家の謀将としての一面を余すところなく示すものであった。

第一局面:開戦と直家の電撃作戦(天正2年3月~10月)

開戦当初、直家の動きは迅速かつ周到であった。

  • 天正2年3月 : 直家は、宗景との直接対決に先立ち、宗景の同盟者である美作の三浦貞広との連携を断ち切ることに注力した。美作国衆の原田氏らを調略によって味方に引き入れると、国境の要衝・岩屋城をわずか一日で強襲し、奪取する 18 。この電光石火の作戦により、宗景と三浦氏の連絡線は早々に分断された。
  • 4月18日 : 備前鯛山において、宇喜多・浦上両軍が初めて本格的に衝突。緒戦は宇喜多軍の勝利に終わる 18
  • 4月~6月 : 当初、宗景は直家の反乱を楽観視しており、讃岐の安富盛定に宛てた書状では「毎々勝利を得て候」と戦況の優位を伝えている 18 。しかし、実態は高尾山の合戦などで敗北を喫するなど、苦戦が続いていた。
  • 7月~10月 : 直家はさらに美作の弓削衆などを調略で切り崩し、両国の連絡路を完全に掌握。危機感を抱いた宗景は、配下の国衆に知行を加増するなどして引き止め工作を行うが、離反の動きは止まらない 18 。10月頃、浦上方も局地的な戦闘で勝利を収め、天神山城とその支城群に籠城して守りを固めたため、戦線は一時的に膠着状態に陥った 18

第二局面:膠着と水面下の外交・謀略戦(天正2年11月~天正3年3月)

戦線が膠着する中、戦いの主舞台は戦場から外交の場へと移る。

  • 毛利の介入決定と備中兵乱 : 毛利氏は、小早川隆景らの進言を容れ、宇喜多直家への全面支援を正式に決定する。これに猛反発したのが、長年宇喜多氏と敵対してきた備中の三村元親であった。彼は毛利氏と手切れし、織田信長に寝返ってしまう 18 。これに対し、毛利は直ちに三村討伐の大軍を派遣(備中兵乱)。この毛利の迅速な対応により、三村氏は浦上宗景を支援する余力を完全に失った。結果として、備中兵乱は、直家にとってこの上ない援護射撃となったのである 18
  • 停戦と水面下の暗闘 : 備中での戦いが激化するのに伴い、備前の浦上・宇喜多間の大規模な戦闘は約5ヶ月にわたり記録から姿を消す。しかし、この静寂の裏で、両陣営は水面下で激しい暗闘を繰り広げていた 18 。宗景は三浦氏との情報交換を密にし、直家は前述の通り浦上久松丸を擁立して、自らの正当性を固める工作を進めていた 18
  • 美作での前哨戦 : 年が明けた天正3年1月以降、美作では宇喜多方の「岩屋衆」と浦上方の三浦氏との間で、多田山や真木山城を巡る一進一退の攻防が繰り広げられた 18 。これらは、来るべき決戦に向けた熾烈な前哨戦であった。

第三局面:最終決戦と天神山城の陥落(天正3年4月~9月)

備中兵乱が毛利・宇喜多方の勝利で終息に向かうと、直家は満を持して最後の攻勢を開始する。

  • 4月~5月 : 宇喜多軍は攻勢を再開。天神山城の支城である日笠青山城攻めでは一時撃退されるも、佐古谷城、伊部城などを次々と攻略し、天神山城を裸城にする包囲網を狭めていく 18
  • 6月~7月 : 備中兵乱が三村氏の滅亡をもって完全に終結。これにより、浦上宗景は全ての援軍の望みを断たれ、完全に孤立する 18 。宗景は最後の抵抗として美作へ兵を送るが惨敗を喫し、その軍事力の弱体化を内外に露呈してしまった 18
  • 8月~9月 : 宗景の敗北が誰の目にも明らかになると、これまで日和見を決め込んでいた家臣たちが、堰を切ったように離反を開始した。浦上氏の宿老であった明石行雄(景親)を皮切りに、岡本氏秀、延原景能といった天神山城の中核を担う譜代の重臣たちまでもが、次々と宇喜多方に寝返った 18
  • 9月上旬 : 信頼すべき重臣たちにことごとく裏切られ、内部から完全に崩壊した天神山城は、もはや籠城を維持することが不可能となった。浦上宗景は、わずかな供回りと共に城を脱出し、播磨の小寺政職を頼って落ち延びていった 18
  • 9月11日 : 最後まで抵抗を続けていた美作の三浦貞広も、宇喜多直家の仲介を通じて毛利氏に降伏。高田城を明け渡し、ここに天神山城の戦いは完全に終結した 18

