最終更新日 2025-09-03

高屋城の戦い(1575)

天正三年、織田信長は河内高屋城を攻略。三好康長らの抵抗を退け、畿内最後の反信長勢力を一掃した。この勝利は石山本願寺を孤立させ、信長の総力戦の完成形を示し、長篠の戦いへの布石となる重要な戦役であった。
Perplexity」で合戦の概要や画像を参照

天正三年 河内最終平定戦 ―織田信長による高屋城攻略の全貌とその戦略的意義―

序章:河内国守護の象徴、高屋城 ―下剋上と内紛の舞台―

地理的・戦略的重要性

日本の戦国史において、一城の攻防が地域の、ひいては天下の趨勢を左右することは稀ではない。天正三年(1575年)の「高屋城の戦い」は、まさにその典型例と言える。この合戦の舞台となった高屋城は、現在の大阪府羽曳野市古市に位置し、その戦略的価値は畿内においても屈指のものであった 1

高屋城が築かれた丘陵は、大和と河内を結ぶ古代からの大動脈・竹内街道と、京都から高野山へ至る東高野街道が交差する結節点に位置していた 2 。この立地は、平時においては交通と物流を掌握する経済的基盤となり、戦時においては敵軍の侵攻路を扼し、自軍の展開を容易にする軍事上の要衝としての役割を担った。さらに、この地からは河内平野はもちろん、和泉、大和の三国を見渡すことが可能であり、畿内南部の支配権を確立するための不可欠な拠点であった 5 。南北約800メートル、東西約450メートルに及ぶその広大な城域は、国内でも指折りの規模を誇る中世城郭であり、その存在自体が支配者の権威を物語っていた 1

複雑な権力闘争の歴史

高屋城の歴史は、その戦略的重要性の高さゆえに、絶え間ない争奪の歴史でもあった。応仁の乱(1467-1477年)後、室町幕府の三管領家の一角たる名門・畠山氏の居城として築かれたこの城は 8 、しかし、安寧の時を知らなかった。畠山氏は一族内で尾州家と総州家の二派に分裂し、家督を巡る泥沼の内紛を繰り広げた 9 。その結果、高屋城の主は目まぐるしく入れ替わり、城は常に戦火の危険に晒され続けたのである 1

この主家の弱体化は、必然的に家臣の台頭を促した。中でも守護代の遊佐氏は、次第に実権を掌握し、主君を傀儡として河内国を事実上支配するに至る 12 。これは、戦国時代を象徴する「下剋上」の典型であった。遊佐氏は、自らの権力基盤を維持するために、時には主君を追放し、また時には外部勢力と結託した。高屋城は、もはや単なる守護の居城ではなく、遊佐氏という新興勢力の本拠地としての性格を色濃くしていったのである 17

16世紀半ば、畿内に覇を唱えた三好長慶の出現は、この地域の権力構造をさらに複雑化させる。高屋城は、旧守護の権威を保持しようとする畠山氏、実効支配を続ける守護代・遊佐氏、そして新たな支配者たる三好氏による三つ巴の激しい争奪戦の舞台と化した 5 。永禄3年(1560年)には三好長慶が高屋城を攻略し、城主の畠山高政を追放 1 。その後も奪取と奪還が繰り返され、城主の交代は30回以上にも及んだと記録されている 1

このように、高屋城は二重の性格を帯びていた。一つは、河内国守護職という室町幕府以来の「権威の象徴」としての顔である。この城を領有することは、河内一国を統治する正統性を内外に示す上で極めて重要であった 5 。しかし、繰り返される内紛と下剋上は、その権威を著しく毀損した。結果として、高屋城は純粋な軍事力によってのみ維持される「実力支配の拠点」へと変質していった。この「権威」と「実力」が複雑に絡み合う城の性質こそが、多くの武将たちをこの城を巡る争いへと駆り立てた根本的な要因であった。そして、この長きにわたる混乱の歴史が、最終的に織田信長という新たな統一権力による介入を招き入れる土壌を形成したのである。

