駿河・花倉の乱の合戦(1536)
駿河・花倉の乱(1536年)合戦詳報:海道一の弓取り、今川義元誕生の序曲
序章:駿河に奔る激震 ― 今川家督、突然の空白
天文五年(1536年)三月十七日、駿河国府中(現在の静岡市)に激震が走った。今川家第8代当主・今川氏輝が、わずか24歳の若さで急逝したのである。さらに凶報は続き、氏輝のすぐ下の弟である彦五郎もまた、同日にこの世を去った 1 。この若き兄弟の不可解な同時死は、今川家の未来に暗い影を落とした。
氏輝には嫡子がおらず、後継者が定まっていなかった 3 。このため、今川家の家督は突如として空白となり、駿河・遠江二国の支配体制は根底から揺らぐこととなる。同日に二人の後継者候補が亡くなるという異常事態は、単なる病死とは考えにくく、当時から毒殺や暗殺の噂が絶えなかった 2 。この疑惑は家臣団の間に不信と動揺を広げ、平和的な権力移譲を著しく困難にした。
この権力の空白は、極めて危険な状況下で発生した。当時の今川家は、北に隣接する甲斐国の武田信虎と長らく対立関係にあり 1 、西の三河国では松平氏が勢力を拡大しつつあった 5 。このような緊迫した対外情勢において、国内の分裂は即座に国家存亡の危機に直結しかねなかった。
氏輝兄弟の死は、単なる偶発的な悲劇ではなかった。それは、明確な後継者指名や、万一の事態に備えた合意形成を怠っていた今川家の統治システムにおける、構造的な脆弱性を白日の下に晒した事件であった。戦国大名家にとって、円滑な権力移譲こそが最大の危機管理である。しかし、若き氏輝の治世下では、この「備え」が欠如していた。この潜在的なリスクを抱えた状態に、当主と次弟の同時死という強烈な「衝撃」が加わったことで、今川家の権力構造は崩壊し、家督を巡る内乱という最悪の形でその脆弱性を露呈させることになるのである。
第一章:対峙する二人の御曹司 ― 正統と外戚の相克
当主不在となった今川家において、後継者候補として二人の人物が浮上した。いずれも故・今川氏親の子であり、氏輝の弟にあたるが、その出自と支持基盤は大きく異なっていた。この家督争いは、単なる兄弟間の個人的な対立ではなく、今川家中の二大派閥による、家の将来を賭けた権力闘争の様相を呈していく。
栴岳承芳(しょうほう)派 ― 嫡流の正統性
後の今川義元となる栴岳承芳は、氏親の正室であり、「女戦国大名」の異名を持つ寿桂尼の子であった 3 。この血筋は、家督相続における最大の正統性の根拠と見なされた。承芳は幼少期に仏門に入り、富士の善得寺で修行中の身であったが 1 、兄たちの死を受けて、還俗し家督を継ぐことが期待された。
この承芳を強力に後援したのが、母である寿桂尼と、承芳の教育係であった太原雪斎である。寿桂尼は氏親の死後も今川家の政治に深く関与し、絶大な影響力を持っていた 4 。一方、雪斎は臨済宗の僧侶でありながら、卓越した智謀と外交手腕を兼ね備えた傑物であった 10 。彼らは承芳の正統性を盾に、岡部親綱をはじめとする今川家譜代の重臣たちの支持を巧みに取り付けていった 13 。承芳派の戦略は、血筋という「正義」と、寿桂尼・雪斎という「権威と知略」を両輪として、今川家中の大多数を味方につけることにあった。
玄広恵探(げんこうえたん)派 ― 外戚の野心
一方、承芳の異母兄にあたるのが玄広恵探であった。彼は氏親の側室、福島氏の娘を母としており 6 、承芳より年長であったが、血筋の点では傍流と見なされていた 3 。恵探もまた早くに出家し、藤枝の花倉にある徧照光寺の住持を務めていたことから、「花倉殿」とも呼ばれていた 5 。
恵探を当主として擁立したのは、彼の母の実家である福島一族であった。福島氏は遠江国の高天神城を拠点とする有力な国人領主であり、特に一族の長老格である福島越前守が乱の実質的な指導者として動いた 10 。彼らにとって、外孫である恵探を当主に据えることは、今川家中の主導権を握り、自らの勢力を飛躍的に増大させる絶好の機会であった 18 。福島氏の軍事力を背景に、今川家の支配が比較的浅い遠江の一部の国人衆も恵探派に同調する動きを見せた 2 。
この対立の構図は、単なる後継者選びに留まらない。承芳派が今川宗家を中心とする「中央集権体制」の維持・強化を目指したのに対し、恵探派は有力被官である福島氏が実権を握る「地方豪族連合」的な体制への転換を狙っていた。どちらが家督を継ぐかという問題は、そのまま今川家という国家の統治形態をどうするのかという、体制選択の問題に直結していたのである。この内乱の帰趨が、今川家の将来を決定づける、極めて重要な分岐点であったことは間違いない。
