鈎(まがり)の陣(1568)
永禄十一年、織田信長は足利義昭を奉じ上洛。南近江の六角氏が立ちはだかるも、信長は電撃的な戦術で箕作城を陥落させ、観音寺城を無血開城。名門六角氏は滅亡し、信長の天下布武の第一歩となった。
永禄十一年 近江攻防史:織田信長「天下布武」の第一歩と名門六角氏の落日 ―「観音寺城の戦い」のリアルタイム分析―
序章:歴史認識の整理 ―「鈎の陣」と「観音寺城の戦い」
日本の戦国時代、近江国を舞台に繰り広げられた数多の合戦の中で、永禄十一年(1568年)に発生した織田信長と六角氏の衝突は、天下の趨勢を決定づける極めて重要な一戦であった。本報告書は、この合戦を「鈎(まがり)の陣(1568)」という視点から詳細に解き明かすことを目的とする。しかし、分析に入る前に、まず歴史認識上の重要な点を整理する必要がある。
史料において「鈎の陣」とは、一般的に本件の約80年前、長享元年(1487年)に室町幕府第九代将軍・足利義尚が、幕府の権威回復を目指し、近江守護・六角高頼(政頼)を討伐するために近江国栗太郡鈎(現在の滋賀県栗東市)に陣を敷いた一連の軍事行動を指す 1 。義尚は鈎の真宝館(現在の永正寺付近)に本陣を構え、そこが事実上の政権中枢となったことから「鈎幕府」とも称された 3 。この陣は長享三年(1489年)三月、義尚が陣中で病没するまで約一年半に及んだ長期の滞陣であった 4 。
一方で、利用者様が関心を寄せる永禄十一年(1568年)の六角承禎(義賢)と織田信長の合戦は、信長が足利義昭を奉じて上洛する過程で発生した軍事衝突であり、歴史学上は六角氏の本拠地名から「観音寺城の戦い」 7 、あるいは主戦場となった支城の名を取って「箕作城(みつくりじょう)の戦い」 7 と呼称されるのが通例である。
この歴史的背景を踏まえ、本報告書は利用者様の真の意図を最大限に汲み取り、後者、すなわち永禄十一年(1568年)九月に勃発した織田信長による近江侵攻、すなわち「観音寺城の戦い」を主題とする。単なる合戦の経過に留まらず、その政治的背景、両陣営の戦略・戦術、そして歴史的意義に至るまで、可能な限り詳細かつ時系列に沿った分析を行い、合戦のリアルタイムな様相を立体的に描き出すことを試みる。
第一部:合戦前夜 ― 天下布武への序章
第一章:畿内の権力真空と足利義昭の流転
観音寺城の戦いを理解する上で、その直接的な引き金となった畿内の政治情勢、とりわけ室町幕府の権威失墜と、それに伴う足利義昭の流浪は不可欠な前提である。
永禄八年(1565年)五月十九日、第十三代将軍・足利義輝が、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と松永久秀の軍勢によって二条御所で襲撃され、自害に追い込まれるという衝撃的な事件「永禄の変」が勃発した 7 。この政変は、応仁の乱以降、徐々に形骸化していた室町幕府の権威を完全に地に堕とし、畿内における深刻な権力真空状態を生み出した。
義輝の弟であり、奈良・興福寺一乗院の門跡であった覚慶(後の足利義昭)は、次期将軍候補として三好勢に身柄を拘束された 7 。しかし、細川藤孝(幽斎)や和田惟政といった旧幕臣らの手引きにより奈良を脱出することに成功する 7 。還俗して「義秋」、後に「義昭」と名を改めた彼は、兄の遺志を継ぎ、将軍家を再興すべく、自らを奉じて上洛してくれる有力な大名を求めて流浪の旅に出た。
義昭は当初、近江の六角義賢、若狭の武田義統、そして越前の朝倉義景といった大名を頼った。特に越前の朝倉氏は、経済力・軍事力ともに幕府再興の担い手として期待されたが、当主・義景は一向一揆への対応や内政重視の姿勢から、上洛という大きなリスクを伴う軍事行動に消極的であった 8 。義昭が諸国を頼るも上洛が実現しない中、永禄十一年(1568年)二月には、三好三人衆が義昭の従兄弟にあたる足利義栄を第十四代将軍として擁立してしまう 8 。これにより、義昭は将軍職の正統性を争うライバルが出現したことに強い焦燥感を抱き、事態はますます混迷の度を深めていった。
第二章:織田信長の台頭と上洛計画
足利義昭が庇護者を求めて苦慮していた頃、尾張・美濃を拠点とする織田信長が、天下統一への道を急速に歩み始めていた。永禄十年(1567年)、信長は長年の宿敵であった斎藤龍興を稲葉山城から追放し、美濃国を完全に平定する 8 。彼は城を「岐阜」と改め、この地を新たな本拠とすると、「天下布武」と刻まれた印判の使用を開始した 8 。これは、単なる一地方の領主としての行動原理を超え、武力によって天下に新たな秩序を確立するという、信長の明確な政治的意思表示であった。
