高遠城の戦い(1545)
天文十四年、武田晴信は信濃伊那掌握のため高遠城を攻略。高遠頼継の野心を逆手に取り、杖突峠越えの奇襲で無血開城させた。この勝利は武田氏の信濃平定を大きく前進させ、後の覇業の序曲となった。
天文十四年 高遠合戦の全貌:武田晴信、信濃伊那掌握への序曲
序章:甲斐の虎、信濃への胎動
戦国時代の日本列島が群雄割拠の様相を呈する中、甲斐国(現在の山梨県)を本拠とする武田氏は、当主・武田晴信(後の信玄)のもとで領国拡大の道を力強く歩み始めていた。天文10年(1541年)に父・信虎を追放し家督を相続した若き晴信は、その視線を北方に広がる信濃国(現在の長野県)へと注ぐ 1 。
当時の信濃は、守護である小笠原氏の権威が失墜し、北信の村上義清、東信の滋野一族、そして中信の諏訪頼重といった有力な国人領主たちが各地で勢力を競い合う、分裂状態にあった 1 。この複雑な政治情勢は、外部勢力である武田氏にとって、介入と勢力拡大の好機をもたらした。
晴信の信濃侵攻戦略において、伊那郡、特にその北部に位置する高遠は、極めて重要な地政学的価値を有していた。高遠は、武田氏がすでに影響下に置きつつあった諏訪盆地から、天竜川に沿って南へ伸びる伊那谷への入り口、すなわち「伊那口」を扼する要衝である 3 。この地を確保することは、上伊那郡一帯の支配を確立するのみならず、さらに南下して三河(愛知県東部)や遠江(静岡県西部)へ進出するための戦略的足掛かりを得ることを意味した 5 。
さらに、この軍事戦略の背後には、甲斐という内陸国が抱える経済的な脆弱性を克服するという、より長期的かつ国家経営的な視点が存在した。伊那谷は古くから「中馬」と呼ばれる駄馬による物資輸送が盛んであり、東海地方から塩や茶、魚といった生活必需品が運ばれる経済の動脈であった 7 。当時、武田氏が塩の供給を駿河の今川氏に大きく依存していたことを鑑みれば、伊那谷という新たな物流ルートを確保することは、今川氏への依存度を下げ、武田領国の経済基盤を安定させる上で死活問題であった。したがって、高遠城の攻略は、単なる領土拡張という軍事目標を超え、武田氏の国家としての生存と発展を賭けた、経済戦略と不可分の一手だったのである。
本報告書は、天文14年(1545年)に繰り広げられた武田晴信による高遠城攻略戦、すなわち「高遠合戦」の全貌を、合戦に至る背景から、戦闘のリアルタイムな経過、そしてその歴史的意義に至るまで、徹底的に詳解するものである。
第一章:遺恨の萌芽 ― 諏訪侵攻と宮川の合戦
天文14年の高遠合戦を理解するためには、その3年前に遡り、諏訪郡で繰り広げられた一連の動乱を解き明かす必要がある。この動乱の主役こそ、高遠城主・高遠頼継と、彼が深い確執を抱いていた諏訪惣領家の当主・諏訪頼重であった。
諏訪惣領家と分家・高遠氏の確執
高遠氏は、信濃国一宮である諏訪大社の大祝(おおほうり)を務めた名門・諏訪氏の一門、すなわち支流にあたる家系である 8 。高遠頼継は、諏訪惣領家の当主・諏訪頼満の娘を正室に迎えるなど、血縁的にも密接な関係にありながら 8 、常に惣領家の地位を窺う強い野心を抱いていた 9 。この惣領家と分家の間に燻る長年の対立関係が、結果として甲斐の武田晴信を信濃へ引き入れる最大の要因となった。
天文11年(1542年):諏訪頼重の滅亡
天文11年(1542年)6月、晴信は信濃侵攻の第一歩として、諏訪郡への進出を開始する。この時、高遠頼継は晴信と密約を結び、惣領家当主である諏訪頼重を東西から挟撃する共同戦線を張った 12 。頼重は、同族である頼継の裏切りによって窮地に陥り、居城の上原城を捨てて支城の桑原城へ籠城するも、武田軍の猛攻の前に降伏を余儀なくされる 12 。
