鶴ヶ岡城の戦い(1592)
鶴ヶ岡城の戦い(1592年)は、庄内地方を巡る最上氏と上杉氏の争奪戦の最終局面。十五里ヶ原の戦いや藤島一揆を経て、上杉氏が庄内を完全に支配下に置いた。1592年は大規模な戦闘が終息し、上杉氏による近世的統治が本格化した年である。
鶴ヶ岡城の戦い(1592)の真相:藤島一揆と上杉氏による庄内平定戦の全貌
序章:1592年、鶴ヶ岡城に戦いはあったのか
日本の戦国史において、「鶴ヶ岡城の戦い(1592年)」という名の特定の合戦は、主要な史料において明確には記録されていない。しかし、この問いは、出羽国庄内地方の支配権をめぐる一連の激しい動乱の最終局面、すなわち「庄内口の最終調整」という歴史的画期の本質を的確に捉えようとするものである。本報告書は、この問いの核心が、天正18年(1590年)から翌19年(1591年)にかけて庄内全域を揺るがした大規模な地侍・民衆蜂起である「藤島一揆」と、その鎮圧過程にあると結論づける。
1592年という年は、血を伴う大規模な軍事衝突が終息し、新たな支配者である上杉氏による統治体制が本格的に稼働し始めた年である。それは、戦乱の時代の終わりと、近世的な支配秩序の始まりを告げる象徴的な年であった。したがって、「鶴ヶ岡城の戦い」とは、単一の城をめぐる攻防戦ではなく、最上義光の侵攻から十五里ヶ原の激突、そして藤島一揆の鎮圧を経て、上杉氏の支配が確立されるまでの一連の歴史的プロセスそのものを指し示すものと解釈するのが最も妥当である。
以下の年表は、本報告書が詳述する庄内騒乱の全体像を概観するものである。
表1:庄内騒乱 年表(天正11年~文禄元年 / 1583年~1592年)
年号(西暦) |
主要な出来事 |
天正11年(1583) |
最上義光の調略により東禅寺義長らが謀反。大宝寺義氏が自害し、大宝寺氏は事実上滅亡。 |
天正15年(1587) |
最上軍、大宝寺義興を攻め自害に追い込む。義興の養子・義勝(本庄繁長の次男)は越後へ逃れる。 |
天正16年(1588) |
8月、本庄繁長・大宝寺義勝父子が上杉景勝の支援を得て庄内に侵攻。「十五里ヶ原の戦い」で最上方を破り、庄内を奪還。 |
天正18年(1590) |
7月、豊臣秀吉による「奥州仕置」開始。上杉景勝の庄内領有が公的に認められる。 8月、上杉氏による「太閤検地」が庄内で開始される。 10月、検地に反発した地侍らによる「藤島一揆」が勃発。一揆勢は藤島城に籠城。 時期不明、一揆勢の攻撃により大宝寺城(後の鶴ヶ岡城)が陥落。城番・芋川正親は敗走。 |
天正19年(1591) |
春、直江兼続が一揆鎮圧のため出陣。謀略を用いて藤島城の一揆勢を鎮圧し、庄内を再平定。 一揆扇動の嫌疑により大宝寺義勝が改易され、庄内は上杉氏の完全な直轄領となる。 |
文禄元年(1592) |
豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)開始。上杉景勝も朝鮮へ渡海。 庄内では、一揆鎮圧後の新たな統治体制(村請制など)が本格的に施行され、支配が安定化(最終調整)。 |
第一部:争乱の序曲 ― 庄内をめぐる角逐
藤島一揆に至るまでの庄内地方は、複数の勢力の野心が交錯する、まさに一触即発の火薬庫であった。出羽の内陸部から日本海への出口を求め膨張する最上義光、長年にわたり在地領主として君臨してきたものの衰退著しい大宝寺氏、そして越後から奥羽へ影響力を拡大しようとする上杉景勝。この三者の力学が、庄内をめぐる熾烈な覇権争奪戦の幕を開けることになる。
表2:庄内支配をめぐる主要人物と勢力関係図
勢力 |
主要人物 |
関係性 |
最上氏 |
最上義光 |
山形城主。庄内平野の獲得を目指す。伊達政宗の叔父。 |
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東禅寺義長(前森蔵人) |
大宝寺氏重臣であったが、義光に内応し主君を滅ぼす。十五里ヶ原で戦死。 |
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東禅寺勝正 |
義長の弟。兄と共に最上方に付く。十五里ヶ原で本庄繁長に斬りかかり討死。 |
上杉氏 |
上杉景勝 |
越後の大名。豊臣政権下で勢力を拡大し、庄内支配を狙う。 |
