最終更新日 2025-08-30

関宿城の戦い(1590)

天正十八年、豊臣秀吉の小田原征伐時、関東水運の要衝・関宿城は孤立。大規模な戦闘なく無血開城し、戦国時代の終焉を象徴する出来事となった。

沈黙の開城:天正十八年、関宿城の戦略的終焉

序章:天下統一の奔流と関東の巨城

天正十八年(1590年)、春。日本の歴史が大きく動いたこの年、関白豊臣秀吉による天下統一事業は、その最終段階を迎えていた。西国を平定し、聚楽第に行幸した後陽成天皇の威光を背にした秀吉の視線は、関東に独立王国を築く後北条氏に向けられていた。秀吉が発した「惣無事令」、すなわち大名間の私闘を禁じる命令に北条氏が違反したことを口実に、20万を超える未曾有の大軍が、怒涛の如く東国へと進発したのである 1

この圧倒的な軍事力に対し、後北条氏が採った基本戦略は「小田原籠城策」であった。かつて越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄といった当代随一の軍略家による侵攻をも、難攻不落の本城・小田原城に籠ることで退けてきた成功体験に基づいたこの策は、関東各地に配置された支城の兵力を小田原に集結させ、長期戦に持ち込むことを主眼としていた 1 。しかしこの戦略は、過去の敵とは比較にならない兵站能力と政治力を有する豊臣連合軍の前では、広大な関東に点在する支城群を孤立させ、各個撃破される危険を内包するものであった。

その数ある支城の中でも、下総国に位置する関宿城は、比類なき戦略的価値を有していた。かつて北条氏康が「彼地(関宿)御手に入れ候事は、一国を取り為され候にも替わるべからず候」と記したように、この城を手に入れることは一国を併呑するに等しいと見なされていたのである 5 。その価値の源泉は、利根川と江戸川(古くは太日川)が分岐する水上交通の結節点という、その絶妙な地理的位置にあった。この地点を抑えることは、関東平野の隅々にまで張り巡らされた河川舟運のネットワーク、すなわち物資と兵員の輸送路を完全に掌握することを意味した 6 。関宿城は、単なる軍事拠点ではなく、関東一円の経済と軍事を支配する「喉元」であり、北条氏にとっては領国経営の根幹を成す重要拠点であったのだ 8

この地の支配は、単に通行料を徴収するだけに留まらない。利根川水系の治水や流路の改修といった大規模な土木事業の拠点でもあり、その管理は関東平野の農業生産力、ひいては経済基盤そのものを左右した 8 。したがって、豊臣秀吉の小田原征伐は、単なる領土の奪い合いではなく、関東の経済インフラそのものの支配権を巡る、より近代的で総力戦の様相を呈した戦いであった。この壮大な戦役の中で、関東水運の心臓部たる関宿城は、否応なく歴史の奔流に飲み込まれていくことになる。

第一章:包囲網の形成 ― 豊臣軍、関東へ

豊臣秀吉が描いた関東攻略の絵図は、小田原城という「頭脳」を大軍で麻痺させつつ、関東各地に散らばる支城という「手足」を計画的かつ冷徹に切り落としていく、極めて合理的なものであった。その作戦は、天正十八年三月、凄まじい速度で実行に移された。

秀吉の進撃と山中城の悲劇

豊臣軍は、秀吉自らが率いる東海道本隊、前田利家・上杉景勝らが率いる北方隊、そして九鬼嘉隆らの水軍という三つの主要部隊で構成され、それぞれが定められたルートを進んだ 1 。戦端が開かれると、その圧倒的な戦力差はすぐに明らかとなった。三月二十九日、小田原防衛線の西の要であり、箱根の天険に守られた最重要拠点・山中城が、豊臣秀次、徳川家康を主力とする67,800の軍勢の猛攻を受けた 1 。城を守る北条方の兵力は約4,000。鉄壁と信じられていたこの城は、わずか数時間の戦闘、一説には半日で陥落するという衝撃的な結末を迎える 1 。この報は瞬く間に関東全域を駆け巡り、後北条氏の諸城に立て籠もる将兵に、豊臣軍の戦闘能力が自分たちの想像を絶するものであることを知らしめ、深刻な心理的動揺を与えた。山中城の電撃的攻略は、単なる戦術的勝利に留まらず、北条方全体の戦意を根底から打ち砕くための、高度に計算された心理戦でもあったのである。

