長井・伊達境目の戦い(1542~48)
天文の乱は伊達稙宗と晴宗の父子対立から勃発。奥羽を巻き込み6年続いた争いは、将軍の仲介で終結。伊達氏の勢力図を大きく変えた。
奥羽の天地を揺るがした骨肉の争乱:天文の乱と「長井・伊達境目」の攻防(1542-1548)全記録
序章:大乱前夜 ― 陸奥の覇者・伊達稙宗の栄光と影
戦国時代の奥羽にその名を轟かせた伊達氏。その第十四代当主・伊達稙宗は、伊達家中興の英主として、一門の権勢を未曾有の領域にまで高めた人物であった 1 。天文の乱という、後に六年間にも及ぶ骨肉の争いが、単なる親子の感情的な対立から生じたと見るのは表層的である。その根源は、稙宗自身が築き上げた巨大な支配体制そのものに内包された、構造的な矛盾にこそ求められる。
稙宗の治世は、伊達氏の権力を中央に集約し、その支配領域を拡大することに主眼が置かれていた。彼は室町幕府から陸奥国守護職に任じられるという栄誉に浴し、その権威を背景に次々と革新的な政策を断行する 1 。その代表例が、伊達氏の分国法である『塵芥集』の制定である。これにより、領内の裁判権を伊達氏当主のもとに一元化し、国人領主たちの独立性を削ぎ、戦国大名としての支配権を確立しようとした 1 。さらに、段銭制度の整備を通じて領国からの税収を安定させ、強大な軍事力を維持するための経済的基盤を固めたのである 1 。
稙宗の拡大戦略のもう一つの柱は、婚姻政策による外交網の構築であった。彼は自らの子女を周辺の有力大名へ次々と嫁がせ、あるいは養子として送り込んだ。これにより、出羽の最上氏、会津の蘆名氏、浜通りの相馬氏、そして葛西氏や大崎氏といった南奥羽の主要な大名のほとんどと姻戚関係を結び、伊達氏を盟主とする一大同盟ネットワークを形成した 1 。この同盟網は、俗に「洞(うつろ)」と呼ばれ、稙宗の威光を奥羽全域に及ぼす強力な装置として機能した。しかし、この急進的な拡大政策は、諸刃の剣であった。伊達家の過度な介入は、同盟関係にある大名たちの警戒心を煽り、また、伊達家中の家臣団の間にも、際限のない縁組政策が自家の負担増に繋がるのではないかという不安と不満を鬱積させる結果となった 5 。
稙宗の強引な中央集権化、特に家臣団に対する段銭徴収の強化は、在地領主としての自立性を重んじる彼らの強い反発を招いた 1 。こうした家臣団の不満の受け皿となったのが、嫡男の晴宗であった。晴宗は、父の急進的な政策が伊達家の内外に深刻な軋轢を生んでいることを危惧し、次第に批判的な立場を取るようになる。領国経営を巡る理念の対立は、父子の間に修復しがたい溝を刻み込んでいったのである 1 。
この対立の根底には、二つの異なる統治理念の衝突が存在した。稙宗は、幕府から公認された「陸奥国守護」として、南奥羽全体の秩序を維持するという広域的な視点を持っていた 1 。彼が推し進めた越後守護・上杉定実への三男・実元(時宗丸)の養子縁組は、混乱する越後の安定化を図るという、守護としての「公的」な役割意識からすれば、極めて合理的な政策判断であった 6 。しかし、晴宗と彼を支持する家臣団は、伊達家という一つの家の利益を最優先に考える「戦国大名」としての論理で動いていた。彼らにとって、精鋭の家臣百騎を付けて実元を越後に送り出すことは、伊達家自身の軍事力を著しく削ぐに等しい愚行であり、到底容認できるものではなかった 1 。すなわち天文の乱とは、稙宗が追求した「守護大名としての地域秩序の維持」と、晴宗が代弁した「戦国大名としての伊達家の存続と強化」という、二つの相容れない論理が激突した必然の帰結だったのである。
第一章:天文十一年(1542年) ― 炎上する西山城
長年にわたり蓄積されてきた伊達家内部の矛盾は、天文十一年(1542年)、ついに火を噴いた。その直接的な引き金となったのは、伊達稙宗が三男・時宗丸(後の伊達実元)を越後守護・上杉定実の養子とする縁組を強行しようとしたことであった 4 。この縁組には、伊達家の精鋭家臣百騎が時宗丸に随行することになっており、嫡男・晴宗は、これが実現すれば伊達家の軍事力が骨抜きにされ、弱体化は避けられないと強く反発した 1 。晴宗は、父の政策に不満を抱く中野宗時や桑折景長といった重臣たちに担がれる形で、ついに実力行使へと踏み切ることを決意する 5 。
