雑賀・根来攻め(1585)
天正13年、秀吉は紀州征伐で雑賀・根来衆を攻めた。鉄砲独立勢力は、秀吉の圧倒的兵力、水攻め、内紛で壊滅。中世的自治共同体は終焉し、近世的支配へ。
「Perplexity」で合戦の概要や画像を参照
天正十三年 紀州征伐の全貌 – 鉄砲集団 雑賀・根来、落日の刻 –
序章:天下人の前に立ちはだかる者たち
天正13年(1585年)、羽柴秀吉が紀伊国へと差し向けた10万と号する大軍は、単なる一地方の制圧を目的としたものではなかった。それは、織田信長の後継者として天下統一事業を推し進める秀吉が、自らの築き上げようとする新たな支配体制、すなわち天下人を頂点とする中央集権国家の理念に真っ向から対立する旧来の勢力へ突きつけた、最後通牒であった。その象徴こそ、紀伊国に深く根を張る二つの武装集団、雑賀衆と根来衆である 1 。
彼らは、戦国大名のような特定の主君に仕える家臣団ではない。雑賀衆は、紀ノ川河口域に盤踞する地侍や国人たちが、地縁に基づいて相互に協力し運営する「惣」と呼ばれる共同体であった 2 。彼らは漁業や海運、さらには海外貿易にも乗り出し、独自の経済基盤を確立していた 3 。一方の根来衆は、広大な寺領と荘園を背景に持つ真言宗の大寺院、根来寺の「行人」と呼ばれる僧兵集団である 2 。彼らは宗教的権威と経済力、そして高度な軍事力を背景に、紀伊国内に留まらず、国境を越えて和泉国南部にまで影響力を及ぼす広域な自治圏を形成していた 4 。
この二つの勢力が戦国乱世において比類なき存在感を示した最大の要因は、当代最新鋭の兵器であった鉄砲の導入と、その革新的な運用にあった。伝承によれば、種子島に鉄砲が伝来して間もなく、根来寺の津田監物算長がかの地へ渡り、その製法を紀州へ持ち帰ったとされる 3 。門前の鍛冶師、芝辻清右衛門に命じて作らせたのが、本州における鉄砲国産化の嚆矢であったという 5 。こうして根来衆は鉄砲の量産化に成功し、「津田流砲術」を編み出して精強な鉄砲隊を組織した 7 。雑賀衆もまた、その海運力を活かして鉄砲や火薬の原料を潤沢に入手し、優れた射手を数多く養成。石山合戦では本願寺方の中核として織田信長の大軍を幾度となく退け、その名を天下に轟かせた 2 。
両者は地理的にも近く、人的・経済的な交流も盛んであり、戦国期を通じて緊密な連携関係にあった 2 。彼らの強さの本質は、単に鉄砲の火力に依存するものではなかった。それは、大名の領国経営とは異なる、貿易や傭兵稼業といった独自の経済活動に支えられた「経済的自立性」と、地縁や宗派を通じて国境を越え、和泉、摂津、さらには四国の長宗我部氏とも連携しうる広範な「ネットワーク」にあった。この存在様式そのものが、検地と石高制を基盤とする厳格な支配体制を全国に敷こうとする秀吉にとって、看過しがたい脅威だったのである。秀吉の支配システムの外部に存在する、コントロール不能な独立勢力。彼らを放置することは、自らの天下に巨大な穴が空いていることを認めるに等しかった。したがって、秀吉にとって紀州征伐とは、彼らの軍事力を粉砕するだけでなく、その自治と独立の精神、そしてそれを支える社会構造そのものを根こそぎ解体する、不可避の戦いであったのだ。
第一章:開戦前夜 – 小牧・長久手から紀州へ
紀州征伐の直接的な引き金は、その前年、天正12年(1584年)に勃発した小牧・長久手の戦いであった。織田信長の次男・信雄と徳川家康が同盟を結び、秀吉と対峙したこの一大決戦において、雑賀・根来衆は明確に反秀吉陣営の一翼を担った 10 。
彼らは家康からの呼びかけに応じ、秀吉の本拠地である大坂城の背後を脅かすべく、和泉国へと大挙して侵攻した。根来・雑賀衆に粉河寺衆徒、さらには日高郡の湯河氏らも加わった紀州連合軍は、淡路の水軍とも連携し、水陸両面から和泉南部の諸城に襲いかかった 1 。特に秀吉方の最前線拠点であった岸和田城に対しては、数千の兵で幾度となく猛攻を仕掛け、大坂に激震を走らせた 1 。この執拗な後方攪乱は、秀吉軍の兵力を紀州方面に引き付ける効果を生み、家康にとっては戦線を有利に進めるための重要な「アシスト」となったのである 11 。
