金沢御堂(尾山御坊)攻略(1580)
天正八年、織田信長は柴田勝家に命じ、加賀一向一揆の拠点たる金沢御堂を攻略。佐久間盛政の奮戦により、百年に及ぶ「百姓の持ちたる国」は終焉を迎え、金沢城築城の礎が築かれた。
天正八年 金沢御堂陥落詳報:百年王国終焉の刻
序章:百年王国の黄昏
天正8年(1580年)の金沢御堂(尾山御坊)攻略は、戦国時代の数多ある合戦の一つとして語られることが多い。しかし、その本質は単なる城盗りの物語ではない。それは、日本史上稀に見る、約一世紀にわたって武家権力から半ば独立し、民衆が主導した「百姓の持ちたる国」という特異な政治体制の終焉を告げる画期的な出来事であった。この軍事行動を理解するためには、まずその標的となった加賀一向一揆と、その中枢たる金沢御堂が、いかなる存在であったかを知らねばならない。
加賀一向一揆の成立と「百姓の持ちたる国」の実態
加賀国における一向一揆の強固な基盤は、本願寺第八世宗主・蓮如による北陸地方での精力的な布教活動によって築かれた 1 。蓮如は越前吉崎に坊舎を構え、平易な言葉で教えを説き、武士から農民に至るまで幅広い階層の帰依者を集め、強固な門徒組織「講」を各地に形成した 2 。この宗教的結束は、やがて強大な政治的・軍事的な力へと転化する。
その力が歴史の表舞台で爆発したのが、長享2年(1488年)の「長享の一揆」である。門徒たちは、彼らを弾圧しようとした守護・富樫政親を居城の高尾城に攻め滅ぼし、加賀国から武家支配の根幹を覆した 3 。この事件以降、加賀は「百姓の持ちたる国」と称される、本願寺門徒による自治の時代へと突入する 3 。約100年間にわたり、彼らは守護を置かず、門徒の中から選ばれた代表者たちが国政を運営するという、戦国時代の日本では他に類を見ない統治体制を維持し続けたのである。
宗教的拠点から政治・軍事要塞へ:金沢御堂(尾山御坊)の機能
この百年王国の首都機能を担ったのが、天文15年(1546年)に建立された金沢御堂であった 8 。当初は本願寺の末寺として創建されたが、その役割は単なる宗教施設に留まらなかった。やがて加賀一向一揆の政治、軍事、外交、そして信仰の中心拠点として、絶大な権威と機能を集中させていく 11 。
その統治は、大坂の石山本願寺から派遣された坊官(下間氏や七里氏といった、俗事や軍事を司る専門官僚)と、現地の有力寺院の指導者である大坊主衆による二元的な構造で成り立っていた 11 。金沢御堂は、犀川と浅野川に挟まれた小立野台地の先端という戦略的要地に位置し、周囲には堀や土塁が巡らされ、堅固な寺内町を形成していた 14 。その姿は、後の金沢城の原型とも言える、さながら宗教要塞都市であった。
仏敵・織田信長との対立:石山合戦と北陸戦線の連動
天下布武を掲げ、中央集権的な武家政権の樹立を目指す織田信長にとって、加賀一向一揆のような独立性の高い宗教勢力は、その統一事業における最大の障害の一つであった 17 。信長は、宗教勢力が世俗の権力に介入することを極端に嫌い、自らの支配に従わない勢力に対しては徹底的な殲滅も辞さない姿勢で臨んだ。
元亀元年(1570年)に勃発した石山合戦は、この対立が頂点に達した、10年以上に及ぶ大規模な宗教戦争であった。本願寺宗主・顕如は信長を「仏敵」と断じ、全国の門徒に蜂起を指令。加賀一向一揆もその中核として、織田領の背後を脅かす重要な一翼を担った 8 。これに対し信長は、譜代の重臣・柴田勝家を総大将とする北陸方面軍を組織 11 。勝家に与えられた任務は、越後の上杉氏への対抗と、そして何よりも加賀一向一揆の完全なる鎮圧であった 20 。
この一連の背景を鑑みれば、天正8年の金沢御堂攻略は、突発的な軍事行動ではあり得なかったことがわかる。それは、石山本願寺という一向一揆の頭脳を追い詰めると同時に、その最も強力な地方拠点である加賀を制圧し、自らの支配体制に組み込むという、信長の天下統一戦略における必然的な一手だったのである。この戦いは、起こるべくして起こったと言えよう。
第一章:織田軍、北陸平定の始動
