最終更新日 2025-09-04

長比城の戦い(1580)

元亀元年、織田信長は竹中半兵衛の調略により、長比城を無血開城させた。この戦いは、信長が戦わずして敵の要衝を奪い、直後の姉川の戦いを有利に進める決定的な布石となった。

長比城の戦い(元亀元年)-姉川合戦への序曲、国境の城を巡る情報戦の真相-

序論:天正八年(1580年)の長比城を巡る謎と、元亀元年(1570年)の攻防の重要性

天正八年(1580年)、織田信長の権勢はまさに頂点に達しようとしていた。この年、織田家の軍事行動は多方面に展開され、その勢威は畿内を超えて西国、北陸へと及んでいた。播磨国では、羽柴秀吉が二年以上にわたる包囲戦の末に三木城を陥落させ、反旗を翻した別所長治を自刃に追い込んだ 1 。畿内における長年の懸案であった石山本願寺との抗争も、朝廷の仲介による勅命講和という形でついに終結し、大坂は織田家の支配下に入った 1 。さらに、但馬国では羽柴秀長が山名氏の有子山城を攻略し 1 、丹後国では細川藤孝が光秀軍と共に一色氏を制圧するなど 1 、織田家の勢力圏は着実に拡大していた。

このような情勢下で、ご依頼のあった近江国湖北、すなわち長比城周辺は、どのような状況にあったであろうか。この地域は、天正元年(1573年)に浅井長政が小谷城で滅亡して以降、織田家重臣である羽柴秀吉の所領となっていた 2 。秀吉は今浜を「長浜」と改名し、長浜城を築いて湖北支配の拠点としていた 3 。天正八年の時点では、秀吉の統治は安定しており、この地域で織田家に対する大規模な反乱や、外部勢力による侵攻があったという記録は、第一級の史料である『信長公記』をはじめ、いかなる信頼性の高い文献にも見出すことはできない。したがって、この年に長比城を舞台とした「織田方の掃討戦」が行われた可能性は、歴史的蓋然性の観点から極めて低いと言わざるを得ない。

しかしながら、これは「長比城」という城が戦国史において無価値であったことを意味するものではない。むしろ、その逆である。史料を深く読み解くと、ご指定の年から十年遡った元亀元年(1570年)に、この長比城が織田信長と浅井長政の存亡をかけた攻防の最前線となり、その帰趨が戦国史の大きな転換点の一つである「姉川の戦い」の勝敗を事実上決定づけた、極めて重要な戦略拠点であったことが浮かび上がってくる 4

1570年には織田・浅井両軍が国境の覇権を争う最前線であった地が、わずか十年後の1580年には、織田政権の安定した支配下にある内国の一拠点となり、軍事的な緊張とは無縁の地と化していた。この「戦場の消失」とも言うべき劇的な変化こそ、浅井氏という独立勢力の滅亡と、織田信長による天下統一事業の急速な進展を何よりも雄弁に物語るものである。

以上の分析に基づき、本報告書では、ご依頼の趣旨を最大限に汲み取りつつ、学術的正確性を期すため、主題を歴史上「長比城の戦い」と呼ぶに最もふさわしい元亀元年(1570年)六月の攻防に定める。そして、ご要望である「合戦中のリアルタイムな状態が時系列でわかる形」で、この血をみることなくして戦局を決した情報戦の全貌を、専門的見地から徹底的に解明するものである。

第一章:戦略拠点・長比城 -江濃国境に築かれた「境目の城」-

地政学的分析

長比城(たけくらべじょう)は、近江国(現在の滋賀県)と美濃国(現在の岐阜県)を分かつ野瀬山(のせやま)の山頂、標高約390mの地点に築かれた山城である 7 。その戦略的価値は、何よりもその位置にあった。城の南麓には、古代より京と東国を結ぶ大動脈であった東山道(後の 中山道)が通過しており、長比城はこの交通の要衝を眼下に収め、これを直接的に監視、あるいは封鎖することが可能な絶好の立地を占めていた 9

