最終更新日 2025-09-07

高野山攻め(1585)

天正十三年、羽柴秀吉は紀州征伐で根来寺を焼き、高野山に最後通牒を突きつけた。木食応其の交渉で焼き討ちは免れたが、高野山は独立を失い、天下人の秩序に組み込まれた。宗教国家の終焉を告げる戦いである。

天正十三年、紀州征伐における高野山攻めの真相 ―ある宗教国家の終焉と天下人の秩序―

序章:天下統一への最後の聖域

天正13年(1585年)、羽柴秀吉の天下統一事業は重大な局面を迎えていた。前年の天正12年(1584年)に繰り広げられた小牧・長久手の戦いは、織田信雄との単独講和、そして最大の対抗勢力であった徳川家康との和睦という形で、政治的には秀吉の優位で幕を閉じた。しかし、軍事的には決着がつかず、家康の存在は依然として秀吉の覇業における最大の懸念材料であった 1 。この状況下で、秀吉は次なる一手として、自らの本拠地である大坂の背後、紀伊国にその目を向けた。この一見、地方の制圧に過ぎない軍事行動は、実は秀吉の天下統一構想における極めて重要な戦略的布石であった。

当時の紀伊国は、中央の統制を頑なに拒み続ける、さながら「独立国家群」の様相を呈していた。高野山を祖とする新義真言宗の拠点として巨大な経済力と軍事力を誇る根来寺、最新兵器である鉄砲を駆使する傭兵集団として名を馳せた雑賀衆、そして真言宗の総本山として絶大な宗教的権威を保つ高野山金剛峰寺。これら寺社勢力と在地勢力は、それぞれが強固な地盤を持ち、中世的な自治機構を維持していた 1 。彼らは、秀吉が進める新たな天下の秩序に対する、最後の「聖域」とも言うべき存在であった。

秀吉がこの紀州を標的とした理由は、複合的かつ戦略的なものであった。第一に、直接的な軍事的脅威の排除である。小牧・長久手の戦いの際、根来・雑賀衆は家康・信雄方に呼応し、秀吉の留守を狙って和泉国の岸和田城を攻撃するなど、大坂の喉元に匕首を突きつける存在となっていた 3 。この「背後の脅威」を抜本的に取り除くことは、喫緊の課題であった。

第二に、秀吉が構築を目指す新秩序との思想的対立である。秀吉が目指したのは、武士を頂点とする中央集権的なピラミッド型の封建社会であった。これに対し、民衆が主体となって国を治める「惣国」や、治外法権を盾に権力の介入を許さない寺社勢力のあり方は、その理念と根本的に相容れないものであった 1 。彼らの存在そのものが、秀吉の天下統一の論理に対する挑戦と映ったのである。

そして第三に、目前に迫っていた四国攻めへの布石という側面である。紀伊水道を挟んで四国の長宗我部元親と連携する可能性のある紀州勢力を制圧することは、四国征伐を成功させる上で後背の安全を確保するために不可欠な戦略であった 4

このように見ていくと、この紀州征伐は、単なる地方の反抗勢力の討伐に留まらない。それは、小牧・長久手の戦いの延長線上にあり、家康の協力者を叩くことで彼を外交的に孤立させ、来るべき最終対決を有利に進めるための壮大な包囲網の一環であった。そして、本報告書が主題とする「高野山攻め」は、この紀州征伐という大きな軍事行動の最終段階に位置づけられる。それは、根来寺や雑賀衆といった軍事目標を破壊した後の「総仕上げ」であり、直接的な軍事衝突よりも、外交的恫喝による政治的・思想的制圧という側面が色濃い。本報告書は、この「高野山攻め」を紀州征伐全体の文脈の中に正確に位置づけ、その真相を時系列に沿って詳細に解き明かすことを目的とする。

第一部:紀州征伐 ― 嵐の前夜

第一章:独立武装勢力の牙城

秀吉が対峙した紀州の勢力は、それぞれが独自の強みを持つ、一筋縄ではいかない存在であった。彼らの強さと、同時に内包する脆さが、この戦いの帰趨を大きく左右することになる。

