鉢形城の戦い(1568)
永禄十二年、甲相駿三国同盟崩壊後、武田信玄は北条氏を牽制すべく関東へ侵攻。鉢形城を迂回し小田原城を包囲するも攻略せず撤退。追撃する北条軍を三増峠で撃破し、武田軍の機動力と戦略的優位を示した。この戦いは越相同盟の成立を促し、関東の勢力図を大きく動かした。
永禄十二年、甲斐の虎、武蔵に吼える – 鉢形城の戦い 全詳解
序章:戦史の扉 – 鉢形城と武田信玄の対峙
本報告書の目的と構成
本報告書は、永禄12年(1569年)に武蔵国で発生した「鉢形城の戦い」について、その戦略的背景、戦闘の時系列的展開、そして戦国史における歴史的影響に至るまで、多角的な視点から詳解することを目的とする。単に合戦の経過を追うだけでなく、対峙した武田信玄と北条氏邦の戦略的意図、鉢形城が有した城郭としての防御機能といった専門的分析を交え、この戦いの全体像を立体的に描き出すことを目指す。
年代に関する考察(永禄11年と12年の連続性)
本件の照会において提示された「1568年」は、元号では永禄11年に該当する。この年の12月、甲斐の武田信玄は駿河国への大規模な侵攻を開始した 1 。この軍事行動が、それまで同盟関係にあった相模の北条氏との決定的な対立を生む直接の原因となった 2 。そして、本報告書の主題である鉢形城への直接的な攻撃は、この一連の軍事行動の延長線上で、翌永禄12年(1569年)9月に行われたものである 3 。したがって、本報告書では、永禄11年(1568年)末の駿河侵攻を全ての序章と位置づけ、そこから連鎖的に発生した永禄12年(1569年)の関東侵攻、特に鉢形城における攻防を主題として扱う。これらは断絶した個別の事象ではなく、信玄の壮大な対北条戦略の下で展開された、連続性のある一つの大きな軍事作戦であったと理解することが、本質を捉える上で不可欠である。
北武蔵の要衝・鉢形城の戦略的重要性
鉢形城は、後北条氏にとって北関東、特に上野国への進出を図る上での最前線基地であった 6 。同時に、北方の宿敵である越後の上杉謙信に対する防衛網の中核を成す、極めて戦略的価値の高い拠点でもあった 7 。荒川と深沢川の断崖に三方を囲まれた天然の要害に、城主・北条氏邦が大規模な改修を加えており、武蔵国屈指の堅城としてその名を轟かせていた 6 。この城の存在が、北条氏の関東支配を盤石なものにしていたのであり、武田信玄が関東侵攻の進路上、この城を無視して南下することは戦略的に不可能であった。
第一章:戦いの序曲 – 甲相駿三国同盟、落日の刻
盤石に見えた三国同盟の構造
天文23年(1554年)、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元という、当代屈指の実力者たちの間で締結された甲相駿三国同盟は、東国に一時の安定をもたらした 2 。この同盟は、それぞれの子女の婚姻関係によって固められ、相互不可侵と軍事協力の側面を持つ、極めて強固な枠組みに見えた。しかし、その基盤は各大名の勢力均衡という、常に変動しうる脆いバランスの上に成り立っていたのである。
均衡の崩壊 – 桶狭間の衝撃
永禄3年(1560年)、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれるという衝撃的な事件は、この均衡を根底から揺るがした 9 。今川氏の弱体化は、領国であった三河において松平元康(後の徳川家康)の自立を招くなど、その支配体制に深刻な動揺をもたらした 2 。このパワーバランスの崩壊は、長年、海への出口を渇望していた武田信玄に、今川領国への野心を抱かせる絶好の機会を与えることになった。桶狭間の戦いを遠因とする約10年にわたる東国情勢の変動が、最終的に鉢形城の戦いへと繋がっていく。今川氏の弱体化がドミノ倒しのように各勢力の戦略を転換させ、武田・北条という巨大勢力の直接対決に至らしめたのである。
信玄の野心と外交戦略
信玄は今川領国への野心を隠さず、着々と布石を打っていた 2 。尾張の織田信長とは、信長の養女を自身の四男・勝頼の室に迎えるなど関係を強化 2 。さらに、今川氏から自立した三河の徳川家康とは、大井川を境に今川領を分割するという密約を交わした 1 。これらは、婚姻によって結ばれた三国同盟の精神を完全に踏みにじる行為であり、信玄の冷徹な現実主義を物語っている。
同盟崩壊の決定打
