長浜城の戦い(1573)
天正元年、長浜城の戦いは史実になく、小谷城の戦いを指す。織田信長は浅井氏を滅ぼし、信長包囲網を崩壊させた。この戦功で羽柴秀吉は長浜城を築き、近世城下町経営の才を発揮。秀吉飛躍の転換点となった。
「Perplexity」で合戦の概要や画像を参照
1573年北近江の攻防:小谷城の落日と長浜城の黎明
序章:歴史的誤解の訂正と本報告書の主題
利用者様よりご依頼いただいた「長浜城の戦い(1573年)」について、まず歴史学的な事実関係を明確にすることから本報告を始めたい。結論から述べると、天正元年(1573年)に「長浜城」を主戦場とする大規模な合戦は、史実としては存在しない。羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が近世城郭としての長浜城を築いたのは、まさにこの1573年に北近江の戦国大名・浅井氏が滅亡した後、その戦功によって同地を拝領してからのことである 1 。築城は1573年末から翌年にかけて開始され、城と城下町が本格的に機能し始めるのは天正3年(1575年)頃とされる 4 。
しかしながら、利用者様の認識されている「北近江の要衝掌握」という結果は、1573年にこの地で起こった極めて重要な合戦、すなわち浅井長政の居城であった 小谷城(おだにじょう)をめぐる一連の戦い を指しているものと断定できる。この「小谷城の戦い」こそが、織田信長と3年以上にわたり敵対した浅井氏を滅亡させ、信長包囲網の一角を崩壊させた決定的な戦役であった 5 。そして、この戦いの結果として羽柴秀吉が北近江の新たな支配者となり、来るべき新時代の拠点として長浜城を築くことになる。
したがって、本報告書は、利用者様の真の探求意図である「1573年における北近江の支配権を決定づけた合戦」に焦点を当て、その主題を「小谷城の戦い」に設定する。合戦に至る背景から、利用者様が最も強く要望されている「合戦中のリアルタイムな状態が時系列でわかる形」での詳細な戦闘経過、そして戦後の北近江における新秩序の形成と長浜城の誕生までを、網羅的かつ徹底的に解説するものである。
第一部:決裂への道程 ― 織田・浅井同盟の崩壊
第一章:蜜月から反目へ
織田信長と浅井長政の関係は、当初、戦国時代における理想的な政略同盟の一つであった。永禄10年(1567年)頃、信長は妹のお市の方を長政に嫁がせ、両家は強固な姻戚関係を結んだ 7 。この同盟により、信長は上洛への道を確保し、浅井氏は南近江の宿敵・六角氏に対する強力な後ろ盾を得るという、相互に利益のある関係が成立していた 9 。
しかし、この蜜月関係は元亀元年(1570年)4月、突如として破綻する。信長が、浅井氏と父祖代々の盟友関係にあった越前の朝倉義景を攻撃したためである(金ヶ崎の戦い) 2 。この信長の行動は、浅井氏との同盟条件であった「朝倉家への不戦」を一方的に破棄するものであった。長政は、新興の義兄・信長との同盟を維持するか、旧来の盟友・朝倉家との信義を守るかの苦渋の決断を迫られた。最終的に長政は信長を裏切り、その背後を突くことを決断する。これにより信長は挟撃の危機に陥り、羽柴秀吉らの殿(しんがり)での奮戦によって辛うじて京へ逃げ帰った 8 。
この長政の離反は、単なる「裏切り」という言葉では片付けられない、戦国時代の複雑な力学を象徴する出来事であった。浅井家と朝倉家の関係は、数代にわたる深い結びつきであり、単なる政治的約束を超えた、地域の秩序を維持するための共同体的なものであった可能性が高い。信長の越前侵攻は、浅井家から見れば、信長自身が先に「信義」に違反したと解釈できる。したがって、長政の行動は、旧来の地域秩序を守ろうとする伝統的価値観と、天下統一という新たな目標を掲げて旧弊を打破しようとする革新的価値観との衝突であったと位置づけることができる。
第二章:姉川の激闘とその影響
金ヶ崎での屈辱に対し、信長はすぐさま報復に動いた。同年6月、徳川家康の援軍を得た織田軍は、浅井・朝倉連合軍と近江国姉川の河原で激突する(姉川の戦い) 8 。
戦いは凄惨を極めた。浅井軍は兵力で劣りながらも決死の覚悟で織田軍に猛攻をかけ、一時は織田軍の陣立てを13段のうち11段まで突き破り、信長本陣に肉薄するほどの奮戦を見せた 8 。しかし、対岸で朝倉軍と対峙していた徳川軍が、榊原康政の側面攻撃をきっかけに朝倉軍を打ち破ると、戦況は一変する。朝倉軍の敗走により孤立した浅井軍もやがて崩れ、長政は小谷城へと敗走した 8 。