同年六月、晴宗は鷹狩りから帰城した父・稙宗を不意に襲撃し、伊達氏の当時の本拠地であった桑折西山城(現在の福島県桑折町)の一室に幽閉するという、前代未聞のクーデターを敢行した 1 。当主の座を実力で奪おうとする晴宗の行動は、奥羽の天地を揺るがす大乱の幕開けを告げるものであった。
しかし、稙宗も老いてなお盛んなる当主であった。晴宗の計画は、稙宗に忠誠を誓う家臣たちの迅速な行動によって頓挫する。幽閉の報に接した小梁川宗朝(小幡宗憲とも伝わる)らが間髪入れずに西山城に駆けつけ、稙宗を城中から救出したのである 4 。九死に一生を得た稙宗が逃亡先として選んだのは、自らの娘を娶らせ、最も信頼を寄せていた重臣の一人、懸田俊宗の居城・懸田城(現在の福島県伊達市)であった 3 。これにより、懸田城は乱の全期間を通じて稙宗方の最重要軍事拠点となり、晴宗方と熾烈な攻防を繰り広げることとなる。
この事件を境に、伊達家臣団、そして南奥羽の諸大名は、父と子のいずれに与するか、重大な選択を迫られた。稙宗は懸田城を拠点に、長年築き上げてきた婚姻関係のネットワーク「洞」を駆使して、各地の姻戚大名に参陣を呼びかけた。これに応じ、出羽の最上義守、会津の蘆名盛氏、浜通りの相馬顕胤、三春の田村隆顕、そして葛西氏、大崎氏といった南奥羽の有力大名の多くが稙宗支持を表明した 1 。一方の晴宗方には、稙宗の強権的な支配に反感を抱いていた中野宗時、新田景綱ら伊達家中の実力者たち、そして反伊達の気運が強い岩城重隆などが味方した 1 。かくして、伊達家内部の父子の対立は、南奥羽のほぼ全ての国人領主を二分する、広域的かつ大規模な争乱へと発展したのである 1 。
この初動において注目すべきは、大乱の基本的な戦場構造が、極めて個人的な人間関係によって規定された点である。クーデター後、稙宗が頼ったのは、遠方の大名ではなく、最も身近で信頼できる娘婿・懸田俊宗であった 3 。その結果、伊達氏発祥の地であり、本来であれば晴宗が継承すべき本拠地である伊達・信夫郡の中心部に、強力な反晴宗勢力の牙城(懸田城)が築かれることになった。これにより、晴宗は伊達郡からの撤退を余儀なくされ、西方の出羽国長井郡(現在の置賜地方)にある米沢城を新たな拠点として選択せざるを得なくなった 10 。この一連の動きが、「東の伊達・信夫郡(稙宗方)」対「西の長井郡(晴宗方)」という、利用者様の言うところの「長井・伊達境目」の戦線を形成した。これは壮大な戦略的判断の結果というよりは、危機に瀕した老将が最も信頼する身内を頼ったという人間的な行動が、その後の六年間続く大乱の地理的構図を決定づけたことを示している。
【表1:天文の乱における主要参戦武将一覧】
陣営 |
勢力 |
主要武将(本拠地) |
稙宗方 |
伊達一族・家臣 |
伊達稙宗(西山城→懸田城→丸森城)、懸田俊宗・義宗(懸田城)、小梁川宗朝・宗秀(高畠城)、鮎貝盛宗(鮎貝城)、上郡山為家(小国城) 8 |
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姻戚大名・同盟勢力 |
蘆名盛氏(黒川城)※後に離反、最上義守(山形城)、相馬顕胤(小高城)、田村隆顕(三春城)、葛西晴清(石巻城)、大崎義宣(栗原小野城)、石川晴光(三芦城)、国分宗綱(千代城)、亘理宗隆(小堤城) 1 |
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越後国 |
上杉定実(越後守護)、中条藤資(鳥坂城) 8 |
晴宗方 |
伊達一族・家臣 |
伊達晴宗(西山城→米沢城)、中野宗時、新田景綱(舘山城)、桑折景長(小松城)、白石宗綱・宗利(白石城)、鬼庭元実・良直(小屋館城)、片倉景親(小桜城) 8 |
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同盟勢力 |
岩城重隆、留守景宗(岩切城、稙宗弟)、大崎義直(名生城、義宣と対立)、葛西晴胤(寺池城、晴清と対立) 1 |