【表1】花倉の乱 主要対立勢力図
項目 |
栴岳承芳(今川義元)派 |
玄広恵探(今川良真)派 |
旗頭(候補者) |
栴岳承芳(後の今川義元) |
玄広恵探(花倉殿) |
血筋 |
正室・寿桂尼の子(嫡流) |
側室・福島氏の娘の子(庶流) |
主要支持勢力 |
寿桂尼、太原雪斎、岡部親綱など譜代重臣団 |
福島越前守、福島正成など福島一族、一部の遠江国人衆 |
正統性の根拠 |
血筋と母の政治的権威、幕府への働きかけ |
年長者であること、有力外戚の軍事力 |
第二章:戦乱の幕開け ― 駿府攻防と戦線の形成
両派の対立は交渉による解決の域を超え、天文5年5月、ついに武力衝突へと発展した。戦端を開いたのは、短期決戦による府中制圧を目指した玄広恵探派であった。
先制攻撃の企図と失敗
天文5年5月25日、玄広恵探派はついに挙兵に踏み切った 5 。彼らはまず駿府近郊の要害である久能山に拠点を構えると、そこから今川家の本拠地である今川館への奇襲攻撃を敢行した 10 。この作戦の狙いは、電撃的に府中を制圧し、承芳派が体制を固める前に既成事実を作ってしまうことにあった。
しかし、この目論見は失敗に終わる。太原雪斎ら承芳派は恵探派の動きを事前に察知しており、今川館の守りを固めていた 19 。奇襲は頓挫し、恵探派は府中攻略の好機を逸した。この緒戦の失敗は戦略的に極めて大きな意味を持った。短期決戦の望みを絶たれた恵探派は、長期の防衛戦へと移行せざるを得なくなり、戦いの主導権を承芳派に明け渡すことになったのである。
防衛拠点の形成
駿府攻略に失敗した恵探派は、戦略を切り替え、自らの地盤である駿河西部での防衛網構築に着手した。その中核となったのが、恵探が住持を務めていた藤枝の 花倉城 (葉梨城とも呼ばれる)と、その重要な支城である焼津の 方ノ上城 であった 10 。
花倉城は今川家初代・範国以来のゆかりの地であり、標高約300メートルの山頂に築かれた堅固な山城であった 20 。一方の方ノ上城は、花倉城の前面に位置し、府中からの進撃路を扼する前線基地としての役割を担っていた 21 。恵探派は、この二つの城を連携させることで承芳派の進撃を食い止め、戦況を膠着させることを狙った。
承芳派の迎撃体制と外部勢力の動向
恵探派の動きに対し、承芳派の対応は迅速かつ的確であった。太原雪斎は、武力による迎撃準備を進める一方で、外交戦を有利に展開した。彼は幕府(室町幕府12代将軍・足利義晴)に働きかけ、承芳の家督継承が正統なものであるというお墨付きを得ることに成功する 7 。これにより、承芳派は「官軍」としての大義名分を確保し、日和見を決め込んでいた家臣たちを味方に取り込むことに成功した。
さらに雪斎は、今川家の外交関係を巧みに利用する。当時、今川家は甲斐の武田信虎と敵対する一方で、相模の 北条氏綱 とは同盟関係にあった。雪斎はこの関係に基づき、北条氏に使者を派遣し、軍事支援を要請した。氏綱はこの要請を受け入れ、大軍を駿河へ派遣することを約束した 2 。乱の長期化が関東の政治情勢に悪影響を及ぼすことを懸念した北条氏の介入は、兵力で劣る恵探派にとって致命的な打撃となり、戦局を決定づける要因となるのである 25 。
第三章:合戦詳解 ― 天文五年六月十日、雌雄決す
天文5年6月10日、両軍の雌雄を決する日が訪れた。承芳派は、北条からの援軍も得て、恵探派の防衛拠点に対する総攻撃を開始する。この日の戦いは、まさにリアルタイムで戦況が目まぐるしく変化する、電撃的な殲滅戦であった。
【表2】花倉の乱 主要関連年表
年月日(天文5年/1536年) |
出来事 |
3月17日 |
今川氏輝・彦五郎が急死。家督問題が勃発。 |
5月25日 |
玄広恵探派が挙兵。駿府襲撃を試みるも失敗。 |
5月下旬~6月上旬 |
両派、方ノ上城・花倉城周辺で対峙。北条氏の援軍が承芳派に合流。 |
6月10日(決戦日) |
|
├ 早朝~午前 |
岡部親綱隊、方ノ上城への攻撃を開始。 |
├ 午前中 |
方ノ上城、陥落。 |
├ 午後 |
承芳派本隊、花倉城へ総攻撃を開始。 |
├ 夕刻~夜 |
花倉城、陥落。玄広恵探は城を脱出。 |
└ 深夜 |
玄広恵探、瀬戸谷の普門寺(普門庵)にて自害。乱は終結。 |
黎明:方ノ上城への猛攻
