飯坂城の戦い(1590)
飯坂城の戦いは、1590年の葛西・大崎一揆に際し、伊達政宗が飯坂城を司令部として蒲生氏郷や浅野長政と政治交渉を行った。一揆扇動の疑惑を晴らすため、伊達成実を人質に差し出すなど苦渋の決断を重ね、伊達家の存亡を賭けた政治戦であった。
天正十八年 飯坂城の真実 ― 葛西・大崎一揆における伊達政宗の司令部としての役割
序章:飯坂城の「戦い」とは何か
天正十八年(1590年)、陸奥国信夫郡に位置する飯坂城は、歴史の転換点において極めて重要な役割を果たした。しかし、一般に想起されるような、城兵が矢玉を交え、白刃を振るう大規模な攻城戦がこの地で繰り広げられたという記録は、信頼に足る史料には見出されない。利用者が提示する「飯坂城の戦い」という主題は、物理的な戦闘ではなく、より複雑で、より熾烈な政略と情報戦の舞台としての歴史的実像を指し示すものである。
まず、「伊達方が接収」したという認識について、より正確な理解が必要である。飯坂城を代々居城とした飯坂氏は、伊達氏初代・伊達朝宗の四男を祖とする伊達一門の庶流であり、伊達家中において高い家格を有していた 1 。さらに、当時の城主であった飯坂右近宗康は天正十七年(1589年)に没しており、その娘は伊達政宗の側室・飯坂の局として知られている 3 。これらの事実から、1590年時点での飯坂城は、伊達本家による軍事的な「接収」の対象ではなく、事実上その管理下にあり、戦略的判断に基づき「活用」された拠点と見るのが妥当である。
本報告書が解き明かすのは、この飯坂城が、豊臣秀吉による天下統一の総仕上げ「奥州仕置」の余波として勃発した未曾有の危機、「葛西・大崎一揆」に際し、伊達政宗がその司令部として機能させたという歴史の真実である。この城で行われたのは、武器による戦闘ではなかった。それは、蒲生氏郷の猜疑心という「見えざる敵」と対峙し、豊臣政権の代理人たる浅野長政を相手取り、書状と使者、そして一門の重臣を人質として差し出すという苦渋の決断を介して繰り広げられた、伊達家の存亡を賭けた**熾烈な政治交渉という名の「戦い」**であった 5 。戦国時代の「戦い」が軍事、外交、諜報の総力戦であったことを鑑みれば、飯坂城はまさしくその最前線だったのである。本報告は、この広義の「戦い」の様相を、詳細な時系列と共に解き明かすことを目的とする。
第一部:背景 ― 奥州仕置という激震
飯坂城が歴史の表舞台に躍り出る直接的な原因は、天正十八年(1590年)に豊臣秀吉が断行した「奥州仕置」に求められる。これは単なる領地の再編ではなく、数百年にわたり形成されてきた東北地方の旧来の秩序を根底から覆す、巨大な政治的・社会的激震であった。
天下統一の総仕上げ
同年、秀吉は20万を超える大軍を動員し、関東の雄・後北条氏の拠点である小田原城を包囲した 6 。この小田原征伐は、単に北条氏を滅ぼすに留まらず、全国の全ての大名に対し、豊臣政権への絶対的な服従を求める最終通告としての意味合いを持っていた 7 。秀吉は諸大名に小田原への参陣を厳命しており、これに応じるか否かが、大名としての存続を左右する踏み絵となったのである。
奥州仕置の断行と伊達政宗の苦境
奥州の覇者として急速に勢力を拡大していた伊達政宗も、この命令の例外ではなかった。家臣団との間で参陣か抗戦かを巡る議論の末、遅れて小田原に馳せ参じ、辛うじて本領安堵は認められたものの、その過程で秀吉の不興を買った 8 。さらに、小田原参陣以前に行った摺上原の戦いが秀吉の定めた「惣無事令」違反と見なされ、会津領などを没収されるという厳しい処分を受けた 9 。
秀吉による奥州への介入は、これに留まらなかった。小田原に参陣しなかった陸奥国の大名、葛西晴信と大崎義隆に対し、秀吉は領地没収、すなわち改易という最も厳しい処分を下した 10 。葛西・大崎両氏は、当時すでに伊達氏の勢力圏に組み込まれ、事実上その従属下にあり、独自に参陣できる状況ではなかったという事情は一切考慮されなかった 12 。これは、秀吉による意図的な「見せしめ」であり、奥州の在地勢力に対して中央政権の絶対的な権力を誇示する狙いがあった。この時、政宗は秀吉から奥州仕置の「案内役」という屈辱的な役割を命じられ、かつての同盟者や敵対者の改易に手を貸さねばならないという、極めて困難な政治的立場に置かれたのである 11 。
