最終更新日 2025-09-07

隈本(熊本)城の戦い(1587)

天正15年、肥後国主佐々成政の性急な検地が国衆一揆を招く。隈本城は包囲されるも、立花宗茂の救援で落城を免れた。結果、成政は切腹、秀吉は肥後を完全に掌握した。

天正肥後之乱詳報:隈本城攻防戦と国衆一揆の時系列全史

序章:天下統一の奔流、肥後の大地へ

天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州平定は、戦国乱世の終焉を告げる画期的な出来事であった。同年5月、九州の雄・島津氏が降伏し、名実ともにおよそ百年にわたる戦乱の時代は、天下人秀吉の下での統一という新たな秩序へと収斂されようとしていた 1 。しかし、天下統一という巨大な奔流は、肥後国(現在の熊本県)の地において、凄惨な血の代償を求めることになる。後に「肥後国衆一揆」と呼ばれるこの反乱、そしてその中核をなす「隈本城の戦い」は、単なる地方の反乱に留まらず、中世的な在地領主制が、近世的な中央集権体制へと移行する際の、最も激しい陣痛を象徴する事件であった。

豊臣秀吉による九州平定と「国割り」

九州平定を成し遂げた秀吉は、戦後処理として「国割り」を断行し、九州の新たな支配体制を構築した。その中で、球磨郡を除く肥後一国は、佐々成政に与えられることとなった 3 。成政は織田信長の旧臣であり、その武勇と行政手腕は高く評価されていた。一度は秀吉に敵対し、居城である富山城を10万の大軍に包囲されるという屈辱を味わったものの 1 、九州平定戦での功績が認められての抜擢であった 6 。これは、秀吉が成政の能力を高く評価し、九州統治の要となる肥後を任せるという、大きな期待の表れでもあった。

肥後国の特殊性:独立自尊の国衆

しかし、成政が統治することになった肥後国は、極めて特殊な政治的土壌を持っていた。この地には、一国を支配するほどの強力な戦国大名は存在せず、「国衆」と呼ばれる52家もの在地領主が、それぞれ独立した勢力として割拠していたのである 4 。彼らは、北の大友氏や南の島津氏といった大勢力に状況に応じて従属しつつも、その実、強い独立性を維持し続けてきた。彼らにとって、土地(本領)とは単なる経済基盤ではなく、先祖代々の血と汗によって守り抜かれてきた、一族郎党の誇りと生活の全てであった。その支配権は神聖にして不可侵であるという、中世的な価値観が色濃く根付いていたのである 4

主要関係者の紹介

この歴史的悲劇の主要な登場人物は、以下の通りである。

  • 佐々成政: 織田信長の下で数々の武功を挙げた歴戦の武将。実直かつ剛直な性格で知られ、主君信長への忠義は篤かった 8 。一度は秀吉に敵対するも、その能力を買われ肥後国主に抜擢される。しかし、その統治手法が、肥後の大地に嵐を呼ぶことになる。
  • 隈部親永: 肥後北部の有力国衆。かつて肥後を支配した菊池氏の旧臣としての誇りを持ち、山鹿・菊池地方に広大な影響力を有していた 9 。九州平定の際、秀吉から直接「本領安堵」の朱印状を得ており、これを自らの領地支配権を絶対的に保証するものと信じていた 14

