防長経略(1557)
厳島合戦後、毛利元就は周防・長門平定に着手。巧みな調略と須々万沼城の激戦を制し、大内氏を滅ぼす。毛利家の覇権を確立した。
防長経略(弘治元年~弘治三年)の全貌:毛利元就による周防・長門平定戦の時系列分析
序章:厳島合戦後の情勢と元就の深謀
弘治元年(1555年)10月、厳島の戦いにおける毛利元就の劇的な勝利は、西国に巨大な権力の真空を生み出した。大内氏の実質的な軍事指導者であった陶晴賢が率いる主力軍の壊滅は、単なる戦術的勝利に留まらず、名門大内氏にとって回復不能な戦略的破局を意味した 1 。この歴史的転換点を背景に、元就は中国地方の覇権を確立すべく、周防・長門二国(現在の山口県)の完全掌握、すなわち「防長経略」へと乗り出す。
この時点での大内氏は、深刻な内部的脆弱性を抱えていた。当主の大内義長は、豊後の大名・大友宗麟の実弟であり、かつては大友晴英と名乗っていた人物である 3 。彼は、陶晴賢が大内義隆に対して起こした謀反(大寧寺の変)の後、傀儡として当主の座に据えられたに過ぎなかった 1 。義長には大内家中における真の権力基盤も、家臣団からの心からの忠誠もなく、その権威は完全に故・陶晴賢の軍事力に依存していた 1 。その晴賢が厳島で斃れた今、大内氏の指揮系統は崩壊し、家中の私闘や離反が相次ぎ、毛利氏に対する統一的な防衛はほぼ不可能な状態にあった 4 。
安芸一国の有力国人に過ぎなかった元就にとって、この状況は千載一遇の好機であった。天文23年(1554年)の「防芸引分」によって大内氏と公式に決別して以来 5 、着実に地歩を固めてきた元就は、厳島の勝利を以て、安芸の領主から中国地方の覇者へと飛躍する段階に至った。富裕で権威ある周防・長門二国の征服は、その野望を実現するための必然的な次の一手であった。
しかし、この軍事行動の成功を決定づけたのは、武力のみならず、元就の周到な外交戦略であった。侵攻開始に先立ち、元就は重臣の小寺元武を豊後に派遣し、義長の実兄である大友宗麟と密約を交わしていた 1 。その内容は、毛利は大友氏が旧大内領である豊前国へ進出することに干渉しない代わりとして、大友氏は毛利の防長侵攻に干渉しない、というものであった 1 。これは事実上、大内領の分割を黙認する協定であり、義長の運命を戦わずして決定づけるものであった。
この外交的布石は、元就の戦略家としての大局観を如実に示している。義長にとって最大の、そして唯一の強力な援軍となり得たのは、実兄である大友宗麟であった。もし大友氏が義長救援に動けば、毛利氏は二正面作戦を強いられ、防長経略は極めて困難で危険な賭けとなっていたであろう。元就はこの脅威を的確に認識し、大友氏を不可避の敵と見なすのではなく、大内領分割における協力者と位置づけた。これにより、義長は外部からの有力な支援を完全に断たれ、孤立無援のまま毛利の侵攻を迎え撃つことになったのである。防長経略は、最初の兵が国境を越える前に、外交の舞台でその成功が半ば約束されていたと言っても過言ではない。
防長経略 主要合戦・事象 時系列表
年月日 (西暦) |
場所 / 城 |
主要な出来事 |
毛利方主要武将 |
大内方主要武将 |
備考 |
弘治元年10月1日 (1555/10/16) |
安芸国厳島 |
厳島の戦い。毛利軍が陶晴賢軍を壊滅させる。 |
毛利元就, 吉川元春, 小早川隆景 |
陶晴賢, 弘中隆包 |
防長経略の前提となる戦い。 |
弘治元年10月12日 (1555/10/27) |
安芸・周防国境 小方 |
元就、本陣を小方に移動。防長経略を開始。 |
毛利元就 |
- |
|
弘治元年10月18日 (1555/11/2) |
周防国 蓮華山城 |
城主・椙杜隆康が毛利氏に降伏。 |
毛利元就 |
椙杜隆康 |
調略による無血開城。 |
弘治元年10月27日 (1555/11/11) |
周防国 鞍掛山城 |
鞍掛合戦。毛利軍が城を攻略し、城主・杉隆泰が自刃。 |
毛利元就, 毛利隆元 |
杉隆泰 |
周防東部の主要拠点を制圧。 |
