最終更新日 2025-09-03

鞆の浦海戦(1573~92)

鞆の浦海戦は、足利義昭の亡命政権を巡る織田・毛利の瀬戸内制海権争奪戦。毛利水軍の焙烙火矢に対し、信長は鉄甲船で応酬。この技術革新が石山合戦の帰趨を決め、天下統一と新たな海上秩序の確立に繋がった。
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専門報告書:鞆の浦をめぐる瀬戸内制海権戦争(1573年~1592年)- 織田・毛利、二大海運国家の激突 -

序章:鞆の浦海戦とは何か - 「局地戦」から「戦略的抗争」への視座転換

日本の戦国時代における「鞆の浦海戦(1573~92年)」は、しばしば備後国鞆の浦を中心とした「瀬戸内制海権を巡る局地戦」として認識されている。この定義は、この長期にわたる抗争の地理的・政治的中心が鞆の浦にあったという事実を的確に捉えている点で、一定の妥当性を持つ 1 。しかし、この見方は、約20年間にわたる壮大な歴史的ダイナミズムの表層をなぞるに過ぎない。

本報告書は、この「鞆の浦海戦」を、単一の海戦や局地的な紛争としてではなく、全く新しい視座から再定義することを目的とする。すなわち、これを室町幕府の正統性を担う亡命政権「鞆幕府」の存亡と、西日本最大の海運国家・毛利氏、そして天下統一を目指す新興の陸上国家・織田氏との間で繰り広げられた、 瀬戸内海の覇権を賭けた一大戦略抗争 として捉え直すものである。この抗争の主戦場は、鞆の浦そのものではなく、畿内の喉元である大阪湾の木津川口であった。そして、その海戦の勝敗が、石山合戦の帰趨を、ひいては天下統一の行方をも左右する決定的な要因となったのである。

本報告書では、まず織田信長によって京都を追われた将軍・足利義昭が鞆の浦に亡命政権「鞆幕府」を樹立し、毛利氏がこれを庇護したことから始まる政治的対立の激化を分析する。次に、二度にわたって繰り広げられた木津川口海戦における、毛利水軍の伝統的戦術と織田水軍の革新的技術の応酬を、合戦のリアルタイムな状況が把握できるよう時系列に沿って詳述する。最後に、この抗争が豊臣秀吉による新たな海上秩序の構築へと収斂していく過程を追い、約20年にわたる瀬戸内海の動乱が戦国時代の終焉に果たした歴史的意義を明らかにする。

第一章:戦端の萌芽 - 鞆幕府の成立と織田・毛利の全面対決(1573年~1576年)

1573年7月 - 将軍の流浪

天正元年(1573年)7月、室町幕府第15代将軍・足利義昭は、織田信長との対立の末に挙兵するも、槙島城の戦いで敗北を喫した 2 。これにより京都から追放された義昭は、河内国の若江城、和泉国の堺、紀伊国の由良興国寺などを各地の反信長勢力を頼って転々とする流浪の身となった 2 。しかし、彼は将軍の地位を剥奪されたわけではなく、その存在自体が反信長の旗印として、依然として強大な政治的影響力を保持し続けていた。

1576年2月~4月 - 鞆への動座と「鞆幕府」の樹立

各地を流浪する中で、義昭は最終的な庇護者として、中国地方に覇を唱え、瀬戸内海の水運を完全に掌握する毛利輝元を頼ることを決意する。天正4年(1576年)2月、義昭は毛利氏からの正式な許可を待たずして紀伊由良を出立するという強行策に打って出た 3 。既成事実を突きつけられた毛利氏は義昭を受け入れざるを得ず、同年4月、義昭一行は毛利氏の勢力圏である備後国の港町・鞆の浦に到着した 3

義昭は鞆の浦の小松寺に入り、やがて鞆城が築かれることになる城山に御所を設けた 4 。ここを拠点として、義昭は単に亡命生活を送るだけでなく、将軍として各地の大名に御内書(将軍が発給する公式文書)を下し、毛利輝元を将軍に次ぐ地位である副将軍に任じるなど、活発な政治活動を再開した 2 。この鞆の浦に拠点を置いた約11年間の亡命政権は、その実態から後に「鞆幕府」と呼称されることになる 5

義昭が鞆の浦を選んだ背景には、極めて高度な地政学的計算があった。鞆の浦は古来より潮待ちの港として栄え、瀬戸内海交通の要衝であった 1 。この地は、毛利氏がその支配下に置く村上水軍をはじめとする海賊衆(水軍)の活動拠点であり、毛利の海軍力の心臓部とも言える場所であった 5 。義昭は、自らが持つ「幕府の正統性」という政治的権威を、毛利氏が持つ「瀬戸内海の制海権」という軍事力と結合させることで、反信長勢力の中核を再構築しようとしたのである。これにより、瀬戸内海は単なる交易路から、将軍を守護する巨大な「堀」へとその戦略的意味合いを変貌させ、信長がこの海を越えて西国へ進軍することは、幕府そのものへの反逆行為であるという政治的構図を作り出した。

