最終更新日 2025-09-07

須賀川城の戦い(1589)

天正17年、伊達政宗は叔母の阿南姫が守る須賀川城を攻めた。家臣の裏切りもあり城は一日で落城。政宗は南奥州を制圧するが、惣無事令違反で領地は没収された。

天正十七年 須賀川城の戦い - 奥州の終焉と女城主の決断 -

序章:天正十七年、奥州動乱の極点

天正17年(1589年)、日本の歴史が大きく動いたこの年は、中央において豊臣秀吉による天下統一事業が最終段階を迎え、遠く離れた奥州の地においても、一つの時代の終わりを告げる激しい動乱が頂点に達していた。本報告書は、同年10月26日に陸奥国須賀川城(現在の福島県須賀川市)で繰り広げられた「須賀川城の戦い」について、その全貌を徹底的に解明することを目的とする。この戦いは、単なる一地方の城を巡る攻防戦ではない。それは、奥州の独立性が失われ、中央集権の波に飲み込まれていく時代の転換点を象徴する事件であった 1

物語の主役は二人。一人は、父・輝宗の非業の死を乗り越え、破竹の勢いで南奥州の覇権を目前にする伊達家17代当主、伊達政宗。そしてもう一人は、その政宗の叔母でありながら、嫁ぎ先である二階堂家の誇りを守るため、甥の野望に敢然と立ちはだかった女城主、阿南姫(法号:大乗院)。骨肉の対立という悲劇的な構図の中で、須賀川城から立ち上った炎は、戦国乱世の終焉を告げる狼煙でもあった。本報告書では、合戦に至るまでの政治的・軍事的背景、城内で繰り広げられた人間模様、そして戦闘のリアルタイムな推移を時系列で詳述し、この戦いが持つ多層的な歴史的意義を明らかにしていく 3

第一章:摺上原の風、須賀川へ - 合戦に至る道程

須賀川城の悲劇を理解するためには、その僅か四ヶ月前に、奥州の勢力図を根底から覆した一大決戦から筆を起こさねばならない。伊達政宗の生涯における最大の勝利と、その勝利が内包していた危うい政治的矛盾。その全てが、須賀川城へと繋がる道程を形作っていた。

第一節:独眼竜の野望と蘆名氏の滅亡

天正12年(1584年)に18歳で家督を継いだ伊達政宗は、翌年の父・輝宗の死を契機に、凄まじい勢いで領土拡大を開始した。天正13年(1585年)11月、佐竹・蘆名を中心とする反伊達連合軍3万に対し、7千の兵で辛うじてこれを退けた人取橋の戦いを経て、政宗は南奥州統一の野望をさらに燃え上がらせていく 6 。その野望の前に最大の障壁として立ちはだかったのが、会津黒川城を本拠とする名門、蘆名氏であった。

そして天正17年(1589年)6月5日、両者の雌雄を決する「摺上原の戦い」の火蓋が切られた 8 。磐梯山麓の摺上原に、伊達軍は約21,000から23,000、対する蘆名軍は約16,000から18,000の兵力を集結させた 8 。兵力では伊達軍が優越していたが、勝敗を決定づけたのは兵数以上に、両軍の内部事情の差であった。蘆名軍は、当主・蘆名義広(佐竹義重の子)が家臣団を完全に掌握しきれておらず、加えて重臣である猪苗代盛国が事前に政宗に内応するという致命的な問題を抱えていた 12

合戦は当初、風上に立った蘆名軍が優勢に進めたものの、午後になって風向きが変わると戦況は一変。勢いに乗った伊達軍の猛攻の前に蘆名軍は総崩れとなり、義広は黒川城を捨てて実家の佐竹氏のもとへ敗走した 7 。これにより、鎌倉時代から続く会津の名門・蘆名氏は事実上滅亡し、政宗は会津四郡をはじめとする広大な領地を手中に収めたのである 8

この摺上原での地滑り的な勝利は、単に会津地方を伊達領としただけではなかった。それは、長年にわたり蘆名氏の権威と軍事力に依存してきた周辺の国人領主たち、とりわけ二階堂氏にとって、絶対的な「後ろ盾」の消滅を意味した。須賀川城は、政宗が形成する巨大な勢力圏の真っ只中に浮かぶ孤島と化した。この圧倒的な地政学的変化は、二階堂家臣団に対し、「伊達に降るか、滅びるか」という冷徹な現実を突きつけ、来るべき内部崩壊の直接的な引き金となったのである。