近江と美濃は、戦国時代を通じてしばしば敵対関係にあり、この地は常に軍事的な緊張をはらむ「境目」であった 4 。特に、美濃を本拠とする織田信長と、北近江に覇を唱える浅井長政が対立する状況下では、長比城の存在は両陣営にとって死活問題となる。織田方にとっては、浅井氏の本拠地・小谷城へ侵攻するための進軍路を確保する上で最大の障害であり、逆に浅井方にとっては、織田軍の侵入を水際で食い止めるための最重要防衛拠点であった。まさに「境目の城」としての地政学的価値が最大限に高まる局面にあったのである 11

北近江の権力構造

長比城の運命を理解するためには、当時の北近江における複雑な権力構造を把握する必要がある。元来、この地域は守護大名である京極氏が統治していた。浅井氏や、後に長比城の守将となる堀氏などは、本来、京極氏に仕える同格の国人領主(在地領主)に過ぎなかった 12

しかし、応仁の乱以降、京極氏の権威は失墜し、家督相続を巡る内紛が頻発する 13 。この混乱に乗じ、浅井長政の祖父・浅井亮政は、他の国人衆を糾合して国人一揆を形成し、主家である京極氏を凌駕する実力を蓄え、下剋上によって戦国大名へと飛躍した 15

だが、浅井氏の支配体制は決して盤石なものではなかった。その権力基盤は、元は同格であった国人衆の連合体の上に成り立つ脆弱なものであり、彼らを被官(家臣)として完全に統制する過程では、絶えず軋轢が生じていた 17 。特に、鎌刃城を本拠とする堀氏のような有力国人は、浅井氏に対して完全な服従ではなく、半ば独立した立場を保っていたと見られる。この不安定で脆い主従関係こそが、後に織田信長の調略が成功する最大の要因となるのである。

城郭構造の分析

元亀元年、浅井長政が信長の侵攻に備えて急遽改修した長比城の構造(縄張り)は、彼の明確な「対織田」という軍事思想を物理的に体現したものであった。

長比城は、山頂の主郭である東曲輪と、そこから西へ延びる尾根上に設けられた西曲輪という、二つの主要な郭から構成されている 19 。このような構造は「別城一郭」とも呼ばれ、同一勢力に属しながらも、異なる部隊がそれぞれの郭を独立して守備することを想定した、国境の城砦によく見られる形態である 19

特筆すべきは、その防御思想が明確に東、すなわち美濃国側を意識している点である。信長の本拠地・岐阜城を睨む主郭(東曲輪)は、東側の土塁が特に高く厚く構築されており、入口である虎口は、敵兵の直進を阻み、側面から攻撃を加えることを意図した「食い違い虎口」という巧妙な造りになっている 4 。これは、信長軍が東山道に沿って美濃から侵攻してくることを正確に予測し、その進路に対して最大の防御効果を発揮するよう設計された証左である。

一方の西曲輪も、周囲を分厚く高い土塁で厳重に囲み、虎口の外側には斜面に沿って掘られた「竪堀」を複数設けることで、敵の接近経路を極端に制限し、守りやすく攻めにくい構造を実現していた 20

これらの堅固な城郭構造は、浅井氏が同盟関係にあった越前朝倉氏の技術的支援を受けて築いた可能性が、太田牛一の『信長公記』にも示唆されている 10 。金ヶ崎での信長の撤退後、浅井長政が抱いたであろう恐怖心と、それを克服し、来るべき決戦に備えんとする彼の具体的な防衛戦略が、この長比城の土塁や堀の一つひとつに刻み込まれていると言える。城は単なる建造物ではなく、築城主の戦略思想を雄弁に物語る歴史史料なのである。

第二章:戦いの序曲 -金ヶ崎の退き口と織田・浅井の全面対決-

元亀元年(1570年)春、織田信長と浅井長政の関係は、決定的な破局を迎える。この劇的な展開が、長比城を歴史の表舞台へと押し上げることになる。

元亀元年四月:信長の越前侵攻と浅井長政の離反

永禄十一年(1568年)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を果たし、畿内における政治的影響力を確立した。その過程で、信長は妹のお市の方を浅井長政に嫁がせ、強固な同盟関係を構築していた 22 。この同盟は、信長にとって京への道を確保する上で不可欠なものであった。

