青山・土居の戦い(1584)
天正十二年、小牧・長久手の激戦。家康は秀吉の三河中入りを看破し、長久手にて精鋭を撃破。その武勇は天下に響き、徳川の礎を築く一戦となる。
天正十二年長久手の戦い:羽柴・徳川、雌雄を決した一日の軌跡
序章:決戦前夜 ― 小牧の膠着と奇策「三河中入り」
利用者様の問いへの応答と本報告書の主題設定
天正12年(1584年)の「青山・土居の戦い」について、詳細な調査依頼を賜り、ここに報告申し上げる。史料を精査した結果、ご指定の合戦は、天正12年の小牧・長久手の戦いの文脈においては、その名称での記録が確認されなかった。一方で、永禄12年(1569年)に播磨国で赤松政秀と黒田孝高(官兵衛)が争った「青山・土器山(かわらけやま)の戦い」という著名な合戦が存在する 1 。このことから、ご下問の合戦は、この播磨での戦いとの混同、あるいは長久手周辺での一連の戦闘を指す何らかの伝承である可能性が考えられる。
以上の経緯を踏まえ、利用者様の真のご関心が、天正12年(1584年)4月9日に尾張国長久手一帯で繰り広げられた、羽柴秀吉軍と徳川家康軍の激戦の経過にあると拝察した。したがって、本報告書では、小牧・長久手の戦いにおける天王山とも言うべき**「長久手の戦い」**、すなわち4月9日の一日に発生した複数の局地戦(岩崎城の戦い、白山林の戦い、桧ケ根の戦い、仏ケ根での本戦)を主題とし、ご要望である「合戦中のリアルタイムな状態が時系列でわかる形」で、その全貌を徹底的に解明する。
背景:天下の行方を占う対峙
天正10年(1582年)の本能寺の変により織田信長が斃れると、その広大な版図と権力を巡る後継者争いが熾烈を極めた。山崎の戦いで明智光秀を、翌年の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破った羽柴秀吉は、信長の後継者として急速に台頭した 2 。しかし、その強引な権力掌握に対し、信長の次男・織田信雄は強い危機感を抱き、信長の盟友であった東海の大名・徳川家康に救援を求めた 4 。家康にとってこれは、主君の遺児を奉じて秀吉の専横を討つという大義名分を得ると同時に、自らの勢力を伸張させる絶好の機会であった 4 。
天正12年(1584年)3月、両陣営は尾張国で対峙する。家康は、かつて信長が美濃攻略の拠点とした小牧山城に入り、榊原康政らに命じて大規模な改修を施した。山全体に土塁や空堀を縦横に巡らせ、堅固な野戦陣地を構築する 8 。これに対し、大軍を率いて大坂から東進した秀吉は、犬山城に近い楽田に本陣を構え、小牧山を包囲するように二重堀砦などの砦群を築いた 2 。両軍は互いに防御を固め、小競り合いは散発するものの、戦況は決定的な局面を迎えることなく膠着状態に陥った 7 。
奇策の胎動:「三河中入り作戦」の発案
この動かぬ戦況を打破すべく、秀吉陣営で大胆な作戦が持ち上がる。織田家宿老の池田恒興が進言した「三河中入り作戦」である 11 。その狙いは、家康が主力を率いて小牧山に出陣している隙を突き、手薄となっている本拠地・三河国岡崎城を別働隊で奇襲することにあった。本拠地を脅かされれば、いかに家康とて小牧山の陣地を維持できず、救援のために野戦に応じざるを得ない。そこを秀吉本隊と別働隊で挟撃し、殲滅するというのが作戦の骨子であった 4 。
秀吉はこの奇策を承認し、甥の羽柴(三好)秀次を総大将に任命。作戦の発案者である池田恒興、勇猛で知られる森長可、戦巧者の堀秀政といった歴戦の将を配し、総勢約2万にも及ぶ大部隊を編成した 11 。
部隊 |
指揮官 |
兵力(推定) |
役割 |
第一隊 |
池田恒興・元助・輝政 |
約6,000 |
作戦主導・主力 |
第二隊 |
森長可 |
約3,000 |
先鋒・突撃 |
第三隊 |
堀秀政 |
約3,000 |
遊撃・兵站 |
第四隊 |
羽柴(三好)秀次 |
約8,000 |
総大将・後詰 |
総計 |
|
約20,000 |
|
出典: 8 に基づき作成
徳川方の情報戦:奇策、既に露見す
