最終更新日 2025-09-04

鳥越城再攻囲(1580)

天正八年、織田信長は柴田勝家に命じ、加賀一向一揆最後の砦たる鳥越城を再攻囲。謀略と苛烈な鎮圧により、百年に及ぶ一揆の歴史は終焉を迎え、北陸は織田の支配下に置かれた。

天正加賀終焉記:鳥越城再攻囲と一向一揆百年の終焉

序章:百年の王国、落日の刻

日本の戦国時代、数多の勢力が興亡を繰り返す中で、加賀国(現在の石川県)は極めて特異な歴史を歩んでいた。文明10年(1488年)、浄土真宗本願寺教団の門徒たちが、守護大名であった富樫政親を攻め滅ぼし、以後約一世紀にわたり「百姓の持ちたる国」と称される、門徒による自治共同体を形成したのである 1 。この「王国」は、特定の武家領主による支配を拒絶し、信仰という強固な紐帯で結ばれた人々によって運営されていた。それは、中央集権的な統治体制の確立を目指す織田信長にとって、単なる敵対勢力である以上に、根絶すべき異質な統治イデオロギーそのものであった 4

元亀元年(1570年)に勃発した石山合戦は、信長と本願寺勢力との10年にも及ぶ全面戦争の始まりであった 4 。信長は、既存の権威、特に宗教勢力が政治に介入することを極度に嫌悪しており 4 、その天下布武の前に立ちはだかる最大の障壁が一向一揆であった。一向一揆の強さは、個々の戦闘能力もさることながら、死を恐れぬ信仰心と、全国に広がる門徒のネットワークに由来するものであり、この戦いを泥沼化させた。

しかし、天正8年(1580年)閏3月、長く続いた戦いは大きな転換点を迎える。正親町天皇の勅命を介した和睦が成立し、本願寺法主・顕如は石山本願寺を信長に明け渡したのである 4 。この和睦は、信長にとっては畿内を完全に掌握し、北陸をはじめとする他の戦線へ全軍事力を投入することを可能にする戦略的勝利であった。一方で、各地で信長と戦い続けてきた門徒たち、とりわけ加賀の一揆勢にとっては、本山からの梯子を外され、巨大な織田軍の前に孤立無援となる運命の分水嶺を意味していた。

この鳥越城を巡る一連の攻防は、単なる地方の城の争奪戦ではない。それは、戦国時代という変革期において、二つの相容れない統治理念―すなわち、織田信長に代表される中央集権的武家政権と、加賀一向一揆に象徴される宗教的共同体による自治―が、その存亡を賭けて激突した最後の、そして最も悲劇的な決戦であった。加賀の地で繰り広げられたこの戦いは、日本の統治体制が中世から近世へと移行する過程で、旧来の共同体がいかに暴力的に解体されていったかを物語る象徴的な出来事なのである。

第一章:白山の双璧要塞 ― 鳥越城と二曲城

織田軍の前に立ちはだかった加賀一向一揆最後の砦、鳥越城は、その地理的条件と築城技術において、決して侮りがたい戦略的価値を有していた。手取川上流の渓谷地帯、標高312メートルの山頂に位置するこの城は、加賀平野を一望できるだけでなく、山深い白山麓への入り口を扼する要衝であった 8 。さらに、大日川を挟んだ対岸には支城である二曲城が控え、両城は相互に連携し、侵入する敵に対して立体的な防衛線を形成していた 10 。この双璧の要塞こそ、山内衆と呼ばれた白山麓門徒たちの抵抗の心臓部であった。

近年の発掘調査は、これらの城郭が単なる急ごしらえの砦ではなかったことを雄弁に物語っている。鳥越城は、山頂の本丸を中心に、二の丸、後二の丸といった複数の郭が南北に連なる「連郭式」の山城であり、各郭は深い空堀や土塁、腰曲輪によって厳重に防備されていた 10 。特筆すべきは、城内で唯一、三方を石垣で固められた「枡形門」の存在である 10 。石垣を用いた虎口(城の出入り口)は、当時の最新の築城技術であり、専門的な技術者集団の関与を示唆している。

調査では、戦闘の激しさを物語る遺物も多数出土している。焼失した建物の痕跡である厚い焼土層や炭化した米、そして100点を超える鉄砲玉は、火計や銃撃戦が繰り広げられたことを示している 5 。また、甲冑の破片や、城内で発見された鍛冶工房跡、穀物貯蔵用とみられる大甕は、彼らが籠城戦を想定し、武具の整備や兵站の維持を組織的に行っていた証左である 15