永禄10年(1567年)、今川氏真は武田領国への塩の供給を停止する「塩止め」を敢行 2 。また、信玄の嫡男・義信(母は今川義元の娘)が謀反の疑いで幽閉され、その後に死去した事件も、両家の不信感を決定的なものとした 2 。これらの出来事は、もはや同盟関係が修復不可能な段階にあることを示していた。
甲相同盟の破綻 – 北条氏康の激怒
そして永禄11年(1568年)12月、信玄は徳川家康と連携し、駿河への侵攻を開始する 2 。これに対し、今川氏真の舅である北条氏康は激怒した。氏康の娘・早川殿が夫の氏真と共に掛川城へ徒歩で逃れるという屈辱を味わったことも、その怒りに油を注いだ 2 。氏康は娘婿である氏真を救援すべく駿河へ出兵。ここに、武田と北条の間に結ばれていた甲相同盟も事実上崩壊し、両者の武力衝突は不可避となった。信玄の駿河侵攻は、北条氏の介入を予測した上での行動であった可能性が高く、甲相同盟の破綻は「予期せぬ結果」ではなく、駿河という戦略的価値の高い土地を得るための「計算されたリスク」であったと考えられる。
新たな対立軸の形成 – 越相同盟へ
武田信玄という共通の敵を前に、これまで長年にわたり関東の覇権を争ってきた北条氏と越後の上杉謙信が手を結ぶという、戦国史における大きな地殻変動が起きる 12 。永禄12年(1569年)6月、両者の間で越相同盟が成立 14 。これにより武田氏は、北・東・南の三方を敵に囲まれる形勢となった。この対武田包囲網を打破し、特に北条氏に直接的な打撃を与えることが、信玄の関東侵攻の直接的な動機となったのである。
第二章:信玄、関東へ – 武田軍二万の進撃路と戦略
侵攻の戦略目標
永禄12年(1569年)の武田信玄による関東侵攻は、単に城を攻略し領土を切り取ることだけを目的としたものではなかった。その主目的は、以下の三つの複合的な目標を達成するための、大規模な示威行動(武力偵察)であったと分析できる。
- 駿河方面への圧力軽減: 北条氏の本拠地を直接脅かすことで、駿河に展開している北条軍を関東へ引き戻させ、駿河平定を容易にすること。
- 越相同盟の無力化: 成立したばかりの越相同盟が実質的に機能しないことを見せつけ、北条領内の国衆を動揺させること。上杉が救援に現れなければ、同盟に亀裂を生じさせることができる。
- 武田軍の威力の誇示: 北条氏の本拠地・小田原城下にまで肉薄することで、武田軍の圧倒的な機動力と攻撃力を誇示し、北条氏に深刻な心理的打撃を与えること 16 。
この侵攻は、武田信玄の「機動戦」思想の真骨頂を示すものであった。城を落とすこと自体を目的とせず、軍団という「存在」そのものを戦略兵器として用い、敵国領内を席巻することで、物理的な破壊以上の政治的・心理的効果を狙ったのである。
軍勢の編成と主要武将
この遠征に動員された兵力は、総勢2万と推定されている 5 。これは当時の単一の大名が動員しうる最大級の兵力であり、信玄のこの作戦にかける意気込みが窺える。その編成は、武田軍の精鋭で固められていた。
- 総大将: 武田信玄
- 中核部隊: 「武田四天王」と称される山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、高坂昌信といった歴戦の宿将たちが軍の中核を担った。また、信玄の後継者である武田勝頼も一軍を率いて参陣しており、重要な局面で役割を果たしている 17 。
- 先導役: 上野国や信濃国の地理に極めて明るい真田幸隆(幸綱)とその一族が、先導役や情報収集、さらには道中の国衆への調略などで重要な役割を果たしたと考えられる 18 。彼ら在地勢力の協力なくして、2万という大軍の迅速な移動と補給は困難であり、武田軍の強さが多様な勢力を束ねる信玄の政治力に支えられていたことを示している。
進軍ルートの選択 – 碓氷峠越え
永禄12年8月24日、武田軍は甲府の躑躅ヶ崎館を出陣した 5 。軍勢は通常の侵攻ルートである甲斐・相模国境を避け、意表を突くように北上。信濃佐久郡から碓氷峠を越えて上野国へと侵入した 5 。このルートは、最短距離で北条氏の北関東における支配領域の心臓部を突くことができる、電撃戦に最適な経路であった。
武蔵国への侵攻
上野の諸城を牽制しつつ、武田軍は破竹の勢いで南下した。その進撃速度は驚異的であり、北条方の防衛体制が整う前に武蔵国へと深く侵入した。そして9月9日、武田軍の先鋒は、ついに鉢形城の支城である御嶽城にその姿を現した 3 。甲斐の虎が、北武蔵の地に牙を剥いた瞬間であった。
表1:主要参戦武将一覧
軍勢 |
主要武将名 |
役職・立場 |