秀吉と信雄・家康との戦いが膠着状態に陥り、やがて和議が成立すると、秀吉はついに紀州勢力の殲滅へと舵を切る。これは、秀吉の天下統一事業における極めて合理的な戦略的判断であった。家康という最大の敵との直接対決をひとまず回避した秀吉は、まずその同盟者たちを各個撃破し、包囲網を切り崩す戦略を選択した。その中で、大坂の喉元に突きつけられた刃であり、最も直接的な脅威であった紀州勢力は、真っ先に排除すべき対象だったのである。
この征伐は、単なる小牧・長久手の戦いにおける「戦後処理」に留まらなかった。10万という圧倒的な大軍を動員し、抵抗する者を徹底的に叩きのめすという秀吉の姿勢は、家康や四国の長宗我部元親、九州の島津氏といった、いまだ服属せぬ全国の諸大名に対する強烈な示威行為、すなわち「見せしめ」としての意味合いを色濃く帯びていた。「一度でも秀吉に弓引いた者は、たとえ家康のような大物と手を組んでいようとも、必ずや苛烈な報復を受ける」という恐怖を天下に知らしめること。それこそが、この大遠征に込められた、軍事目的を超えた政治的な狙いであった。紀州征伐は、小牧・長久手の戦いの延長戦であると同時に、秀吉が自らの絶対的な権威を天下に確立するための、新たな戦いの始まりでもあったのだ。
第二章:両軍の編成 – 十万の巨軍と精強なる地侍
天正13年3月、紀州へ向けて動き出した羽柴軍と、それを迎え撃つ紀州連合軍の兵力には、絶望的ともいえるほどの差が存在した。秀吉が動員した軍勢は、まさに天下人のそれにふさわしい、質・量ともに当代随一のものであった。
羽柴征伐軍の陣容 – 総大将から先鋒部隊まで
総大将はもちろん羽柴秀吉自身であるが、彼は大坂城から岸和田城へと本陣を移し、そこから全軍を統括した。実際の攻略部隊の総指揮は、甥の羽柴秀次(後の豊臣秀次)が執った。その麾下には、秀吉子飼いの武将から旧織田家の宿老、そして新たに服属した大名まで、多士済々な顔ぶれが揃えられていた 14 。
先陣は中村一氏が務め、その兵力は約3,500。二番備には、後に秀長の与力として紀州支配に関わることになる筒井定次が5,000余を率い、その中には猛将として知られる島左近の名も見られた。三番備は堀秀政が10,000余、さらに高山右近が10,000、桑山重晴が5,000、細川藤孝が2,000余と続く 14 。これら先鋒部隊だけでも総勢35,000を超える大軍団であった。
これに秀吉の弟である羽柴秀長が率いる本隊が加わり、総兵力は60,000とも、号する所100,000とも言われた 3 。さらに、水軍の将として小西行長が任じられ、多数の軍船を揃えて紀伊水道を制圧。海陸両面から紀州を包囲殲滅する、まさに水も漏らさぬ作戦が展開されたのである 1 。
迎え撃つ紀州連合軍 – 和泉国境の防衛線と兵力配置
これに対し、紀州連合軍は、秀吉軍の主力が紀州街道を南下してくることを見越し、国境である和泉国南部に防衛線を張った。彼らは、千石堀城、積善寺城、沢城、畠中城といった既存の城砦を改修・強化し、そこに兵力を集中配置して迎撃する態勢を整えた 1 。
これらの泉南諸城に配置された兵力は、合計で9,000余であったと記録されている 1 。千石堀城は根来衆が築いた最前線の拠点であり 15 、沢城には紀州の勇将として知られた的場源四郎が入るなど 14 、防衛線の各拠点には歴戦の将兵が配置された。
紀州本国では、根来寺に津田監物や杉坊照算といった指導者たちが控え 6 、雑賀衆は太田左近が事実上の総帥として軍を率いた 3 。雑賀衆の象徴的存在である鈴木孫市(重秀)もこの戦いに参加していたとされるが、具体的な動向については太田左近ほど明確な記録は残っていない 17 。