毛利の戦略的決断と全面戦争への道

義昭の受け入れは、毛利氏にとって重大な戦略的決断を意味した。輝元をはじめとする毛利首脳部は約3ヶ月にわたって熟慮を重ねた 2

義昭を庇護することは、二つの側面を持っていた。第一に、それは「幕府を蔑ろにする逆賊・信長を討つ」という、他の何物にも代えがたい大義名分を毛利氏にもたらした 2 。これにより、毛利氏は石山本願寺や雑賀衆、後に信長に反旗を翻すことになる荒木村重といった各地の反織田勢力を結集させるための強力な求心力を得た 2 。鞆の浦は、事実上、第二次信長包囲網の政治的首都としての機能を果たし始めたのである。

しかし第二に、それは大きな負担を伴うものでもあった。義昭とその家臣、芸能集団、侍医など100人以上に及ぶ随行団を養う経済的負担は莫大なものであり、毛利氏の財政を圧迫した 2 。さらに、義昭は庇護される身でありながら、毛利氏の軍事作戦にまで上意(命令)を下すことがあり、その意向を完全に無視することはできなかった 2

最終的に、天正4年(1576年)5月7日、毛利輝元は反信長としての旗幟を鮮明にし、領国の諸将に義昭の命令に従うよう通達した 2 。これにより、これまで友好関係にあった織田氏との同盟は完全に破綻し、両者は西日本の覇権と瀬戸内海の支配を賭けて、全面戦争へと突入することになったのである。

第二章:毛利水軍、大阪湾を制圧す - 第一次木津川口の戦い(1576年7月13日)

戦いの前夜 - 石山本願寺の窮状

織田・毛利の全面対決における最初のクライマックスは、摂津国石山(現在の大阪市中央区)で繰り広げられた。当時、織田信長は最大の抵抗勢力の一つであった石山本願寺に対し、天王寺砦を拠点とした執拗な包囲と兵糧攻めを行っていた 8 。陸路を完全に遮断され、籠城する本願寺勢は深刻な兵糧・弾薬不足に陥っていた。本願寺法主・顕如は、この窮状を打開すべく、同盟者である毛利輝元に対し、海路からの大規模な補給を要請した 8 。この要請に応える形で、毛利氏はその総力を挙げた水軍の派遣を決定。戦いの舞台は大阪湾の木津川口へと移った。

両軍の戦力分析

この決戦に臨む両軍の戦力は、質・量ともに著しい差があった。

毛利水軍

瀬戸内海最強と謳われる村上水軍を中核とし、毛利元就の三男・小早川隆景が統率する小早川水軍なども加わった、約700艘から800艘にも及ぶ大艦隊であった 8。指揮官は能島村上氏当主・村上武吉の嫡男である村上元吉や、同じく村上氏の一族である浦宗勝らが務めた 11。大型の戦闘艦である安宅船、中型で高速な関船、小型で機動力に富む小早船といった多様な艦種で構成され、長年の実戦で培われた高度な操船技術と、海流や天候を読み切る経験、そして何よりも組織的な艦隊行動能力において、他国の水軍の追随を許さない精強さを誇っていた。

織田水軍

信長が動員できたのは、和泉国の国人衆である真鍋氏、沼野氏、宮崎氏などが率いる水軍を中心とした、約300艘の寄せ集めの艦隊に過ぎなかった 8。これらは個々の戦闘能力は低くなかったものの、毛利水軍のような大規模な艦隊戦の経験に乏しく、統一された指揮系統の下で有機的に連携する能力に欠けていた。陸戦の将が指揮を執ることも多く、専門的な海軍組織とは言い難い状態であった。

合戦のリアルタイム詳報

【天正4年7月13日 未明~早朝】 毛利艦隊、出撃

毛利氏の拠点から出撃した大船団が、瀬戸内海の夜陰に乗じて東進を開始する。その数、大小合わせて800艘近く。船には石山本願寺を数ヶ月支えるに足る大量の兵糧米、そして弾薬が満載されていた。彼らの目標はただ一つ、大阪湾の木津川河口を突破し、本願寺へ補給物資を届けることであった。

【同日 午前】 織田水軍、迎撃態勢

毛利艦隊接近の報を受けた織田水軍は、石山本願寺への唯一の海からの入り口である木津川河口域に展開。約300艘の軍船で海上封鎖線を形成し、毛利艦隊の侵入を阻止すべく待ち構える 15。

【同日 正午過ぎ】 両軍激突

大阪湾に姿を現した毛利の大艦隊は、その威容で織田水軍を圧倒する。数で2倍以上の差がある毛利方は、躊躇なく織田方の封鎖線に突入。戦闘の火蓋が切られた。毛利方の小早船が巧みな操船で織田方の大型船を撹乱し、安宅船や関船がそれに続く。織田方も必死の抵抗を見せるが、数の上で劣勢な上、艦隊としての連携も円滑さを欠き、次第に毛利艦隊に包囲される形勢となる。