この戦いで浅井方は、重臣の遠藤直経や長政の実弟・浅井政之をはじめとする多くの有力武将を失い、その損害は甚大であった 12 。姉川は両軍の兵士の血で真っ赤に染まったと伝えられる 11 。
しかし、信長もまた浅井・朝倉軍を完全に殲滅するには至らなかった。姉川の戦いは、単なる織田・浅井間の局地戦に留まらなかった。この戦いを契機に、反信長勢力が各地で連携を深め、一大反信長ネットワークである「信長包囲網」が形成されることになる 6 。浅井・朝倉の粘り強い抵抗は、武田信玄、本願寺顕如、三好三人衆らに「信長は無敵ではない」という希望を与え、信長の天下布武事業は初めて全国規模の抵抗に直面することとなった。以後3年間にわたり、信長は東西南北からの攻撃に晒される最大の危機を迎えるのである。
第二部:天正元年の最終決戦 ― 小谷城、落城す
第三章:包囲網の瓦解と最後の攻勢
元亀4年(天正元年、1573年)、信長を苦しめ続けた包囲網に大きな綻びが生じる。4月、包囲網の東の要であり、最強の敵であった甲斐の武田信玄が、上洛の途上で病死したのである 6 。これにより東方の脅威から解放された信長は、反撃の好機を掴んだ。
同年7月、信長は包囲網の盟主であった将軍・足利義昭を京から追放し、室町幕府を事実上滅亡させた 6 。これにより反信長連合は大義名分を失い、その結束は急速に弱体化していく。信長は元号を元亀から天正へと改元させ、新たな時代の到来を天下に知らしめると 15 、満を持して約3万の軍勢を率い、北近江の浅井長政を滅ぼすべく最後の侵攻を開始した。
第四章:小谷城攻防戦 ― 詳細時系列分析
天正元年8月、浅井氏の命運を賭けた小谷城攻防戦の火蓋が切られた。その詳細な経過は、以下の時系列表に集約される。
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日付(天正元年) |
織田軍の動向 |
浅井・朝倉軍の動向 |
戦況の要点と分析 |
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8月8日 |
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浅井家重臣・阿閉貞征が山本山城ごと織田方に寝返る 15 。 |
小谷城の南西の守りが崩壊。信長はこれを好機と捉え、即座に出陣を決定する。 |
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8月9日 |
信長、3万の軍を率いて出陣。小谷城の南約500mに位置する虎御前山に本陣を敷く 15 。 |
浅井長政、約5千の兵と共に小谷城に籠城。朝倉氏に最後の援軍を要請する 15 。 |
虎御前山は小谷城を見下ろす絶好の攻撃拠点。信長は心理的圧力をかけ、戦いの主導権を握る。 |
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8月10日-12日 |
朝倉軍と小谷城の連絡路を遮断。浅見道西の寝返りを利用し、朝倉方が布陣する大嶽砦などを次々と攻略 15 。 |
朝倉義景、2万の援軍を率いて小谷城北方に布陣するも、積極的な攻勢に出ず後方の砦に籠もる 15 。 |
朝倉軍の消極策が裏目に出る。織田軍の巧みな分断策により、援軍は機能不全に陥る。 |
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8月13日夜 |
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朝倉義景、戦況不利と判断し、全軍に越前への撤退を命令 16 。 |
籠城する浅井軍を見捨てる決定であり、浅井・朝倉同盟の事実上の終焉。小谷城は完全に孤立する。 |
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8月14日-20日 |
信長、自ら精鋭を率いて退却する朝倉軍を猛追撃(刀根坂の戦い)。一乗谷城を焼き払い、朝倉氏を滅亡させる 15 。 |
朝倉軍は追撃により壊滅。義景は8月20日、重臣の裏切りに遭い自刃 15 。 |
信長の驚異的な追撃速度と決断力。わずか1週間で一大名家を滅ぼし、後顧の憂いを断つ。 |