当初は助命される約束であったが、頼重は甲府へ連行された後、同年7月21日に東光寺にて自刃させられ、ここに信濃の名門・諏訪惣領家は事実上滅亡した 9 。
諏訪領の分割と高遠頼継の不満
諏訪氏滅亡後、その遺領は宮川を境として、東側を武田氏が、西側を高遠氏が領有するという形で分割された 9 。頼継は念願であった諏訪の地を手に入れたが、彼の真の目的は諏訪郡全体の支配と、自らが諏訪惣領家を継承することにあった。そのため、この分割統治という結果に強い不満を抱き、協力者であったはずの武田氏への反意を募らせていく 9 。
宮川の合戦:頼継の野心と最初の挫折
同年9月、頼継はその野心を抑えきれず、福与城主の藤沢頼親ら伊那の国人衆と結託し、武田領である上原城を襲撃、諏訪上下社を占拠するという挙に出た 14 。諏訪全域の武力統一を目指したこの行動に対し、晴信は迅速かつ巧緻な対応を見せる。
晴信は、自らが後見人となるとの体裁で、滅ぼした諏訪頼重の遺児・寅王(当時生後6ヶ月)を奉じて出陣したのである 9 。この一手は、頼継の行動を「主家を裏切った上、協力者をも裏切る私欲の暴走」と断じ、自らの軍事行動を「諏訪家の正統な後継者を守り、秩序を回復するための正義の戦い」と位置づける、極めて高度な政治戦略であった。これにより、諏訪氏の旧臣たちは次々と武田方へなびき、頼継は道義的な支持を失い孤立した 15 。
天文11年(1542年)9月25日、両軍は安国寺前の宮川河畔で激突する。世に言う「宮川の合戦」である 14 。この戦いは武田方の大勝に終わり、高遠軍は頼継の弟・高遠頼宗(蓮芳軒)をはじめ700余名が討ち取られるという壊滅的な打撃を受けた 11 。頼継は辛うじて杖突峠を越え、本拠である高遠城へと敗走した。この敗北は、頼継の野心を一時的に挫くとともに、武田晴信との間にはもはや後戻りのできない決定的な亀裂を生じさせたのであった。
第二章:両将の実像 ― 武田晴信と高遠頼継
高遠合戦の主役である二人の武将、武田晴信と高遠頼継は、その器量と戦略眼において対照的な存在であった。彼らを取り巻く信濃国人衆の動向もまた、合戦の行方を左右する重要な要素であった。
武田晴信
合戦当時、晴信は25歳。家督を継いでからわずか4年であったが、諏訪攻略で見せた謀略の巧みさ、そして宮川の合戦で駆使した政治戦略は、彼が単なる勇猛な武将ではなく、冷徹なリアリズムと長期的視野を併せ持つ稀代の戦略家であることを示していた 1 。信濃の国人衆が互いに牽制しあう状況を巧みに利用し、一人ずつ着実に支配下に組み込んでいくその手法は、高遠合戦においても遺憾なく発揮されることになる。
高遠頼継
頼継は、諏訪氏一門としての自負と、惣領家に対する強い執着を原動力とする、戦国期の典型的な国人領主であった 8 。武将としての力量は決して低くなかったと見られるが 9 、その行動は常に諏訪郡という限定的な地域への固執に根差しており、信濃全域、あるいは甲斐・駿河まで含めた大局的な戦略眼を欠いていた。結果として、晴信の掌の上で踊らされ、利用された末に滅亡へと追いやられる悲劇的な末路を辿ることになる 9 。
周辺勢力
- 藤沢頼親(福与城主) : 頼継にとって最も重要な同盟者であり、上伊那における反武田勢力の中核を担った 12 。彼は信濃守護・小笠原長時の義弟という立場でもあり、その連携は武田氏にとって大きな脅威であった 12 。
- 小笠原長時(信濃守護) : 形式上は信濃国の最高権威者であったが、その支配力は府中(現在の松本市)周辺に限られ、実権を失いつつあった 20 。武田氏の侵攻に対しては、藤沢氏や高遠氏を支援する形で対抗したが、その軍事行動は常に後手に回り、信濃国人衆を糾合して一大勢力を築くには至らなかった 21 。彼ら反武田連合の連携が、いかに脆弱なものであったかが、高遠合戦の帰趨を決定づける一因となる。