第二節:天下人の影 - 惣無事令という名の枷

政宗が奥州で覇業を推し進めていた頃、中央では豊臣秀吉による天下統一が最終段階に入っていた。秀吉は天正13年(1585年)に関白に就任すると、全国の大名に対し、大名間の私的な領土紛争を禁じ、全ての争いを豊臣政権の裁定に委ねるよう命じた。これが「惣無事令」である 14 。この法令は天正15年(1587年)には奥羽両国にも適用されており、これに違反する者は、天皇の権威を代行する関白への反逆と見なされ、討伐の対象となる、という新しい時代のルールであった 8

政宗の摺上原の戦いをはじめとする一連の軍事行動は、この惣無事令への明確かつ意図的な違反行為であった 2 。彼は秀吉の絶大な権力を知らなかったわけではない。むしろ、知り抜いていたからこそ、危険な賭けに出たのである。彼の狙いは、秀吉が天正18年(1590年)に予定されていた小田原北条氏征伐という大事業に集中している時間的猶予を利用し、奥州仕置が本格的に断行される前に、南奥州一帯を武力で制圧するという「既成事実」を可能な限り作り上げることだった。そして、その既成事実を秀吉に追認させ、有利な条件で豊臣政権下に組み込まれることを画策していた。

この観点から見れば、須賀川城攻略は、政宗の野望の最後のピースを埋めるための、極めて政治的かつ投機的な軍事行動であった。それは旧来の戦国時代の論理に則った領土拡大であると同時に、新しい時代の秩序に対する大胆な挑戦でもあった。しかし、この挑戦が最終的に自らの首を絞めることになるとは、勝利に沸く当時の政宗はまだ知る由もなかった。

第二章:落日の名門、二階堂氏 - 分裂する城内

伊達政宗という圧倒的な軍事力が迫る中、須賀川城内では激しい動揺と対立が渦巻いていた。その中心にいたのは、相次ぐ悲劇に見舞われながらも、家の命運を一身に背負った女城主・阿南姫であった。彼女の決断と、それに伴う家臣団の分裂が、須賀川城の運命を決定づけた。

第一節:女城主・阿南姫の生涯と決意

阿南姫は天文10年(1541年)、伊達家14代当主・伊達晴宗の長女として生まれた 4 。やがて彼女は政略結婚により、須賀川城主・二階堂盛義の正室となる。夫・盛義は武勇よりも文雅を好む人物であったとされ、夫婦仲は円満であったと伝わる 19 。二人の間には長男・平四郎(後の蘆名盛隆)と次男・行親が生まれたが、その平穏は長くは続かなかった。二階堂氏が蘆名氏との抗争に敗れた結果、幼い平四郎は人質として蘆名家に送られることになる 19 。しかし運命の皮肉か、蘆名家の嫡子が早世したため、人質であった平四郎が蘆名家18代当主・盛隆として家督を継ぐという数奇な展開を迎えた 20

ところが、天正9年(1581年)に夫・盛義が世を去ると、悲劇が立て続けに阿南姫を襲う。跡を継いだ次男・行親が翌天正10年(1582年)に急死、さらに天正12年(1584年)には会津で権勢を振るっていた長男・盛隆までもが家臣に暗殺されてしまう 20 。夫と二人の息子に先立たれた阿南姫は出家して大乗院と号し、自らが須賀川城主として、風前の灯火であった二階堂家を率いることを余儀なくされたのである 22

摺上原の戦いの後、甥である政宗から手厚い待遇を約束された降伏勧告が届く。しかし、阿南姫はこれを断固として拒絶した 3 。その決意の背景には、複雑な感情が絡み合っていた。第一に、政宗が二階堂氏の宿敵であった田村氏(政宗の正室・愛姫の実家)と手を組み、自領を脅かしたことへの根深い恨み。第二に、最愛の息子・盛隆が継いだ蘆名家を無慈悲に滅ぼしたことへの燃えるような憎しみ。第三に、長年同盟関係にあり、蘆名家滅亡後も反伊達の姿勢を崩さない佐竹氏や岩城氏(阿南姫の兄・親隆が養子に入った家)への義理と恩義。そして最後に、伊達家の血を引く者でありながら、嫁ぎ先である二階"堂家の当主として、その誇りを最後まで守り抜くという、女城主としての矜持があった 3