天下統一事業を推進するにあたり、信長は何よりも「大義名分」を重視した。彼は、正親町天皇から尾張・美濃における皇室領の回復を命じる綸旨(りんじ)を受けることで朝廷との連携を確保し 7 、さらに、越前で足踏み状態にあった足利義昭を美濃へ迎え入れることで、「将軍家再興」という、誰もが反論し難い大義名分を手中に収めた 8 。これにより、信長の上洛は単なる領土拡大のための軍事侵攻ではなく、乱れた天下の秩序を回復するための「公戦」としての性格を帯びることになったのである。
信長の上洛計画は、極めて周到に進められた。永禄十一年二月には、後顧の憂いを断つべく北伊勢へ侵攻し、神戸具盛ら国人を屈服させ、三男・信孝を神戸氏の養子として送り込むなど、背後の安全を確保した 12 。さらに、同盟者である三河の徳川家康や、妹婿である北近江の浅井長政との連携を再確認し、上洛ルートの確保と兵力の増強を図った 11 。こうして信長は、政治的・軍事的に万全の体制を整え、歴史の表舞台に躍り出る機会を窺っていた。
第三章:名門・六角氏の栄光と苦悩
信長の上洛ルートの前に、最後の障壁として立ちはだかったのが、南近江に君臨する名門・六角氏であった。
六角氏は、宇多源氏佐々木氏の嫡流として鎌倉時代から近江国守護を務めてきた名家中の名家である 11 。その本拠である観音寺城は、標高432メートルの繖山(きぬがさやま)に築かれた日本五大山城にも数えられる巨大な山城であった 15 。城郭は総石垣で構築され、山上に家臣団の屋敷を配するなど、安土城に先駆ける先進的な構造を誇っていた 17 。さらに経済政策においても、天文十八年(1549年)には城下の石寺で「楽市令」を発布しており、これは信長よりも早い事例として知られている 18 。
しかし、その輝かしい栄光の裏で、六角氏の権力基盤は深刻な危機に瀕していた。その最大の原因が、永禄六年(1563年)に発生したお家騒動「観音寺騒動」である。当主・六角義治が、人望の厚い重臣であった後藤賢豊とその子を観音寺城内で謀殺したこの事件は、家臣団の激しい反発を招いた 21 。後藤氏と縁戚関係にある家臣らは浅井長政と結んで挙兵し、義賢(承禎)・義治父子は一時、本拠である観音寺城から追放されるという屈辱を味わった 24 。
この内紛は、重臣・蒲生定秀らの仲介によって辛うじて収拾されたものの、その代償は大きかった。永禄十年(1567年)には、家臣団が起草し、当主の権限を大幅に制約する内容の分国法「六角氏式目」に義治が署名させられる事態に至る 21 。これは、大名の権力を家臣が法的に束縛するという異例の事態であり、六角氏当主の求心力と統制力が著しく低下していたことを物語っている。六角氏の敗北は、信長の軍事力に屈したという側面以上に、この内部崩壊にこそ根本的な原因があった。信長の侵攻は、すでに内側から崩れかけていた巨大な構造物に対する、最後の一押しに過ぎなかったのである。
このような状況下で、信長から上洛への協力を求められた六角氏は、これを断固として拒絶した 7 。その背景には、新興勢力である織田氏の風下に立つことへの名門としてのプライド 11 に加え、当時畿内を支配し、足利義栄を将軍に擁立していた三好三人衆との間に同盟関係があったことが大きい 8 。信長の上洛軍を通過させることは、同盟相手である三好氏への裏切り行為に他ならなかった。事実、信長が近江に着陣する少し前には、三好三人衆と重臣の篠原長房が観音寺城を訪れ、対織田の軍議を行っていたと記録されている 7 。六角氏は、織田信長という時代の奔流に、敢えて逆らおうと決断したのである。
第二部:観音寺城の戦い ― 詳細な時系列分析
第四章:織田軍、近江侵攻(永禄十一年九月七日~十一日)
永禄十一年(1568年)九月七日、天下統一への第一歩が記された。織田信長は、擁立すべき足利義昭を岐阜城に残し、尾張・美濃・伊勢、そして同盟国である三河の軍勢を率いて、岐阜城から出陣した 13 。信長直属の兵は約15,000、これに徳川家康軍の1,000、そして北近江の義弟・浅井長政が率いる3,000などが合流し、その総兵力は最終的に50,000から60,000という、当時の常識を覆す大軍勢に膨れ上がったとされる 11 。