天正12年4月6日夜、三河中入り別働隊は犬山を出陣した。しかし、この作戦は成功の鍵を「奇襲」という一点に依存していたが、その前提は出発の時点ですでに崩壊していた。約2万という大軍が夜陰に乗じて長距離を行軍する様は、到底隠し通せるものではなかったのである。兵站の動き、炊き出しの煙、進軍に伴う物音など、隠蔽不可能な要素が多すぎた。加えて、家康は地元の地理に明るいだけでなく、伊賀衆をはじめとする優れた諜報網を領内に張り巡らせていた 8 。地域住民からの情報も相まって、別働隊の動きはほぼリアルタイムで家康の耳に達していたのである 8 。池田恒興の大胆な発想は、敵の諜報能力を著しく過小評価しており、この戦略的視点の欠如こそが、作戦が内包していた致命的な欠陥であった。
第一部:天正十二年四月九日 ― 長久手決戦のリアルタイム再現
ここに、天正12年4月9日の一日の戦闘経過を時系列で示す。複数の場所で同時多発的に展開された戦局の連鎖を、手に取るように理解するための一助とされたい。
時刻(推定) |
場所 |
羽柴軍の動き |
徳川軍の動き |
戦況・特記事項 |
午前4時頃 |
岩崎城 |
池田・森隊、城下を通過しようとする |
城代・丹羽氏重隊(約300)が城外へ出撃、奇襲 |
岩崎城の戦い 開始。戦端が開かれる |
午前5時頃 |
白山林 |
殿軍の羽柴秀次隊(約8,000)、休息・朝食中 |
榊原・大須賀らの別働隊(約4,500)が背後・側面から奇襲 |
白山林の戦い 開始。秀次隊、大混乱に陥り潰走 |
午前7時頃 |
岩崎城 |
池田・森隊、岩崎城を攻略。城代・丹羽氏重討死 |
守備隊、約3時間の抵抗の末に玉砕 |
岩崎城落城。しかし、池田・森隊の進軍を大幅に遅延させる |
午前7時頃 |
桧ケ根 |
堀秀政隊(約3,000)、秀次隊の敗報を受け反転、迎撃態勢を敷く |
白山林で勝利した榊原・大須賀隊が追撃してくる |
桧ケ根の戦い 開始。 |
午前8時頃 |
桧ケ根 |
堀秀政隊、鉄砲隊を駆使し徳川別働隊を撃退 |
榊原・大須賀隊、手痛い反撃を受け敗走 |
徳川別働隊が敗北。この日唯一の羽柴方の戦術的勝利 |
午前9時頃 |
色金山→御旗山 |
堀隊、家康本隊の出現を見て戦線を離脱 |
家康本隊(約9,300)、戦場全体を俯瞰後、御旗山へ前進 |
家康、堀隊と池田・森隊の分断に成功 |
午前10時頃 |
仏ケ根 |
池田・森隊(約9,000)、孤立状態で徳川本隊と対峙 |
家康本隊、御旗山・前山より攻撃開始 |
長久手本戦 開始。主力同士の激突 |
正午頃 |
仏ケ根 |
森長可、奮戦するも鉄砲で狙撃され討死 |
井伊直政の赤備え隊などが猛攻 |
戦況は徳川方優勢に傾く |
午後1時頃 |
仏ケ根 |
池田恒興・元助父子も相次いで討死 |
永井直勝、安藤直次らが大将首を挙げる |
羽柴方指揮官が壊滅し、部隊は総崩れ |
午後2時頃 |
仏ケ根 |
池田・森隊、残存兵が敗走 |
家康、追撃を禁じ、全軍に小幡城への撤退を命令 |
長久手の戦い、徳川軍の完勝で終結 |
午後2時以降 |
龍泉寺 |
秀吉本隊(約30,000)、敗報を受け急行 |
家康本隊、迅速に戦場を離脱 |
秀吉、戦場到着時にはすでに家康軍の姿はなかった |
午前4時頃:戦端を開く狼煙 ― 岩崎城の壮絶な攻防
三河への進軍路の途上、池田・森隊は徳川方の支城である岩崎城(現・日進市)に差し掛かった 9 。この城を守るのは、城主・丹羽氏次の弟で、弱冠16歳の城代・丹羽氏重。手勢はわずか300余名に過ぎなかった 15 。氏重は、圧倒的な大軍を前にして籠城を選ばず、討って出るという果断な決断を下す。午前4時、夜陰に乗じて城下を通過しようとする池田隊の側面に、城兵を率いて猛然と襲いかかった 12 。
当初、この小勢を無視して進軍を続けようとした池田恒興であったが、予想外の激しい抵抗に作戦を妨害され、激怒。本格的な城攻めへと方針を転換し、重臣の伊木忠次、片桐俊忠らに大手門と搦手門の攻撃を命じた 15 。氏重は城外で三度にわたり攻城隊を撃退する奮戦を見せるが、兵力の差は覆いがたい。やがて森長可の部隊も加勢し、午前7時頃、岩崎城はついに落城。丹羽氏重以下、城兵のほとんどが討死を遂げた 15 。