弘治2年2月12日頃 (1556/3/23) |
周防国 成君寺城 |
毛利軍が山代一揆の拠点・成君寺城を攻略。 |
坂元祐 |
山代一揆衆 |
玖珂郡の平定が完了。 |
弘治2年4月~ |
周防国 須々万沼城 |
須々万沼城の攻防戦開始。小早川隆景、毛利隆元が攻撃するも失敗。 |
小早川隆景, 毛利隆元 |
山崎興盛, 江良賢宣 |
難攻不落の沼城に苦戦。 |
弘治3年2月27日 (1557/3/27) |
周防国 須々万沼城 |
元就自ら出陣し、総攻撃を開始。 |
毛利元就 |
山崎興盛, 江良賢宣 |
工兵戦術と鉄砲を導入。 |
弘治3年3月3日 (1557/4/1) |
周防国 須々万沼城 |
須々万沼城陥落。山崎興盛父子は自刃。 |
毛利元就 |
山崎興盛 |
防長経略最大の激戦が終結。 |
弘治3年3月8日 (1557/4/6) |
周防国 富田若山城 |
城主・陶長房が自刃(須々万沼城陥落の報を受けたとされる)。城は開城。 |
毛利元就 |
陶長房 |
陶氏の本拠地が陥落。 |
弘治3年3月15日頃 (1557/4/13) |
周防国 山口 |
大内義長と内藤隆世が山口を放棄し、長門国へ逃亡。 |
福原貞俊 |
大内義長, 内藤隆世 |
毛利軍が山口を占領。 |
弘治3年4月2日 (1557/4/30) |
長門国 且山城 |
内藤隆世が義長の助命を条件に自刃し、開城。 |
福原貞俊 |
内藤隆世 |
元就の謀略による決着。 |
弘治3年4月3日 (1557/5/1) |
長門国 長福寺 |
毛利軍に包囲され、大内義長が自刃。大内氏滅亡。 |
福原貞俊 |
大内義長 |
防長経略の終結。 |
第一章:周防東部平定戦(弘治元年十月~弘治二年三月)
侵攻の初期段階において、元就は軍事力と心理戦、すなわち調略を巧みに組み合わせることで、最小限の損害で最大の効果を上げるという、彼の手本とも言うべき戦略を展開した。
第一節:緒戦―調略の刃と鞍掛山城の陥落
弘治元年(1555年)10月12日、元就は厳島から安芸・周防国境の小方(現在の大竹市)に本陣を移し、防長経略の火蓋を切った 7 。彼の最初の標的は、周防東部の玄関口である玖珂郡の国人領主たちであった。しかし、その第一手は軍事行動ではなく、敵の内部を切り崩す調略の刃であった。
10月18日、元就は蓮華山城主・椙杜隆康に使者を送り、降伏を勧告した。椙杜氏はこれをあっさりと受け入れ、毛利氏に帰順する 7 。続いて、隣接する鞍掛山城主・杉隆泰も降伏を申し入れてきた。ここで元就は、かねてより椙杜氏と杉氏が不仲であったという情報を巧みに利用する 1 。椙杜隆康は元就に対し、「杉隆泰の降伏は偽りであり、大内と通じている証拠がある」と密告した 7 。この情報の真偽は定かではないが、元就にとっては杉氏を討伐する絶好の大義名分となった。
10月27日、毛利軍は7,000から20,000と推定される大軍で鞍掛山城に総攻撃を仕掛けた 7 。完全に孤立し、不意を突かれた杉隆泰はなすすべもなく、城内で自刃して果てた。戦後、鞍掛山城は椙杜隆康に与えられ、その忠誠は確固たるものとなった 1 。
この鞍掛山城の攻略は、単なる緒戦の勝利ではない。それは、この後の防長経略全体で繰り返される毛利の作戦行動の雛形であった。元就の目的は、毛利本軍の兵力を温存しつつ、効率的に敵を制圧することにある。そのため、まず現地の対立構造(椙杜対杉)という脆弱性を見抜き、調略によって一方(椙杜)を味方に引き入れ、現地の国人を毛利の代理人として機能させる。そして、その新たな同盟者から得た情報(あるいは偽情報)を口実に、もう一方(杉)を殲滅する。結果として、重要な防衛拠点が無力化され、潜在的な敵が排除され、現地の協力者は恩賞によって毛利への忠誠を深める。これは情報戦、外交、軍事力を継ぎ目なく連動させた、極めて効率的な征服手法であった。
第二節:国人一揆との対峙―山代一揆の鎮圧
毛利軍の侵攻は、旧来より大内氏と強い結びつきを持っていた山代地方の国人衆(地侍層)による激しい抵抗、いわゆる「山代一揆」を誘発した 1 。これは正規軍同士の戦いではなく、地域の土着勢力による民衆蜂起の側面が強かった。