翌九月八日、織田軍の先鋒は早くも近江国に侵入し、高宮(現在の滋賀県彦根市)に着陣した 28 。その進軍速度は驚異的であり、六角氏の防衛体制が整う前に、敵地深くへと進攻した。
九月十一日、信長は軍をさらに南下させ、六角領との境界線である愛知川(えちがわ)近辺に布陣した。『信長公記』によれば、信長はこの地で自ら馬を駆って陣営を巡視し、戦況をその目で確かめたという 14 。この時、信長は六角氏が領内に配置した数多の支城には目もくれず、攻撃目標を六角承禎・義治父子が直接立て籠もる本拠・観音寺城と、その最重要支城である箕作城の二つに絞り込んだ 14 。これは、敵の末端の防衛網を一つ一つ潰していく消耗戦を避け、指揮系統の中枢を直接叩くことで、敵全体の戦意と組織的抵抗力を一挙に粉砕するという、信長の明確な戦略意図の表れであった。
第五章:決戦、九月十二日 ― 箕作城・和田山城の攻防
決戦の日は、九月十二日に訪れた。この一日の攻防が、名門六角氏の運命を決定づけることになる。
六角承禎は、織田軍の大軍に対し、伝統的な籠城戦術で対抗しようと計画した。本拠である観音寺城には約1,000の兵のみを残し、主力を領内の18の支城に分散配置した 11 。特に防衛の要と見なされた和田山城には約6,000、そして観音寺城の眼前に位置する箕作城には約3,000の兵を重点的に配備した 11 。六角方の狙いは、織田軍がまずこれらの支城に取り付くと予測し、そこで時間を稼ぎつつ、各支城が連携して敵を挟撃するという、当時の山城防衛における定石であった 11 。
しかし、信長の戦術は六角氏の予測を遥かに超えていた。九月十二日早朝、織田軍は愛知川を渡河すると、すぐさま軍を三隊に分割し、三方面への同時攻撃を開始した 7 。
- **第一隊(稲葉良通ら)**は、六角軍の主力が籠る和田山城へ向かった。これは敵の主力を引きつけ、釘付けにするための陽動部隊としての役割を担っていたと考えられる。
- **第二隊(柴田勝家、森可成ら)**は、本拠・観音寺城の正面へと進軍した。これにより、六角本隊の動きを牽制し、支城への援軍や城からの脱出を阻止する狙いがあった。
- **第三隊(信長本隊、滝川一益、丹羽長秀、木下秀吉ら)**は、全軍の主力を率いて、六角防衛網の要である箕作城へと殺到した。信長は、この城を陥落させれば、六角氏の防衛計画そのものが根底から崩壊することを見抜いていたのである。
戦端は、信長自らが率いる箕作城で開かれた。木下秀吉隊(2,300)、丹羽長秀隊(3,000)などが、北と東の登城口から猛然と攻撃を開始した 7 。しかし、箕作城は急峻な地形を利用した堅城であり、城将・吉田出雲守が率いる守備兵の抵抗も激しく、織田軍は多大な損害を被って攻めあぐねた 7 。『信長公記』は、申の刻(午後五時頃)には、織田軍が逆に城兵に追い崩されるほどの苦戦を強いられたと記しており、昼間の正攻法では攻略が極めて困難であったことが窺える 7 。
このままではいたずらに損害が増えるだけだと判断した木下秀吉は、日没後に軍議を開き、常識を覆す「夜襲」を決行する 7 。秀吉は配下の蜂須賀小六らに対し、「このままでは面目が立たぬ」と決意を語ったと伝わっている 33 。夜陰に乗じた織田軍の奇襲は、昼間の激戦で疲弊していた守備兵の意表を完全に突いた。混乱の中、城内各所で激しい白兵戦が繰り広げられ、夜が明ける前には、難攻不落を誇った箕作城はついに陥落した 14 。
箕作城の落城は、六角軍全体に致命的な衝撃を与えた。防衛計画の要が、わずか一日、しかも夜襲という不意打ちで破られたという報は、兵士たちの士気を完全に打ち砕いた。この報に接した和田山城の守将・田中治部大夫と6,000の兵は、織田軍と一戦も交えることなく城を捨てて逃散 36 。そして、本拠・観音寺城にいた六角承禎・義治父子も、もはやこれまでと観念し、一族郎党を率いて城を放棄。先祖代々の地盤であり、ゲリラ戦の拠点ともなる甲賀郡へと落ち延びていった 7 。
信長の戦略は、旧来の戦国大名が固執した消耗戦や長期包囲戦とは全く異なるものであった。敵の防衛網の弱点(中枢)を見抜き、そこに全戦力を一点集中させ、圧倒的な速度でこれを撃破する。昼間の攻撃が頓挫すれば、即座に夜襲へと戦術を転換する柔軟性と決断力。この「一点集中」「速度」「心理的衝撃」を組み合わせた戦術は、まさに「電撃戦」と呼ぶにふさわしく、伝統的な権威に安住していた六角氏の常識を根底から覆すものであった。観音寺城の戦いは、信長の革新的な軍事思想が初めて大規模に実践され、その有効性が証明された戦いであったと言える。