天正8年(1580年)、石山合戦が最終局面を迎える中、織田信長の視線は北陸の完全平定へと注がれていた。その命を受け、北陸方面軍は加賀一向一揆の心臓部である金沢御堂の攻略に向けて、ついに本格的な軍事行動を開始する。迎え撃つ一向一揆側もまた、百年の自治を守るべく、最後の抵抗を試みようとしていた。
北陸方面軍総司令官・柴田勝家の戦略
この北陸平定戦の全権を委ねられていたのが、織田家筆頭家老、「鬼柴田」の異名を持つ猛将・柴田勝家である 20 。勝家が率いる北陸方面軍には、与力として前田利家や佐々成政といった織田軍団の精鋭が配属されており、その戦力は絶大であった 23 。勝家は「瓶割り柴田」の逸話に象徴されるような勇猛さで知られる一方、敵将を謀略にかけて誘殺するなど、目的のためには手段を選ばない知将としての一面も併せ持っていた 20 。
彼の戦略目標は明確であった。第一に、依然として脅威である越後の上杉景勝の南下を阻止すること。そして第二に、その背後を常に脅かし、兵站線を寸断する危険をはらむ加賀一向一揆を、この機に完全に、そして徹底的に殲滅することであった 20 。金沢御堂の攻略は、この二大目標を達成するための最重要課題と位置づけられていた。
「鬼玄蕃」佐久間盛政:攻略の尖兵たる猛将の実像
この困難な任務において、実質的な現場指揮官として攻略の先鋒を担ったのが、柴田勝家の甥にあたる佐久間盛政であった 27 。通称を玄蕃允(げんばのじょう)と言い、その常軌を逸した勇猛さから「鬼玄蕃」あるいは「夜叉玄蕃」と敵味方から恐れられた武将である 27 。一説には身長六尺(約182cm)の大男であったと伝えられ、数々の戦で目覚ましい武功を挙げてきた 27 。北陸における一向一揆との泥沼の戦いにおいても、彼は常に最前線に立ち、最も苛烈な戦闘をその双肩に担っていた 14 。金沢御堂攻略戦は、彼の武名を天下に轟かせる最大の舞台となるはずであった。
迎え撃つ一向一揆:本願寺派遣の指揮官と現地の門徒組織
一方、織田軍の侵攻を迎え撃つ加賀一向一揆の指揮系統は、二元的な構造を持っていた。一つは、大坂の石山本願寺から直接派遣された専門の指揮官たち。もう一つは、地域に根差した門徒組織の指導者たちである。
金沢御堂にあって加賀一向一揆全体の総大将として采配を振るっていたのは、本願寺の坊官・下間頼純であった 30 。彼は石山合戦でも活躍した歴戦の将であり、法主・顕如の命を受けて加賀方面の最高指揮官として赴任していた 31 。彼を補佐したのが、前任の総大将であった七里頼周であり、その豊富な経験は依然として一揆内で影響力を持っていたと考えられる 30 。
これら中央からの派遣官僚に対し、白山麓の門徒組織「山内衆」を束ねる現地の総大将が、鳥越城主・鈴木出羽守であった 5 。彼は雑賀衆の一族とも言われ、鉄砲の扱いに長けた実戦派の指揮官であり、山内衆の門徒たちから絶大な信頼を寄せられていた 30 。さらに、金沢御堂の北方を固める木越地区では、光徳寺や光琳寺といった有力寺院の指導者たちが防衛の任にあたっていた 35 。
しかし、彼らが織田軍を迎え撃つ直前、戦況を根底から覆す事態が発生する。天正8年閏3月5日、10年に及んだ石山合戦が、朝廷の仲介による勅命講和という形で終結したのである 37 。これは、一向一揆の総本山である石山本願寺が信長に降伏したことを意味した。この和睦は、加賀の門徒たちにとっては和平の福音ではなかった。むしろそれは、総本山からの梯子を外され、戦略的に完全に孤立させられたことを意味する、死の宣告に他ならなかった。
この和睦成立のわずか4日後、閏3月9日に柴田勝家が加賀への侵攻を開始したという事実は、信長の冷徹な戦略を物語っている 37 。まず、本願寺という一向一揆全体の「頭脳」と和睦することで、抵抗の大義名分と指揮系統を無力化する。そして、和睦に従わないであろう最も強力な「手足」、すなわち加賀一向一揆を、完全に孤立した状態で各個撃破する。これは、和睦という政治的成果を最大限に利用した、極めて合理的かつ非情な殲滅作戦であった。加賀の門徒たちは、まさに四面楚歌の状況で、織田の大軍と対峙することになったのである。