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8月26日 |
信長、越前の戦後処理を終え、虎御前山に帰還。全軍に小谷城への総攻撃を命令する 15 。 |
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8月27日夜 |
羽柴秀吉 隊が夜陰に乗じ、本丸と小丸の中間に位置する 京極丸 を奇襲し、占拠する 2 。 |
京極丸の守備隊(約600)は奮戦するも、三田村定頼、海北綱親らが討死し、陥落 15 。 |
この戦いにおける戦術上の決定打。父・久政と子・長政の連携が完全に分断される。 |
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8月28日 |
分断された小丸に攻撃を集中させる。 |
父・浅井久政、支えきれず自害 15 。 |
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9月1日 |
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浅井長政、お市と三姉妹を城外へ逃がした後、赤尾屋敷にて自刃。浅井氏滅亡 15 。 |
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この攻防戦の転換点は、8月27日夜の羽柴秀吉による京極丸の占拠であった。小谷城は、尾根上に複数の曲輪が連なる連郭式の山城であり、各郭の連携こそがその防御力の源泉であった 17 。京極丸は、山頂の本丸に籠る城主・長政と、中腹の小丸に籠る隠居した父・久政という、浅井家の二つの頭脳を繋ぐ神経系ともいえる重要な拠点だった。秀吉はこの城の構造的弱点を見抜き、夜陰に乗じた奇襲によってこの神経を断ち切ったのである。これにより父子は物理的にも精神的にも分断され、組織的な抵抗は不可能となった。力攻めではなく、敵の弱点を的確に突いたこの戦功は、後の秀吉の数々の戦における知略の片鱗を示すものであり、彼がこの戦いの論功行賞で筆頭に挙げられる最大の要因となった。
父・久政の自害後、本丸でなおも抵抗を続けていた長政であったが、もはや落城は時間の問題であった。長政は最後の務めとして、嫡男・万福丸を家臣に託して城外へ逃がし、妻であるお市の方と三人の娘(茶々、初、江)を織田陣営へと引き渡した 15 。そして天正元年9月1日、重臣の赤尾清綱らと共に自刃して果てた。享年29。ここに北近江に三代続いた戦国大名・浅井氏は滅亡したのである。
第五章:戦後処理と北近江の新秩序
戦後、信長による浅井氏への処置は苛烈を極めた。城外へ逃れていた万福丸は捕らえられ、関ヶ原で磔に処され、浅井家の男子は根絶やしにされた 15 。さらに信長は、浅井久政・長政父子と朝倉義景の首級の頭蓋骨に金箔を塗り(薄濃・はくだみ)、漆で固めて杯とし、翌年の正月の宴席で披露したと伝えられている 6 。
この行為は、長らく信長の残虐性を象徴する逸話として語られてきた。しかし近年では、敵将への敬意の表れであり、旧時代との決別を内外に示すための政治的パフォーマンスであったとする再評価もなされている 15 。裏切り者への見せしめという側面と、強敵であった者たちの菩提を弔い、新たな時代を切り開くという決意表明の側面が、この行為には複雑に絡み合っていたと考えられる。
戦後処理のもう一つの柱は、論功行賞であった。この小谷城の戦いにおける最大の功労者とされたのは、京極丸を陥落させた羽柴秀吉であった。信長は秀吉の功を大いに賞し、浅井氏の旧領であった北近江三郡(坂田、浅井、伊香)約12万石と、落城したばかりの小谷城を与えた 2 。これにより、足軽出身の秀吉は、信長家臣団の中で初めて一国一城の主、すなわち大名へと出世を遂げたのである 19 。この抜擢は、秀吉の人生における大きな転機であり、後の天下人への道を切り開く第一歩となった。
第三部:新たな時代の幕開け ― 長浜城の誕生と羽柴秀吉の飛躍
第六章:山城から水城へ ― 戦略思想の転換
北近江の新たな領主となった秀吉は、しかし、与えられた名城・小谷城を本拠とせず、これを廃城にするという意外な決断を下す 2 。そして、新たな拠点として彼が選んだのは、琵琶湖の湖畔に位置する「今浜」という港町であった 1 。
