鮫ヶ浦・能代湊の戦い(1590)
鮫ヶ浦・能代湊の戦いは、1589年に安東氏宗家と分家が主導権を争った「湊合戦」。安東通季が挙兵し、安東実季の檜山城を包囲したが、実季が鉄砲を駆使し籠城。豊臣秀吉の奥州仕置で実季の勝利が追認され、秋田氏誕生へ。
天正出羽最終決戦:鮫ヶ浦・能代湊の戦い(湊合戦)の全貌 ― 安東家の内訌から奥州仕置まで
第一章:序論 ― 「鮫ヶ浦・能代湊の戦い」の歴史的特定と全体像
本報告書の主題設定
ご依頼いただいた天正18年(1590年)発生とされる「鮫ヶ浦・能代湊の戦い」は、史料を精査した結果、天正17年(1589年)に勃発した安東氏一族の内紛、すなわち「湊合戦(みなとかっせん)」または「湊騒動」と歴史学的に特定されるものである。本報告書は、この認識に基づき、当該合戦の全貌を解明する。
この特定が妥当である理由は複数存在する。第一に、合戦の主要舞台の一つである能代湊は、安東氏の一方の雄、檜山(ひやま)安東氏の拠点である檜山城の膝元に位置する港湾都市であり、合戦の地理的中心と合致する 1 。第二に、ご依頼の趣旨である「秋田沿岸の水陸拠点を巡る攻防」という点は、まさしく湊合戦の本質そのものである 2 。そして第三に、天正18年(1590年)という年は、戦闘行為そのものではなく、天下人・豊臣秀吉がこの合戦の結果を裁定し、戦後処理を行った「奥州仕置」の年である 3 。したがって、本件は天正17年の戦闘と翌18年の政治的決着を一つの連続した出来事として捉えるのが最も実像に近い。なお、「鮫ヶ浦」という地名については、特定の一次史料で合戦の中心地として言及された例は見出し難いが、能代湊から秋田湊に至る沿岸部で繰り広げられた数多の局地戦の一つを指す地域的な呼称であった可能性が考えられる。
地政学的重要性
合戦の舞台となった出羽国北部の沿岸地帯、特に雄物川河口の秋田湊(現在の秋田市土崎港)と米代川河口の能代湊は、戦国期日本海交易における最重要拠点であった。これらは後背地に広がる秋田平野の米、阿仁鉱山などに代表される鉱物資源、そして全国に名を馳せた秋田杉の集散地として、莫大な経済的利益を生み出していた 6 。さらに、北方の蝦夷地(現在の北海道)との交易ルートを独占的に支配する上でも不可欠な拠点であり、その支配権は地域の覇権を握るための絶対条件であった 7 。この抗争の根底には、単なる領地争いを超えた、北日本屈指の経済的利権を巡る熾烈な闘争という側面が存在したのである。
対立構造の再定義
本合戦の対立構造は、ご提示の「最上・安東系の攻防」という側面よりも、より根深く複雑な様相を呈している。その本質は、安東氏一族内部の二大潮流、すなわち檜山城を本拠とする宗家当主・安東実季(あんどうさねすえ)と、湊城を拠点とした分家の血を引く安東(豊島)通季(あんどうみちすえ)との間で行われた、一族の主導権を巡る最終決戦であった 1 。山形の雄・最上義光(もがみよしあき)は、この内乱の直接的な当事者ではない。しかし、当時の出羽国における最有力大名の一人として、周辺勢力に多大な影響力を行使しており、その動向は合戦の展開に間接的ながらも決定的な影響を及ぼした 11 。
時代背景
この合戦が持つ最大の歴史的意義は、豊臣秀吉による天下統一事業が最終段階に入り、全国に私的な戦闘を禁じる「惣無事令(そうぶじれい)」が発布された後に行われた、最大規模の「最後の私戦」の一つであった点にある 5 。これは、中央政権が構築しようとする新たな秩序に対し、地方の論理と長年の確執が最後に噴出した事件であった。この戦いは、単なる地方の内紛に留まらず、戦国という「実力」の時代が終わり、豊臣政権による「公儀」の時代へと移行する、まさにその転換点に発生した象徴的な出来事だったのである。通季方にとっては、中央の介入前に実力で現状を覆し、既成事実を天下人に追認させるという大きな賭けであり、実季方にとっては、この違法な攻撃を耐え抜き、中央の裁定に身を委ねることで正統性を確立するという、新時代を見据えた戦いであった。
第二章:合戦前夜 ― 分裂と統一、安東氏の権力構造
安東氏の起源と二つの潮流
