長島口・揖斐川舟戦(1574)
天正二年、織田信長は長島一向一揆に対し水陸総攻撃を敢行。水軍による補給路遮断と陸軍の連携で輪中要塞を攻略し、二万を焼き払う殲滅戦で長島を平定した。
「Perplexity」で合戦の概要や画像を参照
天正二年 長島口・揖斐川舟戦 詳報:信長の殲滅戦における水陸共同作戦の全貌
序章:第三次長島攻めへの道程
天正二年(1574年)夏、織田信長は伊勢長島に対し、空前の規模を誇る水陸両面からの総攻撃を開始した。これは、元亀元年(1570年)の蜂起以来、信長を足掛け四年にわたり苦しめ続けた長島一向一揆を根絶するための、文字通りの殲滅戦であった。この戦役における一局面、「長島口・揖斐川舟戦」は、単なる水上戦に留まらず、信長の戦略的思考の進化と、戦国時代の戦争の様相が新たな段階へと移行する様を象徴する、極めて重要な合戦である。本報告書は、この合戦を第三次長島攻めという大局的な文脈の中に正確に位置づけ、その背景、戦力の詳細、そしてリアルタイムな戦闘の推移を徹底的に詳述し、その歴史的意義を深く考察するものである。
「悪魔の巣」長島:輪中地帯の地理的特性と一向一揆の聖域化
伊勢長島とは、木曽川、揖斐川、長良川という日本有数の大河が伊勢湾に注ぐ河口部に形成された広大なデルタ地帯を指す 1 。この地域は、無数の支流と中州が網の目のように広がり、洪水から集落や田畑を守るために周囲を堤防で囲んだ「輪中(わじゅう)」と呼ばれる独特の集落形態が発達していた 2 。川と堤防に閉ざされた輪中は、外部からの大規模な軍勢の侵攻を著しく困難にする天然の要害であり、ひとたび内部に立てこもれば、地の利を知らぬ攻撃側は泥沼の戦いを強いられることになる 4 。
この特異な地理的条件の下、長島は浄土真宗本願寺派門徒の一大拠点として、半独立的な勢力を築き上げていた。その濫觴は文亀元年(1501年)、本願寺第八世蓮如の六男・蓮淳によって願証寺が創建されたことに遡る 1 。以来、願証寺は地域の国人領主層をも取り込みながら勢力を拡大し、戦国中期には周辺に数十の寺院・道場を擁し、伊勢・尾張・美濃三国の門徒約10万を束ねる、石高10万石規模の一大宗教自治領と化していた 1 。信長が尾張を統一した永禄四年(1561年)の時点ですら、その支配は長島には及んでおらず、この地は信長の足元に存在する「聖域」であり、同時に治外法権の「アジール(避難所)」でもあった 1 。
この一向一揆勢力は、単なる農民の武装蜂起とは本質的に異なる。彼らは願証寺を中心とした強固な統治機構と、輪中という地形を最大限に活用した独自の防衛網(砦ネットワーク)を有していた 9 。さらに、伊勢湾を介して雑賀衆など外部の反信長勢力からの兵員・物資補給ルートを確保しており、その実態は宗教的紐帯で結ばれた事実上の「地域独立国家」であった 10 。したがって、信長にとって長島との戦いは、単なる領内の反乱鎮圧ではなく、自己の統治権が及ばない独立勢力を武力で解体し、併合する「征服戦争」としての性格を色濃く帯びていた。この認識こそが、後に信長を非情な殲滅戦へと駆り立てた根本的な要因の一つと考えられる。
二度の屈辱:第一次・第二次長島攻めの失敗と信長の戦略的再考
元亀元年(1570年)九月、大坂石山本願寺の法主・顕如が発した檄文に応じ、長島の門徒は一斉に蜂起した 1 。彼らはまず長島城を奪取して拠点とすると、同年十一月には信長の弟・織田信興が守る尾張・小木江城を攻略し、信興を自害に追い込んだ 1 。この報復として、信長は二度にわたり長島へ大軍を派遣するが、いずれも手痛い失敗に終わる。
