飯盛山城の戦い(1564)
永禄七年、畿内の覇者三好長慶が居城飯盛山城で病没。その死は三好政権を内部崩壊へと導き、三好三人衆と松永久秀の対立を激化させた。この内紛は織田信長の天下統一を加速させる契機となった。
「Perplexity」で合戦の概要や画像を参照
永禄七年(1564年)飯盛山城の真実:畿内の覇権を巡る攻防の全貌
序論:永禄七年(1564年)飯盛山城の真実 ― 戦場にあらず、時代の転換点として
日本の戦国時代史において、「飯盛山城の戦い(1564年)」という特定の合戦名は、一次史料や信頼性の高い編纂物には見出すことができません。しかし、この永禄七年(1564年)という年、そして飯盛山城という場所が、畿内の政治・軍事史において極めて重要な意味を持つことは紛れもない事実です。この年は、畿内に覇を唱え「天下人」と称された三好長慶が、その居城である飯盛山城で病没した、時代の大きな転換点でした 1 。
したがって、本報告書は、ユーザーが提示された「1564年の飯盛山城の戦い」という問いに対し、歴史学的知見に基づき、この年を基軸とした一連の歴史事象の総体として捉え直すことを試みます。具体的には、長慶の死の直前に三好政権の覇権を決定づけた**「教興寺の戦い(1562年)」 と、長慶の死が引き金となって飯盛山城が実際に戦火に見舞われた 「三好家内紛(1565年)」**という、二つの重要な軍事衝突を連続した歴史のダイナミズムとして描き出します。
このアプローチを通じて、「1564年の飯盛山城」というキーワードが、単一の軍事行動を指すのではなく、一個人のカリスマに支えられた巨大な権力が、その主の死によっていかにして内部崩壊へと向かうのかを示す象徴的な時空間であったことを明らかにします。それは、権力者の「静かなる死」という政治的事件が、それ以前の対外的な軍事バランスを覆し、それ以後の内部的な軍事衝突を誘発した過程そのものであり、戦国期における政権の構造的脆弱性を浮き彫りにするものです。本報告書は、この「飯盛山城を巡る攻防」という、より大きな物語の全貌を解明することを目的とします。
【表1】飯盛山城を巡る攻防 年表(1562年~1565年)
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年月日 |
出来事 |
概要 |
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永禄5年(1562)3月5日 |
久米田の戦い |
畠山高政軍が三好実休軍を破る。三好実休は討死。 |
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永禄5年(1562)5月10日 |
三好軍、再集結 |
阿波の四国本隊が尼崎に着陣。三好義興・松永久秀らと合流。 |
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永禄5年(1562)5月20日 |
教興寺の戦い |
三好長慶軍が畠山高政軍に圧勝。湯川直光が討死し、畠山方は壊滅。 |
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永禄7年(1564)7月4日 |
三好長慶、病没 |
畿内の覇者・三好長慶が居城・飯盛山城にて42歳で死去。 |
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永禄8年(1565)5月19日 |
永禄の変 |
三好義継、三好三人衆らが将軍・足利義輝を二条御所で殺害。 |
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永禄8年(1565)11月16日 |
飯盛山城への攻撃 |
三好三人衆が飯盛山城を攻撃。三好義継の身柄を確保し、松永派を排除。 |
第一部:覇権の確立 ― 教興寺の戦い(1562年)
三好長慶の死がもたらした動乱を理解するためには、まず、その死の直前に三好政権がいかにして畿内における絶対的な覇権を確立したのかを詳らかにする必要があります。その象徴こそが、永禄五年(1562年)に繰り広げられた、河内国(現在の大阪府東部)の支配権を巡る一連の戦い、すなわち「久米田の戦い」と「教興寺の戦い」です。
【表2】教興寺の戦い 主要参戦武将一覧
