青木城の戦い(1585)
天正十三年 飛騨平定戦の全貌 ―金森長近の電撃戦と「青木城」の謎―
序論:天正十三年、飛騨を巡る天下の情勢
天正十三年(1585年)、日本の歴史が大きく動いたこの年、飛騨国(現在の岐阜県北部)を舞台に繰り広げられた一連の戦いは、単なる一地方の勢力争いに留まるものではなかった。それは、織田信長亡き後の天下統一を推し進める羽柴秀吉の巨大な戦略の一環であり、戦国乱世の終焉を告げる重要な一幕であった。利用者様が関心を寄せられる「青木城の戦い」を理解するためには、まずこの戦いが置かれた広大な歴史的文脈を把握することが不可欠である。
天正十年(1582年)の本能寺の変により織田信長が斃れると、日本の政治情勢は再び流動化する。その中で、信長の重臣であった羽柴秀吉は、山崎の戦いで明智光秀を討ち、続く賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破ることで、信長の後継者としての地位を急速に固めていった。しかし、その覇権は未だ盤石ではなかった。天正十二年(1584年)には、信長の次男・織田信雄と徳川家康が連合して秀吉に反旗を翻し、小牧・長久手の戦いが勃発する。この戦いは軍事的には決着がつかず、政治的な和睦によって終結したが、秀吉の天下統一事業において、依然として多くの敵対勢力が存在することを白日の下に晒した 1 。
和睦後、秀吉は次なる標的として、北陸に強大な勢力を誇る佐々成政に狙いを定めた。成政は小牧・長久手の戦いにおいて信雄・家康側に与し、戦後も秀吉への恭順の意を明確にしなかったため、秀吉にとっては見過ごすことのできない存在であった 1 。かくして天正十三年閏八月、秀吉は十万とも言われる大軍を動員し、成政の居城・富山城へと進軍を開始する。これが世に言う「富山の役」である 3 。
この越中征伐を遂行するにあたり、秀吉にとって地政学上、極めて重大な懸念が存在した。それが飛騨国の存在である。飛騨は、越中と秀吉の地盤である美濃・尾張を結ぶ戦略的要衝に位置していた。そして、当時の飛騨国主であった姉小路頼綱(あねがこうじ よりつな)、本姓を三木(みつき)氏というこの武将は、佐々成政と強固な同盟関係にあった 2 。もし秀吉軍が越中に主力を投入した際、背後にある飛騨から姉小路軍が呼応して行動を起こせば、補給線は寸断され、挟撃される危険性すらあった。
軍事戦略の定石として、主目標へ進撃する際に側背の脅威を放置することは致命的な過ちである。したがって、秀吉が佐々成政討伐を決定したとき、それと「同時」に飛騨を制圧することは、政治的な懲罰という意味合い以上に、主作戦である越中征伐を安全かつ確実に成功させるための、軍事的に不可欠な事前措置であった 1 。この重要な側面作戦の実行を命じられたのが、秀吉配下の歴戦の将、金森長近(かなもり ながちか)だったのである。本報告書は、この「金森長近の飛騨平定戦」の全貌を解明し、その中で「青木城」が果たした役割、あるいはその名称が意味するものを徹底的に考察するものである。
第一章:両軍の将 ―金森長近と姉小路頼綱―
合戦の趨勢は、しばしば両軍を率いる将の器量と、彼らが置かれた状況によって大きく左右される。天正十三年の飛騨平定戦は、まさにその典型であった。攻め手である金森長近と、守り手である姉小路頼綱。両者の経歴、人物像、そして彼らが背負う時代の論理を比較検討することは、この戦いの本質を深く理解する上で欠かせない。
攻め手・金森長近 ―百戦錬磨の吏僚的武将―
金森長近は、大永四年(1524年)、美濃国土岐氏の一族に生まれたとされる 1 。若くして織田信長に仕え、その才能を認められて信長から一字を拝領し「長近」と名乗るほどの信頼を得た 8 。桶狭間の戦いや長島一向一揆の鎮圧など、信長の主要な戦歴のほとんどに参加し、武将としての経験を着実に積み重ねていった 10 。信長没後は柴田勝家の与力となるが、賤ヶ岳の戦いで勝家が滅びると、時流を的確に読み、速やかに羽柴秀吉の傘下に入った 1 。この柔軟な判断力こそ、彼が戦国の世を生き抜いた要因の一つであろう。
長近の特筆すべき点は、単なる武人ではなかったことである。彼は茶の湯に深く通じ、千利休や古田織部といった当代一流の文化人とも親交があった文化人でもあった 1 。秀吉の御伽衆を務めたこともあり、その文化的素養は、後の高山における城下町建設において、京都を模範とした美しい町並みを創造する礎となった 11 。武勇と行政手腕、そして文化的教養を兼ね備えた吏僚的武将、それが金森長近であった。