**第一次長島攻め(元亀二年、1571年)**は、信長の戦略的誤算を象徴する戦いであった。信長は5万と号する大軍を三方向から進撃させたが、守りの固い輪中の砦群を攻めあぐね、周辺の村々に放火するに留まった 9 。問題は撤退時に発生した。地の利を熟知した一揆勢は、織田軍の退路となる狭隘な道筋に弓兵と鉄砲兵を配備して待ち伏せたのである 1 。殿(しんがり)を務めた柴田勝家隊は猛攻を受けて苦戦し、勝家自身も負傷。代わって殿を務めた美濃三人衆の一角・氏家卜全(直元)が壮絶な討死を遂げるという惨憺たる結果に終わった 10 。この敗北は、長島が単なる力押しでは攻略できない難攻不落の要塞であることを信長に痛感させた。
**第二次長島攻め(天正元年、1573年)**では、信長は前回の反省から、長島本体ではなく、まず周辺の城砦を攻略して孤立化させる作戦を採った 16 。しかし、この作戦もまた、決定的な成功には至らなかった。最大の敗因は、水上戦力の欠如にあった。信長は事前に次男の北畠具豊(後の織田信雄)を通じ、伊勢大湊の船団の調達を命じていたが、会合衆(自治組織)が非協力的であったため、計画は頓挫した 4 。制海権を確保できなかった織田軍は、長島の核心部への直接攻撃を断念せざるを得ず、一揆勢は桑名方面から海路を通じて兵員や物資の補給を維持し続けることができたのである 10 。
これら二度の失敗は、信長にとって屈辱以外の何物でもなかったが、同時に貴重な教訓をもたらした。それは、「長島攻略には、陸上からの大規模な軍事行動だけでは不十分であり、水陸両面からの完全な包囲による兵站の遮断こそが勝利の鍵である」という戦略的結論であった。信長は、過去の失敗から学び、次の作戦を練り上げる「学習する指揮官」であった。第三次長島攻めにおける周到な水陸共同作戦の計画は、まさにこの二度の敗北という高価な授業料の末に導き出された必然的な帰結だったのである。
殲滅への序曲:信長包囲網の崩壊と総力戦への決意
天正元年(1573年)は、信長にとって戦略的な転換点となった年である。八月には長年の宿敵であった越前の朝倉義景と北近江の浅井長政を相次いで滅ぼし、さらにその前年には最大の脅威であった甲斐の武田信玄が病没していた 1 。これにより、信長を東西から締め上げていた「信長包囲網」は事実上崩壊し、彼は初めて後顧の憂いなく、織田軍団の全戦力を一つの目標、すなわち長島に集中させることが可能となった。
戦略的環境の好転は、信長の個人的な感情と政治的決意を、長島の完全殲滅へと向かわせた。元亀元年の蜂起以来、弟・信興を筆頭に、第一次・第二次長島攻めで氏家卜全や林通政といった有力武将を失い、一族や家臣に多くの犠牲者を出してきた 1 。これらの積年の恨みは、一向一揆に対する信長の憎悪を増幅させていた。それに加え、自己の政権の安定と天下布武の完遂のためには、領国の中心部に存在するこの独立性の高い「聖域」の存在は断じて許容できるものではなかった。かくして信長は、過去の失敗を乗り越え、持てる全ての軍事力を動員して、長島一向一揆を地上から抹殺するという、冷徹かつ非情な総力戦を決意するに至ったのである。
第一部:両軍の戦力分析
天正二年(1574年)夏、長島に集結した織田軍は、その規模、編成、兵装において、過去の二度の遠征とは比較にならない、まさに殲滅を目的とした一大遠征軍であった。対する一向一揆軍もまた、信仰心と地の利を盾に、決死の覚悟でこれを迎え撃つ。開戦前夜における両軍の戦力を詳細に分析することは、この合戦の帰趨を理解する上で不可欠である。
織田軍の陣容:水陸一体の殲滅戦力
陸軍:空前の大動員と三方面軍の編成
天正二年六月二十三日、信長は美濃を発ち、尾張津島に進駐すると、織田領の全域に対して「大動員令」を発した 10 。この動員に応じ、畿内方面で政務にあたる明智光秀や、越前方面の抑えとして残された羽柴秀吉ら一部の軍団を除き、織田家の主要な武将と兵力がほぼ全て長島の地に結集した 9 。
その総兵力は、『信長公記』などの史料によれば約8万とされ 1 、一説には10万近くに達したとも言われる 18 。これは、姉川の戦いや三方ヶ原の戦いといった同時代の主要な合戦の動員数を遥かに凌駕するものであり、織田家の軍事力が質・量ともに飛躍的に増大していたこと、そして信長のこの戦いにかける並々ならぬ決意を如実に物語っている。
信長は、この大軍を機能的に運用するため、長島を陸上から三重に包囲する三方面軍を編成した 9 。この編成には、単なる物量投入に留まらない、信長の戦略的な人事の妙が見て取れる。
