最終更新日 2025-09-01

長尾景春の乱(1476~80)

関東戦国序曲:長尾景春の乱(1476-1480)全史 ―秩序の崩壊と新たな時代の胎動―

序章:忘れられた画期

文明8年(1476年)から文明12年(1480年)にかけて関東を揺るがした「長尾景春の乱」は、しばしば関東管領・山内上杉家の内紛として、あるいは名将・太田道灌の武功を際立たせる一挿話として語られてきた。しかし、この乱を「戦国時代」というより大きな視座から捉え直すとき、その歴史的意義は単なる一地方の騒乱に留まらない。本報告書は、長尾景春の乱を、京都における応仁の乱と時を同じくして関東の旧来の政治秩序を根底から覆し、約30年にわたる享徳の乱の帰結として、実力主義と下剋上が支配する「戦国時代」の本格的な到来を告げた画期的な事件として論証するものである。

この乱の本質は、享徳の乱という長期戦がもたらした「権威の空洞化」と、それに伴う「実力主義への移行」という、二つの巨大な社会構造の変化が、「家宰職の継承」という一点を触媒として爆発した現象であった 。享徳の乱の長期化は、関東の最高権威である古河公方と関東管領の権威を著しく低下させた 。この未曾有の長期戦の最前線であった五十子(いかっこ)の陣を18年間にわたり維持するため、山内上杉家当主・上杉顕定は、実務の多くを家宰である長尾氏に依存せざるを得なかった 。その結果、家宰職は単なる家臣の筆頭という地位を超え、関東の軍事・政治を実質的に動かす一個の「権力機関」へと変貌を遂げていたのである。

それゆえ、二代にわたりその職を世襲してきた白井長尾家の嫡男・長尾景春にとって、家宰職の継承は単なる名誉の問題ではなく、一族が実力で築き上げた権益と軍事基盤そのものであった 。上杉顕定による家宰職の交代という決定は、景春の視点からは、旧来の「家格」や「慣習」を一方的に否定し、実力で勝ち得た地位を不当に剥奪する行為に他ならなかった。これは、室町時代的な主従関係や秩序が崩壊し、個々の武将の実力が全てを決定する戦国時代へと移行する、まさにその過渡期特有の矛盾が噴出した事件だったのである。本報告書では、この動乱の全貌を詳細な時系列に沿って再現し、その歴史的意義を明らかにしていく。

第一部:動乱の萌芽 ― 乱に至る関東の政治情勢

第一章:享徳の乱の長い影

長尾景春の乱を理解するためには、その背景にある約30年にわたる関東の大乱、「享徳の乱」を避けて通ることはできない。享徳3年(1454年)、鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を謀殺したことに端を発するこの戦乱は、関東地方を利根川を境に東西に二分する巨大な断層を生み出した 。東国に深く根を張る伝統的豪族層に支持された古河公方・足利成氏と、室町幕府の権威を背景とする山内・扇谷の両上杉家との対立は、単なる武力衝突に留まらず、関東における統治の正統性を巡るイデオロギー闘争の様相を呈していた 。

この長期戦の象徴こそ、武蔵国五十子(現在の埼玉県本庄市)に築かれた上杉方の巨大な陣城であった 。長禄3年(1459年)頃に構築されて以来、五十子の陣は18年もの長きにわたり、対古河公方戦線の心臓部として機能し続けた 。しかし、それは同時に、両上杉家の軍事資源と政治的エネルギーを際限なく吸い尽くす巨大な重石でもあった。数千から数万と推定される兵力が長期間駐屯するこの陣の維持は、兵糧の調達や管理といった兵站の重要性を飛躍的に高め、それを統括する山内上杉家家宰の権力を必然的に増大させる結果を招いたのである 。享徳の乱の泥沼化は、関東管領の権威を相対的に低下させ、実務を担う家宰の権力を肥大化させるという、深刻な構造的矛盾を上杉家内部に生み出していた。

第二章:上杉家の内なる亀裂

享徳の乱において、上杉方は一枚岩ではなかった。関東管領職を世襲する宗家・山内上杉家と、その分家である扇谷上杉家の間には、共闘関係の水面下で複雑な緊張関係が存在した 。