【勝敗の分岐点】 必殺兵器「焙烙火矢」の投入

戦況が膠着しかけたその時、毛利水軍は彼らが切り札とする特殊兵器を投入する。それは「焙烙火矢(ほうろくひや)」と呼ばれる、素焼きの陶器に強力な火薬を詰めた手榴弾のような兵器であった 10。村上水軍の兵士たちは、巧みに敵船に接近すると、導火線に火をつけた焙烙火矢を次々と投げ込んだ 18。

【阿鼻叫喚】 織田水軍の壊滅

木造船が主流であった当時の海戦において、焙烙火矢の効果は絶大であった。織田方の船の甲板や船内で炸裂した焙烙火矢は、轟音と共に爆発し、可燃性の高い木材や帆布に瞬く間に火を放った。一隻、また一隻と織田方の船が炎上し、黒煙を上げる。燃え盛る船上では、重い鎧を身に着けた武士たちが逃げ場を失い、炎に巻かれるか、海に飛び込んでも溺れるかの選択を迫られた。織田方の飛び道具であった通常の火矢は、揺れる船上からでは命中精度が低く、焙logging火矢の面制圧的な効果の前には全くの無力であった 11。『信長公記』の記述によれば、この戦いで織田方の将、真鍋貞友(七五三兵衛)をはじめとする多くの将兵が討死し、織田水軍は文字通り壊滅的な打撃を受けた 11。

【同日 夕刻】 毛利、戦略目的を達成

抵抗する敵を完全に排除した毛利艦隊は、悠々と木津川を遡上し、籠城する石山本願寺に兵糧と弾薬を運び込むことに成功した 8。毛利水軍はほとんど損害を受けることなく、補給という戦略目的を完璧に達成し、大坂湾の制海権を完全に掌握した。この勝利は、鞆の浦の足利義昭や全国の反信長勢力を大いに勇気づける結果となった。

この戦いは、専門的な海軍組織が、陸軍の延長線上に過ぎない水軍をいかに圧倒するかを如実に示した戦例であった。毛利方の勝因は、①800対300という圧倒的な戦力差、②村上水軍に代表される卓越した海戦経験と組織力、そして③焙烙火矢という、当時の海戦の常識を覆す技術的優位性、この三点に集約される。信長はこの惨敗により、制海権を奪取しない限り石山本願寺の攻略、ひいては天下統一は不可能であるという厳しい現実を突きつけられたのである。

第三章:信長の逆襲 - 海の常識を覆す「鉄甲船」の建造(1576年~1578年)

敗戦の衝撃と信長の決断

第一次木津川口の戦いにおける壊滅的な敗北の報は、織田信長に強烈な衝撃を与えた。この敗戦は、単なる一戦闘の損失以上の意味を持っていた。それは、毛利氏が瀬戸内海の制海権を握っている限り、石山本願寺は難攻不落の要塞であり続け、西国への進出もままならないという戦略的な現実を突きつけるものであった 8 。信長の思考は、この敗戦を感情的に受け止めるのではなく、極めて合理的な問題解決へと向かった。問題の核心は何か。それは毛利水軍の戦術的優位性、すなわち焙烙火矢という兵器の存在である。ならば、その焙烙火矢を無力化する、全く新しい概念の軍船を建造すればよい。信長は、既存の海戦の常識を根本から覆す、革命的な兵器の開発を決断した。

この発想は、長篠の戦いにおいて鉄砲の三段撃ちという新戦術で武田の騎馬軍団を粉砕した信長の軍事思想そのものであった。彼は、敵の得意とする土俵で小手先の改良を加えて戦うのではなく、技術的な非対称性を生み出すことで、敵の戦術そのものを時代遅れにするというアプローチを一貫して取っていた。鉄甲船の建造は、その思想の海戦における実践に他ならなかった。

九鬼嘉隆の抜擢と伊勢大湊での極秘建造

この前代未聞の任務を託されたのが、志摩国を本拠とする水軍の将、九鬼嘉隆であった 19 。嘉隆はもともと志摩の独立した海賊大名の一人であったが、早くから信長の先進性を見抜き、その麾下に加わっていた 21 。信長は嘉隆の持つ卓越した操船技術と水軍の統率力、そして造船に関する知見を高く評価し、この国家的なプロジェクトの総責任者に抜擢したのである 23

建造の拠点として選ばれたのは、伊勢国の大湊(現在の三重県伊勢市)であった 19 。大湊は古くから伊勢神宮の門前港として栄え、宮川上流の豊富な木材資源を背景に、日本の造船業の一大中心地としての歴史と技術蓄積があった 25 。嘉隆はここに拠点を構え、信長の全面的な支援の下、6隻の巨大な軍船の建造を極秘裏に開始した。

