鮫ヶ尾城の戦い(1582)
天正七年、謙信死後、養子景勝と景虎の間で御館の乱が勃発。景虎は武田勝頼の裏切りと北条氏の援軍不着で孤立。最後の砦鮫ヶ尾城で城主堀江宗親に裏切られ自刃。乱は上杉家を弱体化させ、信長の天下統一を加速させた。
鮫ヶ尾城の戦い(天正七年)-御館の乱、終焉の刻-
序章:はじめに
本報告書は、天正7年(1579年)3月に越後国(現在の新潟県)で発生した「鮫ヶ尾城の戦い」について、その背景、詳細な経過、そして歴史的意義を徹底的に分析・解説するものである。この戦いは、戦国時代の雄・上杉謙信の死後に勃発した上杉家のお家騒動「御館の乱」の最終局面であり、謙信の二人の養子、上杉景勝と上杉景虎の運命を決定づけた悲劇的な合戦として知られる。
ユーザーより当初提示された「1582年」という年代は、通説および本報告書で依拠する史料群が示す「天正7年(1579年)」に修正して論を進める 1 。この正確な年代設定は、当時急速に勢力を拡大していた織田信長や、御館の乱に深く関与した武田勝頼といった周辺大名の動向と連関させ、戦国史全体のダイナミズムの中で本件を位置づける上で不可欠である。
本報告書では、まず御館の乱の根本原因である謙信の死と二人の後継者候補の対立構造を解き明かし、次いで約一年間にわたる内乱の推移を概観する。その上で、最後の舞台となった鮫ヶ尾城の構造と戦略的重要性を詳述し、クライマックスである落城に至る数日間の攻防を、可能な限りリアルタイムに近い形で再現することを試みる。最後に、この戦いが勝者と敗者、そして戦国日本の勢力図に何をもたらしたのかを多角的に考察し、その歴史的意義を総括する。
第一章:龍の死、そして二人の後継者
御館の乱は、一人の傑出した指導者の突然の死が、いかに巨大な組織を揺るがし、内に潜む矛盾を噴出させるかを示す歴史的教訓である。その発端は、越後の龍、上杉謙信のあまりにも唐突な死であった。
1.1. 天正六年三月、軍神の急逝
天正6年(1578年)3月9日、関東への大規模な遠征を目前に控えていた上杉謙信は、本拠地である春日山城内で突如として倒れた 1 。そして、意識が戻ることのないまま、4日後の3月13日に49歳の生涯を閉じた 1 。死因は、当時の記録に「不慮の虫気」と記されており、現代医学では脳溢血などの脳血管疾患であったと推定されている 3 。
最大の問題は、生涯不犯を貫いた謙信に実子がおらず、また、二人の養子のいずれを後継者とするか、明確な遺言を残していなかったことであった 3 。この権力の空白が、越後全土を巻き込む骨肉の争いの引き金となったのである。
1.2. 血縁の甥・上杉景勝
後継者候補の一人は、上杉景勝であった。彼は謙信の実の姉である仙洞院を母に持ち、坂戸城主・長尾政景の次男として生まれた 7 。血縁の上では、景勝こそが最も正統性の高い後継者と見なされていた。
その人となりは、寡黙で剛直、生涯で一度しか笑ったことがないと伝えられるほど感情を表に出さなかったという 8 。しかしその厳格さの裏には、鉄砲玉が飛び交う陣中でも平然と眠るほどの剛胆さがあり、その統率力は家臣たちに畏怖されるほどであった 8 。彼の支持基盤は、父・政景が率いた上田長尾衆をはじめとする、謙信配下でも特に精強な譜代の家臣団であった 11 。彼らは、越後の国衆としての結束を重んじ、外部から来た景虎に対して強い警戒感を抱いていた。
1.3. 同盟の証・上杉景虎
もう一人の候補者は、上杉景虎である。彼は、関東に覇を唱えた相模の北条氏康の七男として生まれ、当初は北条三郎と名乗っていた 12 。彼の運命は、戦国大名間の外交政策によって大きく左右される。
永禄12年(1569年)、長年の敵であった上杉氏と北条氏が武田氏に対抗するために同盟(越相同盟)を結んだ際、その同盟の証として人質として越後に送られた 4 。しかし、その待遇は単なる人質ではなかった。謙信は彼を養子として迎え入れ、自らの初名である「景虎」の名を与え、さらに景勝の姉(一説には妹)を娶らせるなど、破格の厚遇をもって遇した 12 。容姿端麗で才気煥発であった景虎は、謙信からも寵愛され、その薫陶を受けて成長し、家中での期待も高かったと伝えられている 15 。