しかし元亀元年四月、信長が再三の上洛命令を無視する越前の朝倉義景を討伐すべく、軍勢を若狭から越前へと進めたとき、事態は急変する 23 。同盟者であるはずの浅井長政が、突如として信長に反旗を翻し、朝倉氏に味方して織田軍の背後を襲う挙に出たのである 4

長政の離反の理由は、単一のものではなく、複数の要因が複雑に絡み合った結果と見るべきである。従来、「朝倉家との旧恩を重んじた」という信義の問題として語られることが多かったが 25 、近年の研究ではより多角的な分析がなされている。

第一に、浅井家は父・久政の代から六角氏に対抗するため、朝倉氏に従属的な関係を結んでいたという地政学的な背景がある 26。第二に、信長との同盟が時を経るにつれて対等なものから主従関係に近いものへと変質し、国人衆の盟主としての長政の権威が脅かされたことへの反発 26。第三に、朝倉氏が滅ぼされた後、次は自らが信長の標的になるのではないかという恐怖心 28。そして第四に、信長の台頭を快く思わない将軍・足利義昭による反信長包囲網形成の画策が影響した可能性も指摘されている 28。

長政の決断は、単なる信義の問題ではなく、新興の中央集権的勢力である織田家と、旧来の地域秩序を代表する朝倉氏との間で引き裂かれた、「境目の国衆」が抱える構造的なジレンマの末の選択であった。

「金ヶ崎の退き口」と浅井氏討伐の決意

浅井・朝倉両軍による挟撃という絶体絶命の危機に陥った信長は、木下秀吉(豊臣秀吉)や徳川家康らの決死の殿(しんがり)働きによって、辛うじて虎口を脱し、京へと撤退する 10 。この「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる屈辱的な敗走は、信長に浅井長政への燃えるような復讐心を植え付けた。

岐阜城へ帰還した信長は、すぐさま軍勢の再編に着手する。一方の浅井長政も、信長の報復攻撃が必至であると判断し、防衛体制の強化を急いだ。その具体的な現れが、美濃との国境線上への防衛ラインの構築であった。『信長公記』の元亀元年の条には、「浅井備前(長政)、越前衆を呼び越し、たけくらべ(長比)、かりやす(苅安)両所に要害を構え候」と記されている 10 。長政は、新しい秩序を携えて侵攻してくる信長に対し、旧来の秩序を守るための物理的な「壁」として、長比城を築き上げたのである。こうして、両者の全面対決は避けられないものとなった。

第三章:不動の城、内から崩れる -長比城陥落、元亀元年六月の時系列詳解-

元亀元年六月、浅井長政が信長の侵攻に備えて築いた長比城の堅塁は、しかし、一度も鬨の声を上げることなく、内側から静かに崩壊する。この一連の出来事は、物理的な戦闘行為が皆無であったにもかかわらず、情報戦と機動力が戦局を決定づけた、戦国時代を象徴する「戦い」であった。以下に、その詳細な時系列を追う。

六月上旬~中旬:守備固めと水面下の攻防

浅井長政は、改修を終えたばかりの長比城と、その北方に位置する苅安城(かりやすじょう)の守備を、配下の有力国人である堀秀村と、その家老で「近江一の智謀の将」と評された樋口直房に委ねた 20 。堅固な城郭と信頼する将兵を配し、万全の態勢で織田軍を迎え撃つ算段であった。

しかしその頃、織田方ではすでに水面下で調略の網が張られていた。この任にあたったのは、後に天下人となる木下秀吉と、その与力(配下の将)として仕えていた天才軍師・竹中半兵衛重治であった 5 。半兵衛は、長比城の守将の一人である樋口直房に的を絞り、接触を開始する。両者は美濃と近江で領地が隣接しており、旧知の間柄であった。一説には、半兵衛が稲葉山城を乗っ取った後に一時期、直房の食客となっていたとも言われ、個人的な信頼関係が構築されていた 32 。半兵衛は、この人間関係を最大限に活用し、織田方の圧倒的な国力と信長の将来性を説き、浅井家を見限って寝返るよう、粘り強く説得を重ねた。