- 市江口(いちえぐち)方面軍(北東) : 総大将には嫡男の織田信忠を据え、その麾下には池田恒興、森長可、斎藤利治といった尾張・美濃出身の若手実力派武将を配した。これは、次代を担う信忠に大軍の指揮経験を積ませると同時に、若手の武将たちに武功を挙げる機会を与える意図があったと考えられる。
- 賀鳥口(かとりぐち)方面軍(北西) : 柴田勝家、佐久間信盛という織田家筆頭家老の両名に、稲葉一鉄ら美濃の宿老を加えた、歴戦の猛者が揃う布陣であった。経験豊富な宿将たちに西側からの堅実な攻勢を委ねることで、作戦全体の安定性を確保した。
- 早尾口(はやおぐち)方面軍(北) : 信長自らが率いる本隊であり、丹羽長秀、佐々成政、前田利家といった直属の精鋭で固められていた。中央に位置して全軍の指揮を執るとともに、戦況に応じていずれの方面軍にも投入可能な強力な予備兵力としての役割も担っていた。
このように、若手、宿老、そして直属の精鋭をそれぞれの役割に応じて適材適所に配置した編成は、織田軍という巨大な軍事機構が、信長の統制の下で有機的に機能するよう周到に計画されていたことを示している。
水軍:伊勢湾方面艦隊の実力
二度の失敗から水軍の重要性を痛感していた信長は、第三次攻勢において、陸軍に匹敵するほどの強力な水軍を組織した。その指揮は、志摩の海賊大名であり、卓越した操船技術と海戦の経験を持つ九鬼嘉隆と、北伊勢の軍団長として地域の地理と水路に精通し、信長の意を汲んで大局的な戦略を実行できる腹心・滝川一益の二人体制に委ねられた 19 。この専門家と戦略家を組み合わせた指揮系統は、現場の判断力と中央の戦略統制を両立させるための、極めて合理的なものであった。
艦隊の中核を成したのは、九鬼水軍が擁する大型戦闘艦「安宅船(あたけぶね)」であった 23 。これに加え、信長の三男で伊勢の名門北畠家の養子となっていた北畠具教(織田信雄)や、知多半島を拠点とする佐治信方といった伊勢・尾張沿岸の国人衆から徴用した数百隻の大小の船団が加わり、伊勢湾から長島周辺の河口を完全に封鎖する一大艦隊が編成された 10 。
この水軍に与えられた任務は、多岐にわたる。第一に、そして最も重要なのが、海上からの完全な兵站遮断である 10 。これにより、一揆勢は外部からの兵員、兵糧、弾薬といった全ての補給を断たれ、籠城戦における最大の生命線を絶たれることになる。第二に、安宅船に搭載された大鉄砲(大筒)を用いて、陸上部隊の攻撃を支援する火力支援、すなわち「艦砲射撃」である 25 。そして第三に、兵員や物資の輸送という兵站任務も担っていた。この水軍の存在こそが、第三次長島攻めを過去の二度とは全く異なる次元の戦いへと昇華させる決定的な要因となった。
兵装と技術:大型安宅船と大鉄砲(大筒)
この合戦で織田方水軍の主力となった安宅船は、当時の日本の軍船における「戦艦」に相当する存在であった。巨大な船体は堅牢な木材と盾板で覆われ、防御力に優れていた 24 。推進力は帆も用いたが、戦闘時にはマストを倒し、数十から百数十挺にも及ぶ櫓を漕ぎ手の力で動かして航行した 28 。その広大な甲板と上部構造物(矢倉)には、多数の戦闘員と鉄砲を配備することが可能であり、まさに「浮遊する城」であった。
特に重要なのは、安宅船が「大鉄砲(大筒)」、すなわち大型の火縄銃や原始的な大砲を運用するための安定したプラットフォームとして機能した点である 26 。陸上では運搬や設置に多大な労力を要するこれらの重火器も、安宅船のような大型船であれば容易に搭載・運用が可能であった。長島攻めにおいては、これらの大鉄砲が川岸から一揆勢の籠る砦の櫓や防御施設を直接破壊するために用いられ、絶大な威力を発揮したと記録されている 11 。
なお、後の第二次木津川口の戦い(天正六年、1578年)で毛利水軍を破り、その名を轟かせることになる「鉄甲船」は、この天正二年の長島攻めの時点ではまだ建造されておらず、実戦には投入されていない 30 。この戦いで活躍したのは、あくまで在来型の大型安宅船であったことを明確に区別しておく必要がある。
一向一揆軍の防衛体制
信仰と地の利:門徒衆の士気と輪中要塞ネットワーク