1.4. 家中の思惑と派閥形成
謙信の死後、上杉家中は速やかにこの二人の後継者候補を軸に二分された。これは単なる家督争いではなく、上杉家が今後どのような「国のかたち」を目指すべきかという、根本的な路線対立の様相を呈していた。
景勝の勝利は、越後の国衆を強固に束ねる「内向き」の、地に足のついた政権の確立を意味した。一方、景虎が勝利していれば、実家である北条氏との強力な連携を軸とする「関東志向」の、より広域的な政権が誕生していた可能性が高い。この内乱は、謙信が一代で築き上げた「関東管領」としての公的な立場と、越後の「戦国大名」としての実利的な立場のどちらを優先するのかという、上杉家のアイデンティティを巡る闘争でもあったのである。
景勝方には、斎藤朝信や直江兼続といった上杉家譜代の重臣たちが馳せ参じた 4 。彼らは血縁と地縁を重視し、北条家という外部勢力の影響が強まることを危惧した。対する景虎方には、上杉景信や北条景広、本庄秀綱といった、謙信の関東遠征などを通じて北条氏と縁が深い武将や、謙信の中央集権的な支配に不満を抱く国衆たちが味方した 4 。彼らは、北条・武田という強力な後ろ盾を持つ景虎に、自らの勢力拡大の夢を託したのである 17 。
謙信は、景勝と景虎を義兄弟とすることで、両者の融和を図り、将来的には景勝が国内統治を、外交に明るい景虎が対外関係を担うという「両頭体制」による協力統治を構想していた可能性も指摘されている 17 。しかし、この極めて繊細なパワーバランスは、謙信という絶対的な調停者の死によって、あまりにもあっけなく崩壊した。それは、彼のカリスマ性があって初めて成立する、極めて属人的な統治システムの限界を示すものであった。
人物名 |
所属派閥 |
謙信との関係 |
主要な支持基盤・役職 |
乱における結末 |
上杉景勝 |
景勝方 |
甥(実姉の子) |
上田長尾衆、斎藤朝信、直江兼続 |
勝利、上杉家当主となる |
上杉景虎 |
景虎方 |
養子(北条氏康の七男) |
上杉景信、北条景広、本庄秀綱 |
敗北、鮫ヶ尾城で自刃 |
仙洞院 |
景勝方 |
実姉 |
上杉景勝の生母 |
乱後も景勝と共に生きる |
華姫(清円院) |
景虎方 |
姪(景勝の姉妹) |
上杉景虎の正室 |
御館落城時に自害 |
上杉憲政 |
景虎方 |
養父(前関東管領) |
御館に居住 |
和平交渉中に殺害される |
武田勝頼 |
景虎方→景勝方 |
同盟者 |
甲斐・信濃の大名 |
景勝と甲越同盟を締結 |
北条氏政 |
景虎方 |
義理の兄弟(景虎の実兄) |
関東の大名 |
援軍を派遣するも雪で阻まれる |
堀江宗親 |
景虎方→景勝方 |
旗本 |
鮫ヶ尾城主 |
景虎を裏切り景勝方に寝返る |
第二章:御館の乱、越後を分かつ一年
謙信の死の直後から始まった内乱は、約一年間にわたり越後の地を血で染めた。当初は強大な後ろ盾を持つ景虎方が有利と見られていたが、景勝の迅速果断な初動と、それを支えた経済力、そして巧みな外交戦略が、戦局の天秤を徐々に、しかし確実に傾けていくことになる。
2.1. 春日山城の掌握:景勝の電光石火
謙信の死の報に接した景勝の動きは、電光石火のごとく速かった。彼は謙信の遺言であると称し、ただちに春日山城の中枢である本丸(実城)を占拠した 1 。さらに決定的だったのは、城内の金蔵を同時に掌握したことであった 1 。
この金蔵には、『甲陽軍鑑』によれば1万両、一説には2万7千両ともいわれる莫大な黄金が蓄えられていた 1 。この軍資金は、兵を募り、武器を整えるだけでなく、後の外交工作において絶大な威力を発揮することになる。景勝の初動は、軍事拠点と経済拠点を同時に押さえるという、極めて戦略的なものであった。
2.2. 御館籠城:景虎の抵抗
春日山城内で完全に先手を取られた景虎は、天正6年5月13日、前関東管領・上杉憲政が居住していた「御館」へと移り、ここを反撃の拠点とした 1 。このため、この内乱は「御館の乱」と呼ばれるようになった 22 。