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直江兼続 |
景勝の執政。上杉家の内政・軍事の全権を握る。 |
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本庄繁長 |
越後村上城主。景勝の重臣。大宝寺義勝の実父。 |
大宝寺氏(武藤氏) |
大宝寺義氏 |
庄内の在地領主。東禅寺義長の謀反により自害。 |
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大宝寺義興 |
義氏の弟。最上氏に攻められ自害。 |
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大宝寺義勝 |
義興の養子。実父は本庄繁長。上杉の支援で庄内奪還を図る。 |
第一章:最上義光の野心と大宝寺氏の落日(天正11年~15年 / 1583年~1587年)
山形城を拠点とする最上義光は、一族間の内紛を制し、出羽内陸部の統一をほぼ成し遂げた戦国の梟雄であった 1 。彼の次なる野望は、最上川舟運の終着点であり、日本海交易の拠点として経済的に豊かな庄内平野を掌握することにあった 3 。
義光は武力による正面からの侵攻ではなく、まず巧みな調略をもって敵の内部を切り崩す戦法を得意とした。その標的となったのが、長年庄内を支配してきた在地領主・大宝寺氏である。当時の大宝寺氏は、当主・義氏の代にその勢威に陰りが見え始めており、家臣団の統制も緩んでいた。義光はこの機を逃さず、大宝寺氏の筆頭重臣であった前森蔵人(後の東禅寺義長)をはじめとする庄内の有力武将たちに接触し、離反を促した 5 。
天正11年(1583年)、義光の誘いに応じた東禅寺義長は、突如として主君・義氏に反旗を翻し、その居城である尾浦城を急襲した。完全に意表を突かれた義氏はなすすべもなく、城に火を放ち自害して果てた 5 。これにより、鎌倉時代以来の名門であった大宝寺氏は、家臣の裏切りによって事実上の滅亡を迎える。
その後、義氏の弟・義興が家督を継承するも、最上氏の圧力は弱まることはなかった。天正15年(1587年)、義光は東禅寺氏らと連合軍を組織し、再び庄内へ侵攻。義興もまた父祖の地を守るべく奮戦したが、衆寡敵せず自刃に追い込まれた 7 。
しかし、この時、義興の養子となっていた一人の少年が、辛うじて戦火を逃れていた。本庄繁長の次男であり、大宝寺氏の名跡を継いでいた千勝丸、後の大宝寺義勝である。彼は実父が治める越後へと落ち延びた 7 。この一人の少年の存在が、最上義光による庄内支配を盤石なものとすることを許さず、次なる大戦の火種として残り続けることとなる。
第二章:十五里ヶ原の激突(天正16年 / 1588年)
庄内を一度は手中に収めた最上義光であったが、その支配は長くは続かなかった。越後へ逃れた大宝寺義勝が、実父・本庄繁長、そしてその主君である上杉景勝という強大な後ろ盾を得て、失地回復の兵を挙げたのである 8 。この軍事行動は、天正15年(1587年)12月に豊臣秀吉が発令した惣無事令(私闘禁止令)に違反するものであったが、秀吉は義勝の庄内復帰という名分を鑑み、これを黙認したとされる 9 。
天正16年(1588年)8月、本庄繁長率いる上杉・大宝寺連合軍が庄内へと進攻を開始した。これに対し、最上方は庄内の統治を任されていた東禅寺義長・勝正兄弟と、義光が急派した猛将・草刈虎之助らが主力となって迎え撃った 6 。両軍は、現在の鶴岡市友江中野付近に広がる十五里ヶ原で対峙した。
合戦の経過は、あたかもリアルタイムで追うかのように劇的に展開した。
【開戦前夜】
数で劣る最上方は、自然の地形を活かせる十五里ヶ原に布陣し、地の利をもって大軍を迎え撃つ策を取った 6。女子供はあらかじめ山形方面へ避難させており、背水の陣で決戦に臨む覚悟であった。
【夜襲と崩壊】
戦いの雌雄を決したのは、本庄繁長の巧みな用兵であった。夜陰に乗じ、繁長は別動隊約3,000の兵に密かに川を渡らせ、最上勢の背後へと迂回させた 6。この動きを全く察知できなかった最上勢は、夜明けと共に前後から挟撃される形となり、一気に総崩れとなった。
【将の奮戦と死】
大混乱の中、最上方の将たちは壮絶な戦いぶりを見せる。まず、援軍の将・草刈虎之助が奮戦の末に討死 6。続いて、庄内における最上方の中心人物であった東禅寺義長もまた、乱戦の中で命を落とした 6。