革命的軍船「鉄甲船」の構造

約2年の歳月をかけて完成した船は、当時の人々の度肝を抜くものであった。それは「鉄甲船」と呼ばれ、従来の日本の軍船(和船)とは一線を画す、数々の革新的な特徴を備えていた。

  • 船体と寸法: 奈良興福寺の僧侶が伝聞として記した『多聞院日記』によれば、その大きさは長さ12~13間(約22~24m)、幅7間(約13m)に及んだとされ、これは当時の軍船の主力であった関船を遥かに凌駕する巨大さであった 28 。この巨体は、海上に浮かぶ「城」そのものであった 30
  • 装甲: 最大の特徴は、その名の通り「鉄」の装甲である。焙烙火矢による炎上を防ぐため、船体のもっとも攻撃を受けやすい矢倉(やぐら)などの部分が、厚さ3mm程度の鉄板で覆われていたと伝えられている 8 。これが船全体を覆う完全な鉄甲であったのか、あるいは防火を目的として要所のみに施された装甲であったのかについては、同時代の直接的な史料が乏しく議論が分かれる 29 。しかし、敵の主力兵器である焙烙火矢を無力化するという明確な設計思想があったことは間違いない。
  • 武装: 鉄甲船のもう一つの革新は、その重武装にあった。宣教師オルガンチノの報告によれば、各船には3門の大砲(大筒)と、無数の大鉄砲が搭載されていたという 28 。これは、敵船に乗り移っての白兵戦や、焙烙火矢のような投擲兵器が主体であった従来の海戦の常識を根底から覆すものであった。信長と嘉隆が目指したのは、敵の攻撃が届かない遠距離から、圧倒的な火力投射によって敵の艦隊を一方的に粉砕するという、全く新しい海戦の姿であった。

1578年6月~9月 - 威容の披露

天正6年(1578年)6月、伊勢大湊で竣工した6隻の鉄甲船は、九鬼嘉隆に率いられ熊野灘を南下し、紀伊水道を抜けて堺へと回航された。その途上、雑賀衆などの小舟による妨害攻撃を受けたが、搭載された大鉄砲でこれを容易に撃退した 15 。7月17日に堺の港にその姿を現した巨大な黒い船団は、港の住民たちを驚愕させたと記録されている 15 。9月には信長自身が臨席しての観艦式(船揃え)が盛大に催され、その圧倒的な威容を天下に誇示した 11 。織田信長の逆襲の準備は、ここに完了したのである。

第四章:技術革新が雌雄を決す - 第二次木津川口の戦い(1578年11月6日)

毛利、再びの補給作戦

第一次合戦の圧勝から2年、毛利方は大坂湾の制海権を完全に掌握していると信じていた。石山本願寺からの再度の補給要請に応じ、毛利輝元は再び大規模な水軍の派遣を決定する。今回は、能島村上水軍の当主であり、瀬戸内最強の海将と恐れられた村上武吉自らが、約600艘の船団を率いて出陣した 11 。彼らは2年前の勝利の再現、すなわち圧倒的な数と焙烙火矢による攻撃で、再び織田水軍を粉砕できると確信していた。

両軍の対峙 - 圧倒的な戦力差

天正6年(1578年)11月6日、大阪湾木津川口で両軍は再び対峙した。その戦力差は、一見して絶望的とも思えるものであった。

  • 毛利水軍: 村上武吉率いる約600艘。安宅船、関船、小早船からなる大船団であり、戦術も兵器も2年前と変わらぬ、実績のあるものであった 8
  • 織田水軍: 九鬼嘉隆が率いる鉄甲船わずか6隻と、滝川一益が率いる白い安宅船1隻のみ 8 。艦船の数では1対100近くという、常識では考えられないほどの劣勢であった。

合戦のリアルタイム詳報

【開戦】 未知との遭遇

木津川河口を完全に封鎖するように陣取る、7隻の巨大な船。特に6隻の黒い船は、これまで見たこともない異様な威圧感を放っていた。毛利船団の将兵は一瞬たじろぐが、村上武吉は臆することなく総攻撃を命じる 11。戦術は定石通り、機動力に優れた多数の小早船で巨大な敵船を四方から包囲し、焙烙火矢を集中させて無力化するというものであった。

【攻撃と無力化】 必殺兵器の沈黙

毛利方の小早船が鉄甲船に殺到し、兵士たちは必殺の焙烙火矢に次々と点火し、投げつけた。しかし、信じられない光景が彼らの目の前で繰り広げられる。鉄甲船の鉄張りの装甲は、焙烙火矢の爆発と炎をいともたやすく弾き返し、船はびくともしない 8。煙が晴れると、黒い船体は何事もなかったかのように浮かんでいる。2年間、無敵と信じてきた必殺兵器が、全く通用しない。この事実は、毛利水軍の兵士たちに戦術の崩壊と未知の恐怖を同時に与え、その士気に深刻な動揺をもたらした。

