長光寺城の戦い(1568)
近江制圧の電撃戦:永禄十一年 長光寺城陥落の真相と「観音寺城の戦い」の全貌
序章:天下布武への道程
永禄十一年(1568年)、日本の歴史が大きく転換する年である。この時期、京都を中心とする畿内では、室町幕府の権威は完全に失墜していた。十三代将軍足利義輝が三好三人衆と松永久秀によって暗殺されて以来(永禄の変)、幕府は事実上の機能不全に陥り、畿内は彼ら戦国武将たちの勢力争いの舞台と化していた 1 。義輝の弟である足利義昭は、兄の遺志を継ぎ、幕府を再興するという悲願を胸に、各地の有力大名を頼って流浪の日々を送っていた。彼にとって、自らの将軍就任を強力な軍事力で支援してくれる庇護者の存在が不可欠であった。
その頃、尾張・美濃二国を完全に平定した織田信長は、「天下布武」の印を掲げ、次なる目標として天下統一事業の第一歩である上洛を明確に視野に入れていた。信長にとって、足利義昭という存在は、自らの軍事行動を正当化するための絶好の「大義名分」であった。永禄十一年、信長は越前に滞在していた義昭を美濃の立政寺に迎え入れ、両者の提携が成立する。信長は義昭を将軍の座に就けることを約束し、義昭は信長に上洛の軍事指揮を委ねたのである 1 。
しかし、信長の上洛には、越えなければならない大きな障壁が存在した。美濃と京都を結ぶ経路上に位置する南近江の支配者、近江守護・六角義賢(法号:承禎)、義治父子である。六角氏は近江源氏佐々木氏の嫡流を汲む名門守護大名であり、長年にわたり近江に君臨してきた旧来の権威の象徴であった 4 。信長は当初、事を荒立てることを避け、六角氏に対して義昭の上洛への協力を繰り返し要請した。『信長公記』によれば、その説得は七日間に及んだとされる 5 。しかし、六角氏はこの要請を頑なに拒絶した。
その拒絶の背景には、複雑な心理が渦巻いていた。イエズス会宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』は、六角氏の動機を「一つには信長に対する恐怖から、またこの企画を自ら先に拒絶したことを恥じていたので、その通過を拒もうと考えた」と記している 6 。これは、尾張の新興勢力である信長の急速な台頭に対する警戒心と、一度は断った手前、今更協力することは名門としてのプライドが許さないという意地があったことを示唆している。また、六角氏は当時、畿内を支配する三好三人衆と連携関係にあり、既存の政治秩序を維持する立場にあったことも、信長との対立を決定づけた要因であった 4 。
この六角氏の協力拒否は、単なる一地方大名の戦略的判断に留まるものではなかった。それは、血筋と伝統的権威を重んじる旧来の名門勢力が、実力によって既存の秩序を塗り替えようとする新しい時代の挑戦者に対し、自らの存在意義をかけて最後の抵抗を試みた、戦国という時代の大きな転換点を象徴する決断であった。この決断により、信長の上洛は、平和的な行軍から近江一国を制圧する大規模な軍事作戦へとその性格を変え、長光寺城を含む近江の諸城は、歴史の奔流に飲み込まれていくこととなる。
第一章:観音寺城の守り ー 六角氏の防衛戦略と伝統
織田信長の挑戦に直面した六角氏が恃みとしたのは、本拠地である観音寺城を中心とした、長年の経験に裏打ちされた防衛体制であった。その戦略は、巨大山城の堅固さと、伝統的なゲリラ戦術の二本柱によって成り立っていた。
巨大山城・観音寺城の構造と機能
観音寺城は、標高432.9mの繖山(きぬがさやま)全体に郭群が広がる、日本五大山城の一つに数えられる壮大な城郭であった 7 。その規模は、城下町の石寺にあった家臣団の屋敷群まで含めると、広大な領域に及ぶ。しかし、その威容とは裏腹に、純粋な軍事要塞としての機能にはいくつかの弱点を抱えていた。城の虎口(出入り口)は比較的単純な構造であり、敵の侵入を効果的に阻むための竪堀(斜面に沿って掘られた堀)なども少なく、防御施設としては必ずしも万全ではなかったとされる 7 。
この構造は、観音寺城が単なる軍事拠点ではなく、守護の政庁、さらには経済の中心地としての役割を強く意識して築かれていたことを物語っている。山麓には「楽市」と呼ばれる自由市場が設けられ、京都と東国を結ぶ交通の要衝として、多くの人々で賑わっていた 7 。信長が後に展開する「楽市楽座」の原型がここにあったとする説もあるほど、観音寺城は政治・経済・軍事が一体となった複合的な城郭都市だったのである。