織田軍の圧倒的な物量に対し、一向一揆軍が頼みとするのは、強固な信仰心と地の利であった。兵力は数万から10万と推定されるが、その多くは戦闘訓練を受けていない農民や漁民、そして女性や子供といった非戦闘員も含まれていた 6 。しかし、「進者往生極楽、退者無間地獄(進む者は極楽に往生し、退く者は無間地獄に堕ちる)」という信仰の下、彼らは死を恐れぬ勇敢な兵士へと変貌した 18 。その結束力と士気の高さは、専門の武士団に勝るとも劣らないものであった。
彼らの防衛体制の中核は、長島城を本拠とし、大鳥居、篠橋、屋長島、中江といった、輪中地帯の要所に点在する砦が有機的に連携して形成された、一大要塞ネットワークであった 9 。これらの砦は、川や深い堀、湿地といった自然の障害物によって巧みに防御されており、大軍をもってしても一つ一つを攻略するのは極めて困難であった 4 。過去二度の織田軍の侵攻を頓挫させたこの防衛網は、まさに難攻不落を誇っていた。しかし、その生命線は、伊勢湾から繋がる水路を利用した外部からの補給にあった。織田軍の水軍がその水路を完全に封鎖した時、この鉄壁の要塞ネットワークは、自らを閉じ込める巨大な「檻」へと変貌することになるのである。
この戦いの勝敗は、開戦前からすでに決していたと言っても過言ではない。織田軍の最大の強みは、単に8万という兵士の数にあったのではない。それは、陸軍と水軍という異なる戦闘単位を一つの作戦目標の下に統合し、敵の最大の弱点である兵站線を断つという、極めて高度な戦略を実行できる能力にあった。水軍による海上封鎖は、戦闘力そのもの以上に、一揆勢の長期抵抗の意志を根底から打ち砕く「兵站遮断能力」において、決定的な価値を持っていた。
表1:第三次長島攻めにおける織田軍主要編成
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担当方面 |
主要指揮官 |
兵力(推定) |
役割 |
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陸軍 |
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市江口(北東) |
織田信忠、池田恒興、森長可、斎藤利治 他 |
約30,000 |
長島輪中への主攻。若手武将による先鋒的役割。 |
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賀鳥口(北西) |
柴田勝家、佐久間信盛、稲葉一鉄 他 |
約25,000 |
西側からの圧迫。経験豊富な宿老による堅実な攻勢。 |
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早尾口(北) |
織田信長(本隊)、丹羽長秀、佐々成政、前田利家 他 |
約25,000 |
中央からの進撃と全軍の総指揮。予備兵力としての機能も担う。 |
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水軍 |
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伊勢湾・河口 |
九鬼嘉隆、滝川一益、織田信雄、佐治信方 他 |
数百隻 |
海上からの完全封鎖、兵站遮断、大鉄砲による火力支援、兵員輸送。 |
第二部:合戦のリアルタイム詳報(天正二年七月~九月)
『信長公記』をはじめとする同時代の史料は、天正二年夏から秋にかけての長島における凄惨な戦いの様相を、日付を追って克明に記録している。それは、信長の周到な計画が、寸分の狂いもなく実行されていく冷徹なプロセスであった。
七月十三日~十五日:鉄の包囲網
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七月十三日:
全ての準備を整えた織田信長は、本拠地である岐阜城を出立。決戦の地、長島へと向かった 9。彼の心中には、四年にわたる宿敵との戦いに終止符を打つという、揺るぎない決意が満ちていた。 -
七月十四日:
