騎西城の戦い(1590)
騎西城の戦いは、1590年の小田原征伐において、豊臣軍の圧倒的圧力により無血開城した。城主不在で主力兵が小田原に籠城しており、北関東の支城が次々陥落する中で孤立。城代の合理的判断により、大規模な戦闘は回避された。
天正十八年、騎西城の戦い:戦わずして決した攻防の真実
序章:天下統一の奔流、関東へ
天正十八年(1590年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。関白・豊臣秀吉による天下統一事業は、九州、四国を平定し、残すは関東・東北の諸大名のみとなっていた。その最大の障壁として立ちはだかったのが、相模国小田原を本拠とし、関東一円に覇を唱える後北条氏であった。両者の対立が不可避なものとなった直接の引き金は、天正十七年(1589年)十月、北条氏の家臣である沼田城代・猪俣邦憲が、秀吉の裁定によって真田氏の所領と定められた上野国・名胡桃城を武力で奪取した事件である 1 。秀吉が天下の静謐を目的として発布した「惣無事令」への明確な違反行為であり、これを口実として、秀吉は北条氏討伐の勅命を掲げ、全国の大名に動員令を発した 2 。
その規模は、まさに空前絶後であった。徳川家康、前田利家、上杉景勝といった有力大名を筆頭に、西国から北国に至るまで、総勢二十一万とも二十二万ともいわれる大軍勢が、関東へと向けて進発した 3 。これに対し、北条氏が領国全域から動員し得た兵力は、約五万六千 3 。一戦国大名の動員数としては驚異的であったが、豊臣連合軍との間には絶望的な兵力差が存在した。この戦役が始まる前から、その帰趨は多くの者にとって明らかであったと言えよう。
この圧倒的な軍事力を前に、北条氏当主・氏直と、隠居後も実権を握る父・氏政が選択した策は、領内の主戦力を本拠地・小田原城に集中させ、堅固な城郭に拠って長期籠城に持ち込むというものであった 5 。これは、かつて上杉謙信や武田信玄といった名将の猛攻を凌ぎ切った成功体験に基づく伝統的な戦略であった。しかし、彼らが対峙する豊臣秀吉は、過去の敵とは全く質の異なる存在であった。秀吉は、全国規模の兵站網を構築し、米二十万石を前線に集積させるなど、長期包囲を全く苦としない兵站能力を保持していた 2 。北条方の戦略は、敵の性質を見誤った、過去の成功体験への固執であったと言わざるを得ない。
そしてこの「小田原城への兵力集中」という戦略は、関東各地に張り巡らされた支城網の運命を決定づけることとなる。多くの支城では、城主や主力部隊が小田原への籠城を命じられ、防衛力が著しく低下した。武蔵国北部に位置する騎西城もその例外ではなかった。城主である成田泰親は、成田家の当主・氏長と共に小田原城へ詰めており、城には少数の留守居役の兵が残されるのみであった 6 。
さらに特筆すべきは、秀吉にとってこの戦役が、単なる軍事行動に留まらず、勝利を前提とした「戦後処理」の一環であったという点である。小田原城包囲の最中である六月には、既に徳川家康の関東への移封が内々に進められていた記録が残っている 5 。天下統一事業の総仕上げとして、北条氏滅亡後の関東統治までをも見据えていた秀吉の巨大な構想の前では、騎西城のような一つの支城の運命は、もはや大局を左右する要素ではなかった。主力を欠き、巨大な奔流の中に置かれた孤城・騎西城は、戦いの火蓋が切られる前から、極めて困難な状況に立たされていたのである。
第一章:北関東制圧の軍勢―豊臣方「北方隊」の進撃
天正十八年三月、豊臣秀吉率いる本隊が東海道を東進し、箱根の峻険を越えて小田原城へと迫る一方、それとは別に、北関東の北条方諸城を制圧するための別働隊が組織されていた。これは、小田原城を孤立させ、北条氏の支配体制を根底から切り崩すための、周到に計画された二正面作戦であった 1 。
この北関東方面軍の中核を成したのが、前田利家(兵力一万八千)、上杉景勝(兵力一万)、そして真田昌幸(兵力三千)ら、歴戦の武将が率いる総勢三万五千の「北国勢」である 1 。彼らは三月十五日、上野国の碓氷峠において北条方の大道寺政繁が守る松井田城との間で戦端を開き、これを攻略 5 。関東平野への進入口を確保すると、破竹の勢いで南下を開始した。
