最終更新日 2025-09-01

長森原の戦い(1507)

越後における秩序の崩壊と再編:長森原の戦い(1510年)の総合的考察

序章:下剋上の序曲

戦国時代の幕開けを告げる動乱は、京畿内のみならず、東国においても旧来の秩序を激しく揺さぶっていた。その象徴的な出来事の一つが、永正7年(1510年)に越後国で発生した「長森原の戦い」である。この戦いは、単に一地方における守護大名と家臣の争いに留まらず、関東全域の政治構造を根底から覆し、後の上杉謙信の登場や後北条氏の台頭へと繋がる、極めて重要な歴史的転換点であった。

戦国初期における越後国の政治構造

当時の越後国は、室町幕府によって任命された守護・上杉氏が名目上の最高権力者として君臨し、その下で守護代の長尾氏が国政の実務を担うという統治体制が敷かれていた。しかし、応仁の乱以降、幕府の権威が失墜し、全国的に守護大名の支配力が揺らぎ始めると、越後もその例外ではなかった。守護上杉氏は代々、国政を守護代である長尾氏に委ねる傾向が強く、その結果、長尾氏は越後国内に強固な権力基盤を築き、実質的な国主としての影響力を強めていた 1 。この名目上の主君である守護と、実権を握る守護代との間に存在する構造的な緊張関係は、いつ火を噴いてもおかしくない、潜在的な対立の温床となっていた。この力関係の不均衡は、長尾為景という野心的な人物の登場によって、ついに決定的な破局を迎えることになる。

「長森原の戦い」の歴史的座標

本報告書で詳述する長森原の戦いは、越後国内の権力闘争という枠組みを超え、関東管領・山内上杉家の家督問題、さらには古河公方足利家の内紛といった、関東地方の広域動乱と密接に連動していた。これら一連の争乱は、総称して「永正の乱」として知られている 2 。越後の一守護代であった長尾為景が、関東の最高権力者たる関東管領・上杉顕定を討ち取るという衝撃的な結末は、関東における権力の空白を生み出し、諸勢力の力関係を劇的に変化させた。すなわち、長森原の戦いは、越後の内乱が関東全体の動乱へと波及する結節点であり、永正の乱を決定的な段階へと移行させた中心的な出来事であったと位置づけられる。この一戦がなければ、その後の関東の歴史は全く異なる様相を呈していたであろう。

ご下命内容の確認と合戦年の特定

本調査のご依頼にあたり、合戦年が「1507年」として提示された。これは、長森原の戦いに至る直接的な引き金となった、極めて重要な事件である「天水越の合戦」が発生した永正4年(1507年)を指すものと拝察する 1 。本報告書では、まず第一章においてこの天水越の合戦を詳述し、対立の淵源を明らかにする。その上で、本題である「長森原の戦い」が、その3年後、すなわち**永正7年6月20日(西暦1510年7月25日)**に発生したことを明確にし、その詳細な経緯と歴史的意義を徹底的に分析・考察するものである 3

第一章:対立の淵源 ― なぜ守護代は主君に刃を向けたのか

長尾為景による主君殺害という下剋上は、単なる個人的な野心の発露ではなかった。それは、室町時代を通じて続いてきた守護・守護代体制の矛盾が、時代の変化の中で限界に達したことの現れであった。

越後守護・上杉房能の挑戦

明応3年(1494年)に越後守護職を継承した上杉房能は、形骸化しつつあった守護の権威を再確立し、領国支配を強化しようと試みた野心的な人物であった 1 。彼は、守護代や国人領主層に委ねられていた統治権を自らの手に取り戻すべく、一連の中央集権化政策を断行した。具体的には、検地台帳を基にした租税徴収の徹底や、国人領主が長年享受してきた「守護不入」の特権(守護の使者が立ち入ることができない権利)を廃止するなど、守護の権力を直接領内に浸透させようとしたのである 1

房能の政策は、近代的な領国経営を目指す合理的な試みであったとも評価できる。しかし、それは同時に、既存の権益を守ろうとする守護代・長尾氏や、自立性の高い国人領主層の既得権益を真っ向から脅かすものであった。特に、守護不入権の廃止は、彼らの経済的・軍事的な基盤を揺るがしかねない重大な挑戦と受け止められ、国内に深刻な不満と反発を鬱積させる結果となった 1

