最終更新日 2025-09-05

駿府城の戦い(1582)

天正十年、織田信長死後の混乱に乗じ、徳川家康は駿河国を完全に掌握。これは単なる城攻めにあらず、家康が天下を窺う大大名へと飛躍する戦略的転換点であった。

天正十年(1582年)駿河国支配体制の変遷 ―「駿府城の戦い」の実像と徳川家康の台頭―

序章:問いの再定義 ―「駿府城の戦い」とは何か

天正10年(1582年)という年は、日本の歴史において最も劇的な転換点の一つとして記憶されている。この激動の年における「駿府城の戦い」について、利用者から提示された「織田系の支配が徳川に移行」したという認識は、歴史の大きな流れを的確に捉えている。しかし、この言葉が示唆するような、駿府城そのものを舞台とした大規模な攻城戦や籠城戦が、同年に発生したという事実は、信頼性の高い歴史資料からは確認できない 1

本報告書が解き明かす「駿府城の戦い」の実像とは、単一の戦闘を指す固有名詞ではない。それは、織田信長の死という未曾有の政変を契機として、駿河国の支配権が織田氏の間接的な管理体制から徳川家康による直接的かつ完全な支配へと移行し、確固たるものとなるまでの一連の政治的・軍事的プロセス全体を指す、広義の「駿河国争奪」の動態である。

したがって、本報告書は、この歴史的事実を象徴的に表現した「駿府城の戦い」という言葉を再解釈し、その背景にある甲州征伐後の新秩序、本能寺の変による権力の崩壊、そして「天正壬午の乱」と呼ばれる旧武田領を巡る壮絶な争奪戦の全貌を、可能な限り詳細な時系列に沿って解き明かすことを目的とする。この一連の出来事を通じて、徳川家康がいかにして絶体絶命の危機を乗り越え、天下を窺う有力大名へと飛躍を遂げたのか、その戦略と行動を徹底的に分析する。

第一部:激動の前夜 ― 甲州征伐と束の間の新秩序(1582年3月~5月)

第一章:武田氏の滅亡と駿河国の帰属

天正10年(1582年)3月、織田信長・信忠父子を総大将とし、同盟者である徳川家康、そして関東の北条氏政らが参加した連合軍による甲州征伐は、戦国最強と謳われた武田氏をわずか一ヶ月余りで滅亡に追い込んだ 3 。この戦役において、徳川家康は自身の領国である遠江に隣接する駿河方面から進軍し、武田方の重要拠点であった田中城を攻略・開城させるなど、軍事的に重要な役割を果たした 3

武田氏滅亡後、織田信長は同年3月29日、旧武田領の戦後処理、すなわち「知行割(所領の再配分)」を断行する 5 。この論功行賞において、徳川家康はこれまでの三河・遠江二国に加え、駿河一国を新たに与えられることとなった 5 。これにより、家康は三河・遠江・駿河の三国を領有する東海地方の雄として、その地位をさらに固めることになったのである。

しかし、信長から与えられた「駿河一国」の支配権は、完全無欠なものではなかった。そこには、信長の巧みな権力均衡策が反映されていた。具体的には、甲州征伐の過程で武田氏を裏切り、家康を通じて織田方に内通した武田一門の重鎮、穴山梅雪(信君)の存在である。信長は梅雪の功績を高く評価し、甲斐国の河内領に加えて、駿河国の江尻領(現在の静岡市清水区周辺)の所領を安堵した 5 。さらに、駿河東部の興国寺城は、同じく旧武田家臣であった曾根昌正に与えられた 5 。これは、信長が同盟者である家康の功績を認めつつも、駿河国内の戦略的要衝に、自身の直接的な影響下にあり、かつ家康の与力として位置づけた人物を配置することで、家康の力が一国に集中しすぎることを牽制する狙いがあったと考えられる。この時点での駿河国は、家康の支配を基軸としながらも、複数の権力が併存する複雑な統治構造下に置かれていたのである。