分類

人物名

役職・立場

佐々成政方

佐々成政

肥後国主

神保氏張

隈本城代、成政の譜代家臣

佐々成能

成政の甥

国衆一揆方

隈部親永

肥後国衆筆頭、一揆の中心人物

隈部親泰

親永の子、城村城主

和仁親実・親範・親宗

田中城主三兄弟

甲斐親英

旧阿蘇氏家臣、隈本城包囲軍の主将

豊臣鎮圧軍

立花宗茂

筑後柳川城主、第二次救援軍大将

安国寺恵瓊

毛利家外交僧、第一次救援軍・交渉役

小早川秀包

鎮圧軍総大将

黒田官兵衛

豊臣家軍師

加藤清正・小西行長

豊臣家子飼いの武将

この対立の背景には、秀吉の巧妙かつ冷徹な政治戦略が隠されていた可能性が指摘されている。秀吉は、独立性の高い肥後国衆の存在を熟知しており、彼らを懐柔するために、まず「本領安堵」という甘言を記した朱印状を与えた 14 。その一方で、肥後には剛直で融通の利かない性格で知られる成政を送り込み、国衆が最も反発するであろう検地を断行させる。秀吉自身は成政に対し、「3年間は検地をするな」と命じていたとされるが 5 、これは後の責任追及のための布石であったとも考えられる。案の定、国衆は反発し一揆が勃発すると、秀吉はそれを「成政の失政」のせいであると喧伝し 16 、国衆を「天下への反逆者」として徹底的に弾圧する大義名分を得た 14 。結果として、統治の障害となる国衆は一掃され、その責任を負わされた成政も切腹。秀吉は自らの手を汚すことなく肥後を更地に変え、腹心である加藤清正と小西行長を新たな領主として送り込むことに成功した。この一連の流れを鑑みれば、「隈本城の戦い」は佐々成政個人の失敗というミクロな事象であると同時に、秀吉の天下統一戦略の一環として、ある程度意図された紛争であったというマクロな視点が不可欠となる。

第一章:軋轢―新領主と在地勢力

天正15年(1587年)6月、佐々成政は肥後に入国し、隈本城を居城と定めた 4 。彼の胸中には、新領主としてこの地を治め、天下人秀吉の期待に応えんとする強い決意があったに違いない。しかし、その実直さが、肥後の国衆との間に埋めがたい溝を生むことになる。

成政の入国と検地の強行

成政は、秀吉から「3年間は検地をしないこと」と厳命されていたにもかかわらず、入国直後から検地の強行に着手した 5 。これは、肥後の正確な石高を把握し、豊臣政権の支配体制を早急に確立しようとする、成政の忠誠心と行政官としての使命感の表れであった。加賀一向一揆の鎮圧などで実績を上げた彼にとって、在地勢力に配慮するよりも、中央の政策を迅速に実行することこそが正義であったのかもしれない 17 。しかし、この性急な政策は、国衆のプライドを著しく傷つけ、結果的に自らの首を絞めることになった 18

朱印状を巡る解釈の相違

対立の根源には、秀吉が発行した「朱印状」を巡る、両者の根本的な解釈の違いがあった。隈部親永をはじめとする国衆たちは、秀吉から直接与えられた「本領安堵」の朱印状を、自分たちの先祖代々の領地支配権を完全に、そして永久に保証するものだと解釈していた 14 。彼らにとって「本領」とは、経済基盤であると同時に、一族の歴史と祭祀、そして家臣団との主従関係が根付いた精神的な共同体そのものであった。

一方、成政、ひいては豊臣政権にとっての「安堵」とは、あくまで天下人たる秀吉の支配下において、知行(給与地)を再配分することを意味していた。そして検地(特に、領主が自己申告する差出検地)は、その再配分を決定するための、前提となる不可欠な行政手続きだったのである 21 。検地によって土地の所有権が秀吉に帰し、自分たちはその「代官」に過ぎなくなるという事態は、中世以来の独立を誇りとしてきた国衆の自尊心が、到底受け入れられるものではなかった 7 。この事件は、単なる政策への不満ではなく、「土地と支配」に対する中世と近世の価値観が、肥後の地で激しく衝突した瞬間であった。

決裂の瞬間

成政は隈本城に国衆たちを呼び集め、検地の実施を正式に通告した 14 。これに対し、国衆の筆頭格であった隈部親永は、懐から秀吉の朱印状を取り出し、これを盾に検地を真っ向から拒否した。両者の交渉は完全に決裂。親永は怒りに顔を紅潮させ、席を蹴って居城へと引き返した 14 。これは、もはや言葉による解決の道が閉ざされたことを意味し、事実上の一揆の宣戦布告となったのである。

第二章:蜂起―肥後国衆一揆の勃発

隈部親永の決然たる態度は、肥後各地に潜んでいた不満の火種に、一斉に油を注ぐ結果となった。一人の国衆の反抗は、瞬く間に肥後全土を巻き込む大規模な反乱へと燃え広がっていく。

天正15年7月:隈部父子の挙兵

交渉決裂後、隈部親永と息子の親泰は、検地を武力で拒否すべく、居城である隈府城(わいふじょう、後の菊池城)に籠城し、明確に反旗を翻した 15 。隈府城に立て籠もった兵力は、弓や鉄砲の扱いに優れた精兵500から600人を含む、およそ1,500人であったと伝えられている 22 。これは、単なる示威行動ではなく、新領主・佐々成政との全面対決を覚悟した、決死の挙兵であった。

