最終更新日 2025-09-07

馬ヶ岳城の戦い(1587)

天正15年、豊臣秀吉の九州平定で馬ヶ岳城は無血開城し、本営となる。新領主黒田長政は、後の国人一揆で当城を拠点に苦戦しつつも、謀略で旧領主宇都宮鎮房を滅ぼした。

天正十五年、馬ヶ岳城の真実 ―無血の城と若き黒田長政の試練―

【表1】天正15年~16年 馬ヶ岳城関連 時系列表

年月日 (西暦)

年月日 (和暦)

主要な出来事

関係者

場所

意義・影響

1586年

天正14年

秀吉、島津・大友に惣無事令を発布。島津氏、豊後侵攻を開始(豊薩合戦)。

豊臣秀吉、島津義久、大友宗麟

九州全域

秀吉の九州出兵の直接的な原因となる。

1587年3月28日

天正15年3月28日

豊臣秀吉、小倉に上陸。

豊臣秀吉

豊前国 小倉

九州平定戦の本隊による戦闘開始。

1587年3月29日

天正15年3月29日

長野助盛が降伏し、秀吉が馬ヶ岳城に入城。本陣とする。

豊臣秀吉、長野助盛

豊前国 馬ヶ岳城

馬ヶ岳城の無血開城。九州平定における前方司令部となる。

1587年5月8日

天正15年5月8日

島津義久、秀吉に降伏。九州平定が完了。

島津義久、豊臣秀吉

薩摩国 泰平寺

島津氏の支配は薩摩・大隅等に限定され、秀吉の天下統一が大きく前進。

1587年7月

天正15年7月

黒田孝高・長政父子、豊前六郡を拝領し入国。馬ヶ岳城を居城とする。

黒田孝高、黒田長政

豊前国 馬ヶ岳城

豊前の新領主として黒田氏の統治が開始される。

1587年10月1日

天正15年10月1日

宇都宮鎮房ら豊前の国人衆が蜂起(豊前国人一揆)。

宇都宮鎮房、黒田長政

豊前国一帯

黒田氏の領国統治に対する最初の、そして最大の挑戦。

1587年10月下旬

天正15年10月下旬

黒田長政、城井谷を攻めるも岩丸山で大敗。

黒田長政、宇都宮鎮房

豊前国 城井谷

長政の初陣での挫折。地の利を活かした国人勢力の強さを示す。

1587年11月~12月

天正15年11月~12月

長政、馬ヶ岳城を拠点に再起。観音原の戦いで勝利し、周辺の一揆勢を鎮圧。

黒田長政

豊前国 上毛郡など

黒田氏の反攻開始。一揆勢の各個撃破が進む。

1588年4月20日

天正16年4月20日

黒田長政、宇都宮鎮房を中津城で謀殺。一族も掃討される。

黒田長政、宇都宮鎮房

豊前国 中津城

豊前国人一揆の完全終結。黒田氏による豊前平定が完了。

【表2】主要登場人物とその関係性

人物名

役職・立場

豊臣方との関係

九州在地勢力との関係

本報告書における役割

豊臣秀吉

関白・天下人

九州平定軍の総大将

九州の新たな支配者

全ての事象の起点となる最高権力者。

黒田孝高(官兵衛)

豊臣家軍監→豊前領主

秀吉の腹心、九州平定の功労者

新たな支配者

豊前統治の責任者。謀略による一揆終結の立案者。

黒田長政

孝高の嫡子

豊臣家家臣

新たな支配者

本報告書の主人公。馬ヶ岳城を拠点に国人一揆と戦い、成長する若き武将。

長野助盛

馬ヶ岳城主

降伏し、城を明け渡す

秋月種実の弟

時代の奔流の中で、一族より現実を選択した悲劇の城主。

秋月種実

筑前 古処山城主

徹底抗戦の末に降伏

島津氏の主要な同盟者

長野助盛の決断の背景となる、反秀吉勢力の重鎮。

宇都宮鎮房(城井鎮房)