この軍勢の進撃は、単なる軍事的な圧力に留まらなかった。かつて北条氏と激しく覇を競った上杉氏や、遺恨の深い真田氏が豊臣方の中核として進軍してくるという事実は、関東の諸勢力に対して「もはや北条に味方しても未来はない」という強烈な政治的メッセージとなった。その結果、これまで北条氏の威勢を前に日和見の態度を取っていた常陸国の佐竹義宣や下野国の宇都宮国綱といった大名たちが、次々と秀吉の下に参陣し、豊臣方として北条領への攻撃を開始した 5 。これにより、北条方は関東全域で多方面からの攻撃に晒され、支城間の連携は完全に断ち切られたのである。
北国勢が目指したのは、武蔵国北部に位置する北条氏邦の鉢形城、そして成田氏長の忍城といった、この地域の主要拠点であった。さらに、これとは別に、浅野長政、木村重茲らが率いる部隊が南から武蔵国へ侵攻し、岩槻城などを攻撃した 5 。
騎西城は、まさにこの二つの巨大な軍団が活動する戦域の中心に位置していた。北からは前田・上杉軍、南からは浅野軍が迫り、西に位置する鉢形城、そして目と鼻の先にある本城格の忍城もまた、豊臣方の大軍に包囲される運命にあった。騎西城に迫る脅威は、単一の部隊による攻撃ではなく、関東平野全域を席巻する、抗いようのない巨大な軍事行動の一部だったのである。
第二章:沼沢に浮かぶ孤城―天正十八年の騎西城
天正十八年の春、豊臣の大軍が関東に迫る中、武蔵国北部の騎西城は静寂の中にあった。この城が置かれた状況を理解するためには、その地理的、構造的、そして人的な特徴を詳細に分析する必要がある。
地理的特徴と構造
騎西城は、周囲を広大な沼や深田に囲まれた平城であった 10 。この低湿地帯は、敵の容易な接近を阻む天然の要害として機能し、かつて永禄六年(1563年)には、軍神と謳われた上杉謙信(当時は輝虎)ですら、この城の攻略に手こずったという記録が残っている 10 。『関八州古戦録』には、謙信がその様子を「四方の沼が浅深限りなく、一段と然るべき地で、調儀叶い難し」と評したと記されており、その防御力の高さが窺える 11 。
しかし、この地形は諸刃の剣であった。一度、大軍に包囲されてしまえば、外部との連絡は完全に遮断され、救援の望みも絶たれる。守りの要である沼沢地は、籠城側を封じ込める巨大な牢獄へと変貌する危険性を常に孕んでいた。
また、城そのものの構造も、大規模な攻城戦を想定したものではなかった。発掘調査の結果などから、騎西城は石垣や天守を備えた近世城郭ではなく、土塁と堀を主体とした中世的な城館であったことが判明している 13 。防御力は限定的であり、豊臣軍が擁するような大軍による組織的な力攻めには、到底耐えうるものではなかったと考えられる。
人的状況と戦略的孤立
最も深刻だったのは、人的な脆弱性であった。前述の通り、城主・成田泰親は主君である北条氏の命令に従い、小田原城に籠城していた 6 。城の守備は、城代に一任されていた。その名は多米長野であったとする説もあるが 6 、いずれにせよ、正規の城主と主力部隊を欠いた城は、いわば「留守」の状態に等しかった。残されたのは、少数の留守居役の兵と、周辺の領民たちだけであった。
さらに、騎西城が属する北武蔵の防衛網は、この時点で事実上崩壊していた。騎西城は、忍城を本拠とする成田氏の支城という位置づけであったが、その忍城自体も豊臣方の大軍に包囲される運命にあった。近隣の羽生城は、城代が忍城へ合流するため、戦わずして放棄されている 16 。また、菖蒲城も小田原征伐後に廃城となっており 18 、周辺の支城が連携して敵を迎え撃つという体制は完全に失われていた。
このような状況下で、城代に課せられた責務とは何であったか。主家である北条氏の戦略は、あくまで小田原城での長期籠城である。各支城に期待された役割は、敵の進軍を少しでも遅らせる「時間稼ぎ」以上のものではなかった。しかし、周辺の有力支城が次々と陥落、あるいは放棄されていく中で、騎西城のような小城が単独で抵抗しても、戦局全体には何ら影響を及ぼさない。無益な抵抗によって、預かった城兵や領民の命を失うことは、むしろ城主に対する背信行為にすらなりかねない。城代にとっての最大の責務は、玉砕という自己満足的な名誉ではなく、預かった人々の生命を保全し、主家の再興に備えること、すなわち「生き残る」ことであった。降伏という選択肢は、臆病な判断ではなく、残された者たちにとって最も合理的かつ責任ある決断だったのである。