作戦は、陸上三方面軍の一斉進撃によって開始された。賀鳥口の柴田勝家・佐久間信盛隊は、長島の北西、松之木の対岸に陣取る一揆勢の防衛線を突破。時を同じくして、早尾口の信長本隊も、かつて弟・信興が命を落とした因縁の地である小木江の一揆勢を撃破した 9。信長はすかさず、麾下の羽柴秀長(秀吉の弟)と浅井政貞に篠橋砦への攻撃を命令。一方、丹羽長秀の部隊は、前ヶ須、海老江島、加路戸といった一揆方の拠点を次々と焼き払い、五明(現在の愛知県弥富市)まで進出して野営した 10。
この日の陸上部隊の動きは、単なる力押しではない。その主目的は、長島輪中の外郭に存在する抵抗勢力を一掃し、翌日到着する味方水軍が河川内で安全に展開するための「橋頭堡」を確保することにあった。 -
七月十五日:
夜が明けると、伊勢湾の水平線上に、おびただしい数の帆が現れた。九鬼嘉隆が率いる安宅船を先頭とした、織田方水軍の大船団である 10。蟹江、熱田、常滑など尾張の港々から集められた兵を乗せた船に加え、伊勢方面からは織田信雄が率いる船団も合流。その数は数百隻に及び、『信長公記』は「長島を囲む大河は、織田軍の軍船で埋め尽くされた」と記している 10。
この瞬間、長島は陸と海から完全に遮断された。食料も、弾薬も、援軍も、もはや外部から入る術はない。信長の描いた巨大な鉄の包囲網が、ここに完成したのである。
八月:外郭砦への水陸共同撃
完全な孤立状態に陥った一揆勢は、長島城、屋長島城、中江城、そして外郭に位置する大鳥居城、篠橋城の五つの城砦に立てこもり、最後の抵抗を試みた 9 。これに対し織田軍は、まず攻略が比較的容易な外郭の砦から順に、水陸共同による各個撃破作戦を開始した。
この局面で、織田水軍の真価が発揮される。足場の悪い湿地帯では、陸上部隊が城壁に取り付くことさえ困難であった。そこで九鬼嘉隆と滝川一益は、安宅船を砦の目前まで大胆に接近させ、搭載した大鉄砲による至近距離からの「艦砲射撃」を敢行した 4 。轟音とともに放たれる鉄弾は、一揆勢が頼みとする砦の櫓や土塀を粉々に打ち砕いていく。これは、防御施設を破壊する物理的な効果はもちろんのこと、籠城する兵士たちの士気を根底から打ち砕く、絶大な心理的効果をもたらした。
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八月二日:
水陸からの猛攻に耐えかねた大鳥居城では、夜陰に乗じて兵たちが脱出を試みた。しかし、彼らの動きは織田軍に完全に察知されていた。脱出してきた男女約1,000人は、待ち構えていた伏兵によって一人残らず討ち取られ、大鳥居城は陥落した 5。 -
八月十二日:
次に兵糧が尽きたのは篠橋城であった。城兵は「長島本城に入り、織田方に内応する」という偽りの降伏条件を提示してきた 10。信長は、これが兵糧の尽きた城から本城へ移るための方便であることを見抜いていた。しかし、彼はこの申し出をあえて受け入れた。兵糧攻めを主眼とする信長にとって、敵が一箇所に集まり、兵糧の消費を早めてくれることは、むしろ好都合であったからである 4。篠橋城の者たちは、織田軍の監視の下、長島本城へと追い入れられた。これにより、長島城内の人口密度は異常に高まり、飢餓の進行は致命的な速度で加速していった。
九月二十九日:血の揖斐川
八月からの一ヶ月半に及ぶ徹底した兵糧攻めの結果、長島城内は地獄の様相を呈していた。食料は完全に尽き、餓死者が続出した 9 。もはや抵抗を続ける力も意志も失った一揆勢は、九月二十九日、ついに全面降伏を申し入れ、船で城から退去することの許しを乞うた 9 。
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偽りの降伏と虐殺:
信長は、表向きこの降伏を受け入れた。一揆勢は安堵し、わずかに残った者たちが、最後の望みを託して揖斐川に船を浮かべた。しかし、それは信長が仕掛けた最後の、そして最も残酷な罠であった。船団が川の中ほどまで進んだその瞬間、両岸に待ち構えていた織田軍の鉄砲隊が一斉に火を噴いた。何の防備も持たない船上の門徒たちは、なすすべもなく撃ち殺され、川に落ちた者もことごとく斬り捨てられた 8。この時、一揆の指導者であった本願寺の坊官・下間頼旦をはじめ、多数の門徒が命を落とした 10。この行為は、単なる裏切りではない。敵を最も無防備な状態に誘い出し、味方の損害を最小限に抑えつつ、効率的に殲滅するという、殲滅戦の論理に貫かれた冷徹な戦術的判断の結果であった。 -