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勢力 |
陣営 |
主要武将名 |
役職・背景 |
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三好軍 |
総大将格 |
三好長慶 |
三好家当主、飯盛山城主 3 |
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畿内軍 |
三好義興 |
長慶嫡男、芥川山城主 4 |
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松永久秀 |
家宰、大和多聞山城主 4 |
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三好長逸 |
三好一門重鎮 4 |
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池田長正 |
摂津国人 4 |
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四国軍 |
三好康長 |
三好実休の重臣 4 |
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篠原長秀 |
阿波三好家宰 4 |
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畠山軍 |
総大将 |
畠山高政 |
河内守護、高屋城主 4 |
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河内勢 |
安見宗房 |
畠山家臣、元飯盛山城主 4 |
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紀伊勢 |
湯川直光 |
紀伊の有力国人 4 |
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傭兵集団 |
根来衆 |
鉄砲で名高い僧兵団 4 |
第一章:背景 ― 河内支配を巡る宿命の対決
この戦いの根源には、二つの勢力の積年の対立がありました。一つは、主家である管領・細川氏を凌駕し、将軍・足利義輝をも傀儡として、事実上の「天下人」にのし上がった三好長慶です 3 。永禄三年(1560年)、長慶は河内・大和・山城の三国を見渡せる戦略的要衝、飯盛山城を本拠地と定め、畿内支配の牙城としました 2 。
対するもう一方が、足利一門の名家にして、河内・紀伊の守護職を代々務めてきた畠山高政です 6 。彼は、新興勢力である三好氏によって本拠地・高屋城を追われ、失地回復を悲願としていました 8 。旧来の権威を象徴する畠山氏と、下剋上によって台頭した三好氏。両者の対立は、河内国の支配権を巡り、避けられないものとなっていました。
この対立構造をさらに複雑にしたのが、安見宗房という人物の存在です 7 。彼は本来、畠山高政の家臣でありながら、主君と対立してこれを紀伊に追放し、一時は飯盛山城主として権勢を振るいました 7 。しかし、その宗房も三好長慶の軍事力の前に敗れ、大和へ逃亡します 10 。ここで高政は、「敵の敵は味方」とばかりに、かつて自分を追放した宗房と和解し、反三好連合の旗頭として再び飯盛山城に配置するという策に出ます 10 。この主従関係の流動性と、個人の利害が複雑に絡み合う状況こそが、戦国時代の特徴です。しかし、この高政の決断は、三好長慶に「主家(畠山氏)に背いた家臣(安見氏)を、主家(三好氏)が支援する主君(高政)に代わって討伐する」という、本格的な河内侵攻の絶好の口実を与えるという、皮肉な結果を招くことになるのです 13 。
第二章:前哨戦 ― 久米田の戦い(1562年3月5日)
永禄五年(1562年)、畠山高政はついに反撃の狼煙を上げます。近江の六角義賢と連携し、さらに紀伊から有力国人の湯川直光、そして当時最新鋭の兵器であった鉄砲の扱いに長けた根来衆といった強力な援軍を糾合し、和泉国(現在の大阪府南西部)へと侵攻しました 8 。
この動きを迎え撃ったのは、三好長慶の実弟であり、阿波・讃岐の軍勢を率いる三好政権の軍事的中核、三好実休でした。両軍は和泉国久米田寺周辺(現在の大阪府岸和田市)で激突します 14 。畠山方は、周到な準備と奇襲に近い攻撃で三好軍を攻め立てました。三好軍は奮戦するも、畠山・紀伊連合軍の猛攻の前に次第に劣勢となり、ついに陣は崩壊。この乱戦の最中、総大将であった三好実休が討死するという、三好方にとって最大の悲劇が発生しました 4 。