成政の迅速な対応と隈府城の陥落

国衆の反乱に対し、成政の対応は迅速かつ断固たるものであった。彼は直ちに7,000人(一説には3,000余騎)の軍勢を率いて隈本城を出陣し、反乱の根拠地である隈府城へと進軍した 15 。同年8月6日から7日にかけて、成政軍は隈府城に総攻撃をかける。数に勝る成政軍の猛攻の前に、隈府城は陥落した。しかし、老練な隈部親永は、城が落ちる寸前に一族郎党158騎を率いて城を脱出 23 。息子の親泰が守る、より堅固な山城である城村城(じょうむらじょう)へと逃れ、抵抗を続ける姿勢を見せた 15

城村城の攻防と戦線の膠着

成政は、反乱の首謀者である親永を討ち取るべく、続けて城村城を包囲した。しかし、城村城は天然の要害に築かれた堅城であり、攻略は困難を極めた 15 。さらに、城内には隈部氏の武士800人余りに加え、成政の統治に不満を持つ百姓や町人、僧侶までもが合流し、その数は総勢1万5,000人から1万8,000人という、一大勢力に膨れ上がっていた 3 。成政軍は、この予想をはるかに超える抵抗の前に、城村城を攻めあぐね、戦線は膠着状態に陥った。

一揆の拡大:肥後北部の国衆の呼応

隈部氏が、新領主である佐々成政の大軍を相手に一歩も引かぬ戦いを続けているという報は、瞬く間に肥後全土を駆け巡った。これを好機と見た各地の国衆が、隈部氏に呼応して一斉に蜂起する。田中城の和仁(わに)氏、辺春(へばる)氏、内空閑(うちこが)氏、そして旧阿蘇氏の家臣団であった甲斐親英といった国衆たちが次々と立ち上がり、一揆は肥後北部を中心に燎原の火のごとく拡大していった 17 。佐々成政は、もはや隈部氏一党との戦いではなく、肥後国衆全体を敵に回すという、絶望的な状況に追い込まれたのである。

第三章:刻一刻―隈本城攻防戦

佐々成政が城村城に釘付けにされている間に、戦況は誰もが予想しなかった方向へと展開する。一揆勢は、成政の軍事的な隙を突き、その本拠地である隈本城を直接攻撃するという大胆な作戦に打って出た。これにより、戦いの焦点は一気に隈本城へと移り、肥後国衆一揆は最大のクライマックスを迎える。

時期

出来事

天正15年(1587年)7月上旬

隈部親永、検地を拒否し隈府城に籠城。一揆が勃発。

8月6日~7日

佐々成政軍、隈府城を攻略。隈部親子は城村城へ退却。

8月中旬~

成政軍、主力を率いて城村城を包囲。戦線が膠着。

8月下旬~9月上旬(推定)

甲斐親英ら国衆連合軍、手薄となった隈本城を電撃的に包囲。籠城戦が開始される。

9月

隈本城の危機を知った成政、城村城から苦難の撤退を開始。第一次救援軍(安国寺・鍋島)、南関で一揆勢に敗退。

9月下旬(推定)

第二次救援軍(立花宗茂・高橋直次)、柳川を出陣。

9月末~10月初旬(推定)

立花勢、大津山城など7城を攻略しつつ進撃。一揆勢の包囲を破り、隈本城を解放。

10月以降

豊臣本隊による本格的な鎮圧軍が続々と肥後へ投入される。

12月26日

城村城、安国寺恵瓊の説得により開城。隈部親永は降伏。

天正16年(1588年)1月

田中城、豊臣軍の総攻撃により落城。一揆が完全に鎮圧される。

戦略的背景:成政の誤算と一揆勢の好機

成政の最大の誤算は、隈部氏という一点に戦力を集中しすぎたことであった。彼は反乱の首謀者である隈部親永を叩けば、一揆は自然と終息すると考えていた。そのため、主力のほとんどを城村城の包囲に投入し、本拠地である隈本城の守りを手薄にしてしまったのである 22 。一揆勢はこの戦略的な好機を見逃さなかった。旧阿蘇氏家臣の甲斐親英を中心に連合軍を組織すると、彼らは成政軍の背後を突き、隈本城を電撃的に包囲した 22 。これにより、攻める側であったはずの成政は、自らの本拠地が脅かされるという守勢に立たされ、戦況は一気に逆転した。