これらの城塞群は、天正初年(1573年)頃、本願寺から派遣されたとされる指揮官・鈴木出羽守の指導の下、山内衆によって築かれ、白山麓一帯が要塞化されていた 8 。鳥越城と二曲城の堅固な構造、そして鉄砲の組織的運用や兵站維持能力を示す出土品の数々は、加賀一向一揆軍が単なる信仰心に駆られた「農民の反乱軍」ではなく、高度な築城技術と最新兵器を駆使する、準専門的な軍事組織であったことを証明している。彼らが有していた軍事的合理性こそ、織田の大軍を長きにわたり手こずらせた根本的な要因であったと言えよう。

第二章:分裂する信仰 ― 和平か、抗戦か

天正8年(1580年)、石山本願寺の開城という衝撃的な報せは、北陸の門徒たちに深刻な動揺と分裂をもたらした。教団の最高指導者である法主・顕如は、織田信長との和睦条件に基づき、全国の門徒に対して戦闘停止を命令。鳥越城主・鈴木出羽守と山内衆にも、織田軍への抵抗を止めるよう促す書状が送られた 5 。これは、教団全体の存続を最優先する、苦渋に満ちた現実的な政治判断であった。

しかし、この決定に真っ向から異を唱える人物がいた。顕如の長男であり、強硬な主戦派であった教如である 5 。教如は父の和睦を認めず、石山に籠もり徹底抗戦を主張した。この父子の路線対立は、本願寺内部に深刻な亀裂を生じさせ、その波紋は遠く加賀の山々にまで及んだ。鈴木出羽守と山内衆は、岐路に立たされた。遠く離れた本山の和平命令に従い、百年にわたる自治を放棄して織田の軍門に降るか。それとも、教如の檄文に応え、自らの信仰と故郷の独立を守るために最後まで戦い抜くか。

彼らの選択は、後者であった。法主からの直接命令に背くことは、教団組織の一員として極めて重大な規律違反である。それでもなお彼らが抵抗を続けたのは、顕如の和平路線を信仰への「妥協」や「堕落」と捉え、教如の徹底抗戦こそが真の門徒の道であると信じたからに他ならない。彼らの戦いは、単に織田軍に対する軍事行動であるだけでなく、本願寺内部の路線対立における「教如派」としての政治的・宗教的表明でもあった。つまり、彼らは信長と戦うと同時に、「不純な和平」を選んだ本願寺主流派の決定にも反旗を翻していたのである。

この決断は、彼らを精神的に一層強く結束させたが、同時に物理的には完全な孤立へと追い込んだ。天正8年6月、柴田勝家率いる織田軍が白山麓への侵攻を開始すると、彼らは外部からの援軍を期待できないまま、独力でこれを迎え撃つことになった 5 。鳥越城の抵抗は、自らの信仰の純粋性を守るための、殉教的な戦いとしての側面を色濃く帯びていく。その悲劇的な結末は、この信仰の純粋性と政治的孤立のジレンマによって、すでに運命づけられていたのかもしれない。

第三章:天正八年、謀略の秋 ― 鈴木出羽守の死と鳥越城陥落

天正8年(1580年)、春の和睦も束の間、加賀の地は再び戦火に包まれた。織田信長の北陸方面軍総司令官・柴田勝家は、抵抗を続ける一揆勢の完全掃討を目指し、大軍を率いて侵攻を開始した。この章では、鳥越城が陥落に至るまでの過程を、時系列に沿って詳細に追う。


表1:鳥越城再攻囲に関連する主要事象(天正8年~10年)

年月

出来事

関連人物

典拠

天正8年(1580) 3月17日

織田信長と本願寺顕如が和睦(石山合戦終結)

信長, 顕如

7

天正8年 閏3月

柴田勝家軍、第三次加賀侵攻を開始

柴田勝家

7

天正8年 閏3月14日

佐久間盛政、木越砦を陥落

佐久間盛政

7

天正8年 4月

柴田軍、金沢御坊を攻略

勝家, 盛政

2

天正8年 8月

鈴木出羽守、一度は柴田軍を撃退

鈴木出羽守

18

天正8年 秋頃

勝家の謀略により、鈴木出羽守父子が松任城で謀殺される

勝家, 鈴木出羽守

7

天正8年 11月

鳥越城落城。鈴木一族らの首級が安土で晒される

信長

7

天正9年(1581) 2月

山内衆が蜂起。鳥越・二曲両城を奪還

山内衆

7

天正9年 2月以降

佐久間盛政、蜂起を鎮圧し両城を再攻略

佐久間盛政

21

天正10年(1582) 2月

山内衆が再度蜂起

山内衆

7

天正10年 3月1日

佐久間軍が蜂起を完全鎮圧。門徒300人余りを磔刑

佐久間盛政

3

天正10年 6月2日

本能寺の変

織田信長

23


表2:織田軍と加賀一向一揆軍の比較

項目

織田軍(北陸方面軍)

