最終更新日 2025-09-07

高畠城の戦い(1588)

天正十六年、秀吉の惣無事令下で本庄繁長と最上義光が庄内を巡り激突。十五里ヶ原で最上軍は壊滅するも、義光は後に政治力で再起し、戦国の終焉を告げた一戦。

天正十六年・出羽の激震:惣無事令下の死闘「十五里ヶ原の戦い」全詳解

序章:天下統一の奔流と奥羽の動乱

天正16年(1588年)、日本は大きな歴史の転換点に立っていた。前年に九州を平定した豊臣秀吉は、その権威を名実ともに関東・奥羽へと及ぼさんと、天下統一事業の最終段階に着手していた 1 。この時期、秀吉は聚楽第への後陽成天皇の行幸を実現させ、諸大名に忠誠を誓わせるなど、巧みな政治力で国内の秩序を自身のもとに一元化しようと試みていた 2 。さらに、刀狩令を発して農民から武器を没収し、兵農分離を徹底することで、社会の安定と支配体制の強化を図っていた 4

この天下統一の総仕上げとして、秀吉が打ち出したのが「惣無事令」であった。天正15年(1587年)末、関東・奥羽の諸大名に向けて発令されたこの法令は、大名間の私的な領土紛争、すなわち「私戦」を全面的に禁じるものであった 1 。長らく「自力救済」――自らの武力で領土を守り、紛争を解決する――が常識であった戦国の世に、領土問題はすべて豊臣政権の裁定によって解決すべし、とする新たな秩序を宣言したのである。この命令に背く者は、理由の如何を問わず「成敗」、すなわち討伐の対象となる、極めて強力なものであった 7

しかし、中央で確立されつつあったこの新しい秩序は、奥羽の地には未だ完全には浸透していなかった。地理的な隔絶もさることながら、奥羽の諸大名は長年の慣習から、依然として武力による領土拡大を志向していた。秀吉は外交僧の金山宗洗らを派遣し、交渉を通じて奥羽の平定を目指してはいたが、その真意は現地の有力大名たちに完全には届いていなかったのである 8

このような中央と地方の「温度差」が最も先鋭的な形で現出したのが、天正16年8月に勃発した「十五里ヶ原の戦い」であった。この戦いは、出羽国庄内地方の覇権を巡る上杉氏と最上氏の軍事衝突という側面を持つと同時に、豊臣秀吉が構築しようとする「公儀による秩序」と、奥羽に根強く残る「自力による問題解決」という、二つの異なる価値観が激突した象ENT#201;であった。したがって、この戦いを理解するためには、単に戦場での勝敗を追うだけでなく、その背景にある政治的文脈、そして戦後の「事後処理」における外交的駆け引きこそが、軍事行動そのものと同等、あるいはそれ以上に重要な意味を持つことを認識せねばならない。本報告書で詳述する「高畠城の戦い」とは、この一連の庄内地方を巡る大規模な抗争、すなわち「十五里ヶ原の戦い」とその前後の戦役を指すものである。

第一章:庄内を巡る宿怨 ― 合戦前夜

十五里ヶ原で血が流れなければならなかった直接的な原因は、出羽国の穀倉地帯である庄内地方の領有権を巡る、長年の複雑な対立にあった。この地の支配者であった名門・大宝寺(武藤)氏は、度重なる内紛によって著しく弱体化しており、その隙を突く形で、出羽統一の野望に燃える山形城主・最上義光が介入を強めていた。

事態が大きく動いたのは、合戦前年の天正15年(1587年)のことである。最上義光は、大宝寺氏の有力家臣であった東禅寺義長と手を結び、当主である武藤義興の居城・尾浦城を攻撃した。義興は衆寡敵せず敗北し、自刃に追い込まれた(一説には山形へ送致された後、数年後に死去したともされる) 9 。これにより、庄内地方は事実上、最上氏の支配下に入り、尾浦城には最上家臣の中山玄蕃が城代として置かれることとなった 10

しかし、この最上氏による庄内制圧は、新たな火種を生むことになった。殺害された武藤義興の養子・義勝(幼名:千勝丸)は、実は越後国村上城主であり、上杉家きっての猛将として知られる本庄繁長の次男であったのである 12 。義勝は混乱の中で辛うじて庄内を脱出すると、実父である繁長の元へと逃げ延びた 11