「観音寺城の戦い」詳細時系列表(永禄十一年九月七日~十三日)
日付・時刻 |
織田軍の動向 |
六角軍の動向 |
主要人物・その他特記事項 |
典拠史料 |
九月七日 |
信長、岐阜城を出陣。 |
観音寺城及び支城群で籠城準備。 |
総兵力5~6万。徳川家康、浅井長政も参陣。 |
『信長公記』 28 |
九月八日 |
近江国高宮に着陣。 |
籠城を継続。 |
- |
『信長公記』 28 |
九月十一日 |
愛知川近辺に布陣。信長自ら戦況を視察。 |
織田軍が支城を攻めてくると予測。 |
信長、観音寺城と箕作城への主目標を定める。 |
『信長公記』 14 |
九月十二日 |
**【早朝】**愛知川を渡河。軍を三分割。 |
箕作城(吉田出雲守)、和田山城(田中治部大夫)などで迎撃態勢。 |
稲葉隊→和田山城、柴田・森隊→観音寺城、信長本隊→箕作城。 |
『信長公記』 7 |
|
**【午後】**箕作城への攻撃開始。 |
箕作城守備隊が奮戦。織田軍を撃退。 |
木下秀吉、丹羽長秀らが攻めあぐねる。 |
『信長公記』 7 |
|
**【夜】**木下秀吉、軍議の末、夜襲を決行。 |
守備兵が疲弊。夜襲に意表を突かれる。 |
秀吉の決断が戦局を打開する。 |
『信長公記』 7 |
|
**【深夜~未明】**夜襲成功。箕作城を陥落させる。 |
箕作城陥落の報に動揺。 |
- |
『信長公記』 14 |
九月十三日 |
**【未明】**観音寺城へ進軍。 |
和田山城の兵が戦わずして逃散。六角父子、観音寺城を放棄し甲賀へ逃走。 |
六角氏の防衛網が完全に崩壊。 |
『言継卿記』 12 |
|
**【午前】**観音寺城を無血で接収。 |
- |
南近江の平定が完了。蒲生氏らが降伏。 |
『信長公記』 14 |
第六章:無血開城と近江平定(九月十三日~二十六日)
九月十三日の夜が明ける頃には、南近江の戦況は完全に決してした。織田軍は、主を失いもぬけの殻となった観音寺城を、一滴の血も流すことなく接収した 7 。これにより、鎌倉時代以来、約400年にわたって近江に君臨した名門・六角氏の支配は、事実上、終わりを告げたのである。
六角氏のあまりにも早い敗北は、周辺の国人領主たちに大きな衝撃を与えた。『言継卿記』には、後藤、長田、進藤、永原、池田、平井、九里といった六角氏の重臣たちが、敵である信長に同心したと記されており 12 、観音寺騒動以来の家中の亀裂が、当主の敗北と共に一気に噴出したことを示している。
中でも特筆すべきは、六角氏配下で有力な国人であった蒲生賢秀の動向である。彼は主家が敗走した後も、居城である日野城に1,000の兵と共に立て籠もり、抵抗の構えを見せた 7 。しかし、賢秀の妹を妻としていた織田方の部将・神戸具盛が城に乗り込んで説得にあたった結果、賢秀は降伏を決断。その証として、嫡男の鶴千代(後の蒲生氏郷)を人質として信長に差し出した 7 。信長は、この利発な少年の才覚を瞬時に見抜き、人質でありながら手元に置いて寵愛し、後には娘の冬姫を娶らせるなど破格の待遇で遇したと伝えられている 38 。
南近江の平定を完了した信長は、九月二十二日、観音寺城の麓にある桑実寺(くわのみでら)において、岐阜から呼び寄せた足利義昭と対面した 11 。上洛への最後の障害を取り除いた信長は、いよいよ最終目的である京への進軍を開始する。
九月二十六日、足利義昭はついに念願の上洛を果たした。信長は京都の東寺に、義昭は清水寺にそれぞれ陣を構え、天下に新たな時代の到来を告げたのである 12 。
第三部:合戦後の影響と歴史的意義
第七章:畿内制圧と新体制の構築
信長の上洛は、畿内の政治地図を瞬く間に塗り替えた。六角氏という東の防壁を失った三好三人衆は、織田軍の圧倒的な軍事力の前に組織的な抵抗をすることができず、本拠地である摂津や山城を放棄して四国へと敗走した 7 。信長は岐阜を出てからわずか20日足らずで、ほとんど戦闘を行うことなく畿内の中枢を制圧したのである。
十月十八日、足利義昭は朝廷から征夷大将軍に任じられ、ここに室町幕府は形式的ながら再興を遂げた 27 。信長は義昭を将軍として擁立し、その軍事力を背景に畿内の安定化を図った。しかし、この信長主導の政権運営は、後に将軍としての権威を発揮しようとする義昭との間に深刻な対立を生む火種ともなった。