最後の反撃:裸の門徒800人、死を覚悟の突撃:
この信義のかけらもない虐殺は、しかし、生き残った一揆勢の心に最後の炎を灯した。もはや極楽往生も覚束ない裏切りに激昂した約800人の門徒たちは、常軌を逸した行動に出る。彼らは着物を脱ぎ捨てて裸になると、一本の刀だけを手に、織田軍の陣へ向かって決死の逆襲を敢行したのである 9。
彼らの突撃は、信長の本陣ではなく、警備が比較的緩やかであった織田一門衆が守る陣へ向けられた。死を覚悟した者たちの突撃は凄まじく、油断していた織田軍の陣は一時混乱に陥った。この捨て身の攻撃によって、信長の庶兄である織田信広、弟の織田秀成、叔父の織田信次、従兄弟の織田信成といった、信長の一族の武将たちが次々と討ち死にするという、織田軍にとってあまりにも大きな代償を払うことになった 9。
この最後の突撃は、単なる自暴自棄な行動ではない。「裸になる」という行為は現世への執着を断ち切った宗教的殉教精神の現れであり、同時に、無様に殺されるのではなく敵将を討ち取って死ぬという行為は、一揆勢に加わっていた地侍たちの武士的価値観に通じる 8。信仰と武士の矜持が融合したこの特異な行動は、長島一向一揆の最後の抵抗として、戦史に強烈な印象を刻みつけた。
終局:二万人の劫火
一族の多くを殺され、信長の怒りは頂点に達した。もはや彼に慈悲は一片も残されていなかった。
信長は、いまだ屋長島と中江の二つの砦に籠る残存勢力に対し、最終的な殲滅を命じた。砦の周囲には幾重にも柵が巡らされ、脱出の可能性は完全に断たれた 10。そして、四方から一斉に火が放たれた。逃げ場を失った砦の中の者たちは、阿鼻叫喚の地獄の中で、一人残らず劫火に焼かれていった。その数、男女合わせて約2万人と伝えられている 7。
同日、長島の地が焦土と化すのを見届けた信長は、岐阜へと帰還の途についた。元亀元年から続いた長島一向一揆は、こうして文字通り、地上から根絶やしにされたのである。
第三部:戦術的・歴史的考察
長島における三ヶ月にわたる攻防戦は、その凄惨な結末と共に、戦国時代の戦争のあり方そのものに大きな影響を与えた。この合戦を戦術的、そして歴史的な観点から多角的に分析することで、その真の意義が明らかになる。
水軍の戦略的勝利:補給路遮断と火力支援の決定的な役割
第三次長島攻めの勝敗を分けた最大の要因は、疑いなく、織田水軍の戦略的・戦術的運用の成功にあった。過去二度の失敗が、いずれも制海権の欠如に起因していたことを踏まえれば、この結論は揺るぎない。
戦略的な観点から見れば、九鬼・滝川連合艦隊の最大の功績は、戦闘そのものよりも、長島周辺の水路を完全に封鎖し、一揆勢を外部世界から遮断したことにある 10 。これにより、難攻不落を誇った輪中要塞群は、兵糧攻めが有効に機能する巨大な「密室」へと変貌した。長期籠城という一揆勢の唯一の勝機は、七月十五日の織田水軍到着の時点で、すでに失われていたのである。
戦術的な観点では、安宅船から放たれる大鉄砲による「艦砲射撃」が、戦局に決定的な影響を与えた 4 。陸上からの攻撃が困難な湿地帯の砦に対し、水上から一方的に火力を投射することで、防御施設を破壊し、籠城兵の士気を挫いた。これは、従来の日本の海戦が、敵船に乗り移っての白兵戦を主体としていたのに対し、船を「移動砲台」として運用し、距離を置いた火力投射によって敵を制圧するという、新しい海戦術の萌芽を示すものであった。この戦術思想は、後の鉄甲船による第二次木津川口の戦いでの劇的な勝利で完成形を見ることになるが、長島攻めはその重要な布石であったと言える。この戦いは、戦国時代の海戦術が、接舷戦闘から火力戦へと移行する過渡期の様相を鮮明に示している。
信長の殲滅戦術:合理性と残虐性の二面性