この飛騨平定戦において、長近は秀吉という中央集権化を推し進める新たな天下人の代理人として行動した。彼の軍事行動は、私的な領土欲からではなく、「天下の静謐」という、より大きな秩序を構築するための大義名分に裏打ちされていた。これは、守勢に立つ姉小路頼綱とは対照的な立場であった。
守り手・姉小路頼綱(三木自綱) ―飛騨の梟雄―
一方、飛騨国で金森軍を迎え撃った姉小路頼綱は、その出自からして長近とは大きく異なっていた。彼の本姓は三木氏といい、元々は飛騨守護・京極氏の家臣に過ぎなかった 13 。しかし、戦国乱世の到来と共に守護の権威が失墜すると、祖父・直頼、父・良頼の代から徐々に勢力を拡大。頼綱の代に至り、その才能は完全に開花する。
彼は、飛騨国司という伝統的な権威を持つ公家・姉小路家の名跡を継承するという大胆な手段に打って出た 5 。これは事実上の乗っ取り、あるいは僭称であったが、朝廷への工作などを通じて形式的な正統性を演出し、飛騨一国を支配するための名分としたのである 13 。そして、天正十年(1582年)の本能寺の変という中央の権力空白を好機と捉え、長年のライバルであった北飛騨の江馬輝盛を「八日町の戦い」で討ち滅ぼし、ついに飛騨一国の実質的な統一を成し遂げた 5 。まさに、下克上と自力による領国形成という戦国乱世の力学を体現した人物であった。
しかし、その支配基盤は極めて脆弱であった。武力と謀略による急激な統一は、必然的に旧江馬氏勢力をはじめとする国内の敵対勢力からの恨みや反感を招いた。彼の領国は、見かけ上の統一とは裏腹に、内部に多くの不満分子を抱え込んだ、いわば火種だらけの状態だったのである。この内部の不和は、金森軍の侵攻という外圧が加わった際に、致命的な弱点として露呈することになる。
この戦いは、個々の武将の能力差以上に、彼らが体現する時代の論理の衝突であったと言える。金森長近が代表する「天下統一」という中央の論理と、姉小路頼綱が固執した「一国支配」という地方の論理。頼綱が佐々成政と結んだのは、秀吉の勢力拡大が自らの独立を脅かすと判断したからであり、地方領主としては合理的な選択であった。だが、その選択は、もはや抗うことのできない時代の大きな潮流に逆らうものであり、結果として彼の滅亡を決定づけたのである。
第二章:飛騨侵攻作戦の始動 ―二正面からの進撃路―
天正十三年閏八月、羽柴秀吉から飛騨討伐の正式な命令が下ると、金森長近は迅速に行動を開始した 8 。彼が立案・実行した作戦は、飛騨の険しい山岳地形と、姉小路氏の兵力配置を熟知した上で練られた、極めて巧妙かつ合理的なものであった。それは、軍を二手に分かち、南北から同時に侵攻する「二正面作戦」であった 7 。
飛騨国は、四方を急峻な山々に囲まれた天然の要害であり、大軍が通行可能なルートは極めて限られている。防御側は、その限られた街道沿いの隘路に城砦を築いて守りを固めるのが常道である。もし金森軍が単一のルートで侵攻した場合、姉小路氏は全兵力をその防衛線に集中させることができ、抵抗はより激しく、戦いは長期化した可能性が高い。
長近はこの防御側の利点を無力化するため、自らが率いる本隊と、養子である金森可重(ありしげ)が率いる別働隊の二軍に戦力を分割した 9 。
北ルート(長近本隊)
総大将である長近自らが率いる本隊は、自身の居城である越前大野城(福井県大野市)を出発した 9 。この部隊は、秀吉本隊による越中征伐軍と密接に連携しながら、越中方面から飛騨北部の吉城郡へと侵攻するルートをとった 17 。この進路の戦略的意図は明確であった。飛騨北部は、姉小路氏(古川氏)の旧領であり、国府盆地や三木氏の本拠である松倉城といった、姉小路氏の支配体制の中枢を直接脅かすことができるからである。
南ルート(可重別働隊)
一方、長近の養子・可重が率いる別働隊は、美濃国郡上(岐阜県郡上市)方面から、馬瀬川などを遡上して飛騨南部の益田郡へと侵攻した 18 。このルートは、三木氏が飛騨で勢力を拡大する上での発祥の地であり、その支配の根幹を成す地域であった 19 。南からの攻撃は、敵の根拠地を直接叩くことで、姉小路軍の兵站と士気に大きな打撃を与えることを狙ったものであった。