根来衆

根来寺は、高野山の大伝法院を祖とする新義真言宗の総本山であり、その寺領は72万石にも及んだとされ、大大名に匹敵する経済力を有していた 5。その富を背景に、種子島に伝来した鉄砲をいち早く導入・量産し、「根来衆」と呼ばれる強力な鉄砲僧兵集団を組織した。彼らは単なる宗教勢力ではなく、戦国時代において一大軍事産業都市を形成しており、その戦闘力は周辺の大名にとっても大きな脅威であった 2。

雑賀衆

紀ノ川の河口域を拠点とする雑賀衆は、地侍や土豪、漁民などから構成される国人一揆の連合体であり、特に鉄砲の扱いに長けた傭兵集団として全国にその名を知られていた。石山合戦においては本願寺方に与し、織田信長の大軍を長年にわたって苦しめ続けた実績を持つ 6。しかし、その内部は決して一枚岩ではなかった。有力者である鈴木氏が率いる湊衆(雑賀荘)と、土橋氏が中心となる岡衆(十ヶ郷)などの派閥が存在し、しばしば内部での対立を繰り返していた 3。この根深い内紛が、後に秀吉軍の侵攻を前にして、自壊を招く致命的な弱点となる。

高野山金剛峰寺

弘法大師空海が開いた真言密教の聖地である高野山は、他の二者とは異なり、直接的な軍事力よりもその絶大な宗教的権威を力の源泉としていた。中世以来、高野山の境内は「検断不入」の特権が認められた治外法権の地(アジール)であり、朝廷や幕府の権力ですら及ばない聖域であった 3。謀反人や罪人であっても、一度山内に逃げ込めば俗世の法から保護されるというこの思想は、すべての人間を自らの支配下に置こうとする秀吉の統一事業とは、まさに水と油の関係にあった 3。かつて、織田信長に叛旗を翻した荒木村重の残党を匿ったことで信長の激しい怒りを買い、大規模な討伐(高野攻め)を受けた歴史も、その特異な立ち位置を物語っている 3。

これら紀州の勢力は、鉄砲という先進技術と、ゲリラ戦に有利な複雑な地形という戦術的な強みを持っていた。しかし、統一された指揮系統を持たず、それぞれが独立して行動し、時には内紛さえ起こすという戦略的な弱点を抱えていた。秀吉は、この非対称性を見逃さなかった。紀州勢の局地的な戦闘力を、自軍の圧倒的な物量、統一された指揮系統、周到な外交戦略、そして水陸両面からの包囲網という、大局的な戦略で無力化する計画を立てていたのである。

第二章:秀吉のグランドデザイン

天正13年3月、秀吉は紀州の独立勢力を一掃すべく、天下人の権威を示すにふさわしい大軍を動員した。その作戦は、単なる力押しではなく、軍事、外交、兵站のすべてを緻密に組み合わせた、まさに「グランドデザイン」と呼ぶべきものであった。

動員される10万の大軍

秀吉がこの戦役に動員した兵力は、総勢10万ともいわれる未曾有の規模であった 8。これは、紀州勢の総兵力を遥かに凌駕するものであり、戦う前から相手の戦意を挫くことを意図した、政治的な示威行動でもあった。その軍団編成は、秀吉の権力構造を如実に反映している。甥の羽柴秀次を総大将格の先鋒に据え、弟の秀長を副将として中核を固めた 2。さらに、筒井定次、細川忠興、蒲生氏郷、宇喜多秀家といった、譜代から外様までの有力大名を網羅的に動員し、豊臣政権の総力を挙げての戦いであることを内外に知らしめた 3。

水陸両面からの包囲網

秀吉の作戦の巧妙さは、陸路からの侵攻だけに留まらなかった点にある。彼は開戦に先立つ2月の段階で、中国地方の毛利輝元・小早川隆景に対し、水軍を岸和田沖に派遣するよう命じている 3。これに小西行長らが率いる自身の水軍も加わり 3、紀伊国の海岸線を完全に封鎖した。これにより、紀州勢の海上からの補給や、四国への逃亡ルートを遮断し、袋の鼠にするという完璧な包囲網を敷き上げたのである。