兵力(推定) |
本合戦における主な動向 |
武田軍 |
武田信玄 |
総大将 |
20,000 |
全軍を指揮。鉢形城の戦略的迂回、小田原包囲、三増峠での勝利を主導。 |
|
山県昌景 |
重臣(赤備え) |
- |
別動隊を率い、三増峠の戦いで北条軍の側背を突くなど重要な役割を果たす。 |
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馬場信春 |
重臣 |
- |
軍の中核として、各所の戦闘に参加。 |
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内藤昌豊 |
重臣 |
- |
軍の中核として、各所の戦闘に参加。 |
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武田勝頼 |
信玄後継者 |
- |
三増峠の戦いでは殿(しんがり)などを務めたとされる 17 。 |
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真田幸隆 |
信濃の国衆 |
- |
先導役として、地理案内や情報収集で貢献したと推察される 18 。 |
北条軍 |
北条氏邦 |
鉢形城主 |
3,000-5,000 |
鉢形城に籠城し、武田軍の攻撃を撃退。その後、三増峠の戦いに参戦 16 。 |
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北条氏照 |
滝山城主 |
- |
滝山城を防衛。その後、兄・氏政、弟・氏邦と共に三増峠の戦いに参戦 16 。 |
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北条氏康 |
大御所 |
45,000(全軍) |
小田原城にて総指揮。籠城策を徹底し、野戦を回避 16 。 |
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北条氏政 |
当主 |
- |
父・氏康と共に小田原城に籠城。追撃軍を派遣 16 。 |
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藤田康邦 |
氏邦の岳父 |
- |
氏邦の家臣団の中核として、旧藤田家臣を率いて防衛戦に参加した可能性 7 。 |
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猪俣邦憲 |
氏邦家臣 |
- |
鉢形城の守備兵力の一員として奮戦したと推察される 21 。 |
第三章:鉄壁の要塞 – 鉢形城の地勢と防衛機能
天然の要害
鉢形城は、荒川とその支流である深沢川が合流する地点の断崖絶壁上に築かれた、典型的な戦国時代の平山城である 3 。北を荒川、東を深沢川に囲まれ、その断崖は天然の堀として機能し、敵の接近を物理的に不可能にしていた 3 。これにより、大規模な軍勢が攻撃可能な方向は、唯一陸続きである南西方面に限定されるという、防衛側にとって極めて有利な地形を有していた。
城主・北条氏邦による大改修
この城が難攻不落の名城として完成されたのは、城主・北条氏邦の時代である。氏邦は、この城を北関東支配の拠点とするべく、大規模な改修・拡張工事を施した 6 。現在、鉢形城跡に残る土塁や堀といった遺構の多くは、この氏邦による改修の跡であり、彼の築城家としての卓越した手腕を今に伝えている。鉢形城は単なる堅城ではなく、北条氏の領国経営思想を体現した城郭であった。城そのものの防御力に加え、御嶽城のような支城網や、周囲の丘陵に設けられた物見台・狼煙台による監視網を構築し、地域全体で防衛する「面」の防御思想が見て取れる 3 。
北条流城郭術の粋 – 縄張りと防御施設
氏邦が施した改修には、当時の最先端であった後北条氏独自の城郭技術が惜しみなく投入されていた。
- 連郭式縄張り: 城の構造は、南西の大手口から外曲輪、三の曲輪、二の曲輪、本曲輪、そして搦手にあたる笹曲輪へと、主要な曲輪が直線的に連なる「連郭式」を採用している 23 。これにより、仮に一つの曲輪が突破されても、次々と現れる防御線を敵に強いる多重防御システムが構築されていた。
- 馬出(うまだし)・角馬出(かくうまだし): 城の出入り口である虎口を守るために設けられた小規模な曲輪が「馬出」である。特に、虎口の前にさらに防御施設を設ける「角馬出」は後北条氏系城郭の大きな特徴で、敵の直進を防いで側面から攻撃を加えることを可能にし、同時に城内からの出撃を容易にする効果があった 3 。