息子の悲劇的な亡命は、繁長の心に復讐の炎を燃え上がらせた。彼は主君である上杉景勝に対し、息子の仇を討ち、庄内を奪還するための出兵を強く働きかけた。この時、上杉景勝はすでに豊臣秀吉に臣従しており、惣無事令が発令される直前の微妙な時期にあった 13 。大規模な軍事行動は、豊臣政権との関係を悪化させる極めて高い政治的リスクを伴う。しかし、隣国・最上氏の際限なき勢力拡大を座視することはできず、また家中でも特に武勇に優れた重臣・繁長の悲願を無下にはできなかった。景勝は、このリスクを承知の上で、繁長への支援を決断する 9

この一連の経緯は、十五里ヶ原の戦いが単なる大名間の領土紛争ではないことを示している。上杉家にとっては「失地回復」と「最上氏の膨張阻止」という戦略的目標があった一方で、その直接的な引き金は、本庄繁長という一人の武将の、極めて個人的な「父子の情」と「復讐心」にあった。この個人的な激情が、惣無事令違反という政治的リスクを乗り越え、数千の兵を動かす強大な原動力となったのである。戦国末期という時代の転換点において、大名の冷徹な戦略と、家臣個人の熱い情念が交差し、出羽国を揺るがす大戦へと発展していった。

第二章:十五里ヶ原の激闘 ― 合戦のリアルタイム詳解

侵攻開始(天正16年8月上旬)

天正16年(1588年)8月、報復の機会を窺っていた本庄繁長は、ついに動いた 10 。実子・大宝寺義勝を名目上の総大将に据え、上杉・大宝寺連合軍を率いて越後と出羽の国境である小国口から庄内領内へと侵攻を開始した。軍勢は険しい鬼坂峠を越えると、庄内南部の諸城、すなわち菅野代館、関根城、清水城などを次々と攻略し、破竹の勢いで庄内の中心地である尾浦城へと迫った 11 。この電撃的な侵攻は、最上方の迎撃態勢が完全に整う前に、一気呵成に中枢を叩くという明確な意図に基づいていた。

両軍の布陣と兵力分析

庄内地方の防衛責任者であった東禅寺義長(筑前守)は、この急報に接し、弟の東禅寺勝正(右馬頭)を迎撃部隊の総大将として派遣した 11 。しかし、この時の最上氏は極めて不利な状況にあった。当主の最上義光は、北の大崎氏の内紛に介入した伊達政宗と「大崎合戦」の真っ只中にあり、庄内方面に主力を割くことができなかったのである 12 。義光が庄内へ急派できた援軍は、草刈虎之助が率いるごく一部の部隊に過ぎなかった 14

両軍の兵力には、絶望的な差があった。

陣営

総大将

主要武将

推定兵力

備考

上杉・大宝寺連合軍

本庄繁長

大宝寺義勝

5,000~10,000

越後からの遠征軍。士気は高い。

最上軍

東禅寺義長、東禅寺勝正

草刈虎之助、中山玄蕃

2,500~3,000

在地勢力と一部の援軍。主力は対伊達戦線にあり。

(兵力については諸説あるが、 10 などの記述を基に構成)

この圧倒的な兵力差を前に、東禅寺兄弟は正面からの野戦を避け、地の利を活かした迎撃戦を選択した。彼らが決戦の場として選んだのは、尾浦城と大宝寺城の中間に位置する十五里ヶ原であった。この地は千安川をはじめとする複数の河川が流れる湿地帯であり、大軍の展開を妨げ、寡兵をもって大軍を防ぐにはまさにうってつけの天然の要害だったのである 9

謀略の応酬 ― 本庄繁長の「下工作」

しかし、百戦錬磨の将である本庄繁長は、単なる力押しだけに頼る愚将ではなかった。彼は軍事侵攻に先立ち、最上氏による庄内支配がまだ一年余りという政治的脆弱性を見抜いていた。そして、最上氏の支配を快く思わない庄内の在地国人衆に対し、周到な調略、すなわち内応工作を仕掛けていたのである 12 。この「下工作」こそが、戦場の地の利を無効化し、戦闘の趨勢を決定づける極めて重要な一手となった。繁長の勝因は、単に兵力で優っていたからだけではない。敵の主力が別方面に拘束されているという戦略的好機を逃さず、地の利を無力化するほどの周到な謀略を巡らせ、そして奇襲戦法を組み合わせた点に、彼の軍事的才能が遺憾なく発揮されている。

合戦の火蓋(8月中旬)