開戦前の外交工作

圧倒的な軍事力を背景としながらも、秀吉は無用の血を流さぬよう、あるいは敵の戦力を削ぐため、開戦前から周到な外交工作を展開していた。まず、高野山の高僧であり、後に重要な役割を果たすことになる木食応其を使者として根来寺に派遣し、拡大した寺領の一部返還を条件とする和睦交渉を行った。しかし、寺内の強硬派がこれを拒絶し、応其の宿舎に鉄砲を撃ちかけるという暴挙に出たため、交渉は決裂した 3。一方で、雑賀衆に多くの門徒を持つ本願寺の顕如に働きかけ、秀吉への帰順を呼びかけさせることで、内部からの切り崩しを図った 3。さらに、紀州勢の出撃拠点となりうる和泉国の貝塚寺内に対しては、禁制(軍勢による乱暴狼藉を禁じる文書)を発してその安全を保障し、中立化させることに成功した 3。これら一連の動きは、敵を分断・孤立させ、主戦力を叩く前にその力を削ぐという、秀吉の老練な戦略眼を示している。

【表1】紀州征伐における羽柴軍の主要編成

軍団

総大将/主将

推定兵力

主要な構成武将

担当戦線

先鋒軍(和泉国境)

羽柴秀次

約30,000

堀秀政、筒井定次、細川忠興、蒲生氏郷、高山右近、中川秀政

千石堀城、積善寺城、沢城など

本隊・太田城攻囲軍

羽柴秀吉、羽柴秀長

約60,000

宇喜多秀家、増田長盛、前野長康など

根来寺制圧、雑賀掃討、太田城水攻め

紀南別動隊

仙石秀久

不明

中村一氏、小西行長、藤堂高虎、杉若無心

有田、日高、牟婁郡の平定

水軍

小早川隆景、小西行長

不明

菅達長など

紀伊水道の封鎖、海上からの支援

第二部:合戦のリアルタイム・クロノロジー

天正13年3月20日、秀吉による紀州征伐の火蓋は切られた。それは、わずか1ヶ月余りで紀州の独立勢力を屈服させる、圧倒的かつ電撃的な軍事作戦であった。以下に、その詳細な推移を日付に沿って記述する。

【表2】紀州征伐 詳細年表(天正13年3月~4月)