総大将の死は、三好軍に致命的な打撃を与えました。軍は完全に崩壊し、敗走します。この報を受け、和泉の岸和田城を守っていた長慶の末弟・安宅冬康も、城を放棄して撤退せざるを得ませんでした 15 。この勝利により、和泉・南河内にあった三好方の諸城は雪崩を打って畠山方になびき、畠山高政は長年の悲願であった高屋城の奪還に成功します 8 。畿内の軍事バランスは、この瞬間、完全に畠山方に傾いたのです。
第三章:決戦 ― 教興寺の戦い(1562年5月20日)
弟・実休の討死と河内・和泉の失陥という報は、飯盛山城の三好長慶に計り知れない衝撃を与えました。しかし、百戦錬磨の将である長慶は、この危機的状況に冷静かつ迅速に対応します。ここから、畿内の覇権を賭けた、壮絶な逆転劇が始まります。
【リアルタイム戦闘経過】
- 午前4時頃(推定)- 三好軍、反攻開始
- 状況: 長慶は飯盛山城に籠城し、防備を固めると同時に、政権の総力を挙げた反撃準備を命じました。京周辺では、嫡男の三好義興と長慶の懐刀である松永久秀が軍勢を再編 4 。そして、三好政権最大の強みである四国からは、実休の仇討ちに燃える三好康長、篠原長秀らが率いる阿波・讃岐の主力軍が海を渡り、永禄五年五月十日までに摂津の尼崎に着陣しました 4 。久米田で失った兵力を遥かに凌駕する、数万規模の大軍団がここに再結集したのです。この迅速かつ大規模な動員力こそ、三好政権が畿内随一の国力を有していたことの証左でした。
- 分析: 畠山方が久米田の勝利に酔い、戦果の拡大よりも占領地の安定化に時間を費やしている間に、三好方は驚異的な速度で軍を立て直しました。これは、両者の組織としての動員能力、情報伝達速度、そして危機管理能力の差が如実に表れた局面と言えます。
- 午前6時頃(推定)- 両軍、教興寺周辺で対峙
- 布陣: 体制を整えた三好軍は、総兵力4万から5万(諸説あり)ともいわれる大軍で、畠山方の本拠地・高屋城を目指し、怒涛の南下を開始します 6 。対する畠山高政も、久米田の勝利に沸く河内・紀伊の連合軍を率いてこれを迎え撃つべく、高屋城の北方に位置する教興寺(現在の大阪府八尾市)付近に陣を構えました 6 。畠山軍の中核を担うのは、勇猛で知られる湯川直光率いる紀州勢と、その強力な鉄砲隊で威名を轟かせていた根来衆でした 4 。
- 天候と戦術: 一説によれば、三好方は根来衆の火縄銃を極度に警戒していました。火縄銃は雨天では火縄が湿り、使用が困難になるという弱点があります。そのため、三好軍は決戦の時を慎重に見計らい、前日(5月19日)の夜半から降り始めた雨が続く20日の早朝を待って、総攻撃を開始したと伝えられています 16 。これが事実であれば、天候さえも戦術の一部として計算に入れる三好方の周到さが窺えます。
- 午前8時頃(推定)- 激戦、そして均衡の崩壊
- 戦闘: 雨中、三好政康らの部隊を先鋒とする三好軍の猛攻により、両軍の全面衝突が開始されました。畠山軍も、特に湯川直光が率いる紀州勢が鬼神の如く奮戦し、一時は一進一退の激しい攻防が続いたと推測されます。久米田の勝利で士気の高い畠山軍は、数に劣るものの、簡単には崩れませんでした。
- 転換点: しかし、戦局が長引くにつれ、兵力で圧倒的に優る三好軍が徐々に戦線を押し上げていきます。統率の取れた波状攻撃の前に、寄せ集めの連合軍である畠山軍は次第に足並みが乱れ始めました。そしてついに、戦局を決定づける瞬間が訪れます。乱戦の最中、畠山軍の主力を率い、獅子奮迅の働きを見せていた 湯川直光が、三好軍の集中攻撃を受け、討死 したのです 4 。
- 正午頃(推定)- 畠山軍、総崩れ
- 結果: 総大将・畠山高政に次ぐ最重要人物であり、軍の中核であった湯川直光の死は、畠山軍の士気を一瞬にして瓦解させました。指揮官を失った紀州勢は総崩れとなり、その混乱は軍全体に伝播します 17 。もはや組織的な抵抗は不可能でした。安見宗房は大坂の石山本願寺へ、そして総大将の畠山高政自身も、わずかな手勢とともに堺を経由して紀伊へと落ち延びていきました 8 。三好軍は敗走する敵を徹底的に追撃し、『細川両家記』によれば、畠山方に600人以上の戦死者を出すという、決定的な大勝利を収めたのです 4 。
第四章:戦後処理と影響 ― 三好政権、絶頂へ