【表1】主要関係者と兵力比較(推定)
陣営 |
主要人物 |
役職/立場 |
推定兵力 |
織田軍 |
柴田勝家 |
北陸方面軍 総司令官、織田家筆頭家老 |
数万規模 |
|
佐久間盛政 |
攻略部隊 指揮官、柴田勝家与力 |
1万5千(賤ヶ岳の戦いにおける動員数からの類推) 40 |
|
前田利家、佐々成政など |
柴田勝家与力 |
- |
一向一揆軍 |
下間頼純 |
加賀一向一揆 総大将(本願寺派遣) |
数万~十数万(動員力に波あり) 8 |
|
七里頼周 |
前・加賀一向一揆 総大将(本願寺派遣) |
- |
|
鈴木出羽守 |
山内衆 総大将、鳥越城主 |
- |
|
光琳寺、光徳寺 |
木越地区 指導者 |
- |
第二章:天正八年、加賀侵攻の刻一刻
石山本願寺との和睦という政治的布石を打ち終えた織田信長と、その意を受けた北陸方面軍は、加賀一向一揆の息の根を止めるべく、間髪入れずに軍事行動を開始した。ここからは、史料に残された日付を基に、金沢御堂陥落に至るまでの過程を時系列で詳細に追跡する。
【表2】金沢御堂攻略に至る時系列表(天正8年/1580年)
日付(西暦/和暦) |
出来事 |
関連人物 |
備考/史料根拠 |
1580年 閏3月5日 |
織田信長と石山本願寺が勅命講和。石山合戦が終結。 |
織田信長、顕如 |
加賀一向一揆が戦略的に孤立する。 37 |
1580年 閏3月9日 |
柴田勝家、越前北ノ庄城から加賀へ侵攻を開始。 |
柴田勝家 |
手取川を越え、宮の腰に布陣し、焦土作戦を展開。 35 |
1580年 閏3月中旬~下旬 |
木越合戦 。織田軍と一向一揆軍が激突。 |
佐久間盛政、長連龍、光琳寺 |
金沢御堂防衛の最重要拠点で激戦。織田軍が勝利。 35 |
1580年 閏3月30日 |
木越の陥落が確定。 |
織田信長 |
信長の書状により、この日までに木越が陥落したことが確認される。 35 |
1580年 4月~10月(推定) |
金沢御堂攻防戦 。織田軍の総攻撃により金沢御堂が陥落、炎上。 |
佐久間盛政、下間頼純 |
3日間にわたり燃え続けたと記録される。 37 |
1580年 11月 |
鳥越城陥落 。一向一揆最後の拠点も制圧される。 |
柴田勝家、佐久間盛政、鈴木出羽守 |
加賀一向一揆の組織的抵抗が事実上終結。 37 |
1580年 11月17日 |
柴田勝家、一揆の指導者19名の首を安土の信長へ送る。 |
柴田勝家、鈴木出羽守 |
鈴木出羽守らもこの中に含まれる。 30 |
【天正8年 閏三月九日】戦端開かる:柴田勝家、加賀へ進撃
石山本願寺との和睦成立からわずか4日後、『信長公記』が記す通り、柴田勝家は満を持して加賀国へ乱入した 35 。軍勢は手取川を渡り、金沢平野の入り口にあたる宮の腰(現在の金沢港周辺)に陣を構えた 39 。そこから織田軍は、一揆勢の拠点となりうる村々や寺社を次々と焼き払う焦土作戦を展開する。これは、一揆勢の兵站を断ち、補給を困難にさせると同時に、その士気を根本から挫くための、織田軍が得意とする戦術であった。炎は白山の麓から能登との国境にまで及び、加賀の地は恐怖に包まれた 39 。
【天正8年 閏三月中旬~下旬】木越合戦:金沢御堂への血塗られた前哨戦
柴田軍の主力が次なる標的として狙いを定めたのが、金沢御堂の北方を守る最大の防衛拠点、木越であった。この木越での戦いの趨勢が、金沢御堂そのものの運命を事実上決定づけることになる。
木越は、有力寺院である光徳寺や光琳寺を中心に形成された寺内町であり、周囲には河北潟から引いた水を湛える広大な堀と、堅固な土塁が巡らされていた 35 。それは単なる町ではなく、近郷の門徒たちが立て籠もる難攻不落の城塞であった。