- 障子堀(しょうじぼり): 堀の底に畝(うね)と呼ばれる土塁を複数設ける、後北条氏独特の堀の形態である 25 。これは、堀底に侵入した敵兵の自由な移動を妨害し、その動きが鈍ったところを城内から狙い撃つための、極めて効果的な防御施設であった 3 。
- 石積土塁: 江戸時代の城郭に見られるような高く切り立った石垣とは異なり、川原石などを巧みに積み上げて土塁の表面を補強した「石積土塁」が用いられていた 26 。これにより、土塁の崩落を防ぎ、防御力を高めていた。
守将・北条氏邦の人物像
鉢形城を守る北条氏邦は、北条氏康の四男(一説に五男)であり、武勇と知略に優れた有能な武将であった 6 。彼は、この地の有力な国衆であった藤田康邦の婿養子となり、その勢力を巧みに吸収することで、北武蔵における支配基盤を盤石なものとしていた 7 。単なる武人としてだけでなく、領国経営にも長け、城下町を整備するなど、民政にも意を用いていたとされる 28 。
籠城する鉢形衆
氏邦の指揮下で籠城する兵力は、旧藤田氏の家臣団や、上野・武蔵の国衆たちで構成されていた。家老には黒澤氏や諏訪部氏、藤田氏の一族などが名を連ねており、彼らは地の利を熟知し、郷土防衛の意識も高く、士気は旺盛であったと推察される 12 。武田の大軍を前にしても、彼らは城主・氏邦への忠誠と、鉄壁の要塞・鉢形城への信頼を胸に、徹底抗戦の構えを見せていた。
第四章:永禄十二年九月、攻防の刻 – 鉢形城の戦い、時系列詳解
九月九日 – 前哨戦
- 午前: 永禄12年(1569年)9月9日、碓氷峠を越えて上野国を席巻し、南下してきた武田軍の先鋒が、鉢形城の北方約10キロメートルに位置する支城・御嶽城(現在の埼玉県神川町)に姿を現した 3 。狼煙や早馬による急報が、鉢形城下に緊張を走らせた。
- 午後: 武田軍は、城主・平沢政実らが守る御嶽城への攻撃を開始する 5 。この攻撃は、鉢形城を孤立させ、その防衛ネットワークを断ち切るためのものであり、同時に鉢形城への最後通牒ともいえる示威行動であった。
九月十日 – 鉢形城、炎上
- 早朝: 御嶽城落城の報を受け、鉢形城内は臨戦態勢に入る。城主・北条氏邦は全軍に籠城を厳命し、兵士たちはそれぞれの持ち場である曲輪へと配置された。城の三方を囲む荒川と深沢川の断崖が朝日に照らされ、静かな緊張感が城内を支配していた。
- 午前: 武田信玄率いる約2万の本隊が、地響きを立てながら鉢形城下に到達。城の唯一の弱点である南西の平地部に陣を敷き、城を完全に包囲した。その軍容は、城兵に大きな心理的圧迫を与えたことであろう。
- 正午過ぎ: 武田軍の一部隊が、鬨の声を上げて攻撃を開始した。目標は、城の最前線である「外曲輪」であった 3 。鉄砲隊が城壁上の守備兵を射撃して牽制し、その援護の下で足軽たちが土塁へと殺到した。
- 午後: 外曲輪を巡り、両軍による死闘が繰り広げられた。武田軍は波状攻撃を仕掛けるが、北条軍は氏邦の巧みな指揮の下、地の利を最大限に活かして頑強に抵抗した。土塁の上からは矢や石が雨のように降り注ぎ、馬出からは小部隊が果敢に出撃して敵の側面を突いた。しかし、兵力で圧倒的に勝る武田軍の猛攻は凄まじく、北条方は多数の死傷者を出し、苦戦を強いられた 3 。
- 夕刻: 激戦の最中、氏邦は一つの決断を下す。越後の上杉謙信に対し、救援を要請する使者を密かに城外へと放ったのである 3 。この書状は、氏邦が感じていた危機感を如実に物語る一次史料であると同時に、成立したばかりの越相同盟の真価を問うものでもあった。この氏邦の行動は、信玄にとって計算通りの展開だった可能性も否定できない。これにより、北条氏が自力で領国を守れず、宿敵上杉に頼らざるを得ないという弱さを内外に示し、もし謙信が応じなければ越相同盟に亀裂を生じさせることができるからである。鉢形城への攻撃は、敵の同盟関係を揺さぶるための高度な「外交戦」の一環でもあった。
九月十一日以降 – 信玄の戦略的判断
- 信玄の計算: 一夜明け、信玄は戦況を冷静に分析した。鉢形城の防御は予想以上に堅固であり、力攻めを続ければ、たとえ落城させることができたとしても、自軍に多大な損害が出ることは必至であった 16 。