豊前 城井谷領主

秀吉の国分けに反発し蜂起

豊前国人衆の盟主

400年の伝統を守るため新領主に抵抗し、謀略に倒れる悲劇の旧領主。

序章:天下統一の奔流、九州へ

天正15年(1587年)の「馬ヶ岳城の戦い」を正確に理解するためには、まずその前年、天正14年(1586年)の九州における地政学的な状況を把握することが不可欠である。この時期、九州はまさに戦国動乱の最終局面にあり、一つの巨大な奔流が島全体を飲み込もうとしていた。その奔流とは、中央の覇者、豊臣秀吉による天下統一事業に他ならない。

九州の覇権を巡る最終局面

天正6年(1578年)の日向国・耳川の戦いにおいて、薩摩の島津氏が豊後の大友氏に決定的勝利を収めて以降、九州の勢力図は劇的に塗り替えられていった 1 。島津義久を当主とする島津氏は、破竹の勢いでその版図を拡大。天正14年(1586年)までには、本拠の薩摩・大隅・日向に加え、肥後国を平定し、さらには肥前の龍造寺氏をも事実上の支配下に置くに至った 2 。九州統一は、もはや時間の問題であるかに見えた。

対照的に、かつて九州六ヶ国を支配した名門・大友氏は見る影もなく衰退していた。当主・大友義統とその父・宗麟(義鎮)は、島津の圧倒的な軍事力の前に豊後一国へと追い詰められ、まさに存亡の危機に瀕していたのである 1

大友宗麟の決断と秀吉の介入

この絶望的な状況を打開するため、大友宗麟は最後の望みを託し、自ら大坂城へと赴いた。そして、関白・豊臣秀吉に臣従を誓い、その庇護と軍事的な救援を懇願したのである 1 。天下統一の総仕上げとして西国平定を目論む秀吉にとって、これは九州介入の絶好の口実であった。

秀吉はまず、天正13年(1585年)10月、天皇の権威を背景として全国の大名に私的な戦闘を禁じる「惣無事令」を発布。島津・大友両氏に対しても即時停戦を命じた 1 。大友氏がこれを受諾したのに対し、島津義久は九州の覇権が目前であることから、この命令を事実上黙殺する。表向きは恭順の意を示しつつも、「領内の反逆者を討伐するため」という独自の論理を掲げ、大友領への侵攻を継続した 1

この島津氏の行動は、秀吉が構築しようとする新たな秩序への明確な挑戦であった。秀吉の介入は、単に九州の二大名の争いを調停するという次元のものではない。それは、戦国時代を通じて続いてきた「実力主義」という地方の論理を、天下人による「公儀(天下の秩序)」の下に従わせるという、国家のあり方を巡る価値観の衝突でもあった。島津氏の抵抗は、この新しい秩序に対する最後の、そして最大の挑戦と見なされ、秀吉に九州への大規模な軍事介入を決断させる直接的な引き金となったのである 5

九州征伐軍の編成

天正15年(1587年)1月、秀吉は九州平定に向け、総勢20万とも25万ともいわれる、当時としては空前の規模を誇る大軍の動員を命じた 4 。作戦計画も周到であり、軍は二手に分けられた。秀吉自らが率いる本隊は肥後路を、弟の豊臣秀長が率いる別動隊は日向路を南下し、島津領を挟撃する手筈であった 4 。この圧倒的な物量と緻密な作戦計画は、九州平定戦の帰趨を、事実上、開戦前にして決定づけていたと言っても過言ではない。この巨大な軍事の奔流が、豊前国、そして馬ヶ岳城へと迫りつつあった。

第一章:無血の開城 ― 馬ヶ岳城の戦略的価値と降伏

豊臣秀吉の大軍が九州の玄関口である豊前国に迫る中、その進路上に位置する一つの山城が、歴史の転換点における重要な役割を担うこととなる。それが馬ヶ岳城である。この城を巡る最初の「戦い」は、しかし、鬨の声も矢の応酬もない、静かなる決断によって決着した。

豊前の要衝・馬ヶ岳城

馬ヶ岳城は、現在の福岡県行橋市とみやこ町にまたがる標高216メートルの馬ヶ岳に築かれた、典型的な中世の山城である 9 。その名は、東西に二つの峰を持つ姿が神馬の姿に似ていることに由来するとも言われる 11 。城の構造は、西の峰を本丸、東の峰を二の丸とする連郭式で、尾根筋には長大な土塁が走り、堀切や畝状竪堀群といった堅固な防御設備が施されていた 9