千安川を挟んで両軍が対峙し、ついに合戦の火蓋が切られた。戦闘は当初から、兵力で圧倒的に勝り、さらに内応者の協力までも得た上杉軍のペースで進んだ 12 。軍記物である『奥羽永慶軍記』などによれば、繁長は夜陰に乗じて別動隊3,000を密かに渡河させ、最上軍の背後に回り込ませるという大胆な奇襲戦法を用いたとされる 10 。この作戦が成功した背景には、内応者による手引きがあった可能性も高く、最上軍は地の利を全く活かせないまま、前後から挟撃される形となった 11

総大将の討死 ― 東禅寺義長の突撃

瞬く間に戦線は崩壊し、自軍の敗北を悟った最上軍の総大将・東禅寺義長は、この絶望的な状況を打開すべく、敵本陣への決死の突撃を敢行した。しかし、圧倒的な兵力差の前にはなす術もなく、奮戦虚しく討死を遂げた 11

壮絶なる最期 ― 東禅寺勝正の斬り込み

兄の討死の報は、弟・勝正を悲憤の狂戦士へと変えた。もはや勝利も生還も望めぬと覚悟を決めた彼は、武士として最後の名誉を懸け、単騎で本庄繁長の本陣へと突入した 12 。不意を突かれた繁長は、辛うじて太刀を受けるも、勝正の一撃は繁長の兜をこめかみから耳の下まで深く切り裂いたという 12 。この時、勝正が振るった名刀は正宗作と伝えられ、後に繁長の手に渡り「本庄正宗」として天下にその名を知られることとなる 11 。しかし、目的を果たした勝正もまた、繁長の側近たちに取り囲まれ、その場で壮絶な最期を遂げた 12

東禅寺兄弟の行動は、軍事的には無謀な玉砕に他ならない。しかし、彼らの視点に立てば、主君から預かった所領を失うという最大の屈辱を前にして、敵の大将に一矢報いることこそが、武士としての名誉を保つ唯一の道であった。彼らの壮絶な死は、個人の生死を超えて「家」と「名」を重んじる、戦国武士の苛烈な美学と責任感の表れであった。

最上勢の潰走と勝敗の決着

両大将を相次いで失った最上軍は、完全に指揮系統を喪失し、総崩れとなった。最上義光からの援軍の将であった草刈虎之助も、最後まで奮戦を続けたが、千安川のほとりで討死、あるいは自害したと伝えられる 14 。この戦いにおける最上方の死者は2,500名以上にのぼり、庄内勢は文字通り壊滅的な敗北を喫した 11

一方、山形城の最上義光は、庄内からの急報を受け、自ら大軍を率いて救援に向かったが、六十里越街道を急ぐ途中で、十五里ヶ原での壊滅的な敗報に接した。もはや手遅れと判断した義光は、悔し涙を飲んで兵を引き返すほかなかった 11

第三章:戦後の波紋と庄内の行方

戦いは戦場で終わらない。十五里ヶ原での圧勝の後、本庄繁長は庄内地方の完全掌握に向けて残党狩りを開始した。一方で、軍事的に完敗した最上義光は、戦いの舞台を戦場から中央政権へと移し、起死回生を図るための熾烈な政治闘争を開始した。

残党掃討戦 ― 朝日山城の攻防

十五里ヶ原で主力部隊が壊滅した後も、最上方の抵抗は完全には終わっていなかった。城主の池田盛周(讃岐守)や東海林兄弟といった武将たちは、朝日山城に籠城し、最後まで抵抗を続けた 19 。本庄繁長は余勢を駆ってこの朝日山城を攻撃し、これを陥落させた。この勝利によって、庄内一円は完全に上杉・大宝寺連合軍の支配下に置かれることとなった 19

政治闘争の開始 ― 最上義光の提訴

軍事力ではもはや庄内を奪還できないと悟った最上義光は、最後の望みを託し、外交・政治の舞台に活路を求めた。彼は豊臣秀吉に対し、今回の上杉軍による庄内侵攻は、秀吉自身が発令した「惣無事令」に明確に違反する不法行為であると、正式に訴え出たのである 20 。これは、自らを豊臣政権の秩序に従う「善良な大名」として、一方で上杉を秩序を破壊する「無法者」として位置づけることで、秀吉の裁定による逆転勝利を狙った、極めて巧妙な戦略であった。

上杉景勝の勝利 ― 政治的決着

しかし、この法廷闘争は、最上義光の敗訴という形で決着した 20 。天正17年(1589年)7月、本庄繁長の息子・大宝寺義勝は上洛して秀吉に拝謁を許された。その場で義勝は「出羽守」の官位と「豊臣」の姓を与えられ、庄内地方の領主として豊臣政権による正式な承認を得たのである 10 。軍事的勝利に続き、政治的にも上杉方の完全勝利が確定した瞬間であった。

