鎌刃城の戦い(1570)
元亀元年、織田信長と浅井長政の対立激化。鎌刃城主堀秀村が織田に寝返り、姉川の戦いの導火線となる。浅井軍の猛攻で落城寸前となるも、木下秀吉の奇襲救援で城は守られ、秀吉の将器を天下に示した。
元亀元年の攻防:鎌刃城の戦い、その全貌
序章:元亀元年の北近江―嵐の前の静寂―
元亀元年(1570年)、日本の歴史が大きく動いたこの年、近江国は戦乱の中心地となろうとしていた。尾張の風雲児・織田信長は、妹であるお市の方を北近江の若き領主・浅井長政に嫁がせ、強固な同盟関係を築いていた 1 。この婚姻同盟は、信長が上洛を果たし「天下布武」の道を歩む上で、背後の安全を保障する重要な礎であった。しかし、信長の急速な勢力拡大は、浅井氏のような独立性の高い国人領主にとっては、自らの存立を脅かす潜在的な圧力となりつつあった。特に、当主の意向だけでなく重臣たちの合議を重んじる浅井家の家風は、信長の独裁的な手法とは相容れない文化的土壌を内包していた 2 。蜜月の関係に見えた両者の間には、見えざる亀裂が静かに広がり始めていたのである。
この緊迫する情勢の中、極めて重要な地政学的意味を持つ城があった。鎌刃城(かまのはじょう)である。標高384メートルの山頂に築かれたこの城は、浅井氏が支配する北近江(湖北)と、織田家の影響下にある南近江(湖南)を分かつ、まさに「境目の城」であった 3 。眼下には京と東国を結ぶ大動脈・中山道が通り、この街道を見下ろす鎌刃城は、交通と物流の要衝を抑える戦略拠点としての価値を宿していた 6 。その重要性ゆえに、古くから京極氏、六角氏、そして浅井氏の間で幾度となく激しい争奪戦が繰り広げられてきた歴史を持つ 3 。鎌刃城は、その立地そのものが、常に戦乱の最前線となる宿命を背負っていたのである。
この城を預かるのは、堀秀村。浅井氏配下の国人領主であり、巨大勢力の狭間で自家の存続を図らねばならない、不安定な立場に置かれた武将であった 9 。時代の奔流が、この「境目の城」と、その若き城主に、過酷な選択を迫ろうとしていた。
表1:主要関係者一覧
人物名 |
所属/役職 |
本件における役割 |
堀 秀村 (ほり ひでむら) |
鎌刃城主(浅井氏→織田氏) |
浅井氏から織田氏へ寝返り、一連の攻防の中心となる。 |
樋口 直房 (ひぐち なおふさ) |
堀氏家老 |
秀村の後見役。秀吉の調略を受け、寝返りを主導する。 |
織田 信長 (おだ のぶなが) |
織田家当主 |
天下布武を進める中で浅井氏と対立。堀氏の寝返りを機に北近江へ侵攻。 |
木下 秀吉 (きのした ひでよし) |
織田家家臣(横山城主) |
堀氏への調略と、鎌刃城への救援作戦を成功させる。 |
浅井 長政 (あざい ながまさ) |
北近江の大名(小谷城主) |
信長に反旗を翻し、裏切った堀氏の鎌刃城を執拗に攻撃する。 |
浅井 井規 (あざい いのり) |
浅井氏一門 |
1570年9月以降の鎌刃城包囲戦における浅井軍の指揮官。 |
第一章:亀裂―金ヶ崎、運命の転回点―
元亀元年(1570年)4月、信長は突如として越前国の朝倉義景討伐の軍を起こした 11 。これは、度重なる上洛命令を無視し続ける朝倉氏への懲罰を名目とした軍事行動であったが、浅井氏にとっては悪夢の始まりであった。浅井家と朝倉家は、父祖の代から続く固い盟友関係にあった。信長との同盟か、朝倉との信義か。長政は、究極の選択を迫られることとなる 2 。熟慮の末、長政は信長を裏切り、朝倉氏に与することを決断。越前・金ヶ崎で朝倉軍の正面にいた信長軍の背後を突くべく、軍を動かした。
この浅井軍の離反は、信長を絶体絶命の窮地に陥れた。朝倉・浅井両軍による挟撃の危機に瀕した信長は、木下秀吉らを殿(しんがり)として決死の撤退戦を敢行し、辛くも京へと逃げ延びる 1 。この「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる一連の出来事により、織田・浅井同盟は完全に破綻。かつての義兄弟は、互いの存亡をかけた不倶戴天の敵となったのである。