- 主目標の優先: 信玄のこの遠征における最終目標は、あくまで北条氏の本拠地・小田原城への示威行動であり、その権威を失墜させることにあった。鉢形城という一支城の攻略に時間を浪費することは、北条本国の防衛体制を整えさせる猶予を与え、さらに上杉軍の南下を誘発する危険を伴う。
- 戦略的迂回の決断: 信玄は、鉢形城を「落とせなかった」のではなく、「これ以上は攻めない」という極めて合理的な戦略的判断を下した。すでに外曲輪に大打撃を与え、氏邦率いる北武蔵の主力を城に釘付けにし、武田軍の脅威を十分に見せつけた。目的は達成されたと判断し、包囲を解いて南下を開始することを決断したのである 16 。
包囲解除と南下
武田軍が突如として陣払いを開始し、南へと向かう光景は、鉢形城内に安堵と困惑をもたらした。氏邦は深追いを厳しく戒め、城の守りを固めさせた。甲斐の虎は、次なる標的、北条氏照が守る滝山城へと、その進路を向けたのであった 16 。
第五章:戦塵の行方 – 小田原包囲と三増峠の死闘
滝山城での攻防
鉢形城を戦略的に迂回した武田軍は、次なる標的として北条氏照が守る滝山城(現在の東京都八王子市)に迫った。ここでも城兵は果敢に抵抗し、武田軍は二の丸まで攻め込む激戦となったが、多大な死傷者を出したため、信玄はここでも攻略を断念し、さらに南下を続けた 16 。鉢形城、滝山城への攻撃は、城を落とすこと自体が目的ではなく、それぞれの城主である氏邦・氏照の軍勢を城に釘付けにし、小田原への進軍を妨害させないための牽制であった。
小田原城包囲
10月1日、武田軍はついに北条氏の本拠地・小田原城に到達。城下に火を放ち、その威容を誇示した 5 。しかし、総構えと呼ばれる巨大な防御施設に守られた小田原城は、当代随一の堅城であった。城内の北条氏康・氏政親子は籠城策を徹底し、決して野戦に応じようとはしなかった。
信玄の心理戦と撤退
信玄は、わずか4日後の10月4日には小田原の包囲を解き、甲斐への帰還の途についた 5 。これもまた、攻略が不可能と悟ったからではなく、城下に火を放ち北条氏の権威を失墜させるという、当初の目的を達成した上での計画的な撤退であった。この一連の行動は、信玄が最終的に北条軍主力を野戦に引きずり出し、これを撃破することを最終目標としていた壮大な作戦の一部であった可能性が高い。小田原城への挑発は、北条方に「今こそ追撃の好機」と思わせるための罠であった。
北条軍の追撃
武田軍撤退の報に、北条方はこれを好機と捉えた。小田原城から氏政率いる主力が出撃し、さらに鉢形城から氏邦、滝山城から氏照もそれぞれの軍を率いて合流。撤退する武田軍を挟撃すべく、その退路にあたる三増峠(現在の神奈川県愛川町)で待ち受けた 16 。局地戦で城を守り切った氏邦・氏照兄弟は、信玄の大局的な戦略の掌の上で、決戦の場へと誘い出されたのである。
三増峠の戦い(10月8日)
10月8日、三増峠にて両軍は激突した 33 。待ち受ける北条軍に対し、信玄は戦上手ぶりを遺憾なく発揮する。山県昌景らが率いる別動隊に北条軍の側面を突かせ、本隊との挟撃でこれを大混乱に陥れた 17 。激しい白兵戦の末、北条方は3,000人を超える戦死者を出すという大敗を喫し、武田軍は戦勝のまま甲斐への帰還を果たした 34 。鉢形城や滝山城での「中途半端な攻撃」は、この最終局面で北条軍をおびき出すための、計算され尽くした布石だったのである。
終章:戦いが残したもの – 歴史的意義と後世への影響
武田信玄の戦略的勝利
この永禄12年の一連の戦役において、武田信玄は鉢形城も小田原城も攻略することなく甲斐へ帰還した。しかし、戦術的な目標未達とは裏腹に、戦略的には大きな勝利を収めたと言える。彼は、北条領国の心臓部まで大軍を迅速に侵攻させることが可能であると証明し、北条氏の権威を大きく傷つけた。そして最終的には、三増峠の野戦において北条軍主力に手痛い打撃を与えた。これにより、当面の脅威であった駿河方面への北条氏の圧力を軽減させるという、当初の戦略目標を達成することに成功したのである。
北条氏の課題と対応
一方、北条氏にとってこの侵攻は、自らの防衛体制に潜む脆弱性を露呈させる結果となった。各支城は個別に善戦したものの、大局的な連携を欠き、信玄の機動戦に翻弄された。特に、野戦における指揮系統の乱れは、三増峠での大敗という結果を招いた。この苦い経験は、北条氏に対武田戦略の再考を促し、それまで敵対していた上杉謙信との越相同盟の交渉を加速させ、対武田包囲網の形成を急がせる重要な一因となった 13 。
鉢形城の「不落城」伝説