六月十九日:運命が動いた一日

この日は、長比城の運命、ひいては姉川の戦いの趨勢を決定づける一日となった。

午前~昼頃(於・近江 長比城):

樋口直房の説得が功を奏し、ついに主君の堀秀村が織田方への内応を決断する。若年の秀村にとって、家中を実質的に取り仕切る家老・直房の判断は絶対的なものであった 34。

午後(於・美濃 岐阜城):

堀・樋口の内応成功を知らせる密使が、岐阜城の織田信長のもとへ到着する 6。

直後:

報告を受けた信長は、驚くべき速さで決断を下す。通常であれば、全軍の動員と準備が整うのを待ってから出陣するのが軍事の常道である。しかし信長は、この千載一遇の好機を逃すことを何よりも嫌った。『信長公記』は、その様子を「信長公御馬を出だされ」と簡潔に記しているが、これは諸将の集結を待たず、手勢のみを率いて直ちに出陣したことを意味する 19。情報がもたらす戦略的優位を瞬時に理解し、リスクを冒してでも機動力を優先する、信長ならではの合理的な判断であった。この「戦い」の真のクライマックスは、戦場での鬨の声ではなく、岐阜城で信長が密書を読み、出陣を命じたこの瞬間にあったと言える。

六月十九日夜~二十日早朝:電撃的無血開城

信長率いる先遣隊は、夜を徹して美濃から近江へと急行した。一方、長比城と苅安城では、城将である堀・樋口の裏切りが城内の守備兵たちに伝わり、指揮系統は完全に崩壊した。主将に裏切られた兵士たちは戦意を喪失し、組織的な抵抗を行うことなく、我先にと城から逃げ出した。『信長公記』が「取物も取敢えず退散なり」(武具や荷物も満足に持たずに逃げ出した)と描写する通り、城内は大混乱に陥った 19

その結果、信長の軍勢は、一人の敵兵と刃を交えることなく、一発の矢も放たれることなく、長比城への入城を果たした 5 。浅井長政が二ヶ月の歳月と労力をかけて築き上げた国境の防衛線は、情報戦と機動力の前に、わずか半日にして内側から瓦解したのである。

六月二十日以降:姉川への道程

長比城を無血で手に入れた信長は、城に「一両日御逗留なされ」、後続部隊の集結を待った 19 。つい昨日まで敵の最前線基地であった城は、一夜にして織田軍の侵攻拠点へとその役割を180度転換させた。ここで軍議を開き、信長は次なる一手、すなわち浅井長政を野戦の場に引きずり出すための作戦を練った。

六月二十一日 、全軍の集結を完了した信長は長比城を出撃。まず浅井氏の本拠・小谷城の眼前にそびえる虎御前山に布陣し、城下の町を焼き払うという挑発的な示威行動に出る 29

しかし、小谷城は難攻不落の山城であり、力攻めは得策ではない。挑発に応じない長政を見ると、信長は目標を変更。小谷城の重要な支城であり、北近江と南近江の連絡を遮断する戦略的要衝・横山城へと軍を進め、これを包囲した 6 。この横山城の危機こそが、籠城を続ける浅井長政と、援軍に駆けつけた朝倉軍を、ついに決戦の場である姉川の河原へと引きずり出すことになるのである 23 。長比城の陥落から姉川での決戦まで、すべての事象は信長の描いた筋書き通りに、見事な連鎖をなして進んでいった。

第四章:盤上の駒たち -裏切りと忠誠の狭間で-

長比城の無血開城は、織田信長という卓越した戦略家が盤を支配し、浅井方の駒を巧みに操った結果であった。しかし、その盤上で動いた駒たち、すなわち堀秀村や樋口直房といった国人領主たちには、それぞれの立場と動機があった。彼らの選択は、単なる個人的な裏切りというミクロな事象であると同時に、戦国時代後期の権力構造の再編というマクロな歴史的潮流を映し出す鏡でもあった。