箕作城・和田山城・長光寺城:支城網による縦深防御体制
六角氏は、この巨大な観音寺城を防衛するため、その周囲に複数の支城を配置し、多層的な防衛ライン、すなわち縦深防御体制を構築していた。観音寺城の南東に位置する箕作城、南西の和田山城、そして本稿の主題である長光寺城などがその代表である 1 。
六角氏の基本的な防衛戦略は、これらの支城群で敵の進軍を食い止め、時間を稼ぐことにあった。敵が支城の攻略に手間取っている間に、連携していた三好三人衆からの援軍を待ち、内外から敵を挟撃して撃退するというのが、彼らが描いた勝利への道筋であったと考えられる 8 。長光寺城もまた、この防衛ネットワークの重要な一翼を担う拠点として、織田軍の侵攻に備えていたのである。
「捨て城」戦術:甲賀に根差す六角氏のゲリラ戦法
六角氏の防衛戦略を理解する上で最も重要な要素は、彼らが長年にわたり培ってきた独自の戦術思想、通称「捨て城」戦術である。これは、圧倒的な兵力を持つ敵と正面から決戦することを避け、本拠地である観音寺城を敢えて放棄し、一族の地盤である甲賀の山中へと退避する戦法である 8 。
歴史上、六角氏はこの戦術で何度も危機を乗り越えてきた。例えば、延徳元年(1489年)に九代将軍足利義尚が、また延徳三年(1491年)には十代将軍足利義稙が、それぞれ大軍を率いて六角氏討伐に乗り出した(長享・延徳の乱)。その際、当時の当主六角高頼は、いずれの場合も観音寺城をあっさりと明け渡し、甲賀の山中へ潜伏した。そして、地の利を活かしたゲリラ戦を展開し、幕府軍を疲弊させた。将軍義尚が遠征先の陣中で病没するなど、敵が疲弊し、撤退すると、六角氏は再び観音寺城へ帰還し、近江の支配権を回復したのである 9 。
この成功体験は、六角氏にとって「捨て城」が単なる敗走ではなく、勝利を導くための確立された伝統的戦略であることを意味していた。彼らは、永禄十一年に侵攻してきた織田信長に対しても、この過去の成功体験に基づいた戦略で臨もうとしていた。しかし、彼らは信長という敵の本質を、根本的に見誤っていた。過去の敵であった室町幕府軍の目的は、将軍の権威を示すための一時的な軍事示威行動であり、近江を恒久的に占領・支配することではなかった。そのため、時間稼ぎのゲリラ戦は有効であった。対照的に、信長の目的は、単なる示威行動ではなく、自らの実力による支配体制をその地に恒久的に確立することにあった。旧時代のパラダイムに囚われた六角氏の伝統的戦略は、信長がもたらす新しい戦争の形態の前では、もはや通用しなくなっていたのである。
第二章:決戦、永禄十一年九月十二日 ー 近江侵攻の時系列分析
六角氏が伝統的な防衛戦略に固執する一方、織田信長は旧来の戦術の常識を覆す、革新的な電撃戦を準備していた。永禄十一年九月十二日、その作戦は実行に移され、近江の戦況はわずか一日で劇的に変化することとなる。
侵攻前夜(九月七日~十一日)
決戦に先立ち、信長は周到な準備と心理戦を展開した。
- 九月七日 :信長は足利義昭に出陣の挨拶を済ませると、本拠地である岐阜城から大軍を率いて出陣。美濃国平尾村に最初の陣を敷いた 6 。
- 九月八日 :織田軍は早くも近江国内へ侵攻し、高宮(現在の滋賀県彦根市)に布陣。すぐさま愛知川周辺の村々に火を放った 12 。これは単なる破壊活動ではなく、六角方の領民や兵士に織田軍の力と非情さを見せつけ、戦意を削ぐことを目的とした高度な心理作戦であった。
- 九月十一日 :公家・山科言継の日記『言継卿記』には、この日に信長が六角方と交戦したとの記述が見られる 12 。大規模な戦闘ではなかったと推察されるが、決戦を前に両軍が対峙し、小競り合いを繰り返す緊迫した状況であったことが窺える。
【早朝】愛知川渡河と織田軍の三隊編成
そして運命の日、九月十二日の早朝、織田軍は突如として行動を開始した。全軍が愛知川を渡河すると、信長は軍を以下の三隊に分け、同時に複数の目標へと進軍させるという、極めて高度な連携作戦を展開した 1 。
表1:永禄十一年九月十二日 織田軍戦闘序列
部隊 |
指揮官 |
攻撃目標 |
任務 |
第一隊 |
稲葉良通(一鉄) |
和田山城 |
牽制・退路遮断 |
第二隊 |
柴田勝家、森可成 |
観音寺城 |
陽動・主力牽制 |
第三隊(本隊) |
織田信長、木下秀吉、丹羽長秀、滝川一益 |