小田原包囲と関東掃討作戦

四月に入ると、豊臣本隊は小田原城を完全に包囲。秀吉は力攻めを避け、兵糧攻めによる長期戦の構えを見せると同時に、関東各地の支城を制圧するための別動隊を組織的に派遣する「支城掃討作戦」を開始した 1 。この段階で、関宿城を含む下総・武蔵方面への軍事的圧力が、現実のものとして迫り始めた。

関東方面の攻略を担う部隊として、浅野長政、木村重茲らが武蔵国へ、そして徳川家康麾下の本多忠勝、酒井家次といった譜代の重臣たちも別動隊として関東各地へと展開した 1 。四月二十七日、北条方の拠点であった江戸城が、ほとんど抵抗することなく開城する 1 。この江戸城の無血開城は、その後の関東攻略における一つのモデルケースとなった。圧倒的な兵力差を誇示し、抵抗の無益さを悟らせることで、無用な損害を避けつつ迅速に支配地域を拡大していく。この「戦わずして勝つ」という思想は、豊臣軍が武蔵国の中枢に一大拠点を確保したことを意味するだけでなく、利根川水系を通じて関宿城へ直接迫るための兵站基地と進発点を手に入れたことをも意味していた。山中城の悲劇と江戸城の無血開城、この二つの出来事は、これから関東の諸城が辿る運命を暗示するものであった。

第二章:孤立する水城 ― 関宿城、運命の五月

五月、小田原城の包囲が続く中、関東平野では豊臣方の別動隊による支城掃討作戦が猛威を振るっていた。関宿城の周囲では、日を追うごとに味方の城が陥落していく報がもたらされ、その包囲網は刻一刻と狭まっていた。この章では、関宿城が戦略的に完全に孤立していく過程を、時系列に沿って克明に追う。

南方戦線の崩壊:下総・房総方面軍の進撃

江戸城を拠点とした浅野長政らの部隊は、利根川東岸を下り、下総国の北条方諸城の制圧を開始した。

  • 五月十日頃: 豊臣軍は臼井城、東金城、土気城などを次々と攻略した 1 。特に臼井城は、かつて永禄九年(1566年)の戦いにおいて、軍神・上杉謙信の大軍をも撃退したことで知られる名城であった 10 。その堅城が陥落したという事実は、周辺地域の北条方の将兵に計り知れない衝撃を与え、抵抗の意思を削ぐに十分であった。
  • 五月十八日頃: 下総の名門・千葉氏の本拠地であった本佐倉城が開城した 1 。小田原征伐に際し、当主の千葉重胤は小田原城に籠城しており、本拠地の陥落によってその退路も断たれた。この本佐倉城の開城により、関宿城の南方を固めるべき有力な味方は完全に消滅し、利根川の南岸は完全に豊臣方の支配下に置かれた。

西方・北方からの圧力

時を同じくして、関宿城の西と北に位置する武蔵・上野方面でも、豊臣軍の攻勢はとどまるところを知らなかった。

  • 五月二十二日: 浅野長政、木村重茲らの部隊は北上し、武蔵国の要衝・岩付城を攻略した 1 。城主の太田氏房は小田原にあり、城代の伊達房実らが2,000の兵で守っていたが、2万と号する豊臣軍の前に激戦の末、降伏した 15
  • 五月二十九日: 北方では、石田三成、長束正家らが上野国の館林城を攻略した 1

これにより、関宿城は南、西、そして北の三方を完全に敵勢力下に置かれ、文字通り四面楚歌、陸の孤島ならぬ「水の孤島」と化したのである。援軍の望みは完全に絶たれ、小田原の本城との連絡も遮断された。


【表1】小田原征伐における関東主要支城の攻略時系列表(1590年)

攻略日(推定含む)

城名

国名

守将(判明分)

攻撃部隊の主将(一部)

結果

3月29日

山中城

伊豆

松田康長、北条氏勝

豊臣秀次、徳川家康

力攻により半日で陥落

4月1日

足柄城

相模

佐野氏忠、北条氏光

井伊直政

戦闘なく開城

4月21日

玉縄城

相模

北条氏勝

徳川家康(降伏勧告)

説得により開城

4月27日

江戸城

武蔵

浅野長政

無抵抗で開城

5月10日

臼井城

下総

原邦房

浅野長政

攻略・開城

5月18日

本佐倉城

下総

(城代)

浅野長政

開城

5月22日

岩付城

武蔵

伊達房実(城代)