この事件は、北近江の政治情勢を激しく揺さぶった。信長の権威は一時的に大きく傷つき、浅井氏の威勢が高まったかに見えた。しかし、雪辱に燃える信長の苛烈な報復を予期する者も少なくなかった。浅井氏配下の国人領主たちは、このまま浅井氏と運命を共にするのか、それとも強大な信長の力に賭けるのか、自らの家の将来を左右する重大な岐路に立たされた。鎌刃城主・堀秀村もまた、その渦中にいた一人であった。
第二章:調略―水面下の攻防―
金ヶ崎から命からがら帰還した信長は、単に軍備を再編するだけではなかった。彼は、浅井氏の強固な家臣団を内部から切り崩すため、水面下で緻密な調略活動を開始していた。その作戦の実行者として白羽の矢が立ったのが、後の豊臣秀吉、当時は木下秀吉と名乗っていた武将である 9 。
秀吉とその軍師・竹中半兵衛は、浅井家臣団の結束を乱すための標的として、鎌刃城の堀氏に狙いを定めた 9 。直接の交渉相手は、若年の城主・堀秀村(当時15歳であったという 10 )を実質的に補佐していた家老の樋口直房であった 9 。樋口は、浅井家への長年の忠誠と、信長の圧倒的な力の前で風前の灯火となりかねない堀家の存続という現実的な問題との間で、激しい葛藤に苛まれたであろう。浅井氏の将来性に見切りをつけ、新たな覇者である信長に賭けることこそが、幼い主君と一族を守る唯一の道であると判断したのかもしれない。
最終的に、樋口の進言を受け入れ、堀秀村は織田方への寝返りを決断する 9 。この決断は、単なる裏切り行為として片付けられるものではない。それは、戦国の世を生きる国人領主が常に直面していた「家の存続」という至上命題に基づいた、極めて合理的な生存戦略であった。金ヶ崎での信長の敗走は、逆説的に浅井氏の権威の限界を露呈させ、国人たちの忠誠心に揺らぎを生じさせた。この機を逃さず、秀吉と半兵衛は樋口直房という「内部の急所」を的確に突き、堀家の存続という大義名分を提示した。この調略の成功は、見返りとして坂田郡で六万石という破格の所領を約束されたことにも現れている 3 。マクロな戦況の変化が、ミクロな人間関係と決断に影響を与え、その決断が再び戦況を大きく動かす。この一連の出来事は、戦国時代の合戦が兵力の衝突だけでなく、情報戦や心理戦がいかに重要であったかを示す典型例であり、秀吉が持つ非凡な才覚が、この時点で既に発揮されていたことを物語っている。
第三章:鎌刃城、攻防の刻―元亀元年、夏から秋へ―
堀秀村の寝返りを契機として、鎌刃城は元亀元年の夏から秋にかけ、息もつかせぬ攻防の舞台となる。その戦況は、近江のみならず畿内全体の情勢と密接に連動しながら、目まぐるしく展開していった。
表2:元亀元年(1570年)鎌刃城関連年表
年月日 |
出来事 |
主要人物 |
場所 |
4月26日頃 |
金ヶ崎の退き口 |
織田信長、浅井長政、木下秀吉 |
越前国金ヶ崎 |
6月19日以前 |
堀秀村の寝返り |
堀秀村、樋口直房、木下秀吉 |
近江国鎌刃城 |
6月19日 |
信長、岐阜出陣 |
織田信長 |
美濃国岐阜城 |
6月下旬 |
浅井軍による第一次攻撃 |
浅井長政、堀秀村 |
近江国鎌刃城 |
6月28日 |
姉川の戦い |
織田信長、徳川家康、浅井長政、朝倉義景 |
近江国姉川 |
8月26日 |
野田・福島の戦い開始 |
織田信長、三好三人衆 |
摂津国野田・福島 |
9月16日 |
志賀の陣開始 |
浅井長政、朝倉義景 |
近江国坂本 |
9月中下旬 |
浅井軍による第二次攻撃と秀吉の救援 |
浅井井規、堀秀村、木下秀吉 |
近江国鎌刃城 |
【第一幕:六月、電光石火】
元亀元年6月、堀秀村と樋口直房は、ついに織田方への内応を公にする。この動きに呼応し、浅井長政が信長の侵攻に備えて美濃国との国境に築いたばかりの長比城(たけくらべじょう)と刈安城(かりやすじょう)は、一戦も交えることなく織田方に明け渡された 1 。『信長公記』にも「たけくらべ、かりやす両所に要害を備え候」と記されており、浅井方が防衛ラインの中核と見なしていた拠点が、内部からの切り崩しによって無力化されたことを示している 18 。
