高浜城の戦い(1571)
元亀二年、若狭高浜城主・逸見昌経は、織田と朝倉の狭間で孤立。水軍を駆使し、情報戦と持久戦で城を守り抜いた。その忠誠が信長に報いられ、若狭は織田体制へ移行した。
元亀二年 高浜城の戦い:織田・朝倉の狭間で揺れる若狭国のリアルタイム分析
序章:元亀二年の若狭――「戦い」の実像を求めて
元亀二年(1571年)、若狭国高浜城。この地で繰り広げられたとされる「高浜城の戦い」は、「若狭湾口の要衝が織田系に服す」という一文で要約されることが多い。しかし、この簡潔な記述の背後には、刀槍を交える激しい攻防戦とは異なる、より複雑で緊張に満ちた一年間の政治的・戦略的持久戦が存在した。本報告書は、この「戦い」を単一の戦闘記録としてではなく、天下布武を掲げる織田信長と、越前の名門・朝倉義景という二大勢力の角逐の最前線となった若狭国全体の動向として捉え直すものである。
この物語の中心にいるのは、高浜城主・逸見昌経(へんみ まさつね)である。彼は、主家である若狭武田氏の衰退に乗じて自立し、激動する時代の中で巧みに立ち回り、最終的に織田信長への帰順を選択した。元亀二年、若狭の大部分が朝倉方の影響下に置かれる中、昌経が籠る高浜城は、織田方にとって敵地深くに打ち込まれた一本の楔であった。
したがって、本報告書が解き明かすのは、物理的な合戦の記録ではない。それは、情報と調略が飛び交い、支配体制が複雑に絡み合う中で、逸見昌経がいかにして高浜城を維持し続けたかという「静かなる戦い」の全貌である。元亀元年から天正元年に至る約三年間の若狭国の情勢を時系列で丹念に追うことで、「高浜城の戦い」の真実の姿を明らかにしていく。
第一部:動乱前夜――若狭国の権力構造とその脆弱性
第一章:落日の若狭武田氏
元亀年間の若狭国の混乱を理解するためには、まず守護大名・若狭武田氏の権威が失墜していた状況を把握する必要がある。若狭武田氏は甲斐武田氏の分流であり、室町幕府の重鎮として若狭国に君臨してきた名門であった。しかし、戦国時代の中期に至ると、その支配力には深刻な陰りが見え始めていた。
その象徴が、守護・武田義統(よしのぶ)とその父・信豊(のぶとよ)による長年の内紛である 1 。家督を巡るこの争いは家臣団を二分し、国人領主たちの離反を招き、守護家の求心力を著しく低下させた。この内部対立は、逸見昌経のような有力家臣が独自の勢力を形成し、外部勢力と結びつく格好の土壌を提供したのである。
そして、若狭武田氏の支配を事実上終焉させた決定的な出来事が、永禄十一年(1568年)に起こる。武田義統の子であり、家督を継いでいた武田元明(もとあき)が、隣国越前の朝倉義景によって身柄を確保され、一乗谷へと連れ去られたのである 3 。この「拉致」とも言える事態により、若狭国は統治者不在という権力の空白状態に陥った 5 。守護を失った若狭は、朝倉氏の強い影響下に置かれると同時に、在地領主たちが自らの生き残りをかけて独自に行動する、群雄割拠の様相を呈し始めた。
第二章:逸見昌経の台頭
若狭武田氏の権威が失墜する中で、頭角を現したのが逸見昌経であった。彼は甲斐源氏の支流であり、若狭武田氏の重臣という立場にありながら、主家の内紛と中央の政情を巧みに利用し、自立への道を模索した。昌経は、武田義統と父・信豊の対立において信豊方に与し、丹波国の松永長頼(内藤宗勝)や畿内を席巻していた三好長慶といった中央の有力者と連携し、主君である義統に公然と反旗を翻した 1 。この行動は、彼が地方の枠に留まらず、常に中央の政治情勢を視野に入れて行動する、現実主義的な戦略家であったことを示している。
昌経の戦略眼を最もよく物語るのが、その本拠地の選定である。当初、昌経は県内最大級の規模を誇る山城・砕導山城(さいちやまじょう)を拠点としていた 6 。しかし、永禄八年(1565年)、彼は若狭湾に突き出した半島に新たに高浜城を築城し、本拠を移転させる 1 。