信長がこの戦いで採用した戦術は、敵の戦闘部隊を無力化するに留まらず、その支持基盤であるコミュニティそのものを根絶やしにする「殲滅戦」であった 9 。この戦術は、二つの相容れない側面を内包している。
一つは、その冷徹な「合理性」である。一向一揆は、単なる軍事的な敵対勢力ではなく、信長の統一政権とは相容れない宗教的・政治的イデオロギーを持つ集団であった。彼らとの間に、領土の割譲や和睦といった世俗的な妥協が成立する余地は極めて少なかった。この妥協不可能な敵に対して、その抵抗の意志と能力を未来永劫にわたって奪い去るためには、殲滅という手段が最も確実かつ最終的な解決策であると信長が判断したとしても、それは戦国の覇者としての冷徹な合理性に基づいていたと言える。
しかし、もう一つの側面は、その実行過程における比類なき「残虐性」である。降伏を申し出た者を欺いて虐殺し、女性や子供を含む非戦闘員を柵の中に閉じ込めて焼き殺すという行為は、いかに戦国の世とはいえ、常軌を逸していた 7 。この戦いは、信長の非情で徹底した性格を天下に知らしめると同時に、彼の天下布武事業が、その輝かしい側面の裏に、凄まじい暴力と破壊を内包するものであることを象徴する事件として、後世に長く記憶されることになった。
また、この長島攻めにおける水陸共同での包囲殲滅戦は、水を巧みに利用して敵を孤立させ、無力化するという点で、後に豊臣秀吉が得意とした「水攻め」戦術の原型と見ることもできる 39 。自然の河川と堤防を包囲壁として利用し、水軍によってその壁を完成させた信長の戦術思想は、備中高松城などで秀吉が見せた、より人工的で洗練された水攻めへと発展していった可能性は十分に考えられる。
合戦後の影響:伊勢・尾張の完全平定と戦後処理
長島一向一揆の壊滅がもたらした戦略的成果は、計り知れないほど大きかった。まず、信長の地盤である尾張・美濃、そして攻略の途上にあった伊勢の三国から、本願寺の宗教的・軍事的影響力が完全に一掃された 8 。これにより、信長は後方の安全を確固たるものとし、次の戦略目標である大坂石山本願寺本体との対決や、中国方面への進出に全力を傾けることが可能となった。
戦後処理もまた、信長の明確な方針に基づいて行われた。焦土と化した長島の地と、北伊勢の大部分は、この戦いで水軍を率いて多大な功績を挙げた滝川一益に与えられた 10 。これは、信長政権における厳格な論功行賞と、出自を問わない能力主義を象徴する人事であった。一益は長島城を居城とし、この地域の安定化と支配の強化にあたることになる。
結論:長島口・揖斐川舟戦が戦国史に刻んだもの
天正二年(1574年)の長島口・揖斐川舟戦を含む第三次長島攻めは、織田信長が宿敵であった一向一揆勢力に対し、初めて陸と海の戦力を完全に統合した大規模な共同作戦を成功させた、画期的な戦いであった。それは、過去の失敗から学び、戦略を修正する信長の指揮官としての学習能力と、九鬼嘉隆や滝川一益に代表される、多様な専門性を持つ家臣団の能力を結集させた、織田軍団の総合力の勝利であったと言える。
この合戦は、水軍の戦略的価値を飛躍的に高めた。単なる兵員輸送や沿岸警備の補助戦力ではなく、海上封鎖による兵站遮断と、艦砲射撃による火力支援という、戦局そのものを左右する決定的な役割を担うことを証明したのである。
一方で、その結末は日本の戦争史上でも類を見ない規模の虐殺であり、信長の天下布武という事業が内包する苛烈さと非情さを、後世に鮮烈に刻みつけた。合理的な戦略の果てに待っていたのは、二万の民が劫火に焼かれるという地獄絵図であった。
結論として、「長島口・揖斐川舟戦」は、単に補給路を巡る一水上戦に留まるものではない。それは、信長の天下統一事業における後方の安全を確立した一つの転換点であり、戦国時代の戦術が新たな段階へと進化する過程を示し、そして戦争という行為の持つ究極の残酷さを同時に体現した、極めて多層的かつ重要な合戦であった。
引用文献
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- 戦国時代の合戦の始まりと終わり - 殺陣教室サムライブ https://tate-school.com/archives/488