この報せは、信長を瞬時に行動させた。彼は、配下の諸将の軍勢が集結するのを待つことさえせず、少数の手勢のみを率いて居城の岐阜城を飛び出した 1 。これは、かつて桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った際にも見せた、信長得意の電撃戦術であった 19 。敵に態勢を立て直す時間を与えず、好機を最大限に活かすという強い意志の表れである。信長はまず長比城に入り、後続部隊の到着を待った 1 。
一方、信頼していた重臣の裏切りと、国境要塞のいともたやすい失陥は、浅井長政を激怒させた。長政は直ちに軍を動かし、裏切りの本拠地である鎌刃城に報復攻撃を敢行する 4 。この迅速かつ猛烈な攻撃の前に、寝返ったばかりで態勢の整わない堀秀村は城を支えきれず、鎌刃城は一時的に浅井軍の手に落ちたとされる 4 。この事実は、寝返りが決して安泰を約束するものではなく、むしろより危険な最前線に身を投じる、文字通り命がけの賭けであったことを示している。堀氏の決断は、姉川での決戦という、より大きな戦いの渦を巻き起こす直接的な引き金となったのである。
【第二幕:姉川、血の奔流】
北近江への進軍路を確保した信長は、浅井氏の本拠・小谷城へと迫った。城下に火を放ち挑発するものの、小谷城が日本屈指の難攻不落の山城であることを熟知していた信長は、力攻めを避ける 1 。彼は作戦を切り替え、小谷城の重要な支城であり、補給線上の要である横山城を包囲し、兵糧攻めによって浅井氏を追い詰めようとした 1 。
横山城の危機を救うため、そして信長を近江から駆逐するため、浅井長政は朝倉家からの援軍と共に小谷城を出陣。元亀元年6月28日、両軍は姉川を挟んで対峙し、戦国史に残る激戦の火蓋が切られた 21 。緒戦は、決死の覚悟で突撃する浅井軍の猛攻が織田軍の陣立てを次々と突破し、一時は信長の本陣に肉薄するほどの優勢を誇った 1 。
しかし、戦況は一つの動きによって劇的に変化する。別働隊を率いていた徳川家康の軍勢が、浅井軍と対峙していた朝倉軍の側面に回り込み、猛烈な突撃を敢行したのである 1 。これにより朝倉軍の戦線は崩壊。これを好機と見た織田軍も総攻撃に転じ、兵力で劣る浅井・朝倉連合軍は総崩れとなった。姉川は血で赤く染まったと伝えられるほどの激戦の末、織田・徳川連合軍が決定的な勝利を収めた 7 。この勝利により、北近江における織田方の優位は確立された。そして、一時的に浅井方に奪われていた鎌刃城も、再び織田方の拠点として返り咲き、堀秀村が城主として復帰を果たしたのである 5 。
【第三幕:九月、絶体絶命】
姉川の戦いで大勝を収めたものの、信長は浅井氏に息の根を止めるには至らなかった。さらに同年8月、信長は畿内の情勢を安定させるため、宿敵であった三好三人衆を討伐すべく、軍の主力を率いて摂津国へと出兵する(野田・福島の戦い) 24 。これにより、北近江の織田軍は手薄となり、浅井・朝倉連合軍に反撃の絶好機を与えることになった。
この機を逃さず、浅井・朝倉連合軍は勢いを盛り返し、9月16日、近江へ再侵攻を開始。京都を目指して南下を始めた 25 。さらに、これに比叡山延暦寺や各地の一向一揆が呼応し、信長は四方を敵に囲まれる「反信長包囲網」の形成という、生涯最大の危機を迎えることとなる(志賀の陣)。
この大局的な動きと連動し、浅井長政は後方の脅威を一掃すべく、鎌刃城の完全攻略を指令した。浅井一門の猛将・浅井井規を大将とする一隊(一説には一向一揆と連携し、その数5,000に及んだともいう 26 )が鎌刃城を完全に包囲。城は外部との連絡を一切断たれ、兵糧も尽きかけ、文字通り落城寸前の危機に陥った 8 。この第二次攻撃は、6月の報復戦とは全く性質が異なっていた。信長の主力が遠く摂津に釘付けになっているという大戦略的判断のもと、浅井・朝倉本隊が南進するにあたり、背後の脅威である鎌刃城を無力化し、自軍の補給路と退路を確保するという、極めて計画的な軍事行動だったのである。