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越後国 |
長尾晴景(春日山城、越後守護代)、揚北衆 8 |
第二章:天文十二年~十三年(1543~44年) ― 主戦場、長井・伊達境目
乱の勃発を受け、伊達晴宗は戦略的な決断を下す。父・稙宗の勢力が盤踞する伊達郡を早々に見限り、出羽国長井郡(現在の山形県置賜地方)の米沢城へと本拠を移したのである 1 。この遷都は、天文の乱における晴宗方の戦略的中心地が長井郡となることを決定づけ、伊達氏の歴史における新たな時代の幕開けを意味した。晴宗は、米沢盆地に点在する「伊達四十八館」と呼ばれる城館群を巧みに利用し、防衛網を構築したと考えられる 14 。その中核を担ったのが、米沢城の南に位置する舘山城主・新田景綱ら、長井郡に深く根を張る在地領主たちであった。彼らは晴宗の参謀として、あるいは防衛線の指揮官として、稙宗方の猛攻を食い止める上で極めて重要な役割を果たした 8 。
一方、伊達郡の懸田城に拠る稙宗方は、地の利を活かして長井郡への侵攻を執拗に繰り返した。特に、長井郡の東の玄関口にあたる高畠町周辺は、稙宗方にとって最重要の前線基地となった。糠野目城や二井宿の陣場は、稙宗自らが陣を構え、長井郡攻略の拠点として機能したと伝えられている 16 。これらの拠点から出撃した稙宗方の軍勢は、晴宗方の領地を脅かし、両者の間で一進一退の攻防が繰り広げられた。
この初期の戦いにおいて、稙宗方の優位を決定づけたのは、同盟軍の力であった。中でも、稙宗の娘婿である相馬顕胤の活躍は目覚ましく、乱の序盤における戦局を大きく左右した 3 。顕胤は本拠地の浜通りから軍勢を率いて伊達・信夫郡に進出。晴宗方を側面から攻撃し、その勢力を牽制した。天文十二年(1543年)、顕胤は阿武隈川流域で晴宗軍と数度にわたり激突する。同年二月の合戦に続き、五月には、周到な伏兵戦術を用いて晴宗軍を罠にかけ、二百余名を討ち取るという大勝利を収めた 18 。この阿武隈川での敗北は晴宗方にとって大きな痛手となり、稙宗方は乱の主導権を握ることに成功した 4 。
戦いは、両軍の主力が激突する大規模な会戦ばかりではなかった。晴宗方の本拠地である長井郡の内部でも、両派に分かれた国人領主たちによる熾烈な戦いが展開された。例えば、鮎貝城主・鮎貝盛宗は稙宗方に与し、晴宗方の諸城に圧力を加え続けた 8 。これに対し、舘山城の新田景綱らは晴宗方の中核として防衛戦を指揮し、長井郡の維持に尽力した 9 。この時期の「長井・伊達境目」における戦いは、国境地帯の城館をめぐる小規模な衝突、兵站路の分断工作、そして敵方の国人を寝返らせるための調略などが主体であり、まさに総力戦の様相を呈していた。
この一連の攻防は、単なる軍事的な衝突以上の意味を持っていた。晴宗にとって、クーデターによって父から実権を奪ったものの、伊達氏伝来の本拠地である伊達郡を失ったことは、その正統性において大きな弱点であった 3 。彼が新たな本拠地とした長井郡は、かつて伊達氏が長井氏から奪取した土地であり、伊達氏の支配が比較的新しい地域であった 20 。したがって、稙宗方による長井郡への侵攻は、単に敵の拠点を攻撃するという軍事行動に留まらず、「正統な当主である自分に対し、簒奪者・晴宗が立てこもる新たな権力基盤を根底から覆す」という、極めて政治的な意味合いを帯びていた。晴宗がこの地を防衛しきり、新田景綱のような在地領主の支持を確固たるものにできたことこそ、彼が最終的に勝利を掴む上で決定的に重要な要素であった。この「長井・伊達境目」の戦いは、伊達家の未来の拠点がどこになるのかを決定づける、文字通り伊達家の命運を賭けた戦いであったのである。
第三章:天文十四年~十五年(1545~46年) ― 泥沼化する戦況と周辺大名の暗躍
天文十二年から十三年にかけての激しい攻防の後、「長井・伊達境目」の戦線は膠着状態に陥った。稙宗方は初期の優位を活かして決定的な勝利を得ることができず、一方の晴宗方も巧みな防衛戦で本拠地・長井郡を守り抜いたものの、反撃に転じる力はなかった。戦いは一進一退を繰り返す泥沼の様相を呈し、終わりが見えない長期戦へと突入していった 22 。