第三章:戦いの舞台 ― 戦国期における高遠城と周辺地理
合戦の行方は、将の器量や兵力だけでなく、その舞台となる地形や城郭の構造によっても大きく左右される。天文14年(1545年)時点での高遠城とその周辺地理は、武田軍の戦略に決定的な影響を与えた。
高遠城の構造
高遠城は、天竜川の支流である三峰川と藤沢川の合流点に突き出すように形成された河岸段丘の先端に位置する、典型的な平山城である 22 。三方を断崖絶壁の川に囲まれ、残る一方が丘陵に続くという地形は、天然の要害と呼ぶにふさわしい 24 。
防御の要は、唯一陸続きとなっている東側であり、当時の縄張り(城の設計)も、この方面からの攻撃を主眼に置いていたと推測される。大規模な堀切(尾根を断ち切る空堀)を設けることで、敵の侵入を阻む構造であった 27 。天文14年時点では、後の武田氏による大改修(天文16年)以前の、高遠氏時代からの城郭であり、石垣を多用した近世城郭とは異なり、土塁や空堀、切岸といった土木工事を主体とした、戦国期らしい素朴かつ実践的な城であったと考えられる 27 。
戦略的隘路「杖突峠」
高遠城の運命を決定づけたのが、北方にそびえる杖突峠の存在である。この峠は、諏訪盆地と伊那谷を結ぶ最短ルート上にあり、古来より軍事上の最重要拠点とされてきた 29 。
この峠には顕著な地理的特徴がある。諏訪側から峠へ至る道は、糸魚川静岡構造線が形成した断層崖に沿っているため、極めて急峻な登り坂である。一方で、峠から伊那(高遠)側へ下る道は、比較的傾斜が緩やかであった 29 。この地形的な非対称性は、武田軍の奇襲を容易にし、高遠城の防衛を困難にする決定的な要因となった。武田軍が甲斐から諏訪を経てこの峠を越えることは、高遠城が主たる防御正面と想定していた東側ではなく、いわば「裏口」にあたる北側からその心臓部に迫ることを意味した。高遠城にとって、杖突峠は防衛線であると同時に、最大の弱点でもあったのである。
第四章:高遠城、落つ ― 合戦の時系列詳解
宮川の合戦から約2年半の雌伏期間を経て、天文14年(1545年)春、武田晴信は満を持して高遠頼継の息の根を止めるべく、再び伊那へと軍を進めた。一連の軍事行動は、周到な計画と大胆な奇襲によって、戦わずして勝敗を決するという劇的な結末を迎える。
前哨戦(天文13年秋~冬)
高遠合戦の本戦に先立つ天文13年(1544年)10月、高遠頼継は福与城主・藤沢頼親、そして信濃守護・小笠原長時と連携し、再び武田氏への反旗を翻した 21 。これに対し晴信は、福与城の支城である荒神山砦を攻撃するが、小笠原勢の頑強な抵抗に遭い、攻略に手間取る 20 。
さらに、武田軍主力が福与城に釘付けになっている隙を突き、頼継が諏訪へ侵攻する動きを見せたため、晴信は二正面作戦の不利を悟り、同年11月、冬の到来を前に一旦甲斐へと兵を引いた 12 。この武田軍の一時撤退は、頼継らに「武田を撃退した」という驕りと油断を生じさせた可能性が高い。
【本編】天文14年(1545年)春、作戦再開
雪解けを待った晴信は、前年の失敗を教訓に、より周到な作戦をもって伊那侵攻を再開する。
- 4月11日 : 晴信は、一門の穴山信友が率いる河内衆や、勇猛で知られる小山田信有の郡内衆を主力とする約7,000の軍勢を率い、甲府の躑躅ヶ崎館を出陣した 12 。『高白斎記』などの史料によれば、この出陣は終始雨の中であったとされ、この悪天候こそが、晴信の奇襲作戦の成否を分ける重要な要素となった 21 。
- 4月14日 : 武田軍は諏訪の上原城に到着 12 。ここを作戦基地とし、高遠への最終攻撃準備を整える。