第二章:安土での饗応と京・堺遊覧

同年5月、徳川家康は、駿河国拝領の御礼を述べるため、同じく旧武田領を安堵された穴山梅雪を伴い、織田信長の居城である安土城へと赴いた 8 。信長は家康一行を盛大に歓迎し、重臣である明智光秀を饗応役(接待役)に任命して、贅を尽くした手厚いもてなしを行った 9 。『信長公記』などの記録によれば、信長自らが家康のために膳を据える場面もあったとされ、両者の同盟関係が極めて良好かつ強固であったことを天下に示している 13

数日間にわたる歓待の後、家康と梅雪は信長の勧めにより、当時の日本の政治・経済・文化の中心地であった京都、奈良、そして国際貿易港として繁栄する堺の見物へと向かった 8 。この西国遊覧は、信長の家康に対する厚意の表れであったが、皮肉にもこの行動が、直後に発生する日本史上最大級の政変において、彼らを絶体絶命の窮地に陥れる直接的な原因となる。この時、家康一行は本拠地である三河・遠江から遠く離れ、ごくわずかな供回りしか連れていない、軍事的には極めて脆弱な状態にあった。彼らが堺の町を遊覧している間、歴史の歯車は、彼らの誰もが予測し得なかった破滅的な方向へと、静かに、しかし確実に回転を始めていたのである。

第二部:天、鳴動す ― 本能寺の変と権力の空白(1582年6月)

第一章:凶報と「神君伊賀越え」

天正10年6月2日未明、京都・本能寺。織田家筆頭家老、明智光秀が一万三千の軍勢を率いて謀反を起こし、天下人・織田信長を急襲した。わずかな手勢しか伴っていなかった信長は奮戦の末、燃え盛る炎の中で自害を遂げた 9 。日本全土を震撼させた「本能寺の変」である。

その時、家康一行は堺に滞在していた。信長横死の凶報は、京の豪商・茶屋四郎次郎によって、いち早く彼らのもとにもたらされた 11 。畿内は完全に明智光秀の制圧下にあり、周囲は敵地も同然であった。光秀が、信長の重要な同盟者である家康の存在を看過するはずがなく、追討軍が差し向けられるのは時間の問題であった。まさに絶体絶命の状況下で、家康は本国三河への生還を目指し、伊賀国の険しい山道を踏破する決死の脱出行を決断する。後に「神君伊賀越え」として語り継がれる、徳川家の存亡を賭けた苦難の逃避行の始まりであった 10

この過酷な道中において、一つの重要な出来事が起こる。家康と同行していた穴山梅雪が、家康とは別行動をとった末、山城国宇治田原(現在の京都府京田辺市草内)付近で、落ち武者狩りをしていた土一揆に襲われ、非業の死を遂げたのである 10

この穴山梅雪の死は、家康にとって個人的な悲劇であると同時に、極めて重要な戦略的帰結をもたらした。梅雪は信長の論功行賞により、駿河国の要衝である江尻領の支配を認められていた。もし彼がこの動乱を生き延びていれば、家康は駿河国内に独立性の高い勢力を抱え続けることになり、完全な一枚岩の統治は困難であった可能性が高い。特に、これから始まるであろう旧武田領を巡る争乱において、梅雪の動向は大きな不確定要素となり得た。しかし、彼の偶発的な死によって、江尻領は主を失った 19 。これにより、家康は後継問題に介入し、この戦略的要衝を自身の直接支配下に組み込むことが極めて容易になったのである。伊賀越えという最大の危機の中で起きた一つの悲劇が、結果的に家康の駿河国完全掌握を加速させ、次なる戦いに臨むにあたって後顧の憂いを断つことにつながった。これは、歴史の偶然が戦略に与える影響の大きさを示す好例と言えよう。

第二章:織田体制の崩壊と権力の空白地帯

織田信長の死は、彼が一代で築き上げた巨大な統治システムを根底から揺るがした。特に、滅亡したばかりの武田氏の旧領国、すなわち甲斐・信濃・上野に配置されていた織田家の方面軍司令官たちは、その支配の正統性と軍事的な後ろ盾を一夜にして完全に失った。