【弟の突撃】
兄・義長の戦死を知った弟の東禅寺勝正(右馬頭)は、悲憤に駆られ、単騎で敵本陣へと突撃した。その狙いはただ一つ、敵の大将・本庄繁長の首級であった。勝正は繁長の目前まで迫ると、渾身の力で太刀を振り下ろした。一撃は繁長の兜をこめかみから耳下まで切り裂いたが、致命傷には至らず、勝正もまた繁長の側近らによって討ち取られた 7。この時、勝正が振るった刀は名物「正宗」であり、後に繁長の手に渡ったことから「本庄正宗」として天下に知られることとなる 7。
この戦いの結果、最上方は2,500人以上が討ち死にするという壊滅的な敗北を喫した 7 。最上義光自身も救援のため大軍を率いて六十里越街道を急いだが、時すでに遅く、道中で敗報に接し、無念の撤退を余儀なくされた 7 。
こうして庄内地方は再び大宝寺義勝(実質的には上杉氏)の支配下へと戻った。この戦いは、単なる軍事力の優劣が勝敗を決したわけではなかった。最上義光は調略によって庄内を一度は手に入れたが、「大宝寺氏の正統な後継者」である義勝を討ち漏らした。その結果、義勝は上杉景勝というより強大な勢力の「権威」と「軍事力」を借りるための大義名分を得ることができたのである。戦国後期の戦いにおいて、武力だけでなく、こうした政治的な正統性がいかに重要であったかを示す象徴的な一戦であった。
第二部:天下人の仕置と地侍の蜂起 ― 藤島一揆の全貌
十五里ヶ原の戦いを経て、庄内は上杉氏の間接的な支配下に入った。しかし、安息の時は長くは続かなかった。天下統一を成し遂げた豊臣秀吉による中央集権化の波が、奥羽の地にも容赦なく押し寄せたのである。全国規模で断行された「奥州仕置」と「太閤検地」は、庄内の在地社会が長年培ってきた既得権益を根底から揺るがし、大規模な武力蜂起「藤島一揆」へと発展する。この一揆こそが、利用者様の問いが指し示す「鶴ヶ岡城の戦い」の真の姿であった。
第一章:奥州仕置と太閤検地の波紋(天正18年 / 1590年)
天正18年(1590年)、小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、名実ともに関白として日本の頂点に立った。その威光は直ちに奥羽地方にも及び、同年7月から「奥州仕置」と呼ばれる大規模な領土再編が開始された 12 。この仕置において、上杉景勝による庄内地方の領有は豊臣政権によって正式に追認された 15 。
しかし、それはもはや独立した領主としての支配を意味するものではなかった。景勝は豊臣政権の代理人として、その政策を忠実に実行する義務を負ったのである。その最たるものが、全国一律の基準で土地を測量し、石高を確定させる「太閤検地」であった。同年8月、上杉氏は庄内地方においてこの検地を開始した 9 。
この検地は、単なる土地調査ではなかった。それは、土地と固く結びついてきた地侍(国人)や有力農民、そして広大な寺社領を抱える宗教勢力の伝統的な支配権を否定し、全ての土地を豊臣政権の管理下に置こうとする革命的な政策であった。検地竿が入ることは、彼らにとって先祖伝来の権益を奪われ、新たな支配者の下で年貢を納めるだけの存在へと転落することを意味した。新支配者である上杉氏に対する不満と反発は、庄内全域で急速に高まっていった 6 。
第二章:一揆の烽火と大宝寺城の陥落(天正18年10月~)
天正18年(1590年)10月、ついに検地への反発は大規模な武力蜂起へと発展した。旧大宝寺氏の重臣・土佐林氏の居城であった藤島城に地侍らが立てこもり、一揆の中心拠点となったことから、この反乱は「藤島一揆」と呼ばれる 17 。一揆の主体は、検地によって権益を失うことを恐れた地侍や農民たちであり、彼らは旧来の領主への忠誠心と土地への執着心から、固い結束を見せた 18 。
一揆の勢いは燎原の火のごとく庄内全域に広がり、上杉氏の支配拠点にも攻撃の矛先が向けられた。その最大の標的となったのが、庄内支配の要である大宝寺城(後の鶴ヶ岡城)であった。
この時、大宝寺城の城番を任されていたのは、芋川正親(親正)という武将であった 5 。彼はもともと信濃国の国人で、武田信玄に仕えていたが、武田氏滅亡後に上杉景勝を頼った外様の将である 22 。庄内の在地社会とは何ら縁もゆかりもない人物であった。