この要塞に対し、佐久間盛政率いる攻略部隊は、正面(大手)から攻め立てると同時に、能登から援軍に駆けつけた長連龍の部隊を側面(ramete)の大浦口へと迂回させ、挟撃する作戦をとった 35 。不意を突かれた側面からの攻撃に一揆勢は動揺するが、それでも激しく抵抗した。光琳寺の指導者は白い布を鉢巻にし、鉄棒を振るって獅子奮迅の働きを見せ、多くの門徒がそれに続いて死に物狂いで戦ったと伝えられる 35 。しかし、織田軍の猛攻は凄まじく、光琳寺は討死。多くの門徒が命を落とし、流れ出た血で近くの川が赤く染まったことから、後に「血の川」という地名が残ったという、その激しさを物語る伝承も生まれた 36 。
この激戦に終止符を打ったのは、武力だけでなく、一つの計略であった。盛政側に応じた大浦の協力者・助右衛門が、夜陰に乗じて堀の堤防を決壊させたのである 35 。これにより堀の水はたちまち干上がり、木越の防御機能は完全に麻痺した。守りを失った城塞は、織田軍の総攻撃の前に、ついに陥落した。
【天正8年 閏三月三十日】木越陥落の確定
この日付で織田信長が発した書状の中に、「柴田(勝家)注進候、賀州凶徒等過半討果候段、心地能候、然者木越落居(陥落)以後…」との一節が見られる 35 。これは、閏三月三十日の時点で、信長が柴田勝家から木越の陥落と一揆勢の過半数を討ち取ったという戦勝報告を受け、それに満足の意を示していることを明確に物語る第一級の史料である。これにより、木越合戦はこの日までに完全に終結していたことが確定する。
【天正8年 四月~十月(時期推定)】金沢御堂攻防戦:信仰の砦、炎上
金沢御堂にとって最大の盾であった木越を失ったことは、もはや裸で敵の刃の前に立つに等しかった。木越陥落後、佐久間盛政を先鋒とする織田軍の主力は、満を持して金沢御堂へと殺到した 29 。
陥落の正確な日付を記す史料は乏しいが、おそらく数ヶ月にわたる包囲と断続的な攻撃が行われたと推測される。総大将・下間頼純の指揮のもと、籠城した門徒たちは頑強に抵抗したであろう 5 。しかし、彼らの状況は絶望的であった。石山本願寺はすでに降伏しており、後詰(援軍)が来る望みは万に一つもなかった 43 。兵糧は日に日に尽き、圧倒的な兵力差と織田軍の心理的圧力に、士気は徐々に蝕まれていったに違いない 45 。
やがて織田軍による総攻撃が開始され、激しい戦闘の末、ついに金沢御堂は陥落した。『信長公記』は、その最期を「松明の火に西風が吹きかけ、多くあった寺院の建物は昼も夜も三日間、黒雲となって焼け落ちた」と記している 37 。これが織田軍による放火であったのか、あるいは石山本願寺退去時のように一揆側が自ら火を放ったのかは定かではない。しかし、いずれにせよ、百年王国の首都として栄華を誇った壮麗な伽藍は、三日三晩燃え盛る炎によって、完全に灰燼に帰したのである。
この一連の戦闘経過は、金沢御堂の攻防戦が、実質的にはその前哨戦である「木越合戦」の時点で、すでに決着がついていたことを示唆している。金沢御冬は、木越や鳥越といった周辺拠点と連携して初めて機能する広域防衛システムの中核であった。柴田・佐久間軍は、そのシステムの最も重要な外郭を先に破壊することで、中枢を戦略的に無力化した。したがって、金沢御堂本体の籠城戦は、勝利を目指すための戦いというよりも、避けられない運命に対する、信仰に殉じるための最後の抵抗であったと言えるだろう。
第三章:抵抗の終焉と新秩序の胎動
金沢御堂の陥落と炎上は、加賀一向一揆の中枢神経を破壊したが、その抵抗の魂までを完全に消し去ったわけではなかった。織田軍の支配に対し、各地で散発的な、しかし熾烈な抵抗が続いた。その鎮圧の過程を経て、加賀の地には全く新しい権力構造、すなわち武家による支配体制が確立されていくことになる。
鳥越城の悲劇:加賀一向一揆、最後の聖戦
金沢御堂が灰燼に帰した後も、白山麓の門徒組織「山内衆」は、鈴木出羽守の指揮のもと、鳥越城と二曲城を拠点に徹底抗戦の構えを見せていた 5 。彼らにとって、この戦いは領地を守るためのものではなく、信仰を守るための聖戦であった。