内応を選択した者たち:堀秀村と樋口直房

長比城を織田方に明け渡した中心人物は、堀秀村と樋口直房である。

堀秀村 (1557-1599)は、近江国坂田郡の鎌刃城を本拠とする国人領主であった。堀氏は、浅井氏が台頭する以前は、北近江の他の国人衆と同様に、守護・京極氏に仕える同格の存在であった 12 。浅井氏が下剋上によって地域権力となると、その支配下に組み込まれる形となったが、その主従関係は絶対的なものではなく、常に緊張をはらんでいた。堀秀村自身、浅井長政に対して強い忠誠心を抱いていたとは考えにくい 38 。内応当時、彼はまだ15歳前後と若く 34 、政治的・軍事的な判断の多くは、家中の実力者である家老・樋口直房に委ねられていたと推察される 34

その 樋口直房 (生年不詳-1574)こそが、この調略における真のキーパーソンであった。彼は堀家の家老として、幼少の主君に代わり家中を切り盛りし、兵法や軍略に通じ、民政家としても優れた手腕を発揮したことから「近江一の智謀の将」と謳われた人物である 30 。彼が竹中半兵衛の説得に応じたのは、旧知の仲という個人的な関係もさることながら、より現実的な政治判断があったからに他ならない。急速に勢力を拡大する織田信長と、それに比して国力で劣る浅井・朝倉連合。両者を天秤にかけた時、主家である堀氏が生き残るためには、時代の潮流である織田方につくことが最善の策であると判断したのである。彼の選択は、忠誠心よりも家の存続を優先する、戦国武将のリアリズムを体現したものであった。

拠点を失った者:浅井長政

一方、浅井長政にとって、長比城の不戦敗は致命的な打撃であった。国境防衛の要として全幅の信頼を寄せていたはずの重臣に裏切られ、堅固な要塞を戦わずして敵の手に渡してしまった。これにより、信長軍の侵攻を自領の奥深く、本拠地・小谷城の間近で受け止めざるを得なくなり、戦略的に極めて受動的な立場へと追い込まれた。長政が描いていたであろう防衛計画は、この時点で事実上破綻したと言える。この一件は、浅井氏の権力基盤が、国人衆の連合体という脆弱なものであったことを露呈させた。

勝利を演出した者たち:織田信長と竹中半兵衛

この「戦い」の勝者は、言うまでもなく織田信長である。彼は、敵の弱点、すなわち浅井家臣団の結束の脆さを見抜き、武力による正面突破という消耗の大きい手段を避け、調略という最も効率的な方法でこれを突き崩した。そして、内応成功の報を受けるや否や、即座に行動を起こす決断力と機動力で、その成果を確実なものとした。これは、信長が旧来の合戦の作法に囚われない、合理的で新しい戦争の形を実践していたことを明確に示している。

その信長の戦略を見事に実行したのが、竹中半兵衛であった。彼は、樋口直房との個人的な関係というミクロな繋がりを、織田と浅井の力関係を覆すというマクロな戦略へと結びつけた。堀・樋口の内応は、戦国後期の権力再編の縮図である。地方の国人領主たちが、旧来の地域秩序(浅井氏)を見限り、より強大で中央集権的な新しい権力(織田氏)へと帰属先を変えていく。長比城の無血開城は、軍事的な勝敗以上に、この政治的な力関係の劇的な逆転を象K徴する出来事だったのである。

第五章:歴史的意義 -一発の矢も放たれなかった戦いの結末-

元亀元年六月の長比城を巡る一連の出来事は、直接的な戦闘がなかったにもかかわらず、その後の戦国史の流れ、特に直後に起こる姉川の戦いに決定的かつ多大な影響を及ぼした。血が流れなかったがゆえに、その戦略的重要性は一層際立つ。