- 4月15日 : 晴信は、常識的には軍事行動がためらわれる悪天候を逆手に取り、全軍に杖突峠越えを命じた 12 。降りしきる雨は、進軍の音を消し、斥候の目をくらませる天然の隠れ蓑となった。急峻な峠道を越えた武田軍は、高遠勢が全く予期していなかったタイミングと方角から、その領内深くに姿を現した。
- 4月17日 : 武田軍の電撃的な出現の報は、高遠城に衝撃と混乱をもたらした。城の主たる防御は東側に集中しており、背後である北の杖突峠から大軍が現れる事態は全くの想定外であった。さらに、峠を越えた武田軍は、高遠城と北方の福与城にいる藤沢頼親との連絡線を断ち切る絶好の位置にあり、高遠城は完全に孤立無援の状態に陥った。この戦略的敗北を悟った高遠頼継は、籠城戦という選択肢を捨て、援軍を待つことなく城を放棄して逃走した 12 。これにより、堅固なはずの高遠城は、一矢も交えることなく武田の手に落ちた。これが世に言う高遠城の「自落」である。頼継の決断は、臆病さからではなく、これ以上抵抗しても無駄であるという、冷徹な状況判断の結果であった可能性が高い。
- 4月18日 : 晴信は悠々と高遠城に入城 12 。これにより、上伊那攻略の最重要拠点を無傷で手中に収めるという、望みうる最高の戦果を挙げたのである。
高遠合戦 タイムライン(天文13年10月~14年6月)
以下に、一連の軍事行動の推移を時系列で整理する。
年月日 |
場所 |
武田軍の行動 |
高遠・藤沢・小笠原連合軍の行動 |
特記事項・結果 |
天文13年10月16日 |
諏訪・上原城 |
晴信、入城。板垣信方らと合流。 |
高遠頼継、藤沢頼親・小笠原長時と結び反攻を開始。 |
福与城を巡る前哨戦が始まる。 |
天文13年11月1日 |
伊那・荒神山砦 |
信繁軍が攻撃を開始。 |
小笠原勢が抵抗するも後退。 |
武田軍、福与城に迫るも攻めあぐねる。 |
天文13年11月8日頃 |
甲斐 |
晴信、諏訪から撤収し帰国。 |
頼継、諏訪へ進軍し武田方の屋敷を焼く。 |
武田軍の一時撤退。連合軍は勢いづく。 |
天文14年4月11日 |
甲斐・躑躅ヶ崎館 |
晴信、7千の兵を率いて出陣。 |
(甲斐の動きを察知できず) |
終始雨天であったと伝わる。 |
天文14年4月14日 |
諏訪・上原城 |
晴信、入城。 |
(武田軍の主目標を高遠と認識せず) |
作戦拠点での最終準備。 |
天文14年4月15日 |
杖突峠 |
悪天候の中、峠を越え高遠領へ奇襲。 |
不意を突かれ、防衛体制が整わず。 |
奇襲成功。高遠城は戦略的に孤立。 |
天文14年4月17日 |
信濃・高遠城 |
(攻撃準備完了) |
頼継、城を放棄し逃走。 |
高遠城、無血開城(自落)。 |
天文14年4月18日 |
信濃・高遠城 |
晴信、入城。 |
頼継、福与城の藤沢頼親を頼る。 |
武田軍、上伊那攻略の拠点を確保。 |
天文14年4月20日 |
信濃・福与城 |
高遠城から進発し、福与城を包囲。 |
頼親、小笠原長時の援軍を得て籠城。 |
残党掃討戦が開始される。 |
天文14年6月1日 |
信濃・竜ヶ崎城 |
今川援軍と合流し、竜ヶ崎城を攻撃、陥落させる。 |
福与城への救援路を断たれる。 |
連合軍の士気が著しく低下。 |
天文14年6月10日 |
信濃・福与城 |
(包囲継続) |
藤沢頼親、降伏。城は焼き払われる。 |
上伊那における反武田勢力は一掃された。 |
第五章:残党掃討 ― 福与城攻めと上伊那平定
高遠城を無血で手に入れた晴信は、休む間もなく次の標的、すなわち高遠頼継の逃亡先であり、反武田連合のもう一つの中核である福与城へと狙いを定めた。
福与城包囲戦と今川援軍