新領主の統治と一揆の火種
葛西・大崎両氏の旧領約30万石は、秀吉の直臣である木村吉清・清久父子に与えられた 11 。しかし、木村氏は元来小身の武将であり、広大かつ複雑な在地関係を持つ奥州の地を統治する能力と経験に著しく欠けていた 11 。彼らは、秀吉の意向に沿うべく、強引な太閤検地や刀狩りを実施し、葛西・大崎の旧臣たちを冷遇した。さらに、木村氏の家臣による領民への乱暴狼藉が頻発し、領内の不満は急速に高まっていった 12 。
この事態は、単に木村吉清個人の失政のみに起因するものではない。それは、数百年にわたり続いてきた奥州の在地秩序、すなわち国人領主制という地方分権的な社会構造と、秀吉が持ち込んだ太閤検地や刀狩に象徴される中央集権的な統治システムとの間に生じた、構造的な摩擦が引き起こした必然的な爆発であった。中央の論理と在地の論理の激しい衝突が、やがて葛西・大崎一揆という形で噴出することになる。そして、この二つの論理の狭間で、伊達政宗は絶体絶命の綱渡りを強いられるのである。
第二部:葛西・大崎一揆の勃発と伊達政宗の出陣(天正18年10月~11月)
奥州仕置によってもたらされた混乱と不満は、ついに大規模な反乱となって燃え上がった。伊達政宗と、会津の新領主となった蒲生氏郷は、この未曾有の事態の鎮圧を命じられるが、その初動は疑惑と不信によって早くも暗礁に乗り上げる。
一揆の発生と拡大
天正十八年(1590年)10月初旬、木村領の加美郡米泉において、伝馬役の賦課を巡る紛争が発生した。これは公然たる抵抗運動であり、一揆の前兆と見なされている 12 。そして10月16日、旧大崎氏家臣の氏家吉継の旧居城・岩手沢城で領民らが蜂起し城を占拠したのを皮切りに、一揆は葛西・大崎の旧領全土へと燎原の火のごとく拡大した 12 。
新領主である木村吉清と息子の清久は、この事態に対応しようとしたが、一揆勢の勢いは凄まじく、名生城から戻る途中の清久が佐沼城で包囲され、救援に向かった父・吉清もろとも城に閉じ込められるという絶体絶命の窮地に陥った 12 。
豊臣政権の指令と両将の出陣
一揆勃発の報は、奥州仕置の奉行として白河に滞在していた浅野長政(長吉)のもとにもたらされた。事態を重く見た長政は、直ちに二本松城まで引き返し、伊達政宗と会津領主の蒲生氏郷に対し、一揆を鎮圧し木村父子を救出するよう命令を発した 17 。
この命令を受け、政宗は迅速に行動を開始する。10月23日には一揆鎮圧の先遣隊を派遣 17 。自身も26日には本拠地・米沢城を発ち、浅野長政の使者を伴って刈田郡白石城に着陣した 17 。その後、宮城郡利府城で情報収集を行い、11月10日には前線の拠点として黒川郡の下草城に陣を移した 17 。
一方、蒲生氏郷も長政の命令を受けて出陣。11月13日、氏郷は政宗の陣所である下草城を訪れ、両将は直接会談を行った。ここで、11月16日を期して共同で一揆勢への攻撃を開始することが申し合わされた 17 。表向きは、豊臣政権の二人の有力武将による連携が成立したかに見えた。
連携の崩壊 ― 疑惑の種
しかし、この軍議の直後、事態は急変する。伊達家の家臣である須田伯耆という人物が氏郷のもとを訪れ、「政宗は一揆勢と裏で通じており、氏郷を饗応の席で討ち果たそうと企んでいる」という衝撃的な密告を行ったのである 17 。
この密告を、氏郷は信じた。この不信感は、単に一個人の讒言によるものだけではなかった。それは、奥州の「旧体制」を代表する最大の実力者である政宗と、中央政権から送り込まれた「新体制」の旗頭である氏郷との間に横たわる、本質的な対立構造に根差していた。小田原参陣に遅参し、領地を削られたばかりの政宗は、氏郷にとって最も警戒すべき「要注意人物」であった 8 。奥州の混乱に乗じて失地回復を狙う動機は十分にあると見なされたのである。地の利のない氏郷にとって、政宗の協力なくして一揆鎮圧は困難であったが、その政宗こそが最も信用できない相手という深刻なジレンマがあった 10 。この根深い不信感が、両将の連携を水面下で完全に崩壊させ、後の異常事態を引き起こす直接の原因となった。
第三部:飯坂城司令部 ― 疑惑と交渉の最前線(天正18年12月~天正19年1月)