6月10日の夜が明けると同時に、承芳派の先鋒を務める猛将・岡部親綱の部隊が、恵探派の防衛網の要である方ノ上城に殺到した 3 。方ノ上城は、細い尾根上に築かれ、両側が切り立った崖となっている天然の要害であった 26 。城内では福島彦太郎、斎藤四郎衛門らが必死の防戦を試みた 26 。
しかし、承芳派の兵力は圧倒的であった。岡部隊は地の利をものともせず、波状攻撃を仕掛けた。数に勝る攻撃側の前に、城兵は次第に消耗し、防衛線は各所で破られていった。奮戦も空しく、同日の午前中には方ノ上城は完全に陥落した 14 。
日中:花倉城、炎上
方ノ上城の陥落は、狼煙などによって即座に本城である花倉城へと伝えられたであろう 22 。前線基地をわずか半日で失ったという事実は、花倉城の籠城兵に計り知れない衝撃と動揺を与えた。もはや支城からの援護は期待できず、敵の大軍が目前に迫っているという絶望的な状況に、城内の士気は急速に低下していった。
勢いに乗る承芳派は、北条からの援軍も加わった大軍を率いて、間髪入れずに花倉城への総攻撃を開始した 3 。花倉城は本曲輪、二の曲輪、堀切、土橋などを備えた山城ではあったが 10 、急な籠城戦に備えた改修は間に合っておらず、防御施設は古式のままの部分も多かった 28 。承芳派の圧倒的な兵力の前に、大手口から次々と兵がなだれ込み、福島方の兵はなすすべもなく討ち減らされていった。落城はもはや時間の問題であった 3 。
終焉:普門寺の悲劇
万策尽きたことを悟った玄広恵探は、これ以上の抵抗は無益と判断し、城を西側から脱出した。目指したのは、山を越えた先にある瀬戸谷の普門寺であった 3 。しかし、承芳派の追手は執拗に彼を追い詰める。
最終的に普門寺の前身である普門庵にたどり着いた恵探であったが、もはや逃れる術はなかった。追手に囲まれ、すべてを悟った恵探は、その場で自刃して短い生涯を閉じた。享年20であった 10 。
恵探の死をもって、約半月にわたって駿河国を揺るがした花倉の乱は、承芳派の完全勝利という形で幕を閉じたのである 5 。
この一日での決着は、単なる兵力差だけがもたらしたものではない。承芳派の勝因は、敵の防衛システムの「連結点」である方ノ上城を電撃的に攻略したことに尽きる。岡部親綱は、本丸である花倉城を攻める前に、まずその支えである方ノ上城に全力を集中し、これを半日で機能不全に陥らせた。これにより、物理的な防衛網を破壊すると同時に、恵探派の「まだ支城が持ちこたえている」という抵抗意欲の連鎖を断ち切ることに成功した。方ノ上城陥落の報は、花倉城の兵士たちに「もはやこれまで」という心理的打撃を与え、組織的抵抗を内部から瓦解させた。6月10日の戦いは、物理的な城の攻略であると同時に、敵の士気を決定的に破壊する、巧みな心理戦でもあったのだ。
第四章:戦後の新秩序 ― 義元の治世と敗者の行方
血で血を洗う内乱を制した栴岳承芳は、ただちに還俗して元服し、室町幕府12代将軍・足利義晴から一字を賜り、「義元」と名乗った 7 。ここに、今川家第9代当主・今川義元が誕生し、駿河・遠江に新たな支配体制が築かれることになる。
今川義元の家督相続と体制固め
乱の勝利により、義元は名実ともに今川家の当主となった 10 。彼はまず、論功行賞を通じて自らの権威を確立することに着手した。方ノ上城、花倉城の攻略で最大の功績を挙げた岡部親綱には感状と多大な恩賞を与え、その忠誠に報いた 14 。このように、自らに忠誠を誓った家臣を重用することで、家臣団の再編と掌握を強力に推し進めた。
一方で、敵対した者への処断は厳格であった。例えば、恵探方に味方した重臣・朝比奈千太郎の所領は没収され、乱で功績のあった平野弥四郎に恩賞として与えられた 17 。こうした信賞必罰の徹底は、家中に新当主・義元への畏敬の念を植え付け、強固な支配体制の礎となった。
敗者への過酷な処遇
乱を主導した福島一族の末路は悲惨であった。一族の多くが戦場で討死、あるいは捕らえられて処刑され、その所領は没収された。これにより、遠江に一大勢力を誇った福島氏は、今川家中の有力勢力としての地位を完全に失い、壊滅的な打撃を受けた。乱の実質的な指導者であった福島正成(越前守)の最期については諸説あるが、乱に敗れた後、逃亡先の甲斐国で武田軍に討ち取られたという説が伝わっている 16 。