この拠点移動には、極めて重要な戦略的意図が隠されている。山城である砕導山城が防御に特化しているのに対し、海に面した平山城である高浜城は、外洋へのアクセスが容易である 10 。事実、昌経は水軍を組織し、小浜の武田義統を攻撃するなど、海上での軍事行動を活発に行っている 1 。高浜城への移転は、昌経の戦略が、陸上での籠城戦を主体とする伝統的な思考から、水軍力を活用した機動的な軍事展開と、日本海交易による経済力の確保へと大きく転換したことを示す画期的な出来事であった。若狭湾の制海権を掌握することは、丹後や丹波方面への影響力を行使し、さらには京との直接的な連携をも可能にする。これは、内陸に基盤を置く守護・武田氏の権力構造から完全に脱却し、独自の海洋勢力として若狭に君臨しようとする昌経の明確な意志の表れであった。
第二部:織田と朝倉の狭間で――元亀元年から二年へ
第一章:織田信長の若狭侵攻(元亀元年)
元亀元年(1570年)四月、足利義昭を奉じて上洛した織田信長が、再三の上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、大軍を率いて越前へと進撃を開始した。その進路として選ばれたのが若狭国であった。信長が若狭に入ると、逸見昌経をはじめ、粟屋勝久、内藤重政ら若狭の国人衆(後に「若狭衆」と呼ばれる)の多くは、若狭街道の熊川まで信長を迎えに出て、その軍門に降った 11 。逸見昌経は、このとき坂尻村に陣を構えている 12 。これは、すでに守護・武田氏の統治が名実ともに崩壊し、国人衆が新たな、そしてより強力な権力者を庇護者として求めていた当時の状況を如実に物語っている。
当初、信長の若狭支配は、将軍・足利義昭の権威を前面に押し出したものであった。若狭衆も、信長の私的な軍勢としてではなく、将軍の命によって動員されるという形式が取られていた 5 。信長は、若狭を直轄領として組み込むのではなく、既存の国人衆の支配体制を温存させながら、間接的に影響力を行使する道を選んだのである。
しかし、この織田方の支配は盤石ではなかった。越前敦賀の金ヶ崎城を陥落させた矢先、信長の妹婿である北近江の浅井長政が突如離反し、織田軍の背後を脅かした。これにより信長は窮地に陥り、辛うじて京へ撤退する(金ヶ崎の退き口) 13 。この予期せぬ撤退は、若狭における織田方の権威を一時的に大きく揺るがし、好機と見た朝倉義景に、若狭への本格的な介入を促す結果となった。
第二章:朝倉義景の反攻と若狭の再分裂
信長が浅井・朝倉の挟撃から逃れた後、畿内では三好三人衆や石山本願寺が蜂起し、世に言う「信長包囲網」が形成される。この好機を捉え、朝倉義景は若狭への影響力強化に乗り出した。義景は、一乗谷に軟禁していた武田元明を政治的に利用しつつ、若狭国人衆への調略を活発化させる。
その成果が顕著に現れたのが、元亀元年(1570年)十月のことである。一度は信長に降伏していた若狭国大飯郡の国人・武藤友益が、朝倉方に寝返って反旗を翻した 5 。そして同年十月二十二日、朝倉方についた武田五郎(元明の一族か)、武藤友益、粟屋右京亮らが、織田方に与していた山県孫三郎の守るガラガラ城を攻撃し、これを陥落させたのである 5 。
この「ガラガラ城の戦い」は、若狭国内において、織田方と朝倉方の代理戦争が初めて明確な武力衝突へと発展した事件であった。この一件を境に、若狭国は、高浜城の逸見昌経に代表される親織田派と、武藤友益らを中心とする親朝倉派に完全に分裂した。若狭は、信長と義景という二大勢力の力が直接的にぶつかり合う、極めて不安定で危険な最前線へと変貌を遂げたのである。
表1:元亀年間における若狭国主要人物とその動向一覧
人物名 |
拠点 |
元亀元年(1570年)初頭の立場 |