【反撃】 火力の洗礼

毛利方が動揺し、攻撃の手が緩んだその瞬間、鉄甲船が牙を剥いた。船体に無数に設けられた銃眼から大鉄砲が一斉に火を噴き、接近していた小早船を蜂の巣にする。さらに、轟音と共に鉄甲船に搭載された大砲が火を噴いた。その狙いは正確に、毛利方の指揮官が乗る安宅船や関船といった中枢艦に向けられていた 35。大砲から放たれた鉛や石の弾は、木造の安宅船の船体をたやすく貫通し、粉砕した。指揮官が乗る船が目の前で轟沈していく光景は、毛利水軍の組織的な抵抗力を根こそぎ奪い去った 11。

【決着】 指揮系統の崩壊と惨敗

指揮系統を破壊され、これまで経験したことのない一方的な火力攻撃に晒された毛利水軍は、完全に戦意を喪失した。組織的な戦闘はもはや不可能となり、大混乱に陥りながら我先にと遁走を開始する。九鬼嘉隆は追撃の手を緩めず、多くの船を拿捕、あるいは撃沈した。わずか4時間ほどの戦闘で、600艘を誇った毛利の大船団は惨敗を喫し、大阪湾から駆逐された 8。織田水軍は、2年前の雪辱を果たすとともに、大坂湾の制海権を完全に奪取したのである。

勝敗の分析

この第二次木津川口の戦いは、日本の海戦史における一大転換点であった。それは、「経験と数」に裏打ちされた伝統的戦術が、「技術革新」によって生まれた新しい戦術思想の前に完膚なきまでに打ち破られた瞬間であった。毛利方の敗因は、過去の成功体験に固執し、敵がもたらした技術的パラダイムシフトに対応できなかったことに尽きる。一方、織田方の勝因は、鉄甲船というハードウェアの優越性だけでなく、その性能を最大限に引き出す「遠距離からの火力集中による敵中枢の破壊」という、当時としては極めて近代的な海戦術を実践した点にある。この一戦により、瀬戸内海におけるパワーバランスは劇的に変化し、鞆の浦をめぐる抗争は新たな局面を迎えることになった。


【表1:第一次・第二次木津川口の戦い 比較分析】

項目

第一次木津川口の戦い (1576年7月)

第二次木津川口の戦い (1578年11月)

年月日

天正4年7月13日

天正6年11月6日

指揮官(織田方)

真鍋貞友、沼野氏、宮崎氏など

九鬼嘉隆、滝川一益

指揮官(毛利方)

村上元吉、浦宗勝など

村上武吉

艦隊規模(織田方)

約300艘

鉄甲船6隻、大安宅船1隻

艦隊規模(毛利方)

約700~800艘

約600艘

主力兵器(織田方)

火矢、鉄砲

大砲、大鉄砲、鉄甲船

主力兵器(毛利方)

焙烙火矢

焙烙火矢

戦術(織田方)

海上封鎖、接舷白兵戦

遠距離からの火力集中、敵中枢の破壊

戦術(毛利方)

数の優位による包囲、焙烙火矢による焼討

数の優位による包囲、焙烙火矢による焼討

結果

毛利水軍の圧勝

織田水軍の圧勝

勝敗の決定要因

焙烙火矢の技術的優位性と艦隊経験の差

鉄甲船の防御力と大砲の火力の技術的優位性


第五章:潮の流れは変わる - 抗争の終焉と瀬戸内海の新たな秩序(1579年~1592年)

戦略的帰結 - 包囲網の崩壊

第二次木津川口の戦いにおける毛利水軍の惨敗は、鞆の浦を政治的中心とする反信長包囲網にとって致命的な打撃となった。

第一に、石山本願寺への海からの補給路は完全に、そして永久に断たれた 33 。これにより本願寺は完全に孤立し、その抵抗力は急速に失われていった。第二に、播磨の三木城に籠城する別所長治など、毛利氏の海上支援を生命線としていた他の反織田勢力もまた、補給を絶たれることになった 39 。これらの拠点は羽柴秀吉による執拗な兵糧攻めの前に次々と陥落。そして天正8年(1580年)8月、10年以上にわたって信長を苦しめ続けた石山合戦は、ついに本願寺の開城という形で終結した 9 。信長包囲網の最大の軍事拠点が消滅したことで、織田・毛利の力関係は決定的に織田方優位へと傾いた。

この一連の抗争は、図らずも羽柴秀吉の台頭を促す土壌を形成した。織田と毛利という二大勢力が瀬戸内海を挟んで約10年間にわたり睨み合い、互いに消耗し続けたことで、どちらも決定的な勝利を掴めずにいた。この長期にわたる膠着状態が、当時まだ織田家の一将軍であった秀吉に、中国方面軍の司令官として独自の権力基盤を築き、軍事的・政治的手腕を発揮するための時間と舞台を与えたのである。鞆の浦を発端とするこの大抗争は、結果的に二大強国を疲弊させ、第三の勢力である秀吉が天下を掌握するための絶好の機会を創出したと言える。