この城が持つ最大の価値は、その戦略的な立地にあった。眼下には豊前国の穀倉地帯である京都平野(みやこへいや)が広がり、遠くは周防灘までを一望できる 16 。これは、平野を進む陸上部隊と、海上を航行する水軍の双方の動きを完全に掌握できることを意味し、古来よりこの地を支配する者にとって、馬ヶ岳城は豊前支配の鍵を握る要衝中の要衝であった 10

城主・長野助盛の苦悩

天正15年当時、この重要な城を預かっていたのは、長野助盛(三郎左衛門)という武将であった 10 。彼の出自は、この局面において極めて複雑かつ困難な立場を強いるものであった。助盛は、筑前の有力な国人領主である秋月文種の子として生まれ、豊前長野氏の名跡を継いだ人物である 19 。そして、彼の兄こそが、島津氏と強固な同盟を結び、秀吉に対して徹底抗戦の意志を固めていた筑前古処山城主・秋月種実だったのである 19

兄が反秀吉連合の中核を担う一方で、弟である助盛の居城は、まさに秀吉軍の進撃路の最前線に位置していた。一族としての絆を重んじ、兄と共に滅びの道を歩むのか。それとも、目前に迫る天下人の圧倒的な力の前に屈し、一族を裏切ってでも家名を存続させる道を選ぶのか。助盛は、絶体絶命の選択を迫られていた。

天正15年3月・降伏へのカウントダウン

天正14年(1586年)末、毛利輝元を総大将、黒田孝高(官兵衛)を軍監とする豊臣軍の先発隊が九州に上陸した 8 。彼らはまず豊前小倉城を攻略し、続いて松山城に陣を構えると、破竹の勢いで周辺の城々を制圧していった 8 。馬ヶ岳城は、日に日に包囲網が狭まっていくのを、その山頂から目の当たりにしていたであろう。

圧倒的な兵力差、そして周辺の城が抵抗むなしく次々と陥落していく現実を前に、籠城戦がいかに無謀であるかは火を見るより明らかであった。長野助盛は、苦渋の決断を下す。兄・秋月種実と袂を分かち、豊臣方に降伏することを決意したのである。この決断により、豊前の要衝・馬ヶ岳城は一滴の血も流すことなく、秀吉の手に渡ることとなった 10

長野助盛の降伏は、単なる一城主の軍事的な敗北を意味するものではない。それは、九州の国人領主たちが長年にわたって築き上げてきた、血縁や地縁に基づく同盟関係という「私」の論理が、秀吉の掲げる天下統一という新たな秩序と、それを裏付ける圧倒的な武力という「公」の論理の前に、もろくも崩れ去っていく様を象徴する出来事であった。助盛の決断の裏には、戦国という時代の終焉に際して、九州の多くの国人たちが直面したであろう深刻な葛藤と苦悩が凝縮されていたのである。

第二章:太閤の本営 ― 秀吉、馬ヶ岳城に入る

無血にて開城された馬ヶ岳城は、豊臣軍にとって単なる通過点では終わらなかった。天下人・豊臣秀吉は、この城が持つ戦略的価値を瞬時に見抜き、九州平定戦における極めて重要な前方司令部として活用することになる。

太閤、九州上陸

天正15年3月1日、秀吉は満を持して大坂城を発した 24 。海路を西へ進み、3月28日、ついに九州の地、豊前国小倉に上陸を果たす。ここで直ちに軍議を開き、今後の進軍方針を最終決定した 10 。秀吉本隊の到着により、九州平定戦は最終段階へと突入したのである。

馬ヶ岳城への入城と軍議

小倉での軍議を終えた翌日の3月29日、秀吉は自ら馬ヶ岳城に入城した 10 。この事実は、黒田官兵衛宛に送られた当時の書状からも確認されており、秀吉がこの城を次の作戦の拠点として事前に定めていたことを示している 10

秀吉がこの城を選んだ理由は明らかであった。先遣隊からの報告と、自らの目で確かめた城からの眺望は、この城が軍事拠点として比類なき価値を持つことを示していた。京都平野と周防灘を一望できるこの場所は、陸海双方の軍の動きを把握し、全軍を指揮する司令塔としてまさに理想的であった 16 。秀吉はここに数日間滞在し、馬ヶ岳城を事実上の本陣とした 19