この人選が、悲劇的な結果を招く。芋川正親は城兵と共に防戦に努めたが、彼は在地社会から完全に孤立した「占領軍」の司令官に過ぎなかった。城の外は全て敵であり、兵站の補給も、外部からの情報も、援軍の期待も絶望的であった。一揆勢の猛攻の前に、城兵の士気は低下し、ついに正親は城を守りきれず、大宝寺城は一揆勢の手に落ちた 5 。庄内における上杉氏の支配体制は、発足からわずかな期間で根底から覆されるという、未曾有の危機に瀕したのである。
第三章:執政・直江兼続の出陣と鎮圧戦(天正19年 / 1591年)
庄内での大規模な反乱と、拠点である大宝寺城の陥落という報は、上杉景勝を震撼させた。この非常事態に際し、景勝は最も信頼を置く腹心、執政・直江兼続に鎮圧を命じた 24 。天正19年(1591年)春、兼続は自ら大軍を率いて庄内へと出陣した 26 。
兼続はまず、一揆勢の主力が籠城する藤島城を包囲した。しかし、藤島城は堅固な平城であり、一揆勢の抵抗も予想以上に激しく、兼続の最初の攻撃は失敗に終わる 20 。力攻めでは多大な損害を被ると判断した兼続は、戦術を冷徹な謀略へと切り替えた。
彼は一揆勢に対し、神仏への誓いを記した起請文を与えて和睦を申し入れた 26 。長期間の籠城で疲弊していた一揆勢は、この申し出を受け入れ、城を開いた。しかし、これは兼続が仕掛けた非情な罠であった。城から出てきた一揆の指導者たちは、その場で捕らえられ、ことごとく処刑されたと伝わる 20 。
指導者を失った一揆勢は統制を失い、瓦解した。兼続はこの機を逃さず、一揆に加担した地侍や、その精神的支柱であった羽黒山などの寺社勢力を徹底的に弾圧し、抵抗する者は老若男女を問わず殲滅したとも言われる 21 。この過酷な鎮圧により、庄内全域は再び上杉氏の支配下に置かれた。
兼続のこの対応は、彼が単なる勇将ではなく、目的のためには手段を選ばない冷徹な政治家であったことを示している。この恐怖による支配の徹底は、その後の上杉氏による安定統治の礎となった一方で、隣国の最上義光に「上杉は信じるに足らず」という強い不信感を植え付け、後の慶長出羽合戦における両者の根深い対立の一因となった可能性は否定できない。
第三部:新たな支配の確立 ―「庄内口の最終調整」
藤島一揆という嵐が過ぎ去った後、直江兼続は庄内地方に新たな支配の秩序を築き上げる作業に着手した。それは単なる軍事的な制圧に留まらず、政治、経済、軍事の各方面にわたる包括的な改革であった。この一連の戦後処理と体制構築こそが、利用者様の言う「庄内口の最終調整」の核心部分に他ならない。庄内は、この調整を経て、中世的な国人割拠の状態から、近世的な大名による一元支配体制へと大きく姿を変えていく。
第一章:戦後処理と上杉氏統治体制の構築(天正19年~ / 1591年~)
一揆鎮圧後の兼続の動きは、迅速かつ徹底していた。
政治的粛清:
まず兼続は、この大規模な一揆が発生した責任の所在を明確にする必要があった。その矛先は、名目上の庄内領主であった大宝寺義勝とその実父・本庄繁長に向けられた。上杉氏は、彼らに「一揆を扇動した」という嫌疑をかけ、改易・追放処分とした 6。これは、庄内における旧来の領主の権威を完全に排除し、上杉氏による直接統治への道を切り開くための、巧みな政治工作であった。皮肉にも、上杉氏が一度は庄内復帰を支援した大宝寺義勝は、その支配体制を盤石にするための最後の障害として取り除かれたのである。
軍事体制の再編:
一揆勢によって陥落させられた大宝寺城は、兼続の手によって修復・強化された 5。そして、城番には芋川正親のような外様の将ではなく、兼続自身の配下である越後出身の兵が常駐させられた 5。これにより、庄内支配の軍事的中核は、完全に上杉氏の直接的な管理下に置かれた。また、庄内各地に点在していた城館は整理・統合され、大宝寺城、尾浦城、東禅寺城、藤島城といった主要拠点のみが維持されることになった 6。これは、反乱の温床となりうる在地勢力の軍事力を削ぐと同時に、効率的な支配網を構築するための合理的な策であった。
経済体制の改革:
一揆の直接的な原因となった検地は、抵抗勢力が一掃されたことで、何ら障害なく強行された。さらに兼続は、年貢の徴収システムを根本から改革した。従来のように地侍などの在地領主を介するのではなく、村が連帯して直接領主に年貢を納める「村請制」を導入したのである 21。これにより、中間搾取が排除され、年貢は安定的に上杉氏の蔵へと納められるようになった。これは、上杉氏の財政基盤を強化すると同時に、地侍と農民の伝統的な結びつきを断ち切り、在地社会を解体する効果も持っていた。
