最終更新日 2025-08-30

館山城の戦い(1590)

小田原征伐時、里見義康は惣無事令を破り三浦半島へ侵攻。豊臣軍の房総制圧で窮地に陥り降伏。家康のとりなしで安房一国は安堵されるも、領土は激減。新時代へ向け館山城を築き、統治と交易を重視した。
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詳細報告書:天正十八年「館山城の戦い」の実像 ― 小田原征伐における里見氏の降伏と安房統治の再編

序章:天正十八年、房総に迫る天下統一の波

天正十八年(1590年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えていた。織田信長の後を継ぎ、天下統一事業を推し進めていた豊臣秀吉は、九州、四国を平定し、その権威は日の出の勢いであった。残された最後の大きな抵抗勢力は、関東に広大な領国を築き上げた後北条氏であった 1 。秀吉は天正十五年(1587年)、関白の権威をもって、大名間の私的な領土紛争を禁じる「惣無事令」を関東・奥羽地方へ発令する 2 。これは、領土紛争の裁定権を豊臣政権に集中させ、私戦を禁じる画期的な法令であった。しかし、これに服従しない後北条氏の姿勢は、秀吉にとって天下統一を完成させるための最後の障壁であり、彼らを討伐する絶好の大義名分となったのである 1

この天下統一の巨大な波が房総半島に押し寄せる中で、本報告書の主役である安房の里見氏が、どのような立場に置かれていたかを理解することが不可欠である。里見氏と後北条氏は、単に隣接する大名という関係ではなかった。両者は約一世紀にわたり、房総半島の覇権、とりわけ江戸湾(東京湾)の制海権を巡って、血で血を洗う激しい抗争を繰り広げてきた宿敵であった 6 。天文年間から永禄年間にかけての国府台合戦をはじめとする数々の戦いは、両者の間に深い遺恨を刻み込んでいた 8 。この根深い対立構造こそが、天正十八年における里見氏当主・里見義康の行動原理を読み解く上で最も重要な鍵となる。彼にとって小田原征伐は、中央政権への服従儀礼であると同時に、長年の宿敵を打倒し、かつて失った上総の地を回復する千載一遇の好機と映っていたのである。

そして、この時点での里見氏の状況を正確に把握する上で、もう一つ重要な事実がある。1590年当時、里見氏の本拠地は、一般に知られる館山城ではなかった。彼らの本城は、安房国内陸の丘陵に築かれた山城・岡本城であった 9 。岡本城は、後北条氏との軍事的緊張を前提とした防御的な拠点であり、その立地自体が、戦国乱世における里見氏の置かれた状況を如実に物語っている 12 。事実、豊臣秀吉方が小田原征伐に先立って作成した関東諸大名の勢力調査書『関東八州諸城覚書』にも、里見義康の居城として「岡本」と明確に記されているのである 12

第一部:運命の岐路 ― 里見義康の決断

天正十八年(1590年)の年が明けると、豊臣秀吉による後北条氏討伐の動員令が関東の諸大名に下された。しかし、この天下の趨勢が決する重大な局面にあって、里見氏の目は目前の地域紛争に向けられていた。彼らは依然として、後北条方につき長年敵対してきた上総国の土岐氏が守る万喜城への攻撃に固執していたのである 8 。同年正月にも万喜城攻めを行ったが、敗北に終わっている 8 。これは、秀吉への対応が遅れるという多大な政治的リスクを冒してでも、まずは足元の敵を排除し、上総における旧領回復を優先しようとする、戦国大名としての地域的論理が強く働いていたことを示している。

豊臣軍の主力が関東へ進軍し、小田原城の包囲網が形成されつつあった同年4月初旬、里見義康はついに動く。しかしその行動は、秀吉の軍勢に合流することではなかった。彼は麾下の安房水軍を率いて浦賀水道を横断し、対岸に位置する後北条氏の領土、相模国三浦半島へ侵攻を開始したのである 14 。その勢いは凄まじく、三浦半島を制圧した後、さらに古都・鎌倉まで占領したと伝えられている 16

この軍事行動は、豊臣軍の指揮系統から完全に逸脱した、里見氏による独自行動であった。その戦略的意図は、単なる火事場泥棒的な領土拡大に留まらない。後北条氏の海上補給路を遮断し、小田原城を背後から脅かすことで軍功をアピールすると同時に、混乱に乗じて関東における里見氏の影響力を一気に回復しようとする、極めて野心的な試みであった 16 。しかし、この判断は致命的な過ちであった。なぜなら、この行動は秀吉が天下統一の統治理念として掲げる「惣無事令」への明確な挑戦と見なされたからである 17 。秀吉が後北条氏を討伐する最大の大義名分が、まさに惣無事令違反であった 1 。その秀吉の陣営に加わりながら、同じ違反を犯すことは、秀吉の掲げる大義そのものを毀損する行為に他ならなかった。特に、義康が独自に「禁制」(特定の地域での戦闘行為を禁じる保証書)を発給したことは、彼の軍事行動が秀吉の命令に基づかない「私戦」であることを決定づける証拠となってしまった 18 。里見氏にとって、これは年来の宿願を果たすための行動であったかもしれないが、豊臣政権という新たな統治秩序から見れば、決して許されない最大限の政治的違反行為だったのである。