広範囲にわたるゲリラ戦の危険性を認識していた元就は、この鎮圧に慎重な姿勢で臨んだ。ここでも彼の戦略は「分断」であった。約束と脅迫を使い分け、一揆勢の内部に楔を打ち込み、強硬派を孤立させる工作を進めた 1 。
最終的に抵抗を続けた勢力は、成君寺城に立て籠もった。弘治2年(1556年)2月12日頃、坂元祐らが率いる毛利軍がこの城を攻撃し、陥落させる 1 。さらに同月18日には、三瀬川において大内方の後詰の軍勢を撃退したこともあり 10 、山代一揆は鎮圧され、玖珂郡全域の平定が完了した。
第二章:血戦、須々万沼城(弘治二年四月~弘治三年三月)
周防東部を順調に制圧した毛利軍であったが、その進撃は須々万沼城(現在の周南市)で完全に停止する。約1年にも及ぶこの攻防戦は、防長経略における最大の激戦であり、毛利軍の能力が試される試練の場となった。
第一節:沼沢の要害と毛利両川の苦戦
須々万沼城は、城将・山崎興盛と江良賢宣が守る平城であった 7 。この城の最大の防御は城壁ではなく、その地形にあった。城の周囲は深い沼と湿地帯に囲まれており、大軍による正攻法での接近を事実上不可能にしていた 12 。籠城側は近くの川を堰き止めることで、この天然の要害をさらに強化していたという 13 。
弘治2年(1556年)4月、元就はこの難攻不落の城を攻略すべく、二人の息子を派遣した。まず、毛利水軍の将として名を馳せた三男の小早川隆景が攻撃を仕掛けたが、城兵の激しい抵抗に遭い、撃退される 1 。続いて、嫡男の毛利隆元が5,000の兵を率いて攻撃したが、これもまた沼沢地に阻まれ、撤退を余儀なくされた 1 。数ヶ月にわたる「毛利両川」の攻撃失敗は、須々万沼城の堅固さと守備兵の士気の高さを証明するものであった。
第二節:元就、出陣―鉄砲と工兵戦術による陥落
籠城戦が長期化し、全軍の士気低下が懸念される中、弘治3年(1557年)2月、元就はついに自ら指揮を執ることを決断する。1万余の大軍を率いて須々万沼城に着陣した 14 。
元就は息子たちの失敗を繰り返さなかった。彼は二つの革新的な戦術を用いて、この難局を打開しようとした。第一に、工兵戦術の導入である。沼地を克服するため、兵士たちに編竹と薦(こも)を沼に敷き詰めさせ、強引に足場となる道を作り上げた 1 。これにより、毛利軍はこれまで不可能であった城壁への直接的な接近路を確保した。第二に、新兵器の投入である。記録によれば、この戦いは毛利軍が鉄砲を本格的に実戦投入した最初の事例とされる 1 。この新兵器の轟音と威力は、籠城兵に絶大な心理的・物理的打撃を与えたであろう。
弘治3年3月3日、元就は四方からの一斉総攻撃を命じた。工兵が築いた足場と鉄砲の火力が組み合わさった結果は決定的であった。毛利軍は城の防御を突破し、城内は凄惨な殺戮の場と化した。記録では、城内の兵士や非戦闘員を含む1,500人から3,000人が斬殺されたと伝えられる 11 。城将の山崎興盛とその息子は自刃、江良賢宣は降伏して毛利方に下った 15 。
この須々万沼城の攻防戦は、単なる一戦闘以上の意味を持っていた。隆元・隆景という二人の有能な息子の失敗は、元就にとって重要な教訓の機会となった。それは、家柄や勇猛さだけでは、堅固な陣地で決死の覚悟を持つ敵を打ち破ることはできず、勝利のためには創意工夫、状況への適応力、そして新技術の積極的な導入が不可欠であることを示した。元就自らの出馬と成功は、家中における彼の伝説的な軍略家としての地位を改めて確立し、有能だがまだ経験の浅い息子たちに対する権威を不動のものとした。そして何よりも、この攻城戦の凄惨な結末は、周防・長門に残る全ての大内方勢力に対し、「抵抗は無意味である。いかなる堅城も、元就自らが率いる毛利の総力の前に屈する」という明確かつ冷徹なメッセージを発したのである。この勝利がもたらした心理的影響は、城そのものの戦略的価値を遥かに上回るものであった。
第三章:山口への道―大内家中枢の崩壊(弘治三年三月)
