長享の乱(1487~1505)
長享の乱(1487-1505)全史:関東戦国時代の黎明
【冒頭注記】「長享の乱」の二つの意味と本報告書の対象範囲について
まず始めに、歴史用語の整理から着手する必要がある。長享年間(1487-1489年)には、後世「長享の乱」と称される可能性のある、性格の異なる二つの大規模な軍事行動が存在する。この点を明確に区別することが、本件を正確に理解する上での第一歩となる。
一つは、近江国を舞台とした室町幕府による「六角征伐」、通称「鈎(まがり)の陣」である 1 。これは、応仁の乱以降失墜した幕府の権威回復を賭け、第9代将軍・足利義尚が自ら大軍を率いて、公家や寺社の所領を侵犯した近江守護・六角高頼を討伐した戦いである 2 。この戦いは中央政権の動向に属するものであり、将軍義尚が陣中で病没するという結末を迎え、後の「明応の政変」へと繋がる重要な伏線となった 3 。
もう一つが、本報告書で詳述する、関東地方における上杉一族の内紛である。これは長享元年(1487年)から永正2年(1505年)までの18年間にわたり、関東管領を世襲する山内上杉家と、その庶流である扇谷上杉家との間で繰り広げられた全面戦争を指す 4 。貴殿が当初認識されていた「将軍継嗣を巡る諸合戦」とは異なり、この戦いの本質は関東の覇権を巡る地域紛争であった。
本報告書では、この関東における両上杉家の内乱を「長享の乱」と定義し、その背景、詳細な戦いの推移、そしてそれが戦国時代の到来に与えた決定的な影響について、徹底的に解明していく。
序章:応仁の乱の残響と関東の地殻変動
長享の乱は、決して突発的に発生した事件ではない。その根源は、京都を焦土と化し、室町幕府の権威を根底から揺るがした応仁の乱(1467-1477年)の巨大な残響と、それに伴う関東地方の構造的な地殻変動に求められる。中央の権威という「重し」が外れた時、関東という独自の政治世界で、新たな権力闘争が始まるのは必然であった。
失墜する幕府権威と「下剋上」の萌芽
応仁の乱は、11年にも及ぶ戦乱の末に明確な勝者なく終結したが、その代償は計り知れなかった。戦場となった京都は壊滅し、幕府の財政基盤は崩壊 6 。何よりも深刻だったのは、将軍の権威が地に堕ちたことであった 8 。これにより、幕府の統制力は全国に及ばなくなり、各地の守護大名は幕府から半ば自立した地域権力として、己の実力で領国を維持・拡大せざるを得ない時代へと突入した 10 。守護の権威が揺らぐ中で、その配下であった守護代や国人といった下位の者が、実力で主家を凌駕し、その地位を奪い取る「下剋上」の風潮が日本各地で生まれ始めた 12 。全国が群雄割拠の時代へと移行する土壌は、この時に形成されたのである 14 。
関東の特殊事情―享徳の乱の終結と権力構造の変質
中央が応仁の乱で混乱する以前から、関東では独自の「戦国」が繰り広げられていた。鎌倉公方・足利成氏と関東管領・上杉氏が28年間もの長きにわたり争った「享徳の乱」である 5 。この大乱が文明14年(1482年)にようやく和睦によって終結したものの、それは関東にかつての平穏が戻ることを意味しなかった。むしろ、旧来の秩序が完全に崩壊した後の、新たな権力闘争の序章に過ぎなかったのである。
和睦の結果、足利成氏は下総国古河を本拠とする「古河公方」としてその存続を認められた。しかし、その権力はもはや関東全域を統べるものではなく、古河を中心とした一地方政治権力へと大きく変質していた 5 。一方で、関東管領として幕府権威の代行者であった山内上杉家もまた、乱の過程で当主の上杉憲忠、房顕が相次いで戦死し、さらに戦後には有力家臣であった長尾景春の反乱に見舞われるなど、その権力基盤は深刻なダメージを受けていた 5 。
扇谷上杉家の台頭と確執の萌芽