湊合戦の根源を理解するためには、安東氏が内包していた分裂の歴史を遡る必要がある。安東氏は、前九年の役で滅んだ奥州の豪族・安倍氏の末裔を称し、鎌倉時代には津軽の十三湊(とさみなと)を拠点に、幕府から蝦夷管領(えぞかんれい)に任じられ、北方交易を掌握する強大な勢力を築いた 2 。しかし、室町時代に入り南部氏との抗争に敗れると、その本拠を失い、出羽国へと活動の拠点を移す。
この過程で安東氏は二つの系統に分裂する。一つは、米代川下流域の檜山(現在の能代市)に堅固な山城を築き、内陸の資源開発や蝦夷地との関係を維持した「檜山安東氏」。もう一つは、雄物川河口の湊(現在の秋田市土崎)に拠点を置き、湊の交易利権を基盤として中央の室町幕府とも独自の関係を築いた「湊安東氏」である 1 。両者は八郎潟を挟んで長らく対峙し、時には協力し、時には反目しながら、出羽北部に独自の勢力圏を形成していった。
「北天の斗星」安東愛季の登場
この百年に及ぶ分裂状態に終止符を打ったのが、檜山家に生まれた安東愛季(あんどうちかすえ)であった。智勇に優れ、「北天の斗星」とまで評された彼は、巧みな婚姻政策と養子縁組を駆使し、武力衝突を避けながら湊家を事実上吸収する形で、両安東氏の統一を成し遂げた 1 。この統一事業は、愛季個人の傑出した政治力とカリスマによって成し遂げられたものであったが、その手法は湊家の完全な解体を意味するものではなかった。むしろ、湊安東氏の独立性をある程度残したまま、檜山家の優位性を確立するという、極めて繊細なバランスの上に成り立っていた。この「不完全な統一」こそが、後の悲劇の火種となる。愛季は旧湊家家臣団や一族の不満をその威光で抑え込んでいたが、それはあくまで一時的なものに過ぎなかった。
権力の空白と後継者問題
天正15年(1587年)、内陸の戸沢氏との唐松野の戦いの陣中において、安東愛季は病により急死する 7 。あまりに突然の死であった。家督を継いだのは、愛季の嫡男・実季。しかし、その時、実季はわずか12歳の少年に過ぎなかった 17 。偉大な父の死によって生じた巨大な権力の空白と、幼い当主の登場は、これまで水面下で燻っていた不満を一気に噴出させる格好の機会となった。
反逆の旗手、安東(豊島)通季
この機を捉え、反旗を翻したのが安東(豊島)通季であった。彼は、愛季に吸収された最後の湊安東氏当主・安東茂季の嫡男であり、血統の上では湊家の正統な後継者であった 10 。従兄弟にあたる実季が、檜山・湊両家を束ねる本家の当主を継いだことに、彼は強い不満と屈辱を抱いていた 10 。愛季の統一後も豊島城主として一定の勢力を保持していた通季は、実季の若さを絶好の機会と捉え、旧湊家恩顧の国人領主たちや、父・愛季の強勢を快く思っていなかった周辺の大名たちを糾合し、失われた湊家の権力と栄光を取り戻すべく、周到に反乱の準備を進めていったのである。この動きの背景には、単なる血統や名誉の問題だけでなく、愛季による統一後、檜山家主導で進められたであろう湊の交易利権の再編に対する経済的な反発も強く作用していたと考えられる 20 。
第三章:天正十七年(1589年)、開戦への道
反実季連合の結成
安東通季の挙兵計画は、単独の反乱ではなかった。彼は安東氏の弱体化を望む周辺勢力を巧みに引き込み、一大連合軍を形成することに成功する。
- 戸沢氏・小野寺氏の動機: 仙北地方に勢力を張る戸沢氏と小野寺氏は、安東愛季の時代から、雄物川流域の支配権や内陸と湊を結ぶ交易路を巡って、安東氏と激しい抗争を繰り返してきた宿敵であった 11 。彼らにとって、安東氏の内紛は、この強大な隣人を内部から切り崩す千載一遇の好機であった。通季を支援して勝利させることで、安東氏に傀儡政権を樹立し、長年の懸案であった湊の交易利権を自勢力に有利な形で確保しようという明確な戦略的意図があったのである 2 。
- 秋田湊周辺の国人衆: 豊島氏、大平氏、八柳氏、新城氏といった、かつて湊安東氏の支配下にあった国人領主たちは、檜山家主導の新たな支配体制に強い反感を抱いていた。彼らは旧主の血を引く通季を盟主として担ぎ上げ、こぞって反乱に加担した 2 。これにより、通季方は秋田湊周辺の地理的優位性を完全に掌握し、実季方を内陸の檜山城へと追い込む態勢を整えた。