日付

秀吉軍の動向

紀州勢の動向

主な出来事・関連武将

3月20日

先鋒・羽柴秀次軍、貝塚に着陣。

和泉国境の城砦群(千石堀、沢、積善寺など)に籠城。

紀州勢、防衛線を構築。

3月21日

秀吉本隊、岸和田城入城。千石堀城への攻撃開始。

千石堀城兵、激しく抵抗。

筒井定次勢の活躍で千石堀城落城、秀吉は皆殺しを命令。畠中城は自焼退却。

3月22日

積善寺城、沢城への攻撃継続。

積善寺城、沢城が開城・降伏。

雑賀衆内部で岡衆が湊衆を攻撃、内紛が激化。

3月23日

秀吉本隊、根来寺へ進軍、制圧。

根来寺、組織的抵抗できず壊滅。

根来寺大炎上。粉河寺も炎上。秀吉軍先鋒が雑賀荘に侵入。

3月24日

秀吉本隊、雑賀荘へ入り、各地に放火。

雑賀衆、内紛と秀吉軍の攻撃により事実上滅亡。

土橋氏居館が包囲される。

3月25日

秀吉、紀三井寺に参詣。

太田宗正ら、太田城に籠城。

中村一氏らが降伏勧告するも、太田城方は拒否。

3月28日

太田城水攻めのための堤防築堤開始。

太田城、籠城戦を継続。

秀吉自らが総指揮を執る。

4月9日

秀吉軍の堤防が一部決壊、溺死者が出る。

籠城側は神威とみなす。

宇喜多秀家勢に被害。

4月10日

高野山に使者を派遣し、降伏を勧告。

高野山、降伏か抗戦かで動揺。

全山焼き討ちをちらつかせ恫喝。

4月16日

木食応其らが高野山代表として秀吉と面会。

高野山、全面降伏を決定。

応其の弁明により、高野山の存続が決定。

4月17日

織田信雄が雑賀の陣を訪問。

4月18日

徳川家康家臣(石川数正ら)が雑賀の陣を訪問。

4月21日

安宅船と大砲で太田城を総攻撃。

太田城兵、鉄砲で応戦。

小西行長の水軍が活躍。

4月22日

太田城、主だった者53人の首を差し出し降伏。

紀州征伐の主要な戦闘が終結。

第三章:和泉国境防衛線の崩壊(天正13年3月20日~22日)

【3月20日】

秀吉軍の先鋒、羽柴秀次率いる約3万の軍勢が大坂を発し、和泉国貝塚に着陣した 3。これに対し、根来・雑賀衆は和泉との国境沿いに築いた千石堀城、積善寺城、沢城、畠中城といった城砦群に合計9,000余の兵を配置し、第一防衛線を構築して迎え撃つ構えを見せた 2。

【3月21日】

秀吉本隊が岸和田城に入ると同時に、戦闘の火蓋が切られた 3。秀次を主将とする上方勢は、防衛線の東端にあたる千石堀城に殺到した。城兵は得意の鉄砲で猛烈に射撃し、攻め手は多数の死傷者を出す苦戦を強いられた 3。しかし、攻城軍の一角を担う筒井定次配下の中坊秀行と伊賀衆が、城の搦手(裏手)に迂回して火矢を射ち込むことに成功する。折悪しく、この火矢が城内の火薬庫に引火、大爆発を起こして城は瞬く間に炎上した 3。これが致命傷となり、千石堀城は落城。この時、秀吉は抵抗した者への見せしめとして、城内にいた非戦闘員や動物に至るまで、ことごとく皆殺しにするよう厳命を下した 3。この凄惨な報は、他の城砦の将兵の士気を著しく低下させる効果をもたらした。

【3月21日夜~22日】

千石堀城の悲劇を目の当たりにした畠中城の守兵は、戦わずして城に火を放ち退却 3。細川忠興や蒲生氏郷らが攻め寄せていた積善寺城は、貝塚御坊の住職の仲介により開城勧告を受け入れ、降伏した 2。西端の沢城でも、高山右近、中川秀政の猛攻の末、城兵は投降を申し出て開城した 2。こうして、紀州勢が頼みとした国境防衛線は、戦闘開始からわずか2日間で、もろくも崩壊したのである。

第四章:根来・雑賀の壊滅(3月23日~24日)

【3月22日】

秀吉軍の侵攻という外圧は、雑賀衆が抱える内部の亀裂を決定的にした。秀吉方に寝返った雑賀荘の岡衆が、同じ雑賀衆である湊衆を銃撃するという内紛が勃発し、雑賀荘は外部からの攻撃を受ける前に大混乱に陥った 3。

【3月23日】

国境防衛線を突破した秀吉は、岸和田を発し、目標であった根来寺へ直接進軍した。防衛線はすでに崩壊し、頼みの雑賀衆は内紛で救援どころではない。完全に孤立した根来寺は、組織的な抵抗をほとんど行えないまま、10万の大軍の前に蹂躙された。その夜、秀吉軍によって放たれた火は3日間燃え続けたといい、国宝の大塔や南大門など一部の建物を残して、一大宗教都市は灰燼に帰した 2。時を同じくして、近隣の粉河寺も炎上したと記録されている 3。

【3月24日】

根来寺を破壊した秀吉本隊は、返す刀で西進し、紀ノ川北岸を通って雑賀荘へと侵攻した。すでに内紛によって壊滅状態にあった雑賀衆に止めを刺すかのように、上方勢は各地に放火して回った。地域の大半が焼き払われ、かつて信長を苦しめた雑賀衆は、内紛による「自滅」と評されるほどの無残な形で、事実上滅亡した 2。

第五章:太田城水攻め ― 意志と水の攻防(3月25日~4月22日)