加賀一向一揆軍(山内衆)

総大将

柴田勝家

鈴木出羽守

主要指揮官

佐久間盛政, 前田利家, 佐々成政

鈴木一族、地域の門徒指導者

兵力

数万規模(越前・尾張・美濃兵が中心)

数千人規模と推定

指揮系統

信長を頂点とする厳格な階層構造

本願寺を精神的支柱とするが、現場は独立性が高い

兵員の性質

武士を中心とする職業的戦闘員集団

信仰心で結束した門徒(半農半兵)が主体

主要装備

鉄砲、長槍、弓など。組織的運用。

鉄砲(雑賀衆由来の可能性)、刀、槍、農具

拠点

北ノ庄城、金沢城(攻略後)など平野部の拠点城郭

鳥越城、二曲城など山間部の要塞

戦術思想

大軍による包囲・殲滅、謀略

地の利を活かした籠城戦、ゲリラ戦

強み

圧倒的な兵力、兵站能力、統一された指揮命令

強固な信仰心と結束力、地理的知識、死を恐れない精神

弱み

山岳ゲリラ戦への不慣れ

兵力・兵站の限界、外部からの孤立


織田軍の侵攻と金沢御坊の陥落

天正8年閏3月、柴田勝家を総大将とし、佐久間盛政らを先鋒とする織田軍は、怒涛の勢いで加賀平野部を席巻した 7 。木越砦、野々市といった一揆方の拠点は次々と攻略され、4月には加賀一向一揆の政治・宗教的中心地であった金沢御坊(尾山御坊)が、勝家と盛政の猛攻の前に陥落した 2 。本拠地を失った一揆勢の指揮系統は麻痺し、残存勢力は最後の望みを託して、鈴木出羽守が守る白山麓の鳥越城へと集結していった 7

鳥越城の抵抗と柴田勝家の謀略

平野部を制圧した織田軍であったが、山間部での戦いは困難を極めた。鈴木出羽守率いる山内衆は、鳥越城・二曲城の堅固な守りと、地の利を最大限に活かした巧みな戦術で頑強に抵抗した 27 。天正8年8月には、手取川の地形を利用した一揆勢の反撃により、柴田軍は一度撃退されるという屈辱を味わっている 18

「鬼柴田」の異名を持つ猛将・柴田勝家にとって、この遅滞は許容できるものではなかった。しかし、力攻めによる損害の大きさを悟った彼は、武力による正攻法から、彼らしからぬ非情な謀略へと戦術を転換する 28 。勝家は一揆勢に和議交渉を持ちかけ、その締結場所として松任城を指定。これに応じた鈴木出羽守とその息子たちを城内に誘い込み、その場で全員を謀殺するという騙し討ちを敢行したのである 5

勝家がこのような不名誉な手段を選択したという事実は、逆説的に、鳥越城の防御力と鈴木出羽守の指揮能力が、織田軍にとって想定外の脅威であったことを証明している。軍事的に見て、鳥越城を力攻めにするコスト(兵員の損耗、時間の浪費)が、謀略という手段を取るリスクを上回っていたのである。鈴木出羽守と山内衆は、織田軍の主将に戦術転換を強いるほど、手ごわい敵であったのだ。

指揮官を失った城の末路

絶対的な指導者とその一族を一度に失った鳥越城は、急速に崩壊へと向かった。指揮系統は完全に喪失し、門徒たちの士気は地に落ちた 15 。そして天正8年11月、抵抗を続ける力も尽き果て、百年の王国の最後の砦は、ついに織田軍の手に落ちた 2 。鈴木出羽守をはじめとする指導者たちの首級19は、安土城の信長のもとへ送られ、首実検の後、無残にも城下に晒された 7 。加賀一向一揆の組織的抵抗は、ひとまずここに終止符が打たれたかに見えた。