第二部:房総制圧戦 ― 豊臣軍の進撃

里見氏による三浦半島への逸脱行動を把握したか、あるいは房総半島に残る後北条方勢力の一掃を目的としたか、秀吉は小田原包囲軍の中から別動隊を編成し、房総半島へ派遣する決断を下す。この房総方面軍の総指揮官には、豊臣政権の重臣である浅野長政(当時は長吉)が任じられ、木村吉清(常陸介)らが加わったその軍勢は、総数2万にも及んだ 19

天正十八年五月、浅野長政率いる豊臣別動隊は、圧倒的な兵力をもって房総半島を北から南へと席巻していく。後北条方に属していた上総・下総の諸城は、抵抗する術もなく、次々と陥落、あるいは開城していった。その進撃の速度は、当時の書状からリアルタイムで追うことができる。

  • 5月10日以前 : 豊臣軍は房総半島に侵攻。後北条方の椎津城や久保田城などが、この時期までに陥落したと考えられる 19
  • 5月10日 : 浅野長政は、上総の有力国人であった酒井氏の居城、土気城と東金城を接収。この日のうちに、戦果を小田原の秀吉本陣へ報告している 19
  • 5月12日 : 秀吉は、10日付で浅野長政から送られた土気・東金両城の接収報告を受け取り、これを了とする朱印状を発給した 19 。この文書の存在は、房総制圧戦の具体的な日付と、秀吉が戦況を正確に把握していたことを示す一級史料である。
  • 5月20日まで : 浅野軍の進撃は止まらず、この日までに上総・下総の主要な城をことごとく制圧し、ついに里見氏の本国である安房の国境まで到達した 19

わずか10日余りで、長年里見氏が覇権を争ってきた上総・下総の地が、豊臣の大軍によって完全に制圧された。そして今、その2万の軍勢が国境にまで迫っているという事実は、岡本城にいる里見義康とその家臣団に絶望的な圧力を与えたであろう。もはや物理的な抵抗は不可能であり、残された道は、政治的な交渉による降伏以外にありえなかった。

【表1】天正18年 房総半島関連 時系列表

日付(1590年)

豊臣軍(主力)の動向

豊臣軍(房総別動隊)の動向

里見軍の動向

後北条方の動向

3月29日

秀吉、小田原近郊に布陣

-

-

韮山城などで抗戦開始 20

4月3日

小田原城の包囲を開始 21

-

-

小田原城にて籠城戦開始

4月初旬

小田原城包囲を本格化

-

浦賀水道を渡り、三浦半島へ侵攻。鎌倉を占領 14

-

5月10日以前

小田原城包囲を継続

浅野長政率いる別動隊が房総へ侵攻。椎津城、久保田城などを攻略 19

三浦半島から撤収か

房総諸城が迎撃、あるいは降伏

5月10日

-

土気城、東金城を接収 19

-

土気・東金の酒井氏が降伏

5月12日

秀吉、浅野からの報告を了承 19

-

-

-

5月20日頃

-

上総・下総を制圧し、安房国境へ到達 19

岡本城にて籠城。降伏を検討

房総の北・中部が完全に制圧される

6月中

小田原城への降伏勧告を強化

安房国境にて待機

義康、小田原へ参陣し秀吉に恭順 15

-

7月5日

小田原城、開城

-

-

後北条氏、降伏

第三部:降伏と裁定 ― 安房一国の安堵

房総別動隊による直接的な軍事的圧力と、日に日に絶望的となっていく小田原城の戦況 23 を受け、里見義康はついに豊臣方への完全な降伏を決断する。浅野軍が安房国境に到達した5月下旬から、小田原城が開城する7月5日までの間、おそらく6月中に義康は小田原へ参陣し、秀吉に恭順の意を示したと考えられる 15 。遅れた参陣ではあったが、これにより里見氏は後北条方とは見なされず、豊臣方の大名として認められることになった。

しかし、小田原開城後に行われた戦後処理、いわゆる「関東仕置」において、里見氏には厳しい裁定が下された。三浦半島への独自侵攻、すなわち惣無事令違反の咎により、里見氏が長年にわたり支配してきた上総、そして下総の所領はすべて没収されることになったのである 17 。これにより、里見氏の領国は安房一国(推定9万石余り)に激減し、その勢力は大きく削がれることとなった。

当初、秀吉の怒りは凄まじく、里見氏の完全な改易(所領全没収)も視野に入れていたとされる。しかし、この土壇場で里見氏を救ったのが、徳川家康であった。家康が秀吉にとりなしを行ったことで、安房一国のみは安堵されるという結果になったと記録されている 16