信長侵攻後の動向 |
元亀二年(1571年)時点での所属 |
備考 |
逸見 昌経 |
高浜城 |
独立勢力 |
織田方に帰順 |
織田方 |
一貫して織田方に与力。若狭における織田方の最重要拠点となる。 |
武田 元明 |
(一乗谷) |
朝倉氏の庇護下 |
(朝倉氏の庇護下) |
(朝倉方) |
若狭武田氏の正統な当主。朝倉氏によって政治的に利用される。 |
武藤 友益 |
石山城 |
独立勢力 |
一時織田方に降伏後、朝倉方に離反 |
朝倉方 |
親朝倉派の急先鋒として、ガラガラ城を攻撃。 |
粟屋 勝久 |
国吉城 |
独立勢力 |
織田方に帰順 |
織田方 |
逸見昌経と共に織田方に与した若狭衆の有力者。 |
山県 秀政 |
(小浜) |
独立勢力 |
朝倉方に与する |
朝倉方 |
朝倉義景によって小浜代官に任じられる。 |
武田 信方 |
不明 |
独立勢力 |
朝倉方に与する |
朝倉方 |
武田一門。朝倉支配下で若狭の対外的代表者として活動。 |
粟屋 右京亮 |
不明 |
独立勢力 |
朝倉方に離反 |
朝倉方 |
武藤友益と共にガラガラ城を攻撃。 |
第三部:元亀二年 高浜城、静かなる最前線――リアルタイム情勢分析
第一章:二重支配のなかの緊張(年初~春)
元亀二年(1571年)を迎えた若狭国は、極めて複雑な支配構造の下にあった。ガラガラ城の陥落以降、国の大部分は朝倉義景の実質的な影響下に置かれていた。しかし、その支配は義景による直接統治ではなかった。義景は、小浜代官に任じた山県秀政や、武田一門の武田信方といった在地領主を介して若狭をコントロールするという、間接的な支配体制を敷いたのである 5 。
さらに事態を複雑にしていたのは、室町幕府の存在であった。表向き、若狭国は依然として将軍・足利義昭の治める「公儀」の領域であり、信長も朝倉もその権威を完全に無視することはできなかった 5 。このため、若狭は「将軍の支配(公)」と「朝倉の支配(実)」が重なり合う、二重支配とも言うべき状態に置かれていた。しかし、現地における実権は完全に朝倉方が掌握しており、幕府の権威はすでに形骸化しつつあった。この不安定な権力構造が、水面下での絶え間ない政治的駆け引きを生む温床となっていた。
第二章:高浜城の孤立と戦略的忍耐(春~夏)
このような状況下で、逸見昌経が籠る高浜城は、若狭国内に残された織田方の唯一にして最大の戦略拠点となっていた。周囲を武藤友益をはじめとする親朝倉勢力に囲まれ、昌経は極度の緊張と孤立の中で、戦略的な持久戦を強いられていたと推察される。
元亀二年の高浜城において、大規模な攻城戦が行われたという直接的な記録は見当たらない。しかし、戦闘がないことが平穏を意味するわけではない。兵糧の備蓄と確保、敵対勢力による経済封鎖への対抗、朝倉方からの執拗な調略工作の看破、そして最も重要な信長との連絡線の維持。これらはすべて、目に見えない「戦い」であり、昌経は日々、これらの課題に対処し続けていたはずである。
この絶望的とも思える状況で、高浜城の生命線となったのは何か。陸路の多くが敵性勢力によって遮断されていた可能性が高い中、その答えは「海」にあったと考えられる。第一部で考察したように、昌経が高浜城を本拠に選んだのは、その優れた水軍力と海上交通の利便性ゆえであった 10 。彼は、若狭湾から日本海へと抜ける海路を駆使し、丹後国の京極氏や、明智光秀が管轄していた近江方面など、織田方の勢力圏と連絡を取り、物資の補給を受けていた可能性が極めて高い。元亀二年の高浜城における「戦い」の本質とは、陸からの包囲に対し、海からの生命線を死守する戦いであったと言える。それは、逸見昌経が拠点として高浜城を選んだ、その先見の明が試される一年であった。
第三章:水面下の攻防――知行問題を巡る駆け引き(夏~秋)