このような状況下で、両陣営は軍事力による決着を諦め、外交戦・調略戦へと戦いの主軸を移していった。特に、態度を決めかねている中小の国人領主たちを自陣営に引き入れるため、父子双方が「味方になれば、現在の所領を安堵し、さらに恩賞として新たな領地を与える」という内容の書状(安堵状)を乱発した 3 。同じ国人領主が父子両方から安堵状を受け取るような事態も頻発し、誰が真の領主であるのか判然としないという大混乱が生じた。この混乱は、戦後処理において深刻な問題としてのしかかることになる 3 。
戦乱の長期化は、伊達家と姻戚関係にあった周辺大名たちに、独自の思惑で行動する機会を与えた。中でも、出羽の雄・最上義守の動きは巧みであった。彼は稙宗の娘婿として当初は稙宗方に与していたが、伊達氏の弱体化を千載一遇の好機と捉え、伊達氏からの実質的な自立と勢力拡大を画策し始める 23 。義守はこの混乱に乗じ、かつて伊達氏に奪われた係争地であった長谷堂城(現在の山形県山形市)を奪還することに成功 24 。さらに、伊達氏の支配力が及ばなくなった置賜地方(長井郡)の全域を一時的に制圧するなど、伊達氏の内乱を利用して自家の利益を最大化するという、戦国大名らしい冷徹な立ち回りを見せた 23 。
同様に、会津の蘆名盛氏もまた、稙宗の姻戚として当初は稙宗方に参陣していたが 1 、戦いが長引くにつれてその態度は次第に曖昧になっていく。蘆名氏は、南奥羽において伊達氏と覇を競う最大のライバルであり、伊達氏の弱体化は彼らにとっても望ましい状況であった。晴宗は、この蘆名氏の戦略的価値を深く理解し、水面下で粘り強い外交交渉を展開していたと考えられる 5 。この時期の蘆名氏は、表向きは稙宗方として参陣しつつも、晴宗方との間で密かに連絡を取り、どちらに味方することが自家の利益を最も大きくするか、そのタイミングを冷静に計っていたのである。
この状況は、稙宗が心血を注いで築き上げた同盟ネットワーク「洞」が、その本質的な脆弱性を露呈したことを意味する。稙宗方の初期の優勢は、この広範な同盟網に支えられていたことは間違いない 4 。しかし、最上義守の行動が示すように、同盟者たちは稙宗個人への忠誠心からではなく、あくまで自家の利害に基づいて行動していた 23 。彼らにとって、伊達家の内乱は、盟主を助けるべき危機ではなく、自家の勢力を拡大するための好機と映っていた。戦いが長期化し、奥羽の覇者であった伊達氏の疲弊が誰の目にも明らかになるにつれて、彼らは「稙宗を支援する」という義理よりも、「伊達氏の混乱に乗じて実利を得る」という現実を優先するようになった。これは、稙宗の「洞」が、強固な主従関係に基づく支配体制ではなく、伊達氏の圧倒的な軍事力を背景とした、利害関係に基づく脆弱な連合体に過ぎなかったことを示している。その中心である伊達氏が内乱で揺らいだ時、その連合体は内側から崩壊していく運命にあった。天文の乱の長期化は、その構造的欠陥を白日の下に晒したのである。
第四章:天文十六年(1547年) ― 均衡の崩壊
天文十六年(1547年)、六年間近く続いた均衡は、一つの事件をきっかけとして、雪崩を打って崩壊する。この年、天文の乱の行方を決定づける最大の転換点となる出来事が発生した。これまで稙宗方の主力として戦局を支えてきた会津の蘆名盛氏が、正式に晴宗方へと寝返ったのである 3 。
この蘆名氏の離反の直接的な原因は、同じく稙宗方に属していた三春の田村隆顕との深刻な対立にあった 3 。稙宗方の同盟は、もともと互いに領土的野心を抱く大名たちの寄り合い所帯であり、内部に対立の火種を常に抱えていた。蘆名氏と田村氏は、安積郡などを巡って長年対立関係にあり、伊達氏という共通の脅威(あるいは盟主)のもとで一時的に手を結んでいたに過ぎなかった。乱の長期化によって伊達氏の権威が低下すると、この潜在的な対立が再燃した。稙宗は同盟内の調停に奔走したが、両者の溝を埋めることはできず、ついに蘆名氏の離反という最悪の事態を招いてしまったのである。