では、なぜ家康は秀吉の怒りを買った里見氏を助けたのか。それは単なる温情ではなく、秀吉から後北条氏の旧領である関八州への国替えを命じられていた家康自身の、極めて高度な戦略的判断に起因する。家康にとって、新たな本拠地となる江戸の喉元、すなわち江戸湾の入り口を扼する安房国は、軍事的にも海上交通の面でも死活的に重要な地であった 27 。この地が豊臣直轄地となったり、あるいは他の統制しにくい大名が配置されたりする事態は、将来の関東経営において大きな不安要素となる。ならば、惣無事令違反によって弱体化し、かつ恩を売ることができる里見氏を存続させ、自身の管理下に置く方がはるかに得策である。また、広大な旧北条領の統治が当初は不安定になることを想定すれば 28 、房総半島に既知の在地勢力を残しておく方が、統治コストの面でも有利だと判断した可能性が高い。家康のとりなしは、来るべき自身の関東経営時代を見据えた、巧みな戦略的投資だったのである。

【表2】小田原征伐前後における里見氏の所領比較

項目

征伐前(天正十八年初頭)

征伐後(天正十八年後半)

主要領国

安房、上総、下総の一部

安房一国

推定石高

約20万石以上

9万1千石

主要拠点

岡本城(山城)

(新拠点)館山城(平山城)

影響

領国の大幅な縮小、深刻な財政難、軍事力から経済・統治重視への転換を余儀なくされる

終章:「館山城」の誕生 ― 新時代への礎

上総という先祖伝来の地を失い、安房一国の大名として辛うじて存続を許された里見義康。しかし、領国の半減は深刻な財政難をもたらした 16 。もはや戦国の世は終わり、軍事力による領土拡大は望めない。豊臣政権という新たな中央集権体制の下で生き抜くためには、領国経営の抜本的な改革が急務であった。

この危機的状況を打開するため、義康は一大決断を下す。天正十九年(1591年)、本拠地を、対後北条氏を念頭に置いた内陸の軍事拠点・岡本城から、館山湾に面した沿岸部の館山へ移転し、新たに城を築くことを決めたのである。これこそが、現在にその名を残す「館山城」の誕生であった 9

この本拠地移転は、単なる引っ越しではない。それは、里見氏の国家戦略が根本から転換したことを示す象徴的な出来事であった。山城である岡本城が「戦うための城」であったのに対し、館山湾という良港を前面に控えた平山城である館山城は、明らかに「統治と交易のための城」であった。義康は城の建設と並行して城下町の整備に注力し、商人を集住させて商業の活性化を図ることで、失われた領国の経済的損失を補おうとした 16

結論として、ユーザーが当初想定していた「館山城の戦い」は、物理的な籠城戦として存在したわけではない。その本質は、豊臣秀吉の天下統一という巨大な地殻変動の中で、戦国大名・里見氏がその存亡をかけて戦った一連の 政治的・戦略的闘争 であった。三浦半島への侵攻という「戦術的勝利」が、惣無事令違反という「戦略的敗北」を招き、結果として領国を半減させられるという苦杯を喫した。そして、その絶望的な苦境の中から、近世大名として生き残るための新たな拠点「館山城」を産み出したのである。館山城の築城こそが、この「戦い」の最終的な帰結であり、里見氏にとっての戦国時代の真の終わりと、新時代の幕開けを象徴する不退転の決意表明であったと言えるだろう。

引用文献

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  5. 【3万5千 VS 22万】小田原征伐|北条家が圧倒的不利な状況でも豊臣秀吉と戦った理由 - 【戦国BANASHI】日本史・大河ドラマ・日本の観光情報サイト https://sengokubanashi.net/history/odawara-seibatsu/
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  16. 館山城 http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/zyousi/tibakenn/tateyamazyou/tateyamazyou.html
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  23. 「小田原征伐(1590年)」天下統一への総仕上げ!難攻不落の小田原城、大攻囲戦の顛末 https://sengoku-his.com/999
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  26. 武家家伝_里見氏 - harimaya.com http://www.harimaya.com/o_kamon1/buke_keizu/html/satomi.html
  27. 江戸幕府の支配と里見氏の改易 - 館山まるごと博物館 https://awa-ecom.jp/bunka-isan/section/awa-070-070/
  28. 秀吉の策略か? 家康の慧眼か?―徳川が江戸を本拠とした理由 | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c12009/
  29. 徳川家康はなぜ関東移封されたのか /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/102450/
  30. 日本の城 関東地方館山城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/list/kanto/tateyama/
  31. さとみ物語・完全版 5章-2文 https://www.city.tateyama.chiba.jp/satomi/kanzenban/kan_5shou/k5shou_2/k5shou_2min.html