甲斐国を任されていた織田家重臣・河尻秀隆は、混乱の中で徳川家康が甲斐を簒奪するのではないかという疑心暗鬼に駆られ、家康の家臣を殺害するなど、現地の国人衆との関係を著しく悪化させた 20 。その結果、大規模な国人一揆を引き起こし、甲斐からの脱出を図るも、同年6月18日に一揆勢によって討ち取られてしまう 10

また、上野国と信濃二郡を任されていた滝川一益も、信長の死を知って侵攻してきた北条氏の大軍に神流川の戦いで大敗を喫し、本拠地の伊勢長島へと敗走した 10

これにより、甲斐・信濃・上野という広大な旧武田領は、統治者を失った巨大な「権力の空白地帯」と化した。この千載一遇の好機を逃すまいと、隣接する三大勢力、すなわち駿河を得たばかりの徳川家康、関東に覇を唱える北条氏政・氏直父子、そして越後の上杉景勝が、一斉にこの空白地帯への侵攻を開始する。日本戦国史上、類を見ない大規模な争奪戦、「天正壬午の乱」の幕が切って落とされたのである 10

第三部:【時系列詳解】天正壬午の乱 ― 駿河・甲信を巡る死闘(1582年6月~12月)

本能寺の変によって生じた権力の空白は、徳川・北条・上杉による旧武田領の争奪戦へと直結した。駿河国の完全な支配権の確立は、この甲信地方を巡る戦いの勝敗に懸かっていた。以下に、各勢力の動向を日付と共に詳細に記述する。

第一章:初動 ― 各勢力の思惑と行動開始(6月~7月初旬)

  • 徳川家康の帰還と迅速な方針転換: 6月4日、家康は九死に一生を得て伊賀越えを終え、本国三河の岡崎城に生還した 22 。当初は信長の仇を討つべく、明智光秀討伐の軍を編成しようとしたが、その直後、羽柴秀吉が山崎の戦いで光秀を討ったとの報が入り、上洛を中止する 10 。ここからの家康の意思決定は驚くほど速かった。彼は即座に目標を、主を失い混乱する甲斐・信濃の確保へと切り替えた。6月5日には、遠江で匿っていた旧武田家臣に甲斐へ潜入させ、武田旧臣団の懐柔工作を開始させている 22 。この危機的状況下における迅速かつ的確な戦略目標の再設定こそが、彼の成功の最大の要因となる。
  • 北条氏の侵攻と織田勢力の駆逐: 関東の北条氏政・氏直父子は、信長の死を好機と捉え、織田家の統治が及んでいた上野国へ数万の大軍を侵攻させた。6月19日、神流川の戦いで織田方の方面司令官であった滝川一益を撃破し、関東から織田勢力を一掃する 10 。勢いに乗った北条軍は、さらに碓氷峠を越えて信濃国へも進軍を開始し、佐久郡や小県郡の国衆を次々と服属させていった 22
  • 上杉景勝の南下: 越後の上杉景勝もまた、この機を逃さなかった。信濃国北部の川中島四郡(武田滅亡後は織田家臣・森長可が統治)へ侵攻し、旧武田領の切り取りを狙った 10 。これにより、信濃国は徳川・北条・上杉の三勢力が草刈り場とする、熾烈な角逐の舞台となった。

第二章:徳川軍、甲斐へ(7月)

旧武田領を巡る情勢が緊迫する中、家康はついに自ら動く。

  • 7月2日、家康出陣: 家康は本拠地の浜松城から、甲斐・信濃平定軍を率いて出陣した 22
  • 7月8日、駿河を通過: 家康の本隊は、自身の新たな領国である駿河国を通過。この時、穴山梅雪の死によって主不在となっていた江尻城を経由し、富士川沿いの大宮(現在の富士宮市)を進軍している 22 。この経路は、江尻城を含む駿河国中枢が、この時点で事実上、家康の完全な管理下にあったことを示唆している。
  • 7月9日、甲府入城: 家康は甲斐国へ入り、その中心地である甲府に着陣した 22 。事前に進めていた旧武田家臣への懐柔工作が功を奏し、家康は大きな抵抗を受けることなく甲斐国の中枢を掌握することに成功した。これは、武田旧臣を力でねじ伏せるのではなく、信玄・勝頼の慰霊を行うなど(恵林寺の再興や景徳院の建立) 23 、彼らの心情に寄り添い、所領安堵を保証することで味方に引き入れるという、家康の巧みな統治戦略の成果であった。