【第四幕:奇襲、山陰を駆ける】
鎌刃城が絶体絶命の危機にある中、織田方の最前線である横山城を守っていたのが、木下秀吉であった 10 。彼は鎌刃城からの急報を受け、救援を決断する。しかし、浅井軍の包囲網は厳重を極め、正面からの救援は兵力の損耗が大きく、成功の算段も立たない。
ここで秀吉は、常人では思いもよらない奇策を案じる。それは、 敵の監視網を巧みに避け、山の裏手にある道なき道を進軍し、包囲軍の全く予期しない方向から戦場に現れる というものであった 26 。これは、現地の地理を熟知し、敵の心理の裏をかく秀吉ならではの独創的な戦術であった。
秀吉率いる救援部隊が、突如として山陰から鬨の声を上げて出現した時、鎌刃城を包囲していた浅井軍は極度の混乱に陥った。背後から敵の主力部隊に襲われたと誤認し、挟撃されることを恐れた浅井軍は、統制を失い、包囲を解いて撤退を開始した 8 。こうして、落城寸前であった鎌刃城は、九死に一生を得たのである。この見事な救援作戦は、秀吉の将器を多角的に証明するものであった。自らの持ち場を空けるリスクを冒してでも、戦略的要衝である鎌刃城の失陥を防ぐという的確な状況判断力と決断力。そして、正面突破という凡庸な手段に頼らず、奇襲によって最小の損害で最大の効果を上げるという戦術的才能。この鎌刃城救援は、信長からの信頼を不動のものとし、秀吉が単なる調略の名手から、方面軍を指揮する将へと飛躍する上で、極めて重要な一歩となったのである。
第四章:鉄壁の要塞―鎌刃城の築城術と防衛思想―
元亀元年の攻防において、鎌刃城が浅井軍の執拗な猛攻に耐え抜いた理由は、木下秀吉の救援という外的要因だけではない。城そのものが備えていた、当時最先端の防御機能という内的要因、すなわち「ハードウェア」の優秀さを見過ごすことはできない。平成年間に行われた発掘調査により、鎌刃城が単なる土づくりの城ではなく、戦国時代末期の最新技術が投入された「先駆的な山城」であったことが明らかになっている 27 。
城の主郭部には、堅固な石垣が多用され、入り口には敵兵の侵入を遅滞させ、袋小路に追い込んで集中攻撃を浴びせるための「枡形虎口(ますがたこぐち)」が設けられていた 4 。これは、防御力を格段に向上させる先進的な施設である。さらに特筆すべきは、城の急斜面に施された「畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)」である 16 。これは、幾筋もの深い竪堀を並行して掘ることで、敵兵が斜面を横に移動することを物理的に不可能にし、防御側が待ち構える一点へと真っ直ぐ登らざるを得なくさせる巧妙な仕掛けであった。近江では他に類例の少ないこの構造は、鎌刃城の徹底した防御思想を物語っている 4 。また、長期の籠城戦において生命線となる水の確保についても、岩盤をくり抜いて作られた導水システム(水の手)という、全国的にも極めて稀有な遺構が確認されており、その備えが万全であったことを示している 27 。
これらの堅固な防御施設こそが、9月の第二次攻撃において、秀吉の援軍が到着するまでの時間を稼ぎ、寡兵での籠城を可能にした原動力であった。そして、これらの先進的な遺構が「元亀年間の織田軍門下時代に築かれた」可能性が指摘されている点は、極めて重要である 28 。これは、堀秀村が織田方に寝返り、姉川の戦いを経て城主として復帰した後に、信長あるいは秀吉の指導のもと、浅井氏の再攻撃に備えて城の大規模な改修が行われたことを示唆している。つまり、姉川の戦いで得られた「戦訓」が、城郭の技術的アップデートに活かされ、その進化した城が次の籠城戦を勝利に導いたという、実戦経験と軍事技術の理想的なフィードバックループが存在したと考えられる。鎌刃城は、後に信長が築く安土城に代表される、織田政権下の革新的な築城術の先駆けとなる事例の一つと位置づけられ、信長の天下統一事業が、軍事行動(ソフト)と拠点整備(ハード)の両面から緻密に計画されていたことを示す貴重な証左と言えるだろう。