元亀二年の若狭における「リアルタイムな状態」を具体的に示す、興味深い事例が史料に残されている。それは、幕府に仕える奉公衆・本郷信富の知行地(所領)を巡る問題である 5 。
この一件の処理プロセスは、当時の複雑な指揮系統を如実に示している。
- まず、若狭の重臣である粟屋勝長がこの問題を取り扱い、一定の解決を見たと考えられていた。
- しかし、解決が長引いたため、今度は若狭の対外的な代表者である武田信方が取り扱うことになった。
- 信方は、最終的な裁定案を「表向き」には将軍のいる幕府へ返答することになっていた。
- だが、その返答を出す前に、信方はその内容を越前の朝倉義景に伝え、その「内諾」を得る必要があった 5 。
この一連のやり取りは、元亀二年の若狭で繰り広げられていた政治的駆け引きそのものである。そこには、将軍へと通じる「公的(オモテ)」なルートと、実質的な支配者である朝倉義景へと通じる「私的(ウラ)」なルートが並存していた。一つの決定が下されるまでに、各勢力間でいかに慎重な調整と交渉が行われていたかが窺える。高浜城に籠る逸見昌経もまた、こうした水面下で繰り広げられる情報戦を常に注視し、次の一手を慎重に計っていたに違いない。
第四章:膠着状態の打破へ(年末)
朝倉義景の若狭支配は、一見すると盤石に見えたが、その内実には限界も露呈していた。元亀二年十二月、若狭国三方郡倉見荘で、織田方についた熊谷氏による所領の押領事件が発生した。この訴えを受けた義景は、自ら裁定を下すことができず、最終的な判断を将軍の裁判に委ねるという姿勢を見せている 5 。これは、義景の若狭支配が絶対的なものではなく、在地領主たちを完全に掌握しきれていなかったことの証左である。
結果として、逸見昌経は元亀二年の約一年間、朝倉方の圧倒的な圧力に屈することなく、高浜城を守り抜いた。大規模な戦闘こそなかったものの、敵地の中心に織田方の拠点を維持し続けたこと自体が、計り知れない戦略的価値を持つ「勝利」であった。それは、やがて来るべき反攻の時を待つ、長く、そして静かな戦いであった。
第四部:決着――若狭、織田体制への完全移行
第一章:朝倉氏の撤退と若狭の権力再編
元亀三年(1572年)に入ると、信長包囲網に徐々に綻びが見え始める。武田信玄の上洛作戦がその死によって頓挫するなど、反信長勢力は勢いを失っていった。これに伴い、朝倉義景も若狭への関与を弱めざるを得なくなり、その影響力は次第に低下していく 5 。
そして天正元年(1573年)、将軍・足利義昭が信長によって京から追放され、室町幕府が事実上滅亡すると、若狭の情勢は一変する。これまで朝倉方についていた山県秀政や武田信方といった国人衆は、時勢を読んで信長方に寝返った。最後まで抵抗を続けた武藤友益や粟屋右京亮は、信長軍によって討伐され、その所領は没収された 14 。これにより、若狭国内の親朝倉勢力は一掃された。
第二章:丹羽長秀の入国と「若狭衆」の誕生
天正元年(1573年)八月、信長は満を持して越前へ侵攻し、一乗谷の戦いで朝倉義景を滅ぼした 3 。これにより、若狭国を巡る織田・朝倉の長年にわたる角逐は、織田方の完全勝利をもって終結した。
戦後、信長は若狭国の統治に関して新たな方針を打ち出す。それは、若狭一国を譜代の重臣である丹羽長秀に与え、新たな支配者として送り込むというものであった 3 。これは、元亀元年のように在地領主を介して間接的に支配するのではなく、若狭を完全に織田家の領国として組み込むことを意味する、画期的な政策転換であった。
丹羽長秀の入国に伴い、逸見昌経、粟屋勝久、内藤氏、熊谷氏といった旧武田家臣団は、「若狭衆」として長秀の与力(軍事指揮下に入る配下)に再編成された 14 。これにより、若狭の国人衆は織田家の軍団に正式に組み込まれ、信長の天下統一事業の一翼を担うこととなる。