実季方の防衛体制
四面楚歌の状況に陥った若き当主・安東実季は、数少ない味方と共に徹底した籠城策でこの未曾有の危機に立ち向かうことを決意する。
- 中枢拠点・檜山城: 実季が最終防衛ラインと定めた檜山城は、標高約120メートルの丘陵に築かれた、天然の地形を巧みに利用した堅城であった 1 。大軍による包囲が困難なこの城は、少数で大軍を迎え撃つには最適の場所であった。
- 味方勢力: 実季に味方する勢力は極めて限られていた。父・愛季の時代から同盟関係にあった由利地方の赤尾津氏や羽川氏などが支持を表明したものの、彼らもまた最上氏や小野寺氏の圧力を受けており、大規模な援軍を送ることは困難な状況であった 17 。
- 軍備: 兵力で圧倒的に劣る実季方が頼みとしたのは、当時最新鋭の兵器であった鉄砲であった。数は300挺ほどと伝えられるが、これを守城戦で集中運用することで、兵力差を覆そうという明確な戦術思想があった 6 。
中央政権の影 ― 惣無事令下の緊張
この対立が激化する天正17年、豊臣秀吉の権威はすでに奥羽にも及んでいた。惣無事令は、表向きには大名間の私戦を禁じていたが、その実態は、来るべき奥州仕置を前に、各大名に自らの立場を明確にすることを迫る最後通牒でもあった 5 。通季方にとっては、秀吉の本格的な軍事介入が始まる前に短期決戦で実季を排除し、勝利という既成事実を作り上げる必要があった。一方、実季方にとっては、籠城して耐え抜くこと自体が、惣無事令を遵守する忠実な大名として、無法な反乱軍に抵抗しているという姿を天下に示す、最大の政治的アピールであった。この中央政権の存在が、両陣営の戦略に時間的な制約と政治的な駆け引きという要素を加え、合戦の様相をより複雑で激しいものにしたのである。
表1:湊合戦における両陣営の勢力比較表
項目 |
檜山方(安東実季軍) |
湊方(安東通季連合軍) |
総大将 |
安東実季(当時14歳) |
安東(豊島)通季 |
主要拠点 |
檜山城 |
湊城、豊島城 |
推定兵力 |
約800~1,000名 |
約8,000~10,000名(兵力差10倍との伝承あり 6 ) |
主要武将 |
(家臣団中心) |
豊島道季、大平氏、八柳氏、新城氏、馬場目正勝 2 |
支援勢力 |
由利衆(赤尾津氏、羽川氏など) 17 |
戸沢盛安、小野寺義道 2 |
戦略目標 |
檜山城での籠城による時間稼ぎと、豊臣政権の裁定を待つ |
実季の排除と湊・檜山両地域の完全掌握、豊臣政権による既成事実の承認 |
強み |
堅固な山城(檜山城)、鉄砲の集中運用、政治的正当性 |
圧倒的な兵力、秋田湊周辺の地理的優位、周辺大名の支援 |
この表が示すように、両陣営の力は著しく非対称であった。しかし、実季方は防御、兵器、そして政治的正当性という無形の力で、湊方の圧倒的な物量を相殺しようと試みた。この非対称性こそが、湊合戦の劇的な展開を理解する鍵となる。
第四章:合戦の時系列詳解 ― 陸と海、血戦の百五十日
湊合戦は、天正17年(1589年)2月頃の開戦から、同年8月頃の終結まで、約半年にわたって出羽国北部全域を揺るがした大乱であった。その経過は、陸戦と水上戦が複雑に絡み合い、周辺勢力の介入によって目まぐるしく変化した。
表2:湊合戦 主要関連年表
年月 |
出来事 |
天正15年(1587) |
安東愛季、陣没。安東実季(12歳)が家督継承。 |
天正17年(1589)2月頃 |
安東通季、戸沢・小野寺氏らと結び挙兵(湊合戦勃発) 12 。 |
同年 2月~3月 |
通季方、湊城を急襲。実季方は檜山城へ撤退・籠城を開始 2 。 |
同年 4月 |
南部信直、湊合戦の混乱に乗じて比内地方へ侵攻 12 。 |
同年 5月23日 |
安東実季、援軍を求める書状を発給 26 。 |
同年 2月~7月頃 |
檜山城攻防戦が激化。150日以上に及ぶ籠城戦となる 11 。能代湊、鮫ヶ浦など沿岸部でも水陸の攻防が展開。 |
同年 8月頃 |
長期戦により通季連合軍に綻びが生じ始める。実季方が反撃に転じ、勝利を収める。 |
同年 8月20日 |
前田利家、南部信直への書状で湊合戦の終結に言及 12 。 |