この権力移行期において、最も巧みな動きを見せたのが、梟雄として知られる松永久秀であった。彼は永禄の変以降、三好三人衆と泥沼の抗争を続けていたが、信長の上洛を自らの勢力回復の好機と捉えた 41 。久秀は信長が芥川城に入るといち早く馳せ参じ、名物茶器として名高い「九十九髪茄子(つくもなす)」を献上して恭順の意を示した 12 。信長はこの現実主義者の価値を認め、その罪を許して大和一国の支配を安堵した。観音寺城の戦いは、単に六角氏を排除しただけでなく、三好三人衆を孤立させ、松永久秀のような旧勢力を巧みに織田政権下に再編するというドミノ効果を生み出した。これにより信長は、武力のみならず、既存の勢力関係を巧みに利用して、短期間で畿内の覇権を確立することに成功したのである。
第八章:敗者の行方 ― 六角氏の抵抗と終焉
観音寺城を追われた六角承禎・義治父子の戦いは、まだ終わってはいなかった。彼らは、古くからの地盤であり、独立性の強い武士団が割拠する甲賀郡へと逃れ、そこで再起を図った 37 。甲賀武士団の協力を得た六角氏は、織田軍の支配に対して粘り強いゲリラ戦を展開し、信長の背後を脅かし続けた 14 。これは、かつて足利将軍家の討伐軍を長年にわたって手こずらせた、六角氏の伝統的な戦術でもあった 6 。
元亀元年(1570年)、浅井長政の離反をきっかけに「信長包囲網」が形成されると、六角氏はその一翼を担う重要な存在として、反信長勢力に加わった 43 。彼らは近江の一向一揆とも連携し、信長を大いに苦しめた。しかし、元亀四年(天正元年、1573年)に包囲網の要であった武田信玄が病死し、浅井・朝倉氏が信長によって滅ぼされると、反信長勢力は急速に瓦解していく。
天正二年(1574年)、信長は近江における反抗勢力の掃討に乗り出し、六角氏の最後の拠点であった甲賀の石部城は、織田軍の大軍に包囲され、ついに陥落した 23 。この敗北をもって、戦国大名としての六角氏は完全に滅亡し、歴史の表舞台から姿を消すこととなった。
第九章:総括 ― 観音寺城の戦いが残したもの
永禄十一年(1568年)の観音寺城の戦いは、日本の歴史における一つの大きな転換点であった。
第一に、この戦いは信長が「天下布武」を掲げて起こした最初の本格的な軍事行動であり、その圧倒的な勝利は、彼が単なる尾張・美濃の一大名から、天下人へと名乗りを上げる決定的な契機となった 7 。
第二に、信長が展開した電撃的な戦術は、戦国時代の戦争のあり方を大きく変えた。伝統的な権威と堅固な山城に頼った名門守護大名が、わずか数日で滅亡に追い込まれた事実は、戦争の勝敗を決する要因が、もはや家格や城の堅牢さではなく、兵力の集中、機動力、そして情報に基づいた合理的な戦略へと移行したことを象徴する出来事であった。
第三に、この信長の上洛と畿内平定は、応仁の乱以来100年以上続いた戦国乱世の一つの時代に終止符を打ち、織田政権による天下統一事業が本格的に開始される狼煙となった。歴史区分上、この永禄十一年を以って「安土桃山時代」の始まりとする見解が存在するほど、画期的な戦いであったと評価できる 7 。
六角氏の敗因は複合的である。観音寺騒動による家臣団の離反という内部崩壊、信長の革新的な戦術、そして同盟相手であった三好三人衆が松永久秀との内紛で疲弊し、有効な支援を送れなかったという外的要因。これら全てが複雑に絡み合った結果、名門六角氏は歴史の奔流に飲み込まれていったのである。この一戦は、旧時代の終焉と新時代の幕開けを、鮮烈に告げるものであった。
引用文献
- 鈎陣所跡(永正寺) | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる! https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/3690/
- 広報りっとう - 栗東市 http://www.city.ritto.lg.jp/koho/2402/021_4.html
- 九代将軍 足利義尚公 わずか1年半「鈎幕府」の地 - 利昌工業 https://www.risho.co.jp/rishonews/now/rn233_01/risho_now.html
- 鈎の陣跡(東海道 - 石部~草津) - 旧街道ウォーキング - 人力 https://www.jinriki.info/kaidolist/tokaido/ishibe_kusatsu/magarinojinato.html
- 鈎の陣所(滋賀県栗東市) http://saigyo.sakura.ne.jp/magarinojinsho.html