この秀吉の選択は、単なる居城の移転ではなく、戦国時代の統治思想における一大転換点を象徴する出来事であった。小谷城のような「山城」は、防御を第一とする中世的な軍事思想の産物である。領国を防衛するには最適だが、琵琶湖から離れた山中にあり、経済活動や交通の拠点としては極めて不便であった 15 。
一方で、秀吉が今浜に築こうとした新しい城は、琵琶湖という広大な水運ネットワークを直接掌握し、人、物資、情報を集積させることを目的とした、経済優先の近世的な統治思想の現れであった 1 。この決断は、時代がもはや「守る」ことよりも「治める」ことへ、そして「戦争」の論理よりも「経済」の論理へと重心を移しつつあることを、秀吉が誰よりも早く理解していた証左と言える。彼は、来るべき統一された時代の統治拠点として、軍事機能と経済機能を両立させた新しい形の城を構想していたのである。
第七章:最初の城下町経営
天正2年(1574年)頃から、秀吉による新しい城と城下町の建設が始まった。まず秀吉は、主君・織田信長の「長」の字を拝領し、「今浜」の地を「長浜」と改名した 1 。これは信長への忠誠を示すと同時に、自らの新たな領国経営の始まりを宣言する行為であった。また、この頃に自身の姓も木下から、織田家の重臣である丹羽
長 秀と柴田勝家から一字ずつ取った「 羽柴 」へと改めている 3 。
秀吉の都市計画は革新的であった。彼は小谷城下から商人や寺社を強制的に移住させ、計画的な城下町を形成した 1 。さらに、座などの特権商人の既得権益を廃止し、誰もが自由に商売できる「楽市楽座」を導入 21 。城下の町人地の税を免除するなど、徹底した経済振興策を打ち出し、長浜は瞬く間に活気あふれる商業都市へと発展した 23 。
この長浜城主時代は、秀吉にとって初めて領国経営の才覚を存分に発揮する機会となった。ここで得た統治の経験と、後に彼の右腕となる石田三成をはじめとする有能な人材との出会いは、後の天下統一事業の強固な礎となった 21 。長浜の町民に今なお親しまれている長浜曳山祭は、秀吉に初めて男子(秀勝)が誕生したことを城下の町衆が祝って始めたものと伝えられており 4 、彼が領民に慕われる為政者であったことを物語っている。長浜は、秀吉が単なる優れた武将から、稀代の統治者へと飛躍する「出世城」であり、後の大坂城下町の原型ともいえる、彼の「天下人の実験場」であった。
結論:1573年の戦いが残した歴史的遺産
1573年に北近江で繰り広げられた戦いは、「長浜城の戦い」ではなく、正しくは「小谷城の戦い」であった。しかし、この戦いが戦国時代の歴史に与えた影響は計り知れない。
第一に、浅井・朝倉両氏の滅亡は、信長を長年苦しめてきた反信長包囲網の西の最大勢力を完全に排除したことを意味し、信長の天下統一事業を決定的に前進させた。
第二に、この戦いは羽柴秀吉という新たな時代の主役を歴史の表舞台に押し上げた。小谷城攻めにおける最大の戦功により一国一城の主となった秀吉は、これを足掛かりに織田家臣団の中で急速にその地位を高め、後の天下人への道を力強く歩み始める。1573年は、秀吉のキャリアにおける真の離陸点であったと言える。
そして最後に、この戦いの結果として誕生した長浜城とその城下町は、軍事拠点と経済中心地を一体化させた近世城下町の先駆的なモデルとなり、その後の日本の都市計画に大きな影響を与えた 23 。
結論として、1573年の北近江における攻防は、一つの名門大名家の滅亡が、新たな天下人の誕生を促し、中世的な山城の時代から近世的な城下町の時代への扉を開いた、まさに歴史の転換点であった。それは、戦国の終焉と、新たな統一国家の黎明を告げる画期的な出来事だったのである。
引用文献
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- 小谷城の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11097/
- 史跡 長浜城跡 http://www.pcpulab.mydns.jp/main/nagahamajyo.htm
- 長浜城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.ohminagahama.htm