同年 8月以降 |
通季、敗走し戸沢氏を頼り、後に南部領へ逃れる 2 。 |
天正18年(1590) |
実季、小田原征伐に参陣し、豊臣秀吉に謁見。奥州仕置により所領を安堵される 27 。通季の再興願いは却下される 2 。 |
文禄3年(1594)頃 |
実季、秀吉より「秋田」への改姓を許される 29 。 |
【開戦:天正17年2月】電撃的奇襲と湊城の陥落
天正17年2月、安東通季は満を持して兵を挙げた。秋田湊周辺の与力国人衆と共に一斉に蜂起した通季方は、実季方の防備が整う前に電撃的に湊城を急襲し、これを占拠する 2 。不意を突かれた実季方は、湊城での無益な消耗戦を避け、中核となる兵力を温存したまま、最終防衛拠点である檜山城へと戦略的に撤退した。この迅速かつ冷静な判断が、後の絶望的な籠城戦を可能にする礎となった。
【籠城戦:2月~7月】檜山城、絶望的な防衛戦
檜山城に立て籠もった実季軍に対し、通季連合軍は10倍ともいわれる圧倒的な兵力で城を幾重にも包囲した 6 。城下を流れる「むちりき川」が血で染まったと後世に伝わるほど、攻防は熾烈を極めた 25 。しかし、実季方はわずか300挺と伝わる鉄砲を城の防御施設から効果的に運用し、狭い攻城口に殺到する敵兵に多大な損害を与え続けた 6 。力攻めを繰り返すも、堅城である檜山城を攻めあぐねた連合軍は、やがて城を包囲したまま兵糧攻めに戦術を転換。戦いは150日間、実に5ヶ月にも及ぶ長期戦の様相を呈した 2 。
【沿岸部・海上での攻防】能代湊・秋田湊の支配を巡る戦い
この内乱は、かつて日本海で威を振るった安東水軍をも二つに引き裂いた。檜山城の生命線は、日本海からの補給路であった。通季方は能代湊や秋田湊の制海権を掌握し、海からの補給を断つことで籠城する実季方を干上がらせようと試みた。一方、実季方も残存する水軍戦力を用いて、この海上封鎖を突破しようと抵抗を続けた。ご依頼の「鮫ヶ浦」での戦いとは、まさしくこの沿岸部の制海権と補給路を巡る、水陸連携した局地的な戦闘の一つであったと推測される。
【周辺戦線】支援勢力の激突と漁夫の利
戦いが長期化する中、安東氏の混乱を好機と見た第三勢力が動き出す。陸奥国三戸の南部信直は、天正17年4月、手薄になった安東領の比内地方(現在の大館市周辺)へ大軍を侵攻させ、これを占領した 12 。これは、通季方に与した戸沢氏や小野寺氏にとって、自領の背後を脅かされる計算外の事態であった。この南部氏の「火事場泥棒」的な介入は、結果的に通季連合軍の足並みを乱し、その結束を揺るがす大きな要因となった。時間は、確実に実季方に味方し始めていた。
【転換点と終結:7月~8月】攻守逆転と通季方の瓦解
5ヶ月に及ぶ長期戦は、目的も利害も異なる勢力の寄せ集めに過ぎなかった通季連合軍の結束を根底から蝕んでいった。一向に上がらない戦果への焦り、兵糧の深刻な消耗、そして南部氏の侵攻という新たな脅威を前に、戸沢氏や小野寺氏の援軍は戦意を喪失し、自領の防衛を優先して戦線から離脱し始めた。
敵の士気低下と兵力減少という絶好の機会を逃さず、実季方は城から打って出て決死の反撃に転じた。これをきっかけに通季軍は総崩れとなり、戦いは籠城側の劇的な逆転勝利で幕を閉じた 2 。大義なき連合の脆さが露呈した瞬間であった。総大将の通季はかろうじて戦場を離脱し、当初の盟友であった戸沢氏を頼ったが、最終的には南部領へと落ち延びていった 2 。
第五章:周辺勢力の動向 ― 最上義光の戦略と奥羽の地政学
湊合戦の帰趨を決定づけたのは、檜山城内の奮戦だけではない。出羽国、ひいては奥羽全体の地政学的なパワーバランスが、複雑に作用していた。その中心にいたのが、「出羽の驍将」と恐れられた最上義光であった。
「出羽の驍将」最上義光の立場
当時の最上義光は、伊達政宗との大崎合戦を経て、出羽国内における影響力の最大化を図る、まさにその途上にあった 30 。彼の最大の関心事は、庄内地方の安定化と、長年の宿敵である仙北の小野寺氏、そして戸沢氏への牽制にあった 11 。この視点から湊合戦を眺めると、義光の戦略的な立ち位置が明確になる。
湊合戦への間接的関与
義光は、湊合戦に直接的な軍事介入を行わなかった。しかし、その「不作為」こそが、彼の最も効果的な戦略であった。