この岩崎城の戦いは、戦術的には丹羽氏重の敗北と玉砕に終わった。しかし、その戦略的価値は計り知れない。氏重らの約3時間にわたる壮絶な抵抗は、単なる犬死ではなかった。池田・森隊の進軍を予定外に遅滞させ、兵を疲弊させたこの「失われた3時間」こそ、後方の徳川軍追撃部隊が羽柴秀次隊に追いつき、家康本隊が戦場に到着して優位な布陣を敷くための、決定的な時間的余裕を生み出したのである 9 。後に家康が「此度の戦功第一は、岩崎にて池田を足止めした丹羽氏重である」と最大級の賛辞を贈った 12 とされる逸話は、この戦術的敗北が徳川軍全体の勝利にいかに貢献したかを物語っている。氏重の死は、まさに戦略的勝利のための尊い犠牲であった。
午前5時頃:奇襲と崩壊 ― 白山林の戦い
岩崎城で激戦が繰り広げられている頃、三河中入り別働隊の殿軍を務める羽柴秀次隊(約8,000)は、白山林(現・尾張旭市)で何の警戒もなく朝食を摂り、休息していた 6 。この油断しきった大部隊の背後と側面に、夜を徹して追撃してきた徳川軍別働隊(榊原康政、大須賀康高、水野忠重、丹羽氏次ら約4,500)が音もなく忍び寄り、一斉に襲いかかった 8 。
完全に不意を突かれた秀次隊は、組織的な抵抗もできぬまま大混乱に陥り、瞬く間に潰走した。総大将である17歳の秀次は、狼狽のあまり自身の馬さえ見失う有様で、後見役の木下勘解由利匡(かげゆとしただ)が差し出した馬に乗って辛うじて戦場を離脱した 6 。利匡とその兄・祐久らは、主君の退路を確保すべく奮戦し、この地で討死した 6 。この白山林の戦いは、わずか1時間ほどで徳川軍の完璧な奇襲成功に終わった 20 。
午前7時頃:名将の逆襲 ― 桧ケ根の戦い
秀次隊の前方を進んでいた堀秀政隊(約3,000)は、後方から聞こえる銃声と、逃げ込んでくる敗残兵から秀次隊の壊滅を察知した 23 。秀吉麾下で「名人久太郎」と称された当代屈指の戦巧者である堀秀政は、この危機的状況に全く動じなかった。即座に軍を反転させると、敗走兵を巧みに収容しつつ、香流川を天然の堀に見立てた桧ケ根(現・長久手市)の丘陵地に陣を敷き、追撃してくる徳川軍を待ち構えるという完璧な迎撃態勢を瞬時に構築した 8 。
白山林での圧勝に驕り、勝利の勢いに乗って無秩序に追撃してきた榊原康政・大須賀康高の部隊は、この秀政の周到な罠にまんまと嵌る。丘の上からの一斉射撃と、統制の取れた部隊による突撃を受け、逆に散々に打ち破られてしまった 14 。榊原康政は岩作方面へ、大須賀康高は猪子石方面へと敗走を余儀なくされ、徳川軍はこの一戦で数百名の死者を出す手痛い敗北を喫した 8 。この桧ケ根の戦いは、この日一日における羽柴方の唯一にして、指揮官の卓越した能力が光る見事な戦術的勝利であった 25 。
このわずか2時間のうちに起きた徳川別働隊の運命の暗転は、対峙した羽柴方指揮官の質の差を劇的に示している。経験未熟な若年の秀次が率いた部隊は奇襲の前に烏合の衆と化したが、歴戦の名将・堀秀政は危機的状況下でこそ、その真価を発揮した。これは、兵力や士気だけでなく、一人の指揮官の戦術眼がいかに戦況を支配するかを示す好例と言える。
午前9時~10時:家康、動く ― 色金山から御旗山への神算鬼謀
徳川家康率いる本隊(約9,300)は、小幡城を出立後、大きく東へ迂回して戦場全体を見渡せる色金山(現・長久手市)に着陣していた 8 。家康は山頂にあったとされる「床机石」に腰掛け、軍議を開く。そこへ、白山林での味方の勝報と、桧ケ根での敗報が立て続けにもたらされた 13 。
この錯綜した情報の中、家康は驚くべき決断を下す。敗走した榊原隊の救援には向かわず、さらに前方の御旗山(富士ケ根)へと本陣を前進させたのである 13 。この動きの狙いはただ一つ、桧ケ根で勝利した堀秀政隊と、岩崎城から引き返してくる池田・森隊との合流を物理的に阻止し、敵の主力を分断することにあった 8 。