第四章:死せる一揆、なおも戦う ― 残党蜂起と鬼玄蕃の鉄槌

鈴木出羽守の死と鳥越城の陥落は、加賀一向一揆の組織的抵抗に致命的な打撃を与えた。しかし、指導者を失い、拠点を奪われてもなお、白山麓に生きた門徒たちの信仰の炎は消えていなかった。彼らの戦いは、正規軍同士の攻城戦から、占領軍と地域住民に根差した抵抗勢力による、非対称なゲリラ戦へとその様相を変えていく。

天正九年の第一次蜂起と両城奪還

天正9年(1581年)2月、沈黙を続けていた山内衆は突如として蜂起した。彼らは織田方が城将として吉原次郎兵衛らを置いていた鳥越城と二曲城に奇襲をかけ、これを奪還するという驚くべき戦果を挙げる 5 。この蜂起の背景には、越後の上杉景勝からの武器援助など、何らかの支援があった可能性も指摘されており 5 、彼らが決して無計画に立ち上がったわけではないことを示唆している。この出来事は、抵抗運動が特定の指導者に依存するものではなく、地域社会全体に深く浸透していたことを証明するものであった。

鬼玄蕃・佐久間盛政の鉄槌

この予期せぬ反乱の報に、織田方はいち早く反応した。金沢御坊陥落後、その跡地に金沢城を築き、加賀半国の支配を任されていた佐久間盛政が、鎮圧のために直ちに出陣したのである 7 。柴田勝家の甥であり、「鬼玄蕃」「夜叉玄蕃」の異名で敵に恐れられた盛政は、勇猛果敢であるだけでなく、一向一揆との戦いにも熟練した実戦指揮官であった 22

盛政は金沢城から軍を率いて白山麓に急行し、一揆勢が立て籠もる鳥越・二曲両城に猛攻を加えた。地の利と士気に勝る一揆勢も奮戦したが、職業的戦闘集団である佐久間軍の組織的な攻撃の前に、再び両城は陥落。第一次蜂起は鎮圧された 20

天正十年の最終蜂起と完全掃討

しかし、山内衆の抵抗はこれで終わりではなかった。翌天正10年(1582年)2月、彼らは再び蜂起し、最後の抵抗を試みる 7 。織田方から見れば、これは単なる残党狩りではなく、占領地の治安を根底から揺るがす、看過できないゲリラ活動であった。この種の抵抗を根絶するためには、単に戦闘員を殺害するだけでは不十分であり、抵抗を生み出す土壌、すなわち地域コミュニティそのものを破壊する必要がある。この冷徹な認識が、佐久間盛政をさらなる苛烈な行動へと駆り立てた。

盛政は再び軍を動かし、白山麓手取川右岸の吉岡・佐良の砦などを攻略 7 。抵抗を試みた門徒たちをことごとく打ち破り、捕らえていった。天正10年3月、約一世紀にわたり加賀の地を支配した一向一揆の、最後の組織的抵抗は、こうして完全に、そして無慈悲に終焉を迎えたのである 24

第五章:手取川、赤く染まる ― 三百人磔刑の真相

天正10年(1582年)3月1日、加賀一向一揆の最後の抵抗を鎮圧した織田軍は、捕らえた門徒たちに対し、日本の戦史においても類を見ないほど苛烈な処罰を下した 7 。それは、単なる報復や見せしめという言葉では説明のつかない、計算され尽くした殲滅作戦であった。

三百人磔刑と「根絶やし」

佐久間盛政の軍に捕らえられた門徒衆300人以上は、手取川の河原へと引きずり出され、次々と磔に処せられた 3 。磔刑は、最も公開性が高く、見る者に強烈な恐怖と絶望を植え付ける処刑方法である。一人、また一人と門徒が十字架にかけられていく光景は、生き残った者たちの抵抗の意志を根こそぎ奪うに十分であった。

しかし、織田軍の残虐行為はこれに留まらなかった。抵抗の温床となった白山麓の七つの村は、文字通り「根絶やし」にされたのである 7 。家々は焼き払われ、住民は殺戮されるか、あるいは追放された。この徹底的な破壊により、これらの村々はその後3年もの間、人の住まない荒れ地と化したと伝えられている 33 。抵抗を支えてきた人的・経済的基盤は、物理的に地上から抹消された。

処罰に込められた戦略的意図

この常軌を逸した仕打ちは、織田信長政権による「政治的テロリズム」の一形態であったと分析できる。その目的は、抵抗勢力の物理的殲滅と、その支持基盤である地域社会の精神的破壊を同時に達成することにあった。山内衆の抵抗は、地域に深く根差したゲリラ的なものであったため、戦闘員だけを排除しても、いずれ新たな抵抗が生まれる可能性があった。それを防ぐには、彼らを匿い、食料や情報を提供し、精神的に支える非戦闘員を含むコミュニティ全体に、織田政権への反逆がいかなる結末を迎えるかを、最も残酷な形で示す必要があった。