この馬ヶ岳城の本陣において、次の具体的な軍事目標が定められた。それは、長野助盛の兄であり、島津方に与する最重要人物の一人、秋月種実の討伐である。その前哨戦として、まずは秋月氏の支城である岩石城(がんじゃくじょう)を攻略し、その後、本拠地である古処山城(こしょさんじょう)へと進軍する作戦計画が、この地で練り上げられた 10

九州平定戦の司令塔として

4月1日、秀吉は馬ヶ岳城を発ち、作戦計画通り岩石城を攻め落とす 10 。その圧倒的な軍事力の前に戦意を喪失した秋月種実は、ついに降伏を決断する 21 。北九州における最大の抵抗勢力を屈服させた秀吉は、その後、島津氏の本国である薩摩へと進軍を続けた。

秀吉の馬ヶ岳城滞在はわずか数日間であったが、その間に北九州の戦局は決定づけられた。この事実は、馬ヶ岳城が秀吉の九州平定という巨大な軍事作戦において、単なる宿泊地ではなく、戦況を左右する重要な意思決定が行われた司令塔の役割を果たしたことを明確に示している。

秀吉が降伏した城を破壊したり放棄したりするのではなく、即座に自軍の拠点として転用したことは、彼の戦における極めて合理的かつ効率的な占領政策を物語っている。馬ヶ岳城への入城は、秀吉の卓越した戦略眼と、城の地政学的な価値を瞬時に見抜く能力の高さを示す象徴的なエピソードであったと言えるだろう。

第三章:新領主と旧き国人 ― 黒田氏の豊前入封

天正15年5月8日、島津義久が薩摩川内の泰平寺にて秀吉に降伏したことにより、九州全土は平定された 2 。戦乱の時代は終わり、秀吉による新たな秩序構築の段階へと移行する。博多の筥崎宮(はこざきぐう)で行われた「国分け(知行割)」は、九州の未来を決定づけるものであった。この論功行賞において、豊前国の新たな領主として白羽の矢が立ったのが、秀吉の腹心として知られる稀代の軍師、黒田孝高(官兵衛)とその嫡子・長政であった。

黒田氏の豊前入国と馬ヶ岳城

九州平定において軍監として多大な功績を挙げた黒田孝高は、その恩賞として豊前国のうち六郡、約12万石を与えられた 6 。天正15年7月、孝高と長政の父子は新たな領国である豊前へと入国する 10

彼らが最初の居城として選んだのが、他ならぬ馬ヶ岳城であった 10 。この選択には、明確な二つの理由が存在した。第一に、馬ヶ岳城が古くから豊前支配の戦略的拠点として認識されていたこと。そして第二に、より現実的な理由として、豊前南部には新領主の支配に心服しない在地勢力が依然として根強く残っていたためである 10

その筆頭が、鎌倉時代から400年以上にわたりこの地を治めてきた名族、城井(きい)氏の当主・宇都宮鎮房(うつのみや しげふさ)であった 30 。秀吉の国分けにおいて、鎮房は先祖伝来の地である城井谷からの移封を命じられていたが、故郷への強い執着からこれに従わず、黒田氏の入国を不満と警戒の目で見つめていた 38 。黒田父子にとって、馬ヶ岳城は、こうした不穏な勢力を牽制し、必要とあらば即座に制圧するための、まさに最前線の軍事拠点としての役割が期待されていたのである。

新旧勢力の緊張

黒田氏が馬ヶ岳城を最初の拠点としたという事実は、彼らが豊前統治を平穏な行政の引き継ぎとは考えていなかったことを示唆している。それは、潜在的な敵対勢力に対する軍事的な平定作戦の第一歩であった。馬ヶ岳城は、新政権の「統治の象徴」であると同時に、「反乱鎮圧の最前線基地」という二重の役割を担っていたのである。

入国後、黒田氏は新たな支配者として領内の検地を開始するが 31 、これは旧来の国人たちが長年保持してきた既得権益を根本から揺るがすものであった。新領主による統治強化の動きと、それに反発する旧勢力の意地とがぶつかり合い、豊前の地には急速に緊張が高まっていく。特に、宇都宮鎮房の存在は、いつ爆発してもおかしくない最大の火種となっていた。後にこの地で繰り広げられる真の戦いは、この時点で既にその序章を迎えていたのである。