南奥羽の政治地図において、伊達氏と並ぶほどの力を持つ蘆名氏の離反は、戦局に決定的な影響を与えた。その衝撃は計り知れず、ドミノ効果を引き起こした。これまで戦況を日和見し、どちらにつくか態度を決めかねていた多くの中小国人領主たちが、今こそ勝ち馬に乗る好機と判断し、次々と晴宗支持を表明し始めた 3 。これにより、稙宗方の陣営は急速に瓦解し、軍事バランスは完全に崩壊した。
会津からの巨大な援軍を得た晴宗方は、これを機に一斉に攻勢へと転じた。「長井・伊達境目」の戦線においても、力関係は劇的に逆転した。数に勝る晴宗方の猛攻の前に、稙宗方は防戦一方の苦しい立場に追い込まれ、その敗色は誰の目にも濃厚となった。
この劇的な戦局の転換は、天文の乱の勝敗が、単一の決戦によって決まったわけではないことを明確に示している。この乱には、関ヶ原の戦いのように、戦全体の帰趨を決するような大規模な会戦の記録はほとんど見られない。戦いは主に、城をめぐる攻防や国境地帯での小競り合いの連続であった 22 。そのような状況下で、戦局を最終的に動かした最大の要因は、蘆名盛氏の寝返りという、純粋に外交的な事件であった 3 。これは、晴宗陣営が、ただ軍事的に耐え忍ぶだけでなく、長期間にわたって水面下で蘆名氏との交渉を続け、稙宗方同盟の内部矛盾(田村氏との対立)という弱点を巧みに突き、最も重要な駒を切り崩すことに成功した結果に他ならない。晴宗の勝利は、戦場での武功以上に、敵の連合体の脆さを見抜き、それを的確に突いた「外交戦略の勝利」であったと言える。これは、戦国時代の合戦が、単なる武力の衝突だけでなく、情報戦、外交戦、調略といった、あらゆる手段を駆使した総力戦であったことを示す、またとない好例である。
第五章:天文十七年(1548年) ― 将軍の仲裁と乱の終結
天文十七年(1548年)、蘆名氏の離反によって稙宗方の敗北が決定的となると、遠く京の室町幕府が動いた。第十三代将軍・足利義輝(当時は義藤)から、伊達父子に対して和睦を勧告する御内書が下されたのである 3 。この時期、幕府の権威は畿内においてさえ失墜しつつあったが、奥羽においては陸奥探題・守護といった伝統的な職制を通じて、なお一定の影響力を保持していた。幕府にとって、奥羽の秩序を担うべき伊達氏の長引く内乱は看過できるものではなく、これ以上の混乱が地域全体に波及することを強く懸念した結果の介入であった。
将軍からの仲介という、もはや断ることのできない大義名分を得て、同年九月、伊達稙宗・晴宗父子の間で正式に和睦が成立した 1 。六年にわたって奥羽の地を血で染めた大乱は、ついに終結の時を迎えた。
その和睦の条件は、以下の三点に集約される。
第一に、伊達稙宗は家督を退き、隠居すること。
第二に、嫡男・伊達晴宗が伊達家第十五代当主の座を正式に相続すること。
第三に、稙宗の隠居料として、伊具郡の丸森城(現在の宮城県丸森町)とその周辺の所領が与えられること 1。
この和睦は、形式上は将軍の仲裁による対等なものであったが、その内容は火を見るよりも明らかであった。稙宗の完全な隠居と、クーデターを起こした晴宗の家督相続を全面的に認めるものであり、実質的には晴宗方の大勝利、そして稙宗方の完全な敗北を意味していた 3 。
この終結の過程は、戦国時代における室町幕府の役割を考える上で興味深い事例を提供する。天文十七年の時点で、稙宗方の敗北は軍事的に不可避であった。しかし、誇り高い戦国武将が、自らの非を認めて敵に降伏することは、名誉に関わる問題であり、極めて困難である。もし将軍の仲介がなければ、稙宗は玉砕覚悟で最後まで抵抗を続け、さらに多くの血が流れた可能性も否定できない。
ここに、遠く京に座す「将軍」という、当時の日本においてなお最高の権威からの「命令」が届いた 4 。この命令は、敗色濃厚な稙宗にとって、自らの意思で降伏するのではなく、「将軍の御命令に従う」という大義名分のもと、戦いを終結させるための、またとない「名誉ある撤退」の口実となった。一方、勝利を目前にしていた晴宗にとっても、実の父を滅ぼしたという汚名を着ることを避け、将軍の権威を借りることで自らの家督相続を内外に正当化できるという大きな利点があった。すなわち、この時期の幕府の権威は、もはや軍事的な強制力こそ失っていたものの、争乱の当事者双方の「顔を立てさせ」、無用な流血を避けて軟着陸させるための、重要な政治的調停装置として依然として機能していたのである。