第三章:若神子での対峙と黒駒の戦い(8月~9月)

家康が甲斐を掌握した一方、信濃を制圧した北条軍の主力もまた、甲斐へと狙いを定めていた。

  • 8月7日、北条軍甲斐へ: 北条氏直が自ら率いる数万(一説に4万3千)の大軍が甲斐国へ侵攻し、若神子(現在の山梨県北杜市須玉町)に本陣を構えた 22
  • 8月10日、家康、新府城へ: 兵力で圧倒的に劣る家康は、甲府から武田勝頼が築いた未完の城・新府城へと本陣を移し、わずか8,000の兵で北条の大軍と対峙した 22 。ここから約80日間に及ぶ、両軍の睨み合いが続くことになる。
  • 8月12日、黒駒の戦い: 戦況を打開するため、北条軍は徳川軍の背後を突き、甲府を直接攻撃する作戦を立てた。北条氏康の六男・北条氏忠が率いる10,000の別動隊が、御坂峠を越えて甲斐盆地へ侵攻を開始する。しかし、この動きを事前に察知していた家康は、徳川四天王の一人・酒井忠次を大将とし、鳥居元忠らに2,000の兵を与えてこれを迎撃させた。徳川軍は兵力で1対5という圧倒的な劣勢を覆し、巧みな戦術で北条別動隊に壊滅的な打撃を与えることに成功した。これが「黒駒の戦い」である 22

この一戦の勝利が持つ戦略的意義は、計り知れないほど大きかった。家康は討ち取った北条兵の首500を若神子の北条本陣から見える場所に晒し、北条軍の士気を著しく低下させた 22 。さらに、この劇的な勝利は、これまで北条方についていた信濃の有力国衆・保科正直らを徳川方へと寝返らせる決定的な要因となった 22 。一つの戦術的勝利が、戦局全体の流れを徳川方へと大きく引き寄せたのである。

第四章:外交戦と最終局面(9月~12月)

黒駒の戦い以降、家康は軍事的な優位を背景に、巧みな外交・調略戦を展開し、北条氏をさらに追い詰めていく。

  • 補給路の遮断と真田昌幸の寝返り: 9月、家康は北条方として信濃で活動していた真田昌幸に対し、所領安堵を条件に調略を仕掛け、これを徳川方へと寝返らせることに成功する 22 。表裏比興の者と評された昌幸の離反は北条にとって大きな痛手であった。昌幸は、同じく徳川方についた依田信蕃らと共に、北条軍の本国(相模・武蔵)と信濃・甲斐を結ぶ生命線である碓氷峠を占拠し、補給路を遮断した 22 。これにより、若神子に駐留する北条軍主力は、甲斐で孤立する危険性が一気に高まった。
  • 多方面からの圧力: 家康の策はそれだけではなかった。彼は常陸の佐竹義重や下野の宇都宮国綱といった関東の反北条勢力に働きかけ、北条領の背後を突かせた 22 。9月25日には、北条氏政が手薄になった駿河国の徳川領・沼津城(三枚橋城)を攻撃するが、これも徳川方の守備隊に撃退されている 22 。これにより、北条氏は甲斐・信濃の最前線だけでなく、関東の本国でも防衛戦を強いられるという、多正面作戦の苦境に立たされた。
  • 10月29日、和睦成立: 軍事的に劣勢となり、兵站を断たれ、外交的にも完全に包囲された北条氏は、ついに継戦を断念。織田信長の次男・信雄の仲介を受け入れ、徳川との和睦に応じた 20