教興寺での圧勝は、三好政権の運命を劇的に好転させました。
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河内・和泉の完全平定:
この一日で、畠山氏の勢力は河内・和泉から完全に一掃されました 4。畠山高政が河内守護として返り咲いた期間は、わずか二ヶ月余りという短さでした 19。奪還された高屋城には再び三好方の城将として三好康長らが入り、南河内の支配体制は盤石なものとなります 4。 -
松永久秀による大和平定:
この勝利がもたらした影響は、河内・和泉に留まりませんでした。三好軍の主力を率いた一人、松永久秀は、教興寺での勝利の報を受けるや否や、間髪入れずに軍を大和国(現在の奈良県)へと転進させます。そして、5月23日までのわずか数日の間に、これまで三好氏に抵抗を続けていた筒井氏などの国人領主の諸城を次々と攻略し、大和一国を完全に平定しました 4。これは、教興寺での軍事的勝利を、即座に政治的成果へと結びつけた、極めて戦略的な行動でした。
この一連の戦いの帰結は、単なる領土紛争の決着以上の意味を持っていました。それは、三好氏という、元をたどれば守護代の家臣に過ぎなかった勢力が、室町幕府の権威を背景とする旧来の名門守護大名(畠山氏)を、純粋な軍事力と組織力によって完全に凌駕したことを天下に示す出来事でした。畿内の支配者としての正統性が、もはや幕府からの任命ではなく、実力によってのみ担保される時代が到来したことを決定づけたのです。教興寺の戦いを経て、三好政権は名実ともにその権勢の頂点を迎え、長慶は「天下人」としての地位を不動のものとしました。
第二部:巨星墜つ ― 飯盛山城の静かなる動乱(1564年)
権勢の絶頂を極めた三好長慶でしたが、その栄光の裏では、巨大な権力体を蝕む影が静かに、しかし確実に忍び寄っていました。その影は、外なる敵ではなく、内なる悲劇と、それに続く権力構造の歪みとして現れます。
第一章:天下人の黄昏
三好長慶の晩年は、相次ぐ肉親との死別という悲運に見舞われました。永禄四年(1561年)、勇猛果敢で知られた弟の十河一存が急死。翌永禄五年(1562年)には、前述の通り、政権の軍事的中核であった弟の三好実休が久米田の戦いで討死します。そして永禄六年(1563年)、長慶が自身の後継者として全幅の信頼を寄せていた嫡男・三好義興が、病により22歳という若さでこの世を去りました 21 。
政権を支えるべき弟たち、そして未来を託した最愛の息子を次々と失ったことで、長慶の心身は著しく蝕まれていったと推測されます。天下をその手に収めながらも、その権力基盤を共に築き、支えてきた肉親を失うという不幸の連続は、彼の気力を根こそぎ奪っていきました。
そして、永禄七年(1564年)七月四日、心身ともに衰弱しきった三好長慶は、栄華を極めた居城・飯盛山城の一室で、静かに息を引き取りました。享年42歳 1 。畿内を震撼させたこの巨大な権力者の死は、政権の動揺を恐れた松永久秀ら重臣たちによってしばらくの間秘匿され、その遺体は城内の千畳敷曲輪に仮埋葬されたと伝えられています 2 。畿内の政治の中枢に、突如として巨大かつ危険な権力の空白が生まれた瞬間でした。
第二章:脆弱な連立政権の誕生
長慶という絶対的な中心を失った三好政権は、新たな統治体制を模索せざるを得ませんでした。
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若き当主・三好義継:
長慶の死後、家督は養子に迎えられていた三好義継(亡き弟・十河一存の子)が継承しました 1。しかし、義継はまだ若年であり、長慶のようなカリスマ性も、戦陣を潜り抜けてきた実績もありませんでした。 -
集団指導体制という名の権力闘争:
このため、三好政権は若き義継を名目上の当主として戴きつつ、有力な重臣たちによる連立政権、すなわち集団指導体制へと移行します 9。この体制の中核を担ったのが、三好一門の長老格である三好長逸、三好政康(宗渭)、そして譜代の重臣である岩成友通の三名です。彼らは後に**「三好三人衆」**と称され、三好家の伝統と秩序を守る立場から、政権運営の実権を掌握しようとしました 9。
しかし、この政権には、彼らと比肩し、あるいはそれ以上の実力を持つ人物が存在しました。長慶の腹心として政権を支え、大和一国を自らの実力で支配下に置いた 松永久秀 です 5 。久秀はもはや単なる一介の家臣ではなく、その権力基盤と軍事力において、独立した大名に近い存在となっていました 16 。