彼らが前線に配置し得た兵力は10,000に満たず、羽柴軍の先鋒部隊と比較しても3分の1以下、全軍と比べれば10分の1にも満たない兵力であった。この圧倒的な戦力差は、紀州勢力にとって、戦いの当初から極めて厳しい籠城戦を強いられることを運命づけていた。
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陣営 |
軍団・拠点 |
主要指揮官 |
兵力(推定) |
主な役割 |
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羽柴征伐軍 |
総大将 |
羽柴秀吉 |
- |
全軍の総指揮 |
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先鋒軍(秀次軍団) |
羽柴秀次 |
約40,000 |
和泉国境の城砦群攻略 |
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中村一氏、筒井定次、堀秀政、高山右近、桑山重晴、細川藤孝 |
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本隊 |
羽柴秀長 |
- |
後続部隊、根来寺・雑賀攻略の中核 |
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水軍 |
小西行長 |
- |
海上封鎖、太田城水攻め支援 |
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紀州連合軍 |
和泉防衛線 |
的場源四郎 ほか |
約9,000 |
泉南諸城(千石堀、積善寺、沢など)での迎撃 |
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根来寺本隊 |
津田監物、杉坊照算 |
- |
紀州本国の防衛 |
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雑賀衆本隊 |
太田左近、鈴木孫市(重秀) |
- |
紀州本国の防衛、太田城籠城戦の中核 |
第三章:合戦の経過 – リアルタイム・クロニクル
天正13年3月下旬、春まだ浅い紀泉の地に、戦国の終わりを告げる嵐が吹き荒れた。秀吉の紀州征伐は、和泉国境での激しい前哨戦を皮切りに、根来寺の炎上、そして太田城の壮絶な水攻めへと、息つく間もなく展開していく。
第一節:天正13年3月20日~22日 和泉国境の攻防
3月20日 、羽柴秀次率いる数万の先鋒軍団が大坂を発し、紀州への玄関口である和泉国貝塚に到着した 1 。翌
3月21日 、総大将・秀吉も大坂城を出陣。本陣を岸和田城に据え、全軍の指揮を執る 1 。同日、秀次軍は紀州勢が布陣する泉南の城砦群へと接近する。しかし、時刻はすでに昼を過ぎており、諸将の間で即日攻撃を開始するか、翌日に延期するかで軍議が開かれた 1 。
最終的に秀吉軍は即時攻撃を決断。その最初の目標となったのが、根来衆が築いた最前線拠点、千石堀城であった。近木川を見下ろす丘陵に築かれたこの城は、頂部の主郭を二重の巨大な横堀で囲んだ堅城であり、紀州勢の抵抗の意志を象徴する存在だった 15 。
攻防戦は凄惨を極めた。秀吉軍は圧倒的な兵力をもって力攻めを敢行。城兵は地の利と鉄砲を活かして激しく抵抗し、寄せ手に多大な損害を与えた。しかし、波状攻撃の前に城の防御は次第に崩壊。ルイス・フロイスの記録によれば、秀吉軍は甚大な犠牲を払いながらもついに城を攻め落とし、城内にいた者は一人残らず殲滅されたという 15 。この徹底的な殲滅戦は、後続の城砦に対する強烈な威嚇となった。
