最終更新日 2025-09-05

金沢城の戦い(1583)

天正十一年、金沢城は賤ヶ岳の戦いの結果、佐久間盛政から前田利家へと無血で城主が交代。利家の絶妙な決断が加賀百万石の礎を築き、天下統一の潮流を象徴する歴史的転換点となった。

天正十一年 金沢城主交代の真相 ―賤ヶ岳の戦いと前田利家入城の時系列分析―

序章: 「金沢城の戦い」という事象の再定義

天正十一年(1583年)、加賀国(現在の石川県南部)において金沢城の支配権が佐久間盛政から前田利家へと移った。この出来事は、しばしば「金沢城の戦い」と称されるが、その実態は城郭を巡る直接的な攻防戦、すなわち籠城戦や野戦といった物理的な戦闘行為によって決着したものではない。むしろ、この城主交代劇は、織田信長亡き後の天下の覇権を巡る、より大規模な政治的・軍事的抗争、すなわち「賤ヶ岳の戦い」がもたらした直接的な「結果」であった 1

したがって、1583年の金沢城の運命を正確に理解するためには、城そのものに焦点を当てるだけでは不十分である。本報告書は、この歴史的転換点の真相を解明すべく、その運命を決定づけた賤ヶ岳の戦いの推移を主軸に据え、あたかもドキュメンタリーのように時系列で事態の変転を追う構成をとる。この壮大な歴史劇において、金沢城は重要な「舞台装置」であり、その所有権の移転こそが物語のクライマックスに他ならない。

まず、本報告書で詳述する一連の出来事の全体像を把握するため、以下の時系列表を提示する。

表1:金沢城主交代に関わる主要事象の時系列(天正11年/1583年)

日付(旧暦)

出来事

場所

主要人物

備考

3月12日

柴田勝家軍、近江・柳ヶ瀬に着陣。賤ヶ岳の対陣始まる。

近江国

柴田勝家、前田利家

約1ヶ月に及ぶ膠着状態に入る 4

4月20日 未明

佐久間盛政、大岩山砦を攻撃。中川清秀を討ち取る。

近江国

佐久間盛政

勝家の命令を無視した突出。戦局が動くきっかけとなる 6

4月20日 午後

羽柴秀吉、大垣城を出発。「美濃大返し」を開始。

美濃国

羽柴秀吉

約52kmを5時間で走破する驚異的な強行軍 6

4月21日 未明

前田利家、茂山に布陣した自軍を撤退させ戦線を離脱。

近江国

前田利家

柴田軍敗北の決定的要因となる 5

4月21日 正午頃

秀吉軍、佐久間盛政隊を撃破。柴田軍は総崩れとなる。

近江国

羽柴秀吉、佐久間盛政

賤ヶ岳の戦いの雌雄決す 6

4月24日

柴田勝家、居城・北ノ庄城にて自刃。

越前国

柴田勝家

秀吉軍の包囲下での壮絶な最期 7

4月28日

秀吉軍、金沢城を包囲。

加賀国

羽柴秀吉

城主不在の城に対する示威行動 6

4月28日

前田利家、秀吉の命により金沢城へ入城。

加賀国

前田利家

無血開城。加賀統治の開始 3

この表が示すように、4月20日から28日という僅か一週間余りの期間に、近江での戦局の急変、軍団の崩壊、そして遠く離れた加賀における領地の再分配という、まさに怒涛の展開が凝縮されている。この「速度」こそが、戦国時代の権力移行のダイナミズムを象徴しており、金沢城の運命が如何にして決定づけられたかを物語る鍵となるのである。

第一部: 前史 ―城の来歴と対立の萌芽―

金沢城の誕生と初代城主・佐久間盛政

金沢城の歴史を語る上で、その前身が一向宗(浄土真宗本願寺派)門徒による自治組織、いわゆる「百姓のもちたる国」の軍事拠点であったという事実は欠かすことができない 8 。天文十五年(1546年)、本願寺は加賀支配の拠点として「金沢御堂(尾山御坊)」を建立した 9 。この金沢御堂は単なる寺院ではなく、石垣や堀で固められた要塞であり、近隣大名も手を焼く一大軍事拠点としての性格を色濃く持っていた 1

この約一世紀にわたる一向一揆による支配に終止符を打ったのが、織田信長の天下統一事業であった。天正八年(1580年)、信長の命を受けた北陸方面軍総司令官・柴田勝家は、甥の佐久間盛政を先鋒として加賀へ侵攻し、長年の抵抗を続けてきた一向一揆勢を制圧、金沢御堂を攻略した 11