天神山城の戦い 詳細時系列表

年月日

局面

出来事

主要人物(宇喜多方)

主要人物(浦上/三浦方)

場所

考察/意義

天正2年(1574) 3月

第1局面

宇喜多直家、挙兵。美作国衆を調略し、岩屋城を1日で奪取。

宇喜多直家, 花房職秀, 原田貞佐

浦上宗景, 三浦貞広

美作・岩屋城

浦上・三浦間の連携を分断する電撃作戦。直家の周到さを示す。

天正2年(1574) 4月18日

第1局面

宇喜多軍と浦上軍が初衝突。宇喜多軍が勝利。

宇喜多直家

浦上宗景

備前・鯛山

本格的な戦闘の開始。緒戦を制し、直家が主導権を握る。

天正2年(1574) 6月

第1局面

高尾山の合戦で浦上軍が敗北。

-

浦上宗景

備前・高尾山

宗景の当初の楽観論を覆し、戦況が宇喜多優位であることを示す。

天正2年(1574) 10月

第1局面

浦上軍が局地戦で勝利し、天神山城で堅守。戦線が膠着。

宇喜多直家

浦上宗景, 石川源助

備前・美作各地

浦上方の抵抗により、直家の快進撃が止まる。戦いは長期戦へ。

天正2年(1574) 11月

第2局面

毛利氏が宇喜多支援を決定。三村元親が毛利から離反し、備中兵乱が勃発。

宇喜多直家, 小早川隆景

浦上宗景, 三村元親

備中国

浦上の有力な援軍候補が消滅。結果的に直家を利する展開となる。

天正3年(1575) 1月-3月

第2局面

美作で宇喜多方と三浦方の間で前哨戦が激化。

浜口家職, 牧清冬

三浦貞広, 牧清冬

美作・多田山, 真木山城

備前での停戦中、美作で代理戦争が続く。決戦に向けた地盤固め。

天正3年(1575) 4月

第3局面

宇喜多直家、浦上久松丸を奉じ、攻勢を再開。

宇喜多直家, 浦上久松丸

浦上宗景

備前

「正統な後継者」を掲げ、大義名分を完全に掌握しての最終攻勢。

天正3年(1575) 6月-7月

第3局面

備中兵乱が終結し三村氏が滅亡。浦上軍、美作での反撃も惨敗。

宇喜多直家, 毛利輝元

浦上宗景, 岡本氏秀

備中、美作

宗景は完全に孤立。軍事力の弱体化が露呈し、家臣の離反を招く。

天正3年(1575) 8月-9月

第3局面

明石行雄、岡本氏秀ら浦上宿老が相次いで宇喜多方に寝返る。

宇喜多直家

明石行雄, 岡本氏秀, 延原景能

備前・天神山城

決定的な内部崩壊。物理的な攻撃ではなく、調略が城を落とした。

天正3年(1575) 9月上旬

第3局面

浦上宗景、天神山城を脱出し播磨へ逃走。天神山城落城。

宇喜多直家

浦上宗景

備前・天神山城

浦上氏の戦国大名としての滅亡。直家の下剋上が完成する。

天正3年(1575) 9月11日

第3局面

三浦貞広、宇喜多の仲介で毛利に降伏。

宇喜多直家, 毛利輝元

三浦貞広

美作・高田城

戦役の完全終結。備前・美作が宇喜多・毛利連合の支配下に入る。

謀略の解剖 - 天神山城を内から崩した策略

天神山城の戦いは、宇喜多直家の軍事的天才性よりも、彼の謀略家としての本質を浮き彫りにした。難攻不落とされた天神山城は、石垣を乗り越える兵士によってではなく、人の心の隙間を突く策略によって内側から崩壊したのである。