- 52.鈎の陣と甲賀忍者(栗東市) - 近江史を歩く https://biwap.raindrop.jp/details1062.html
- 観音寺城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%AF%BA%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 【解説:信長の戦い】観音寺城の戦い(1568、滋賀県近江八幡市安土町) 信長上洛の途で六角氏が通せんぼ!? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/384
- 三好三人衆との対立 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/hisahide/hr03.html
- 天下統一期年譜 1568年 http://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/syokuho/syokuho2.htm
- 観音寺城の戦い古戦場:滋賀県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kannonjijo/
- 1568年 – 69年 信長が上洛、今川家が滅亡 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1568/
- 【信長、上洛】1568年9月7日|Mitsuo Yoshida - note https://note.com/yellow1/n/nf585b7e8028d
- 第二節 織田信長の六角氏打倒 http://www.edu-konan.jp/ishibeminami-el/kyoudorekishi/302020100.html
- 観音寺城跡 | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる! https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/886/
- 観音寺城/特選 日本の城100選(全国の100名城)|ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/famous-castles100/shiga/kannonji-jo/
- 観音寺城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%AF%BA%E5%9F%8E
- 実は「楽市・楽座」は織田信長の発案ではなかった!信長以前の「楽市令」とは?:2ページ目 https://mag.japaaan.com/archives/211002/2
- 楽市・楽座 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%BD%E5%B8%82%E3%83%BB%E6%A5%BD%E5%BA%A7
- 楽市楽座 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/rakuichirakuza/
- 観音寺騒動 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%AF%BA%E9%A8%92%E5%8B%95
- 上洛と観音寺騒動とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E4%B8%8A%E6%B4%9B%E3%81%A8%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%AF%BA%E9%A8%92%E5%8B%95
- 六角承禎―負けても勝った、名門大名 | 天野純希 「戦国サバイバー」 | よみタイ https://yomitai.jp/series/sengokusurvivor/03-rokkakuyoshikata/3/
- 観音寺騒動 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/key/kannonjisoudou.html