この攻略戦における最大の功労者である佐久間盛政は、信長からその功を賞され、加賀国の石川・河北二郡を与えられた 14 。そして、金沢御堂の跡地に本格的な城郭の整備を開始し、金沢城(当時は尾山城とも称された)を築城、その初代城主となったのである 11 。盛政は「鬼玄蕃」「夜叉玄蕃」の異名で知られる当代随一の猛将であり、その武勇は広く知れ渡っていた 14 。彼が金沢城主として在城したのはわずか3年余りであったが、その間に百間堀の開削や城下町(尾山八町)の整備を行うなど、後の加賀百万石の城都・金沢の基礎を築いた功績は大きい 17

佐久間盛政が金沢城主となった経緯そのものが、後の彼の運命を暗示していた。長年にわたる熾烈な加賀一向一揆との戦いは、彼に「鬼玄蕃」の異名と共に、自らの武勇に対する絶対的な自信を植え付けた。この過信こそが、賤ヶ岳において総大将・柴田勝家の制止を振り切って突出するという、致命的な判断へと繋がっていくのである。つまり、金沢城の誕生の物語は、その初代城主の破滅、ひいては城主交代劇の伏線そのものであったと言える。

本能寺の変と織田家の分裂

順風満帆に見えた佐久間盛政と、彼が属する織田家の運命を暗転させたのが、天正十年(1582年)6月の本能寺の変であった。主君・織田信長とその嫡男・信忠の突然の死は、巨大な権力の空白を生み出し、織田家臣団の内部に対立の火種を燻らせることになる 1

信長の後継者と遺領の分配を決定するために開かれた清洲会議において、羽柴秀吉は明智光秀を討った功績を背景に主導権を握り、信長の嫡孫・三法師(後の織田秀信)を後継者として擁立した 20 。これに対し、織田家筆頭家老であった柴田勝家は不満を募らせ、信長の三男・信孝を担ぐことで秀吉に対抗。ここに、織田家を二分する対立構造が明確となったのである 20

板挟みの将・前田利家

この秀吉と勝家の対立の狭間で、最も苦しい立場に置かれたのが、前田利家であった。利家にとって柴田勝家は、織田家における北陸方面軍の総司令官であり、自身はその与力(指揮下の武将)という直属の上司であった 19 。それだけでなく、勝家は利家より17歳も年長であり、若き日に信長の勘気を被り浪人同然であった利家の帰参を赦免させるために尽力するなど、公私にわたる大恩人であった。利家が勝家を「親父(おやじ)様」と呼び慕っていたという逸話は、二人の深い信頼関係を物語っている 19

一方で、羽柴秀吉は尾張時代からの無二の親友であった。身分が低い頃から苦楽を共にし、互いの家族ぐるみの付き合いもある盟友である 1 。織田家臣団という組織における「義理」と、長年の友情という「人情」。その両者が真っ向から対立する中で、利家は究極の選択を迫られることになった。この彼の苦悩こそが、賤ヶ岳の戦いの行方、そして金沢城の未来を左右する最大の鍵となるのである。

第二部: 賤ヶ岳の戦い ―金沢城の運命を決定づけた七日間―

近江国伊香郡賤ヶ岳(現在の滋賀県長浜市)で繰り広げられた一連の戦闘は、遠く離れた加賀国金沢城の運命をリアルタイムで決定づけていく。ここでの戦況の一つ一つが、金沢城の新たな主を指し示す羅針盤であった。この意味において、賤ヶ岳こそが事実上の「金沢城の戦い」の主戦場であったと言える。

対陣と膠着(天正11年3月12日~4月中旬)

天正十一年三月十二日、柴田勝家は佐久間盛政、前田利家らを率いる約三万の軍勢を動員し、越前・北ノ庄城を出陣。近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了させた 4 。前田利家は別所山に、そして猛将・佐久間盛政は行市山に陣を構えた 4 。これに対し、羽柴秀吉は木之本に本陣を置き、賤ヶ岳周辺の山々に砦を築いて北国街道を封鎖、鉄壁の防御網を構築して勝家の南下を阻止する構えを見せた 22

両軍の対峙は、その後約一ヶ月にわたり、散発的な小競り合いはあったものの、戦線は膠着状態に陥った 4 。雪深い北国からの遠征である柴田軍にとって、兵站の維持が困難な長期戦は不利であり、短期決戦を望んでいた。一方、秀吉は堅固な防御陣地を利して持久戦に持ち込み、敵の焦りを誘うという巧みな戦略をとっていた。

戦端を開く鬼玄蕃(4月20日 未明~早朝)

この膠着状態を破ったのは、秀吉の不在という情報であった。勝家方である織田信孝が美濃国岐阜で挙兵したとの報を受け、秀吉が主力を率いて大垣城へ移動したのである 4 。この動きを千載一遇の好機と捉えたのが、金沢城主・佐久間盛政であった。