第一章:決戦前夜 ―信長包囲網崩壊後の畿内情勢―

反信長勢力の再編と最後の拠点

天正元年(1573年)は、織田信長にとって飛躍の年であった。7月には将軍・足利義昭を京から追放して室町幕府を事実上滅亡させ、8月には越前の朝倉義景を、9月には北近江の浅井長政を立て続けに滅ぼした 9 。さらに11月、信長に反旗を翻した三好本宗家の当主・三好義継が若江城で自害し、畿内における反信長勢力の中核は壊滅的な打撃を受けた 9 。信長を包囲していた巨大な網は、この年、急速に解体されたのである。

しかし、反信長の火種が完全に消え去ったわけではなかった。紀伊国興国寺へ逃れた足利義昭は、将軍としての権威を盾に、なおも執拗な抵抗を続けていた。彼は西国の雄・毛利輝元、強大な宗教勢力である石山本願寺、そして畿内に残る反信長勢力に対し、信長討伐を命じる御内書を送り続け、再起の機会を窺っていた 9 。この義昭の呼びかけに応じ、畿内で最後の牙城として抵抗の意思を明確にしたのが、河内国の高屋城であった。信長包囲網の残滓は、この地に集結し、最後の抵抗拠点としての意味合いを強めていった。

高屋城の謀主、遊佐信教

この高屋城における反信長運動の中心人物が、河内守護代の遊佐信教であった。彼は、長年にわたり畠山氏に仕える譜代の家臣でありながら、その実力は主家を凌駕していた。元亀4年(1573年)6月、信教は信長に通じていた主君・畠山秋高を弑逆し、高屋城の全権を掌握するという凶行に及ぶ 1

信教のこの行動は、単なる権力欲に留まらない。信長による畿内の急速な勢力拡大は、遊佐氏が長年かけて築き上げてきた河内における支配体制、すなわち守護代として在地国人を束ねる旧来の秩序そのものを根底から覆すものであった 12 。彼の反乱は、滅びゆく旧時代の支配者が、新たな統一権力に対して行った最後の、そして絶望的な抵抗であったと位置づけることができる。

阿波からの援軍、三好康長(笑岩)

主君殺しという大義名分を欠く信教にとって、強力な後ろ盾は不可欠であった。彼が頼ったのは、四国に隠然たる勢力を保持する三好一族の長老、三好康長であった。康長は三好元長の末弟であり、甥の長慶が築いた三好政権を支えた宿老の一人である 23 。天正2年(1574年)4月2日、彼は遊佐信教の要請に応じ、阿波の軍勢を率いて高屋城に入城した 1

三好康長は、単なる老練な武将ではなかった。「笑岩(しょうがん)」という号を持つ当代一流の文化人であり、特に茶の湯の世界では重きをなしていた 24 。その人脈は、自治都市・堺の会合衆(豪商たち)にも深く通じており、彼の参戦は単なる軍事力の提供に留まらず、阿波からの兵站支援や堺の経済力を背景に持つものであった 25 。三好本宗家が滅んだ今、三好一族を代表する存在となった康長の決起は、信長にとって決して看過できない脅威となったのである。

第一次高屋城の戦い(天正2年)とその膠着状態

高屋城が反信長の明確な拠点となったことを受け、信長は早速行動を起こす。天正2年(1574年)4月、柴田勝家、明智光秀、筒井順慶、細川藤孝、荒木村重といった方面軍司令官クラスの武将を揃えた討伐軍を派遣した 9 。織田軍は高屋城と、これに呼応して蜂起した石山本願寺を同時に攻撃する二正面作戦を展開した。

しかし、戦況は信長の思惑通りには進まなかった。高屋城は堅固な守りを見せ、石山本願寺も頑強に抵抗した。織田軍は城下に放火し、周辺地域を焼き払うなどの打撃は与えたものの、城を陥落させるには至らず、4月28日には荒木村重らを抑えの兵として残し、一旦撤兵せざるを得なかった 9 。同年9月にも佐久間信盛らが再度攻撃を仕掛け、飯盛山城を落とすなどの戦果は挙げたが、高屋城の攻略は依然として叶わなかった 9