本能寺の変と毛利の岐路 (1582年6月)

天正10年(1582年)、秀吉は毛利方の備中高松城に対して世に名高い水攻めを行っていた。毛利輝元、吉川元春、そして小早川隆景らが率いる毛利本隊が城の救援に駆けつけ、両軍は決戦寸前の状況で対峙していた 7 。その最中、6月2日に京都で本能寺の変が勃発し、織田信長が横死するという衝撃的な報が秀吉の陣にもたらされる。

この国家的な危機に際し、秀吉は驚異的な速さで毛利方との和睦交渉をまとめる。この交渉を仲介したのが、毛利家の外交僧である安国寺恵瓊であった。毛利家中では、信長の死を好機と捉え、秀吉を追撃すべしとの強硬論(特に吉川元春)も根強かった。しかし、ここで冷静に時勢を読み、秀吉との和睦こそが毛利家の存続に繋がる道であると強く主張し、輝元を説得したのが、叔父の小早川隆景であった 12 。彼の現実的な政治判断により、毛利氏は秀吉の「中国大返し」を黙認。この決断が、結果的に秀吉を信長の後継者の地位へと押し上げ、毛利家自身も豊臣政権下でその地位を保全する道を開くことになった。

毛利水軍の変容と鞆幕府の終焉

信長が死に、秀吉が天下統一への道を突き進む中で、瀬戸内海の情勢も大きく変化した。

かつて織田水軍と死闘を繰り広げた毛利水軍(小早川水軍、村上水軍)は、今や豊臣政権の軍事力の一部として組み込まれた。彼らは秀吉の命令の下、天正13年(1585年)の四国征伐、天正15年(1587年)の九州征伐において、その卓越した海上機動力を活かして先鋒を務め、秀吉の天下統一事業に大きく貢献した 11 。敵から味方へというこの劇的な変容は、戦国乱世の流動性を象徴する出来事であった。

一方、抗争の政治的中心であった足利義昭と「鞆幕府」の権威は、その庇護者であった毛利氏が秀吉に従属するにつれて急速に失われていった。天正15年(1587年)、義昭は11年間滞在した鞆の浦を去る 5 。そして翌天正16年(1588年)、義昭はついに将軍職を朝廷に返上。これにより室町幕府は名実ともに滅亡し、「鞆幕府」もその歴史的役割を完全に終えたのである 2

新たな海上秩序 - 海賊停止令 (1588年)

天正16年(1588年)、天下統一を目前にした秀吉は、全国に向けて「海賊停止令」を発布した。これは、村上氏をはじめとする瀬戸内の海賊衆(水軍)が伝統的に行ってきた、航行する船からの通行料(関銭)の徴収や、独自の海上警備活動などを全面的に禁止するものであった 49 。この法令により、彼らは独立した海上勢力としての存在を許されなくなり、いずれかの大名の家臣として完全に組み込まれるか、あるいは歴史の舞台から姿を消すかの選択を迫られた。これは、中世以来続いてきた海の「自由」と「割拠」の時代の終わりを告げ、海が中央集権国家の厳格な管理下に置かれる新たな時代の幕開けを意味するものであった。

時代の転換点 (1592年)

文禄元年(1592年)、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)が開始される。この戦役において、かつて木津川口で互いに死力を尽くして戦った毛利水軍と九鬼嘉隆の水軍は、豊臣秀吉の命令の下、同じ「日本丸」の旗の下で、同盟軍として朝鮮水軍と戦うことになった 52 。これは、鞆の浦に端を発した約20年間にわたる瀬戸内海の覇権を巡る抗争が完全に終結し、統一された国家による新たな海上秩序が確立されたことを、何よりも雄弁に物語る象徴的な出来事であった。

結論:歴史的意義 - 「鞆の浦をめぐる抗争」が戦国時代に残したもの

本報告書で詳述してきた「鞆の浦海戦」とは、備後国鞆の浦という一点で起きた単一の戦闘を指すものではない。それは、将軍・足利義昭の亡命政権「鞆幕府」という政治的シンボルを核として、天正元年(1573年)から豊臣秀吉による天下統一が完成するまでの約20年間にわたり、瀬戸内海の支配権を巡って繰り広げられた、織田・毛利という二大勢力の国家的総力戦であった。

この長期にわたる抗争が戦国時代の歴史に残した意義は、主に三つの点に集約される。

第一に、 日本の海戦史における技術と戦術の転換点となった ことである。毛利水軍が用いた「焙烙火矢」は、従来の海戦の常識を覆す強力な焼夷兵器であった。これに対し、織田信長は「鉄甲船」という、防御力と火力を飛躍的に向上させた革命的な軍船で応酬した。この技術的応酬は、日本の海戦を、伝統的な接舷白兵戦術が主体であった時代から、兵器の性能と火力が勝敗を決する近代的戦術の時代へと移行させる大きな契機となった。