山内上杉家の当主は上杉顕定、扇谷上杉家の当主は上杉定正であった。形式上は山内家が宗家であり、扇谷家の所領は山内家家宰である長尾氏の半分にも満たない規模であったが、実態は大きく異なっていた 。特に、扇谷上杉家の家宰であった太田資清(道真)・資長(道灌)父子の活躍は目覚ましく、彼らは岩槻城を修築し、新たに河越城、江戸城を築城して、対古河公方戦における上杉方の重要拠点を確立した 。

太田道灌の軍事的才能は突出しており、各地での勝利によって扇谷上杉家の発言力と勢威は飛躍的に高まった。その声望は、本来格上であるはずの山内上杉家にとって、協力者であると同時に潜在的な脅威とも映っていた 。この両家の微妙なパワーバランスの変化は、長尾景春の乱において、道灌が事実上の総司令官として乱の鎮圧を主導する素地を形成した。しかしそれは同時に、乱の終結後、功成り名遂げた道灌が主君に疎まれ、粛清されるという悲劇の遠因ともなったのである。

第三章:ある家宰の憤怒 ― 乱の直接的引き金

享徳の乱が育んだ構造的矛盾は、文明5年(1473年)6月23日、五十子の陣中における一人の武将の死によって、ついに臨界点に達する。山内上杉家家宰・長尾景信の陣没である 。

景信の父・景仲、そして景信自身と、白井長尾家は二代にわたって山内上杉家の家宰職を務め、その権勢は主家を凌ぐとまで言われた 。嫡男である長尾景春は、父祖の功績とこれまでの慣例から、自らが家宰職を継承することを当然視していた 。

しかし、主君・上杉顕定の下した決断は、景春の期待を無惨に裏切るものであった。顕定は、景春の叔父にあたり、別系統の惣社長尾家を継いでいた長尾忠景を新たな家宰に任命したのである 。表向きは、家中の長老格である忠景を立てるという穏当な人事であったが 、その真意は、強大化しすぎた白井長尾家の力を削ぎ、形骸化していた当主の権力を回復しようとする顕定の政治的意図があったと見られている。

家宰職は、単なる名誉職ではなかった。家宰領と呼ばれる広大な所領の管理権、軍事指揮権、そして何よりも戦で獲得した新たな所領を配分する権限を掌握していた 。この職を失うことは、景春個人だけでなく、彼を支持する多くの国人領主や家臣団にとって、経済的基盤を揺るがす死活問題であった。武蔵国柴郷の所領引き渡しを巡る紛争は、その深刻さを象徴する事件であった 。

景春の叔母婿にあたる太田道灌が、「忠景が家宰職に就く代わりに、景春を武蔵守護代に任じる」という妥協案を提示したが、顕定と忠景はこの調停を拒否 。ここに及んで、景春は武力に訴える以外に道はないと決意する。彼の挙兵は、単なる個人的な憤りからではなく、一族とそれに連なる者たちの存亡をかけた、避けられない選択だったのである。

第二部:戦火の5年間 ― 合戦のリアルタイム・クロニクル

長尾景春の乱は、家宰職を巡る対立から始まり、関東全域を巻き込む大乱へと発展した。その約5年間の詳細な経過を以下に記述する。


【表1】長尾景春の乱 詳細年表(1473年~1482年)

出典:

第一章:文明八年(1476):反旗

乱の火蓋は、上杉方にとって最悪の状況下で切られた。文明8年(1476年)3月、扇谷上杉家の軍事的主柱である太田道灌は、主家の同盟者である駿河国・今川家の家督争いに介入するため、主力を率いて関東を離れていた 。これは、当時の関東管領体制が、幕府との連携のもと、周辺大名の安定化にも一定の責任を負う広域的な政治秩序であったことを示している。

道灌の不在は、長尾景春にとって千載一遇の好機であった。同年6月、景春は長年対峙してきた五十子の陣を離れ、武蔵国北西部の要衝・鉢形城(現在の埼玉県寄居町)に入り、反乱の旗を公然と掲げた 。鉢形城は荒川と深沢川が合流する地点の断崖絶壁に築かれた天然の要害であり、景春がこの地を新たな拠点として選んだことは、上杉家との全面対決と長期的な籠城戦を覚悟していたことを物語っている 。