高遠城に入城したわずか2日後の4月20日、晴信は軍を福与城へ進め、これを包囲した 12 。城主・藤沢頼親は、盟友・高遠頼継を城に迎え入れ、信濃守護・小笠原長時の後詰を得て、徹底抗戦の構えを見せる。福与城は天竜川東岸の断崖上に築かれた堅城であり、城兵の士気も高く、武田軍は攻めあぐね、鎌田長門守が戦死するなど苦戦を強いられた 20 。
ここで晴信は、自軍単独での攻略は困難と判断し、同盟者である駿河の今川義元に援軍を要請するという、極めて現実的かつ戦略的な判断を下す 20 。これは、当時の武田氏がまだ信濃全域を単独で圧倒するほどの国力を有していなかったことを示すと同時に、晴信が局地的な戦闘の勝敗に固執せず、三国同盟という広域的な外交網を戦局打開のために活用できる、優れた大局観の持ち主であったことを物語っている。
5月下旬、今川の援軍が到着すると戦況は一変する。武田・今川連合軍は、福与城の重要な支城であった竜ヶ崎城を猛攻し、6月1日にこれを陥落させた 20 。
藤沢頼親の降伏と高遠頼継の末路
支城の陥落と、もはや外部からの援軍が期待できないという絶望的な状況に、福与城内の士気は急速に衰えた 20 。藤沢頼親はついに抵抗を断念し、武田方の重臣・穴山信友らを通じて和睦を申し入れる。6月10日(一説に11日)、頼親は弟を人質として差し出し降伏。福与城はその日のうちに焼き払われ、上伊那における武田氏への組織的な抵抗は、ここに終焉を迎えた 12 。
主君を失った高遠頼継もまた、藤沢頼親と共に武田氏に降伏した 33 。晴信は一旦、頼継が高遠で居住することを許したとされるが、それは信濃の国人衆を懐柔するための一時的な措置に過ぎなかった。信濃の平定が進み、もはや頼継の政治的利用価値がなくなると、天文21年(1552年)、晴信は頼継を甲府へ召喚し、自害を命じた 11 。諏訪惣領家の乗っ取りを夢見た野心家の生涯は、かつて手を組んだ男の手によって、静かに幕を閉じたのである。
終章:勝利の代償と歴史的意義
天文14年(1545年)の高遠合戦は、武田晴信の信濃平定事業における画期的な一戦であった。この勝利がもたらした影響は、単に上伊那郡一帯を支配下に置いたという領土的な成果に留まらない。
第一に、この合戦は武田氏の信濃における支配体制を大きく前進させた。高遠・福与という上伊那の二大拠点を制圧したことで、知久氏や片切氏といった伊那谷の国人衆は次々と武田氏に服属し、「伊那衆」として武田軍団の重要な一翼を担う「信濃先方衆」へと組み込まれていった 6 。これにより、武田氏は佐久、諏訪、上伊那という信濃の東部から南部にかけて広大な支配領域を確立し、その後の信濃平定事業を有利に進めるための強固な基盤を築いた。
第二に、高遠城が武田氏の信濃経営における最重要戦略拠点の一つとして生まれ変わった点である。合戦後、高遠城は伊那郡支配の中核拠点と位置づけられ 4 、天文16年(1547年)には、軍師・山本勘助の縄張りによると伝えられる大規模な改修工事が開始された 23 。これにより、高遠城はより堅固で近代的な城郭へと変貌を遂げ、以降、秋山虎繁、武田勝頼、そして武田家最後の輝きを放った仁科盛信といった、武田一門の最重要人物が城主を歴任する栄誉を担うこととなる 27 。
そして最後に、高遠合戦の勝利は、晴信が信濃平定の次なる段階へと進むための道を開いた。南方の憂いを断ち切ったことで、晴信は信濃中部の小笠原長時、そして最大のライバルとなる北信の村上義清との対決に、全戦力を集中させることが可能となった。その意味で、高遠合戦は、後の塩尻峠の戦いや上田原の戦い、そして戦国史に名高い川中島の戦いへと至る、武田信玄の覇業の序曲を奏でる、決定的な一戦であったと結論づけることができる。
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