この集団指導体制は、発足した時点から構造的な欠陥を抱えていました。それは、「三好家」という伝統的な枠組みを維持することで自らの権力を正当化しようとする三人衆の 求心力 と、自らの実力と支配領域を基盤に、より自由な権力行使を目指す松永久秀の 遠心力 とが、常に緊張関係にあるという点です。長慶という絶対的な重石がなくなった今、この両者の利害が衝突するのは時間の問題でした。三人衆は久秀の突出した権力を削ごうとし、久秀は三人衆の干渉を排除しようとする。この対立は、個人の感情的な問題ではなく、それぞれの権力基盤の違いから生じる、いわば必然的な政争だったのです。
第三部:内なる敵 ― 飯盛山城、攻められる(1565年)
三好長慶の死から一年、その間に蓄積された三好政権内部の亀裂は、ついに修復不可能なレベルに達し、軍事衝突という最悪の形で表面化します。その舞台となったのが、皮肉にも長慶が終焉を迎えた飯盛山城でした。
第一章:対立の顕在化 ― 永禄の変
三人衆と松永久秀の対立を決定的なものにしたのが、永禄八年(1565年)五月十九日に発生した、将軍・足利義輝の殺害事件(永禄の変)です 19 。この日、三好義継を奉じた三好三人衆と松永久秀の嫡男・久通らが二条御所を襲撃し、将軍義輝を殺害するという前代未聞の凶行に及びました 24 。
この事件の首謀者については諸説あり、特に松永久秀が全ての黒幕であったという説が広く知られています。しかし、近年の研究では、事件当時、久秀自身は現場に居合わせておらず、大和の奈良にいたことが複数の史料から確認されています 24 。真相がどうであれ、この将軍殺害という大義名分を揺るがす行為は、三好政権内の権力者たちに深刻な相互不信を植え付けました。三人衆と久秀は、互いに事件の主導権や責任を巡って疑心暗鬼となり、政権の主導権争いは抜き差しならない段階へと突入していったのです 21 。
第二章:飯盛山城への進軍 ― 1565年11月16日の攻防
将軍殺害から約半年後、ついに三人衆は実力行使に打って出ます。その標的は、松永久秀の影響下にある飯盛山城と、そこにいる若き当主・三好義継でした。
【リアルタイム攻防】
- 背景 ― 三人衆の決断: 三人衆の目には、松永久秀が若き当主・三好義継を飯盛山城に事実上軟禁し、傀儡として政権を意のままに操ろうとしていると映っていました 23 。このままでは三好家の実権が久秀に完全に奪われてしまう。そう判断した彼らは、義継の身柄を確保し、自らの行動の正統性を確立するため、飯盛山城への電撃的な攻撃を決意します。
- 11月16日夕刻 ― 攻撃開始:
- 状況: 三好長逸、三好政康、岩成友通が率いる三人衆の軍勢が、何の前触れもなく飯盛山城に殺到しました。この突然の攻撃の様子は、『多聞院日記』の同日条に生々しく記録されています 15 。
- 城内の状況: 当時、飯盛山城には当主・三好義継が滞在しており、その守備は松永方の城兵が固めていました。三人衆の狙いは、城を陥落させることではなく、城内にいる義継を確保し、松永派の武将を排除することにありました。
- 戦闘の推移と結果:
- 戦闘: 攻撃は、城全体を包囲する大規模な攻城戦ではなく、城内への急襲という形で行われました。城内で局地的な戦闘が発生し、三人衆の部隊は松永方の武将であった長勝軒、金山駿河守らを討ち取ることに成功します 15 。これは、軍事行動の形をとったクーデターと言うべきものでした。
- 義継の確保: 攻撃は成功裏に終わり、三人衆は三好義継の身柄を確保。彼らは義継に対し、松永久秀との完全な手切れを迫り、その身柄を河内の高屋城へと移しました 23 。
この1565年の飯盛山城攻撃は、物理的な城の支配権を争う戦いではありませんでした。その本質は、 「当主・三好義継を誰が擁しているか」という、政治的な正統性を巡るシンボルの奪い合い でした。戦国時代において、主君を奉じることは、自らの行動を正当化し、敵を「朝敵」ならぬ「主家の敵」として断罪するための最大の大義名分となります。義継をその手に収めたことで、三人衆は「我々こそが三好家の正統な運営者であり、松永久秀は主家を壟断しようとする奸臣である」というプロパガンダを内外に展開する政治的優位性を獲得したのです。この戦いは、物理的な勝利以上に、どちらが「正義」であるかを決定づけるための、極めて政治的なパフォーマンスとしての意味合いが強かったと言えます。そしてこの日を境に、両者の対立はもはや後戻りのきかない全面戦争へと突入していきました。