浦上家臣団、裏切りの背景

戦いの最終局面で浦上宗景を見限った明石行雄、岡本氏秀、延原景能といった宿老たちは、決して利欲だけで動いたわけではない 18 。彼らは浦上家に代々仕えた譜代の重臣であり、その裏切りには複雑な背景があった。

第一に、主君・浦上宗景の求心力の低下である。信長からの朱印状獲得という外交的成功は、結果として最強の家臣である直家を敵に回し、家中を分裂させるという最悪の事態を招いた 18 。度重なる敗戦と孤立化は、家臣たちに「この主に付いていっても未来はない」という絶望感を抱かせた。

第二に、宇喜多方の圧倒的優位性である。背後には西国の雄・毛利氏が控え、備中兵乱を制したその軍事力は揺るぎないものに見えた 18 。一方で浦上方は同盟者を全て失い、孤立無援であった。家の存続を第一に考える彼らにとって、勝ち馬に乗ることは合理的な選択であった。

そして第三に、宇喜多直家が掲げた「大義名分」の存在である。正統な後継者である久松丸を奉じる直家に降ることは、単なる裏切りではなく、「本来あるべき姿に主家を戻す」という自己正当化を可能にした 18 。直家は、彼らが裏切るための「論理」と「道」を用意周到に準備していたのである。

宇喜多直家の調略手法

直家の調略は、多岐にわたる手法を組み合わせた、極めて高度なものであった。

  • 恐怖と信頼の使い分け : 敵対する者には容赦ない粛清を加える一方、一度忠誠を誓った者、特に古くからの家臣は手厚く遇したとされる 4 。この巧みな「アメとムチ」は、敵方の結束を乱し、味方の忠誠心を高める効果があった。弟の忠家ですら「兄の前では鎖帷子を離せなかった」と語るほどの恐怖心を与える一方で、その統治には安心感があったとも言われる 4
  • 婚姻関係の悪用 : 金川城の松田氏の例が示すように、娘や妹を政略の駒として冷徹に使い、縁戚関係を結んで相手を油断させた後に滅ぼすという非情な手段をためらわなかった 4
  • 情報戦と心理戦 : 敵の内部に対立の種を蒔き、疑心暗鬼にさせて自滅を誘うことを得意とした 24 。天神山城の戦いにおける国衆の切り崩しは、まさにその典型であった。彼は物理的に城を包囲する前に、外交的・戦略的に宗景を「裸の王様」にすることに成功していた。家臣たちの離反は、その最終確認作業に過ぎなかったのである。

この戦いは、戦国時代における「忠誠」という概念が、主君個人への絶対的なものではなく、「家」の存続という目的の前では極めて流動的で相対的なものであったことを示している。主君が家の存続を危うくすると判断されれば、家臣たちはより有力な庇護者を求めて主君を見限る。直家は、その戦国武将の行動原理を誰よりも深く理解し、それを自らの戦略に組み込んだのであった。

戦後の情勢と歴史的意義

天神山城の落城は、単に備前の支配者が交代したという一地方の出来事に留まらない。それは中国地方全体の勢力図を塗り替え、織田信長と毛利輝元という二大勢力の全面対決へと歴史を大きく動かす、重要な転換点となった。

宇喜多氏の戦国大名化

この勝利により、宇喜多直家は浦上氏の旧領をほぼ完全に併呑し、備前、美作東部、播磨西部を支配する、石高57万石ともいわれる大名へと一気に飛躍を遂げた 5 。浦上・三浦の旧臣の多くを吸収して軍事力を増強し 19 、名実ともに中国地方における一大勢力としての地位を確立した。流浪の少年時代から始まった彼の再興と復讐の物語は、ここに一つの頂点を迎えたのである。