箕作城 |
主攻撃・防衛線中核の突破 |
この布陣は、信長の卓越した戦略眼を如実に示している。彼は、敵の防衛網を構成する全ての城を律儀に一つずつ攻略するのではなく、陽動部隊(第一隊・第二隊)で敵の兵力を複数の場所に釘付けにし、その間に自ら率いる主戦力(第三隊)を敵の防衛システムの最も重要な一点に集中させることを狙った。この作戦目標の選択こそが、この日の戦いの帰趨を決する鍵となった。
【午後~夜】主戦場・箕作城の激闘
信長の読み通り、この日の主戦場は箕作城となった 1 。木下秀吉(後の豊臣秀吉)率いる2,300の兵が北の口から、丹羽長秀率いる3,000の兵が東の口から攻撃を開始した。しかし、箕作城は急峻な地形を利用した堅城であり、城将・吉田出雲守が指揮する六角方の守りもまた固かった。織田軍の猛攻はことごとく跳ね返され、午後五時頃には逆に城兵に追い崩されるなど、苦戦を強いられた 1 。
戦況が膠着し、このままでは多大な損害を被りかねない状況の中、木下秀吉が夜襲を進言する。これは、敵の意表を突くと同時に、昼間の攻防で疲弊した敵兵の隙を狙う大胆な策であった。信長はこの策を容れ、夜陰に乗じて総攻撃が再開された。闇夜の中、松明を掲げた織田軍が決死の突撃を敢行すると、昼間の激戦で疲弊しきっていた六角方の防衛線はついに崩壊。深夜に至り、箕作城は織田軍の手に落ちた 1 。
【並行】和田山城、観音寺城への陽動と圧力
箕作城で激戦が繰り広げられている間、稲葉良通の第一隊は和田山城を、柴田勝家・森可成の第二隊は観音寺城をそれぞれ包囲し、圧力をかけ続けていた 1 。これにより、観音寺城に籠る六角義賢・義治父子は、箕作城が危機に陥っていることを知りながらも、本城から援軍を送ることができなかった。六角氏が誇った支城ネットワークは、信長の巧みな用兵によって完全に分断され、個別に無力化されていったのである。
【焦点】長光寺城の陥落:電撃戦における一拠点制圧の実態
ここで、利用者様が当初疑問に持たれた「長光寺城の戦い」の実態に焦点を当てる。信頼性の高い史料である『信長公記』や『言継卿記』には、九月十二日の出来事として「同夜、観音寺城が自焼し、長光寺城ほか十一、二の城を落とす」といった趣旨の記述がある 12 。この記述だけを読むと、あたかも長光寺城でも激しい攻城戦があったかのように解釈できる。
しかし、『信長公記』の別の箇所には、信長の作戦意図を解き明かす重要な一文がある。「沸きわき数ヶ所の御敵城へは御手遣もなく、佐々木(六角)父子三人楯籠られ候観音寺並箕作山へ、同十二日にかけ上させられ」 4 。これは、「あちこちにある数々の敵の城には手出しもせず、六角父子が籠る観音寺城と箕作城へ、十二日に一斉に攻めかからせた」という意味である。
この記述は、信長の戦略が当初から、長光寺城のような末端の支城を各個撃破することではなく、敵の指揮系統と防衛網の中核である観音寺城と箕作城に戦力を一点集中させることにあったことを明確に示している。
これらの史料を総合的に分析すると、永禄十一年九月十二日の長光寺城の状況が浮かび上がってくる。この日、長光寺城で大規模な攻城戦が行われた可能性は極めて低い。むしろ、防衛線の要であった箕作城がわずか半日で陥落し、さらに本城である観音寺城が炎上して主君が逃亡したという衝撃的な情報が伝わると、長光寺城を守っていた兵士たちは組織的な抵抗が無意味であることを悟り、戦意を完全に喪失したであろう。そして、彼らは城を放棄して逃亡したか、あるいは戦わずして織田方に降伏したと考えるのが最も合理的である。「長光寺城ほか十一、二の城を落とす」という記録は、この防衛システムの連鎖的な崩壊の結果を示したものに他ならない。
信長の戦術の革新性は、物理的に城を一つずつ破壊していくのではなく、敵の防衛システムの中枢を破壊することで、敵全体の指揮系統と兵士の士気を心理的に崩壊させる点にあった。長光寺城の無血開城ともいえる結末は、まさにこの信長の新しい戦争哲学がもたらした、象徴的な出来事だったのである。
第三章:崩壊と逃避 ー 六角氏の敗走と戦後の近江
箕作城の陥落は、六角氏の防衛体制に致命的な亀裂を生じさせた。その衝撃は瞬く間に近江全土に広がり、長年続いた六角氏の支配体制は、わずか一夜にして崩壊へと向かった。
観音寺城の無血開城と六角父子の甲賀への敗走