隈本城籠城戦:城代・神保氏張の死守

この時、一揆勢に包囲された隈本城は、後の加藤清正による大改築が施される以前の、いわゆる「古城」と呼ばれる城郭であった。しかし、その防御力は決して侮れるものではなかった。九州平定の際にこの地を訪れた豊臣秀吉自身が、「熊本名城に候間、居城として御普請仰せ付けられ候」と書状に記すほど、当時から堅城として知られていたのである 25 。さらに、成政は入城後の一年足らずの間に、三層の天守や櫓を設けるなど、織豊系城郭としての改修を進めていた可能性も指摘されている 25

この名城の留守を預かっていたのは、成政が最も信頼を置く譜代の家臣であり、歴戦の武将として知られる神保氏張であった 25 。富山から駆け付けた佐々家の一族郎党や、わずかな手勢と共に城に籠もった氏張は、数万ともいわれる一揆勢の猛攻を、寡兵ながらも巧みな采配で耐え抜いた 27 。もしこの時、神保氏張の奮戦なくして隈本城が早期に陥落していれば、佐々成政の軍は完全に孤立し、肥後の地で全滅していた可能性が高い。氏張の死守は、この戦い全体の帰趨を決する、極めて重要な意味を持っていた。

成政の苦難の撤退戦

本拠地・隈本城が包囲されたという衝撃的な報せは、城村城で対峙していた成政の元にもたらされた。彼は直ちに城村城の包囲を解き、本拠地を救うべく急遽転進を開始する 3 。しかし、この撤退は困難を極めた。成政軍が動いたことを知った一揆勢は、ここぞとばかりに追撃を仕掛けてきたのである。この苦難に満ちた撤退戦の最中、成政は甥の佐々成能をはじめとする多くの有能な家臣を失い、軍は甚大な損害を被った 22

二度の救援作戦:失敗と成功

絶体絶命の窮地に陥った成政は、秀吉に援軍を要請する。これを受け、二度の救援作戦が試みられた。

第一次救援の失敗: 最初に派遣されたのは、毛利家の外交僧である安国寺恵瓊と、肥前国の龍造寺家家老・鍋島直茂が率いる兵糧輸送部隊であった。しかし、彼らは肥後北部の南関(なんかん)付近で、地の利を活かした一揆勢の巧みな待ち伏せ攻撃に遭い、兵糧を届けることなく敗走。この第一次救援作戦は、無残な失敗に終わった 17

第二次救援「鎮西一の剛勇、動く」: 第一次救援の失敗により、成政の運命は風前の灯火となった。この絶望的な状況を打開すべく、白羽の矢が立てられたのが、筑後柳川城主・立花宗茂とその弟・高橋直次であった 17 。後に秀吉から「その忠義、鎮西一。その剛勇、鎮西一」と絶賛されることになる若き将の、伝説の始まりである 30

宗茂の戦術家としての非凡さは、その作戦立案の時点から発揮されていた。彼は、安国寺・鍋島軍が待ち伏せによって敗れたという情報を徹底的に分析し、同じ轍を踏むことを避けた。敵の伏兵がいることを前提とした上で、それを打ち破りながら強行突破するという、極めて大胆な作戦を立案したのである。柳川を出陣した立花軍は、まず南関の大津山城を攻略。その後も、一日に実に13度もの戦闘を行い、7つの城を次々と攻略するという、神がかり的な進撃を見せた 22 。この連続的な城砦攻略は、一揆勢に再編の時間を与えず、彼らの防衛線をズタズタに引き裂く電撃戦であった。この獅子奮迅の働きにより、隈本城を包囲していた一揆勢の連携は完全に断ち切られ、包囲網は瓦解。立花勢はついに隈本城に兵糧を届け、佐々成政軍の救出に成功したのである 22 。この救援作戦の成功は、単なる武勇伝ではなく、高度な情報分析、戦術立案、そしてそれを寸分の狂いなく実行する部隊の練度の高さがもたらした、戦国末期の組織戦の勝利であった。

第四章:天下人の怒り―豊臣鎮圧軍の投入

立花宗茂の活躍により佐々成政は辛くも窮地を脱したが、肥後国衆一揆そのものは未だ鎮圧されていなかった。そして、この肥後での反乱が、豊前や筑後といった九州各地の国衆の動揺を誘っているという報告は、大坂の豊臣秀吉を激怒させるに十分であった 16

秀吉の決断:「国が荒れ果てて、ことごとく成敗せよ」

秀吉にとって、九州は将来の唐入り(朝鮮出兵)を見据えた最重要の兵站基地であった 27 。その九州の安定が、一地方の国衆によって揺るがされることは、彼の天下統一構想にとって断じて許容できるものではなかった。事態を極めて深刻に受け止めた秀吉は、反乱の根を完全に断ち切るべく、非情な決断を下す。「国が荒れ果てても、ことごとく成敗せよ」と、九州・四国の大名たちに檄を飛ばし、一揆勢の徹底的な殲滅を命じたのである 14