彼女の決断は、単なる感情的な意地ではなかった。それは、彼女が「伊達晴宗の娘」であることよりも、「二階堂盛義の妻」であり「須賀川城主」であることを選んだという、主体的なアイデンティティの表明であった。血縁という抗いがたい絆よりも、婚姻によって結ばれた地縁と、それによって形成された南奥州の政治的秩序を優先した彼女の姿は、戦国の女性が単なる政略の駒ではなく、自らの意思で運命を選択しようとした政治的存在であったことを雄弁に物語っている。

第二節:忠誠と内通 - 親伊達派と反伊達派の相克

阿南姫の徹底抗戦の決意は、しかし、一枚岩ではなかった二階堂家臣団の亀裂を決定的なものとした。当時の二階堂家は、大きく二つの派閥に分裂していた 3

一方は、筆頭家老である須田美濃守盛秀を中心とする反伊達派である 25 。彼らは主に岩瀬郡の東部を地盤とする国衆や、古くからの譜代の家臣たちで構成されていた 23 。須田盛秀は早くから佐竹氏と連携し、伊達政宗の勢力拡大に対抗してきた強硬派であり、阿南姫の決意を全面的に支持した 25

もう一方は、一門衆の筆頭格である保土原行藤(江南斎)や浜尾氏らを中心とする親伊達派であった 27 。彼らは岩瀬郡西部に地盤を持ち、伊達領と接していることから、政宗の圧倒的な力を肌で感じていた 23 。彼らにとって、主家であった蘆名氏が滅亡した今、伊達に抗戦することは無謀な自滅行為に他ならず、早期に帰順することこそが家名を保つ唯一の道であると考えていた。

政宗はこの内部対立を見逃さなかった。摺上原の戦いの後、9月の時点で既に二階堂家の重臣たちに内通を促す密書を送り、調略を仕掛けていた 3 。当時の状況を記した白河氏家臣の書状には、「大乗院(阿南姫)が(親伊達派の)箭部義政と(反伊達派の)須田盛秀の両重臣を政務から排除しようとしたため、政宗に寝返る家臣が続出している」という記述があり、城内の混乱が外部にまで漏れていたことがうかがえる 3 。政宗の須賀川攻めは、須田盛秀ら反伊達派の排除を主目的としており、親伊達派の寝返りを前提とした、極めて政治色の濃い軍事作戦であった 3

須賀川城の落城は、伊達軍の猛攻という外的要因と同じくらい、内部からの崩壊という内的要因によってもたらされたのである。家臣団の分裂は、単なる忠誠心の欠如や裏切りという言葉だけでは片付けられない。それは、戦国という旧時代の秩序が崩壊し、新たな強者が登場する中で、いかにして生き残るかという二つの異なる生存戦略の悲劇的な衝突であった。政宗は、軍事力で城壁を打ち砕く前に、調略という刃で城内の結束を巧みに切り裂いていたのである。

第三章:天正十七年十月二十六日 - 須賀川城、炎上の一日

摺上原の戦いから四ヶ月余りが過ぎた天正17年(1589年)10月26日、ついに運命の日が訪れた。伊達政宗率いる大軍が須賀川城に殺到し、奥州の歴史に深く刻まれる壮絶な一日が幕を開けた。

序:両軍の配備と開戦前夜

総攻撃に先立つ10月21日、阿南姫は城内の家臣や町民を集め、徹底抗戦の意志を改めて宣言した。これに対し、家臣の矢部伊予守は降伏を進言したが、阿南姫は聞き入れなかった 3 。城内には悲壮な覚悟が満ちていた。援軍として、甥の岩城常隆からは竹貫重光が率いる弓隊500と植田但馬守の鉄砲隊300、そして義理の兄弟である佐竹義重からは河井甲斐守率いる200の兵が到着し、籠城軍に加わった 3