桧ケ根で勝利し、追撃の最中にあった堀秀政は、突如として自軍の背後にあたる御旗山に、家康本隊の馬印である金扇が翻るのを視認する。これにより、自軍が敵の主力によって完全に孤立させられたことを瞬時に悟った。秀政は池田隊からの救援要請を断念し、全軍を北方の楽田方面へ整然と撤退させるという、冷静かつ的確な判断を下した 13 。
午前10時~午後2時:雌雄を決す ― 仏ケ根の主戦場
堀秀政が戦線を離脱したことで、岩崎城から引き返してきた池田恒興・森長可隊(計約9,000)は、完全に孤立無援となった。彼らは仏ケ根(ほとけがね)周辺に布陣し、眼前にそびえる御旗山・前山に陣取る徳川本隊と対峙せざるを得なくなった 24 。
午前10時頃、ついに主力同士の決戦の火蓋が切られた。徳川軍は高地からの地の利を最大限に活かし、井伊直政が率いる精鋭「赤備え」隊(約3,000)が先鋒として猛然と突撃した 2 。「鬼武蔵」の異名を持つ猛将・森長可は、凄まじい勢いで奮戦し、一時は家康本陣に迫るほどの働きを見せたが、井伊隊の鉄砲隊(一説には水野勝成の配下)が放った一弾がその眉間を正確に撃ち抜き、27歳の若さで壮絶な討死を遂げた 8 。
さらに乱戦の中、総大将の池田恒興は永井直勝に、その長男・元助は安藤直次にそれぞれ討ち取られた 8 。指揮官を次々と失った羽柴方は統制を失い、総崩れとなる。午後2時頃には戦闘は完全に終結し、長久手の戦いは徳川軍の完璧な勝利に終わった 29 。
第二部:決戦の残響
午後2時以降:勝者の迅速な撤退と敗者の追撃
長久手で敵主力を殲滅するという圧倒的な勝利を収めたにもかかわらず、家康は追撃を厳に禁じ、即座に全軍を小幡城へ撤退させるという命令を下した 4 。この判断は、楽田に控える羽柴秀吉本隊の来援を警戒した、極めて冷静かつ的確なものであった。戦術的勝利の頂点にありながら、その勢いに乗って深追いするという誘惑を断ち切ったこの自制心こそ、家康が単なる戦上手ではなく、大局を見据える戦略家であったことを証明している。彼の目的は秀吉の奇策を打ち砕くことであり、それは既に達成されていた。これ以上の戦闘は、兵力で劣る自軍を不必要な危険に晒すだけである。勝利の果実を確保し、速やかに安全な陣地へ帰還するという、この迅速な撤退は、攻撃と同じくらい見事な用兵であった。
一方、楽田の秀吉は昼過ぎに敗報に接し、自ら3万ともいわれる大軍を率いて戦場近くの龍泉寺(現・名古屋市守山区)まで急行した 8 。しかし、彼が到着した時には、家康軍はすでに小幡城へ引き揚げた後であった。この時、徳川四天王の一人・本多忠勝がわずか500の手勢で秀吉の大軍の前に立ちはだかり、巧みな遅滞戦術でその進軍を妨害したという逸話も残されている 8 。
戦闘結果の総括と分析
この4月9日の一日の戦闘における両軍の損害は、羽柴軍の死者約2,500名に対し、織田・徳川軍の死者は約590名と記録されており、羽柴方の大敗であったことは明らかである 8 。
兵士の数以上に秀吉にとって痛手だったのは、池田恒興・元助父子、そして森長可という、織田家時代からの宿老・重臣を一度の戦闘で失ったことであった。彼らは秀吉政権の軍事的中核を担うべき人材であり、その喪失は政権の基盤を揺るがしかねないほどの大きな損失であった 4 。
徳川方の勝因は、優れた情報収集能力、地の利を活かした家康の卓越した戦場指揮、そして配下の武将たちの奮戦にあった。対照的に、羽柴方の敗因は、作戦立案における慢心と情報管理の甘さ、総大将・秀次の未熟さ、そして部隊間の連携不足に求めることができる。
結論:長久手の一日が変えた天下の行方
戦術的勝利と戦略的敗北の二面性
「長久手の戦い」という局地戦において、徳川家康は戦術的に完璧な勝利を収めた。数に劣る兵力で、秀吉が満を持して送り込んだ精鋭別働隊を、まさに粉砕したのである 7 。
しかし、「小牧・長久手の戦い」という約8ヶ月に及ぶ長期戦役全体で見れば、結末は異なる様相を呈する。秀吉は長久手での軍事的敗北の後、戦術を転換。家康ではなく、戦いの大義名分である織田信雄への政治的・軍事的圧力を強めた。伊勢方面で信雄の諸城を次々と攻略された信雄は、ついに家康に無断で秀吉と単独講和を結んでしまう 4 。これにより、家康は「信雄を助ける」という戦い続ける大義名分を失い、兵を引かざるを得なくなった。結果として、軍事的には家康が勝ち、政治・戦略的には秀吉が勝利するという、極めて複雑な決着を迎えたのである 7 。