この権力の真空地帯で急速に勢力を伸長したのが、それまで山内上杉家の傍流に甘んじてきた扇谷上杉家であった。その躍進の原動力となったのが、家宰・太田道灌の存在である。道灌は築城の名手として江戸城を築き、また卓越した軍事指揮官として享徳の乱や長尾景春の乱で数々の武功を挙げ、扇谷上杉家の名を関東に轟かせた 5 。
こうして、享徳の乱後の関東には、権威はあれど実力に陰りが見える古河公方、嫡流としての名分は持つが疲弊した山内上杉家、そして太田道灌という傑出した家臣の力で急成長を遂げた扇谷上杉家という、三つの勢力が互いに牽制しあう、極めて不安定な均衡状態が生まれた。この均衡は、一つの衝撃によって容易に崩れ去る、脆いガラス細工のようなものであった。長享の乱は、この均衡が崩壊する過程で必然的に発生した、関東の覇権を巡る生存競争だったのである。
第一章:引き金―太田道灌、糟屋に死す(文明18年/1486年)
18年にわたる大乱の幕は、一人の名将の死によって、あまりにも唐突に切って落とされた。文明18年(1486年)7月26日、扇谷上杉家の家宰・太田道灌が、主君である上杉定正の手によって暗殺されたのである。この事件は、関東の諸勢力に激震を走らせ、燻っていた両上杉家の対立を一気に燃え上がらせる直接的な引き金となった。
名将・道灌の功績と主君の猜疑心
太田道灌は、当代随一の武将と評される人物であった。享徳の乱や長尾景春の乱における数々の軍功、そして後の徳川幕府の本拠地となる江戸城の築城など、その功績は枚挙に暇がない 15 。彼の知略と武勇なくして、扇谷上杉家の躍進はあり得なかった。しかし、その功績と名声が、皮肉にも彼の命を縮めることとなる。道灌の名声は主君である上杉定正を凌ぐほどに高まっており、定正は次第に道灌に対して猜疑心を抱くようになった 5 。
上杉定正のこの決断は、単なる功臣への嫉妬心の発露として片付けることはできない。むしろ、応仁の乱を経て旧来の主従関係が崩壊し、実力が全てを支配する新たな時代の論理――すなわち、功績ある家臣は潜在的な脅威であるという戦国的な思考が顕在化した、象徴的な事件であった。定正は、道灌の「忠誠心」という旧来の価値観を信じるのではなく、その圧倒的な「実力」という、新たな時代の脅威にこそ目を向けたのである。主家を凌ぐほどの家臣の存在は、下剋上が現実のものとなりつつあったこの時代において、看過できない脅威と映ったのであろう。
暗殺の実行とその波紋
文明18年7月26日、定正は道灌を相模国糟屋(現在の神奈川県伊勢原市)にあった自らの館に招いた。そして、道灌が入浴中という最も無防備な瞬間を狙い、家臣の曾我兵庫助らに命じて襲撃させ、謀殺した 15 。悲運の武将は、反撃の暇さえ与えられずにその生涯を閉じたのである。
この事件は、関東の政治情勢を一変させた。
第一に、扇谷上杉家は自らの最大の軍事的支柱を失い、その求心力は著しく低下した。定正の行為は、多くの国人領主から見れば、自家の繁栄を支えた大功臣を誅殺する愚行以外の何物でもなかった。
第二に、道灌の嫡子である太田資康は、父の死を知るや江戸城を脱出。山内上杉家の当主・上杉顕定が居城とする武蔵国・鉢形城へと逃れ、父の仇討ちのための助力を請うた 5。
山内上杉顕定の介入と大義名分の獲得
この事態を好機と捉えたのが、関東管領の嫡流である山内上杉家の当主・上杉顕定であった。顕定は、かねてより傍流である扇谷上杉家の急な台頭を苦々しく思っていた 5 。太田道灌の暗殺、そしてその遺児・資康の亡命は、顕定にとって扇谷上杉家当主・定正の非道を糾弾し、これを討伐するという、またとない大義名分を意味した。彼は資康を保護下に置き、定正討伐の旗印とすることで、関東の諸将を自陣営に引き入れる正当性を確保したのである。こうして、一族内の私闘は、「亡き忠臣の仇討ち」という公戦の性格を帯び、関東全域を巻き込む大乱へと発展する準備が整った。
第二章:開戦―両雄、武蔵野に激突す(長享元年~明応3年/1487年~1494年)