- 六角氏式目- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%85%AD%E8%A7%92%E6%B0%8F%E5%BC%8F%E7%9B%AE
- 六角氏式目- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%85%AD%E8%A7%92%E6%B0%8F%E5%BC%8F%E7%9B%AE
- 信長上洛~京都・織田信長入京から450年~ - 京都府京都文化博物館 https://www.bunpaku.or.jp/exhi_sogo_post/nobunagazyouraku450/
- 歴史の目的をめぐって 六角義賢 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-43-rokkaku-yoshikata.html
- 六角義賢は何をした人?「なんど負けても信長にゲリラ戦を挑んですべてを失った」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yoshikata-rokkaku
- 第149話 反織田勢力は真面目に企む - どうせなら知将になりたかっ https://kakuyomu.jp/works/1177354054888078960/episodes/1177354054889358074
- 戦国八咫烏とは - わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E5%85%AB%E5%92%AB%E7%83%8F
- 箕作山城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/260/memo/4279.html
- 織田信長・箕作山城の戦い③ http://members.e-omi.ne.jp/527shuku.higo.seikai/sub52.html
- 箕作城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.mitsukuri.htm
- 豊臣秀吉は何をした人?「猿と呼ばれた小者が農民から関白になって天下統一した」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/hideyoshi-toyotomi
- 和田山城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.wadayama.htm
- 長享・延徳の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%AB%E3%83%BB%E5%BB%B6%E5%BE%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1
- 蒲生氏郷 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E6%B0%8F%E9%83%B7
- 戦国時代のレオン⁈信長を魅了し、秀吉を恐れさせた男・蒲生氏郷の素顔 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/75573/
- 観音寺城の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11093/
- 筒井順慶、松永久秀の激闘~大和武士の興亡(16) https://www.yamatotsurezure.com/entry/yamatobushi16_junkei2
- 大仏炎上と信長の上洛。松永久秀(6) - 大和徒然草子 https://www.yamatotsurezure.com/entry/hisahide06
- カードリスト/玄/第4弾/玄133_六角義賢 - 英傑大戦wiki https://w.atwiki.jp/eiketsu-taisen/pages/1873.html
- 【六角軍と織田軍】 - ADEAC https://adeac.jp/konan-lib/text-list/d100010/ht030450
- 六角義賢 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%A7%92%E7%BE%A9%E8%B3%A2