この一連の戦いは、信長にとって重要な教訓となった。高屋城と石山本願寺の連携がいかに厄介であるか、そして、方面軍司令官の一部を派遣するような限定的な攻撃では、この問題を解決できないことを痛感させたのである。この前年の不徹底な攻撃に対する反省こそが、翌天正3年、信長自らが総力を挙げて畿内最後の反抗勢力を殲滅するという、苛烈な作戦へと繋がっていく。遊佐信教と三好康長の同盟は、河内の在地支配と四国からの援軍という互いの利点を持ち寄ったものではあったが 17 、その結束は「反信長」という一点のみで繋がっているに過ぎなかった。主君殺しの汚名を着た信教と、河内に地盤を持たない客将の康長という組み合わせは、信長が仕掛けるであろう圧倒的な物量と戦略の前に、本質的な脆弱性を内包していたのである。

第二章:合戦詳説:天正三年四月、河内平定戦の時系列分析

天正2年の戦いが膠着に終わったことで、織田信長は河内・大坂方面の反抗勢力を根絶するため、より大規模かつ周到な作戦の準備に取り掛かった。天正3年(1575年)春、その計画は、当初の予定を前倒しする形で、電撃的に実行に移されることとなる。

【表1】高屋城の戦い 主要参加武将一覧

勢力

役職・立場

主要武将

備考

織田信長軍

総大将

織田信長

天下布武を掲げ、畿内平定の総仕上げとして自ら出陣。

軍団長

佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀

織田家宿老。政権の中核を担う。

方面軍司令官

明智光秀、細川藤孝

近江・山城方面を管轄。

荒木村重、高山右近

摂津方面を管轄。対本願寺戦線の主力を担う。

塙(原田)直政

大和守護。信長側近からの抜擢。

筒井順慶

大和国の有力国人。塙直政の与力。

反信長連合軍

高屋城 総指揮

三好康長(笑岩)

三好一族の長老。阿波・讃岐に影響力を持ち、四国からの援軍を率いる。

高屋城 城主格

遊佐信教

河内守護代。主君・畠山秋高を殺害し、高屋城を掌握。

新堀城 城将

十河一行、香西長信

三好康長配下の勇将。讃岐の国人。

石山本願寺

顕如

浄土真宗本願寺教団の宗主。信長と10年に及ぶ石山合戦を繰り広げる。

開戦前夜(天正3年3月):信長の周到な準備と戦機到来

  • 3月22日: 当初、信長は大規模な軍事行動を秋に予定していた。その証拠に、この日、信長は細川藤孝に対し朱印状を発給している。その内容は「来たる秋、大坂合戦を申し付ける。ついては、丹波国の舟井・桑名郡の武士たちをそなたの与力とするので、兵力を増強し、万全の準備を整えよ」というものであった 9 。この文書から、信長が石山本願寺とその同盟勢力の攻略を、腰を据えた一大事業と捉えていたことが窺える。
  • 同時期: 信長は、この大作戦に先立ち、周辺地域の支配体制を盤石なものにするための布石を打っていた。荒木村重を摂津守護、細川藤孝を山城半国守護、そして側近の塙直政を大和守護にそれぞれ任命したのである 9 。これにより、石山本願寺と高屋城を完全に包囲し、外部からの支援を遮断する「対本願寺包囲体制」が完成した。これは、敵を孤立させてから叩くという、信長の合理的な戦略思想の表れであった。
  • 3月下旬: 戦端を開いたのは、意外にも本願寺側であった。本願寺の一向一揆勢が、摂津の大和田と天満に砦を築き、織田方の領域へ攻勢をかけたのである。これに対し、摂津守護の荒木村重は巧みな策略を用いて一揆勢を十三の渡し付近に誘い出し、これを撃破。返す刀で大和田・天満の両砦を奪取するという目覚ましい戦果を挙げた 9 。この本願寺側の軽率な突出と、それに対する荒木村重の鮮やかな勝利は、信長に「好機到来」と判断させた。秋まで待つ必要はない。敵の機先を制し、一気に勝負を決するべきであると。