終章:その後の鎌刃城と堀秀村―歴史の奔流の中で―
木下秀吉の奇襲によって鎌刃城は救われたものの、志賀の陣そのものは膠着状態に陥り、最終的には朝廷の仲介による和睦という形で終結した。しかし、北近江における織田・浅井間の熾烈な消耗戦が終わったわけではなかった。翌元亀2年(1571年)にも、浅井井規が再び鎌刃城に攻撃を仕掛けているが、この時も横山城の秀吉が救援に駆けつけ、撃退に成功している 8 。鎌刃城は、浅井氏が滅亡するその時まで、対浅井戦線の最重要拠点として機能し続けた。
天正元年(1573年)、度重なる信長の攻撃の前に小谷城はついに陥落し、浅井氏は滅亡する。しかし、その翌年の天正2年(1574年)、信長への寝返り以降、多大な功績を挙げてきたはずの堀秀村と樋口直房は、突如として信長によって改易、すなわち所領を全て没収され、追放されるという不可解な処分を受ける 5 。その明確な理由は不明だが、一説には家臣の樋口直房が、一向一揆との戦いにおいて守るべき城を勝手に放棄した失態が原因であったともされる 9 。激動の時代を巧みに生き抜いてきたかに見えた堀氏であったが、その最後はあまりにもあっけないものであった。主を失った鎌刃城も、その戦略的価値を終え、まもなく廃城となった 5 。
1570年の「鎌刃城の戦い」は、単一の合戦ではなく、調略、電撃戦、籠城、そして奇襲救援という、戦国時代の多様な戦いの様相が凝縮された一連の攻防であった。それは、織田信長の近江平定戦の趨勢を左右した、歴史の転換点における重要な一幕であったと言える。堀秀村の寝返りは姉川の戦いの導火線となり、その後の籠城戦の成功は、反信長包囲網という最大の危機に瀕した信長を救う一助となった。そして何より、この戦いは木下秀吉という稀代の英雄が、調略と戦術の両面でその非凡な才能を天下に示し、後の飛躍へと繋がる輝かしい舞台となったのである。歴史の表舞台から姿を消した鎌刃城は、今も静かに山中に眠り、かつての激闘の記憶を伝えている。
引用文献
- 姉川の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11094/
- 織田信長と浅井長政の義兄弟はなぜうまくいかなかったのか? - BS11+トピックス https://bs11plus-topics.jp/ijin-haiboku-kyoukun_29/
- 鎌刃城跡 - 米原市 https://www.city.maibara.lg.jp/soshiki/kyoiku/rekishi/shokai/kunishitei/shiseki/2857.html
- 第16回 鎌刃城・太尾山城 - 近江の城めぐり - 出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖 https://shiroexpo-shiga.jp/2020/column/no16.html
- 鎌刃城 | 近江の城50選 - 滋賀・びわ湖観光情報 https://www.biwako-visitors.jp/shiro/select50/castle/d21/
- 第12回鎌刃城まつりに行きました|社員がゆく|Nakasha for the Future https://www.nakasha.co.jp/future/report/kamahajyo_2018.html
- 鎌刃城(滋賀県米原市)の登城の前に知っておきたい歴史・地理・文化ガイド - note https://note.com/digitaljokers/n/n026f7bb70fea
- 鎌刃城 ちえぞー!城行こまい http://chiezoikomai.umoretakojo.jp/kansai/siga/kamaha.html
- 堀秀村 Hori Hidemura | 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/hori-hidemura