四月二十日未明、盛政は総大将・勝家からの「軽挙妄動を慎め」という制止の命令を振り切り、独断で行市山砦から出撃 6 。秀吉方の最前線である大岩山砦を守る将・中川清秀を急襲し、これを討ち取るという大戦果を挙げた。勢いに乗る盛政は、さらに岩崎山砦の高山右近の部隊も撃破し、戦線を一気に南下させた 6 。しかし、この突出は柴田軍全体の連携を無視した危険な賭けであった。勝家は戦果を認めつつも、深入りを危険視して再三にわたり撤退を命じたが、功名心に逸る盛政はこれに従わなかった 6 。この命令不服従と突出こそが、柴田軍の歯車を致命的に狂わせる第一歩となった。

秀吉の神速「美濃大返し」(4月20日 午後~夜)

その頃、大垣城にいた秀吉のもとに、中川清秀討死という凶報が届く。前線の崩壊という危機的状況に、秀吉は即座に賤ヶ岳への反転を決断した 6 。ここから、後に「美濃大返し」と語り継がれる、日本戦史史上でも類を見ない驚異的な強行軍が開始される。

秀吉率いる主力部隊は午後二時頃に大垣を出発すると、折からの豪雨でぬかるむ道をものともせず、木之本までの約五十二キロメートルという長距離を、わずか五時間で走破した。午後七時頃には木之本の本陣に帰還し、兵に休息と食事を与えた後、夜のうちに前線である田上山に布陣を完了させた 6 。この常識を逸した機動力こそが、戦いの趨勢を一夜にして覆す決定的な要因となった。佐久間盛政が勝利に酔いしれている間に、戦場のパワーバランスは劇的に変化していたのである。

前田利家の決断と戦線離脱(4月21日 未明~朝)

いるはずのない秀吉が、既に大軍を率いて帰還している――。この衝撃的な情報は、夜明けと共に柴田方の諸将に伝わり、計り知れない動揺を与えた。特に、佐久間盛政の突出部隊の後方に位置する茂山に布陣していた前田利家は、この状況下で究極の決断を迫られた。

眼前に現れたのは、旧友・秀吉率いる、士気旺盛な大軍。一方、自軍は突出した佐久間隊と本隊が分断され、連携を欠いた危険な状態にある。このまま秀吉軍と戦えば、共倒れは必至。恩義ある柴田勝家を見捨てるか、あるいは前田家と共に滅びるか。苦悩の末、利家は自らの家名を存続させる道を選んだ。四月二十一日未明、利家は突如として全軍を率いて戦場から撤退を開始。戦線を離脱したのである 4

利家のこの行動は、単に一軍が戦場からいなくなった以上の、戦術的に破壊的な意味を持っていた。佐久間盛政隊の後方を固めるべき部隊が消滅したことで、盛政隊は完全に孤立無援となった 7 。将棋で言えば、王将を守るべき金将が自ら盤上から去ったに等しい。さらに、利家の離脱はドミノ倒しのように他の部隊の士気にも影響し、不破勝光、金森長近といった諸将も次々と退却を開始。柴田軍の陣形は、内部から連鎖的に崩壊していった 5

決戦と敗走(4月21日 正午~)

敵陣の混乱を好機と見た秀吉は、全軍に総攻撃を命令した。福島正則、加藤清正といった、後に「賤ヶ岳の七本槍」と称される若武者たちの活躍もあり、完全に孤立した佐久間盛政隊は秀吉軍の猛攻の前に為す術もなく壊滅する 6

前線の崩壊は、後方の狐塚に本陣を構えていた柴田勝家にも瞬く間に波及した。多勢に無勢の状況を支えきれず、柴田軍は雪崩を打って総崩れとなった 4 。もはやこれまでと悟った勝家は、僅かな手勢と共に北国街道を敗走し、居城である越前の北ノ庄城へと落ち延びていった 6 。ここに、賤ヶ岳の戦いの雌雄は完全に決したのである。

第三部: 金沢城、無血開城 ―加賀百万石の礎―

主を失った城(4月22日~27日)

賤ヶ岳での主君・佐久間盛政の決定的な敗北の報は、留守を守る金沢城の家臣団に大きな衝撃と混乱をもたらした。城主とその主力が戦場で壊滅した今、城は事実上の指揮系統を失い、組織的な抵抗は不可能な状態にあったと推測される。

その後の数日間で、金沢城の運命は最終的に確定する。敗走した柴田勝家は、追撃する秀吉軍に北ノ庄城を包囲され、四月二十四日に妻・お市の方らと共に自刃して果てた 7 。一方、戦場で勇猛を誇った佐久間盛政も逃亡中に捕縛され、後に京で処刑された 1 。これにより、金沢城は名実ともに主を失い、権力の空白地帯となった。

勝利した秀吉は、敗残兵を掃討しながら破竹の勢いで北陸道を進軍。そして四月二十八日、その軍勢は金沢城を完全に包囲した 6 。しかし、この包囲は戦闘を目的としたものではなく、新たな支配者が誰であるかを天下に示すための、政治的な示威行動であった。