太田道灌の死によって生まれた関東の権力真空状態は、長くは続かなかった。山内上杉顕定が「定正討伐」という大義名分を掲げると、両上杉家はついに全面戦争へと突入する。長享元年(1487年)から上杉定正が陣没する明応3年(1494年)までの約7年間、武蔵国と相模国を主戦場に、両軍は一進一退の激しい攻防を繰り広げた。しかし、この戦いは互いの勢力が拮抗していたため決定打を欠き、関東全土を疲弊させる泥沼の消耗戦と化した。
【1487年(長享元年)】戦端、開かる
山内上杉顕定は、越後守護を務める実兄・上杉房定からの支援を取り付け、本拠地である上野国の武士たちを動員して軍事行動を開始した 5 。長享元年閏11月、顕定はまず、扇谷上杉方に通じていた長尾房清が守る下野国足利庄の勧農城を攻撃し、これを攻略した 4 。これが、18年間にわたる長享の乱の事実上の開戦であった。
この挙兵に際し、両軍の陣容は複雑な様相を呈した。
- 山内方(顕定軍) : 総大将は関東管領・上杉顕定。その中核戦力は上野の国人衆であり、太田道灌の遺児・資康も父の仇討ちを掲げてこれに加わった。嫡流としての家格と、道灌暗殺を糾弾する正当性がその強みであった。
- 扇谷方(定正軍) : 総大将は上杉定正。道灌亡き後の軍事力を補ったのは、古河公方・足利成氏からの援軍であった 5 。さらに注目すべきは、かつて山内上杉家に反乱を起こし、道灌によって鎮圧された長尾景春が、今度は扇谷方に味方したことである 5 。敵の敵は味方という、戦国時代特有の離合集散がここにも見て取れる。
【1488年(長享2年)】武蔵での消耗戦
翌長享2年、両軍の主戦場は武蔵国へと移る。同年、両軍は実蒔原(さねまきはら)、須賀谷原(すがやはら)で激突。さらに高見原(現在の埼玉県比企郡周辺)でも大規模な合戦が行われたが、いずれも決着はつかず、双方に多大な死傷者を出す結果に終わった。
これらの戦いは、長享の乱の初期段階の性格を如実に物語っている。山内方は「嫡流」という名分を、扇谷方は道灌が築いた武蔵・相模の地盤と「古河公方」という後ろ盾を持ち、その力は完全に拮抗していた。関東の国人領主たちも、どちらか一方に与するというよりは、戦況を見ながら有利な側につく日和見的な態度を取ることが多く、それが戦線をさらに膠着させた。この決定打のない消耗戦の連続が、結果として両上杉家の国力を著しく削いでいくことになる。
【1494年(明応3年)】扇谷家の当主交代
戦いが長期化する中、扇谷上杉家に大きな転機が訪れる。明応3年、当主である上杉定正が陣中で病没したのである。家督は甥の上杉朝良が継承したが、乱の開始者であり、良くも悪くもカリスマ性を持っていた定正の死は、扇谷上杉家の勢いに影を落とした 4 。軍事経験で劣る朝良が、百戦錬磨の顕定と渡り合っていくことは、容易ではなかった。この当主交代は、長く続いた均衡を徐々に山内方へと傾かせる一因となっていく。
第三章:転機―中央の政変と伊勢宗瑞の躍進(明応2年~永正元年/1493年~1504年)
関東で両上杉家が互いの血を流し、疲弊していく中、京都では日本の歴史を大きく転換させるクーデターが発生した。明応2年(1493年)の「明応の政変」である。この中央政局の激震は、遠く関東の戦乱にも決定的な影響を及ぼした。そして、この混乱を千載一遇の好機と捉え、歴史の表舞台に躍り出たのが、伊勢宗瑞(後の北条早雲)であった。彼の登場は、長享の乱の力学を根底から覆し、関東に新たな時代の到来を告げるものであった。
【1493年(明応2年)】明応の政変と関東への波及
明応2年4月、管領・細川政元が、時の10代将軍・足利義材(よしき、後の義稙)が河内国へ出陣している隙を突いてクーデターを決行。義材を廃し、新たに足利義澄を11代将軍として擁立した 17 。家臣が将軍を追放するという前代未聞のこの事件により、将軍家は義材方と義澄方に分裂。幕府の権威は完全に地に堕ち、力ある者が覇を競う「戦国時代」が名実ともに始まったとされる 17 。