4月6日~8日:電撃的侵攻と高屋城への猛攻

  • 4月6日: 信長は京都・相国寺を発ち、南征の途についた。『兼見卿記』によれば、その軍勢はおよそ1万 9 。秋の大作戦を前倒しにした、まさに電撃的な出陣であった 23
  • 4月7日: 織田軍本隊は、淀川沿いを南下し八幡を経て、河内国における織田方の拠点・若江城に入城した 9 。ここは、かつて三好義継が自害した場所であり、信長にとっては因縁の地でもある。この城を前線基地とし、最終的な作戦計画が練られた。
  • 4月8日: 信長は本陣を、高屋城を一望できる駒ヶ谷山へと進めた 9 。ここから戦況全体を俯瞰し、的確な指揮を下すためである。布陣を終えるや否や、織田軍は高屋城への総攻撃を開始した。城兵もまた、城の不動坂口などから果敢に出撃し、両軍による激しい戦闘が繰り広げられた 9
  • 同日: この直接的な軍事攻撃と並行して、信長は極めて苛烈な戦術を実行する。高屋城周辺の村々をことごとく焼き払い、さらに、収穫を間近に控えた麦畑に兵を入れ、まだ青い穂を薙ぎ払わせたのである 9 。この「青田刈り」と呼ばれる焦土作戦は、単に籠城側の兵糧を断つという物理的な効果に留まらない。自らの生活の糧が目の前で無慈悲に破壊されていく光景は、城内の兵士や領民の士気を根底から打ち砕く、強力な心理攻撃であった。これは、敵の戦意そのものを標的とする、信長得意の戦法であった。

4月9日~16日:大軍集結と二正面への圧力

  • 4月12日: 高屋城への圧力を維持しつつ、信長は本陣を駒ヶ谷山から摂津の住吉へと移動させた 9 。この動きは、もう一つの主敵である石山本願寺を直接威圧し、高屋城との連携を完全に分断するための戦略的な配置転換であった。
  • 4月13日: この日を境に、織田軍の兵力は爆発的に増大する。信長の動員令に応じ、摂津、大和、山城、若狭、美濃、尾張、伊勢といった直轄領・同盟国から増援部隊が続々と住吉に集結した。その総勢は10万余に達したと記録されている 9 。この空前の大軍勢は、高屋城と本願寺の籠城兵に対し、抗うことすら無意味であると思わせるほどの絶望的な戦力差を突きつけた。これは、信長が仕掛けた最大の心理戦であった。
  • 4月14日: 信長は本陣を天王寺へと移し、石山本願寺と直接対峙する。ここでも高屋城周辺と同様に、寺の周辺に広がる作物を徹底的に薙ぎ払わせ、兵糧攻めを敢行する意思を明確に示した 9
  • 4月16日: さらに信長は、陣を遠里小野へと進め、自らも作毛の刈り取りを指揮したと伝えられる 9 。総大将が率先して焦土作戦を行う姿は、全軍に対して作戦の徹底を促す無言の命令であった。そして、彼の視線は、次なる攻略目標へと注がれていた。高屋城と本願寺を結ぶ最後の生命線、新堀城である。