須賀川城は、東を流れる釈迦堂川を天然の外堀とし、湿地帯に囲まれた八幡崎城などの支城を巧みに配置した堅城であった 22 。しかし、両軍の兵力差は絶望的であった。

【表1】須賀川城の戦い 両軍兵力および布陣比較

伊達軍

総兵力

総大将

本陣

主要武将・部隊配置

二階堂籠城軍

総兵力

城主

総大将

主要武将・防衛配置

10月26日未明、伊達政宗は須賀川城の北西に位置する山寺山王山(かつての二階堂家臣・遠藤氏の居城)に本陣を構えた 3 。眼下には、最後の抵抗を試みる叔母の城が静かに横たわっていた。

辰の刻(午前八時頃):全軍、総攻撃開始

辰の刻(午前8時頃)、日の出とともに伊達軍の総攻撃が開始された 26 。伊達勢の先鋒、新国貞通や白石宗実らの部隊が、城の南西に位置する八幡崎城と大黒石口に鬨の声を上げて殺到した 3

これを迎え撃つのは、総大将・須田盛秀が自ら指揮を執る籠城軍の主力であった。須田勢や塩田勢は数に劣りながらも奮戦し、凄まじい白兵戦が繰り広げられた。特に、岩城からの援軍として参陣していた竹貫勢の家臣・水野勘解由は「竹貫の強弓」と恐れられた弓の名手であり、その矢は次々と伊達兵を射抜き、攻め寄せる敵に大きな損害を与えたと記録されている 3 。また、八幡崎城の守備にあたっていた遠藤壱岐守も鬼神の如く戦い、その勇猛さは敵である政宗をして「希代の逸物(きせいのいちもつ)」と賞賛せしめた。彼は捕虜となった後、その武勇を惜しまれて伊達家に仕えることとなる 32

午前中:雨呼口の激戦

政宗の本陣に最も近い北西の攻め口である雨呼口でも、開戦と同時に激しい戦闘が始まった 26 。ここは伊達成実、大内定綱・片平親綱兄弟といった伊達軍の精鋭が攻めかかった最重要拠点であった 3 。守るは岩城からの援軍・竹貫中務少輔の部隊と、二階堂四天王の一人・守屋俊重の部隊。両軍一歩も譲らぬ一進一退の攻防が続いた。しかし、この雨呼口には、須賀川城の運命を決定づける裏切りが潜んでいた。

午後:裏切りの狼煙 - 長禄寺炎上

戦況が膠着し始めた午後、ついに政宗が仕掛けていた調略が牙を剥いた。雨呼口の守将の一人でありながら、かねてより政宗に内通していた守屋俊重が動いたのである 23

守屋は配下の織部・金平兄弟に密命を下し、城の裏手にある二階堂家の菩提寺・長禄寺に火を放たせた 3 。折からの強風に煽られた炎は、瞬く間に燃え広がり、城下町を舐め尽くし、やがて須賀川城の本丸にまで燃え移った 3 。城内は炎と黒煙に包まれ、指揮系統は寸断され、籠城軍は大混乱に陥った。これが、落城への合図であった。

申の刻(午後四時頃)~酉の刻(午後六時頃):最後の抵抗と落城

城内の混乱を好機と見た伊達軍は、全軍に総攻撃を命じた。炎と煙の中からなだれ込む伊達兵に対し、籠城軍はもはや組織的な抵抗は不可能であった。本丸を守っていた重臣・遠藤勝重は最後まで奮戦したが、嫡男と共に討死 26 。塩田右近大夫らも各所で最後の抵抗を試みたが、討ち取られるか、あるいは自害して果てた 26

本丸にいた阿南姫は、もはやこれまでと自害を試みたが、側近たちに制止され、燃え盛る城から辛くも脱出した 3 。夕刻、須賀川城は完全に伊達軍の手に落ちた。女城主の気丈な抵抗も、家臣の裏切りと圧倒的な兵力差の前には及ばず、わずか一日で終結した壮絶な攻防戦は、ここに幕を下ろしたのである 3

第四章:戦塵の果てに - 勝者と敗者の行方

須賀川城から立ち上った煙が消え去った後、勝者と敗者にはそれぞれ異なる運命が待ち受けていた。政宗の勝利は束の間の栄光となり、敗れた者たちは流転の人生を歩むことになる。そして、この戦いの記憶は、鎮魂の炎として後世に受け継がれていった。