第二章:文明九年(1477):激震

年が明けた文明9年(1477年)は、この乱の戦局が最も激しく、そして劇的に動いた一年となった。

五十子の陣、崩壊

1月18日、景春はかねてからの計画を実行に移す。兵2,500を率い、厳寒期の油断を突いて五十子の陣を急襲した 。18年間にわたり、対古河公方戦線の象徴であり続けたこの巨大な陣は、内部の事情を知り尽くした景春の攻撃に対し、あまりにも脆かった。上杉顕定と定正はなすすべもなく大敗を喫し、からくも陣を脱出して上野国へと敗走した 。この事件は、関東の軍事バランスを一夜にして覆すほどの衝撃をもって、各地の武士たちに伝わった。

景春の圧倒的な勝利に呼応し、これまで上杉氏の支配に不満を抱いていた関東各地の国人領主が一斉に蜂起した。武蔵国では名族・豊島氏が、下総国では千葉孝胤が、上野国では長野為業らが景春方につき、その勢力は瞬く間に関東一円に拡大 。上杉方の支配体制は、まさに崩壊の危機に瀕した。

道灌の逆襲と江古田・沼袋原の戦い

この国家的危機に際し、一人の武将の才覚が戦局を根底から覆すこととなる。駿河から急ぎ帰還した太田道灌である。主君の敗走と味方の離反が相次ぐ中でも、道灌は冷静に戦況を分析し、驚異的な速度で反攻作戦を開始した。

彼の戦略は、敵の主力である景春本体との直接対決を避け、まず脆弱な連携で結ばれた末端の支持勢力を各個に撃破し、敵を孤立させることにあった。3月、道灌はまず相模国へ進軍し、景春方の拠点であった溝呂木城と小磯城を電光石火の速さで攻略。南関東を平定し、後顧の憂いを断った 。

次いで道灌は、本拠地・江戸城と主君の居城・河越城との連絡線を遮断していた武蔵国の豊島氏の討伐に向かう。4月13日、両軍は江古田・沼袋原(現在の東京都中野区・練馬区一帯)で激突した。


【表2】江古田・沼袋原の戦い 主要勢力

出典:

この戦いにおいて、道灌の戦術眼は遺憾なく発揮された。武蔵野台地の複雑な谷戸が入り組む地形を巧みに利用し、あらかじめ伏兵を潜ませた上で、少数の部隊で豊島方の練馬城に攻撃を仕掛け、敵主力を平坦な江古田原へと誘い出した 。誘いに乗って出撃してきた豊島泰経・泰明兄弟の軍勢は、道灌の伏兵によって包囲殲滅され、弟の泰明をはじめ板橋氏、赤塚氏ら150名以上が討死するという壊滅的な打撃を受けた 。兄の泰経は石神井城へ敗走したが、同月28日には道灌によって城も攻略され、ここに平安時代以来の名族・豊島氏の宗家は滅亡した 。この決定的な勝利により、道灌は本拠地周辺の安全を確保し、北関東へ進軍する体制を整えたのである。

用土原の戦いと古河公方の介入

南武蔵を平定した道灌は、すぐさま北上を開始。5月13日、上野国で敗走を続けていた主君・顕定と定正を五十子に迎え入れ、上杉軍を再編した 。勢いを取り戻した上杉軍は、景春の拠点・鉢形城へと迫る。

5月14日、道灌は再び陽動作戦を用いた。鉢形城を直接攻撃するかに見せかけ、景春軍を城から平野部の用土原(現在の埼玉県寄居町)へと誘い出したのである 。この戦いは「乱の中で最も激しい合戦」と伝えられ、待ち構えていた道灌と両上杉軍の猛攻の前に景春軍は総崩れとなり、大敗を喫した 。景春に味方した上野の有力国衆・長野為業もこの戦いで討死し、景春は辛うじて鉢形城へと逃げ込んだ 。

しかし、鉢形城に籠城する景春を上杉軍が包囲し、まさに勝敗が決しようとしたその時、戦局は再び動く。窮地に陥った景春の救援要請に応じ、7月、古河公方・足利成氏が結城氏、宇都宮氏ら8,000と号する大軍を率いて上野国へ出陣したのである 。自軍の背後を大軍に脅かされる形となった道灌ら上杉軍は、鉢形城の包囲を解いて撤退せざるを得なかった。これにより、乱は再び膠着状態に陥り、文明9年の激動の一年は幕を閉じた。