4月17日~19日:新堀城の攻防 ―戦局を決定づけた拠点陥落―

  • 背景: 新堀城は、高屋城と石山本願寺のほぼ中間に位置し、両城間の兵站と連絡を担う最重要拠点であった 9 。この城を守るのは、三好康長配下の猛将として知られる十河一行と香西長信。信長にとって、この城を迅速に陥落させることが、高屋城を完全に孤立させ、戦い全体に終止符を打つための鍵であった。
  • 4月17日: 織田軍は、その圧倒的な兵力をもって新堀城を幾重にも包囲し、蟻一匹這い出る隙間もないほどの完全な封鎖下に置いた。
  • 4月19日: 準備を整えた織田軍は、新堀城への総攻撃を開始した。攻城戦の定石通り、兵士たちは堀に草や土嚢などを次々と投げ込み、突撃路を確保していく 9
  • 同日夜: 日が落ちると、織田軍は城内めがけて火矢を雨のように射かけ始めた。城の各所で火の手が上がり、守備兵は混乱に陥る。この機を逃さず、織田軍は大手門と搦手門の両面から、鬨の声を上げて一斉に突撃を敢行した 9
  • 戦闘結果: 夜を徹した激戦の末、新堀城はついに陥落した。城将・十河一行は奮戦の末に討死、香西長信は生け捕りにされた後、斬首された。織田軍が挙げた首級は170余にのぼったという 9 。この新堀城の陥落は、高屋城の運命を事実上決定づけた。

この一連の戦いの背後には、もう一つの戦線が大きく影響していた。4月15日頃から、武田勝頼が率いる大軍が徳川家康の領国である三河へ侵攻を開始していたのである 33 。この報は、遅くとも新堀城攻撃の頃には信長の耳に達していたはずである。東の脅威が現実のものとなる中、信長には河内で時間を浪費する余裕はなかった。新堀城への迅速かつ徹底的な攻撃、そしてその後の素早い戦後処理は、同盟者である家康からの救援要請に応えるための時間を一刻も早く捻出するという、極めて強い外的圧力の下で行われた軍事行動であった。高屋城の戦いの展開速度は、東方で進行しつつあった長篠の戦いの前哨戦と、完全に連動していたのである。

【表2】天正三年四月 高屋城の戦い 詳細年表

日付(天正3年)

織田軍の動向

三好・本願寺軍の動向

関連する出来事(別戦線)

3月22日

信長、細川藤孝に「秋の大坂合戦」に向けた準備を命じる朱印状を発給。

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3月下旬

荒木村重が摂津で本願寺勢を撃破し、大和田・天満砦を奪取。

本願寺勢、摂津へ進出するも敗退。

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4月6日

信長、約1万の兵を率いて京都を出陣。

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4月7日

河内・若江城に入城。

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4月8日

駒ヶ谷山に布陣し、高屋城への攻撃を開始。周辺の青田刈りを実行。

高屋城から出撃し、織田軍と交戦。

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4月12日

本陣を摂津・住吉へ移動。高屋城と石山本願寺の分断を図る。

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4月13日

諸国からの増援が到着し、総勢10万余となる。

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4月14日

本陣を天王寺へ移動。石山本願寺と対峙し、周辺の作物を薙ぎ払う。

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武田軍の先遣隊が三河・足助城を包囲。

4月16日

陣を遠里小野へ移動。新堀城周辺に布陣を開始。

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4月17日

新堀城を完全に包囲。

新堀城、籠城戦に入る。

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4月19日

夜、新堀城に総攻撃をかけ、これを陥落させる。

城将・十河一行討死、香西長信捕縛。

武田軍、足助城を開城させる。

4月20日頃

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三好康長、松井友閑を通じて降伏を打診。

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4月21日

信長、康長の降伏を受諾。塙直政に河内諸城の破却を命じ、京へ帰還。

高屋城、無血開城。

信長、長篠の戦いに向けた準備を開始。

第三章:決着と戦後処理 ―新たな秩序の構築―

三好康長の降伏と信長の現実的判断

新堀城の劇的な陥落は、高屋城の籠城兵に決定的な衝撃を与えた。石山本願寺との連携という最後の望みは絶たれ、10万を超える織田の大軍に完全に包囲された今、もはや抵抗は無意味であった。総指揮官であった三好康長は、これ以上の籠城は無益な殺戮を招くだけであると判断し、降伏を決断する。彼は、信長の側近であり、堺の代官として自身とも面識のあった松井友閑を仲介役として立て、降伏を申し出た 9