第三章:歴史的意義 ― 三好政権崩壊の序曲
飯盛山城でのクーデター成功により、三好家は完全に二つに分裂しました。三好三人衆と松永久秀は、それぞれが三好家の正統を主張し、畿内の広範囲を舞台に泥沼の内戦を繰り広げることになります 24 。この内戦は、大和国における東大寺大仏殿の戦い(1567年)のような悲劇を生み、かつて畿内を席巻した三好政権の国力を内部から著しく消耗させていきました 21 。
畿内の覇者であった三好氏が、内部抗争によって自壊していく様は、東方の尾張国で着実に力を蓄え、天下統一の機会を窺っていた織田信長にとって、まさに千載一遇の好機でした。三好政権が内紛で弱体化していなければ、永禄十一年(1568年)に足利義昭を奉じて行われた信長の上洛作戦は、遥かに困難なものとなっていたことは想像に難くありません。この意味において、飯盛山城で起こった一連の出来事は、結果的に信長の天下統一事業への道を拓く、歴史の地ならしとしての役割を果たしたと言えるのです。
結論:飯盛山城が目撃した時代の転換
本報告で詳述した通り、「1564年の飯盛山城の戦い」とは、特定の日に発生した単一の戦闘を指す言葉ではありません。それは、畿内に君臨した偉大な覇者・三好長慶の死を画期として、三好政権が、対外的な武力によって覇権を確立した栄光の時代(教興寺の戦いに象徴される)から、内部の深刻な権力闘争によって自己崩壊へと向かう転落の時代(三好三人衆による飯盛山城攻撃に象徴される)へと、劇的に転換していく歴史の過程そのものを指し示す、象徴的な概念です。
飯盛山城は、三好長慶が畿内支配の拠点として君臨した栄光の頂点と、彼の死後に後継者たちが繰り広げた醜い内紛の始まりという、三好政権の光と影の両方を目撃した歴史の証人です。この城を巡る一連の出来事は、一人の傑出した指導者の死が、いかに巨大な組織を根底から揺るがし、やがて新たな時代の到来を準備するに至るかという、戦国時代の非情なダイナミズムを我々に雄弁に物語っています。
引用文献
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- 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第16回【松永久秀】派手な逸話に彩られた戦国きっての悪人の素顔 - 城びと https://shirobito.jp/article/1604
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- 戦国!室町時代・国巡り(7)河内編|影咲シオリ - note https://note.com/shiwori_game/n/n78a9cc8d3909
- 安見宗房の石灯篭(春日若宮神社の参道) http://rekishi-nara.cool.coocan.jp/tokushu/colum/colum5.htm
- 【三好長慶の河内支配】 - ADEAC https://adeac.jp/tondabayashi-city/text-list/d000020/ht000116
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- 教興寺の戦いと三好政権の黄昏。松永久秀(4) - 大和徒然草子 https://www.yamatotsurezure.com/entry/hisahide04
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- 『麒麟がくる』でようやく汚名を晴らせるか 松永弾正久秀「三大悪行」の誤解 - note https://note.com/maruyomi4049/n/n83f1b481045f
- 三好長逸は何をした人?「三好三人衆の筆頭格で一族の長老が永禄の変を起こした」ハナシ https://busho.fun/person/nagayasu-miyoshi
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- 三好義継 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E7%BE%A9%E7%B6%99