終章:残された傷跡と新たな時代の胎動
六年間にも及んだ天文の乱は、伊達家の歴史に深く、そして消しがたい傷跡を残した。乱の終結は、新たな時代の始まりであると同時に、長く困難な戦後処理の始まりでもあった。
最大の損失は、伊達氏の勢力圏が大幅に縮小したことであった。稙宗が心血を注いで築き上げた巨大な同盟ネットワーク「洞」は、この内乱によって完全に崩壊した。かつては伊達氏の威光のもとにあった最上氏、蘆名氏、相馬氏といった大名たちは、完全に独立した競合相手となり、伊達氏の勢力は著しく減退した 3 。さらに、晴宗は勝利を得るために、味方した家臣たちに多くの権限や恩賞を与えざるを得なかった。その結果、乱後の伊達家では家臣団の発言力が著しく増大し、当主の強力なリーダーシップのもとで統制された集権的な組織から、有力家臣たちの連合体のような性格を帯びるに至った 3 。
一方で、この乱は伊達氏の未来を決定づける大きな転換点ともなった。晴宗は乱の最中から拠点としていた米沢城を、乱後も正式な本拠地とした 3 。これにより、伊達氏の政治的・軍事的中心は、発祥の地である陸奥国伊達郡から、出羽国長井郡へと完全に移行した。この本拠地移転こそ、後の伊達政宗が米沢の地で生を受け、そこを起点として会津、そして仙台へと版図を拡大していくという、壮大な歴史の序曲となったのである 3 。
しかし、晴宗の目の前には、困難な課題が山積していた。和睦が成立した後も、稙宗方の中心人物であった懸田俊宗は晴宗への抵抗を続けた。晴宗は、この旧敵を討伐し、懸田氏を完全に滅ぼすことで、ようやく自らの政権を安定させることができた 3 。また、乱の最中に父子双方が乱発した安堵状の整理は困難を極めた。晴宗は『晴宗公采地下賜録』と呼ばれる知行目録を作成し、家臣たちの所領を再認定・再分配するという、大規模な行政改革に取り組まなければならなかった 3 。
晴宗の治世は、乱によって強大化した家臣団の統制に苦慮し続ける時代であった。この困難な遺産を克服し、再び当主への権力集中を推し進めたのが、その子である伊達輝宗であった 3 。輝宗は、元亀元年(1570年)に発生した重臣・中野宗時の謀反事件(元亀の変)を好機として、父の代から絶大な権勢を振るってきた家臣たちを粛清し、伊達家中の再統一を断行した 3 。この輝宗による内部固めという土台があったからこそ、その子・政宗は、家中の憂いを抱えることなく、奥羽統一に向けた苛烈な拡大戦争に邁進することができたのである。
この一連の流れを俯瞰する時、天文の乱は単なる伊達氏の衰退期ではなかったことが理解される。それは、伊達家が古い支配モデルから脱却し、新たな時代を生き抜くための変革を遂げるために不可欠な、痛みを伴う「創造的破壊」の過程であった。稙宗が築いた婚姻を基盤とする拡大モデルは、この内乱によってその脆弱性を露呈し、崩壊した 3 。乱後の晴宗の時代は、当主の権力が相対的に弱い「連合体」モデルであり、安定した領国経営には不向きであった 3 。その反省から、輝宗は有力家臣を排除し、当主への権力集中を目指す「再集権化」モデルを推進した 3 。そして、この輝宗によって築かれた、より強固で集権的な支配体制という土台の上に、伊達政宗の飛躍が可能となった。天文の乱という未曾有の内乱なくして、独眼竜・伊達政宗の時代は到来しなかったのである。
【表2:天文の乱 主要戦闘・事件 年表(1542-1548)】
年(西暦) |
月 |
出来事 |
天文十一年(1542) |
6月 |
晴宗、父・稙宗を西山城に幽閉。天文の乱が勃発する 1 。 |
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稙宗、小梁川宗朝らにより救出され、懸田俊宗の居城・懸田城へ入る 4 。 |
天文十二年(1543) |
2月 |
稙宗方の相馬顕胤、阿武隈川で晴宗軍と交戦する 18 。 |
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5月 |
相馬顕胤、伏兵戦術を用いて晴宗軍を撃破し、大きな損害を与える 18 。 |
年不詳 |