局地戦に目を転じれば、鉢形城はこの戦いを経てその評価を不動のものとした。武田信玄という当代随一の武将が率いる2万の大軍の攻撃を、実質一日で退けたという事実は、「鉢形城は関東一の堅城である」という名声を広く轟かせることになった 6 。城主・北条氏邦の武将としての評価も大いに高まった。この成功体験は、氏邦に深い自信を与え、後の天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐において、再び籠城戦を選択する決断に少なからず影響を与えた可能性が考えられる。
戦国関東史における位置づけ
この永禄12年の一連の戦いは、関東の覇権を巡る北条氏と、その支配を揺るがそうとする外部勢力(武田・上杉)との力関係を象徴する、画期的な出来事であった。鉢形城の戦いは、その壮大な攻防の序盤戦として、重要な意味を持つ。興味深いことに、この激しい敵対関係の後、元亀2年(1571年)には北条氏康の死を契機として、武田と北条は再び同盟を結ぶ(甲相同盟の再締結) 10 。このように、この戦いは関東の外交関係をさらに流動的かつ複雑なものへと変化させる、大きな転換点となったのである。
引用文献
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- 鉢形城を登城する!北条氏邦の居城!上野国支配の拠点 - パソ兄さん https://www.pasonisan.com/rvw_trip/saitama/hachigata-jou.html
- 越相同盟 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E7%9B%B8%E5%90%8C%E7%9B%9F
- 「駿河侵攻」信玄の大胆すぎる外交転換でカオスと化した外交関係。武田 vs 北条の全面戦争へ! https://sengoku-his.com/778
- 北条氏政の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/84238/
- 「三増峠の戦い(1569年)」北条方の本拠・小田原城まで進出した ... https://sengoku-his.com/779
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- 巨大な空堀と土塁の<鉢形城> https://sirohoumon.secret.jp/hatigata.html
- 日本100名城 - 鉢形城 https://heiwa-ga-ichiban.jp/oshiro/hachigata/index.html
- 埼玉県立歴史と民俗の博物館 特別展「鉢形城主 北条氏邦」をもっと楽しめる!おすすめ本5選 https://note.com/cumagus/n/n32a8f7ac15ab
- 北条氏邦(ほうじょううじくに) 拙者の履歴書 Vol.400~天下を賭けし鉢形の主 - note https://note.com/digitaljokers/n/n8dc4a3f845c8
- 「ご先祖様」の鉢形城に行ってみた。ルーツをたどるつもりが、想定外の結果に(ふらり城あるき 1) https://danro.bar/11519829/
- 十、わが家の家系と家宝 - 嵐山町web博物誌 http://www.ranhaku.com/web06/06lifestyle/04fru12.html
- 鉢形北条分限録 - 日本史研究のための史料と資料の部屋 https://shiryobeya.com/sengoku/hachigatahojobungen.html
- 滝山城と北条氏照 https://takiyamajo.com/html/haikei.php
- 三増峠の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A2%97%E5%B3%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 愛川町教育委員会発行 三増合戦パンフレット https://pocketniaikawa.com/wp/wp-content/uploads/2020/12/MIMASE-VATTLE.pdf
- 鉢形城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%A2%E5%BD%A2%E5%9F%8E