須々万沼城の陥落は、大内氏の防衛線に連鎖的な崩壊を引き起こす引き金となった。この章では、その雪崩現象を時系列で追う。
第一節:雪崩を打つ大内防衛網
「難攻不落」と見なされていた沼城が、元就の前にわずか数日で陥落したという報は、瞬く間に周防全域に広がった。その衝撃は計り知れないものであった。
陶晴賢の本拠地であった富田若山城を守っていた晴賢の嫡男・陶長房は、須々万沼城陥落の報を聞き、全ての望みを失って自刃したとされる 10 。これにより、若山城は戦わずして毛利の手に落ちた。さらに、防府方面の要衝である右田ヶ岳城を守っていた城主・右田隆量は、毛利の勝利が不可避であると判断し、降伏を決断。そればかりか、積極的に毛利方に寝返った 17 。これは大内氏にとって致命的な打撃であった。
防府への道が開かれた元就は、直ちに本陣を防府の松崎天満宮へと進め、大内氏の首都・山口への最終攻撃の態勢を整えた 10 。
第二節:西の京、放棄さる―義長の長門逃避行
右田隆量の寝返りは、大内氏の運命を決定づけた。彼は毛利軍に山口の内部事情に関する重要な情報を提供し、さらには毛利軍の先鋒として氷上山の砦を攻略するなど、山口攻略の先駆けとなった 10 。これにより、首都・山口は完全に無防備な状態に晒された。
大内義長と重臣の内藤隆世は、山口を見下ろす高嶺城に籠城し、最後の抵抗を試みるつもりであった。しかし、毛利軍の予想を上回る進軍速度と防衛線の崩壊により、その計画は実行不可能となる 6 。
弘治3年(1557年)3月15日、義長と隆世は、もはや防衛は不可能と悟り、大内文化の粋を集めた「西の京」山口を放棄し、西の長門国へ向けて逃走を開始した。彼らが目指したのは、内藤隆世の居城であり、天然の要害として知られる且山(勝山)城であった 10 。この報を受けた元就は、ただちに福原貞俊に5,000の兵を与え、山口を占領するとともに、逃亡した義長の追討を命じた 10 。
第四章:名門大内氏の終焉(弘治三年四月)
最終章では、日本有数の名門武家であった大内氏が、悲劇的かつ屈辱的な最期を迎えるまでを描写する。
第一節:且山城の攻防と非情なる謀略
且山城は、険しい断崖に囲まれた山城であり、優れた防御拠点であった 22 。数で劣る大内方の残存兵力は、この城に立て籠もって激しく抵抗し、福原貞俊が率いる毛利軍の包囲戦は難航した 1 。
兵と時間を消耗する強攻策を嫌った元就は、再び彼が得意とする心理戦に訴えた。彼は籠城する且山城に対し、巧妙に練られた降伏勧告を送った。その内容は、「内藤隆世は、かつて陶晴賢と組んで主君・義隆公を弑した謀反人であるゆえ、許すことはできぬ。しかし、大内義長殿は大友家から迎えられた傀儡の主に過ぎない。城を開け渡すならば、義長殿の命は助け、豊後へ無事送り届けよう」というものであった 1 。
この提案は、元就の冷徹な計算が光る謀略の傑作であった。彼は城内の二人の中心人物、すなわち忠臣である内藤隆世と、彼が守るべき主君である大内義長を特定し、両者の間に論理的だが偽りの区別を設けた。隆世を旧主君に対する「謀反人」と断じ、義長を罪のない「客将」と位置づけることで、一方を処断し、もう一方を助命するという筋書きに説得力を持たせたのである。この勧告は、隆世を逃れられないジレンマに陥れた。拒否すれば、主君を含む全員が死ぬ。受け入れれば、自らの命と引き換えに主君を救うことができる。主君への忠節を第一とする武士である隆世にとって、その選択は、いかに苦痛であろうとも明らかであった。元就は、隆世自身の武士としての倫理観を逆手に取り、血を流さずに城を陥落させようとしたのである。
第二節:長福寺の悲劇―大内義長の最期
弘治3年(1557年)4月2日、主君の命が助かることを信じた内藤隆世は、勧告を受け入れ自刃。且山城は門を開いた 1 。
しかし、元就の約束は偽りであった。城から出てきた大内義長は、豊後への道ではなく、近くの長福寺(現在の功山寺)へと移された。そして間もなく、毛利軍が寺を完全に包囲し、その裏切りが明らかとなった 21 。