第二に、 天下統一の帰趨に決定的な影響を与えた ことである。第二次木津川口の戦いにおける織田水軍の勝利は、石山本願寺への補給路を断ち、10年に及ぶ石山合戦を終結へと導いた。これにより、織田・豊臣政権は畿内における最大の抵抗勢力を排除し、毛利氏が支配する西国への道を切り開くことに成功した。この瀬戸内海における制海権の確保なくして、秀吉による天下統一はあり得なかったであろう。

第三に、新たな海上秩序を誕生させたことである。この抗争の過程とその後の豊臣政権による「海賊停止令」を経て、かつて瀬戸内海を自由に闊歩し、独自の勢力を誇った村上水軍のような独立海上勢力は解体・再編された。海は、大名や中央政権の厳格な管理下に置かれる「公の海」へと変貌を遂げた。これは、中世的な割拠と自立の時代の終焉と、統一された近世国家の幕開けを象

徴する、極めて重要な歴史的変化であった。

総じて、「鞆の浦をめぐる抗争」は、戦国乱世の最終局面において、政治・軍事・技術のあらゆる側面が複雑に絡み合いながら、日本の歴史を新たな時代へと押し進めた、一大転換期を象徴する戦略的抗争であったと結論付けられる。

巻末付録

【表2:「鞆の浦をめぐる抗争」関連年表(1573年~1592年)】

西暦 (和暦)

政治的動向(鞆幕府関連)

軍事的動向(陸上)

軍事的動向(海上)

技術・政策

1573 (天正元)

7月: 足利義昭、槙島城の戦いで信長に敗れ京都を追放される 2

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1574 (天正二)

義昭、各地を流浪。

9月: 信長、伊勢長島一向一揆を殲滅 9

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1575 (天正三)

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5月: 長篠の戦いで織田・徳川連合軍が武田軍に圧勝。

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1576 (天正四)

2-4月: 義昭、備後国鞆の浦へ動座し「鞆幕府」を樹立 3

5月: 石山合戦が再燃。信長、石山本願寺を包囲 8

7月: 第一次木津川口の戦い。毛利水軍が焙烙火矢で織田水軍を破り、本願寺へ兵糧搬入 8

信長、九鬼嘉隆に鉄甲船の建造を命じる 11

1577 (天正五)

義昭、鞆から反信長勢力に御内書を発給。

10月: 羽柴秀吉、中国攻めを開始。播磨へ進軍 7

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1578 (天正六)

義昭の調略により荒木村重が信長に反旗を翻す 2

10月: 有岡城の戦いが始まる。

11月: 第二次木津川口の戦い。九鬼嘉隆の鉄甲船6隻が毛利水軍600艘を撃破。制海権を奪取 8

6月: 鉄甲船6隻が伊勢大湊で竣工 11

1579 (天正七)

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6月: 秀吉、竹中半兵衛の策で三木城の兵糧道を遮断。9月: 有岡城落城。

毛利氏から三木城への海上補給が困難となる 39

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1580 (天正八)

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1月: 三木合戦終結(三木の干殺し)。8月: 石山本願寺、信長と和睦し開城。石山合戦終結 9

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1581 (天正九)

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10月: 秀吉、鳥取城を攻略(鳥取の渇え殺し)。

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1582 (天正十)

義昭、常国寺を御座所とする 5

4月: 秀吉、備中高松城を水攻め。6月: 本能寺の変。秀吉、毛利氏と和睦し「中国大返し」 42

秀吉の調略により、来島村上氏が毛利氏から離反 11

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1583 (天正十一)

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4月: 賤ヶ岳の戦いで秀吉が柴田勝家を破る。

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1585 (天正十三)

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6-8月: 秀吉、四国征伐。

小早川隆景率いる毛利水軍が先鋒として伊予に上陸 11

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1586 (天正十四)

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12月: 秀吉、九州征伐を開始。

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1587 (天正十五)

義昭、鞆の浦を去る 5

7月: 九州平定完了。

毛利水軍、九州征伐に参加 47

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1588 (天正十六)

1月: 義昭、将軍職を朝廷に返上。室町幕府滅亡 2

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7月: 豊臣秀吉、「海賊停止令」を発布 11

1590 (天正十八)

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7月: 小田原征伐完了。秀吉、天下統一を達成。

九鬼嘉隆、小早川隆景らが水軍を率いて参陣 22

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1592 (文禄元)