千石堀城の悲報は、たちまち周辺の城砦に伝播し、紀州兵の士気を大きく揺るがした。この機を逃さず、羽柴秀長は巧みな調略を開始する。力押し一辺倒ではなく、降伏を促す使者を送り、城兵の心理を揺さぶったのである。
沢城では、紀州の勇将・的場源四郎が奮戦し、容易に城を明け渡さなかった 14 。しかし、千石堀城の陥落により完全に孤立。兵も次第に討ち減らされ、防戦が不可能と悟った源四郎は、残った手勢を率いて重囲を突破し、本国紀州へと落ち延びていった 14 。主将を失った沢城は、
3月22日 、羽柴秀長の「扱い」(調停)により、城兵の助命を条件に開城した 1 。積善寺城もまた、秀長の交渉に応じて開城。こうして、紀州勢が頼みとした和泉国境の防衛線は、わずか二日にして瓦解した。秀吉軍は、抵抗する者には殲滅という恐怖を、降伏する者には寛容を、という硬軟両様の戦術を巧みに使い分け、紀州本国への道を切り開いたのである。
第二節:天正13年3月23日~24日 根来寺炎上
和泉の防衛線を突破した秀吉は、 3月23日 、岸和田城を発し、満を持して根来寺へと本陣を進めた 1 。紀州勢の主力部隊はすでに泉南の戦いで壊滅、あるいは敗走しており、一大宗教都市であった根来寺には、もはや戦闘に耐えうる者はほとんど残されていなかった 1 。残っていた僧侶の多くは、秀吉軍接近の報に接し、蜘蛛の子を散らすように逃亡した。
しかし、その中にあって最後まで抵抗の意志を捨てなかった者たちがいた。根来衆を率いてきた津田監物である。『根来焼討太田責細記』によれば、彼はわずか500の精鋭鉄砲衆を率い、圧倒的な大軍を前に敢然と立ち塞がったという 14 。雑賀の猛将・太田左近も一時的に羽柴秀長勢の進軍を押しとどめる奮戦を見せたが、衆寡敵せず、やがて本拠である太田城へと退却していった 14 。
その夜、根来寺からもうもうと黒煙が立ち上り、夜空を赤く染め上げた 4 。これが秀吉軍による放火であったのか、あるいは追い詰められた僧侶たちによる自焼であったのか、記録によって見解は分かれている。いずれにせよ、2700もの堂塔が立ち並んだとされた壮大な伽藍は、この夜を境に灰燼へと帰す運命にあった。
翌 3月24日 、秀吉軍は寺内へと乱入。津田監物らは最後の最後まで抵抗を続け、壮絶な白兵戦が繰り広げられた。そしてついに、津田監物は秀吉の家臣・増田長盛の手によって討ち取られた 14 。根来寺子院の院主であり、織田信長とも渡り合った杉坊照算も、この戦いで討死したと伝えられている 16 。
指導者を失った根来衆は完全に崩壊。国宝の大塔や南大門など、いくつかの建造物は奇跡的に戦火を免れたものの、寺院の大部分は焼け落ちた 14 。戦国時代をその鉄砲技術で駆け抜けた一大武装宗教勢力は、この炎と共に滅び去ったのである。現在も大塔の白壁には、この時の激しい銃撃戦を物語る弾痕が生々しく残されている 6 。
第三節:天正13年3月25日~4月21日 太田城水攻め
根来寺が炎上する一方、雑賀衆の内部では深刻な内紛が起きていた。年寄衆の一人であった岡吉正が突如として秀吉方に寝返り、抗戦派の同僚を銃撃し始めたのである。これにより雑賀軍は大混乱に陥り、「雑賀も内輪散々になって自滅」と記録されるほどの有り様となった 2 。
この混乱の中、抗戦派の指導者であった太田左近は、残存兵力や抵抗を続ける地侍、さらには多くの農民たちを率いて、自身の居城である太田城へと籠城した 3 。周囲を水田と湿地に囲まれたこの平城が、紀州勢最後の砦となった。
3月25日 (28日説もある)、太田城の包囲を完了した秀吉は、力攻めによる無用な損害を避け、自らの最も得意とする戦術「水攻め」の敢行を決定した 21 。これは、備中高松城、武蔵忍城と並び、後世「日本三大水攻め」と称される壮大な土木工事の始まりであった 20 。