当初の兵力では、景虎方は約6,000、対する景勝方は約4,000と、景虎方が優勢であったとされる 4 。加えて、実家である北条氏、その同盟者である武田氏、さらには奥州の伊達氏や蘆名氏からの支援も期待できたため、多くの者は景虎の勝利を予測していた 4 。
2.3. 戦局の天秤を動かした甲越同盟
戦況が膠着する中、景勝は起死回生の一手を打つ。春日山城で手にした黄金を元手に、甲斐の武田勝頼との外交交渉を開始したのである。当時の勝頼は、天正3年(1575年)の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に惨敗して以降、西からの圧力に苦しんでいた 19 。景勝は、この勝頼の苦境を見抜き、黄金の提供と上野国の一部割譲という破格の条件を提示し、同盟を申し入れた 19 。
天正6年6月、甲越同盟は成立する。これは景虎にとって致命的な打撃であった。最大の頼みとしていた武田軍が、敵である景勝の側に付いたからである。勝頼は当初、景虎支援を名目に越後へ出兵するが、その実態は景勝から約束された領土の接収と、景勝に有利な形での和睦調停が目的であった 1 。この勝頼の行動は、単なる機会主義的な裏切りと見るべきではない。西の織田・徳川、そして潜在的な脅威である東の北条に挟まれた勝頼にとって、上杉家との長期的な敵対は武田家の存亡に関わる問題であった。景勝からの提案は、北条との同盟を破棄する大きなリスクを冒してでも、短期的な国力の回復と、対織田戦線への集中を可能にする、当時の彼にとって最も合理的、あるいは唯一の選択肢だったのである 24 。
この外交的勝利により、景勝は背後の脅威から解放され、全戦力を越後国内の景虎方勢力の掃討に集中させることが可能となった。御館の乱の勝敗を分けたのは、純粋な軍事力ではなく、景勝が掌握した「経済力」と、それを最大限に活用した「外交力」であった。
2.4. 雪に阻まれた援軍と孤立
景虎の最後の望みは、実兄・北条氏政が送る関東からの援軍であった。氏政も弟の窮地を救うべく軍を派遣するが、越後の厳しい冬がその行く手を阻んだ。三国峠が深い雪で閉ざされ、大規模な軍勢が越後に入ることは不可能となってしまったのである 1 。
外部からの支援が完全に絶たれたことで、御館に籠る景虎方の士気は低下し、兵糧の窮乏が深刻化していった 4 。その間にも景勝方は着実に景虎方の諸城を攻略し、御館を裸城にすべく包囲網を狭めていった 1 。冬の深まりとともに、景虎の運命は暗転していく。
第三章:最後の砦、鮫ヶ尾城
御館での籠城が限界に達しつつあった景虎が、最後の望みを託した場所。それが鮫ヶ尾城であった。この城の地理的・戦略的重要性、そして戦国期の山城としての構造を理解することは、彼の最後の戦いの悲劇性を深く知る上で不可欠である。
3.1. 戦略拠点としての鮫ヶ尾城
鮫ヶ尾城は、越後の玄関口である頚城平野の南端に位置し、信濃との国境を監視する上で極めて重要な戦略拠点であった 2 。謙信の本拠地・春日山城の防衛ネットワークを構成する主要な支城の一つであり、標高約187メートル、麓からの比高差約120メートルの丘陵上に築かれていた 27 。城跡からは高田平野を一望でき、遠く春日山城も視認できることから、軍事的にいかに重要な場所であったかが窺える 26 。
3.2. 発掘調査が語る戦国の山城
近年の発掘調査により、鮫ヶ尾城の具体的な姿が明らかになっている。城の縄張り(全体構造)は、山頂の本丸を中心に、尾根筋に沿って二ノ丸、三ノ丸といった曲輪を直線的に配置し、それらを巨大な堀切や竪堀で厳重に分断する、典型的な戦国期の山城の構造を示している 26 。特に、長さ150メートルを超える長大な竪堀は、敵の侵攻を阻むための執拗なまでの防御思想を物語っている 29 。
- 本丸跡 : 城の最高所に位置し、司令塔および最終防衛ラインとしての機能を担っていた 26 。
- 二ノ丸跡 : 発掘調査により、倉庫か作業小屋とみられる掘立柱建物の跡が発見された。その周辺からは、合戦に備えて集められた投石用の「つぶて石」が大量に出土しており、ここが戦闘準備の拠点であったことがわかる 26 。