姉川の戦いへの直接的影響

長比城の無血開城は、九日後に繰り広げられる姉川の戦いにおける織田・徳川連合軍の勝利を、事前に準備したと言っても過言ではない。その理由は、以下の三点に集約される。

第一に、 侵攻ルートと兵站線の確保 である。美濃から北近江へ至る東山道は、織田軍にとって主たる進軍路であった。長比城が浅井方の手中にあれば、織田軍はこの街道の通行を妨害され、兵力の投入や物資の輸送(兵站)に多大な困難をきたしたであろう 39 。しかし、長比城を早期に、かつ無傷で手に入れたことにより、信長は安全な進軍路と補給路を確立し、敵地の奥深くで大規模な軍事作戦を展開する基盤を築くことができた。

第二に、 戦略的主導権の掌握 である。敵の防衛ラインの最前線を、自軍の攻撃拠点へと転化させたことで、信長は作戦の主導権を完全に握った。これにより、小谷城下への示威行動や、横山城の包囲といった、浅井方を精神的に揺さぶり、物理的に分断する自由な作戦展開が可能となった 40 。浅井方は、信長の仕掛ける手に常に対応を迫られる後手の立場に立たされたのである。

第三に、 浅井方の作戦の限定 である。本拠・小谷城と南近江の諸城との連携を断ち切る要衝・横山城が包囲されたことで、浅井長政は籠城を続けるか、あるいは城外に出て野戦を挑むかという苦しい選択を迫られた。結果として、彼は横山城を救援するため、朝倉の援軍と共に城を出て、姉川の河原で決戦に臨むことを選んだ。これはまさに、信長が意図した戦場へと敵を引きずり出すことに成功したことを意味する。

浅井家臣団への心理的影響

国境防衛の要と頼んだ城が、一戦も交えずに敵の手に落ちたという事実は、浅井家臣団に深刻な動揺と衝撃を与えたことは想像に難くない。織田信長の調略の恐ろしさを目の当たりにし、「次は我が身が標的になるのではないか」という疑心暗鬼が家中に広がった可能性は高い。このような内部からの動揺は、組織の結束力を著しく削ぎ、その後の姉川本戦における士気にも少なからず悪影響を及ぼしたと考えられる。

「戦わずして勝つ」の実践

結論として、長比城の攻防は、中国の古典兵法書『孫子』が説く「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」という理想を、戦国時代の日本において実践した稀有な事例であった。物理的な兵力の衝突による消耗戦とは対極にある、情報、調略、そして迅速な意思決定がもたらした、極めて洗練された戦略的勝利として、戦国史において特筆すべき価値を持つ。それは、単なる城の奪い合いではなく、新しい時代の戦争の形を予感させる出来事だったのである。

結論:再定義される「長比城の戦い」

本報告書を通じて詳述してきたように、歴史上「長比城の戦い」として語られるべき出来事の実態は、天正八年(1580年)に近江国湖北で行われたとされる掃討戦ではなく、その十年前にあたる元亀元年(1570年)六月に発生した、 調略による無血開城事件 である。

この一連の攻防は、単に一つの山城の帰趨を決しただけにとどまらない、より広範で深遠な歴史的意義を有している。それは、戦国史の分水嶺たる姉川の戦いの序曲として、その後の戦局全体を規定する決定的な一歩であった。織田信長は、堀秀村・樋口直房の内応という情報を的確に捉え、驚異的な機動力をもってこれを戦果に結びつけた。これにより、兵力の損耗を一切伴うことなく、敵の防衛線を突破し、浅井領侵攻の橋頭堡を確保するという、絶大な戦略的優位を確立したのである。

この出来事は、戦国時代の合戦の概念を問い直すものである。鬨の声も、刃の交わる音も、血の匂いもなかったこの「戦い」は、物理的な戦闘行為以上に、情報戦と心理戦が勝敗を左右する時代の到来を象徴していた。浅井長政が築いた物理的な城壁は、信長が張り巡らせた見えざる調略の網の前に、あまりにも無力であった。

したがって、「長比城の戦い」は、血が流れなかったがゆえに、その戦略的・政治的重要性が一層際立つ、極めて示唆に富んだ攻防として再評価されるべきである。それは、武力と武力が激突する旧来の戦から、情報と戦略が雌雄を決する新しい戦へと移行していく、戦国時代という変革期のダイナミズムを凝縮した一事例として、後世に多くの教訓を伝えている。