この申し出に対し、信長は驚くほど寛大な処置で応えた。康長の降伏を即座に受諾し、その罪を一切問わず赦免したのである 9 。この判断の背景には、信長の冷徹なまでの現実主義があった。第一に、東方では武田勝頼が三河に深く侵攻しており、一刻も早く主力を東へ転進させる必要があった。高屋城を力攻めにすれば、無用な時間と兵力を消耗することになる。第二に、信長は三好康長という人物の利用価値を高く評価していた。彼は単なる老将ではない。三好一族の長老として、阿波・讃岐といった四国東部に未だ広範な影響力と人脈を保持していた 9 。いずれ四国を平定する際、長宗我部元親に対抗するための重要な駒となり得る。康長を殺害するよりも、味方に引き入れてその影響力を利用する方が、将来的な利益は遥かに大きい。信長にとって康長の降伏は、畿内平定の完了であると同時に、次なる四国侵攻戦略の第一歩を記すものであった 35

遊佐信教のその後

一方、この反乱のもう一人の主役であった遊佐信教の動向は、康長とは対照的であった。後世の軍記物などでは、この戦いで戦死したとする説が流布しているが、信頼性の高い同時代の記録によれば、彼は高屋城の開城に際して城を脱出したようである 9 。その後、「遊佐河内入道」と名乗り、石山本願寺に合流して信長への抵抗を続けたとされている 9 。彼は最後まで旧勢力としての意地と誇りを捨てず、信長に抗い続けたのである。

高屋城の廃城 ―権威の物理的破壊―

戦いが終結すると、信長は塙直政に命じ、降伏した高屋城を含む河内国内の主要な城郭をことごとく破却させた 8 。これは、戦国時代の常識からすれば異例の措置であった。通常、敵の城を奪えば、自らの支城として改修し再利用するのが一般的である。しかし信長は、そうしなかった。

この「破城」という選択には、信長の新しい統治思想が明確に表れている。高屋城は、単なる軍事拠点ではなく、畠山氏以来の河内守護職という「権威の象徴」であった。信長は、この旧来の権威が反乱の温床となり得ることを深く理解していた。城を物理的に破壊し、更地に戻すことで、畠山氏や遊佐氏が築いてきた旧秩序を視覚的にも、そして物理的にも完全に消滅させようとしたのである。これは、在地勢力の力を削ぎ、方面軍司令官を頂点とする信長直轄の中央集権的な支配体制を構築しようとする、彼の統治ビジョンの一環であった。高屋城の廃城は、河内が旧守護の国から、織田信長の国へと完全に移行したことを天下に示す、象徴的な出来事であった。

戦略的転換:長篠への道

4月21日、高屋城の降伏処理を終えた信長は、すぐさま京へ帰還した 9 。彼の視線は、もはや河内にはなく、東方の脅威、武田勝頼に向けられていた。高屋城の戦いを、わずか2週間という驚異的な速さで終結させたことにより、信長は織田軍の主力を損なうことなく、長篠の戦場へと投入する時間的余裕を得た。もし河内での戦いが長引いていれば、徳川家康は独力で武田軍と対峙せねばならず、長篠の戦いの結果は大きく異なっていた可能性が高い。高屋城の迅速な平定は、長篠の戦いにおける勝利の、隠れた前提条件だったのである。

一時的な和平とその後

高屋城という最大の連携相手を失い、畿内で完全に孤立した石山本願寺は、もはや単独で織田軍と戦うことは困難であった。同年10月、本願寺は奇しくも信長の家臣となった三好康長らを仲介役として、信長に和睦を申し入れた 9 。信長もこれを受け入れ、一時的な和平が成立する。しかし、両者の対立は根深く、この和睦は長続きしなかった。翌天正4年(1576年)には再び戦端が開かれ(天王寺の戦い)、10年に及ぶ泥沼の石山合戦は、その最終局面へと向かっていくのである。