鎮圧軍の編成と展開

秀吉の厳命一下、肥後には未曾有の大軍が投入されることとなった。毛利輝元の弟である小早川秀包を総大将に、軍師・黒田官兵衛、そして加藤清正、小西行長、浅野長政、福島正則といった豊臣子飼いの猛将たちが続々と肥後入りした 3 。驚くべきことに、つい先日まで秀吉と敵対していた島津氏までもが、この鎮圧軍に加わることを命じられている。これは、豊臣政権の圧倒的な権威と軍事力を、九州全土に見せつけるための示威行動でもあった。

田中城・城村城の攻防

豊臣の大軍の前に、各地の国衆は次々と降伏・討伐されていった。一揆勢の最後の拠点となったのが、和仁一族が籠る田中城と、首謀者・隈部親永が籠る城村城であった 14

特に田中城では、和仁勘解由親実ら三兄弟が中心となり、わずか1,000余りの兵で1万を超える豊臣軍を相手に、約40日間にもわたって籠城し、壮絶な抵抗を見せた 33 。彼らの戦いは、天下人・秀吉を相手に一歩も引かぬ肥後武士の意地を示すものであった 24 。しかし、圧倒的な兵力差と執拗な兵糧攻めの前に、衆寡敵せず、天正16年(1588年)1月、田中城はついに落城。和仁一族はことごとく討ち死にし、その歴史に幕を閉じた 14

一方、城村城に籠る隈部親永に対しては、安国寺恵瓊による降伏勧告が粘り強く続けられた。全ての望みが絶たれたことを悟った親永は、天正15年12月26日、ついに城を開け渡し降伏。ここに、半年間にわたって肥後の大地を揺るがした大一揆は、完全に鎮圧されたのである 14

第五章:落日―戦後の処理とそれぞれの結末

戦乱の嵐が過ぎ去った後、肥後の地には勝者と敗者の残酷な運命が待っていた。この戦いは、肥後の社会構造を根底から覆し、関わった者たちの人生を大きく変えることになる。

隈部一族の最期:「放し討ち」

降伏した隈部親永とその一党12名は、彼らを救出した立花宗茂に身柄を預けられ、筑後柳川城にて蟄居の身となった 12 。天正16年(1588年)5月27日、秀吉から親永らに対する処刑命令が下される。しかし、宗茂は、最後まで武士としての誇りを失わなかった隈部一族の態度に深く感銘を受けていた。彼は、単なる斬首という無慈悲な処刑を良しとせず、武士の名誉を最大限に重んじた、世にも稀な処刑方法を執行した。それが「放し討ち」である 12

これは、柳川城の黒門前の広場において、処刑される隈部方12名と、執行する立花方12名が、それぞれ刀を持って一対一で真剣勝負を行うという、決闘形式の処刑であった 34 。高齢であった親永は、立花家中の剛勇・十時伝右衛門に討ち取られたが、他の一族郎党は肥後武士の意地を見せ、壮絶な斬り合いを演じたと伝えられる。この宗茂の処置は、敗者への敬意を示すものであり、彼の器量の大きさを物語る逸話として後世に語り継がれた。

佐々成政の切腹:統治失敗の代償

一揆鎮圧後、佐々成政は事の顛末を報告し、弁明するために大坂へと上った。しかし、秀吉は成政との謁見を一切許さず、彼を摂津国尼崎の法園寺に幽閉した 36 。そして、天正16年閏5月14日、肥後統治に失敗し、大規模な反乱を招いた責任の全てを問われ、切腹を命じられた 8 。享年53。

「このごろの厄妄想を入れ置きし 鉄鉢袋今破るなり」

(これまで様々な厄介事や妄想を溜め込んできた鉄の鉢のような我が身も、今ここで破れ、全てから解放されるのだ)

という辞世の句を残し、波乱に満ちたその生涯を閉じた 36

肥後の再編:中世の終焉と近世の黎明

成政の死後、肥後国は二つに分割された。隈本城を中心とする北半国19万5,000石は加藤清正に、宇土城を中心とする南半国およそ20万石は小西行長に与えられた 17 。彼らはいずれも秀吉子飼いの武将であり、豊臣政権の意向を忠実に実行する能力を持っていた。