- 堀秀村 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%A7%80%E6%9D%91
- 歴史シリーズ「近江と徳川家康」① 姉川古戦場 - ここ滋賀 -COCOSHIGA- https://cocoshiga.jp/official/topic/ieyasu01/
- 第二節 織田信長の六角氏打倒 http://www.edu-konan.jp/ishibeminami-el/kyoudorekishi/302020100.html
- せっかく寝返ったのに(涙)戦国時代、非業の死を遂げた武将・浅井井規のエピソード - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/143415
- 国指定史跡 鎌刃城跡 - 滋賀県文化財保護協会 https://www.shiga-bunkazai.jp/wp-content/uploads/site-archives/download-kyoshitsu-k229.pdf
- お城めぐりの旅 - 栃木県建設業協会 https://www.tochiken.or.jp/wp-content/uploads/2022/02/12_TOCHIKEN_No211.pdf
- 鎌刃城 - 米原市 https://www.city.maibara.lg.jp/material/files/group/47/k-mp.pdf
- 江濃境目の城 - 長比城跡 - 米原市 https://www.city.maibara.lg.jp/material/files/group/47/site30.pdf
- 上平寺城 http://www.za.ztv.ne.jp/taki1377/zyouheizi11.htm
- 奇跡の逆転劇から460年! 織田信長はなぜ、桶狭間で今川義元を討つことができたのか https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/101738/
- 桶狭間の戦い - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7145/
- 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第20回【浅井長政】信長を苦しめた北近江の下克上大名 https://shirobito.jp/article/1787
- 元亀元年の戦い - 天下は朝倉殿に(1) http://fukuihis.web.fc2.com/war/war080.html
- 姉川の戦い古戦場:滋賀県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/anegawa/
- 野田・福島の戦い (1570年) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%94%B0%E3%83%BB%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(1570%E5%B9%B4)
- 志賀の陣 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E8%B3%80%E3%81%AE%E9%99%A3
- 鎌刃城 歴史編 ー滋賀県の100名城 続100名城を紹介ー - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=5oKFDcAB5L4
- 【続日本100名城・鎌刃城(滋賀県)】大発見!当時の水の手遺構が見られる https://shirobito.jp/article/1598
- 鎌刃城 - 戦国の城を訪ねて http://oshiromeguri.net/kamahajo.html