浅野長政、木村重茲

激戦の末、降伏開城

5月22日

松山城

武蔵

上田憲定

前田利家、上杉景勝

降伏開城

5月下旬~6月上旬

関宿城

下総

「やなた殿」または城代

浅野長政 or 徳川軍別動隊

無血開城

6月14日

鉢形城

武蔵

北条氏邦

前田利家、上杉景勝

降伏開城

6月23日

八王子城

武蔵

横地吉信(城代)

前田利家、上杉景勝

力攻により一日で陥落

注:上記の日付、部隊編成は諸説あり、主要な記録に基づき再構成したものである。

関宿城、開城

上記のような絶望的な状況下で、五月下旬から六月上旬にかけて、豊臣軍のいずれかの部隊(岩付城を攻略した浅野長政の部隊か、あるいは徳川軍の別動隊と推定される)が、ついに利根川の要衝・関宿城に到達した。

しかし、この「関宿城の戦い」に関して、具体的な戦闘を記録した一次史料は、今日に至るまで発見されていない 1 。これは、大規模な攻城戦が行われなかったことを強く示唆している。城内にいたとされるのは、北条方の陣容を示す文書に名が見える「やなた殿」―これはかつての城主・簗田氏の傍流の人物か、あるいは北条家から派遣された城代であったと推測されるが 16 ―その指揮官は、周囲の城が次々と陥落していく情報を得て、抵抗が無意味であることを完全に悟っていたはずである。

関宿城の開城は、単独の事象としてではなく、一連の関東支城攻略作戦の論理的な帰結として理解されねばならない。豊臣軍は、物理的に城を包囲する以前に、周辺拠点を全て制圧することで「戦略的に」包囲し、城兵の戦意を完全に喪失させたのである。したがって、城主の決断は、城兵の生命を無駄な戦闘から守るための、唯一かつ最も合理的な選択であった。史料に戦闘記録が欠落していること自体が、この戦いの本質を物語る最も雄弁な証拠と言えよう。関宿城は、武力によってではなく、圧倒的な「情報」と「状況」によって陥落したのである。それは、戦国時代の価値観から、より近代的で総力戦的な戦争の形態へと時代が移行しつつあることを象徴する出来事であった。

第三章:戦後処理と新たな支配者

関宿城の無血開城は、小田原征伐全体の戦局に決定的な影響を与えた。関東水運の大動脈を完全に掌握した豊臣軍は、数十万の大軍が包囲する小田原への兵糧や武資の輸送をより一層円滑にし、籠城を続ける後北条氏の息の根を確実に止めることに繋がったのである。

後北条氏の滅亡と徳川家康の関東入府

七月五日、ついに後北条氏当主の北条氏直が降伏勧告を受け入れ、戦国最大の城郭と謳われた小田原城は開城した 17 。秀吉は、開戦の責任者として前当主の北条氏政とその弟・氏照に切腹を命じ、ここに五代百年にわたり関東に君臨した名門・後北条氏は滅亡した 1

戦後処理において、秀吉は徳川家康に対し、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の旧領に代わり、北条氏の旧領である関八州への移封という、日本の歴史上でも類を見ない大規模な国替えを命じた 1 。これは、家康の強大な力を警戒する秀吉の深謀遠慮であったが、結果として家康に広大で豊かな関東平野を与えることになり、後の江戸幕府の礎を築く契機となった。

松平康元の関宿入城

天正十八年(1590年)八月、江戸城に入った家康は、広大な新領国の支配体制を構築するにあたり、数ある城の中でも特に関宿城の戦略的重要性を深く認識していた。家康は、この関東の喉元とも言うべき要衝に、自らの異父弟であり、最も信頼する重臣の一人である松平康元を2万石で配置したのである 19

この人事配置は、家康の深慮を示すものであった。支配者が北条氏から徳川氏に変わっても、関宿城が持つ地政学的な価値は不変であった。家康が江戸を新たな本拠地とする上で、その北方の守りを固め、利根川水系の物流網を完全に掌握することは、まさに死活問題であった。松平康元という腹心を配置したことは、家康が関宿城を単なる軍事拠点としてだけでなく、江戸を中心とする新たな経済圏を構築するための、物流と経済の中核拠点と位置づけていたことを示唆している。それは、単なる戦後処理に留まらない、新しい国家構想の萌芽であり、戦国大名から近世の国家経営者へと家康が思考を転換させていたことの現れであった。


【表2】関宿城攻城戦における両軍の兵力比較(推定)

勢力

総兵力(推定)

主将(推定)