第三章:迫りくる刻―騎西城、開城への道程(リアルタイム解説)
「騎西城の戦い」の実態は、刀槍を交える物理的な戦闘ではなく、次々と舞い込む絶望的な情報によって城内の抵抗意志が削がれていく、心理的な攻防戦であった。ここでは、周辺の戦況と連動させながら、騎西城が開城に至るまでの過程を時系列で再現する。
天正十八年 北武蔵方面 戦況時系列対照表
日付(天正18年) |
北関東方面の主要動向(北方隊・浅野隊など) |
騎西城への影響と城内の状況(推定) |
典拠史料 |
5月20日頃 |
岩槻城、浅野長政ら約2万の軍勢により包囲される。 |
南方からの脅威が現実化。北条方の支城網が分断され、孤立が始まる。 |
1 |
6月上旬 |
石田三成、大谷吉継らが忍城に着陣、約2万の軍勢で包囲を開始。 |
目と鼻の先に豊臣方の大軍が出現。物理的・心理的に完全に包囲され、外部との連絡が絶たれる。 |
8 |
6月14日 |
鉢形城、前田利家・上杉景勝ら北国勢の攻撃の前に降伏・開城。 |
北武蔵における最重要拠点が陥落。援軍の望みが完全に絶たれ、単独での抵抗は無意味との認識が城内に広がる。 |
5 |
6月中旬~下旬 |
(推定)忍城包囲軍から騎西城へ開城勧告の使者が派遣される。 |
城内で最後の評定が開かれる。圧倒的な状況差を前に、戦闘を回避し、城兵の生命を保全するため開城を決断。 |
6 |
(推定)6月下旬 |
騎西城、無血開城。 |
大規模な戦闘を経験することなく、豊臣方に城を明け渡す。 |
12 |
7月5日 |
本城である小田原城が開城。後北条氏が降伏。 |
騎西城の開城が、結果として正当な判断であったことが確定する。 |
3 |
7月16日 |
忍城が、小田原落城の報を受けて開城。 |
北武蔵における北条方の全ての抵抗が終結する。 |
8 |
南からの圧力―岩槻城の陥落
天正十八年五月下旬、騎西城の南方に位置する岩槻城が、浅野長政率いる二万の軍勢に包囲された 1 。岩槻城兵は奮戦したものの、衆寡敵せず、約二十日間の籠城の末に開城を余儀なくされる。この報は、騎西城の籠城兵たちに二つの厳しい現実を突きつけた。一つは、豊臣軍が必要とあらば力攻めも辞さないという断固たる意志を持っていること。そしてもう一つは、北条方の支城が互いに連携できず、各個撃破されているという事実である。南からの脅威が現実のものとなり、騎西城の孤立は決定的なものとなった。
北からの脅威―忍城包囲網の完成
六月に入ると、事態はさらに悪化する。石田三成、大谷吉継らが率いる二万を超える大軍が、騎西城の目と鼻の先にある忍城に来着し、厳重な包囲網を敷いたのである 8 。この時点で、騎西城は物理的に完全に孤立し、南北を巨大な敵軍に挟撃される形となった。城の物見櫓からは、昼夜を問わず、忍城を取り巻く数多の篝火が見えたことであろう。それは、抗いがたい運命の到来を告げる、不吉な光であった。
西の砦、陥落―鉢形城の開城
そして六月十四日、騎西城の将兵にとって最後の希望を打ち砕く報がもたらされる。北武蔵における北条方の最重要拠点であり、猛将・北条氏邦が守る鉢形城が、前田利家、上杉景勝ら北国勢の猛攻の前に降伏・開城したのである 5 。「あの鉢形城ですら落ちたのだ」という衝撃は、計り知れないものであった。これにより、万に一つの可能性であった援軍の望みは完全に絶たれ、城内には抵抗は無意味であるという絶望的な空気が支配したと推察される。
最後の刻―開城勧告と決断
六月中旬から下旬にかけてのある日、騎西城に最後の刻が訪れた。忍城を包囲する石田三成、あるいは南方の浅野長政の軍から、降伏を勧告する使者が派遣されたと考えるのが最も自然であろう。大軍で忍城を攻めるにあたり、背後にある騎西城を無力化しておくのは、軍事上の定石である。
城代は、残された将兵を集め、最後の評定を開いた。議題はただ一つ、「降伏か、玉砕か」。検討されたであろう要素は、火を見るより明らかであった。戦力は圧倒的に不利、兵糧は有限、援軍は絶望的、そして抵抗しても戦局には何の影響も与えられない。抵抗すれば、城兵は皆殺しにされ、城下の民も戦火に巻き込まれるであろう。しかし、降伏すれば、城兵の命は助かる可能性が高い。
