最終更新日 2025-09-07

鶴崎城の戦い(1586)

天正十四年、戸次川の敗戦後、鶴崎城は島津軍に包囲された。城主不在の中、妙林尼は老兵らを率い智謀で猛攻を退け、撤退する島津軍を奇襲し将を討ち取った。女丈夫の武勇が輝く戦いである。

天正十四年 豊後鶴崎城の戦い ― 女丈夫・妙林尼の智謀と死闘の記録

序章:豊後を覆う島津の影 ― 戸次川の敗報

天正14年(1586年)、九州の勢力図は、薩摩の島津氏による統一という最終局面を迎えつつあった。かつて九州六ヶ国に覇を唱えた豊後の大友氏は、天正6年(1578年)の耳川の戦いにおける惨敗以降、落日の途をたどっていた 1 。家臣団の離反が相次ぎ、その威光は失墜。代わって九州の覇権をほぼ手中に収めつつあったのが、島津義久率いる島津軍団であった。

この事態を憂慮した天下人・豊臣秀吉は、大友宗麟からの救援要請を受け入れ、天正13年(1585年)10月、九州の諸大名に対し停戦を命じる「惣無事令」を発した 3 。しかし、九州統一を目前にした島津義久はこれを事実上黙殺。「成り上がり者」秀吉の命令を退け、中央の介入本格化の前に九州を完全に掌握すべく、天正14年(1586年)夏、最後の大規模攻勢に打って出た 4

島津軍の戦略は、大友領を東西から挟撃する二正面作戦であった。島津義弘率いる3万の軍勢が肥後路から、そして義久の末弟・島津家久率いる1万余の軍勢が日向路から、それぞれ豊後国へと雪崩れ込んだのである 5

この豊後侵攻における戦局の帰趨を決定づけたのが、鶴崎城の戦いのわずか数日前に起こった「戸次川の戦い」であった。大友氏救援のために秀吉が派遣した先遣隊――軍監・仙石秀久を総大将とし、四国の雄・長宗我部元親、その嫡男・信親、そして十河存保らを加えた豊臣・大友連合軍――は、大友方の拠点・鶴賀城を包囲する島津家久軍と、戸次川(現在の大野川)を挟んで対峙した 8

天正14年12月12日、軍議において仙石秀久は、諸将の慎重論を退け、無謀ともいえる即時渡河攻撃を強行。これが悲劇の始まりであった。連合軍が川を渡りきるや、待ち構えていた島津家久は、得意の「釣り野伏せ」戦法を敢行 10 。偽りの退却で敵を深追いさせ、左右に潜ませた伏兵で一気に包囲殲滅する島津伝統の必殺戦術であった。策にはまった連合軍は総崩れとなり、長宗我部信親、十河存保といった歴戦の勇将たちが次々と討ち死にするという壊滅的な敗北を喫した 7

この戸次川での勝利は、島津軍の豊後平定を決定的なものにした。勢いに乗る家久は、翌13日には大友氏の府内城を陥落させると同時に、配下の伊集院美作守久宣、野村備中守文綱、白浜周防守重政に兵3千を与え、府内と臼杵の中間に位置する鶴崎城の攻略を命じた 5

中央から派遣された「無敵」のはずの豊臣軍ですら一蹴されたという敗報は、豊後国人の心を折るに十分な衝撃であった。援軍は壊滅し、主君は敗走、周辺の城は次々と陥落または島津方へ寝返っていく。鶴崎城は、外部からの救援を全く期待できない、完全なる孤立無援の状況に陥った。このような絶望的な状況下で、正規の兵力すら持たない一介の尼が籠城を決意したことは、合理的な軍事判断を超越している。それは、大友家への忠義のみならず、かつて耳川の戦いで夫を島津の刃に奪われた妙林尼個人の、積年の怨恨が、絶望を怒りと抵抗のエネルギーへと昇華させた結果に他ならなかった。彼女の戦いは、大友家のためであると同時に、亡夫の仇を討つという、極めて個人的な動機に支えられた弔い合戦でもあったのである 1