歴史的意義:家康の武名を天下に轟かせた一戦
この戦いが歴史に与えた最大の影響は、徳川家康という武将の軍事的才能と、徳川家臣団の精強さを天下に知らしめた点にある 4 。当時、破竹の勢いであった秀吉の軍勢を、正面からの野戦で明確に打ち破ったという事実は、全国の諸大名に大きな衝撃を与えた 30 。
この長久手での勝利は、家康が最終的に天下を掌握する上で、不可欠な「武名」というブランドを確立する決定的な一戦となった。この勝利があったからこそ、後に家康が秀吉に臣従した際も、他の大名とは一線を画す「別格」の存在として扱われることになった 4 。この政治的地位は、長久手での軍事的実績なくしてはあり得なかったであろう。豊臣政権下で最大の勢力を維持し、秀吉死後に天下を窺うことができたのも、この時に確立した武名と、それによって担保された内外からの信頼があったからに他ならない。その意味において、長久手の戦いは、関ヶ原の戦い、そして大坂の陣へと続く徳川家の覇業の、まさに原点となる一戦であったと結論付けることができる。
引用文献
- 青山・土器山の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E3%83%BB%E5%9C%9F%E5%99%A8%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 小牧・長久手の戦い/古戦場|ホームメイト - 刀剣ワールド名古屋・丸の内 別館 https://www.touken-collection-nagoya.jp/aichi-shizuoka-kosenjo/komaki-nagakute-kosenjo/
- 「どうする家康」第32回「小牧長久手の激闘」 徳川家の覚醒と数正の孤独な懸念の理由 - note https://note.com/tender_bee49/n/nc0cdce405aaf
- 「小牧・長久手の戦い」は、誰と誰が戦った? 場所や経緯もあわせて解説【親子で歴史を学ぶ】 https://hugkum.sho.jp/470311
- 小牧長久手の戦い③ 豊臣秀吉の三河中入り作戦!戦に勝利した家康が秀吉に臣従した狙いは?「早わかり歴史授業58 徳川家康シリーズ26」日本史 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=8MCS3MYETCs&pp=ygUTI-WFq-W5oeael-OBruaIpuOBhA%3D%3D
- 白山林の戦い - 尾張旭市公式ホームページ(生涯学習課) https://www.city.owariasahi.lg.jp/page/10926.html
- 徳川家康の「小牧・長久手の戦い」|織田信雄・家康の連合軍と秀吉が対決した合戦を解説【日本史事件録】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1130498
- 小牧・長久手の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A7%E3%83%BB%E9%95%B7%E4%B9%85%E6%89%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 【羽柴秀吉VS徳川家康 小牧・長久手の戦いを知る】第1回 戦いの概要 - 城びと https://shirobito.jp/article/1417
- 小牧・長久手の合戦 http://www.city.komaki.aichi.jp/admin/soshiki/kyoiku/bunkazai/1_1/2/bunkazai/9162.html
- 1584年 小牧・長久手の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1584/