この政治的決着の背景には、当時の上杉景勝と最上義光が、豊臣政権内で置かれていた立場の決定的な違いがあった。景勝は、天正14年(1586年)の段階でいち早く上洛して秀吉に臣従の意を示しており、十五里ヶ原の戦いが起きた天正16年(1588年)には従三位・参議に叙任されるなど、秀吉の信頼厚い「譜代」的な大名と見なされていた 13 。対照的に、最上義光はまだ中央とのパイプが細く、秀吉にとっては奥羽に数多いる「外様」大名の一人に過ぎなかった。

最上義光は、惣無事令という新しい「法」の正当性を盾に戦った。しかし、その法を運用する豊臣政権自体が、必ずしも法の下の平等を原則としていたわけではなかった。秀吉の視点からすれば、信頼の置ける腹心(上杉景勝)が、未だ距離のある地方大名(最上義光)の勢力を削ぎ、奥羽の安定化に貢献したと解釈する方が、政権運営上はるかに都合が良かったのである。結果として、惣無事令は絶対的な法規範としてではなく、秀吉の天下統治を円滑に進めるための政治的道具として機能した。この一件は、中央政権との関係性の近さ、すなわち「政治力」が、法的な正当性に優先するという、戦国末期の「法と政治の未分化な関係」を如実に示す事例となった。

奥羽の勢力図への影響

この一戦とその政治的決着により、最上氏は庄内地方という経済的・戦略的要地を失い、その勢力を一時的に大きく後退させることとなった 12 。この最上氏の敗北を、隣国で常に緊張関係にあった伊達政宗は歓迎し、上杉方に付いた国人へ祝辞を送っている 12 。これは、一国の敗北が隣国の利となる、奥羽の複雑な大名関係を象徴する出来事であった。

結論:戦国末期奥羽における「私戦」の終焉

十五里ヶ原の戦いは、単なる一地方の合戦にとどまらず、戦国時代の奥羽における「私戦」の時代の終わりを告げる、画期的な戦いであった。豊臣政権の公的な許可を得ずに行われたこの大規模な領土紛争とその政治的決着は、もはや武力のみで領土の帰属が決まる時代が終わり、中央政権の意向が全てを決定づける新時代の到来を、奥羽の諸大名に痛感させるに十分であった。

この戦いを彩った武将たちは、その後、それぞれ異なる道を歩む。

武名を天下に轟かせた本庄繁長は、その荒々しい気性が豊臣政権下では時に危うさもはらみ、後に一揆扇動の嫌疑をかけられるなど、波乱の後半生を送った 23。悲願であった庄内復帰を果たした大宝寺義勝も、その統治は長くは続かず、やがて来る奥州仕置の大きな波に呑み込まれていく。

一方で、この戦いで手痛い敗北を喫した最上義光は、最大の教訓を得た人物であった。軍事力だけではもはや生き残れないことを悟った彼は、この敗北を機に中央政権との関係強化に心血を注ぐようになる。その外交努力が実を結び、後の関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍の主力として活躍。その功績により、かつて失った庄内地方の奪還を含む57万石の大大名へと飛躍を遂げるのである 24

十五里ヶ原の戦いは、天正18年(1590年)の小田原征伐と、それに続く豊臣秀吉による「奥州仕置」の前哨戦であったと言える 8 。奥羽の諸大名が、否応なく豊臣政権という巨大な権力と対峙せざるを得なくなる、時代の大きな転換点を象徴する戦いとして、その歴史的意義は極めて大きい。それは、戦国の論理が終焉を迎え、近世という新たな時代の幕開けを告げる、出羽の地に響き渡った最後の鬨の声であった。

引用文献

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  2. 日本史/安土桃山時代 - ホームメイト https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/period-azuchimomoyama/
  3. 豊臣秀吉の関白就任 - ホームメイト https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/hideyoshi-kanpaku/
  4. 1587年 – 89年 九州征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1587/
  5. 全国統一を成し遂げた豊臣秀吉:社会安定化のために構造改革 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06906/
  6. ﹁惣無事﹂はあれど﹁惣無事令﹂はなし - 京都大学 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/240126/1/shirin_093_3_361.pdf
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  10. 「武士の時代 中世庄内のつわものたち」 - 酒田市 https://www.city.sakata.lg.jp/bunka/bunkazai/bunkazaishisetsu/siryoukan/kikakuten201-.files/0203.pdf
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