この中央の政変は、長享の乱の当事者たちにも大きな影響を与えた。伊勢宗瑞の関東進出は、単なる地方の国人による下剋上ではない。それは「明応の政変」という中央政局の変動を最大限に利用し、「新将軍の権威」を借りて旧勢力を討伐するという、極めて高度な政治戦略であった。彼は武力だけでなく、中央政局の力学を読み解き、自らの行動を正当化する「大義名分」を創出する能力に長けていたのである。
伊勢宗瑞の伊豆討ち入り
宗瑞は、駿河守護・今川氏の客将であったが、その出自は幕府の中枢を担う伊勢氏の一族であり、政変を主導した幕府政所執事・伊勢貞宗とは従兄弟の関係にあった 17 。一方、当時伊豆国を支配していた堀越公方・足利茶々丸は、追放された前将軍・義材の縁者であった。
この政治的背景を巧みに利用した宗瑞は、新将軍・義澄方の武将として、茶々丸討伐という公的な名分を得て伊豆国へ侵攻した 22 。これは、自らの侵略行為を「幕府の公的な軍事行動」へと昇華させる見事な戦略であった。追放された将軍と擁立された新将軍という二つの権威が並立する混乱期に、宗瑞はいち早く新しい権威に与することで、自らの行動の正当性を確保したのである。
【1495年(明応4年)頃】小田原城奪取と勢力図の変化
伊豆平定を進める宗瑞は、次なる一手として相模国への進出を目論んだ。明応4年頃、彼は扇谷上杉家の家臣であった大森藤頼が守る相模の要衝・小田原城を奇襲によって奪取した 24 。これにより、宗瑞は後の北条五代の拠点となる堅城を手に入れ、関東進出の確固たる足掛かりを築いた。
この伊勢宗瑞という新興勢力の台頭は、関東の勢力図を大きく塗り替えた。
扇谷上杉家は、当主・定正の死に加えて、自家の領内である相模に強力な敵対勢力の出現を許すことになり、その勢力は著しく減退した。
一方、これまで扇谷上杉家を支援してきた古河公方・足利政氏は、その弱体化を目の当たりにし、今度は山内上杉家を支持する立場へと転換した 26。これにより、扇谷上杉家は外交的にも完全に孤立し、滅亡の危機に瀕することになる。
長享の乱 主要関連勢力 変遷図
18年間にわたる複雑な同盟・敵対関係の変遷を以下に示す。特に、古河公方の立場変更や伊勢宗瑞の台頭といった重要な転換点が、戦局に大きな影響を与えたことがわかる。
勢力 |
乱の前期(1487-1493) |
乱の中期(1493-1500) |
乱の後期(1500-1505) |
山内上杉家 |
扇谷家と全面対決 |
扇谷家との対決継続、古河公方が味方に転じる |
優勢を確立。扇谷家を軍事的に圧迫 |
扇谷上杉家 |
山内家と全面対決(古河公方の支援) |
当主交代、古河公方の離反、伊勢氏の侵攻により弱体化 |
劣勢に陥り、外交的・軍事的に孤立 |
古河公方 |
扇谷家を支援 |
扇谷家を見限り、山内家支持へ転換 |
山内家を支持 |
伊勢宗瑞 |
(駿河にて今川氏客将) |
明応の政変に乗じ伊豆・相模へ進出 |
両上杉家の争いを尻目に勢力拡大 |
第四章:終焉―疲弊の果ての和睦(永正元年~永正2年/1504年~1505年)
18年近くに及んだ戦乱は、関東全土を疲弊させ、もはやどちらの陣営にも決定的な勝利を収める力は残されていなかった。乱の最終局面は、両上杉家が最後の力を振り絞ってぶつかり合った後、互いの消耗と新たな脅威の台頭という現実を前に、不本意ながら手を取り合わざるを得なくなる過程であった。この終結は、輝かしい勝利によるものではなく、共倒れの果ての苦渋に満ちた選択であった。
【1504年(永正元年)】立河原の戦い―最後の決戦
永正元年、山内上杉顕定と扇谷上杉朝良の両軍は、雌雄を決するべく武蔵国・立河原(現在の東京都立川市)で対峙した。この戦いは長享の乱における最大規模の野戦となり、双方ともに総力を挙げた激戦が繰り広げられた。戦いの結果、数に勝る山内方が勝利を収め、扇谷方の劣勢は決定的となった。もはや扇谷上杉家に、単独で山内上杉家に対抗する力は残されていなかった。
伊勢宗瑞という共通の脅威