第一節:束の間の支配と奥州仕置

戦後処理として、伊達政宗は陥落させた須賀川城を、自らの一門であり阿南姫の弟でもある石川昭光に与えた 3 。摺上原の勝利に続き、仙道の要衝である須賀川を手中に収めたことで、政宗の勢力は南奥州のほぼ全域に及び、その生涯における最大版図を現出した。天正18年(1590年)の正月を会津黒川城で迎えた政宗は、「七種(ななくさ)を一葉によせてつむ根芹」という句を詠み、仙道七郡を平定した得意の絶頂にあった 2

しかし、その栄光はあまりにも儚かった。同年、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして小田原北条氏を滅ぼすと、すぐさま奥州へと軍を進め、領土の再編、すなわち「奥州仕置」を断行した 1 。小田原への参陣が遅れた政宗は秀吉の厳しい詰問を受け、惣無事令違反の咎により、摺上原の戦いや須賀川城の戦いで得た会津、岩瀬、安積などの領地を全て没収されたのである 1

この一連の出来事は、政宗にとって痛恨事であった。須賀川城での軍事的な大勝利は、中央の新しい政治秩序の前では全くの無力であり、結果として政治的な完敗に終わった。この経験は、戦国時代が「武」の力だけで領地を切り取れた時代から、「天下人」の権威に服することで領地を安堵される「政」の時代へと完全に移行したことを、政宗自身に骨身に染みて理解させる、象徴的な出来事となったのである。

第二節:流転の生涯 - 阿南姫と須田盛秀のその後

敗者となった須賀川城の主要人物たちは、それぞれ対照的な後半生を送ることになる。

【表2】主要人物の動向年表(天正17年~慶長7年)

年/月

天正17年(1589) 6月

天正17年(1589) 10月

天正18年(1590) 5-7月

天正18年(1590) 10月

天正19年(1591)

慶長5年(1600)

慶長7年(1602)

寛永2年(1625)

阿南姫の流転:

城を落ちた阿南姫は、最後まで甥・政宗の庇護を受けることを潔しとせず、気丈な誇りを貫き通した 3。まず甥の岩城常隆を頼ったが、翌年に常隆が急死。そのため、さらに別の甥である常陸の佐竹義宣のもとへ身を寄せた 4。慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いの結果、佐竹氏が羽州秋田へ転封となると、彼女もそれに従った。しかしその道中、故郷である須賀川の地で病に倒れ、62年の波乱の生涯を閉じた。彼女の墓は、かつて自らが守った城下を見下ろす長禄寺に今も静かに佇んでいる 4。

須田盛秀の再起:

一方、総大将として最後まで戦い抜いた須田盛秀は、落城後に常陸へ脱出し、佐竹義宣に仕えた 40。その武勇と才覚は高く評価され、新参ながら茂木城代を任されるなど重用された 25。佐竹氏の秋田移封にも従い、横手城代となって城下町の整備や治水事業に手腕を発揮し、「天下の三美濃」と称えられるほどの活躍を見せた 29。寛永2年(1625年)、96歳という長寿を全うし、新天地でその生涯を終えた 25。

阿南姫と須田盛秀の対照的な後半生は、滅びゆく旧勢力に殉じた者と、新しい秩序の中で自らの才覚を武器に生き抜いた者の違いを象徴している。阿南姫は最後まで「二階堂家の女城主」としての矜持を捨てなかったが故に、安住の地を得ることなく流浪の生涯を送った。対照的に、須田盛秀は二階堂家への忠誠を全うした上で、現実的に次の主君を見出し、その能力を存分に発揮して天寿を全うした。これは、戦国末期から近世へと移行する激動の時代を生きた武士の、二つの異なる生き様を鮮やかに示している。

第三節:鎮魂の炎 - 松明あかしの起源と継承

須賀川城の戦いの記憶は、悲劇としてだけではなく、地域を代表する勇壮な祭りとして現代に受け継がれている。それが、日本三大火祭りの一つに数えられる「松明あかし」である 44

この祭りの起源には二つの説が伝わる。一つは、籠城戦の直前、決死の覚悟を決めた家臣や領民たちが、手に松明を掲げて城主のもとに参集したという故事に由来するというもの 45 。もう一つは、落城後、この戦いで亡くなった二階堂・伊達双方の兵士たちの霊を弔うための鎮魂の行事として始まったというものである 3