敗者たちのその後

  • 浦上宗景 : 播磨へ逃れた宗景は、旧主である織田信長の支援を受け、荒木村重の軍勢と共に一時は再起を図った 20 。しかし、備前への復帰は叶わず、その後の消息は歴史の闇に消えていく。一説には、黒田官兵衛・長政親子を頼って筑前国(福岡県)へ下り、そこで出家して70歳、あるいは80歳余りで病死したと伝えられている 20
  • 三浦貞広 : 毛利氏に降伏した後、その身柄は宇喜多氏に預けられ、大名としての三浦氏は歴史の舞台から姿を消した 18

中国地方の勢力図の変化と歴史的意義

天神山城の戦いがもたらした最も大きな影響は、中国地方のパワーバランスの劇的な変化であった。

浦上氏と三浦氏という、長年にわたり毛利氏に抵抗してきた勢力が消滅したことで、九州の大友宗麟が主導した「毛利包囲網」は完全に崩壊した 18 。これにより、毛利氏は背後の憂いを断ち、その全軍を東方、すなわち織田信長との対決に振り向けることが可能となったのである 18

天正4年(1576年)、毛利氏は京を追われた将軍・足利義昭を庇護下に置き、「鞆幕府」を樹立。宇喜多氏も毛利方の中核としてこれに加わり、織田氏と明確に敵対する。同年7月の第一次木津川口の戦いでは、毛利・宇喜多水軍が織田水軍を壊滅させ、石山本願寺への兵糧搬入を成功させるなど、反信長包囲網の主力として活躍した 18

結論として、天神山城の戦いは、一地方の内乱ではなく、「織田信長の天下統一事業が中国地方へ波及する過程で起きた、最初の重要な地殻変動」と位置づけることができる。この戦いの結果、毛利氏の東方戦線は安定し、宇喜多氏という強力な同盟国を得た。これが、後に羽柴秀吉が総大将として乗り出す「中国攻め」という、長く困難な戦いの舞台設定を決定づけたのである。宇喜多直家という一人の梟雄の野心が、日本の歴史を動かす大きなうねりの一つとなった瞬間であった。

補遺:戦いの舞台となった城

金川城(岡山市北区御津金川)

旭川とその支流の合流点を見下ろす、標高約220mの臥龍山に築かれた備前最大級の山城 10 。尾根上に本丸、二の丸、北の丸、道林寺丸などの曲輪群が約600mにわたって連なる、典型的な連郭式城郭である 11 。直径5m、深さ7-8mにも及ぶ巨大な井戸や、堅固な土塁、竪堀群が残り、その防御力の高さが窺える 12 。この難攻不落の要塞を、直家が力攻めではなく調略で落としたことは、彼の戦術思想を象徴している。

天神山城(岡山県和気郡和気町)

浦上宗景が本拠とした、吉井川の西岸にそびえる標高390mの天神山に築かれた山城 29 。城域は全長1kmを超え、本丸、二の丸、三の丸に加え、物見や指揮の拠点であった「太鼓の丸」などを備えた、極めて大規模な城郭であった 29 。西を流れる吉井川が天然の堀となり、峻険な地形と人工的な堀切によって鉄壁の防御を誇っていた 29 。現在も曲輪、土塁、石垣などの遺構が良好な状態で残されており、往時の姿を偲ぶことができる 29 。この堅城ですら、内部からの裏切りによって陥落した事実は、戦国時代の城が、物理的な防御力だけで守り切れるものではなかったことを物語っている。

