最終更新日 2025-09-09

館林城の戦い(1590)

館林城の戦いは、1590年の小田原征伐において、豊臣北方軍の圧倒的圧力により無血開城した。前田利家・上杉景勝らが周辺諸城を次々攻略し、館林城は孤立。石田三成が攻めたという伝説は史実と異なり、戦略的判断による開城であった。

天正十八年、館林城の戦い ― 北関東の戦略的崩壊と無血開城の真相

序章:天下統一の最終章、その序曲

天正18年(1590年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。関白豊臣秀吉による天下統一事業は、その最終段階にあった。九州、四国、そして紀州を平定し、西日本を完全に掌握した秀吉の前に、独立した勢力として立ちはだかる最後の大敵、それが関東に覇を唱える後北条氏であった 1 。この北条氏を屈服させるために秀吉が発動したのが、世に言う「小田原征伐」である。これは単なる一地方大名の征討戦ではなく、日本のすべての大名を動員し、その圧倒的な武力と権威を天下に示す、統一事業の総仕上げであった。

この未曾有の国難に対し、北条氏が採った防衛戦略は、一見すると合理的であった。総兵力5万2千の大半を、堅城として名高い本拠・小田原城に集結させ、長期籠城に持ち込む。その間、関東各地に配置した支城ネットワークが豊臣軍の進軍を遅滞させ、補給線を疲弊させるという算段であった 3 。しかし、この戦略には致命的な欠陥があった。それは、秀吉が動員する軍事力の規模と、その侵攻が多方面から同時に行われるという現実を、根本的に見誤っていた点にある。

秀吉が動員した軍勢は、水軍を含め総勢20万を超える、文字通り日本全土から集められた大軍であった 4 。この大軍は単一の進路を取らず、秀吉自らが率いる東海道方面軍を主力としながらも、伊豆半島を制圧する水軍、そして越後・信濃方面から関東に侵入する「北方方面軍(北国勢)」が、連動して北条領を蚕食する計画であった 4

本報告書で詳述する「館林城の戦い」は、この壮大な軍事作戦の一部として語られる。しかし、その実態は「戦い」という言葉が想起させるような、激しい攻防戦ではなかった。むしろ、それは圧倒的な戦略的圧力と心理的圧迫が生んだ、必然的な帰結であった。館林城の開城は、一つの城の陥落というミクロな事象ではなく、北条氏の北関東における防衛網が、北からの巨大な奔流によっていかにして崩壊していったかを示すマクロな物語の一部なのである。本稿では、時系列に沿ってこの北からの奔流を追い、伝説のベールに包まれた館林城開城の真実に迫る。

第一章:北からの奔流 ― 豊臣北方軍、上野国を席巻す

館林城の運命を決定づけたのは、小田原で対峙する豊臣本隊ではなく、北から関東平野に流れ込んできたもう一つの巨大な軍団であった。この北方方面軍の動向こそが、館林城で「戦い」が起こる以前に、その結末を規定していたのである。

第一節:編成と進発 ― 前田・上杉連合軍の威容

小田原征伐における北方方面軍は、総勢3万5千という、それ自体が一つの方面軍として独立して作戦行動が可能な規模を誇っていた 3 。その中核を成したのは、加賀の前田利家(兵1万8千)と越後の上杉景勝(兵1万)という、豊臣政権下でも屈指の実力を持つ二人の大名であった 3 。さらに、上野国の地理に明るく、北条氏とは浅からぬ因縁を持つ真田昌幸(兵3千)もこの軍団に加わっており、その戦略的価値は計り知れないものがあった 3

この軍団の編成自体が、秀吉の巧みな政治戦略を物語っている。前田利家は織田信長の重臣であり、柴田勝家の後継者ともいえる立場であった。上杉景勝は、かつて信長と激しく争った上杉謙信の後継者である。そして真田氏は、武田信玄の旧臣であり、織田・上杉双方と敵対した歴史を持つ。このように、かつては互いに敵味方として鎬を削った大名たちが、今や秀吉の一声の下に一つの軍団として整然と行動している。この事実そのものが、北条氏に対する強力な政治的・心理的圧力となった。秀吉が手にした力が、単なる軍事力に留まらず、日本全土の諸大名を束ねる絶対的な権威であることを、この北方軍の存在が雄弁に物語っていたのである。