【3月25日】

雑賀衆の主力が壊滅する中、太田宗正(左近)をはじめとする残党勢力は、最後の拠点である太田城に籠城し、徹底抗戦の構えを見せた。秀吉軍から派遣された中村一氏や、かつての雑賀衆の頭領・鈴木孫一による降伏勧告も、彼らはこれを拒否した 3。

【3月28日】

堅固な太田城を力攻めすることの損害を嫌った秀吉は、かつて備中高松城攻めでも用いた水攻めを決断する。秀吉自らが総指揮を執り、弟の秀長、甥の秀次を副将に据えるという万全の体制で、城の周囲に全長約6キロメートルにも及ぶ長大な堤防の建設を開始した 2。

【4月上旬】

大工事は急ピッチで進められ、4月5日までに堤防は完成、城の周囲はたちまち巨大な湖と化した。途中、4月9日には水圧の変化で堤防の一部が決壊し、味方である宇喜多秀家勢に多数の溺死者が出るというアクシデントも発生したが、即座に修復された 2。この一連の出来事は、秀吉の圧倒的な動員力と土木技術力を天下に示すものであった。

この水攻めの最中、4月17日には小牧・長久手の戦いで秀吉と敵対した織田信雄が、翌18日には徳川家康の重臣である石川数正らが、雑賀の陣を訪れている 3 。秀吉は、あえて彼らを招き入れ、眼下で繰り広げられる壮大な水攻めの光景を見せつけた。これは単なる戦況報告ではない。「これが羽柴秀吉の戦のやり方だ。我に逆らえば、いかなる堅城もこのように水底に沈める」という、強烈な視覚的メッセージであった。特に家康に対して、国力と動員力の絶望的な差をまざまざと見せつけ、戦意を削ぐための、高度な心理戦であり、実物大の軍事デモンストレーションであったと言える。

【4月21日~22日】

籠城側が降伏しないのを見ると、秀吉は最後の総攻撃を命じた。堤防内に小西行長の水軍を引き入れ、安宅船から城内に向けて大砲を撃ちかけるという、水陸からの立体的な攻撃を展開した 3。これ以上の抵抗は不可能と悟った籠城側は、ついに抗戦を断念。4月22日、主だった者53人の首を差し出すことを条件に降伏し、約1ヶ月にわたる籠城戦は終結した 3。秀吉は、千石堀城での皆殺しという「恐怖」と、太田城での首謀者のみを処断するという「秩序」ある解決を巧みに使い分けることで、抵抗の意志そのものを粉砕し、迅速な平定を成し遂げたのである。

第六章:紀南平定戦 ― もう一つの戦線(3月下旬~4月)

太田城の水攻めが続く一方、秀吉は別動隊を紀伊国南部(有田、日高、牟婁郡)の平定へと派遣していた。仙石秀久、中村一氏、小西行長といった歴戦の将が率いるこの部隊は、紀南に割拠する在地国人衆の制圧にあたった 2

湯河氏や畠山氏といった国人衆は、当初、徹底抗戦の構えを見せた。しかし、秀吉軍は神保氏や白樫氏、玉置氏といった一部の国人を寝返らせることで、敵の内部から切り崩していく戦術をとった 3 。湯河直春は居城を自ら焼き払い、山間部でのゲリラ戦で抵抗を試みるも、衆寡敵せず敗走を余儀なくされた 3 。熊野地方では、山本氏らが一時的に上方勢を撃退するなど善戦する場面もあったが 3 、大勢を覆すには至らなかった。最終的に、新宮の堀内氏善らが秀吉方に降伏したことで、紀南における主要な抵抗は終息。4月中には、紀伊国のほぼ全域が秀吉の支配下に入ったのである 3

第三部:高野山、運命の選択

紀州の主要な武装勢力が次々と薙ぎ倒されていく中、最後に残されたのが、聖地・高野山であった。秀吉の狙いは、もはや軍事的な制圧ではなく、その精神的な権威を自らの秩序の下に屈服させることにあった。

第七章:天下人からの最後通牒(4月10日)