- 三ノ丸跡 : 虎口(出入口)と土塁が一体化した防御施設が確認されている。これは、虎口を突破しようとする敵兵に対し、土塁に身を隠した鉄砲隊が側面から射撃を加えるための構造であったと考えられる 26 。そして、全国的に有名になった「炭化したおにぎり」がこの場所から出土した 26 。
- 米蔵跡 : 城の北東部に位置し、古くから落城の際に焼けたとされる「焼米」が出土することで知られている 30 。
これらの考古学的遺物は、単に合戦の「結果」を物語るだけではない。「焼米」や「つぶて石」が戦闘という非日常の証であるのに対し、「炭化したおにぎり」は、名もなき兵士が束の間の休息に食べようとしていたであろう、ありふれた日常の食事そのものである。それが炭化して現代に残っているという事実は、彼の食事、ひいては彼の日常が、戦闘の勃発によっていかに突然、そして無慈悲に断ち切られたかを雄弁に物語っている。
城内のほぼ全ての地点から被熱した遺物が出土し、落城後に再利用された形跡が全く見られないことから、鮫ヶ尾城は天正7年の戦火によって完全に破壊され、その時の姿をタイムカプセルのように現代に伝えている、考古学的に極めて貴重な遺跡なのである 26 。
3.3. 城主・堀江宗親
当時、この鮫ヶ尾城を守っていたのは、堀江宗親という武将であった 33 。彼は上杉謙信の旗本とみられ、御館の乱が始まると景虎方に与し、その主力として奮戦した 1 。御館を追われ、実家の小田原を目指す景虎にとって、宗親が守る鮫ヶ尾城は、道中にある最後の味方の拠点であり、まさに最後の希望そのものであった 23 。
しかし、皮肉なことに、鮫ヶ尾城の堅固な構造そのものが、景虎の悲劇の伏線となっていた。堀切や切岸で厳重に守られたこの城は、外部からの攻撃に対しては非常に強い。だが、ひとたび城主が裏切れば、その堅固な防御施設は、籠城者を内部に閉じ込める鉄壁の「檻」へと変貌する。景虎は、堅固な城に逃げ込んだがゆえに、内部からの裏切りによって全ての逃げ道を断たれるという、最悪の結末を迎えることになるのである。
第四章:終焉への七日間-鮫ヶ尾城の攻防、リアルタイム再現
天正7年3月17日の御館陥落から、3月24日の景虎自刃まで。この七日間は、上杉景虎の短い生涯の、そして御館の乱の最終章であった。史料と現地の状況を基に、その悲劇的な一週間を時間軸に沿って再構築する。
天正七年(1579年)三月十七日:御館陥落、決死の脱出行
- 背景 : 天正7年2月1日、景勝方は御館への総攻撃を開始した 1 。景虎方の勇将・北条景広も討ち取られ、外部からの援軍も期待できない中、御館の戦況は絶望的となっていた 1 。
- 和平交渉の悲劇 : この窮状を見かねた前関東管領・上杉憲政が、景虎の嫡男・道満丸を伴い、景勝との和睦交渉に向かった。しかし、その道中で景勝方の兵によって無残にも殺害されてしまう 1 。これにより、和平への道は完全に断絶した。
- 御館炎上 : 和平交渉の破綻を受け、景勝軍は御館に最後の総攻撃を仕掛けた。館は各所から火を放たれ、炎に包まれて陥落した 1 。
- 脱出 : 阿鼻叫喚の地獄と化した御館の中で、景虎の妻・華姫(景勝の姉)は、夫を逃がすために館に留まり、時間を稼いだ 34 。景虎は、妻子の犠牲を背に、わずかな手勢を率いて御館を脱出。目指すは、実家である小田原北条氏の元であった 17 。
三月十八日~二十三日:敗走と追撃
御館を脱出した景虎一行は、雪解けの泥濘に足を取られながら、南を目指した。彼らの当面の目的地は、小田原への道中にある味方の城、堀江宗親が守る鮫ヶ尾城であった。
一方、景虎脱出の報を受けた景勝は、ただちに追討軍を編成し、その追撃を命じた。景勝軍の先鋒は、景虎一行が目指す鮫ヶ尾城へと急行し、その周辺を固めて包囲網を形成していった 17 。同時に、城主である堀江宗親に対し、降伏と寝返りを促すための調略が執拗に行われていたと考えられる 26 。
三月二十四日:悲劇の一日
-
未明~早朝