感情的な名誉よりも、現実的な利害と責任を重んじた城代は、苦渋の末に「開城」を決断した。これは、臆病さからではなく、預かった人々の未来を守るための、指導者としての最も理性的で責任ある選択であった。
こうして騎西城は、豊臣方の使者に城を明け渡し、大規模な戦闘を経験することなく、その歴史的役割を終えた 12 。『関八州古戦録』などに記されている「石田三成が忍城攻めの鬱憤晴らしに攻め寄せた」という逸話は 6 、戦闘がなかったという史実を後世の人間がより劇的に潤色した創作と見るべきであろう。騎西城の「戦い」とは、城壁の外ではなく、城内の評定の間で、情報の波を相手に行われた、静かなる攻防戦だったのである。
第四章:戦後の騎西城―新たな支配者の到来
天正十八年七月五日、約三ヶ月に及ぶ籠城の末、北条氏の本拠地・小田原城はついに開城し、当主・氏直は降伏した 3 。これにより、戦役の責任を問われた北条氏政・氏照兄弟は切腹を命じられ、関東に百年の威を誇った戦国大名・後北条氏は、ここに滅亡した 21 。
北条氏の旧領はすべて秀吉によって没収され、その広大な領地は、長年の同盟者であった徳川家康に与えられることとなった。これは、家康を東海地方から切り離し、関東という新たな土地に封じ込めるという、秀吉の巧みな政治戦略の一環であった 5 。同年八月、家康は江戸城に入府し、新たな関東の支配者として、その統治を開始する。
この新たな時代の到来と共に、騎西城の運命もまた大きく変わった。家康は、配下の武将たちを関東各地に配置し、支配体制を固めていった。その一環として、騎西城には家康の譜代の家臣である松平康重が、二万石の所領をもって入城した 6 。これにより、騎西城は北条氏の支城という役割を終え、徳川氏による関東支配の拠点の一つとして、新たな歴史を歩み始めることとなった。
その後、慶長七年(1602年)には大久保忠常が城主となるが、戦乱の時代が終わり、世が泰平となるにつれて、城の軍事的な重要性は次第に薄れていった 13 。そして寛永九年(1632年)、騎西城は廃城となり、その長い歴史に静かに幕を下ろした 13 。戦国の動乱と共に生まれ、その終焉を見届けた城は、新たな時代の到来の中で、その役目を終えたのである。
結論:戦略的必然としての「無血開城」
天正十八年(1590年)の「騎西城の戦い」は、その名に反して、鬨の声も血の匂いも存在しない、静かなる終焉であった。しかし、そこに戦闘がなかったからといって、歴史的な意味が薄れるわけではない。むしろこの一件は、戦国時代の終焉期における戦いの本質を、極めて象徴的に示している。
結論として、騎西城の無血開城は、以下の三点において、戦略的な必然であったと評価できる。
第一に、豊臣秀吉が構築した圧倒的な軍事的・政治的圧力の前では、個別の城の抵抗はもはや何の意味も持たなかった点である。二十万を超える大軍による多方面からの侵攻と、巧みな政治工作による周辺勢力の切り崩しは、北条方の支城網を完全に麻痺させた。騎西城は、戦う前に、より広域な戦略によって、その存在価値を無力化されていたのである。
第二に、城主不在の城を守る城代が下した開城という決断は、臆病さや裏切りからではなく、状況を冷静に分析した上での、最も合理的かつ責任ある選択であったという点である。援軍の望みが絶たれ、抵抗しても戦局に影響を与えられない中で、無益な戦闘によって兵や領民の命を失うことは、指導者として許されることではない。人命を保全し、未来に繋ぐという判断は、高く評価されるべきである。
第三に、この出来事は、戦国時代の戦いの様相が、個々の武将の武勇や城の堅固さといったミクロな要素だけでは決まらず、国家規模の兵站能力と政治戦略というマクロな要素によって規定される、新たな段階に入ったことを如実に物語っている。
騎西城の静かなる開城は、一つの城の終わりであると同時に、一つの時代の終わりを告げる、象徴的な場面であった。それは、力と力が激しくぶつかり合う時代から、巨大な権力の下で秩序が再編されていく時代への、静かな、しかし決定的な移行点だったのである。
引用文献