計画は迅速に進められた。立案からわずか3日、工事に7日、計10日間という驚異的なスピードで、城の周囲に長大な堤防が築かれていった 23 。その規模は、総延長約7km、高さは平均4~6m、基底部の幅は30mにも及んだという 24 。秀吉は、配下の大名たちに工区を割り当てて築堤の速さを競わせ、一番早く完成させた者には褒賞を与えるという手法で、工事を加速させた 23 。この短期間での大規模工事が可能だった背景には、動員した10万の兵士をそのまま土木作業員に転用できたこと、そして石田三成らに代表される、高度な算術と土木技術を持つテクノクラート集団が秀吉の配下にいたことが挙げられる 23 。
堤防が完成すると、付近を流れる紀ノ川の水が引き込まれた。太田城は瞬く間に周囲の平野ごと水没し、湖上に浮かぶ孤島と化した。秀吉は、既存の治水堤(横堤)を巧みに利用し、まず城の東側を水没させ、その後、水を越水させて西側も満たすという、計算され尽くした二段階のプロセスで浸水を進めたとされる 23 。
籠城側は当初、夜陰に乗じて堤防を破壊しようと試みるなど、必死の抵抗を続けた 26 。しかし、城は完全に孤立し、外部からの補給は断たれた。一ヶ月にも及ぶ籠城生活で、城内の兵糧や弾薬は次第に底をつき、兵士や農民たちの士気は日に日に低下していった 26 。
そして 4月21日 、秀吉は戦いに終止符を打つべく、総攻撃を命じる。小西行長率いる水軍が、堤防内にできた巨大な湖に安宅船を乗り入れ、城に向かって大砲を撃ちかけた 1 。船上からの攻撃に、籠城側はなすすべもなかった。この攻撃により、城域の大半は秀吉軍の手に落ち、太田城の陥落はもはや時間の問題となった。
第四節:天正13年4月22日~24日 終焉
万策尽きた太田城内では、降伏を巡る最後の評定が開かれた。城兵や領民の命を救うこと、それが指導者たちの最後の務めであった。 4月22日 、城から秀吉の本陣へ使者が送られ、降伏の条件が提示された。それは、太田左近をはじめとする指導者53名が自刃することと引き換えに、城内にいる全ての者たちの命を助ける、というものであった 20 。
秀吉はこの条件を受け入れた。そして 4月24日 、太田左近宗正をはじめとする53名は、城兵たちの行く末を見届けた後、静かに自らの命を絶った 25 。彼らの首は秀吉のもとへ届けられ、首実検が行われた後、丁重に葬られたという。現在、和歌山市内には彼らの霊を慰める「小山塚」が残され、地域の人々によって手厚く供養されている 25 。
城は開城され、武器を持たない農民たちはそれぞれの村へと帰された。こうして、天正13年3月から約一ヶ月にわたって繰り広げられた秀吉の紀州征伐は、その幕を閉じた。それは、戦国時代を席巻した鉄砲傭兵集団の、あまりにも呆気ない落日であった。
第四章:戦後処理 – 新たな支配体制の構築
太田城の開城をもって、紀州の武力的抵抗は完全に終息した。しかし、秀吉の真の目的は、単なる軍事的な制圧に留まらなかった。彼はこの戦後処理において、紀州の社会構造そのものを根底から作り変える、画期的な政策を次々と断行していく。それは、来るべき豊臣政権による全国支配のモデルケースとなる、壮大な社会改造の始まりであった。
「刀狩令」の原型 – 紀州における武装解除
太田城の降伏条件として、秀吉は城内の者たちに対し、弓矢、槍、鉄砲、刀といった一切の武器を放棄することを命じた。そして、「鋤や鍬など農具を持ち、耕作に専念せよ」という布告を出した 29 。これは、単に一揆の武装解除という戦後処理に留まるものではなかった。天正16年(1588年)に全国規模で発布される有名な「刀狩令」の、まさに原型となる政策であった 21 。
この政策の狙いは、武器を持つ「侍」と、農具を持つ「百姓」の身分を明確に分離し、固定化することにあった。雑賀衆のように、普段は田畑を耕し、戦となれば鉄砲を手に戦場へ赴く「兵農未分離」の存在そのものを、社会から根絶しようとしたのである。これにより、百姓一揆の潜在的な力を削ぎ、支配体制を安定させることを目指した。紀州は、この全国的な兵農分離政策の、最初の実験場となったのである 21 。