天正8年(1580年)11月、柴田勝家と佐久間盛政は、この最後の抵抗勢力を殲滅すべく、大軍を率いて白山麓へと進軍した。激しい攻防の末、一揆最後の砦であった鳥越城はついに陥落する 37 。しかし、悲劇はそれで終わらなかった。柴田勝家は和睦を装って鈴木出羽守ら指導者たちを誘き出し、松任城で全員を謀殺するという非情な手段を用いた 30 。彼らの首は、金沢御堂の指導者たちのものと合わせて19名分が、見せしめとして安土の信長のもとへ送られた 42 。
それでもなお、山内衆の抵抗は続いた。彼らは一度は鳥越城を奪回するなど、驚異的な粘りを見せる 34 。しかし、天正10年(1582年)3月、佐久間盛政による容赦のない掃討作戦が実行される。抵抗した門徒はことごとく討ち取られ、捕らえられた300人以上が手取川の河原で磔に処されるという、凄惨な結末を迎えた 47 。この大虐殺により、約100年間にわたって加賀を支配した一向一揆の歴史は、完全に、そして血塗られた形で幕を閉じたのである 5 。
佐久間盛政の加賀統治と金沢城の誕生
一連の加賀平定戦における最大の功労者である佐久間盛政は、織田信長からその戦功を賞され、加賀国の石川・河北二郡を与えられた 37 。彼は、自らが攻め落とした金沢御堂の焼け跡を本拠と定め、ここに新たな城を築くことを決意する。
盛政は、御堂の遺構を基礎としながらも、本格的な近世城郭としての改修に着手した。土塁を高くし、堀を深く掘り下げ、防御施設を整えていった 16 。そして、この城を「金沢城」と命名した 9 。これが、後の加賀百万石の居城となる金沢城の誕生の瞬間である。さらに盛政は、城の周囲に「尾山八町」と呼ばれる城下町の整備も進め、後の大都市金沢の基礎を築いたと評価されている 13 。
この一連の行為は、単なる建造物の置き換え以上の意味を持っていた。金沢御堂は「百姓の持ちたる国」の心臓部であり、武家支配への抵抗の象徴であった。その象徴的建造物を跡形もなく破壊し、その上に自らの武威を示す城を築くことは、この土地の支配原理が「信仰共同体」から「武家権力」へと完全に書き換えられたことを、内外に宣言する行為だったのである。
権力の空白と継承:賤ヶ岳の戦いを経て、前田利家の加賀入府へ
順風満帆に見えた佐久間盛政の加賀支配は、しかし、わずか3年で終わりを告げる。天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が横死すると、織田家の後継者の座を巡って、羽柴秀吉と柴田勝家が激しく対立した。盛政は、叔父である勝家方に付き、その先鋒として秀吉軍と雌雄を決することになる 27 。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いにおいて、盛政は「鬼玄蕃」の名に恥じぬ奮戦を見せるが、柴田軍は秀吉の巧みな戦術の前に大敗を喫する。勝家は居城の北ノ庄城で自害し、捕らえられた盛政もまた、秀吉からの降伏勧告を拒絶し、潔く斬首された 14 。
この戦いの結果、加賀の支配権は再び宙に浮くことになった。秀吉は、賤ヶ岳の戦いにおける最大の功労者の一人であり、長年、柴田勝家の与力として北陸で戦ってきた前田利家を、佐久間盛政の旧領である加賀二郡の新たな領主として任命した。これにより、能登一国を領していた利家は、加賀の中心地である金沢城へと入城し、能登・加賀にまたがる広大な領国を支配する大大名となったのである 10 。金沢の地は、佐久間盛政という束の間の支配者を経て、以後、明治維新に至るまで280年以上にわたる前田家の治世を迎えることになった。
終章:歴史的意義と後世への影響
天正8年(1580年)の金沢御堂攻略と、それに続く一連の戦いは、単に加賀一国の支配者が交代したという以上の、深く多層的な歴史的意義を持っている。それは、中世的な民衆の自治に終止符を打ち、近世的な武家支配体制を確立する、時代の大きな転換点を象徴する出来事であった。
「百姓の持ちたる国」の解体と武家支配の確立