- 岩崎城の戦い https://www.mf.ccnw.ne.jp/iwasakijo/tatakai.html
- 長久手合戦を左右した家康の動きとは?家康本陣跡「色金山」と「御旗山」 | 夢中図書館 いざ城ぶら! https://favoriteslibrary-castletour.com/aichi-iroganeyama-mihatayama/
- 小牧・長久手の戦い 史跡めぐり https://www.nagakute-kanko.jp/nagakute-kassen/
- 岩崎城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 長久手古戦場史跡巡り:秀吉と家康が唯一正面衝突した戦い|社員がゆく|Nakasha for the Future https://www.nakasha.co.jp/future/report/battle-of-nagakute.html
- 岩崎城歴史記念館 - 日進市 https://www.city.nisshin.lg.jp/department/toshisangyo/kanko/6/2/2_1/5043.html
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- 白山林の戦い https://geo.d51498.com/moriyamamyhometown/moris14.htm
- 小牧・長久手の戦いって? 白山林の戦い https://www.city.owariasahi.lg.jp/uploaded/attachment/20050.pdf
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- negoro21 - AWS http://katagipepo.s3-website-ap-northeast-1.amazonaws.com/negoro/html1-15/negoro21.html
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- 長久手古戦場物語 https://www.city.nagakute.lg.jp/soshiki/kurashibunkabu/shogaigakushuka/4/nagakutenorekisibunnka/3915.html
- 長久手合戦で榊原康政と大須賀康高を破った堀久右衛門秀政の桧ヶ根本陣跡 https://sengokushiseki.com/?p=2452
- 小牧・長久手の戦い「長久手古戦場」-秀吉軍唯一の勝利である桧ヶ根の戦い - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/3342
- シリーズ小牧・長久手の戦いその6-長久手の戦い - Network2010.org https://network2010.org/article/1594
- 長久手合戦 天下人2人が直接対決した 小牧・長久手の戦い - NAGAKUTE ZATTO https://nagakute-zatto.jp/archives/2829
- 『小牧長久手の戦い』勝敗は秀吉の勝ちで家康は負けたのか?全国規模の合戦を解説 https://sengokubanashi.net/history/komaki-nagakutenotatakai/
- 小牧・長久手の戦いは“徳川家康の勝利”と言い切れない理由 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10471
- 小牧長久手の戦い - 名古屋市博物館 https://www.museum.city.nagoya.jp/exhibition/owari_joyubi_news/komaki_nagakute/
- もう一つの天下分け目の決戦「小牧・長久手の戦い」。小野友記子氏と、定説を覆した発掘現場へ。 https://note-infomart.jp/n/ncbac002c6702