備考

攻撃側:豊臣方

20,000~30,000

浅野長政、本多忠勝など

江戸城・岩付城を攻略後、下総方面へ展開した部隊。圧倒的な兵力と兵站能力を誇る。

防御側:北条方

数百~1,000程度

「やなた殿」または城代

主力部隊は小田原城に動員されており、大幅に兵力減。周辺の味方拠点は全て陥落し、完全に孤立。


この圧倒的な兵力差を前にして、籠城戦がいかに無謀であったかは火を見るより明らかである。関宿城の開城は、臆病さの表れなどではなく、指揮官として城兵の命を守るための、唯一かつ最善の決断であったと言えるだろう。

結論:戦国時代の終焉を告げた一つの「開城」

天正十八年(1590年)の「関宿城の戦い」は、その名に反し、火花散る攻防戦や壮絶な玉砕戦が繰り広げられたわけではなかった。それは、豊臣秀吉が構築した圧倒的な戦略的包囲網と、関東平野を席巻する巨大な軍事力の前に、城方が下した合理的かつ必然的な「開城」であった。

この一連の出来事は、戦国乱世の終焉を象徴するものであった。個々の武将の武勇や、城そのものの堅固さといった、これまで勝敗を決してきた伝統的な価値観が、巨大な兵站能力、組織力、そして情報戦を駆使する秀吉の新しい戦争の形態の前では、もはや決定的な意味を持たなくなったことを示したのである。関宿城は、物理的な攻撃を受ける前に、戦略的に「死」を宣告されていた。

関東水運の心臓部であったこの城の静かなる明け渡しは、力と力が激しくぶつかり合う戦国乱世の時代の終わりと、中央集権的な権力の下で秩序とシステムが支配する新しい時代の到来を告げる、一つの画期であった。血で血を洗う英雄譚としてではなく、時代の転換点を静かに、しかし明確に示したもう一つの「天下分け目」として、1590年の関宿城開城は、日本の歴史にその名を刻んでいるのである。

引用文献

  1. 小田原征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90
  2. 小田原征伐(小田原攻め、小田原の役) | 小田原城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/25/memo/2719.html
  3. 小田原征伐 ~豊臣秀吉の北条氏討伐 - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/odawara-seibatu.html
  4. 1590年 小田原征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1590/
  5. 戦国関東において北条氏の支城として戦の前線に立った関宿城【千葉県野田市】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/31922
  6. 関東の城(関宿城) https://tenjikuroujin.sakura.ne.jp/t03castle02/020703/sub020703
  7. お城大好き雑記 第129回 千葉県 関宿城 https://sekimeitiko-osiro.hateblo.jp/entry/sekiyadojo-chibakenn
  8. 北条家と徳川家康 -天下取りの礎を作った「北条の国作り」- https://sightsinfo.com/koyasan-yore/okunoin-hojo
  9. SK02 酒井家次 - 系図 https://www.his-trip.info/keizu/sk02.html
  10. 臼井城~無敗と言われた上杉謙信が失敗した城攻め!DELLパソ兄さん https://www.pasonisan.com/review/0_trip_dell/11_0219usui.html
  11. 臼井城の戦い古戦場:千葉県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/usuijo/
  12. 酒々井町郷土研究会会報 https://www.town.shisui.chiba.jp/docs/2014021804910/file_contents/147.pdf
  13. 下総 本佐倉城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/shimousa/motosakura-jyo/
  14. 岩付城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E4%BB%98%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  15. 岩槻城 - 埋もれた古城 表紙 http://umoretakojo.jp/Shiro/Kantou/Saitama/Iwatsuki/index.htm
  16. 関宿と簗田氏 〜戦国期に活躍した一族〜 //関宿合戦 - 野田市観光協会 https://www.kanko-nodacity.jp/sekiyado-yanada/yanada6.html
  17. 【A 小田原合戦】 - ADEAC https://adeac.jp/akishima-arch/text-list/d400030/ht060660
  18. 「小田原征伐(1590年)」天下統一への総仕上げ!難攻不落の小田原城、大攻囲戦の顛末 https://sengoku-his.com/999
  19. 関宿城_もっとお城が好きになる http://ashigarutai.com/shiro006_sekiyado.html
  20. 松平康元の墓 - 野田市 https://www.city.noda.chiba.jp/shisei/profile/bunkazai/meisho/1000783.html
  21. 宗英寺 // 関宿と簗田氏 〜戦国期に活躍した一族〜 - 野田市観光協会 http://www.kanko-nodacity.jp/sekiyado-yanada/meisyo/noda-14.html