第二節:碓氷峠を越えて ― 松井田城の攻防

天正18年3月15日、前田・上杉を主力とする北方軍は、信濃・上野国境の碓氷峠を越え、ついに北条領内への侵攻を開始した 3 。彼らが最初の主要な目標としたのが、上野国西部の要衝・松井田城であった。城を守るのは、北条氏の重臣・大道寺政繁である 3

松井田城の攻防は一ヶ月以上に及んだ。これは大道寺政繁の指揮と城兵の奮戦を示すものであったが、3万5千という圧倒的な兵力差の前では、その結末は火を見るより明らかであった。真田昌幸らの活躍もあり、4月20日、松井田城はついに陥落した 2 。上野国における北条氏の西の門は、ここに破壊された。

第三節:上野諸城、次々と陥落 ― ドミノ現象の発生

松井田城の陥落は、上野国における北条氏の防衛線にドミノ倒しのような連鎖的崩壊を引き起こした。北方軍は一つの勝利に安住することなく、即座にその勢いを東へと向けた。この迅速な進軍こそが、彼らの最大の武器であった。

  • 天正18年4月24日頃まで :北方軍は破竹の勢いで進撃を続け、箕輪城、そして北条氏の上野支配の拠点であった厩橋城(後の前橋城)を次々と攻略した 3
  • 天正18年4月29日頃まで :由良氏の拠点であり、難攻不落とされた金山城もまた、北方軍の前に開城した 3

この一連の電撃的な進軍は、二つの重要な戦略的効果をもたらした。第一に、各地の北条方城主たちに連携や小田原からの援軍を期待する時間的猶予を与えなかった。第二に、より強力な心理的効果である。館林城の守将たちの耳には、連日のように「松井田落城」「箕輪開城」「厩橋陥落」といった絶望的な報せが届いたはずである。日に日に狭まる包囲網と、次々と陥落する友軍の城。この圧倒的な現実が、抵抗の意思を根底から蝕んでいった。この時点で、館林城の「戦い」は、物理的な戦闘ではなく、情報と心理によって勝敗が決する段階に入っていたのである。

第四節:迫りくる包囲網 ― 館林城への道

4月の最終週を迎える頃には、上野国の中西部は完全に豊臣方の手に落ちていた。館林城は、今や上野国東部に孤立して浮かぶ、北条方最後の主要拠点となっていた。さらに、この包囲網をより強固なものにする動きが東方からも起こっていた。秀吉への恭順を表明していた常陸国の佐竹義宣や下野国の宇都宮国綱といった関東の諸大名も、それぞれ軍事行動を開始し、北条方の諸城を攻撃していたのである 4 。西からは前田・上杉軍が、東からは佐竹・宇都宮軍が迫る。館林城は、もはや四方を敵に囲まれた完全な孤島と化していた。


表1:小田原征伐・北方方面軍の進軍年表

日付(天正18年)

場所・出来事

主要武将

意義

3月15日

碓氷峠を越え、上野国へ侵攻

前田利家、上杉景勝、真田昌幸

北条領関東方面への本格的侵攻開始

3月28日~4月20日

松井田城の攻防と陥落

前田利家、上杉景勝、真田昌幸

北条方の上野国西部の防衛拠点が崩壊

4月24日頃

箕輪城、厩橋城が開城

前田利家、真田昌幸

北条方の上野国中核支配が崩壊

4月29日頃

金山城が開城

前田利家、上杉景勝

上野国東部の要衝が陥落し、館林城が完全に孤立

4月29日頃

館林城が開城

前田利家、上杉景勝

上野国全域が豊臣方によって制圧される


第二章:沼沢に浮かぶ孤城 ― 開戦前夜の館林城

北方軍の圧力が最高潮に達した時、その矛先の前にあった館林城は、どのような城だったのだろうか。その地理的特徴と城内の状況を理解することは、後の「無血開城」という結末を読み解く上で不可欠である。

第一節:城の縄張りと守り ― 「尾曳城」の地勢

館林城は、城沼と呼ばれる広大な沼沢地に西から突き出した台地上に築かれた平城であった 9 。この城の最大の防御は、石垣や天守といった人工的な建造物ではなく、城の三方を囲む広大な沼と湿地帯という自然の要害にあった 5 。大軍による包囲や力攻めを困難にするこの地形こそが、館林城が長年にわたり要衝とされてきた理由である。

この城には「尾曳城(おびきじょう)」という別名があり、その由来として興味深い築城伝説が伝えられている。築城主とされる赤井氏が狐を助けたところ、その狐が恩返しとして現れ、自らの尾で地面に縄張り(城の設計図)を描いて見せたという物語である 5