この戦後処理において、逸見昌経の功績は高く評価された。彼は若狭衆の筆頭格とされ、本拠である高浜城五千石の安堵に加え、討伐された武藤友益の旧領から新たに三千石を加増されたのである 1 。この破格の待遇は、元亀二年という最も困難な時期に、周囲が次々と朝倉方になびく中で、一貫して織田方として高浜城を守り抜いた昌経の忠誠と忍耐に対する、信長からの明確な報奨であった。苦しい時に味方であり続けた者を厚遇することで、信長は支配者としての信頼性と、信賞必罰の原則を内外に示したのである。昌経の戦略眼と忍耐が、具体的な領地加増という形で報われたこの事実は、戦国武将のシビアな生存戦略における、一つの輝かしい成功例と言えよう。
結論:高浜城の「戦い」が残した意味
元亀二年(1571年)の「高浜城の戦い」とは、火花散る白兵戦ではなく、敵性地域の中枢に孤立した拠点を維持し続けるという、極度の緊張を伴う政治的・戦略的持久戦であった。逸見昌経が繰り広げた戦いは、武力のみならず、情報、経済、そして何よりも未来を見通す戦略眼と耐え抜く精神力が問われるものであった。
歴史的に見れば、逸見昌経が高浜城を固守したことの意義は計り知れない。それは、朝倉氏による若狭の完全掌握を阻止し、信長にとって若狭への再介入、ひいては越前侵攻への足がかりを確保し続けた点で、決定的な役割を果たした。昌経の忍耐がなければ、天正元年の朝倉氏滅亡という劇的な結末は、より困難なものになっていたかもしれない。彼の静かなる戦いは、信長の天下統一事業における、地道だが不可欠な布石だったのである。
冒頭に提示された「若狭湾口の要衝が織田系に服す」という言葉は、この一年間にわたる逸見昌経の苦闘の末に、ようやく勝ち取られた「結果」に他ならない。本報告書は、その簡潔な結果の裏に隠された、血の通った人間たちのリアルタイムな葛藤と駆け引きの過程を明らかにする試みであった。
巻末付録
表2:元亀元年~天正元年の若狭国を巡る年表
年月 |
出来事 |
関連人物 |
勢力図の変化 |
永禄8年(1565年) |
逸見昌経、高浜城を築城。 |
逸見昌経 |
逸見氏、水軍力を背景に台頭。 |
永禄11年(1568年) |
武田元明、朝倉義景により越前一乗谷へ連行される。 |
武田元明、朝倉義景 |
若狭武田氏の支配力消滅。朝倉氏の影響力が増大。 |
元亀元年(1570年)4月 |
織田信長、朝倉討伐のため若狭へ侵攻。若狭衆が帰順。 |
織田信長、逸見昌経、若狭衆 |
若狭の大部分が一時的に織田方の支配下に入る。 |
元亀元年(1570年)4月末 |
浅井長政の離反により、信長が京へ撤退(金ヶ崎の退き口)。 |
織田信長、浅井長政 |
織田方の権威が揺らぎ、朝倉氏に反攻の機会を与える。 |
元亀元年(1570年)10月 |
武藤友益らが朝倉方に離反。 |
武藤友益、朝倉義景 |
若狭国内で親朝倉勢力が形成される。 |
元亀元年(1570年)10月22日 |
武藤友益ら、織田方の山県孫三郎が守るガラガラ城を攻略。 |
武藤友益、粟屋右京亮 |
若狭国内が織田方(逸見氏ら)と朝倉方(武藤氏ら)に分裂。 |
元亀二年(1571年) |
高浜城、親朝倉勢力に囲まれ孤立。逸見昌経、持久戦を展開。 |
逸見昌経 |
織田方、高浜城を拠点に若狭での影響力を辛うじて維持。 |
元亀3年(1572年) |
信長包囲網に綻び。朝倉氏の若狭への影響力が低下。 |
織田信長、朝倉義景 |
朝倉方の支配力が徐々に弱まる。 |
天正元年(1573年)7月 |
足利義昭、信長により京から追放され、室町幕府が滅亡。 |
織田信長、足利義昭 |
若狭における朝倉方の支配の大義名分が失われる。 |
天正元年(1573年)8月 |
一乗谷の戦い。朝倉義景が滅亡。 |
織田信長、朝倉義景 |
若狭を巡る織田・朝倉の角逐が終結。 |