軍事行動が停滞し、疑惑と不信が渦巻く中、伊達政宗は戦いの舞台を前線から後方へと移す。信夫郡飯坂城は、この局面において、伊達家の命運を左右する政治交渉の司令部へと変貌を遂げた。本章では、この地で繰り広げられた緊迫の交渉劇を、詳細な時系列に沿って追う。
蒲生氏郷の名生城籠城
天正十八年(1590年)11月16日、政宗との共同作戦の開始日、蒲生氏郷は約束を反故にし、単独で行動を開始した。彼は政宗に一切連絡することなく、大崎氏の旧居城であった玉造郡の名生城を攻略すると、そのまま城に立て籠もってしまったのである 17 。これにより、一揆鎮圧のために組織された討伐軍は、指揮系統を完全に失い、機能不全に陥った。政宗は氏郷の不可解な行動により作戦の続行が不可能となり、一時、栗原郡の宮沢城へ向かうも、事態は完全に膠着状態に陥った 17 。
司令部の飯坂城への移転
前線での軍事行動が不可能となり、かつ、仲介役である浅野長政との交渉が急務となった政宗は、12月18日頃、黒川郡から南下し、信夫郡の飯坂城に拠点を移した 17 。この場所の選定は、極めて戦略的な判断であった。飯坂は、北方に広がる一揆勢力、東方にいる浅野長政(二本松)、西方で籠城を続ける蒲生氏郷(名生城)、そして南方の本拠地・米沢を結ぶ、地政学的な結節点に位置していた。
さらに、この地は単に地理的に便利なだけではなかった。前述の通り、飯坂氏は伊達一門の名家であり、政宗の側室・飯坂の局の実家でもあった 1 。この伊達家と縁の深い地を司令部とすることで、政宗は自らの行動の正当性と、この地に根差した支配者としての立場を内外に暗にアピールする狙いがあった可能性も考えられる。
飯坂城での越年と緊迫の交渉劇
伊達家の公式記録である『貞山公治家記録』には、政宗が天正十八年の年末から十九年の正月にかけ、この飯坂城で越年したことが明確に記されている 5 。しかし、その日々は決して安穏なものではなかった。正月の祝賀の儀式もそこそこに、1月7日には浅野長政との会談のために二本松まで日帰りで赴くなど、極めて慌ただしい日々を送っていた 5 。飯坂城は、政宗にかけられた一揆扇動の疑惑を晴らし、膠着した事態を打開するための外交・情報戦の拠点と化していたのである。
仲介役の浅野長政は、政宗に対し「氏郷が名生城に籠城している状況では、そなたのいかなる弁明も成り立たない」と通告した 17 。事態打開の鍵は、ただ一点、いかにして氏郷を名生城から出すかに絞られた。氏郷は、人質として伊達一門の重臣である留守政景か伊達成実のいずれかを差し出すことを強硬に要求した 17 。政宗は当初、叔父の国分盛重を人質として提案するが、氏郷はこれを拒否。万策尽きた政宗は、ついに苦渋の決断を下す。一門の中でも最も武勇に優れ、信頼も厚い重臣・伊達成実を人質として名生城へ送ることを決めたのである 17 。
この一連の交渉は、戦国時代の権力闘争の縮図であった。政宗は、軍事力では氏郷を攻撃できず、また中央政権の代理人である長政には逆らえない。彼がこの局面で唯一使えた武器は、「交渉力」と、最も信頼する家臣を差し出すという「自己犠牲の覚悟」であった。飯坂城は、政宗が武力に頼らない新たな戦い方を模索し、政治家としての真価を問われた場所となった。
天正十九年(1591年)1月1日、伊達成実、国分盛重、そして浅野長政の家臣が名生城に入り、氏郷と面会した。人質を受け入れた氏郷は、ついに籠城を解き、1月5日には信夫郡大森城を経て、浅野長政のいる二本松へと向かった 17 。
この氏郷の移動を見届けた政宗は、1月7日に飯坂城を発ち、二本松で長政と直接会談を行った。その後、再び飯坂に戻り、1月9日に本拠地である米沢城へと帰還した 17 。こうして、約一ヶ月にわたる飯坂城司令部としての役割は、一旦の終わりを告げたのである。
表1:葛西・大崎一揆を巡る主要人物の動向(天正18年10月~天正19年1月)
年月日 (西暦) |
伊達政宗の動向・拠点 |
蒲生氏郷の動向・拠点 |
浅野長政の動向・拠点 |
一揆勢・木村吉清の動向 |
天正18年10月中旬 |
(米沢城)浅野長政より一揆鎮圧の命令を受領 |
(会津黒川城)浅野長政より命令を受領 |
(白河)一揆発生を覚知。二本松へ移動 |
一揆勢が蜂起、佐沼城で木村父子を包囲 |
天正18年10月26日 |
(白石城)着陣。氏郷より出陣の書状届く |
(会津黒川城)政宗に出陣を連絡 |
(二本松)両将に指令を発出 |