- 小田原征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90
- 「豊臣軍は米がなくイモを掘って食べている」小田原征伐で秀吉軍7万人が深刻な兵糧不足に陥った当然の理由 圧倒的に不利な北条氏政が「勝てる」と踏んだワケ (2ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/74014?page=2
- 小田原合戦 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/encycl/neohojo5/011/
- 徳川家康の「小田原合戦」|家康が関東転封になった秀吉の北条征伐【日本史事件録】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1131745
- 1590年 小田原征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1590/
- 騎西城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.kisai.htm
- 「小田原城」に行ってみよう!その2 秀吉からみた小田原征伐! - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/7764
- 忍城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 小田原征伐〜秀吉が天下統一!北条家を下した最後の大戦をわかりやすく解説 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/244/
- 18 騎西城合戦物語 | 加須インターネット博物館 https://www.kazo-dmuseum.jp/05story/mukashi/onsei_18.htm
- 騎西城 - そこに城があるから - エキサイトブログ https://ckk12850.exblog.jp/9144706/
- 騎西城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E8%A5%BF%E5%9F%8E
- 騎西城土塁跡 - 加須市 https://www.city.kazo.lg.jp/soshiki/shougai/kankou/kisaichiiki/6561.html
- 土塁<どるい>と障子堀<しょうじぼり> - 騎西城 - 加須インターネット博物館 https://www.kazo-dmuseum.jp/04visit/02castle/03.htm
- 地域の見どころ(加須市 旧騎西町) - 埼玉県 https://www.pref.saitama.lg.jp/b0109/midokoro-kisai.html
- 羽生城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E7%94%9F%E5%9F%8E
- 武蔵 羽生城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/musashi/hanyu-jyo/
- 菖蒲城趾あやめ園 (埼玉県久喜市) - 佳景探訪 - 夏空.com https://www.natsuzora.com/dew/saitama/shobujoshiayameen.html
- 菖蒲城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%96%E8%92%B2%E5%9F%8E
- 騎西城(埼玉県加須市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/2106
- 小田原の役古戦場:神奈川県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/odawara/
- 忍城の戦いとは/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/16979_tour_060/