天正元年(1573年)9月 |
丹羽長秀が若狭国主に任命される。若狭衆はその与力となる。 |
丹羽長秀、逸見昌経 |
若狭国、完全に織田家の支配体制下に組み込まれる。 |
引用文献
- 逸見昌經Hemi Masatsune - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/hokuriku/hemi-masatsune
- 武田義統(たけだ よしむね)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E7%BE%A9%E7%B5%B1-1088699
- 武家家伝_若狭武田氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/w_take_k.html
- 逸見昌経 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B8%E8%A6%8B%E6%98%8C%E7%B5%8C
- 戦国末期若狭支配の動向 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/bunsho/file/615600.pdf
- かつて高浜を治めた若狭武田氏の重臣 逸見昌経 (ヘ https://static.chunichi.co.jp/pdf/article/c6ece87358b4078c946eb85f83e32d6e.pdf
- 5/19 若狭逸見氏の歴史をテーマに講演会 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=8chzEst46A8
- 若狭 高浜城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/wakasa/takahama-jyo/
- 高浜城 - - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-1006.html
- 高浜城の見所と写真・100人城主の評価(福井県高浜町) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/2295/
- 本能寺の変後に明智光秀に味方した名門・若狭武田家と後瀬山城【麒麟がくる 満喫リポート】 https://serai.jp/hobby/1014851
- 1570年4月 織田信長越前攻め(金ヶ崎の退き口)と徳川家康伝承 - 美浜町 https://www.town.fukui-mihama.lg.jp/uploaded/attachment/5330.pdf
- 〈検証“金ヶ崎の退き口”〉信長が軍議を開いた名城・国吉城周辺には秀吉成功物語と異なる伝承があった!【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1010159
- 『福井県史』通史編2 中世 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-4-01-04-03-03.htm
- 若狭 高浜城 若狭湾に突き出した水軍仕様の平山城 - 久太郎の戦国城めぐり http://kyubay46.blog.fc2.com/blog-entry-246.html
- 【これを読めばだいたい分かる】丹羽長秀の歴史 - note https://note.com/sengoku_irotuya/n/nca411812cdfe
- 戦国!室町時代・国巡り(13)若狭編|影咲シオリ - note https://note.com/shiwori_game/n/n3f94274c8a86