- 対小野寺・戸沢戦略: 義光にとって、小野寺氏と戸沢氏は常に警戒すべき敵対勢力であった。その両者が安東氏の内紛に深入りし、兵力と国力を消耗することは、義光にとってこれ以上ない好都合な展開であった。彼が静観に徹したのは、安東氏の内乱という「他家の火事」を利用して、自らの手を汚すことなくライバルを疲弊させるという、極めて高度な地政学的判断があったからに他ならない。
- 由利衆への影響力工作: 安東、最上、小野寺といった大国の間で揺れ動く由利地方の国人衆(由利十二頭)は、義光にとって重要な戦略的緩衝地帯であった。彼は湊合戦の以前から、仁賀保氏や岩屋氏といった由利の有力者と頻繁に書状を交わし、関係を深めていた 11 。合戦の混乱に乗じ、これらの国人衆を自らの陣営に引き込むための外交工作を、水面下で活発化させていた可能性は極めて高い。
奥羽諸大名の思惑
湊合戦は、奥羽の他の有力大名たちの思惑も絡み合う、複雑な国際情勢の中で展開された。
- 伊達政宗: 当時、摺上原の戦いで蘆名氏を破り、南奥州の覇権確立に全力を注いでいた政宗にとって、北出羽の混乱は主たる関心事ではなかった。彼の視線は、会津、そして宿敵である最上氏に向けられており、安東氏の内紛は傍観するに留まった。
- 南部信直: 前述の通り、南部信直はこの合戦における最大の漁夫の利を得た勢力である。安東氏が内紛で身動きが取れない隙を突き、長年の係争地であった比内地方の奪還に成功した 12 。
このように、湊合戦は単なる一族の内訌ではなく、奥羽北部の勢力均衡を最終的に崩壊させる「最後のドミノ」であった。各勢力が豊臣秀吉による天下統一という巨大な波を前に、自らの生き残りをかけて最後の勢力圏調整を行った結果であり、湊合戦はその複雑な連鎖反応の起点となったのである。
第六章:終結と天正十八年(1590年)の奥州仕置 ― 戦後処理と新たな秩序
小田原への道
天正17年(1589年)夏の劇的な勝利の後、安東実季は息つく暇もなく、次なる戦いに臨まなければならなかった。それは、武力ではなく政治の戦いであった。天正18年(1590年)、豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして開始した小田原征伐に、実季は奥羽の他の大名たちと共に参陣する 28 。この参陣こそ、自らが勝ち取った軍事的勝利を、新たな天下人から政治的に承認してもらうための、極めて重要な行動であった。彼の真の勝利は、この時点でまだ確定してはいなかった。
豊臣政権による裁定
小田原の陣において、秀吉は奥羽の大名たちに対する大規模な領地再編、すなわち「奥州仕置」を断行する。湊合戦に関する裁定も、この場で下された。
- 実季の勝利: 秀吉は、惣無事令に違反して私戦を仕掛けた安東通季を「反逆者」と断じ、その攻撃に耐え抜いた実季を安東家の正当な当主として公式に認定した。これにより、実季は出羽国秋田郡、檜山郡、豊島郡、そして由利郡の一部にわたる広大な所領を安堵され、その地位を盤石なものとした 20 。檜山城での軍事的勝利が、小田原で政治的勝利へと昇華した瞬間であった。
- 秋田氏への改姓: この後、実季は秀吉の許可を得て、長年用いてきた安東の姓を「秋田」へと改める 20 。これは、古代より出羽国の支配者に与えられた官職名である「秋田城介(あきたじょうのすけ)」を意識したものであり、名実ともにこの地の支配者であることを内外に宣言する、象徴的な出来事であった 18 。
敗者の末路
- 安東通季の嘆願: 南部領に落ち延びた通季も、秀吉に対して家名の再興を願い出たが、一度下された裁定が覆ることはなかった。彼の訴えは却下され、歴史の表舞台から姿を消すこととなる 2 。
- 戸沢・小野寺氏への影響: 通季に加担した戸沢氏と小野寺氏も、それぞれ小田原に参陣したことで改易は免れ、所領は安堵された。しかし、この合戦で被った国力の消耗は、その後の両家の勢力拡大に少なからず影を落とした。