和歌山城の築城 – 紀州支配の楔
次に秀吉は、紀州支配の新たな拠点として、太田城の目と鼻の先にある虎伏山(岡山)に、大規模な城郭の建設を命じた 31 。普請奉行には、後に築城の名人として天下に名を馳せることになる藤堂高虎が任命された 33 。高虎にとって、これが最初の本格的な近世城郭の築城であったと言われている 35 。
秀吉自らが縄張りを行い、「若山」と名付けられたこの城は、単なる軍事拠点ではなかった。それは、かつて雑賀衆や根来衆が体現した分散的・自律的な権力構造を否定し、豊臣政権という唯一絶対の権力がこの地を支配することを、誰の目にも明らかな形で示す巨大なモニュメントであった。交通の要衝に築かれたこの城は、紀州の政治・経済の中心として機能し、旧来の勢力を監視し、反乱の芽を摘む「楔」としての役割を担うことになった 31 。
羽柴秀長と桑山重晴による統治体制の確立
紀州の平定後、秀吉はこの地を弟の羽柴秀長に与えた。秀長は紀伊・和泉に加え、後に大和などを加増され、最終的には110万石を領する大大名となった 32 。これにより、紀州は豊臣政権の最も重要な直轄領の一つとして位置づけられた。
秀長自身は大和郡山城を本拠としたため、和歌山城には城代として、秀長の重臣であった桑山重晴が置かれた 31 。重晴は賤ヶ岳の合戦などで功を挙げた歴戦の武将であり、秀長の信頼も厚かった 40 。彼が城代として入城し、実際の統治にあたることによって、地侍たちの合議によって運営されていた旧来の支配体制は完全に解体され、豊臣家臣による中央直轄の支配が徹底された。
刀狩による民衆の武装解除、和歌山城築城による権力中心の再定義、そして秀長・桑山による新たな統治体制の確立。これら一連の政策は、中世的な「惣」の共同体を解体し、近世的な支配単位である「村」へと人々を再編成していく、計画的かつ暴力的なプロセスであった。紀州征伐は、戦国乱世の論理を破壊し、新たな時代の秩序を創造するための、壮大な序曲だったのである。
終章:紀州征伐が歴史に残したもの
天正13年の紀州征伐は、日本の歴史における一つの大きな転換点を象徴する出来事であった。それは、単に一地方の武装勢力が天下人に屈服したという戦いの記録に留まらず、「中世」という時代の終焉と、「近世」という新たな時代の幕開けを告げる画期的な事件として、後世に多大な影響を及ぼした。
この戦いによって、雑賀衆・根来衆という、戦国時代において特異な輝きを放った存在は、歴史の表舞台から姿を消した。鉄砲という最新技術をいち早く導入し、時に大名を凌駕するほどの軍事力で乱世を渡り歩いた彼らの「自治」は、秀吉の圧倒的な武力の前に終焉を迎えたのである 3 。彼らが体現していた、地縁や宗教といった紐帯で結ばれた中世的な共同体は、天下統一という巨大な奔流の前に、その存在意義を失った 1 。それは、「戦国の論理」が「天下の論理」に敗北した瞬間であったと言えるだろう。「戦国の論理」とは、力が正義であり、誰もが下剋上を目指し、様々な勢力が合従連衡を繰り返す流動的な世界である。対して「天下の論理」とは、唯一絶対の権力者が秩序を定め、その下で全ての者が身分に応じた役割を果たす静的な世界である。雑賀・根来衆は前者の体現者であり、秀吉は後者の構築者であった。彼らの滅亡は、日本の社会が大きくその構造を変え始めたことを示す、象徴的な出来事だった。
また、紀州征伐の戦後処理で実施された諸政策、特に「刀狩」と新たな城の築城は、その後の豊臣政権による全国支配の基本方針を決定づけた。紀州で試みられた兵農分離は、やがて全国へと広げられ、江戸時代を通じて続く武士と百姓という厳格な身分制度の基礎を築いた。和歌山城の築城は、地方の土豪が持つ無数の山城を破却し、支配の拠点となる近世城郭を各地に建設していくという、豊臣政権の城郭政策の先駆けとなった。