佐沼城の包囲を継続 |
天正18年11月10日 |
(下草城)前線拠点を構築 |
(松森)着陣。政宗との合流を目指す |
(二本松)状況を監視 |
- |
天正18年11月13日 |
(下草城)氏郷と軍議。直後、氏郷の不信を知る |
(下草城)政宗と軍議。直後、謀反の密告を受ける |
- |
- |
天正18年11月16日 |
(宮沢城へ)氏郷の単独行動により作戦が破綻 |
(名生城)単独で城を攻略、籠城を開始 |
(二本松)両将の不和を把握、対応に苦慮 |
- |
天正18年12月18日 |
(飯坂城)拠点を移し、交渉を開始 |
(名生城)籠城を継続。人質を要求 |
(二本松)政宗に氏郷の説得が急務と通告 |
- |
天正19年1月1日 |
(飯坂城)伊達成実を人質として派遣 |
(名生城)伊達成実らと面会、籠城を解く |
(二本松)人質交渉を仲介 |
- |
天正19年1月5日 |
(飯坂城)氏郷が二本松へ向かうのを見届ける |
(大森城経由で二本松へ)移動 |
(二本松)氏郷を迎える |
- |
天正19年1月7日 |
(二本松へ)浅野長政と直接会談 |
(二本松)政宗より先に長政と会談か |
(二本松)政宗と会談 |
- |
天正19年1月9日 |
(米沢城)帰還 |
(二本松)滞在 |
(二本松)政宗に上洛準備を促す書状を送る |
- |
典拠: 5
第四部:戦後処理と飯坂城の歴史的意義
飯坂城での緊迫した政治交渉は、危機の序章に過ぎなかった。伊達政宗は、この後さらに過酷な試練に直面する。疑惑の払拭、一揆の武力鎮圧、そして豊臣政権による最終的な裁定という一連の過程を経て、飯坂城での出来事が伊達家の運命に与えた影響が明らかとなる。
秀吉への弁明と一揆の徹底鎮圧
飯坂城での交渉により事態は一時的に沈静化したが、政宗に対する秀吉の疑念は晴れていなかった。天正十九年(1591年)1月、政宗は秀吉から上洛を命じられる 17 。死を覚悟した政宗は、白装束に身を包み、黄金の十字架を背負って秀吉に謁見し、一揆扇動の疑惑について弁明したと伝えられている 5 。この大胆な演出が功を奏したか、政宗は死罪を免れ、帰国して一揆を完全に鎮圧するよう改めて命じられた。
疑惑を完全に払拭するため、政宗は帰国後、苛烈なまでの武力を行使して一揆の鎮圧に乗り出す。同年6月から7月にかけて、宮崎城や佐沼城といった一揆勢の拠点を次々と攻略。その際、抵抗した城兵のみならず、籠城していた百姓まで含めて数千人を撫で斬りにしたと記録されている 13 。その様は「城内は死体が積み重なり、下の地面が見えないほど」と形容されるほど凄惨なものであった 13 。この徹底した掃討により、一揆はようやく終息した。
この政宗による異常なまでの残虐な鎮圧方法は、単に秀吉への忠誠を示すための行動と解釈できる一方で、より深い意図があったとする見方も根強い。すなわち、政宗自身が一揆を扇動していた証拠を、関係者を皆殺しにすることで完全に抹消するための「口封じ」であったという説である 13 。この真偽を確かめる術はない。しかし、確かなことは、この凄惨な鎮圧劇によって、政宗は奥州の旧来の国人たちとの絆を事実上断ち切り、中央政権の忠実な尖兵としての役割を受け入れたということである。飯坂城での苦悩の末の政治的決断が、この悲劇的な結末へと繋がっていったとも言えるだろう。
奥州再仕置と減転封
一揆鎮圧の功績により、政宗は葛西・大崎の旧領十三郡を与えられることになった。しかし、それは無条件の加増ではなかった。引き換えに、伊達家が長年本拠地としてきた米沢を含む置賜、伊達、信夫などの本領を没収され、葛西・大崎旧領内の岩手沢城(後の岩出山城)への転封を命じられたのである 11 。これは石高の上では加増であったものの、先祖代々の地を失うという点で、実質的な減封であり、豊臣政権による懲罰的な措置であった。飯坂城での政治的勝利は、結果的に政宗を中央政権のシステムに完全に組み込む「奥州再仕置」という、より大きな歴史の流れに繋がった。短期的な危機回避が、長期的な自立性の喪失を招いたとも解釈できる。
飯坂城の歴史的意義
以上の経緯を踏まえ、天正十八年における飯坂城の歴史的意義を以下のように総括することができる。