守護代・長尾為景の決起

永正3年(1506年)9月、為景の父であり、当時の守護代であった長尾能景が、主君・房能の命を受けて越中国へ出陣した際、般若野の戦いで味方であった神保慶宗の裏切りに遭い、戦死するという悲劇が起こる 2 。この事件は、家督を継いだ若き長尾為景に、主君・房能に対する根深い不信感を植え付けた可能性がある。父の死は、房能の指揮系統の不備、あるいは陰謀によるものではないかという疑念が、為景の胸中に渦巻いていたとしても不思議ではない。

父・能景が比較的恭順な姿勢を示していたのに対し、為景は房能の政策にことごとく反発した 1 。彼は、房能の中央集権化政策に不満を抱く国人領主たちの代弁者として、彼らの支持を巧みに糾合し、自らの権力基盤を固めていった。為景は、もはや旧来の主従関係の枠組みの中では自らの、そして長尾家の未来はないと判断し、実力行使による現状打破を決意する。守護と守護代の対立は、もはや避けられない段階に達していた。

永正4年(1507年)「天水越の合戦」

永正4年(1507年)8月1日、長尾為景はついに先手を打って軍事行動を開始した 1 。彼は、単に反乱を起こすのではなく、房能の養子であった上杉定実を新たな守護として擁立するという周到な策を用いた 2 。これにより、自らの行動を「現守護の暴政を正し、正統な後継者を立てるための義挙」として正当化し、大義名分を確保したのである。

為景は、定実を奉じて房能が居城とする越後国府中の守護館を急襲・包囲した 1 。不意を突かれた房能は、わずかな手勢とともに館を脱出。実兄であり、当時絶大な権勢を誇っていた関東管領・上杉顕定を頼り、関東への逃亡を図った 1 。しかし、為景の追撃は執拗であった。8月7日、逃走経路上の松之山郷天水越(現在の新潟県十日町市)で、房能一行は為景方の追討軍に捕捉され、進退窮まった房能は自害して果てた 1 。この「天水越の合戦」により、為景は主君を死に追いやり、越後における下剋上の第一段階を完了させた。しかし、この行為が関東管領という巨大な権力を敵に回すことになり、越後はさらなる大乱の渦中へと突き進んでいく。

第二章:関東管領の怒り ― 上杉顕定の越後侵攻(1509年 - 1510年初頭)

守護代による主君殺害という前代未聞の凶報は、関東に激震を走らせた。実の弟を非業の死に追いやられた関東管領・上杉顕定の怒りは凄まじく、彼は越後の秩序を回復し、弟の仇を討つべく、自ら大軍を率いての越後介入を決断する。

報復の大軍

永正6年(1509年)7月、上杉顕定は為景討伐の号令を発し、関東の諸将を動員して8,000ともいわれる大軍を編成、越後国へと侵攻を開始した 3 。これは単なる私的な報復戦ではなかった。関東管領は、室町幕府の関東における出先機関の長であり、その軍事行動は幕府の秩序を乱す者への公的な「治罰」という性格を帯びていた。顕定の圧倒的な軍事力と、関東管領という権威を前に、為景の築いた新体制は脆くも崩れ去る。

為景の敗走と越後国人衆の動向

顕定の大軍が越後国境に迫ると、日和見を決め込んでいた越後の国人領主たちは、雪崩を打って顕定方へと寝返った。昨日まで為景に従っていた者たちが、次々と顕定に忠誠を誓ったのである。中でも為景にとって最大の打撃となったのは、彼の一族であり、魚沼郡に勢力を持つ上田長尾氏の当主・長尾房長までもが顕定に同調したことであった 2 。房長は自らの居城である坂戸城を関東軍の拠点として提供し、顕定を迎え入れた。これにより、顕定軍は越後国内に確固たる足場を築くことに成功した。

揚北衆の本荘房長や色部昌長、上条定憲といった有力国人も次々と顕定に味方し、為景は完全に孤立無援となった 3 。同年8月には、為景は自身が擁立した守護・上杉定実と共に越後を追われ、越中国へと逃亡せざるを得なくなった 3 。こうして顕定は越後の政治的中心地である府中(現在の上越市)に入り、弟亡き後の越後国を完全にその支配下に置いた。この時点では、為景の下剋上は完全に失敗に終わったかのように見えた。