添付資料

【表1】長比城攻防(元亀元年六月)時系列表

日付(元亀元年)

織田信長の動向

浅井長政・城将の動向

関連事項

六月上旬~中旬

岐阜城にて浅井氏討伐の軍備を進行。

国境防衛のため、長比城・苅安城を改修・増強。守将として堀秀村・樋口直房らを配置。

木下秀吉の与力・竹中半兵衛が、樋口直房への調略を開始。

六月十九日

**(午後)**岐阜城にて、堀・樋口の内応成功の報を受け、全軍の集結を待たず、即日出陣。

**(午前)**樋口直房の説得により、堀秀村が織田方への内応を決断。

内応の報が、密使により近江から美濃へともたらされる。

六月十九日夜~二十日早朝

先遣隊を率いて夜通し行軍し、長比城に到着。一戦も交えずに入城。

城将の裏切りにより城兵は戦意を喪失し、武具もそこそこに敗走。城は放棄される。

浅井方の国境防衛線が、内側から崩壊する。

六月二十日~二十一日

長比城に一両日滞在。後続部隊の集結を待ち、軍議を開く。

小谷城にて、国境の要害が陥落したとの報を受ける。

長比城が、織田軍の北近江侵攻における前線基地となる。

六月二十一日

全軍集結後、長比城を出撃。小谷城正面の虎御前山に布陣し、城下を焼き払う。

小谷城に籠城し、信長の挑発に応じず。

織田軍による示威行動。

六月二十四日

虎御前山から陣を移し、小谷城の支城・横山城を包囲。竜ヶ鼻に本陣を構える。

横山城の危機を受け、籠城か出撃かの判断を迫られる。

徳川家康の援軍が到着し、織田軍に合流。

六月二十七日

-

越前からの朝倉景健率いる援軍が到着。浅井軍と合流し、大依山に布陣。

浅井・朝倉連合軍が結成される。

六月二十八日

竜ヶ鼻から出陣し、姉川南岸に布陣。

**(未明)**大依山から進軍し、姉川北岸に布陣。織田・徳川軍との決戦を決断。

姉川の戦い、開戦。

【表2】長比城の戦い 主要関係者一覧

人物名

所属勢力(当時)

役職・立場

本事件における役割

備考

織田 信長

織田方

尾張・美濃等の大名

総大将。調略の承認と、迅速な出陣による戦果の確定。

金ヶ崎の退き口での雪辱を期していた。

木下 秀吉

織田方

織田家家臣

調略部隊の指揮官。

後の豊臣秀吉。この功績も出世の一助となる。

竹中 半兵衛

織田方

木下秀吉の与力

調略の実行者。樋口直房を直接説得。

樋口直房とは旧知の間柄であった 33

浅井 長政

浅井方

北近江の大名

総大将。長比城の築城を命じるも、内応により失陥。

織田信長の義弟であったが、離反し敵対。

堀 秀村

浅井方 → 織田方

鎌刃城主、長比城将

内応の決断者。織田方に寝返り、城を明け渡す。

浅井氏とは元々同格の国人領主 37 。当時15歳前後。

樋口 直房

浅井方 → 織田方

堀家家老、長比城将

内応の主導者。竹中半兵衛の説得に応じ、主君を説得。

「近江一の智謀の将」と評された策略家 30

引用文献

  1. 1580年 – 81年 石山本願寺が滅亡 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1580/
  2. パンフレット - 長浜城歴史博物館 https://nagahama-rekihaku.jp/sites/default/files/2025-08/NagahamaCastleHistoryMuseum_pamphlet_ja.pdf
  3. 其の六・小谷城攻略と浅井氏の滅亡 - 国内旅行のビーウェーブ https://bewave.jp/history/nobunaga/hs000106.html
  4. 江濃境目の城 - 長比城跡 - 米原市 https://www.city.maibara.lg.jp/material/files/group/47/site30.pdf
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