両上杉家が立河原で最後の死闘を演じている間も、伊勢宗瑞はその動きを止めてはいなかった。彼は伊豆と西相模を完全に掌握し、着々と地盤を固め、虎視眈々と東相模、そして武蔵への進出の機会を窺っていた。
立河原の戦いを経て、両上杉家は痛感せざるを得なかった。互いに争い続けている間に、自分たちの足元に、はるかに危険で狡猾な第三の勢力が誕生してしまったという事実を。このまま内紛を続ければ、いずれは双方ともにこの新興勢力によって滅ぼされるであろうことは、火を見るより明らかであった。伊勢宗瑞の存在は、敵対しあう両上杉家にとって、皮肉にも初めての「共通の脅威」となったのである。
【1505年(永正2年)】和睦と終結
立河原での決定的な敗北、18年間の戦いによる領国の深刻な疲弊、そして伊勢宗瑞という共通の脅威の台頭。これらの要因を前に、扇谷上杉朝良はついに継戦を断念した。永正2年、朝良は山内上杉顕定に降伏を申し入れ、顕定もこれを受諾。両者の間で和睦が成立した 4 。
この和睦をもって、長享元年(1487年)から関東を二分し続けた大乱は、ようやく終結した 28 。しかし、その結末は、どちらかの完全な勝利によるものではなかった。それは、勝者も敗者も等しく力を失い、ただ疲弊だけが残るという、最も不毛な形での幕引きであった。この和睦は、新たな時代の主役(後北条氏)の登場を前に、旧時代の覇者(上杉氏)がその衰退を自ら認めた瞬間でもあったのである。
終章:長享の乱が遺したもの
長享の乱の終結は、関東地方に平和をもたらしたわけではなかった。むしろ、それは旧秩序の完全な崩壊と、より熾烈な実力主義の時代の到来を告げる号砲であった。18年間の内紛が遺したものは、後の関東の歴史を決定づける、三つの大きな変化であった。
両上杉家の共倒れと権威の失墜
形式上は山内上杉家の「勝利」で終わったものの、実態は「共倒れ」であった。18年間にわたる絶え間ない戦争は、山内・扇谷両家の国力を回復不可能なレベルまで消耗させた 4 。かつて関東に絶対的な権威を誇った関東管領・上杉氏の力は、この内紛によって見る影もなく衰退した。この乱で得た「勝利」の果実は、疲弊した領国と、隣接地に誕生した強力な新興勢力という「負の遺産」でしかなかった。これ以降、両上杉家は伊勢宗瑞の後を継いだ北条氏綱、さらには甲斐の武田信玄といった新たな戦国大名の侵攻の前に、防戦一方の苦しい戦いを強いられることになる。
後北条氏台頭の序曲
長享の乱の真の勝者は、戦いに直接参加しなかった伊勢宗瑞であった。両上杉家が互いに潰し合っている間に、彼は明応の政変という中央の動乱を巧みに利用して伊豆を平定し、小田原城を奪取して相模国に確固たる地盤を築いた 4 。長享の乱は、宗瑞に関東進出のための時間と大義名分を与えた、まさに「揺りかご」の役割を果たしたのである。この乱の終結は、上杉氏の時代の終わりであると同時に、宗瑞を祖とする後北条氏が関東の覇者として君臨する、約100年間の歴史の始まりを意味していた。
関東戦国時代の本格化
長享の乱は、応仁の乱が全国規模で示した「旧秩序の崩壊」という現象を、関東地方という舞台で、より凝縮された、より決定的な形で再現した事件であった。この乱を境に、関東では古河公方や関東管領といった旧来の権威は名目上のものとなり、実力のみが領国の支配を正当化する下剋上の時代が本格的に到来する 4 。
応仁の乱が明確な勝者を生まずに畿内の混乱を長期化させたのとは対照的に、長享の乱は伊勢宗瑞(後北条氏)という明確な「次代の覇者」を生み出した。その点において、この乱は単なる地方の内紛に留まらず、関東における中世的秩序の終焉と、戦国時代という新たな時代の誕生を告げる、極めて重要な転換点であったと結論づけることができる。50年後、上杉氏は関東の支配権の大部分を後北条氏に奪われることになるが、その全ての始まりはこの長享の乱にあったのである 4 。
引用文献
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