顕定統治の限界

軍事的には越後を制圧した上杉顕定であったが、その統治は政治的な成功を収めるには至らなかった。彼の越後統治は、占領軍による強硬なものであり、越後の国人たちの人心を掌握することができなかったのである 4 。顕定の目的は、あくまで弟の仇である為景を罰し、上杉家の権威を回復することにあった。そのため、一度は彼に靡いた越後の国人たちを、真の味方としてではなく、潜在的な反乱分子として扱った可能性が高い。このような高圧的な姿勢は、国人たちの間に新たな不満の火種を燻らせることになった。

さらに、顕定は関東管領として、留守にしている関東の情勢にも常に気を配らねばならなかった。当時は、伊豆・相模において伊勢宗瑞(後の北条早雲)が急速に台頭し、また長尾景春の残党も不穏な動きを見せており、関東の政治情勢は予断を許さない状況にあった 3 。越後と関東という二つの戦線に注意を分散させなければならない顕定の戦略的立場は、本質的に脆弱なものであった。彼は越後統治を盤石にするための十分な時間と資源を投入することができず、その支配は砂上の楼閣と化していく。この統治の失敗こそが、敗走した長尾為景に逆転の機会を与える最大の要因となったのである。

第三章:龍の帰還 ― 長尾為景の逆襲

一度は越後を追われ、全てを失ったかに見えた長尾為景であったが、その野心の炎は消えていなかった。彼は雌伏の時を経て、周到な準備の末に、劇的な反攻作戦を開始する。

雌伏と再起

越中国や佐渡国へ逃れた為景は、ただ鳴りを潜めていたわけではなかった。彼は水面下で精力的に動き、反攻のための勢力再編を進めていた 3 。佐渡の本間氏など、縁戚関係にある勢力からの支援を取り付け、また顕定の強権支配に不満を抱く越後の国人たちと密かに連絡を取り、再起の時を窺っていた。為景は外交交渉にも長けており、室町幕府に働きかけて「顕定討伐」の許可を得ることに成功したという記録もある 7 。これにより、彼の反攻は「逆賊の反乱」から「幕府の公認を得た正義の戦い」へとその性格を変えた。

そして永正7年(1510年)4月、機は熟したと判断した為景は、再編した軍勢を率いて佐渡から越後国の蒲原津(現在の新潟市)に上陸した 3 。これは、関東管領という巨大な権力に対する、まさに乾坤一擲の賭けであった。

人心の転換と雪崩を打つ離反

為景の越後帰還は、顕定の支配に鬱積していた国人たちの不満を一気に爆発させる起爆剤となった。為景が上陸するや否や、かつて顕定に寝返った国人たちが、今度は次々と為景方へと再転向したのである。特に、有力国人である上条定憲が為景方に寝返ったことは、戦局の潮目を大きく変える決定的な出来事であった 3

勢いに乗る為景軍は、各地で顕定方の軍勢を撃破していく。同年6月12日には、顕定の養子である上杉憲房が率いる部隊を破り、妻有荘まで後退させるなど、戦いの主導権は完全に為景の手に移った 3 。人心は、もはや関東からの支配者である顕定から離れ、越後の土着領主である為景へと急速に傾いていった。

退路の遮断

度重なる敗戦に加え、本国・関東における北条早雲らの不穏な動きの報に接し、上杉顕定は焦りを募らせていた 3 。彼はこれ以上の越後滞在は危険と判断し、全軍を率いて関東へ撤退することを決意する。しかし、この撤退の動きこそが、彼の運命を決定づける致命的な判断ミスとなった。

顕定軍の撤退の動きを察知した坂戸城主・長尾房長は、この決定的な好機を逃さなかった。彼は、かつて顕定を迎え入れた当人でありながら、今度は為景方へと寝返り、関東軍の主要な退路である三国街道を封鎖したのである 2 。一説には、房長は顕定軍を坂戸城に入れることを拒否し、防御力の劣る六万騎城に収容させたともいう 2 。いずれにせよ、関東への帰還ルートを断たれた顕定軍は、敵地である越後魚沼の地で完全に孤立し、進退窮まる絶体絶命の窮地に陥った。為景にとって、長年の宿敵を討ち取るための舞台は整ったのである。