この戦いの勝利は、秀吉の権威を絶対的なものとして天下に知らしめた。小牧・長久手の戦いで家康と和議を結んだことで揺らぎかけたその権威は、紀州での圧倒的な勝利と巧みな戦後処理によって、より強固なものとなった。この成功が、秀吉に後の四国征伐、九州平定、そして小田原征伐へと続く天下統一事業を完遂させる自信と勢いを与えたことは間違いない。
ユーザーが当初抱いていた「鉄砲集団を制圧」という認識は、この巨大な歴史的転換の一側面に過ぎない。雑賀・根来攻めとは、中世的な自治共同体が、近世的な中央集権国家へと変貌を遂げる過程で起きた、避けられない衝突であった。その炎の中から、新たな時代の秩序が生まれ、日本の歴史は次なるステージへと歩みを進めていったのである。
引用文献
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- 雑賀衆 と 雑賀孫市 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/saiga.htm
- 織田信長に勝利した戦国一の地侍集団・雑賀衆とは? 紀州の民の力 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/18645
- 「根来寺を解く」の本から見た「秀吉の紀州攻め」をAIに文句いいつつも納得。 - note https://note.com/ideal_raven2341/n/nff3be30fba2e
- 根来寺の歴史 - 岩出市 https://www.city.iwade.lg.jp/kanko/negoroji/rekishi.html
- 日本本土に初めて鉄砲をもたらした砲術家・津田監物算長(岩出市、和歌山市) https://oishikogennofumotokara.hatenablog.com/entry/2023/03/11/000000
- 鉄砲伝来と戦いの変化/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/113823/
- まちかど探訪 : 信長も恐れた雑賀の人々 ~本願寺鷺森別院と雑賀衆 その1 https://shiekiggp.com/topics/%E3%81%BE%E3%81%A1%E3%81%8B%E3%81%A9%E6%8E%A2%E8%A8%AA-%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%82%82%E6%81%90%E3%82%8C%E3%81%9F%E9%9B%91%E8%B3%80%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%80%85%EF%BD%9E%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA/
- 根来と雑賀~その① 時に敵、時に味方 その奇妙な関係性 - 根来戦記の世界 https://negorosenki.hatenablog.com/entry/2022/11/21/110252
- 小牧・長久手の戦い - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11063/
- 根来と雑賀~その⑧ 紀泉連合軍の大阪侵攻 岸和田合戦と小牧の役 https://negorosenki.hatenablog.com/entry/2022/12/16/050650
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