防衛線の要であった箕作城が、予想を遥かに超える速さで陥落したという報は、観音寺城に籠る六角義賢・義治父子に絶望をもたらした。彼らは観音寺城での籠城戦を断念し、一族が代々用いてきた伝統的な「捨て城」戦術に従うことを決断する。九月十二日の深夜、六角父子は自ら観音寺城に火を放ち、一族の地盤である甲賀郡へと逃走した 1 。難攻不落を誇った巨大山城は、一度も本格的な攻撃を受けることなく、主自らの手によって炎に包まれたのである。
この電撃的な勝利は、しかし、織田方にとっても無傷ではなかった。フロイスの『日本史』によれば、信長はこの一連の近江攻略作戦において1,500人以上の兵士を失ったと記録されている 6 。これは主に箕作城での激戦による損害と考えられ、六角方の抵抗が決して微弱なものではなかったことを示している。
信長の京都入城と畿内平定
南近江の抵抗勢力をわずか数日で一掃した信長の進軍を、もはや誰も止めることはできなかった。九月二十七日、信長は足利義昭を奉じて琵琶湖畔の三井寺に入り、翌九月二十八日には堂々と京都へ入城を果たした 1 。六角氏のあまりにも早い敗北の報は、彼らと連携していた三好三人衆を震撼させた。彼らは織田軍とまともに戦うことなく京都から駆逐され、信長は驚異的な速さで畿内の政治的中心地を掌握することに成功したのである 1 。
湖南の要衝:長光寺城への柴田勝家の配置とその戦略的意味
上洛を果たし、足利義昭を将軍の座に就けた後も、信長は近江に対する警戒を解かなかった。彼は、六角氏が甲賀の地で再起を図り、伝統的なゲリラ戦を仕掛けてくることを十分に予測していた。そのため、信長は南近江(湖南地域)の支配体制を盤石にするための布石を打つ。
『信長公記』によれば、元亀元年(1570年)の記述として、信長が湖南の要衝に譜代の重臣を配置したことが記されている。特に、長光寺城には柴田勝家を、永原城には佐久間信盛を城主として置いた 12 。これは、1568年の制圧直後から同様の体制が敷かれていたことを示唆するものである 13 。
この人事配置は、極めて重要な戦略的意味を持っていた。長光寺城や永原城は、甲賀方面から京都へ向かうルートを監視・遮断する上で絶好の位置にあった。ここに柴田勝家のような猛将を配置することで、六角氏によるいかなるゲリラ活動も封じ込め、その再起の芽を完全に摘み取る狙いがあった。この恒久的な支配体制の構築こそ、一時的な制圧のみを目的とした過去の幕府軍と、信長との決定的な違いであった。この信長の措置により、六角氏の伝統的な「捨て城」からの反撃戦術は完全に無力化され、彼らが再び観音寺城へ返り咲くことは、二度となかったのである 8 。
第四章:歴史的考察 ー 「瓶割り柴田」伝説の年代比定
長光寺城の名は、戦国史において、柴田勝家の武勇を象徴する有名な逸話「瓶割り柴田」の舞台として記憶されている。しかし、この英雄譚がいつの出来事であったかについては、慎重な歴史的検証が必要である。
逸話の概要とその英雄的イメージ
「瓶割り柴田」の伝説は、おおむね次のような物語である。長光寺城を守る柴田勝家が、数に勝る六角軍に包囲された。六角軍は城の水の手(水源)を断ち、城内は深刻な水不足に陥る。兵士たちの士気が低下し、落城寸前の危機に瀕したその時、勝家は城内に残された最後の水瓶の前に兵士たちを集めた。彼はその貴重な水を兵士たちに分け与えると、おもむろに槍で水瓶を叩き割った。そして、「もはや城に生きて戻ることは考えず、渇して死ぬか、討ち死にするかのいずれかである。決死の覚悟で城から打って出て、武士としての面目を保て」と檄を飛ばした。この勝家の覚悟に奮い立った兵士たちは、鬼神の如く城から討って出て、包囲していた大軍を打ち破ったという 14 。この逸話により、勝家は「瓶割り柴田」の異名を取り、長光寺城が立つ山も「瓶割山」と呼ばれるようになったとされる 15 。
永禄十一年(1568年)説の検討
この逸話が、本報告書で詳述してきた永禄十一年(1568年)の出来事であるとする説もある。しかし、第二章で分析した通り、この年の近江侵攻において、織田軍は終始圧倒的優勢を保っていた。信長の本隊が箕作城を一日で攻略し、六角氏の防衛網全体が崩壊する中、支城の一つに過ぎない長光寺城で、柴田勝家が単独で敵の大軍に包囲され、水の手を断たれるほどの窮地に陥るという状況は、戦略的に考え難い。したがって、この逸話の背景として永禄十一年は不適切であると言わざるを得ない。