いずれにせよ、この祭りは戦国の悲劇を忘れることなく、その記憶を後世に伝えるためのものであった。江戸時代には領主の目を憚り「ムジナ狩り」と称して続けられたという逸話も残っている 46 。430年以上の時を経て、今では長さ10メートル、重さ3トンにもなる巨大な松明が晩秋の夜空を焦がす壮大な祭りとなり、多くの人々を魅了している 44 。須賀川の人々は、戦国の悲劇を地域の誇るべき文化遺産として昇華させ、その炎の中に、故郷の歴史と鎮魂の祈りを灯し続けているのである。

終章:須賀川城の戦いが語るもの

天正17年10月26日の須賀川城の戦いは、伊達政宗の南奥州統一事業を完成させた最後の戦いであった。しかし同時に、それは戦国時代的な「力による支配」が終焉を迎え、豊臣政権による中央集権的な「権威による秩序」へと日本社会が再編されていく、時代の大きな転換点を凝縮した象徴的な戦いであった。

政宗は軍事的には圧勝したが、その勝利の果実は、惣無事令という新しい時代のルールの前に、一夜にして奪い去られた。この事実は、もはや一地方の武勇や戦略だけでは、天下の趨勢を動かすことはできないという冷厳な現実を、奥州の覇者であった彼に突きつけた。

一方で、女城主・阿南姫の気高くも悲劇的な抵抗と、それに伴う二階堂家臣団の分裂は、時代の大きなうねりの前で、一個人の強い意志や一地方勢力の結束がいかに脆いものであったかを物語っている。彼女は血縁よりも義理と誇りを選んだが、その選択は結果として一族の滅亡を招いた。家臣たちは、旧来の忠誠と新しい時代への順応という二者択一を迫られ、城は内側から崩壊した。

須賀川城から立ち上った炎は、単に一つの城の落城を告げる煙ではなかった。それは、蘆名、二階堂といった南奥州の名門が次々と歴史から姿を消し、伊達政宗でさえもがその野望を抑え込まれる、奥州における「戦国」という時代の終わりを告げる狼煙だったのである。そしてその記憶は、鎮魂の祭り「松明あかし」の炎の中に、今なお揺らめき続けている。

引用文献

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  2. 伊達政宗の会津攻めと奥羽仕置き http://datenokaori.web.fc2.com/sub73.html
  3. 須賀川城攻防戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%B7%9D%E5%9F%8E%E6%94%BB%E9%98%B2%E6%88%A6
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  5. 伊達政宗と繰り広げた骨肉の争い!戦国時代の女城主・阿南姫の生涯【4/4】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/120922
  6. 摺上原の戦いと会津の伊達政宗 https://www.aidu.server-shared.com/~ishida-a/page030.html
  7. 人取橋(ひととりばし)と摺上原(すりあげはら)の戦い | 株式会社カルチャー・プロ https://www.culture-pro.co.jp/2022/06/17/%E4%BA%BA%E5%8F%96%E6%A9%8B%EF%BC%88%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%B0%E3%81%97%EF%BC%89%E3%81%A8%E6%91%BA%E4%B8%8A%E5%8E%9F%EF%BC%88%E3%81%99%E3%82%8A%E3%81%82%E3%81%92%E3%81%AF%E3%82%89/
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  37. 「遅れてきた戦国武将」伊達政宗。波乱万丈の人生を3分で解説! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/185670/
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  41. 和田城 和田館 須田美濃守盛秀 須賀川市 福島県 中世城館 城跡 城址 城蹟 城郭 城 館跡 南奥羽 仙道 中通り 南奥州 陸奥 東北地方 屋敷 要害 竜害 龍害 竜谷 龍谷 根古屋 根小屋 砦 物見 - 城跡ほっつき歩き http://kogasira-kazuhei.sakura.ne.jp/joukan-fukusima/wada-jou-sukagawa/wada-jou-sukagawa.html
  42. 和田城主であり、また須賀川城の家老職を勤めていた須田美濃守盛秀公は - 天仙寺 http://tensenji.com/monogatari.html
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  49. 【松明あかし】17本の巨大な火柱に込めた鎮魂の思い - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=wOIM3srs6sI