この種の伝説は、単なる民話として片付けるべきではない。戦国時代において、城にまつわる神秘的な物語は、その城が神仏や霊的な存在によって守られているという評判を形成し、敵に対する心理的な抑止力として機能することがあった。また、味方の士気を高める効果も期待できた。後に語られる石田三成が狐の神通力によって攻めあぐねたという創作物語も、この「尾曳城」の伝説が下地となって生まれたものと考えられる。つまり、この狐の伝説そのものが、館林城の防御を構成する無形の「建築要素」の一つであったと言えるだろう。

第二節:城内の将兵 ― 北条氏規と城代たちの覚悟

小田原征伐当時、館林城の城主は、北条氏康の四男であり、北条一門の中でも穏健派・外交派として知られた北条氏規であった 11 。しかし、氏規はこの時、館林にはいなかった。彼は自らの本拠地である伊豆の韮山城の守将として、豊臣本隊の一部と対峙していたのである 3

したがって、館林城の実際の防衛指揮は、城代に一任されていた。複数の資料から、その城代は北条氏の家臣・南条因幡守(なんじょう いなばのかみ)であったことが確認されている 10 。その他、相場氏のような在地武士も守備に加わっていたと考えられる 15

城兵の数については、後世の軍記物では6,000人という数字が記されているが 5 、これは物語を劇的にするための誇張である可能性が高い。他の北条氏支城の兵力を鑑みれば、実際の兵数は多くても1,000から2,000人程度であったと推測するのが妥当であろう。彼らは、3万5千の北方軍を前に、絶望的な状況に置かれていたのである。

第三章:決戦なき終幕 ― 館林城開城、その真実の刻

後世に語られる劇的な攻防戦のイメージとは裏腹に、史料が示す館林城の最期は、驚くほど静かなものであった。それは戦闘の記録ではなく、戦略的判断の記録である。

第一節:決定的史料 ― 佐竹義久書状が語る真実

館林城の開城時期を特定する上で、決定的な意味を持つ一次史料が存在する。それは、常陸の大名・佐竹義宣の一族である佐竹義久が記した書状である。この書状は複数の現代の歴史研究で指摘されており、その信頼性は非常に高い 16

この書状の日付は「天正十八年四月二十九日」である。そしてその文面には、この日までに 館林城がすでに落城していた ことが明確に記されている。この一点をもって、石田三成が関与したとされる6月以降の攻防戦という説は、史実として成立し得ないのである。

この書状の内容は、第一章で述べた北方軍の進軍記録とも完全に一致する。北方軍が館林城の西に位置する金山城を攻略したのが、まさしく4月29日頃であった 3 。金山城が落ちた時点で、最後の防波堤を失った館林城が開城に至ったと考えるのは、極めて自然な流れである。

第二節:無血開城のリアルタイム再現

これらの史料に基づき、館林城開城に至るまでの数日間を、歴史的に蓋然性の高い形で再現することができる。

  • 天正18年4月24日~25日頃 :城代・南条因幡守のもとに、箕輪城と厩橋城が陥落したとの報が届く。北方軍が東進し、自城が次の標的であることを悟る。城は戦略的に完全に孤立した。
  • 天正18年4月26日~27日頃 :前田・上杉軍の先遣隊が館林城周辺に姿を現し、緩やかな包囲態勢を敷く。軍使が城に派遣され、降伏を勧告する。
  • 天正18年4月27日~28日頃 :南条因幡守は城内の将校たちと軍議を開く。議題はただ一つ、降伏か、玉砕か。しかし、上野国の他の城がすべて陥落し、10倍以上の敵に包囲されている現状では、抵抗は無意味な死を招くだけである。城兵と領民の命を救うため、降伏という選択肢以外はあり得なかった。
  • 天正18年4月28日~29日頃 :降伏の条件に関する交渉がまとまり、館林城は豊臣方へ平和裏に明け渡される。この開城はあまりに順当な出来事であったため、戦闘詳報のような記録は残されず、佐竹義久の書状に事実として簡潔に記されるに留まった。

第三節:降伏という合理的選択

利用者が求める「合戦中のリアルタイムな状態」とは、実は「合戦が回避されるまでのリアルタイムな状態」であった。館林城で大規模な戦闘が起こらなかったのは、豊臣方の戦略がそれだけ完璧であったことの証左に他ならない。北条氏が小田原に戦力を集中させたことで生じた北関東の力の空白を、秀吉は北方軍という巨大な楔を打ち込むことで的確に突いた。