この南北からの同時侵攻は、姉小路頼綱にとって悪夢であったに違いない。彼は限られた兵力を南北二つの戦線に分散させざるを得ず、各個撃破される危険に晒された。金森軍の巧みな二正面作戦は、開戦劈頭、姉小路氏から戦略的な主導権を完全に奪い去ったのである。この周到な作戦計画こそ、後に「短期間で平定された」と記録される電撃戦を可能にした最大の要因であった 2 。
【表1】飛騨平定戦 参加主要武将一覧
この歴史的な戦いに参加した主要な武将たちを以下にまとめる。
勢力 |
武将名 |
役職・立場 |
主な動向 |
典拠 |
金森軍(攻め手) |
金森長近 |
総大将、越前大野城主 |
北ルートより侵攻、全軍を指揮 |
8 |
|
金森可重 |
長近の養子、別働隊大将 |
南ルートより益田郡へ侵攻 |
9 |
姉小路(三木)軍(守り手) |
姉小路頼綱(三木自綱) |
飛騨国主 |
広瀬高堂城にて指揮を執るが降伏 |
5 |
|
姉小路秀綱 |
頼綱の嫡男 |
本拠・松倉城の守将 |
5 |
|
姉小路季綱 |
頼綱の子 |
鍋山城主、後に松倉城へ合流 |
5 |
|
牛丸氏、広瀬氏など |
姉小路氏配下の国人 |
各自の居城で抵抗 |
5 |
|
藤瀬新蔵 |
松倉城の城兵 |
金森方に内応し、落城のきっかけを作る |
15 |
第三章:合戦のリアルタイム詳解 ―飛騨諸城の攻防―
天正十三年閏八月、飛騨の山々に戦塵が舞い上がった。金森長近と可重の親子が率いる二つの軍団は、あたかも巨大なペンチが飛騨国を挟み込むように、その侵攻を開始した。以下に、断片的な記録を繋ぎ合わせ、この電撃的な平定戦の経過を時系列に沿って再構成する。
【表2】天正十三年閏八月 飛騨平定戦 進行年表 (推定)
時期(天正13年閏8月) |
金森長近軍(北ルート)の動向 |
金森可重軍(南ルート)の動向 |
姉小路(三木)軍の動向 |
上旬 |
越前大野を出陣。越中を経由し飛騨へ侵攻開始。 |
美濃郡上より飛騨益田郡へ侵攻開始。 |
金森軍侵攻の報を受け、領内諸城に籠城を命じる。 |
中旬 |
神岡城など北部諸城を制圧。旧江馬氏勢力などを味方につける。 |
桜洞城など益田郡の諸城を次々と攻略。 |
南北からの挟撃を受け、兵力が分散。各所で防戦を強いられる。 |
下旬 |
国府盆地に進入。古川城、小島城などを攻略。姉小路頼綱の籠る広瀬城を包囲。 |
高山盆地へ向けて北上。長近本隊との合流を目指す。 |
頼綱、広瀬城で降伏。残る抵抗勢力は松倉城のみとなる。 |
末 |
可重軍と合流し、三木氏の本拠・松倉城を完全に包囲。 |
長近本隊と合流。松倉城への総攻撃に参加。 |
秀綱・季綱兄弟が松倉城で最後の抵抗を試みる。 |
序盤:侵攻開始と南部の動揺
戦端は、おそらく南の益田郡で開かれた。金森可重率いる別働隊は、三木氏が飛騨統一の拠点とした 桜洞城 (さくらぼらじょう、現・下呂市)へと迫った 21 。この城は三木氏にとって象徴的な意味を持つ居城であり、その攻略は姉小路方の士気を挫く上で大きな効果があったと推測される 23 。可重軍は、この桜洞城をはじめ、益田郡に点在する三木方の城砦を次々と攻め落としていった 18 。
時を同じくして、北では金森長近の本隊が越中から飛騨国境を越え、神岡地域へと進軍していた。この地域は、かつて姉小路頼綱に滅ぼされた江馬氏の旧領であった。長近は、秀吉の威光を背景に、姉小路氏に恨みを抱く在地勢力に降伏を促し、味方として組み入れる「調略」を積極的に展開したと考えられる。実際に、後の松倉城攻めには旧江馬氏の者たちが参加していたという記録もあり 15 、この調略が成功したことを示唆している。軍事力による圧倒だけでなく、こうした政治工作を巧みに組み合わせることで、金森軍の進撃速度は飛躍的に高まった。抵抗する城は孤立し、戦わずして開城する城も少なくなかったであろう。
中盤:主要拠点の陥落と「青木城」の謎
金森本隊は、在地勢力を吸収して勢いを増しながら、飛騨北部の中心地である国府盆地へと南下した。ここでは、姉小路三家の一角をなした古川氏の 古川城 や、小島氏の 小島城 といった重要拠点が金森軍の前に立ちはだかった 24 。しかし、既に南から可重軍が迫り、頼みの綱であった姉小路頼綱本隊も動けない中、これらの城は孤立無援であった。激しい攻防の末か、あるいは戦わずして降伏したのか、記録は定かではないが、いずれも金森軍によって制圧された 26 。