第一に、飯坂城は 物理的な戦場ではなかった 。しかし、第二に、伊達家の存亡を賭けた、対豊臣政権(蒲生氏郷・浅野長政)との 政治闘争の司令部であった ことは間違いない。第三に、この場所は、武力一辺倒ではない、 政治家・交渉人としての伊達政宗の側面が試された転換点 であった。そして最後に、この一連の危機を乗り越えた経験こそが、政宗を単なる奥州の覇者から、豊臣・徳川という中央政権下で巧みに生き抜く 近世大名へと脱皮させる重要な一因 となったのである。飯坂城の「戦い」とは、近世伊達氏が誕生する過程で経験した、産みの苦しみを象徴する出来事であったと言えよう。
引用文献
- 飯坂城の見所と写真・100人城主の評価(福島県福島市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1206/
- F825 飯坂政信 - 系図 https://www.his-trip.info/keizu/F825.html
- 飯坂城跡 - 南奥羽歴史散歩 https://mou-rekisan.com/archives/10590/
- 飯坂の局 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%9D%82%E3%81%AE%E5%B1%80
- 飯坂氏の拠点・飯坂城(古館、湯山城) -大鳥 ... - みちのくトリッパー https://michinoku-ja.blogspot.com/2017/11/iizaka03.castle.html
- 小田原合戦 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/encycl/neohojo5/011/
- 小田原の役古戦場:神奈川県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/odawara/
- 旧葛西・大崎領で発生した一揆を領土拡大の好機と捉えた政宗は…〜 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=5tqleQsyQic
- 戦国福島の関ヶ原 松川の合戦 - 福島市 https://www.city.fukushima.fukushima.jp/soshiki/7/1032/3/1/3/737.html
- 無慈悲な執行に一揆勃発!豊臣秀吉「奥州仕置」衝撃の真相【謎解き歴史紀行「半島をゆく」歴史解説編】 | サライ.jp https://serai.jp/tour/1019742
- 奥州仕置とは 葛西・大崎一揆VS豊臣with政宗? - 戦国未満 https://sengokumiman.com/japan/osyushioki.html
- 葛西大崎一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E8%A5%BF%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E4%B8%80%E6%8F%86
- 首壇 - 葛西大崎一揆2500の首が埋まる塚 - 日本伝承大鑑 https://japanmystery.com/miyagi/kubidan.html
- 「葛西大崎一揆(1590~91年)」伊達政宗が裏で糸を引いていた!?東北最大規模の一揆と大名の明暗 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/742
- 奥州仕置(2/2)豊臣秀吉が東北平定、波紋を呼んだ - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/322/2/
- 迫町エリア】首壇 - 登米市 https://www.city.tome.miyagi.jp/koho/tourism/library/tazunearuki/hasama04.html
- 郷土歴史倶楽部(葛西大崎一揆) - FC2 https://tm10074078.web.fc2.com/history1060.html
- 飯坂の局 - 大和町 https://www.town.taiwa.miyagi.jp/soshiki/shogaigakushu/bunkazai/414.html