: 満身創痍の景虎一行が、ようやく鮫ヶ尾城に到着する。しかし、彼らを迎えたのは味方の温かい出迎えではなく、城を遠巻きに包囲する景勝軍の無数の篝火であった。最後の頼みの綱であった城主・堀江宗親は、既に景勝方の調略に応じていた。彼は、敗軍の将である景虎に殉じる道を選ばず、自らの家と家臣団を生き延びさせるために、主君を裏切るという苦渋の決断を下したのである
23
。
この宗親の裏切りは、個人の倫理観だけで断罪できるものではない。景虎に忠誠を尽くすことは、自らの城兵、そしてその家族を皆殺しにされることを意味した。戦国武将にとって最大の責務が「家」の存続であるとするならば、彼の選択は非情ではあるが、当時の価値観においては、一族の長として責任ある判断だったとさえ言える。宗親は、景虎を城内に迎え入れた後、頃合いを見計らって二ノ丸に火を放ち、自らの部隊を率いて城から退去したとされる 30。 - 午前 : 城内で突如として上がった火の手は、景虎に裏切りを悟らせた。信頼していた最後の味方にまで見捨てられ、堅固なはずの城は逃げ場のない檻と化した 35 。景勝軍はこの内応の狼煙を見逃さず、城への総攻撃を開始した。
- 最期の刻 : もはやこれまでと覚悟を決めた景虎は、残った妻子らと共に自刃して果てた 16 。北条氏康の子として生まれ、上杉謙信の養子となり、二つの名家の血を継ぎながら、時代の奔流に翻弄されたその生涯は、26歳という若さで幕を閉じた 16 。彼の辞世の句は伝わっていない。燃え盛る炎の中、鮫ヶ尾城はこの戦いをもって廃城となり、御館の乱は事実上の終結を迎えたのである 26 。
第五章:勝者と敗者、そして乱が遺したもの
鮫ヶ尾城の炎は、上杉景虎の命だけでなく、謙信が築き上げた強大な上杉家の威光をも焼き尽くした。この一年余りにわたる内乱は、上杉家の未来を大きく変え、さらには日本の戦国史全体の勢力図をも塗り替える、重大な転換点となった。
5.1. 勝者・上杉景勝のその後
景虎の死により、景勝は名実ともに上杉家の当主となり、越後の国主としての地位を確立した 1 。しかし、その代償はあまりにも大きかった。景虎派残党の抵抗はその後も約一年間にわたって続き、景勝はその鎮圧に忙殺されることになる 4 。
この内乱によって上杉家の国力は著しく疲弊し、かつての軍事力と経済力は大きく衰退した 38 。そして、この弱体化を見逃さなかったのが、天下統一を目前にした織田信長であった。信長は北陸方面軍を率いる柴田勝家に越後侵攻を命じ、上杉家は加賀・能登・越中といった謙信時代からの領土を次々と失っていくことになる 19 。景勝は、勝利によって家督は手にしたが、その栄光は既に色褪せ始めていた。
5.2. 乱が戦国勢力図に与えた影響
御館の乱の影響は、越後一国に留まらなかった。それは、戦国後期の勢力図を決定づけるドミノの最初の一枚であった。
- 武田家の孤立と滅亡 : 景勝との同盟を選択した武田勝頼は、長年の同盟国であった北条氏との関係を決定的に破綻させた(甲相同盟の崩壊) 13 。これにより、西の織田・徳川、東の北条という三つの大敵に完全に包囲される戦略的劣勢に陥り、天正10年(1582年)の滅亡へと繋がっていく 24 。御館の乱への介入は、武田家にとって致命的な外交的失策となったのである。
- 北条家の戦略転換 : 上杉との間の緩衝地帯であった武田を失ったことで、北条氏は織田信長との同盟に活路を見出さざるを得なくなった 13 。これは、関東の政治情勢を大きく変化させる契機となった。
- 織田信長の漁夫の利 : 上杉家の内乱による弱体化、そしてそれに端を発する武田・北条の対立は、信長の天下統一事業にとってこの上ない好機であった。謙信という東方最大の脅威が消滅し、その後継者たちが自滅していく様を、信長は静観していた。彼は直接手を下すことなく、敵対勢力が内部から崩壊していくのを待つだけで、北陸・甲信方面への進出を容易にしたのである。御館の乱は、謙信が築いた「反信長包囲網の東の砦」を自壊させ、信長の天下統一を決定的に加速させたと言える。
5.3. 現代に伝わる景虎の記憶