終章:高屋城の戦いが戦国史に刻んだ意味

天正三年(1575年)四月の高屋城の戦いは、その後の長篠の戦いの華々しい勝利の影に隠れがちであるが、織田信長の天下統一事業において極めて重要な画期をなす合戦であった。その歴史的意義は、以下の三点に集約される。

第一に、 石山本願寺の孤立化を決定づけた ことである。この戦い以前、石山本願寺は南に高屋城、西に雑賀衆という強力な同盟勢力を持ち、織田軍の包囲網に対して頑強に抵抗することが可能であった。しかし、高屋城の陥落と河内一国の完全平定により、本願寺は南からの支援と連携を完全に断ち切られた 37 。これにより、本願寺は文字通り「裸城」に近い状態となり、その後の戦いにおいて兵站と戦略の両面で極めて不利な状況に追い込まれた。石山合戦の最終的な帰趨は、この高屋城の戦いによって、その方向性が大きく定められたと言っても過言ではない。

第二に、 信長流「総力戦」の一つの完成形を示した ことである。この戦いで信長が見せた戦術は、単なる兵力の優越に頼ったものではなかった。畿内全域から10万という圧倒的な兵力を動員する動員力、作戦開始に先立って周辺支配を固める周到な政治的布石、敵の連携を断つために中間拠点を迅速に叩く戦略眼、そして青田刈りに代表される焦土作戦によって敵の戦意を根底から破壊する心理戦。これら全てを複合的に組み合わせた戦い方は、信長がそれまでの経験で培ってきた戦術の集大成であった 23 。それは、敵の軍事力だけでなく、経済力、兵站、そして士気といった、戦争を構成するあらゆる要素を同時に攻撃する、近代的な総力戦の萌芽とも言えるものであった。

第三に、 畿内の最終平定を成し遂げ、天下布武を新たな段階へと進展させた ことである。天正元年(1573年)の足利義昭追放以来、約2年にわたって続いた畿内における反信長勢力の掃討作戦は、この高屋城の戦いの勝利をもって完全に完了した。これにより、信長はついに後顧の憂いなく、東の武田・上杉、西の毛利といった遠方の強敵との全国規模の統一戦争に全力を注ぐ体制を整えることができたのである。高屋城の戦いは、信長の「天下布武」が、畿内という中央領域の完全掌握から、日本全土を視野に入れた次なるステージへと移行する、決定的な転換点であった。河内守護の象徴であった城の廃墟の上に、信長は新たな時代の礎を築いたのである。

引用文献

  1. 高屋城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/613/memo/4293.html
  2. 五重堀切で守る堅固な山城 - 紀行歴史遊学 - TypePad https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2023/11/%E9%AB%98%E5%B1%8B%E5%9F%8E.html
  3. 【大阪府】高屋城の歴史 河内国の拠点にして三管領・畠山氏代々の城! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/939
  4. #2 東高野街道を歩く(野望編) - 2023年04月16日 [登山・山行記録]-ヤマレコ https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-5369740.html
  5. 高屋城(大阪府羽曳野市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/5525
  6. 高屋城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%8B%E5%9F%8E
  7. 『摂津・河内・和泉の戦国史: 管領家の分裂と天下人の誕生』の紹介 Gou https://ameblo.jp/arakimura/entry-12862038800.html
  8. 高屋城跡 - 羽曳野市 https://www.city.habikino.lg.jp/soshiki/shougaigakushu/bunka-sekai/bunkazainikansurukoto/iseki_shokai/muromachi_sengoku/2427.html
  9. 高屋城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%8B%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  10. 【大阪府の歴史】戦国時代の"大阪"では何が起きていた? 三好長慶や織田信長、そして大坂本願寺と一向一揆の激闘 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=t7WaZMuSJ2c
  11. わがまち・河内長野の歴史-河内長野地域学講座Ⅱ https://www.city.kawachinagano.lg.jp/report/061_121207_rekishikouza/history.html
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