引用文献

  1. 備前・備中・美作戦国史-宇喜多直家 http://www2.harimaya.com/sengoku/sengokusi/bimu_06.html
  2. 宇喜多直家- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%9B%B4%E5%AE%B6
  3. 宇喜多直家とは 主家浦上氏に倣い主家を滅ぼす - 戦国未満 https://sengokumiman.com/ukitanaoie.html
  4. 宇喜多直家 暗殺・裏切り何でもありの鬼畜の所業 /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/17905/
  5. 宇喜多直家・宇喜多秀家をはじめとする 「戦国 宇喜多家」を主人公とした大河ドラマ実現に向 - 岡山市 https://www.city.okayama.jp/shisei/cmsfiles/contents/0000058/58389/05sankou.pdf
  6. 宇喜多直家(うきた なおいえ) 拙者の履歴書 Vol.43 ~謀略と外交の果てに - note https://note.com/digitaljokers/n/nb36565c729fd
  7. 乙子城 沼城(亀山城) 金川城(玉松城) 徳倉城 富山城 余湖 http://otakeya.in.coocan.jp/okayama/okayamasi01.htm
  8. 街の史跡 城跡探索 岡山県のお城 天神山城 https://tansaku.sakura.ne.jp/tansaku_siro/sirodata/siro_okayama/tenjinyama01.html
  9. 宇喜多直家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%9B%B4%E5%AE%B6
  10. 宇喜多直家③ - 備後 歴史 雑学 - FC2 http://rekisizatugaku.web.fc2.com/page017.html
  11. 金川城と宇喜多直家 - 岡山市 https://www.city.okayama.jp/0000066273.html
  12. 金川城跡 - 岡山県ホームページ https://www.pref.okayama.jp/site/kodai/628738.html
  13. 松田元賢とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E5%85%83%E8%B3%A2
  14. 宇喜多直家、梟雄説検証~直家は本当に”梟雄”か?~【三謀将 宇喜多直家総集編】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=w7Q_9ILy4Tw
  15. 松田氏の足跡をたどる2 https://www.yomimonoya.com/kaidou/okayama/matuda02.html
  16. 金川城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%B7%9D%E5%9F%8E
  17. 裏切りと身内殺しの策略家。戦国三大悪人の一人「宇喜多直家」の悪しき所業【中編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/132776
  18. 天神山城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  19. 宇喜多直家・浦上宗景、梟雄たちの戦い/ 備中兵乱・天神山城の戦い - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=5W1THCGWu90
  20. 浦上宗景 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E5%AE%97%E6%99%AF
  21. 浦上宗景と尼子晴久・浦上政宗連合軍 、ここ に激突! https://digioka.libnet.pref.okayama.jp/cont/01/G0000002kyoudo/000/037/000037336.pdf
  22. 宇喜多直家と城 - 岡山県ホームページ https://www.pref.okayama.jp/site/kodai/622717.html
  23. 宇喜多直家⑤ - 備後 歴史 雑学 - FC2 http://rekisizatugaku.web.fc2.com/page019.html
  24. 宇喜多直家 陰謀謀殺だけじゃない統治力〜謀略と裏切り〜 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=UEJfxHppY8g
  25. 裏切りと身内殺しの策略家。戦国三大悪人の一人「宇喜多直家」の悪しき所業【後編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/132798
  26. KI37 浦上行景 - 系図 https://www.his-trip.info/keizu/KI37.html
  27. 浦上宗景 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/UragamiMunekage.html
  28. 金川城 岡山県岡山市北区御津金川 - 小花と春の古城巡り - はてなブログ https://kohanatoharu.hatenablog.com/entry/%E9%87%91%E5%B7%9D%E5%9F%8E
  29. 天神山城 (備前国) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E5%B1%B1%E5%9F%8E_(%E5%82%99%E5%89%8D%E5%9B%BD)
  30. 天神山城跡 - 岡山県ホームページ https://www.pref.okayama.jp/site/kodai/628749.html
  31. 天神山城跡 - 岡山観光WEB https://www.okayama-kanko.jp/spot/11609
  32. 天神山城の見所と写真・100人城主の評価(岡山県和気町) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1481/