北方軍に与えられた任務は、一つ一つの城で消耗戦を繰り広げることではなく、圧倒的な進軍速度によって抵抗の無意味さを示し、戦わずして城を獲ることにあった。館林城の無血開城は、この戦略の最大の成功例である。城代・南条因幡守の決断は、臆病さの表れではなく、与えられた状況下で取り得る唯一の合理的かつ責任ある選択であった。真の「戦い」は城壁の外の戦略盤の上で、そして城内の将たちの心の中で、すでに決着がついていたのである。

第四章:虚実の交錯 ― 石田三成と「狐が守りし城」の伝説

史実としての館林城開城が静かなものであった一方、後世には石田三成を主役とした非常にドラマチックな攻城戦の物語が語り継がれてきた。この伝説と史実の乖離を検証することは、歴史がどのように記憶され、再構築されていくかを理解する上で興味深い事例となる。


表2:「館林城攻め」に関する史実と伝説の比較

比較項目

史実(一次史料に基づく)

伝説・軍記物(『関八州古戦録』など)

攻撃主体

前田利家・上杉景勝らの北方方面軍

石田三成、大谷吉継、長束正家ら

時期

天正18年4月下旬

天正18年6月以降(時期不詳)

経緯

周辺諸城の連続陥落による戦略的包囲と降伏勧告

沼沢地での攻めあぐね、筏による道造りとその失敗

結果

戦闘なき平和的開城

狐の神通力に阻まれ、力攻めを断念した末の開城勧告


第一節:軍記物が描く攻防戦 ― 三成と一夜で消えた道

江戸時代に成立した『関八州古戦録』などの軍記物には、以下のような物語が描かれている 16

小田原城を包囲する秀吉の命を受け、石田三成は数万の軍勢を率いて館林城の攻略に向かう。しかし、城は三方を沼に囲まれた天然の要害であり、三成は大軍を持て余してしまう。そこで彼は、沼に木々を切り倒して筏を組み、一夜にして城への突撃路を築くという奇策を思いつく 5

作戦は順調に進み、翌朝の総攻撃を待つばかりとなった。しかし、夜が明けて三成が目にしたのは、信じがたい光景であった。あれほど強固に築いたはずの道が、跡形もなく沼の底に消え去っていたのである。呆然とする三成に対し、北条からの降将が「これはこの城を守る狐の仕業にございます」と告げる 5 。超自然的な力に畏怖の念を抱いた三成は、力攻めを断念し、交渉による開城へと方針を転換した、というものである。

第二節:史実との乖離 ― なぜ伝説は生まれたか

この物語は非常に魅力的だが、史実とは全く異なる。その矛盾点は、何よりも時間軸にある。石田三成が、大谷吉継や長束正家らと共に小田原の本陣から北関東の支城攻略に派遣されたのは、5月5日以降のことである 16 。彼らの主たる攻略目標は、武蔵国の忍城であった 3 。三成が北へ向かった時点で、館林城はすでに豊臣方の手に落ちてから一週間以上が経過していた。三成が館林城を攻めることは、物理的に不可能だったのである。

では、なぜこのような伝説が生まれたのか。それは、歴史的な記憶が後世において編集・結合された結果と考えることができる。

実際に石田三成が指揮した「忍城の戦い」は、大規模な水攻めが行われたものの、小田原城の本城が降伏するまで落城しなかったことで有名である 1 。この戦いは、三成の「戦下手」という後世の評価を決定づけるほど、劇的で困難な攻城戦であった。

一方で、館林城の実際の開城は、戦略的には重要であったが、物語としてはあまりに地味であった。そこで、江戸時代の講談師や軍記作者たちは、人々の興味を引くために、一種の「歴史の合成」を行ったのではないだろうか。つまり、近隣で実際にあった有名な「忍城攻め」から、著名な指揮官である石田三成と「難攻不落の城を攻めあぐねる」というテーマを借用した。そして、それを館林城が元々持っていた「狐が守る尾曳城」という神秘的な民間伝承と融合させることで、史実よりも遥かに面白く、記憶に残りやすい一つの物語を創造したのである。この伝説は、1590年の出来事そのものよりも、江戸時代の人々が戦国時代をどのように解釈し、物語として消費していたかを我々に教えてくれる。