和睦の条件は、甲斐・信濃両国は徳川家康の領有とし、上野国は北条氏の領有とすることを相互に承認する、いわゆる「切り取り次第」を追認するものであった。さらに、和睦の証として家康の次女・督姫が北条氏直に嫁ぐことが定められた 10 。これにより、約半年にわたって繰り広げられた天正壬午の乱は、徳川家康の完全勝利という形で事実上の終結を迎えた。

天正壬午の乱 関連年表(1582年6月~12月)

日付(天正10年)

徳川軍の動向

北条軍の動向

上杉・真田・その他勢力の動向

関連する出来事

6月2日

堺にて本能寺の変を知る。伊賀越え開始。

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本能寺の変。織田信長・信忠自害。

6月4日

三河国に帰還 22

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穴山梅雪、宇治田原で死去 11

6月中旬

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上野国へ侵攻。滝川一益と対峙。

上杉景勝、信濃北部へ侵攻 10

甲斐で河尻秀隆が殺害される 20

6月19日

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神流川の戦いで滝川一益を破る 10

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7月2日

浜松城を出陣 22

信濃国へ侵攻。

真田昌幸、北条方につく 22

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7月9日

甲府へ入城 22

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-

甲斐国の掌握を開始。

8月7日

-

甲斐国へ侵攻、若神子に着陣 22

-

徳川・北条の対峙が始まる。

8月12日

鳥居元忠隊、黒駒で北条別動隊を撃破 22

別動隊が徳川軍に敗北。

保科正直ら、徳川方へ寝返る 22

戦局の転換点。

9月

-

-

真田昌幸、徳川方へ寝返る 22

北条軍の補給路に脅威。

9月25日

-

駿河国の沼津城を攻撃するも敗退 22

佐竹・宇都宮氏、北条領を攻撃 22

北条氏への多方面圧力。

10月29日

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徳川と和睦 20

-

天正壬午の乱、事実上の終結。

12月

甲斐・信濃の支配を確定。

上野国の支配を確定。

-

-

第四部:新たなる覇者 ― 五カ国領主・徳川家康の誕生

第一章:駿河国の完全掌握

天正壬午の乱における軍事的・外交的勝利は、徳川家康の領国に劇的な拡大をもたらした。そして、この勝利の基盤となったのが、駿河国の完全な掌握であった。乱に先立つ穴山梅雪の死により、駿河国内の独立勢力であった江尻領は主を失い、家康はこれを抵抗なく自身の直接支配下に組み込むことに成功した 19 。天正壬午の乱の最中、家康の本隊が江尻を経由して甲斐へ進軍した事実は、この地が既に徳川軍の安定した兵站拠点として機能していたことを物語っている。乱の終結後、北条氏との和睦によって東方の国境線が安定化したことで、駿河国は家康にとって、東海道の要衝であり、甲斐・信濃へと通じる玄関口でもある、極めて重要な戦略的拠点としての地位を確立したのである。

第二章:1582年時点の駿府城

天正10年(1582年)の時点で、駿府の地に存在した城郭は、後世に知られるような壮麗な天守を持つ巨大な近世城郭ではなかった。その原型は、駿河国の守護大名であった今川氏が長年にわたり本拠とした居館「今川館」であり、それを武田氏が改修した程度の、比較的簡素な城砦であったと考えられている 1

徳川家康が、長年本拠地としてきた浜松城から駿府へと拠点を移し、全国の大名を動員する「天下普請」に匹敵するような大規模な築城を開始するのは、天正13年(1585年)以降のことである 1 。天正17年(1589年)には天守を含む二ノ丸までが完成し、近世城郭としての体裁を整える 26 。したがって、1582年の一連の出来事は、駿府城という特定の城を巡る攻防戦ではなく、その城を将来の拠点とするための、駿河・甲斐・信濃という広大な領国全体を平定するための戦いであったと明確に位置づけることができる。

第三章:歴史的意義

天正10年の一年間を通じて、徳川家康が成し遂げたことの歴史的意義は極めて大きい。

第一に、「五カ国領主」の誕生である。天正壬午の乱の結果、家康は従来の三河・遠江・駿河の三カ国に加え、甲斐・信濃の二国を新たに手に入れた。これにより、家康は合計五カ国、石高にして150万石級の大大名へと、文字通り大飛躍を遂げた 16 。これは、織田信長麾下の一有力武将であった家康が、織田政権の後継者を巡る争いの中で、羽柴秀吉や柴田勝家と並び、天下を窺う有力プレイヤーの一人として名乗りを上げる、決定的な転換点であった。