第四章:決戦、長森原 ― 永正7年6月20日、その一日の詳細な記録

永正7年6月20日、越後国魚沼郡長森原。この日、この地で繰り広げられた戦いは、一人の守護代が関東の最高権力者を討ち取るという、戦国史に残る下剋上を完成させる舞台となった。

勢力

総大将

主要武将

推定兵力

備考

長尾・高梨連合軍

長尾為景

高梨政盛、上条定憲、長尾房長

約1,200騎(為景軍500、高梨軍700)

高い士気。地理的優位。周到に計画された挟撃作戦。

上杉(関東管領)軍

上杉顕定

長尾定明、高山憲重

約800騎

士気は低く、疲弊。退路を断たれ、敵地で孤立。

【午前】退却と追撃の開始

夜が明けると、上杉顕定率いる関東軍約800騎は、最後の望みを託して三国街道を南下し、関東への脱出を開始した 3 。しかし、長きにわたる越後での戦いと、相次ぐ味方の裏切りにより、兵士たちの士気は著しく低下し、その隊列は統制を欠いた敗走に近いものであったと推察される。

この動きを待っていたかのように、長尾為景は手勢の精鋭約500騎を率いて猛然と追撃を開始した 3 。為景の狙いは、顕定軍を平野部である長森原(現在の新潟県南魚沼市)へと追い込み、そこで決戦を挑むことにあった。坂戸城の北、六万騎山の麓に広がるこの地は、退路を断たれた顕定軍を殲滅するには絶好の戦場であった。

【昼過ぎ】長森原での激突 ― 第一局面

長森原に追い詰められた顕定軍は、これ以上の逃走は不可能と悟り、退却行を中断して陣を構え、追撃してくる為景軍を迎え撃つ態勢を整えた 4 。戦場となったのは、宇田沢川左岸の扇状地に広がる平坦な田園地帯であり、両軍がその戦力を存分にぶつけ合う野戦の舞台となった 4

数では依然として顕定軍が上回っていた。為景軍500に対し、顕定軍は800。関東管領としての意地と誇りにかけ、顕定軍は必死の防戦を展開した。為景軍は地の利と高い士気を背景に猛攻を仕掛けるが、絶望的な状況に置かれた顕定軍もまた、死に物狂いの抵抗を見せ、容易には崩れない。両軍は一進一退の激しい攻防を繰り広げ、戦線は膠着状態に陥った 4 。為景の当初の兵力だけでは、決定的な打撃を与えるには至らなかったのである。

【午後】勝敗を決した一撃 ― 第二局面

戦いが最も激しくなり、両軍が疲弊しきったその時、戦場の膠着を破る新たな軍勢が地平線の向こうから姿を現した。信濃国から越後国境を越えて進軍してきた、高梨政盛率いる約700の援軍であった 2 。高梨政盛は信濃の有力国人であり、為景の母方の祖父(一説には叔父とも)にあたる人物で、為景の要請に応じてこの決戦に駆けつけたのである 8

この高梨勢の出現こそ、為景が周到に準備していた勝利への切り札であった。為景の追撃部隊が顕定軍を正面から引きつけ、その動きを長森原に釘付けにしている間に、別働隊である高梨勢が敵の警戒が手薄な側面から奇襲をかける。これは偶然の来援ではなく、明らかに計画された挟撃作戦であった。為景が「金床」となって敵を受け止め、高梨勢が「鉄槌」として敵を粉砕する、見事な戦術連携であった。

高梨勢は、為景軍との戦闘で消耗し、側面への警戒が疎かになっていた顕定軍の横腹に猛然と突撃した 4 。全く予期せぬ方向からの攻撃に、顕定軍の陣形は一瞬にして崩壊。兵士たちは大混乱に陥り、指揮系統は完全に麻痺した。

【夕刻】関東管領の最期と戦いの終結

大混乱に陥った上杉軍の只中で、高梨政盛自身が敵の総大将・上杉顕定に肉薄し、これを討ち取るという大金星を挙げた 3 。享年57であった 6 。総大将の死は、かろうじて抵抗を続けていた関東軍の戦意を完全に打ち砕いた。指揮官を失った兵士たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、戦いは為景・高梨連合軍の圧倒的な勝利に終わった 4 。この戦いで顕定に従っていた重臣の長尾定明や高山憲重らも命を落とし、山内上杉家の軍事力は壊滅的な打撃を受けた 2