第四章:馬ヶ岳城、真の戦い ― 豊前国人一揆の勃発

一般に「馬ヶ岳城の戦い」として想起される攻防戦は、秀吉の九州平定時には存在しなかった。この城が真に戦いの拠点となったのは、黒田氏の入封後、豊前の旧き秩序が新しき支配に牙を剥いた「豊前国人一揆」においてであった。そして、その主役は、父・孝高が不在の中、馬ヶ岳城で指揮を執った若き黒田長政であった。

一揆の狼煙

天正15年10月1日、絶好の機会が訪れる。隣国・肥後で大規模な国人一揆が発生し、黒田孝高がその鎮圧のために主力を率いて久留米へと出陣したのである 31 。この孝高不在の隙を突き、宇都宮鎮房を盟主として、黒田氏の支配を快く思わない豊前の国人衆が一斉に蜂起した。

この時、馬ヶ岳城で留守を預かっていたのは、まだ20歳になったばかりの若武者、黒田長政であった 39 。領国全土で上がった反乱の狼煙は、彼にとって領主としての器量を問われる最初の、そしてあまりにも過酷な試練となった。

【時系列解説】岩丸山の敗戦 ― 長政、初の挫折

  • 出陣決意: 各地での一揆蜂起の報が馬ヶ岳城に殺到する中、若き長政は血気にはやる。父・孝高の帰還を待つべきだという家臣たちの慎重論を振り切り、一揆の中核である宇都宮氏の本拠地・城井谷を直接攻撃するという、大胆かつ無謀な作戦を即断した 30 。『新訂黒田家譜』には、長政が「この一揆に負けるならば、父が粉骨を以て拝領した国を治められず、家の面目を失う。自分も家臣も、身の浮沈はただこの一戦にあるのだ」と檄を飛ばし、家臣を鼓舞した様子が記されている 30
  • 進軍と伏兵: 長政率いる約3,000の黒田軍は、馬ヶ岳城から城井谷へと進軍を開始した 43 。しかし、迎え撃つ宇都宮鎮房は、400年にわたりこの地を知り尽くした一族の長である。彼は、城井谷の峻険な地形を天然の要害として最大限に活用し、巧みなゲリラ戦術を展開した 38 。黒田軍は、鎮房の術中にはまり、知らず知らずのうちに谷の奥深くへと誘い込まれていった。
  • 戦闘勃発と壊滅: 城井谷の岩丸山付近に差し掛かった時、待ち伏せていた宇都宮勢が一斉に奇襲を仕掛けた 42 。不慣れな地形で完全に意表を突かれた黒田軍は大混乱に陥り、組織的な抵抗もままならず壊滅的な打撃を受ける。先手・二番手を務めた有力家臣が次々と討ち死にし、一説には800もの首級を挙げられたという 46 。長政自身も乱戦の中で命を落としかけたが、家臣の奮戦により辛うじて戦場を離脱し、命からがら馬ヶ岳城へと敗走した 41
  • 敗戦後: この惨敗は、若き長政の心を深く打ちのめした。自らの判断の甘さと未熟さを痛感した彼は、馬ヶ岳城に帰り着くと、誰とも会わずに夜具をかぶって引きこもってしまったと伝えられている 42 。一方で、興味深い逸話も残されている。父・孝高は、遠く離れた馬ヶ岳城の櫓の上から、息子が敗走してくる様子を見て、嘆くどころか笑っていたという 42 。これは、この手痛い失敗こそが、息子を真の武将へと成長させるための何よりの薬になると見抜いていた、老練な軍師の器の大きさを示すものであろう。

この岩丸山の戦いは、中央の先進的な集団戦術に慣れた武将が、地方の地理と人心を軽視した際に陥る典型的な失敗例であった。宇都宮鎮房の戦術は、単なる奇襲ではなく、長年その土地で培われた「地の利」と、旧領主への忠誠心という「人の和」を最大限に活用した、高度な防衛戦略だったのである。長政はこの敗北を通じて、武力による力押しだけでは領国統治は成し得ないという、厳しくも貴重な教訓をその身に刻み込むこととなった。

第五章:若武者の逆襲 ― 黒田長政の豊前平定戦

初陣での手痛い敗北は、黒田長政を打ちのめしたが、同時に彼を冷静な指揮官へと変貌させる契機ともなった。父・孝高の助言もあったであろう、長政は戦術を根本から転換し、馬ヶ岳城を再び拠点として、粘り強い逆襲に転じる。