太田城の水攻めが佳境に入っていた4月10日、秀吉は高野山に使者を派遣し、事実上の最後通牒を突きつけた 3 。その内容は、高野山が中世以来、維持してきた特権を根底から覆す、極めて厳しいものであった。一説には、以下の三か条が示されたとされる。

  1. 寺領の没収: 高野山が有する広大な荘園をすべて没収する。
  2. 武器の所持禁止: 僧兵による武装を一切禁じる。
  3. 反逆者を匿うことの禁止: 治外法権を放棄し、天下の法に従うこと。 11

また、七か条の掟書であったとも伝わる 12 。いずれにせよ、これらの条件を拒否すれば、かつて織田信長が断行した比叡山延暦寺焼き討ちの如く、1,200年の歴史を持つ聖地であろうと容赦なく全山を焼き払うと、明確に通告した 8 。眼下で繰り広げられる根来寺の惨状と、水底に沈みゆく太田城の運命が、その脅しが単なる虚仮ではないことを、何よりも雄弁に物語っていた。

第八章:聖山の動揺と一人の僧

天下人からの最後通牒は、高野山内に激しい動揺をもたらした。秀吉に屈し、その軍門に降るか。あるいは、仏法の守護者として玉砕覚悟で一戦交えるか。山内は降伏派と抗戦派に分かれ、大混乱に陥った 11 。武装して戦うことを本分とする行人(修行僧)たちと、穏便な解決を望む学侶(学僧)たちの間で、激しい議論が交わされたであろうことは想像に難くない 13

この国家存亡の危機に際し、歴史の表舞台に登場するのが、木食応其(もくじきおうご)という一人の僧であった 8 。応其は、天文5年(1536年)に近江の武家の家に生まれ、六角氏に仕えた元武士という異色の経歴を持つ 10 。戦国の世の非情さと武家の論理を知り尽くした人物であった。天正元年(1573年)に38歳で出家し高野山に入ると、米や麦などの穀物を断つ「木食行」という極めて厳しい修行を成し遂げ、その超俗的な姿勢から山内でも聖として一目置かれる存在となっていた 11

誰もが秀吉との交渉という死地に赴くことをためらう中、応其は自ら使者の役に名乗りを上げた 11 。彼がこの困難な役目を引き受け、また周囲からも託された背景には、いくつかの説が存在する。応其が以前から秀吉、あるいはその側近である石田三成と旧知の間柄であったという説や、彼が名手であった連歌を通じた交友関係が仲立ちとなったという説である 13 。いずれにせよ、武士としての経験と、聖としての権威を併せ持つ応其こそが、この絶望的な状況を打開しうる唯一の人物であった。

第九章:交渉と帰結(4月16日)

【4月16日】

高野山の運命を一身に背負った応其は、学侶代表の良運、行人代表の空雅らと共に、高野山の重宝である文書などを携え、雑賀の宮郷に在陣中の秀吉と対面した 3。この歴史的な会見における応其の具体的な弁舌の内容を記した詳細な史料は乏しい。しかし、彼は単に命乞いをしたのではなかったと推測される。元武士である彼は、秀吉という人物の気質を理解し、卑屈な態度は逆効果であることを見抜いていたはずだ。彼は、天下人としての秀吉の度量に訴えかけ、弘法大師空海以来の聖地を保全することが、武力による支配だけでなく、徳による治世を目指す天下人にとっていかに重要であるかを説いたのではないか 8。

秀吉は、応其のその胆力と、俗世の知恵と宗教的権威を兼ね備えた人物像に深く感銘を受けた。結果、秀吉は応其の弁明を受け入れ、高野山の存続を許可したのである 3 。これにより、高野山は焼き討ちという最悪の事態を免れた。

しかし、その代償は大きかった。高野山は、武装解除と寺領の大幅な削減という厳しい条件を全面的に受け入れ、政治的・軍事的な独立国家としての地位を完全に失った 15 。だが同時に、応其の卓越した交渉術は、秀吉から寺の復興に対する支援を取り付けることにも成功した 10 。これは、高野山が独立した「宗教国家」から、天下人の庇護と統制の下にある「宗教機関」へと、その本質を変質させた歴史的な瞬間であった。