そして、この平定戦の過程において、利用者様の問いである「青木城」が登場する。しかし、飛騨国の城郭を網羅した史料や近年の研究成果を精査しても、「青木城」という名の城は、天正十三年の主戦場として確認することができない 27 。全国各地には同名の城が多数存在するが 30 、飛騨国内には見当たらないのである。
この謎を解く鍵は、地名の誤伝や音の類似性にある可能性が極めて高い。飛騨の城郭リストの中には、高山市に**「青屋城」(あおやじょう)**という城跡の存在が記録されている 29 。「あおき」と「あおや」は発音が近く、口伝や筆写の過程で混同されたと考えるのが最も合理的である。
この青屋城は、姉小路氏の本拠・松倉城へと至る街道筋に位置する、比較的小規模な支城であったと推測される。おそらく、金森軍の圧倒的な兵力の前に、大規模な戦闘記録が残るほどの抵抗もできず、瞬く間に降伏、あるいは放棄されたのであろう。
結論として、「青木城の戦い」という特定の戦闘は、史実として確定できるものではない。それは、この「青屋城」のような無数の小城砦が次々と金森軍に制圧されていった様を象徴的に表した言葉か、あるいは特定の小規模な戦闘の呼称が、後世に誤って伝わったものである可能性が最も高いと言える。利用者様が当初把握されていた「金森長近が山間の小城を平定」したという情報は、まさにこの平定戦全体の縮図を的確に捉えたものであったのだ。
第四章:飛騨の覇権、落つ ―松倉城の陥落と三木氏の滅亡―
飛騨国内の諸城が次々と金森軍の手に落ち、当主・姉小路頼綱も広瀬城(または高堂城)で降伏を余儀なくされる中、飛騨の命運は最後の拠点、松倉城に託された 20 。ここに籠るのは、頼綱から家督を継いだ嫡男・姉小路秀綱と、鍋山城から合流した弟の季綱ら、三木一族の最後の抵抗勢力であった 15 。
天空の要塞・松倉城
飛騨松倉城は、標高856メートルの峻険な松倉山山頂に築かれた、当代随一の山城であった 33 。その最大の特徴は、当時の飛騨では極めて珍しい、城郭の主要部を石垣で固めた堅固な構造にあった 16 。天然の地形を巧みに利用し、人工的な防御施設を組み合わせたこの城は、まさに「天空の要塞」と呼ぶにふさわしく、金森軍といえども容易に攻略できる相手ではなかった。
最後の攻防と内応
閏八月下旬、南北から進撃してきた金森長近・可重の軍勢は合流し、松倉城を完全に包囲した。攻城戦は数日間にわたり、熾烈を極めたと伝えられる。籠城する三木勢は、地の利を活かして奮戦し、金森軍に多大な損害を与えた 15 。軍記物には、三木方の勇将・畑六郎左衛門と金森方の山蔵縫殿助による壮絶な一騎討ちが描かれるなど、その激戦の様子が伝えられている 16 。
しかし、兵力で圧倒的に勝り、飛騨一円を制圧した後ろ盾を持つ金森軍に対し、援軍の望みのない籠城軍が抗しきれるはずもなかった。追い詰められた城内で、ついに裏切り者が現れる。城兵の一人であった藤瀬新蔵が金森方に内応し、本丸の館に火を放ったのである 15 。城内から上がった炎は、籠城兵の最後の士気を打ち砕いた。内外からの攻撃に晒され、松倉城はついに陥落した。
三木一族の最期
炎上する城から、姉小路秀綱は妻とわずかな供回りと共に辛くも脱出する。彼らが目指したのは、妻の実家がある信濃国であった 15 。しかし、その逃避行はあまりにも過酷な結末を迎える。落ち延びる途中、彼らは在地の「土民」――すなわち、その土地の農民たち――に襲撃され、非業の最期を遂げたのである 5 。
この結末は、単なる一個人の悲劇に留まらない、極めて重要な歴史的意味を含んでいる。戦国時代、敗走する大名が領民の手に掛かることは、その領主が領民から支持を得られず、むしろ収奪者と見なされていたことの何よりの証左である。秀綱の死は、姉小路(三木)氏の支配が、武士階級だけでなく、領民のレベルにおいても完全に人心を失っていたことを物語っている。第一章で指摘した、武力による強引な統一がもたらした内部の亀裂は、社会の最底辺にまで及んでいたのだ。
父・頼綱は助命され、京へ護送された後、天正十五年(1587年)にその地で病没した 1 。ここに、下克上によって飛騨一国に覇を唱えた戦国大名・三木氏は、歴史の舞台から完全に姿を消したのである。
第五章:戦後処理と金森氏の統治