第二に、最強と謳われた武田遺臣団の吸収である。家康は、甲斐・信濃を平定する過程で、武田氏に仕えた有能な家臣団を積極的に登用し、自身の軍事組織に組み込んだ。これにより、徳川軍団の戦闘力は質・量ともに大幅に強化された。また、武田信玄が培ったとされる金山経営の技術や、高度な治水事業といった領国経営のノウハウも継承し、後の江戸幕府の盤石な財政・社会基盤の礎を築いたのである 30

そして何よりも重要なのは、家康がこの一年で見せた、類稀なる戦略性と政治的手腕である。本能寺の変直後、彼は死の淵にいた。しかし、生還するや否や、悲嘆に暮れることなく、即座に「旧武田領確保」という次なる目標を設定し行動を開始した。その後の天正壬午の乱では、兵力で劣勢にありながら、黒駒の戦いのような軍事的勝利と、真田昌幸の調略や関東諸大名との連携といった外交的策略を巧みに組み合わせ、巨大な北条氏を屈服させた。一連の出来事は、徳川家康が絶体絶命の危機を、自身のキャリアにおける最大の飛躍の好機へと転換させた、彼の戦略家としての資質を何よりも雄弁に物語っている。

結論:「駿府城の戦い」の再評価

本報告書を通じて明らかになったように、天正10年(1582年)の「駿府城の戦い」とは、駿府城という城郭を巡る単一の戦闘ではなく、織田信長の死によって生じた巨大な権力変動の中で、徳川家康が駿河国を含む広大な領域の支配権を確立した、一連の戦略的行動の総称として捉えるべきである。

この年の出来事は、家康にとって、かつて今川氏の人質として過ごした屈辱の地であった駿府が、天下取りへの道を歩み始めるための新たな本拠地へと、その歴史的意味合いを大きく変える画期となった。甲州征伐による駿河拝領、本能寺の変と伊賀越えという死線からの生還、そして天正壬午の乱における劇的な勝利。この激動の一年を乗り越え、家康が三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五カ国を領有する大大名として確固たる地位を築いたことこそが、その後の豊臣政権下における彼の独特な立ち位置を可能にし、最終的な天下統一へと繋がる、極めて重要な布石となったのである。1582年の駿河は、まさに徳川家康が新たな時代の覇者として飛翔するための、戦略的な発射台であったと言えるだろう。

引用文献

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  2. 【知られざるニッポン】vol.45 豊臣秀吉が築城した「駿府城」とは!? https://tabi-mag.jp/unknownjp45/
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  4. 東海地方の城 駿府城/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/japanese-castle/sunpu-castle/
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  9. 本能寺の変~織田信長自刃~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/honnoji.html
  10. 天正壬午の乱~武田氏の旧領をめぐる争い~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/tensho-jingo.html
  11. 甲斐・武田氏親族 《穴山氏の興亡》 - 横浜歴史研究会 https://www.yokoreki.com/wp-content/uploads/2018/04/%E7%A9%B4%E5%B1%B1%E6%B0%8F%E3%81%AE%E8%88%88%E4%BA%A1%EF%BC%88%E6%96%B0%EF%BC%89.pdf
  12. History2 歴史上最大の下克上「本能寺の変」とは - 亀岡市公式ホームページ https://www.city.kameoka.kyoto.jp/site/kirin/1267.html
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  28. 【豊臣政権下の徳川家康】 - ADEAC https://adeac.jp/takarazuka-city/text-list/d100020/ht200980
  29. 徳川家康〜戦国乱世に終止符を打ち、約260年間続く江戸時代を創った天下人 - 好運日本行 https://www.gltjp.com/ja/directory/item/12733/
  30. 徳川家康の戦略年表~織田家臣従時代~天下統一まで (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/1190/?pg=2