秀吉の裁定は、現地の複雑な事情を詳細に調査した上でのものではなく、湊合戦という私戦によって既に決着がついていた軍事的な結果を、豊臣政権の権威をもって「追認」したという側面が強い。秀吉は、現地の自律的な力学の結果を利用することで、効率的に奥羽の新たな秩序を構築したのである。この一連の出来事によって、出羽国北部の戦国時代は事実上の終焉を迎え、安東(秋田)氏を頂点とする新たな勢力図が確定した 2 。
第七章:総括 ― 湊合戦が残した歴史的意義
「鮫ヶ浦・能代湊の戦い」、すなわち湊合戦は、日本の戦国史において、いくつかの重要な歴史的意義を持つ。
第一に、これは鎌倉時代から出羽・陸奥北部に君臨してきた 安東氏の歴史における、最後の、そして最大の内乱 であった。檜山と湊という二つの潮流に分かれて長年続いてきた権力闘争は、この戦いにおける実季の勝利によって完全に終止符が打たれた。これにより、安東氏は分裂の歴史を乗り越え、強力な指導者の下に統一された戦国大名としての権力基盤を確立したのである 2 。
第二に、この合戦の勝利とそれに続く奥州仕置は、 近世大名「秋田氏」の誕生を告げる画期 であった。もし実季がこの絶望的な戦いに敗れていれば、安東氏は歴史の渦に飲み込まれ、後の常陸宍戸藩、そして陸奥三春藩へと続く秋田家の歴史も存在しなかったであろう。湊合戦は、秋田氏の輝かしい近世史のまさに原点となったのである。
そして最も重要な意義は、この戦いが 奥羽における戦国時代の終焉を象徴する事件 であったという点にある。豊臣秀吉の惣無事令という新たな秩序を無視して行われたこの大規模な私戦と、その後の厳格な裁定は、もはや地方の論理による武力抗争が許されない時代へと日本が完全に移行したことを、奥羽の諸大名に痛感させた。皮肉にも、この戦いを生き抜いた安東実季自身が後年、「豊臣秀吉により天下が統一され互いに和潤の状態になった」と秀吉の仕置を高く評価している 27 。この言葉は、湊合戦が東北地方の長きにわたる戦乱状態を終わらせる最後の一撃となり、中世的な「自力救済」の時代の終わりと、近世的な「公儀による秩序」の時代の始まりを告げる、歴史の分水嶺であったことを雄弁に物語っている。
引用文献
- ”日ノ本将軍”と謳われた安東氏が築いた「檜山城」【秋田県能代市】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/22439
- 武家家伝_秋田(安東)氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/akita_k.html
- 「奥州仕置(1590年)」秀吉の天下統一最終段階!東北平定と領土再分配の明暗 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/14
- 【入門】5分でわかる豊臣秀吉 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/560
- 【開催】奥羽再仕置430年記念プロジェクト「奥羽再仕置と南部領」 - もりおか歴史文化館 https://www.morireki.jp/info/3882/
- 安東愛季 統一後、再度起きた湊合戦と“秋田”~『秋田家文書』『奥羽永慶軍記』『六郡郡邑記』を読み解く――「東北の戦国」こぼれ話 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/9400
- 安東愛季 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%9D%B1%E6%84%9B%E5%AD%A3
- 能代市史 通史編Ⅰ 原始・古代・中世 https://www.city.noshiro.lg.jp/res/rekishi/shishi/14117
- 徳川幕府から「警戒」された北出羽の雄・秋田実季 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/46982
- 安東通季 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%9D%B1%E9%80%9A%E5%AD%A3