この手法は、信長が比叡山延暦寺の焼き討ちや、伊勢長島一向一揆の殲滅戦で見せたものと軌を一にする。すなわち、自らの統治秩序に絶対服従しない共同体は、その信仰や文化ごと容赦なく地上から抹消するという、彼の非妥協的な統治哲学の現れであった。恐怖を政治的支配の道具として用いる冷徹な合理性に基づいたこの行動により、加賀一向一揆というイデオロギーが再生する土壌は、完全に破壊されたのである。

この悲劇は、後世に「一揆敗れて山河あり」という言葉と共に語り継がれた。現地に建てられた記念碑には、磔にされる門徒や殺された子を抱く母の姿が刻まれ、百年の王国の壮絶な終焉を静かに伝えている 25

終章:加賀平定、その後の北陸

鳥越城の壮絶な攻防と、それに続く山内衆の殲滅によって、約一世紀にわたり続いた加賀一向一揆の歴史は完全に幕を閉じた。これにより、織田信長の北陸平定事業は大きく前進し、加賀は佐久間盛政、能登は前田利家、そして越前は柴田勝家という支配体制が確立され、北陸は織田政権の強固な基盤となるはずであった 30

しかし、歴史の歯車は皮肉な方向に回転する。この加賀での最終的な勝利からわずか3ヶ月後の天正10年(1582年)6月2日、京都・本能寺において織田信長が明智光秀に討たれるという、日本史上最大級の政変が勃発したのである 23 。絶対的な支配者を失った織田政権は、瞬く間に内部崩壊を始める。

北陸を平定した勝者たちの栄光は、あまりにも短命に終わった。信長の後継者の座を巡り、羽柴秀吉との対立を深めた柴田勝家は、翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで秀吉軍に大敗。居城である越前・北ノ庄城へと敗走し、最期は妻・お市の方と共に城に火を放ち自害した 40 。そして、勝家の先鋒として一揆を殲滅し、「鬼玄蕃」と恐れられた佐久間盛政もまた、賤ヶ岳で奮戦したものの捕らえられ、斬首された 22 。彼らが血と謀略の末に手にした北陸の支配権は、幻のように消え去った。

鳥越城再攻囲という一連の出来事は、戦国時代の終焉期における、宗教を基盤とした共同体と、中央集権を目指す世俗権力との最後の、そして最も凄惨な武力衝突として歴史に刻まれている。それは、中世的な自治共同体のあり方が、近世的な統一権力によって暴力的に解体されていく過程を象徴する、悲劇的な転換点であった。山内衆の抵抗と滅亡は、新しい時代の到来が、決して平穏な移行ではなく、多くの血と涙の上に成り立っていたという、紛れもない事実を我々に突きつけている。

引用文献

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  2. 加賀一向一揆 /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/kagaikkoikki/
  3. 第34回 鳥越城 信長に抵抗した、加賀一向一揆の最後の砦 - 城びと https://shirobito.jp/article/1134
  4. 織田信長や徳川家康を苦しめた一枚岩の集団~一向一揆 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/nobunaga-versus-ikkoikki/
  5. 信長を苦しめた地・石川県白山市、徹底抗戦した一向宗門徒たち | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/12803
  6. 鳥越一向一揆歴史館パンフレット https://www.hakusan-museum.jp/com/pdf/torigoe/torigoe-pamph2019.pdf
  7. 第10回 白山麓鳥越城と加賀一向一揆の解体 - 北陸経済研究所 https://www.hokukei.or.jp/contents/pdf_exl/hokuriku-rekishi2506.pdf
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  10. 鳥越城~石川県白山市~ - 裏辺研究所「日本の城」 https://www.uraken.net/museum/castle/shiro225.html
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  38. 柴田勝家(しばた かついえ) 拙者の履歴書 Vol.15〜信長と共に北陸を制す - note https://note.com/digitaljokers/n/nc2683617fd04
  39. 柴田勝家|国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1618
  40. 柴田勝家 ― 北庄に掛けた夢とプライド - 福井市立郷土歴史博物館 https://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/tenji/tenran/katsuie.html
  41. 9.北の庄城の陥落 http://www.ibukiyama1377.sakura.ne.jp/shizugatake/4-9.html
  42. 柴田勝家(柴田勝家と城一覧)/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/22/