終章:新たな時代の礎として

戦闘なき開城であったとはいえ、天正18年4月29日の館林城の降伏は、小田原征伐全体、そして関東の未来にとって、極めて重要な意味を持つ出来事であった。

戦局への影響

館林城の開城は、上野国全域が豊臣方によって完全に制圧されたことを意味した。これにより、北方方面軍は背後の憂いを完全に断ち切ることができた。前田利家や上杉景勝は、この後、軍を南下させ、武蔵国における北条氏の重要拠点である鉢形城や八王子城の攻略に全戦力を投入することが可能となった 3 。館林城の陥落は、北条氏の北関東防衛線にとどめを刺し、小田原城の孤立を決定的にしたのである。

戦後処理と榊原康政の入城

7月に北条氏が降伏すると、秀吉は「関東仕置」と呼ばれる大規模な領地再編を行った 3 。北条氏の旧領はすべて没収され、駿河・遠江・三河などを領していた徳川家康に与えられた 2 。これは家康を江戸に封じ込める意図があったとされるが、結果として後の江戸幕府の礎を築くことになる。

この家康の関東入府に伴い、館林城は徳川四天王の一人、榊原康政に10万石の所領と共に与えられた 3 。康政は館林城の大規模な改修と城下町の整備を行い、近世城郭としての館林城の基礎を築いた。

歴史的意義の転換

この一連の出来事を通じて、館林城の戦略的価値は根本的に転換した。北条氏の時代、館林城は越後の上杉氏や常陸の佐竹氏といった北や東の敵に対する「最前線の城」であった。それは外向きの、攻撃的な意味合いを持つ拠点であった。

しかし、徳川家康が江戸に入ると、その役割は一変する。館林城は、家康の新たな本拠地である江戸の北方を固める「中核的な守りの城」となったのである。伊達氏や上杉氏といった、いまだ潜在的な脅威となりうる東北の大名たちに対する、江戸の防波堤としての役割を担うことになった。榊原康政という徳川譜代の重臣が配置されたことは、この城が徳川の支配体制においていかに重要視されていたかを示している。

天正18年(1590年)の無血開城は、館林城が戦国時代のフロンティアから、江戸幕府の安寧を支える枢要な拠点へと生まれ変わる、まさにその転換点であった。一つの城の静かな終幕は、新たな時代の幕開けを告げる序曲だったのである。

引用文献

  1. 忍城の戦い古戦場:埼玉県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/oshijo/
  2. 「小田原征伐(1590年)」天下統一への総仕上げ!難攻不落の小田原城、大攻囲戦の顛末 https://sengoku-his.com/999
  3. 1590年 小田原征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1590/
  4. 小田原征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90
  5. 石田三成は狐の祟りを恐れたのか⁈伝説に振り回された舘林城攻めの結末とは? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/107809/
  6. 【小田原出陣】 - ADEAC https://adeac.jp/shinshu-chiiki/text-list/d100040-w000010-100040/ht096230
  7. 佐竹義宣 (右京大夫) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%BE%A9%E5%AE%A3_(%E5%8F%B3%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%A4%AB)
  8. 宇都宮国綱(うつのみや・くにつな) 1568~1607 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/UtsunomiyaKunitsuna.html
  9. 館林市 - 出世の街 浜松|ゆかりの地めぐり https://hamamatsu-daisuki.net/ieyasu/yukari/detail.html?p=443
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  15. アイ~ - 埼玉苗字辞典 http://saitama-myouji.my.coocan.jp/5-1ai_8454.html
  16. 館林城(群馬県館林市)の詳細情報・口コミ - ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/1888
  17. 館林城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%A8%E6%9E%97%E5%9F%8E
  18. (石田三成と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/44/
  19. 忍城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  20. 石田三成と忍城水攻め - 行田市 https://www.city.gyoda.lg.jp/material/files/group/5/110208_08.pdf
  21. 石田堤 ~石田三成の水攻めの跡~ - 関東地方整備局 https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000670313.pdf
  22. 石田三成は戦下手なんかじゃない!?忍城の水攻めに反対した本音を大暴露! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/140643/
  23. 高岡の祖・前田利長略年譜 https://www.e-tmm.info/tosinaga.htm
  24. 館林城跡 | 場所と地図 - 歴史のあと https://rekishidou.com/tatebayashijo/
  25. 【群馬県】館林城の歴史 徳川四天王・榊原康政ゆかりの城 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2025