- 平成22年8/27 9/26 平成22年11/2 11/30 平成22年8/27 9/26 平成22年11/2 11/30 平成22年8/27 9/26 平成22年11/2 11/30 - 秋田県 https://www.pref.akita.lg.jp/uploads/public/archive_0000005160_00/H22_kikaku.pdf
- 湊合戦 - 【弘前市立弘前図書館】詳細検索 https://adeac.jp/hirosaki-lib/detailed-search?mode=text&word=%E6%B9%8A%E5%90%88%E6%88%A6
- 戦国時代に秋田を支配し能代を本拠地とした檜山安東氏【秋田県】 https://jp.neft.asia/archives/39005
- 安東氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%9D%B1%E6%B0%8F
- 【秋田県の歴史】戦国時代、"秋田"では何が起きていた? 安東氏や仙北の小野寺氏 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=2xJekU9pD2Y
- 僕のルーツ・中世への旅No15 - 無明舎出版 http://mumyosha.co.jp/ndanda/06/medieval11.html
- 湊城 ちえぞー!城行こまい http://chiezoikomai.umoretakojo.jp/tohoku/akita/minato.html
- 春陽の士1 藩主秋田氏|Web資料館|三春町歴史民俗資料館 https://www.town.miharu.fukushima.jp/soshiki/19/01-akita.html
- 安東氏関連年表~北奥羽の鎌倉時代から江戸時代 https://www4.hp-ez.com/hp/andousi/page3
- 湊騒動 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%8A%E9%A8%92%E5%8B%95
- 戸沢氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E6%B2%A2%E6%B0%8F
- 武家家伝_戸沢氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tozawa_k2.html
- 秋田の中世史~秋田県域に関東御家人が入部して戦国時代には中小領主が乱立する (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/17800/?pg=2
- 馬場目城 https://joukan.sakura.ne.jp/joukan/akita/babanome/babanome.html
- 檜山安東氏城館跡(檜山城址) | 秋田のがんばる集落応援サイト ... https://common3.pref.akita.lg.jp/genkimura/archive/contents-196/
- 安東氏関連 史料解説・史料・参考文献 https://www4.hp-ez.com/hp/andousi/page7
- 奥州仕置 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E4%BB%95%E7%BD%AE
- 三春人物誌10 円光院 - 歴史民俗資料館 https://www.town.miharu.fukushima.jp/soshiki/19/10enkouin.html
- 安東実季(あんどう さねすえ) 拙者の履歴書 Vol.153~北の海から内陸への転生 - note https://note.com/digitaljokers/n/n9c3cc60e02b0
- 「最上義光」出羽の驍勇と言われた策略家は涙もろい人情家!? - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/265