元亀元年(1570年)説の有力な根拠
一方で、この逸話の背景として、元亀元年(1570年)の状況は極めて説得力を持つ。この年、織田信長は生涯最大の危機を迎えていた。越前朝倉氏攻めからの撤退戦(金ヶ崎の退き口)の後、姉川の戦いで辛勝したものの、浅井・朝倉連合軍に加え、比叡山延暦寺、石山本願寺などが一斉に蜂起し、信長包囲網が形成された(志賀の陣) 2 。
信長が畿内で身動きが取れなくなっているこの好機を、六角義賢が見逃すはずはなかった。彼は甲賀の旧臣や一向宗徒を糾合して挙兵し、南近江で大規模な反攻作戦を開始した 17 。この時、柴田勝家は寡兵で長光寺城を守備しており、数で遥かに優る六角軍に包囲されるという、まさに伝説通りの絶体絶命の状況が現出していたのである 15 。この元亀元年の緊迫した戦況こそ、「瓶割り」の逸話が生まれるにふさわしい劇的な舞台であった。
『武家事紀』と『信長公記』の記述比較:史料批判的アプローチによる伝説の検証
さらに史料批判的な観点から見ると、この逸話の信憑性について新たな側面が浮かび上がる。この「瓶割り」の逸話が詳細に記されているのは、主に江戸時代に成立した『武家事紀』などの後代の編纂物である 19 。一方で、織田信長の一代記であり、同時代史料として信頼性が非常に高いとされる『信長公記』には、元亀元年の六角氏の蜂起や、それに対する織田方の戦い(野洲河原の戦いなど)の記述はあるものの、「瓶割り」の逸話に繋がる長光寺城での籠城戦そのものについては、明確な記述が見当たらない 17 。
この事実は、我々に重要な示唆を与える。つまり、「瓶割り柴田」の逸話は、歴史的事実そのものを正確に記録したものではなく、元亀元年に柴田勝家が長光寺城周辺で六角軍と激しく戦い、これを撃退したという歴史的な核(コア)となる事実に、後世の人々が英雄譚として劇的な脚色を加えて創作した物語である可能性が極めて高いということである。
歴史上の出来事は、時として人々の記憶の中で、より教訓的で、より英雄的な物語へと昇華されていく。猛将としての柴田勝家のキャラクターと、「背水の陣」を象徴する「瓶割り」という劇的な装置が結びつくことで、この逸話は単なる戦闘記録を超え、武士の覚悟を伝える不朽の伝説として完成したのである。このプロセスを理解することは、単一の合戦を学ぶだけでなく、歴史がどのように語り継がれ、伝説が生まれるのかという、より普遍的なテーマを探求することにも繋がる。
終章:長光寺城の戦いが残したもの
永禄十一年(1568年)の織田信長による近江侵攻、そしてその一環として生じた長光寺城の陥落は、戦国時代の歴史において、単なる一地方の攻防戦に留まらない、多岐にわたる重要な意義を持っている。
信長の戦術思想(一点集中・電撃戦)の体現
第一に、この一連の戦いは、織田信長の革新的な戦術思想が初めて大規模に実践され、その絶大な効果を証明した画期的な事例であった。信長は、敵の支城を一つずつ順番に攻略していくという従来の常識を覆し、敵の防衛システムの中核(箕作城)に戦力を一点集中させ、電撃的にこれを破壊した。これにより、物理的な戦闘力を削ぐだけでなく、敵の指揮系統と兵士の士気を心理的に崩壊させ、防衛網全体の無力化を達成した。長光寺城を含む十数城が、主戦場での勝利に連動して抵抗なく陥落した事実は、この戦術の有効性を何よりも雄弁に物語っている。この戦いで示された「一点集中」と「スピード」を重視する思想は、後の姉川の戦いや長篠の戦いにも通底する、信長戦術の原点として位置づけられる。
戦国大名・六角氏の没落の決定打としての意義
第二に、この戦いは、南近江に長年君臨した名門守護大名・六角氏にとって、事実上の没落を決定づける一撃となった。彼らは伝統的な「捨て城」とゲリラ戦術によって再起を図ろうとしたが、信長が戦後、柴田勝家らを要衝に配置して恒久的な支配体制を築いたことで、その戦略は完全に封じられた。観音寺城へ二度と帰還できなかった六角氏の末路は、血筋や伝統的権威といった旧来の価値観が、実力によって塗り替えられていく戦国時代の下剋上の力学を象徴する出来事であった 1 。
歴史的事件と後世の伝説の分離:史実を探求する視点
最後に、本報告書は「1568年の長光寺城の戦い」という当初の問いに対し、それが大規模な戦闘ではなく、より大きな戦略的崩壊の一環であったことを明らかにした。さらに、同城にまつわる最も有名な「瓶割り柴田」の逸話が、1568年の出来事ではなく、信長が最大の危機に瀕した元亀元年(1570年)の奮戦を基に後世に形成された伝説である可能性が高いことを論証した。