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稙宗方の最上義守、乱の混乱に乗じて長谷堂城を奪還する 24 。 |
天文十六年(1547) |
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稙宗方の主力であった蘆名盛氏が、田村氏との対立をきっかけに晴宗方へ寝返る。戦局が決定的に転換する 3 。 |
天文十七年(1548) |
9月 |
将軍・足利義輝の仲介により、父子の間で和睦が成立。稙宗は隠居し、晴宗が家督を正式に相続。乱が終結する 1 。 |
乱終結後 |
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和睦に不満を持つ懸田俊宗が晴宗への抵抗を続けるが、後に討伐され、懸田氏は滅亡する 3 。 |
引用文献
- 骨肉の争い 天文の乱/福島市公式ホームページ https://www.city.fukushima.fukushima.jp/soshiki/7/1032/3/1/3/1401.html
- 伊達家の武将たち:戦国観光やまがた情報局 - samidare https://ssl.samidare.jp/~lavo/naoe/note.php?p=log&lid=152831
- 伊達氏天文の乱 - 福島県伊達市公式ホームページ https://www.city.fukushima-date.lg.jp/soshiki/87/1145.html
- 伊達家に巻き起こった親子間の骨肉の争い『天文の乱』!6年続いた大騒動の行方は? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Jo7n3MHT630&pp=0gcJCfwAo7VqN5tD
- 伊達晴宗(だて はるむね) 拙者の履歴書 Vol.395~父子の激動を超え、家の礎を築く - note https://note.com/digitaljokers/n/n6aa010d226ca
- www.city.fukushima.fukushima.jp https://www.city.fukushima.fukushima.jp/soshiki/7/1032/3/1/3/1401.html#:~:text=%E5%8E%9F%E5%9B%A0%E3%81%AF%E3%80%81%E7%A8%99%E5%AE%97%E3%81%8C%E8%B6%8A%E5%BE%8C,%E5%87%BA%E3%81%9F%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
- 伊達稙宗の行動原理 -書評 『伊達氏と戦国騒乱 東北の中世史4』- その1 - みちのくトリッパー https://michinoku-ja.blogspot.com/2016/03/4.html
- 天文の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%96%87%E3%81%AE%E4%B9%B1
- 戦国観光やまがた情報局 - samidare https://ssl.samidare.jp/~lavo/naoe/note?p=list&off=15
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- 最上氏の栄枯盛衰~伊達氏とはライバル関係にありながらも出羽を統一した武家 - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/20100/?pg=2
- 1『米沢・斜平山城砦群から見えてくる伊達氏の思惑』 https://www.yonezawa-np.jp/html/takeda_history_lecture/nadarayama/takeda_history1_nadarayama.html
- 「伊達輝宗」家中の内紛で後退していた伊達家の領国支配を復活させて勢力を拡大! https://sengoku-his.com/589