清正と行長は、肥後に入ると直ちに徹底した検地を断行し、一揆で生き残った国衆勢力をも完全に解体した。これにより、肥後における中世的な国衆による分権的支配は完全に終わりを告げ、大名による一元的な支配体制、すなわち近世的な大名領国制が確立されたのである 14 。血で血を洗う争いの末に、肥後は新たな時代を迎えることになった。

終章:歴史的意義と後世への影響

天正15年の「隈本城の戦い」とそれに続く肥後国衆一揆は、戦国時代の終焉を象徴する、極めて重要な歴史的事件であった。その影響は肥後一国に留まらず、豊臣政権の全国統治策、ひいては日本の社会構造そのものにまで及んだ。

豊臣政権への影響:刀狩令と兵農分離の加速

武士階級である国衆と、土地に根差した農民が一体となって、新領主ひいては豊臣政権に大規模な抵抗を示したこの一揆の経験は、秀吉に大きな衝撃を与えた 28 。彼は、農民が武器を手にすることが、天下の安定を揺るがす最大の脅威であると再認識した。この事件が大きな契機の一つとなり、一揆鎮圧直後の天正16年7月、秀吉は全国に向けて「刀狩令」を発布する。これにより、農民から刀や鉄砲といった武器を没収し、武士と農民の身分を明確に分離する「兵農分離」政策が、全国規模で強力に推進されることになった 28 。これは、中世的な武装農民の時代を終わらせ、近世的な身分制社会の基礎を築く、決定的な一歩であった。

佐々成政の悲劇:時代の転換期に生きた武将

佐々成政の悲劇は、単なる彼個人の能力不足や判断ミスに帰するべきではない。むしろ、彼の生き様そのものが、時代の大きな転換を象徴していた。織田信長の下で重用された彼の、実力主義的で剛直な気質は、政治的な謀略や柔軟な交渉術を駆使する豊臣秀吉の時代には、もはや通用しなくなっていたのである 6 。彼は、旧時代の価値観を持ったまま新しい時代の奔流に飲み込まれてしまった、過渡期の武将であったと言えるだろう。

熊本の新たな夜明け

一揆という大きな痛みを経て、肥後の地は加藤清正という稀代の築城家であり、優れた領国経営者を迎えることになった。彼が、佐々成政の居城であった隈本城を基礎として行った未曾有の大改築は、やがて日本三名城の一つと謳われる難攻不落の「熊本城」として結実する 40 。この名城の築城と、それに伴う城下町の整備は、その後の熊本の発展の礎となった。

かくして、「隈本城の戦い」は、肥後における中世の終わりを告げる弔鐘であると同時に、近世熊本の輝かしい歴史の始まりを告げる、夜明けの号砲となったのである。

引用文献

  1. 【熊本城を巡る歴史旅】実は豊臣秀吉の親戚!?加藤清正と熊本城の関係 - HISTRIP(ヒストリップ) https://www.histrip.jp/20181025-kumamoto-1/
  2. 肥後国衆一揆で豊臣秀吉の九州統一の功労者 佐々成政を切腹に追い込んだ - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/21193/
  3. 1587年 – 89年 九州征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1587/
  4. 佐々成政と隈本城 - FC2 http://nagatasports.web.fc2.com/narimasa.html
  5. 加 藤 清 正 実 像 - 熊本市 https://www.city.kumamoto.jp/kiji0032846/Bun_89199_21_0044e_09_201201.pdf
  6. 二度敵対した秀吉からも「期待」された佐々成政 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/36248
  7. 2017「隈部親永一族・鞠智城を訪ねて」資料・千寿の楽しい歴史 https://kusennjyu.exblog.jp/23774303/
  8. 富山の怪談・佐々成政にまつわる早百合伝説の真実とは?惨殺された美女の怨念? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/98188/
  9. 肥後国衆一揆 - ふるさと山鹿の歴史 https://furusato-yamaga.jp/detail/14/
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  13. 県内最大級の武士像が完成しました(隈部親永公像) - 山鹿市 https://www.city.yamaga.kumamoto.jp/kiji003149/index.html
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  42. 熊本城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/western-japan-castle/kumamoto-castle/
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  44. 築城名人・加藤清正の城の400年【史上最強の熊本城の歴史 波乱と栄華と復活 】 https://www.rekishijin.com/17769
  45. 鉄壁の縄張りを誇る築城名手の居城【熊本城】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/17803