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4月: 文禄の役が始まる。

毛利水軍、九鬼水軍などが豊臣連合水軍として朝鮮へ出兵 52

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引用文献

  1. 鞆の浦の歴史を知る時間旅行に出かけよう - 鞆物語 https://tomonoura.life/about/history/
  2. 鞆幕府 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9E%86%E5%B9%95%E5%BA%9C
  3. 将軍・足利義昭の流浪の旅 ~信長に京を追放されてから亡命政権(鞆幕府)に落ち着くまで https://sengoku-his.com/841
  4. 毛利と組んで信長に対抗!足利義昭による幻の「鞆幕府」の実態とは【謎解き歴史紀行「半島をゆく」歴史解説編】 | サライ.jp https://serai.jp/tour/20872
  5. 広報ふくやま2020年10月特集3「鞆幕府に迫る」 - 福山市 https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/site/koho-202010/200937.html
  6. コーナー展「鞆幕府 将軍足利義昭」の会期延長! - 日本遺産ポータルサイト https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/news/1615/
  7. 中国攻め - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%94%BB%E3%82%81
  8. 木津川口の戦い古戦場:大阪府/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kidugawaguchi/
  9. 石山合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B1%B1%E5%90%88%E6%88%A6
  10. 第一次木津川口の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E6%9C%A8%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E5%8F%A3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  11. 織田信長をも悩ませた瀬戸内海の覇者・村上水軍のその後とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/12188
  12. 秀吉の信頼厚い豊臣政権の大老格、小早川隆景「戦国武将名鑑」 - Discover Japan https://discoverjapan-web.com/article/57687
  13. 真鍋貞成 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E9%8D%8B%E8%B2%9E%E6%88%90
  14. 木津川口の戦いと村上海賊 - 北条高時.com https://hojo-shikken.com/entry/2014/06/11/213000
  15. [合戦解説] 5分でわかる木津川口の戦い 「毛利水軍の焙烙火矢に敗北した信長は巨大鉄甲船で立ち向かう」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=tCpQZIc-N5I
  16. [合戦解説] 5分でわかる木津川口の戦い 「毛利水軍の焙烙火矢に敗北した信長は巨大鉄甲船で立ち向かう」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=tCpQZIc-N5I
  17. 潮の流れを味方にした村上海賊! - 放送内容|所さんの目がテン!|日本テレビ https://www.ntv.co.jp/megaten/oa/20180617.html
  18. 火矢 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%9F%A2
  19. PR 鳥羽湾に九鬼水軍と「信長の鉄甲船」がARで出現!陸上で、船上で、その迫力を体感せよ! https://shirobito.jp/article/2018
  20. 信長の鉄甲船の復元模型、阿武丸 木津川口の戦いで活躍|信長と九鬼嘉隆の鉄甲船 | 鉄甲船の復元模型を狭山造船所京橋船台で建造 https://www.sayama-sy.com/
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  22. 九鬼 嘉隆 について | 九鬼プロジェクトHP - 鳥羽市観光協会 https://toba.gr.jp/kuki-project/about/
  23. 九鬼嘉隆とは 毛利水軍を破り李舜臣に挑む海賊 - 戦国未満 https://sengokumiman.com/kukiyositaka.html
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  31. 戦国時代の船 おうちで村上海賊‟Ⅿurkami KAIZOKU" №9 http://suigun-staff.blogspot.com/2020/05/urkami-kaizoku9.html
  32. 信長の時代の軍船 | 信長の鉄甲船の復元模型、阿武丸 https://www.sayama-sy.com/lb
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  37. 【歴史のif】織田の巨大鉄甲船を沈める方法はある? こうすれば村上水軍は勝てた…かも!? https://www.youtube.com/watch?v=AYRraEcPFPg
  38. 木津川口海戦(第一次・第二次)/ 雑賀攻め |失敗続きの信長、大規模海戦を決断!! - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=UtnB3hwS__E
  39. 秀吉が2年に渡って兵糧攻めを行った「三木合戦」の顛末。別所長治ら戦国武将の凄惨な最期とは https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/70936/
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  41. 三木城 http://www.tokugikon.jp/gikonshi/309/309shiro.pdf
  42. 「毛利家は天下を望まない」秀吉に恩を売った智将・小早川隆景の判断力 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/11526
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  46. 長宗我部元親と毛利氏 2 - 安芸の夜長の暇語り - FC2 http://tororoduki.blog92.fc2.com/blog-entry-71.html
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  48. 1587年 – 89年 九州征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1587/
  49. 戦国時代に瀬戸内海で大活躍した日本の海賊王「村上水軍」について紹介 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/175906
  50. にっぽん風土記 -瀬戸内海- | 花まるグループ コラム https://www.hanamarugroup.jp/column/2012/302/
  51. 村上武吉(むらかみ たけよし) 拙者の履歴書 Vol.262~海賊から名将へ - note https://note.com/digitaljokers/n/n2e611c5f8ba6
  52. 戦国時代から江戸時代にかけて水軍は天下統一の渦の中に巻き込まれ http://www.zenkaiun.or.jp/wp/wp-content/uploads/2014/08/kaiunshi4_2.pdf