前田利家の金沢入城(4月28日)

賤ヶ岳の戦いが終結すると、秀吉は迅速に戦後の領地再分配、すなわち論功行賞を行った。この中で、前田利家は賤ヶ岳での「戦線離脱」という絶妙なタイミングの決断を、秀吉方への内応に等しい「功績」として高く評価された。その結果、利家は従来からの領地である能登一国に加え、佐久間盛政の旧領であった加賀二郡(石川・河北郡)を加増されることとなった 1

秀吉からの正式な命令を受けた利家は、四月二十八日、それまでの居城であった能登・小丸山城を発ち、金沢城へと向かった 6 。秀吉の大軍が城を包囲する中での入城であり、城内に残っていた佐久間家の家臣団に抵抗する意思も術もなかった。城門は静かに開かれ、利家は一滴の血も流すことなく、平穏に城を明け渡された。これが、いわゆる「金沢城の戦い」の結末であり、無血開城による支配権の移譲であった。

この一連の出来事は、物理的な「戦闘」から、政治的な「権威の移譲」へとその本質が転換した象徴的な事例である。秀吉軍による「包囲」と、新領主・利家による「入城」が同日に行われたという事実は、このプロセスが完全に新たな天下人・秀吉の周到な計画とコントロール下にあったことを示している。これは、戦国時代が個別の領主間の争いから、天下人による全国統一へと向かう過渡期の権力移行の典型的なパターンであった。この日の出来事は、加賀藩の事実上の「創立記念日」とでも言うべき、極めて政治的な意味合いを持つものであった。

新時代の幕開け ―加賀統治の始まり―

金沢城に入った前田利家は、この地を新たな本拠地と定め、加賀・能登、そして後に越中の一部をも含む広大な領国経営の拠点とした 24 。加賀百万石の歴史は、この瞬間にその第一歩を踏み出したのである。

利家は入城直後から、城と城下町の大規模な整備に着手した。特に、キリシタン大名であり、当代随一の築城の名手としても知られた高山右近を客将として招き、その指導のもとで金沢城の本格的な改修を進めたと伝えられている 28 。これにより、金沢城は単なる軍事拠点から、政治・経済・文化の中心地としての機能を備えた近世城郭へと変貌を遂げていく。同時に、城下町の区画整理やインフラ整備も進められ、後の「加賀百万石」と称される大藩の繁栄の礎が、この時に築かれたのである 8

結論: 歴史的意義

本報告で詳述した通り、天正十一年(1583年)の「金沢城の戦い」は、城を巡る直接的な攻防戦ではなく、賤ヶ岳の戦いの結果として生じた、無血での城主交代劇であった。しかし、その歴史的重要性は計り知れない。この出来事は、単に一城の主が交代したという地方的な事件に留まらず、日本の歴史の大きな転換点と密接に連動していた。

第一に、この出来事は「加賀百万石」の輝かしい歴史の起点となった。前田利家が加賀の地を得たことにより、その後の前田家による二百八十年以上にわたる安定した統治の礎が築かれた 27 。利家、そして二代藩主・利長、三代藩主・利常の時代を経て、加賀藩は幕藩体制下で最大の石高を誇る外様大名へと発展し、独自の文化政策によって金沢は絢爛たる文化都市として栄えることになる 32

第二に、この城主交代劇は、前田利家という一人の武将の決断が、歴史の潮流を大きく変えたことを如実に示している。賤ヶ岳の戦いにおける利家の「戦線離脱」という一つの決断が、恩義ある主君・柴田勝家を滅亡に追い込み、旧友・羽柴秀吉の天下取りを決定的なものにし、そして何よりも自らの家を日本最大の外様大名へと押し上げるという、連鎖的な結果を生み出した。一個人の政治的判断が、一地方の運命のみならず、天下の趨勢をも左右した瞬間であった。

したがって、1583年の金沢城を巡る物語の真の核心は、城壁や堀を巡る物理的な攻防にあったのではなく、戦国の激動の中で生き残りをかけて下された、前田利家の重い「決断」そのものにあったと言えるだろう。

引用文献

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  2. 金沢城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/chubu-castle/chubu-kanazawa-castle/
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  7. 賤ヶ岳の戦い - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7258/
  8. 前田利家の入城から始まる、雅やかな金沢の歴史。 https://kanazawa.hakuichi.co.jp/blog/detail.php?blog_id=15
  9. 兼六園と金沢城公園 https://kenrokuen.or.jp/kanazawajou/
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  15. 金沢の成り立ちを知ろう! - 金沢れきしケンチク探検隊 https://rekishi-kenchiku.jp/about/
  16. 父の命令 - 古城万華鏡Ⅳ https://www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/kojyou4/kojyou4_3.html
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