戦いが終わった後、高梨勢は長森村にあった石動神社に戦勝を報告し、祝杯を挙げたと伝えられている 4 。そして、関東管領・上杉顕定が討ち取られた場所には、その死を悼む塚が築かれ、人々はそれを「管領塚」と呼んだ 4 。この塚は現在も史跡公園として整備され、遠い越後の地で非業の最期を遂げた名門武将の悲劇を今に伝えている。

第五章:戦後の波紋 ― 越後と関東に広がる影響

長森原における一日の戦いは、越後一国の運命を決定づけただけでなく、その波紋は国境を越えて関東全域に広がり、東日本の政治地図を大きく塗り替える未曾有の動乱を引き起こした。

年月

越後での出来事

関東・中央での出来事

永正3年(1506)

長尾能景、越中・般若野で戦死。為景が家督継承。

永正4年(1507)

天水越の合戦 。長尾為景、守護・上杉房能を自害に追い込む。

永正6年(1509)

関東管領・上杉顕定が越後へ侵攻。為景は越中へ敗走。

古河公方家で足利政氏・高基父子が対立するも、顕定の調停で一時和解。

永正7年(1510)

4月:為景が越後に帰還、反攻開始。 6月20日: 長森原の戦い 。為景、 上杉顕定を討ち取る

顕定の死により、山内上杉家で顕実と憲房による家督争いが勃発。 古河公方家の父子対立も再燃し、「永正の乱」が関東全域に拡大。

永正9年(1512)

山内上杉家の内紛で憲房方が勝利。顕実は古河へ逃亡。 この混乱に乗じ、伊勢宗瑞(北条早雲)が相模国で勢力を拡大。

永正10年(1513)

為景、守護・上杉定実と対立し、これを幽閉。越後の実権を完全に掌握。

天文5年(1536)

為景が隠居し、子・晴景に家督を譲る。

天文21年(1552)

北条氏康に敗れた関東管領・上杉憲政が越後に逃れ、長尾景虎(謙信)を頼る。

越後における影響 ― 下剋上の完成

長森原の戦いにおける劇的な勝利により、長尾為景は名実ともに越後の支配者となった 3 。彼が擁立した守護・上杉定実は完全にその傀儡と化し、守護代が守護を凌駕するという、戦国時代を象徴する「下剋上」が越後において完成したのである 11 。為景はその後、敵対する国人勢力を次々と破り、越後国内の支配を固めていった 2

しかし、為景の権力基盤は必ずしも盤石ではなかった。彼の強引な手法は多くの敵を作り、その後も上杉定実を担ぎ出す勢力や、彼の強大化を快く思わない国人領主たちとの間で抗争が絶えなかった 12 。為景の治世は、その生涯を通じて戦乱に明け暮れることとなる。この不安定な国内情勢の収拾は、彼の息子である長尾晴景、そしてその弟・景虎、後の上杉謙信の代へと引き継がれていく宿題となった。

関東における権力の真空と「永正の乱」の激化

越後以上に深刻な影響を受けたのは、関東地方であった。40年以上にわたり関東管領として君臨してきた上杉顕定の突然の戦死は、関東に巨大な権力の空白を生み出した 2 。顕定には実子がおらず、養子であった上杉顕実と上杉憲房が、家督と関東管領職を巡って骨肉の争いを開始した 2 。これにより、名門・山内上杉家は深刻な内紛状態に陥り、その権威と軍事力は著しく減退した。

この山内上杉家の内紛は、それまで顕定によって辛うじて抑えられていた古河公方・足利政氏とその子・高基の父子対立を再燃させる引き金ともなった 2 。関東の諸大名・国人衆は、山内上杉家の顕実派・憲房派、そして古河公方家の政氏派・高基派に分かれ、互いに争い始めた。こうして「永正の乱」は関東全域を巻き込む大乱へと発展し、泥沼化していく。