天正十三年の飛騨平定戦は、一国の戦国大名の滅亡という形で幕を閉じた。しかし、それは終わりであると同時に、飛騨国にとって新たな時代の始まりでもあった。戦後、この地を託された金森長近は、軍事的な支配から、近世的な領国経営へと巧みに移行させていく。
飛騨一国の安堵と新時代の拠点
戦いの翌年である天正十四年(1586年)、金森長近は秀吉からその戦功を認められ、正式に飛騨一国三万八千石余の領主として安堵された 8 。ここに、初代高山藩主が誕生したのである。
領主となった長近は、旧支配者である三木氏の痕跡を払拭し、新たな支配体制を確立するため、新たな拠点都市の建設に着手する。彼は、三木氏の居城であった松倉城や、自身が一時的に居城とした鍋山城 36 を本拠とせず、高山盆地の中心に位置する天神山に、全く新しい城、すなわち
高山城 の築城を開始した 33 。この選択は、旧体制との物理的・心理的な決別を内外に示す、極めて象徴的な事業であった。
城下町の建設と近世的領国経営
長近の構想は、単に城を築くだけに留まらなかった。彼は高山城の築城と並行して、その麓に広大な城下町を建設した 10 。特筆すべきは、その都市計画が、彼が深い造詣を持っていた京都の町並みを模範とした、整然とした碁盤目状のものであったことである 11 。これは、飛騨を単なる軍事拠点としてではなく、政治・経済・文化の中心地として発展させようという、長近の明確なビジョンを示すものであった。
この統治方法は、それまでの戦国大名に見られた、武力による「点と線」の支配とは一線を画すものであった。城下町という経済と流通のハブを創出し、そこを核として領国全体を掌握する「面」の支配。これは、織田信長や豊臣秀吉が進めた近世的な都市政策・経済政策の流れを汲むものであり、長近が時代の最先端の統治モデルを飛騨に導入したことを意味する。
残党勢力との戦い
しかし、金森氏による新たな支配が、すぐに盤石となったわけではなかった。平定後も、三木氏の残党による抵抗は散発的に続いた。特に、一族の三木国綱が在地勢力を糾合して起こした「三沢の乱」は、金森氏にとって大きな脅威となった 40 。この反乱は鎮圧されたものの、飛騨の完全な安定には、なお幾ばくかの時間と努力を要したことを示している。
金森氏の統治は、その後六代、107年間にわたって続くことになる 7 。その礎は、まさしくこの戦後処理における長近の卓越した手腕によって築かれたのであった。
結論:「青木城の戦い」の史実的考察
本報告書は、利用者様からの「青木城の戦い(1585年)」に関する問いを起点とし、その歴史的背景と実態を徹底的に調査・分析したものである。全ての調査と考察を総括し、最終的な見解を以下に提示する。
第一に、天正十三年(1585年)の金森長近による飛騨平定戦は、羽柴秀吉の天下統一戦略、特に佐々成政を標的とした「富山の役」と不可分に連動した、計画的かつ戦略的な軍事作戦であった。その成功は、金森軍が採用した南北二正面作戦という優れた戦略と、敵将・姉小路(三木)頼綱が抱える領国統治の脆弱性という、内外の要因が複合的に作用した結果である。
第二に、本報告書の調査において、「青木城の戦い」という名の特定の、あるいは大規模な合戦が、天正十三年の飛騨国で発生したという史実を確認することはできなかった。この名称が指し示すものとして、最も可能性が高いのは以下の二つの仮説である。
- 飛騨平定戦全体の通俗的な呼称、あるいはその一側面を象徴する言葉。
- 高山市に現存する「青屋城」など、小規模な城砦で発生した戦闘の呼称が、後世に「青木城」として誤って伝わった可能性。
利用者様が当初把握されていた「金森長近が山間の小城を平定」という情報は、この大規模な平定作戦の本質的な一側面、すなわち無数の小城砦が次々と制圧されていく様を的確に捉えたものであったと言える。
第三に、この一連の戦いの歴史的意義は、単なる一国の支配者の交代に留まらない。それは、下克上を旨とする中世的な群雄割拠の時代を飛騨国が終わらせ、金森長近という新たな領主の下で、中央集権的な近世社会の枠組みへと組み込まれていく、決定的な転換点であった。長近による高山城と城下町の建設は、その後の飛騨高山の発展の礎を築き、今日に至る文化の薫り高い町並みの原点となったのである。
今後の課題として、各地の郷土史料や未整理の古文書の中に、「青木城」あるいはそれに類する城砦に関する断片的な記述が発見される可能性は皆無ではない。本報告書が、この歴史的な戦いへの理解を深める一助となると共に、更なる研究への契機となることを期待する。