これら一連の改革は、上杉家中で絶対的な権力を掌握していた執政・直江兼続の強いリーダーシップの下で断行された 30 。彼の政策は、旧来の国人領主の権益を制限し、主君・景勝の直轄領を増やすという、戦国末期から近世初頭にかけての大名が目指した中央集権化の典型的なモデルであった 32 。
第二章:1592年の鶴ヶ岡城
藤島一揆という最大の軍事的脅威が排除され、新たな統治システムが導入された天正20年(文禄元年、1592年)、大宝寺城(後の鶴ヶ岡城)は、もはや最前線の戦闘拠点ではなかった。その役割は、上杉氏による庄内支配を維持・運営するための「行政・軍事センター」へと大きく変貌していた。
城内には越後から派遣された城代と城兵が駐屯し、再編された支配領域からの年貢の集積、新たな法令の伝達、そして治安維持の拠点として機能していたと考えられる。一揆の記憶が生々しい中、城は在地社会に対する静かな威圧の象徴でもあっただろう。
この年、日本の政治状況は新たな局面を迎えていた。豊臣秀吉が、その有り余る権勢を海外へと向け、朝鮮出兵(文禄の役)を開始したのである 29 。上杉景勝もまた、秀吉の命令に従い、5,000の兵を率いて朝鮮半島へと渡海している 15 。主君が国外へ出征する中、国内の領国経営は全面的に直江兼続に委ねられていた。
したがって、1592年における庄内統治の最大の課題は、この朝鮮出兵に伴う莫大な軍役負担(兵員や兵糧の供出)を、新たに支配下に入れたばかりのこの地域から、いかにして反乱を再発させることなく、効率的に徴収するかという点にあった。一揆鎮圧後の厳しい支配体制の確立と、村請制による確実な年貢徴収は、全てこの国家的事業を遂行するための布石であった。これこそが、軍事行動の終結後に訪れた、政治的・経済的な「最終調整」の真の意味であった。
なお、本報告書で扱ってきた「大宝寺城」が、「鶴ヶ岡城」という優雅な名に改称されるのは、関ヶ原の戦いを経てこの地が最上義光の所領となった後の慶長8年(1603年)のことである 5 。1592年の時点では、この城はまだ戦乱の記憶を色濃く残す「大宝寺城」として存在していた。
結論:歴史の連続性の中に位置づける「鶴ヶ岡城の戦い」
本報告書の調査結果は、利用者様が提示された「鶴ヶ岡城の戦い(1592年)」が、特定の単一合戦を指す固有名詞ではないことを明確に示している。それは、最上義光の庄内侵攻に始まり、十五里ヶ原の戦いを経て、豊臣政権の中央集権化政策が引き起こした藤島一揆とその鎮圧というクライマックスを迎えた、天正11年(1583年)から天正19年(1591年)に至る約10年間にわたる「庄内平定戦争」とでも呼ぶべき、一連の歴史的プロセスの最終局面であった。
1592年という年は、この長く続いた動乱の時代に終止符が打たれた画期として位置づけられる。血で血を洗う軍事衝突が終わりを告げ、新たな支配者である上杉氏による、より強固で体系的な統治という、静かだが決定的な「戦後」が始まった年である。藤島一揆の鎮圧とそれに続く戦後処理、すなわち「庄内口の最終調整」は、庄内地方が中世的な国人割拠の時代から、近世的な大名による一元支配体制へと移行する、不可逆的な転換点となった。
鶴ヶ岡城(当時は大宝寺城)は、この歴史的転換のまさに中心舞台であった。在地領主・大宝寺氏滅亡の舞台となり、上杉氏支配の拠点となり、そして一揆勢によって陥落させられるという、時代の荒波を象徴する存在であった。そして1592年、この城は再び新たな支配者の手に戻り、近世庄内藩の政治的中心地としての長い歴史を歩み始めるのである。したがって、「鶴ヶ岡城の戦い」とは、城壁をめぐる攻防のみならず、庄内という一つの地域世界のあり方を根本から変えた、広範で深遠な歴史的変革そのものを指し示す言葉として理解されるべきであろう。
引用文献
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- 武家家伝_最上氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/mogami_k_dj.html
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