この結論に至る過程は、歴史を探求する上での重要な視点を提示する。すなわち、史料を批判的に読み解き、同時代の記録と後代の編纂物を比較検討し、戦略的・政治的文脈の中で出来事を再評価することの重要性である。そうしたアプローチを通じてのみ、我々は歴史的事実と、人々が語り継いできた物語(伝説)とを区別し、歴史のより深い真相に迫ることができるのである。長光寺城の事例は、一つの城が持つ「史実」と「記憶」の両面を考察することの面白さと意義を、我々に教えてくれる。
引用文献
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- 志賀の陣 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E8%B3%80%E3%81%AE%E9%99%A3
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- 第二節 織田信長の六角氏打倒 http://www.edu-konan.jp/ishibeminami-el/kyoudorekishi/302020100.html
- 『信長公記』にみる信長像② 上洛編|Sakura - note https://note.com/sakura_c_blossom/n/n350f047d28c2
- 1568年 – 69年 信長が上洛、今川家が滅亡 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1568/
- 観音寺城|日本百名城 https://shiro-trip.com/shiro/kannonji/
- 観音寺城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.kannonji.htm
- 観音寺城をめぐる議論 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.turedure4.htm
- 大河ドラマで毎回無視される近江の超名門大名『六角氏』~観音寺城を奪回せよ~ - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=ZFQh_c9M_jI
- 観音寺城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E5%AF%BA%E5%9F%8E
- 歴史の目的をめぐって 六角義治 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-43-rokkaku-yoshiharu.html
- 信長の城と戦国近江 - 滋賀県 https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/4035617.pdf
- 長光寺城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.chohkohji.htm
- 第12回:長光寺城(瓶割り柴田の伝説が残るお城) https://tkonish2.blog.fc2.com/blog-entry-12.html
- 柴田勝家の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7470/
- 長光寺城の戦い - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/CyoukoujiJou.html
- 柴田勝家・お市の方 | 歴史あれこれ | 公益財団法人 歴史のみえるまちづくり協会 https://www.fukui-rekimachi.jp/category/detail.php?post_id=32
- 野洲河原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%B4%B2%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84