- 【浅井長政】信長との同盟を破棄した浅井家の御家事情 - 戦国SWOT https://sengoku-swot.jp/swot-azainagamasa/
- 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第20回【浅井長政】信長を苦しめた北近江の下克上大名 https://shirobito.jp/article/1787
- 長浜城~羽柴(豊臣)秀吉が最初に築いた城~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/oumi/nagahamajyo.html
- 姉川の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11094/
- 浅井長政の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7483/
- 織田信長の執念が浮かぶ、浅井長政を追い詰めた「小谷城攻め」の城跡巡り https://diamond.jp/articles/-/316089
- 【史跡めぐり】義兄弟が生死を懸けた姉川の戦い!あなたは織田派?浅井派? https://mediall.jp/history/12687
- 姉川の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%89%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 姉川の戦|国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2375
- 三方ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%96%B9%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 小谷城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%B0%B7%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- お城へいざ参ろう! 幸せな記憶と共に消えた悲しみの城 小谷城④ - BMW調布 https://bmwchofu-blog.tomeiyokohama-bmw.co.jp/12992/
- 小谷城の戦い古戦場:滋賀県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/odanijo/
- 其の六・小谷城攻略と浅井氏の滅亡 - 国内旅行のビーウェーブ https://bewave.jp/history/nobunaga/hs000106.html
- 秀吉の長浜築城 - 長浜城歴史博物館 https://nagahama-rekihaku.jp/highlight/nagahama-castle
- 長浜城跡 https://www.city.nagahama.lg.jp/section/bunkazai/iseki/nagahamazyou.html
- 今も長浜の町を守る、「豊臣秀吉」。 - Good Sign - よいきざし - https://goodsign.tv/good-sign/%E4%BB%8A%E3%82%82%E9%95%B7%E6%B5%9C%E3%81%AE%E7%94%BA%E3%82%92%E5%AE%88%E3%82%8B%E3%80%81%E3%80%8C%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89%E3%80%8D%E3%80%82/
- 6. 長浜城祉(羽柴秀吉居城) | 須賀谷温泉のブログ https://www.sugatani.co.jp/blog/?p=1015
- 羽柴秀吉と長浜城下町 - nagahama.net https://nagahama.net/jyoukamachi/about-01/
- 「楽市楽座」 https://kitabiwako.jp/wp_sys/wp-content/uploads/2017/04/5eacfe6c4aa58df7b50d5da46228a917.pdf