秀吉にとって、高野山を破壊することは容易であった。しかし、根来寺という「武力」の象徴を徹底的に破壊した上で、高野山という「権威」の象徴をあえて屈服させ、保護下に置くことには、より大きな政治的利益があった。これにより、秀吉は信長のような単なる破壊者というイメージを払拭し、弘法大師以来の伝統と権威をも自らの支配体制に組み込むことに成功した。後の秀吉の母・大政所の菩提寺(青巌寺)建立などは、まさにその実践である 15 。高野山の存続は、慈悲の表れなどではなく、自身の権力を宗教的権威によって補強し、聖化するための、極めて計算された戦略的投資だったのである。

終章:新たな秩序の黎明

天正13年の紀州征伐、そしてその最終局面であった高野山の降伏は、紀伊国、ひいては日本の歴史に決定的な変化をもたらした。それは、一つの時代の終わりと、新たな秩序の始まりを告げる出来事であった。

紀州征伐の後、紀伊一国は秀吉の弟である羽柴秀長に与えられ、その拠点として藤堂高虎を普請奉行に任命し、和歌山城が築城された 2 。これにより、長らく続いた寺社勢力と国人衆による中世的な自治の世界は完全に終焉を迎え、紀伊国は秀吉政権が推し進める近世的な統治体制下へと、否応なく組み込まれていったのである。

一方、高野山を救った木食応其と、それを許した秀吉の間には、奇妙な信頼関係が芽生えた。秀吉は応其の胆力と交渉能力を高く評価し、後年、諸大名の前で「高野の木食と存ずべからず、木食が高野と存ずべし(高野山があるから応其がいるのではない。応其がいるからこそ高野山は存続しているのだ)」とまで称賛したと伝えられている 13 。応其は秀吉の強力な庇護のもと、高野山の復興事業を次々と成し遂げるだけでなく、方広寺大仏殿(京の大仏)の造営といった豊臣政権の国家事業にも深く関与していくことになった 13

歴史的に見れば、この一連の出来事の意義は極めて大きい。紀州征伐、特に根来寺の物理的な破壊と高野山の政治的な屈服は、日本の歴史における宗教と権力の関係性を決定的に変えた。独自の軍事力と治外法権を背景に、寺社勢力が世俗の権力と対等、あるいはそれ以上に対峙した中世という時代は、ここに終わりを告げた。以降、宗教は国家の統制下においてその権威を認められる存在となり、天下人の秩序の中に組み込まれていく。天正13年の紀州の地で繰り広げられた戦いと交渉は、まさに戦国乱世の終焉と、近世という新たな社会の幕開けを象徴する、画期的な出来事だったのである。

引用文献

  1. 和歌山市歴史マップ 秀吉の紀州征伐2 根来焼討 | ユーミーマン奮闘記 https://ameblo.jp/ym-uraji/entry-12304935355.html
  2. 「秀吉の紀州攻め(1585年)」紀伊国陥落!信長も成せなかった、寺社共和国の終焉 https://sengoku-his.com/711
  3. 紀州征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90
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  5. 根来寺 ~秀吉に抵抗し、灰となった根来衆の本拠 | 戦国山城.com https://sengoku-yamajiro.com/archives/jiin_negoroji.html
  6. 根来衆と雑賀衆の最新兵器鉄砲の威力をいかした戦法! - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/22731/
  7. 雑賀衆 と 雑賀孫市 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/saiga.htm
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  11. 「木食応其」―高野山を滅亡の危機から救った僧― | DANAnet ... https://dananet.jp/?p=2012
  12. 1585年 – 86年 家康が秀吉に臣従 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1585/
  13. 木食応其 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E9%A3%9F%E5%BF%9C%E5%85%B6
  14. 木食応其 高野山を焼き討ちから救った男 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=1X5PuJVt4MM
  15. 高野山を救った木喰応其の交渉能力 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1361
  16. 「高野の木食」ではなく「木食の高野」と存ずべし・木食応其(橋本市・高野町ほか) https://oishikogennofumotokara.hatenablog.com/entry/2023/01/07/000000