この一連の戦いは、長尾景春の戦略が、五十子奇襲という緒戦の成功の後、各地の国衆の自然発生的な蜂起と、最終的には古河公方という旧来の「権威」と「大軍」に依存する伝統的なものであったのに対し、太田道灌の戦略が、兵力で劣る状況を情報と機動性で補い、敵の弱点を的確に突く各個撃破を徹底した、より近代的で合理的なものであったことを示している。この両者の戦略思想の差こそが、わずか数ヶ月で絶望的な状況を覆す原動力となったのである。

第三章:文明十年~十二年(1478-1880):終焉

文明10年(1478年)に入ると、戦いの主軸は軍事から外交へと移行していく。30年近くに及ぶ享徳の乱に疲弊していたのは、上杉方だけではなかった。古河公方・足利成氏もまた、長年の戦乱に倦み、幕府との和睦を模索し始めていた。この動きを太田道灌は見逃さなかった。

文明10年1月、成氏と幕府・上杉氏との間で「都鄙和睦」と呼ばれる歴史的な和議が成立する 。これにより、成氏は幕府から正式に赦免される代わりに、上杉氏との停戦に合意した 。この和睦は、長尾景春にとって致命的な一撃となった。最大の軍事的・政治的支援者を失い、彼は関東の広大な戦場で完全に孤立したのである。

もはや景春に、道灌の攻勢を防ぐ術は残されていなかった。同年7月18日、道灌は成氏の黙認のもと、景春が籠る鉢形城を攻撃し、これを攻略 。景春は秩父の山中へと逃亡し、ゲリラ的な抵抗を続けた。

道灌は追撃の手を緩めなかった。文明11年(1479年)には景春方の残党が籠る長井城を攻略 。翌文明12年(1480年)1月には、児玉郡で再起を図った景春を道灌の父・道真が撃退した 。そして同年6月24日、道灌は景春最後の拠点であった秩父・日野城を総攻撃の末に陥落させ、乱を完全に鎮圧した 。景春は再び古河公方を頼って落ち延び、ここに約5年間にわたる大乱は、事実上の終結を迎えた。

第三部:乱が遺したもの ― 関東新時代の序幕

第一章:勝利の代償 ― 太田道灌の栄光と悲劇

長尾景春の乱の鎮圧は、そのほとんどが太田道灌一人の武功と才覚によるものであったと言っても過言ではない 。この勝利により、彼が仕える扇谷上杉家の勢威は宗家の山内上杉家を凌駕するほどに高まり、道灌個人の声望は、主君である上杉定正を遥かに超えるものとなった。しかし、その功績と名声こそが、彼の悲劇的な最期を招くことになる。

あまりに強大になりすぎた家臣の存在は、主君・定正にとって誇りであると同時に、いつ自らの地位を脅かすかもしれないという猜疑心と恐怖の源泉となった 。この定正の不安を、扇谷家の伸長を快く思わない山内上杉顕定が煽ったとも伝えられている 。実力でのし上がった家臣を、旧来の身分秩序の論理ではもはや制御できなくなった主君が、最終的に暴力による排除という手段に訴える。これは、下剋上の時代が到来したことを象徴する出来事であった。

文明18年(1486年)7月26日、道灌は定正の居館である相模国糟屋館に招かれ、入浴後に襲撃され、謀殺された 。死に際に「当方滅亡」(私が死ねば、扇谷上杉家も滅亡するだろう)と言い残したと伝えられるが 、その言葉は、その後の関東の歴史を正確に予言していた。

第二章:上杉氏、落日の始まり

太田道灌という重石を失ったことで、山内・扇谷両上杉家の間に辛うじて保たれていた均衡は完全に崩壊した。道灌の死は、両家の対立を決定的にし、18年間に及ぶ泥沼の内戦「長享の乱」の直接的な引き金となったのである 。

道灌の暗殺後、彼の子である太田資康をはじめ、道灌を慕っていた扇谷家配下の多くの国人領主たちは、主君・定正を見限り、山内上杉顕定のもとへと走った 。これを千載一遇の好機と見た顕定は、扇谷家を討つべく長享元年(1487年)に挙兵。両上杉家は、関東の覇権を巡る全面戦争へと突入した 。