戦略の転換

城井谷への直接攻撃という力攻めの失敗を悟った黒田方は、より現実的で周到な戦略へと切り替えた。まず、宇都宮氏の本拠地である城井谷に対しては、神楽城などの「付城(つけじろ)」を周辺に築いて厳重に包囲・封鎖し、外部との連絡や兵站を断つ持久戦に持ち込むこととした 41

そして、主力を宇都宮氏に呼応して蜂起した周辺の国人衆の鎮圧へと振り向けた。一揆勢の連携を断ち、一つ一つの城を確実に攻略していくことで、盟主である宇都宮氏を軍事的に孤立させる「各個撃破」戦術である 41 。この戦略転換は、若き長政が猪突猛進の武者から、大局を見据える将へと成長したことを示していた。

【時系列解説】観音原の戦いと諸城の攻略

  • 再度の出撃: 挫折から立ち直った長政は、馬ヶ岳城から再び兵を率いて出陣。最初の目標を、一揆勢の活動が活発な上毛郡(こうげぐん)に定めた 39
  • 観音原の戦い: 上毛郡観音原(現在の福岡県上毛町)に集結していた一揆の野戦部隊に対し、黒田軍は周到な準備の上で攻撃を仕掛け、これを包囲殲滅することに成功する 39 。この戦いの勝利は、一揆勢の組織的な野戦能力に大きな打撃を与え、黒田方の反攻の狼煙となった。
  • 諸城の攻略: 観音原での勝利に続き、長政は各地の反乱拠点の制圧に乗り出す。下毛郡の最有力国人であった野仲氏が籠る長岩城を攻略 41 。さらに、広津城、小倉城を攻め、宇留津城も陥落させた 41 。特に宇留津城の戦いは凄惨を極め、落城後、城兵の妻子千人が浜で磔に処せられたと伝えられており、一揆に対する黒田方の厳しい姿勢がうかがえる 47

天正15年の暮れ、12月までには、下毛郡(しもげぐん)の主要な城もことごとく攻め落とされ、宇都宮氏を除く豊前の国人一揆は、ほぼ鎮圧されるに至った 31 。城井谷に籠る宇都宮鎮房は、もはや味方の援軍を期待できない、完全に孤立した状況に追い込まれていた。

この一連の逆襲の過程は、黒田長政が戦術を柔軟に転換できる指揮官へと成長していく物語である。初戦の失敗という痛烈な「学習」が、その後の勝利に不可欠な要素であったことは間違いない。馬ヶ岳城は、彼にとって「失敗の学び舎」であり、同時に「逆襲の拠点」となったのである。

第六章:謀略の終焉 ― 宇都宮鎮房の最期

軍事的に完全に孤立した宇都宮鎮房に対し、黒田父子は最後の仕上げとして、武力ではなく、より冷徹で確実な手段、すなわち「謀略」を用いることを決断する。それは、戦国乱世の終焉期において、旧き時代の価値観が新しき時代のリアリズムの前に非情に断ち切られる瞬間であった。

偽りの和睦

天正15年(1587年)末、四面楚歌の状態に陥った宇都宮鎮房は、ついに和睦の道を探り始める。毛利氏の重臣であり、外交僧としても知られる安国寺恵瓊の仲介を経て、黒田氏との和議が成立した 10 。その条件は、鎮房の本領安堵と、彼の13歳になる娘・鶴姫を人質として黒田方に差し出すというものであった 38

しかし、この和睦は、黒田父子にとっては鎮房を油断させ、城井谷の堅城から誘い出すための巧妙な罠に過ぎなかった。彼らにとって、一度は自らに反旗を翻し、長政に大敗の屈辱を与えた宇都宮氏の存在そのものが、豊前統治における最大の不安定要因であった。その完全な排除こそが、最も合理的で確実な解決策であると、彼らは判断していたのである。

中津城の悲劇

和睦が成立した後の天正16年(1588年)1月、黒田氏は豊前統治の恒久的な拠点として、平地に中津城の築城を開始する 31 。そして同年4月20日、黒田長政は和睦の証として、宇都宮鎮房を完成間近の中津城で開かれる酒宴に招待した 39