弘治3年4月3日、完全に罠にはまり、全ての希望を絶たれた大内義長は、自害を強いられた。享年26。彼と共に、陶晴賢の遺児である鶴寿丸も命を落とし、ここに西国に君臨した名門大内氏は、その歴史の幕を閉じた 10 。義長は、辞世の句を遺している。
「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」 10
(誘われて(死へと)赴くからといって、何を恨むことがあろうか。その時が来れば、嵐のせいだけでなく、花は自ら散る運命なのだから)
終章:防長経略がもたらしたもの
防長経略の成功により、毛利氏は安芸の一有力国人から、周防・長門二国を領する西中国地方の紛れもない覇者へと変貌を遂げた。広大な領土と経済力を手に入れた毛利氏は、この後、出雲の尼子氏や豊後の大友氏と中国地方の覇権を巡り、激しい戦いを繰り広げることになる。
戦後の統治において、元就は現実的な政策を採った。主要な抵抗勢力は徹底的に排除された一方で、右田隆量や内藤隆世の叔父である内藤隆春など、降伏した旧大内家臣の多くは毛利家臣団に組み込まれ、比較的安定した支配体制の移行が図られた 10 。
この防長経略が毛利家にもたらした最も重要な遺産の一つは、元就の有名な「三子教訓状」が書かれた文脈である。この教訓状が記されたのは、弘治3年(1557年)11月25日、元就が戦後処理のために富田の勝栄寺に陣を敷いていた、まさにその最中であった 10 。これは、後世に語られるような平時の逸話ではなく、戦争という crucible(るつぼ)の中で鍛え上げられた、緊急の政治的遺言であった。須々万沼城の苦戦などを通じて息子たちの能力と限界を目の当たりにした元就は、自らが一代で築き上げたこの広大な領国が、自身の死後に後継者争いで分裂することを何よりも恐れていた。戦国時代、急拡大した大名家が内紛で滅びる例は枚挙にいとまがない。それゆえ、この教訓状は、尼子氏との来るべき決戦など、未来の試練を乗り越えるためには一族の結束が不可欠であるという、戦場の生々しい記憶に裏打ちされた、切実な命令だったのである 1 。
しかし、この勝利は完全なものではなかった。防長経略の混乱に乗じて、宿敵・尼子氏が石見銀山を奪取しており、毛利氏がこれを奪回するには長い年月を要することになる 10 。また、大内氏の血統も完全には途絶えておらず、後年、大内義隆の従弟にあたる大内輝弘が、大友氏の支援を受けて山口に侵攻し、一時的に毛利の支配を脅かす事件(大内輝弘の乱)も発生する 10 。防長経略は毛利の覇権を確立したが、それは同時に、新たな、そしてより大きな戦いの時代の幕開けでもあった。
引用文献
- 「防長経略(1555-57年)」毛利元就、かつての主君・大内を滅ぼす | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/77
- 厳島の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11092/
- さらば!! 西国一の大名・大内氏「最後の当主」大内義長 - ふくの国 山口 https://happiness-yamaguchi.pref.yamaguchi.lg.jp/kiralink/202303/yamaguchigaku/index.html
- 「毛利元就」三本の矢のエピソードで有名な中国地方の覇者! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/582
- 防芸引分 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E8%8A%B8%E5%BC%95%E5%88%86
- 【毛利元就解説】第二十六話・防長経略後編、大内家滅亡【豪族達と往く毛利元就の軌跡】 https://www.youtube.com/watch?v=_gE6GWGzsWU
- 防長経略とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E9%98%B2%E9%95%B7%E7%B5%8C%E7%95%A5