悲劇的な最期を遂げた貴公子・上杉景虎は、後世、多くの人々の同情と共感を集めた。自刃の地である鮫ヶ尾城跡は、現在、国指定史跡として整備され、戦国時代の山城の姿を今に伝える貴重な文化財として、多くの歴史ファンが訪れる聖地となっている 29 。
また、城跡の麓にある勝福寺には、景虎の供養塔と石像が建てられており、毎年4月29日には法要が営まれるなど、今なお地元の人々によってその霊は手厚く弔われている 27 。彼の短い生涯の物語は、権力闘争の無情さと、時代の波に翻弄された人間の悲哀を、現代に生きる我々に静かに語りかけている。
年月日(和暦/西暦) |
景勝方の動向 |
景虎方の動向 |
外部勢力(武田・北条)の動向 |
出来事の要約と意義 |
天正6年3月13日 (1578) |
- |
- |
- |
上杉謙信が急死。後継者問題が勃発。 |
天正6年3月24日 |
春日山城本丸と金蔵を掌握。 |
- |
- |
景勝が初動で軍事的・経済的優位を確保。 |
天正6年5月13日 |
- |
春日山城を退去し、御館へ入る。 |
- |
「御館の乱」が本格的に開始。 |
天正6年6月初旬 |
武田勝頼と甲越同盟を締結。 |
- |
武田 : 景勝との同盟に転じる。 |
景虎は最大の援軍を失い、戦局が大きく転換。 |
天正6年6月下旬 |
景虎方の諸城を攻略し、補給路を遮断。 |
御館への物資輸送路を断たれる。 |
武田 : 越後へ出兵し、和睦を調停。 |
景勝方が軍事的に優勢となり、景虎方は孤立。 |
天正6年10月上旬 |
- |
- |
北条 : 援軍を派遣するも、三国峠の積雪により進軍を断念。 |
景虎は外部からの支援を完全に断たれる。 |
天正7年2月1日 (1579) |
御館への総攻撃を開始。 |
北条景広が討死。 |
- |
景勝方が最終的な勝利に向け攻勢に出る。 |
天正7年3月17日 |
和平交渉に来た上杉憲政・道満丸を殺害。御館を攻略。 |
御館が炎上・陥落。景虎は鮫ヶ尾城へ敗走。 |
- |
景虎方の拠点であった御館が壊滅。 |
天正7年3月24日 |
鮫ヶ尾城を総攻撃。 |
城主・堀江宗親が裏切り、城内で自刃。 |
- |
景虎が死亡し、御館の乱は事実上終結。 |
引用文献
- 御館の乱年表 - 城址巡り - ドーン太とおでかけLOG - FC2 https://orion121sophia115.blog.fc2.com/blog-entry-4812.html
- 鮫ヶ尾城跡 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/218499
- 上杉謙信の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/33844/
- 御館の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%A4%A8%E3%81%AE%E4%B9%B1
- 上杉謙信女性説 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1%E5%A5%B3%E6%80%A7%E8%AA%AC
- 歴史・人物伝~謙信の戦い編⑯後継者争いを制した上杉景勝 - note https://note.com/mykeloz/n/ne3c96711eae9
- 軍神「上杉謙信」の後継を巡って争った2人の養子「景勝」と「景虎」の雌雄【前編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/125550
- 上杉憲政 - 長野市「信州・風林火山」特設サイト 川中島の戦い[戦いを知る] https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/tatakai/jinbutsu5.php.html
- 上杉景勝は何をした人?「家康を倒す絶好の機会だったのに痛恨の判断ミスをした」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/kagekatsu-uesugi