和睦を信じた鎮房は、僅かな供回りだけを連れて、この招待に応じた。しかし、彼を待っていたのは祝宴の席ではなく、周到に準備された暗殺の罠であった。酒宴の最中(あるいは入浴中に不意を突かれたという説もある 42 )、鎮房は黒田方の兵に取り囲まれ、奮戦虚しく謀殺された。享年53であった 37

一族の掃討と平定完了

この謀殺は、宇都宮一族殲滅作戦の始まりに過ぎなかった。鎮房が討たれたのと時を同じくして、彼の家臣団が待機していた城下の合元寺(ごうがんじ)にも黒田勢が襲いかかった。家臣たちは主君の異変を察知し、死に物狂いで奮戦したが、多勢に無勢、全員がその場で討ち死にした 42 。この時、寺の白壁が返り血で真っ赤に染まり、何度塗り替えても血の色が滲み出てきたことから、後に「赤壁寺」と呼ばれるようになったと伝えられている 32

非情な手は、城井谷に残された一族にも及んだ。鎮房の父・長房は居館を攻められて殺害され、肥後一揆鎮圧のため父・孝高に同行していた嫡男の朝房も、肥後の地で孝高の手によって暗殺された 38 。そして、人質として黒田家に預けられていた娘の鶴姫も、山国川の河原で磔に処せられるという、あまりにも悲惨な最期を遂げた 38

これにより、鎌倉時代から400年にわたり豊前の地に栄えた名族・城井宇都宮氏は、文字通り根絶やしにされ、その歴史に幕を下ろした。黒田氏による豊前平定は、この謀略をもって完了したのである 39 。この結末は、新しい時代を築くためには、旧時代の残滓を情け容赦なく清算するという、織豊政権の大名に共通する苛烈な側面を象徴する事件であった。

総括:天正十五年における馬ヶ岳城の歴史的意義

天正15年(1587年)という一年間を通じて、馬ヶ岳城は日本の歴史が大きく転換する様を、その山頂から静かに見つめていた。当初の想定にあったような、黒田長政が力攻めによって攻略する「馬ヶ岳城の戦い」という単一の合戦は、史実としては存在しない。真実は、より複雑で多層的な物語である。それは、秀吉による「無血開城」と、その後に黒田長政がこの城を「拠点として戦った」一連の戦闘、すなわち豊前国人一揆の鎮圧戦であった。

役割の変遷

馬ヶ岳城は、この激動の一年の中で、その立場を劇的に変化させた。

  1. 反秀吉勢力の拠点: 当初は、秋月・島津方に連なる長野助盛の城として、豊臣軍の進撃を阻む可能性のある城であった。
  2. 天下人の前方司令部: 無血開城後は、豊臣秀吉自らが入城し、北九州平定の作戦を練る最重要の本営となった。
  3. 新領主の初期統治拠点: 九州平定後、豊前の新領主となった黒田父子が最初に入った城であり、新政権の始動を告げる場所となった。
  4. 反乱鎮圧の最前線基地: そして、豊前国人一揆が勃発すると、若き黒田長政が籠り、敗北と逆襲を経験する、まさに戦いの最前線基地へと変貌した。

歴史的意義

馬ヶ岳城を巡る一連の出来事は、戦国時代の終焉期における日本の姿を凝縮している。秀吉の天下統一事業という巨大な奔流が、九州という地方の伝統的な在地勢力に与えた衝撃。そして、それに伴う新旧支配者の交代の過程で生じた、血で血を洗う激しい摩擦。馬ヶ岳城の歴史は、その全てを物語っている。

さらに、この城を舞台とした戦いは、一人の武将の成長譚としても極めて重要である。若き日の黒田長政は、この地で手痛い挫折を味わい、そしてそれを乗り越えることで、単なる勇猛な武者から、謀略をも厭わない冷徹なリアリストへと成長を遂げた。この豊前での過酷な経験は、後の関ヶ原の戦いにおける彼の目覚ましい活躍の、間違いなく礎となったであろう。

結論として、馬ヶ岳城は、特定の攻城戦の舞台としてではなく、時代の転換点において多様な役割を果たした戦略拠点として、その歴史的意義を評価されるべきである。それは、黒田氏による九州における覇業の、まさに第一歩を印した記念碑的な城として、日本の戦国史にその名を刻んでいる。

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