- 毛利元就26「防長進撃①」 - 備後 歴史 雑学 - FC2 http://rekisizatugaku.web.fc2.com/page105.html
- 【防長への進出】 - ADEAC https://adeac.jp/kudamatsu-city/text-list/d100010/ht020470
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- SamuraiWorld_歴史再発見_鉄砲と毛利元就 - FC2 https://samuraiworld.web.fc2.com/rediscover_21.htm
- 山崎興盛 毛利元就に初めて鉄砲を使わせた男!その命を惜しまれるも自害を選ぶ - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=d5CH_Dkw28w
- 須々万沼城(山口県周南市須々万本郷字要害) - 西国の山城 http://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2012/11/blog-post_18.html
- 須々万沼城の戦い - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/SusumanumaJou.html
- 須々万沼城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/2441
- 右田ヶ岳城(山口県防府市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/7883
- 右田ヶ岳城とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%8F%B3%E7%94%B0%E3%83%B6%E5%B2%B3%E5%9F%8E
- 【合戦解説】防長経略[後編] - 勝山籠城戦 - 〜須々万の沼城を落とした毛利軍は遂に大内の本拠山口へ攻め上る - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=sCNvBd2Ti4Y
- 右田氏 分家陶のほうが有名に・毛利家に仕え今も続く - 周防山口館 https://suoyamaguchi-palace.com/migita-family/
- 長門國 大内義長墓所 - FC2 https://oshiromeguri.web.fc2.com/nagato-kuni/yoshinagabosyo/yoshinagabosyo.html
- 且山城 - - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-878.html
- 勝山城 (長門国) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E5%B1%B1%E5%9F%8E_(%E9%95%B7%E9%96%80%E5%9B%BD)
- 大内義長 大友家の人・子孫は東広島で名家に - 周防山口館 https://suoyamaguchi-palace.com/otomo-harufusa/
- 大内義長 - 能登畠山氏七尾の歴史 https://nanao.sakura.ne.jp/retuden/ouchi_yoshinaga.html
- 大内義長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E7%BE%A9%E9%95%B7
- 中国地方の覇者 毛利元就。あの“三本の矢”の真実とは?! - ふくの国 山口 https://happiness-yamaguchi.pref.yamaguchi.lg.jp/kiralink/202108/yamaguchigaku/index.html