歴史の皮肉というべきか、この戦いで扇谷定正は、かつて自らが滅ぼそうとした宿敵・長尾景春を味方に引き入れ、山内家と戦うことになる 。長尾景春の乱が上杉家の内部矛盾を白日の下に晒し、道灌の死がその矛盾を爆発させた。関東は再び長期の内乱状態に陥り、両上杉家は互いにその力を削り合い、共倒れへの道を歩み始めたのである。

第三章:新たな覇者の足音

長尾景春の乱から長享の乱へと続く関東の果てしない混乱は、外部の野心的な勢力にとって、介入の絶好の機会を提供した。その筆頭が、駿河国に拠点を置いていた伊勢宗瑞、後の北条早雲である。

長尾景春の乱は、関東の政治・軍事秩序に巨大な「権力の真空」を生み出した。まず、この乱によって関東管領・上杉氏の権威が絶対的なものではなく、有力家臣の反乱一つで容易に揺らぐことが証明された 。次に、乱の鎮圧で得た莫大な政治的・軍事的資本を、扇谷上杉家は道灌暗殺という自滅的な行為によって一挙に失った 。そして、長享の乱という同族間の消耗戦は、両上杉家の軍事力と経済力を致命的に削いでいった 。

伊勢宗瑞は、この関東の混乱を冷静に観察していた。彼は長享の乱において、扇谷上杉氏からの援軍要請に応じるという形で関東の政治に巧みに介入し、その足がかりを築いていく 。もし景春の乱が起こらなければ、道灌が殺されることもなく、長享の乱も発生しなかった可能性が高い。そうなれば、上杉氏の権威は維持され、宗瑞が関東へ進出する隙は生まれなかったかもしれない。その意味で、長尾景春の乱は、意図せずして、後北条氏という新たな時代の覇者を関東に呼び込むための地ならしをする歴史的役割を果たしたと言えるのである。

第四章:歴史的評価

長尾景春という人物は、単なる主君への反逆者として片付けられるべきではない。近年の研究では、彼の反乱は「下剋上の走り」として再評価されている 。彼の行動は、主君の器量を問い、家臣が自らの判断で主君を選ぶという、まさに戦国時代的な論理の先駆けであった。

彼は乱に敗れた後も、その生涯を反・山内上杉の姿勢で貫き通した。扇谷方につき、後には越後の長尾為景(上杉謙信の父)や伊勢宗瑞とも連携するなど、72歳でその生涯を閉じるまで、執拗に抵抗を続けた 。その数十年にわたる抵抗は、結果として関東における上杉氏の支配体制を内部から絶えず侵食し続け、関東の戦国時代化を促進する大きな要因となった 。後の時代の覇者である伊勢宗瑞が、敵方であった景春を「武略・知略に優れた勇士」と高く評価したという逸話は 、彼が旧時代の価値観に殉じた単なる敗者ではなく、新しい時代の到来を予感させる複雑な人物であったことを示唆している。

終章:結論

長尾景春の乱は、享徳の乱によって変質した関東の社会構造の矛盾を噴出させた、避けることのできない歴史的事件であった。この乱は、太田道灌という、旧来の枠組みには収まらない新しいタイプの軍事的天才を歴史の表舞台に登場させると同時に、その悲劇的な死によって関東のさらなる混乱、すなわち長享の乱を招来した。

そして、この上杉氏の内訌という「権力の真空」が、伊勢宗瑞(北条早雲)という新たなプレイヤーを関東に引き寄せ、最終的に支配者の交代劇へと繋がっていく。その全ての起点となったのが、家宰職を巡る一人の武将の憤怒であった。長尾景春の乱は、関東における室町幕府体制の黄昏を告げ、後北条氏が支配する新たな時代へと続く、壮大な「関東戦国時代」の序曲だったのである。

引用文献

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  39. 関宿と簗田氏 〜戦国期に活躍した一族〜 //諸家の内紛 - 野田市観光協会 https://www.kanko-nodacity.jp/sekiyado-yanada/yanada4.html
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  43. 「下剋上 感想」黒田基樹さん(講談社現代新書) - 肝胆ブログ https://trillion-3934p.hatenablog.com/entry/2021/06/19/000723
  44. 「長尾景春」主を恨むこと30年超え!? 諦めない男の生涯とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/160
  45. 長尾景春 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/NagaoKageharu.html