この合戦の最大の意義は、約100年間にわたって維持された日本史上でも極めて稀な民衆による自治国家、「百姓の持ちたる国」が、織田信長の統一事業の前に完全に解体されたことにある 3 。加賀一向一揆の終焉は、宗教的権威を背景とした在地勢力が、中央集権化を目指す強力な武家権力には抗し得ないことを明確に示した。これにより、北陸地方における信長の支配権は確固たるものとなり、彼の天下統一事業はまた一歩大きく前進した。この出来事は、戦国乱世が終わり、統一された武家政権による支配の時代、すなわち近世へと移行していく大きな流れの中に位置づけられる。
加賀百万石の礎:金沢城下町の原点として
金沢御堂の跡地に佐久間盛政が築いた金沢城は、その後、前田利家が入城し、その子孫によって大規模な改修が重ねられ、加賀百万石前田家の壮麗な居城として発展を遂げた 14 。1580年の攻略は、この地が宗教都市から、大大名の政治・経済の中心地である城下町へと生まれ変わる直接的な契機となったのである 13 。今日の金沢市が誇る豊かな歴史と文化の礎は、まさしくこの時に築かれたと言っても過言ではない。金沢御堂の攻略は、一つの時代の終わりであると同時に、新たな大都市誕生の序曲でもあった。
戦国史における金沢御堂攻略の位置づけ
戦国時代史全体から見れば、この合戦は織田信長の対宗教勢力戦略の完成形を示す典型例として評価できる。石山合戦という本丸との交渉と、加賀という地方拠点の殲滅を連動させる戦略は、信長の政治力と軍事力の双方を巧みに駆使したものであった。
また、この戦いが生んだ人間ドラマも、戦国時代のダイナミズムを象徴している。「鬼玄蕃」と謳われた佐久間盛政が、最大の武功を挙げながらも、時代の激流の中でわずか3年で栄光の座から滑り落ち、悲劇的な最期を遂げた。そして、その結果として前田利家が巨大な領国を手に入れ、日本最大の藩の藩祖となる。この劇的な権力移動は、昨日の勝者が明日の敗者となりうる戦国時代の無常と、実力だけが全てを決定する下剋上の実態を、鮮やかに映し出している。金沢御堂の陥落は、加賀の地の運命を変えただけでなく、戦国を駆け抜けた武将たちの栄枯盛衰を映す、歴史の鏡として今に語り継がれているのである。
引用文献
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- 父の命令 - 古城万華鏡Ⅳ https://www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/kojyou4/kojyou4_3.html
- 加賀百万石の金沢城下町/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44014/
- 金沢城の年表 - 石川県 https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/kanazawazyo/history2.html
- 一向一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86
- 織田信長や徳川家康を苦しめた一枚岩の集団~一向一揆 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/nobunaga-versus-ikkoikki/
- 【戦国時代】一向一揆と本願寺の戦略地図~信長包囲網に参画し各地で一揆を起こす (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/1211/?pg=2
- 「鬼柴田」と恐れられた豪傑武者【柴田勝家】は実は家臣団にも慕われ、インサイドワークにも長けた頭脳派武将だった⁉【イメチェン!シン・戦国武将像】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/36906
- 柴田勝家 愛知の武将/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/historian-aichi/aichi-shibata/
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