- 上杉景勝の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38295/
- 御館の乱 /謙信亡き後、上杉家は内乱へ… - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=nt4qziUJyHM
- 軍神「上杉謙信」の後継を巡って争った2人の養子「景勝」と「景虎」の雌雄【前編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/125550/2
- 御館の乱〜上杉景勝と景虎の謙信後継をめぐる跡目争い - 北条高時.com https://hojo-shikken.com/entry/2016/09/27/091750
- 上杉景虎 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E8%99%8E
- 上杉景虎(うえすぎ かげとら) 拙者の履歴書 Vol.392~小田原から越後へ 悲運の将 - note https://note.com/digitaljokers/n/nb7e2c92701f2
- 上杉景虎の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97918/
- 133.鮫ヶ尾城 その1 - 日本200名城バイリンガル (Japan's top 200 castles and ruins) https://jpcastles200.com/2023/03/19/133samegao01/
- 上杉謙信はなぜ景勝と景虎どちらも家督相続者に選ばなかったのか - JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/79356
- file-16 直江兼続の謎 その1~御館の乱の分岐点~ - 新潟文化物語 https://n-story.jp/topic/16/
- 第38話 武田勝頼に学ぶ(その2) - 蔵人会計事務所 https://www.c-road.jp/6column/column38.html
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- 上杉謙信の後継者・上杉景勝の生涯|秀吉の死後、家康と対立する五大老の一人【日本史人物伝】 https://serai.jp/hobby/1157376
- 戦国の血が染みた城址「鮫ヶ尾城」~御館の乱から450年、今も残る9つの遺構|たなぶん - note https://note.com/dear_pika1610/n/n20f7628f7c74
- 武力に優れ外交では凡愚の武田勝頼が打った悪手 上杉の跡目争いに首を突っ込み激しい転落人生に - 東洋経済オンライン https://toyokeizai.net/articles/-/684326?display=b
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- 春を待つ花 ~上杉景虎の妻・華姫~|鬼丸国綱 - note https://note.com/onimaru_12/n/n1dd88a438177
- 鮫ヶ尾城 ~御館の乱、決着の地~ | 城なび https://www.shiro-nav.com/castles/samegaojou
- 鮫ヶ尾城祉|妙高 - 城址巡り - ドーン太とおでかけLOG https://orion121sophia115.blog.fc2.com/blog-entry-4819.html
- 第103回「上杉景虎・謙信の後継者になり損ねた悲運の武将」 | 偉人・敗北からの教訓 - BS11+ https://vod.bs11.jp/contents/w-ijin-haiboku-kyoukun-103
- 戦国武将の相続・失敗例 上杉謙信と織田信長 https://www.kamomesouzoku.com/16075856387324