引用文献
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- 金森戦記 金森長近 https://kanamorisennki.sakura.ne.jp/
- 飛騨の戦国時代と飛越の江馬氏関連の城館 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/58/58615/139009_3_%E9%A3%9B%E8%B6%8A%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%A8%E6%B1%9F%E9%A6%AC%E6%B0%8F%E3%81%AE%E5%9F%8E.pdf
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- 【2 初代高山藩主 金森長近(かなもりながちか)】 - ADEAC https://adeac.jp/takayama-lib/text-list/d100010/ht000100
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- 戦国武将・金森長近の生涯と功績を徹底解説!高山城の歴史と遺産 - 原田酒造場 https://www.sansya.co.jp/column/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%AD%A6%E5%B0%86%E3%83%BB%E9%87%91%E6%A3%AE%E9%95%B7%E8%BF%91%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B6%AF%E3%81%A8%E5%8A%9F%E7%B8%BE%E3%82%92%E5%BE%B9%E5%BA%95%E8%A7%A3%E8%AA%AC%EF%BC%81%E9%AB%98/
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- 武家家伝_三木氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/miki_k.html
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- 自綱、金森の侵攻で京へ 飛騨覇者に悲しい末路 戦国飛騨をゆく(58) | 岐阜新聞デジタル https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/161824
- 金森長近の美濃市城下町 - デジタルアーカイブ研究所 - 岐阜女子大学 https://digitalarchiveproject.jp/information/%E9%87%91%E6%A3%AE%E9%95%B7%E8%BF%91%E3%81%AE%E7%BE%8E%E6%BF%83%E5%B8%82%E5%9F%8E%E4%B8%8B%E7%94%BA/
- 松倉城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.hidamatsukura.htm
- 【岐阜県】桜洞城の歴史 飛騨統一をした三木氏の拠点…秀吉方の金森長近の攻撃で落城した後は廃城へ | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/695
- 「家康、命運の地 関ケ原」~岐阜県の家康ゆかりの地を巡ろう!~|特集 https://www.kankou-gifu.jp/article/detail_130.html
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- 第2章 高山市の維持向上すべき歴史的風致 https://www.city.takayama.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/002/176/3ki_03.pdf
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