また、この内乱は今川家から他国へ人材が流出する結果も生んだ。福島一族の中には、相模の北条氏を頼って亡命した者もいた。その一人が、後に北条綱成と名乗り、北条家の「地黄八幡」の旗印の下で勇名を馳せる猛将となる 33 。敵対勢力を一掃し、国内を安定させた一方で、有能な人材を敵国に渡してしまうという皮肉な結果も、この乱はもたらしたのである。
第五章:乱が変えた東海三国 ― 甲駿同盟と河東一乱
花倉の乱は、今川家の内政問題に留まらなかった。その結果は、駿河・甲斐・相模の三国間のパワーバランスを劇的に変化させ、新たな大規模紛争の火種を産み落とすことになる。
支援者・北条氏との亀裂
今川義元は、乱の勝利に大きく貢献した北条氏綱の支援に対し、複雑な感情を抱いていた。北条氏からの「過剰な」軍事援助は、家督を継いだばかりの義元にとって、自らの権威が盤石でないことの証左であり、一種の内政干渉と映った可能性が高い 5 。自立した戦国大名として家中を統率していくためには、この北条氏への「政治的負債」を清算し、その影響力を相対的に低下させる必要があった。
宿敵・武田氏との電撃的同盟
北条氏を牽制し、自立した外交を展開するため、義元は驚くべき一手を打つ。これまで長年にわたり敵対関係にあった甲斐の武田信虎との和睦に踏み切ったのである。乱の翌年、天文6年(1537年)2月、義元は信虎の娘である定恵院を正室に迎え、両家は婚姻同盟を締結した。これが「甲駿同盟」である 24 。この同盟は、北条氏という共通の脅威に対抗するだけでなく、東方の安全を確保し、今川家が西方の三河方面へ進出するための戦略的な布石でもあった 35 。
新たな戦乱「河東一乱」の勃発
しかし、この甲駿同盟は、北条氏綱から見れば明白な裏切り行為であった 24 。今川・北条両家は、武田氏を共通の敵とすることで同盟関係を維持してきた。それを義元が一方的に反故にしたのである。
激怒した氏綱は、ただちに今川との同盟を破棄。同年2月下旬、大軍を率いて駿河東部、すなわち富士川以東の「河東地域」へ侵攻を開始した 24 。これにより、今川氏と北条氏の間で約10年にわたって繰り広げられる大規模紛争、「河東一乱」の幕が切って落とされた 2 。
花倉の乱における北条氏の支援は、義元に勝利をもたらすと同時に、彼を「北条氏への政治的負債」というジレンマに陥らせた。そして、その負債を解消するために選択した「武田との同盟」という大胆な外交政策が、かつての支援者との関係を破綻させ、より大規模な戦争を引き起こすという逆説的な結果を生んだのである。花倉の乱の「勝利の代償」は、河東一乱という形で支払われることになった。これは、戦国時代の外交がいかに流動的で、今日の友が明日の敵となりうる、非情な現実を示す典型例と言えるだろう。
結論:海道一の弓取り、その原点
天文五年に勃発した花倉の乱は、今川義元個人の、そして今川家の歴史全体にとって、決定的な転換点であった。
この内乱を勝ち抜いたことで、仏門にいた僧侶・栴岳承芳は、戦国大名・今川義元として生まれ変わった。骨肉の争いを制した経験は、彼を理想を語るだけの貴公子から、冷徹な現実主義者へと成長させたに違いない。
また、乱を通じて福島氏をはじめとする反対勢力を一掃し、家臣団を再編したことで、今川家の支配体制は、それまで以上に強固な中央集権体制へと移行した。この安定した権力基盤があったからこそ、義元は後の三河平定や尾張侵攻といった大規模な領土拡大政策を推進することが可能となったのである 3 。
花倉の乱は、今川義元が「海道一の弓取り」としてその名を天下に轟かせる大大名へと飛躍する、まさにその原点であった 37 。この内乱という最初の試練を乗り越え、続く河東一乱という外交的・軍事的挑戦を経て、今川家はその最大版図を築き上げる黄金期へと向かっていく。後に桶狭間の露と消えることになる義元の栄光の道のりは、この花倉の地で流された血の中から始まったのである。
引用文献
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- 5男から今川氏当主へ。戦国大名「今川義元」の家督相続物語 【後編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/133510
- 寿桂尼 /ホームメイト - 戦国時代の姫・女武将たち - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46519/
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