歴史的意義の総括 ― 新たな時代の胎動

長森原の戦いがもたらした最も重大な長期的影響は、山内上杉家の衰退と、それに乗じた新興勢力・後北条氏の台頭を決定づけた点にある。1510年以前、関東の秩序は強力な指導者であった上杉顕定によって維持されており、伊勢宗瑞(北条早雲)のような新興勢力はその監視下にあった 14 。しかし、顕定の死とその後の内乱は、この秩序の「蓋」を吹き飛ばしてしまった。山内上杉家が内紛に明け暮れている隙を突き、宗瑞は相模国へと進出し、着実にその勢力基盤を固めていったのである 2

ここに、歴史の大きな皮肉が存在する。長尾為景は、自らの野心のために上杉顕定を討ち取ったが、その行為が結果的に、関東における山内上杉家の没落を招き、後北条氏という新たな強大な勢力が勃興する絶好の機会を創出してしまった。そして、その約半世紀後、為景の子である長尾景虎(上杉謙信)は、北条氏康によって本国を追われた関東管領・上杉憲政を越後に迎え入れ、その名跡と関東管領職を継承することになる 4 。つまり、謙信は、自らの父がその台頭を間接的に助けてしまった宿敵・北条氏と、生涯にわたって死闘を繰り広げるという運命を背負うことになったのである。長森原の戦いは、まさにこの長きにわたる越後長尾氏(上杉氏)と後北条氏の因縁の始まりを告げる号砲であった。

終章:下剋上の完成と新たな動乱の幕開け

永正7年(1510年)の長森原の戦いは、単なる越後の一地方合戦として語ることはできない。それは、戦国時代の象徴である「下剋上」を最も劇的な形で体現し、東日本全体の政治秩序を根底から覆した、歴史の分水嶺となる出来事であった。

一介の守護代に過ぎなかった長尾為景が、主君である守護・上杉房能を滅ぼし、ついには室町幕府の関東における最高権力者たる関東管領・上杉顕定さえも戦場で討ち取ったという事実は、旧来の権威が完全に失墜したことを天下に示すに十分な衝撃を与えた。この一戦を通じて、血筋や幕府の権威といった伝統的な価値観よりも、実力が全てを決定するという戦国乱世の新たな原則が、白日の下に晒されたのである。

この戦いは、越後における長尾氏の覇権を確立し、後の上杉謙信という稀代の英雄が登場する土壌を整えた。それと同時に、関東においては名門・山内上杉家の長い没落の始まりとなり、その権力の空白を埋める形で後北条氏が台頭する道を開いた。為景が放った一本の矢は、越後の秩序を再編すると同時に、関東に新たな、そしてより深刻な動乱の種を蒔いたのである。長森原の戦いは、一つの時代を終わらせ、次なる時代の対立構造を生み出した、極めて重要な歴史的転換点であったと結論づけられる。その影響は、半世紀後の川中島の戦いや小田原征伐に至るまで、東日本の戦国史に深く、そして長く影を落とし続けることになった。

引用文献

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  2. 永正の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E6%AD%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1
  3. 長森原の合戦 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/Nagamorihara.html
  4. 長森原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%A3%AE%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  5. 越後の管領塚 - 道灌紀行は限りなく http://blog.doukan.jp/article/189693218.html
  6. 上杉顕定 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E9%A1%95%E5%AE%9A
  7. 「長尾為景」上杉謙信の父は、戦国期における下克上の代表格だった! https://sengoku-his.com/572
  8. 高梨政盛 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A2%A8%E6%94%BF%E7%9B%9B
  9. 長尾為景 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B0%BE%E7%82%BA%E6%99%AF
  10. 上毛の史跡 管領塚(新潟県南魚沼市) http://nordeq.web.fc2.com/shiseki/kanrei.html
  11. 新潟の歴史を語る上で欠かせない上杉氏と長尾氏 両家の関係とは? (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/20309/?pg=2
  12. 上杉定実 - 能登畠山氏七尾の歴史 https://nanao.sakura.ne.jp/retuden/uesugi_sadasane.html
  13. 長尾為景(ながおためかげ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E5%B0%BE%E7%82%BA%E6%99%AF-17157
  14. 上杉顕定 - 箕輪城と上州戦国史 - FC2 https://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E9%A1%95%E5%AE%9A