第一章:鶴崎城の地理的・戦略的要諦

鶴崎城の戦いにおける奇跡的な防衛戦を理解する上で、その特異な地理的条件を把握することは不可欠である。この城は、大野川とその支流である乙津川が別府湾に注ぐ河口の三角州に築かれた平城であった 11 。三方を川と海という天然の水堀に囲まれたこの立地は、大規模な軍勢による多方面からの同時攻撃を物理的に不可能にし、防衛側に大きな利点をもたらした。

この城の防御構造の核心を成すのが、唯一陸続きとなっている南側からの進入路であった。この陸地は、現在の国宗天満宮付近で急激に狭まっており、その形状から「琵琶の首」と称される隘路を形成していた 11 。いかなる大軍であろうとも、鶴崎城を攻めるにはこの狭い一本道を進むしかなく、防衛側は限られた兵力をこの一点に集中させることができたのである。

この城は、大友義鑑・宗麟の二代にわたって重臣として仕えた吉岡宗歓(長増)によって築かれたと伝えられる 11 。平城は山城に比べて防御力に劣るのが一般的だが、築城主・宗歓は、あえてこの地を選ぶことで、川を巨大な堀として利用し、敵の攻撃正面を「琵琶の首」という一点に限定させることに成功した。これは、少ない兵力で大軍を食い止めることを当初から想定した、極めて合理的かつ優れた設計思想の現れであった。後に妙林尼が見せる驚くべき防衛戦の成功は、彼女個人の智謀もさることながら、この城が持つ卓越した地政学的設計に大きく助けられていたと言える。3千の兵力を擁しながら、島津軍は実際には「琵琶の首」のわずかな幅でしか戦うことができず、その圧倒的な数的優位を活かすことができなかったのである。

戦略的にも、鶴崎城は看過できない重要拠点であった。大友宗麟が籠城する最後の牙城・臼杵城と、大友義統が放棄した府内城の中間に位置し、大野川河口の水運を扼する要衝でもある 5 。島津軍にとって、この城を放置したまま臼杵城を本格的に攻囲すれば、背後から補給路を脅かされたり、海路を利用したゲリラ的反撃の拠点とされたりする危険性があった。したがって、たとえ小城であっても、豊後平定を完成させるためには、必ず制圧しておかねばならない戦略目標だったのである。

第二章:開戦前夜 ― 孤立無援の女城主

戸次川の敗報がもたらされた頃、鶴崎城内は絶望的な状況にあった。城主である吉岡統増(甚吉)は、主君・大友宗麟を守るため、吉岡家の精鋭部隊を率いて臼杵城に詰めており、城は主と主力を欠いた状態であった 1

城に残されていたのは、統増の母であり、かつて耳川の戦いで夫・吉岡鑑興を島津軍に討たれ出家した尼、妙林尼だけであった 1 。彼女の下にいたのは、わずかな老兵、そして武家の女たち、子供たち、そして近隣の百姓といった、およそ戦闘員とは呼べない人々のみ。正規の戦闘部隊は皆無に等しかった 11

3千の歴戦の島津兵を前に、降伏は誰の目にも明らかであった。しかし、妙林尼は徹底抗戦を決断する。それは、息子の留守を預かる母としての責任感、そして何よりも亡夫の仇である島津軍に対する燃えるような復讐心からの決意であった。伝承によれば、彼女は自ら鎧の上に陣羽織をまとい、薙刀を手に取り、源平時代の女武者・巴御前さながらの出で立ちで采配を振るったという 11

この戦いは、単なる封建的な主従関係に基づくものではなかった。城に残ったのは、吉岡家に代々仕える家臣の家族や、その土地に根差して暮らす農民たちである。彼らにとって、この戦いは「殿様のための戦い」であると同時に、「自分たちの家族と郷土を守るための生存をかけた戦い」であった。妙林尼は、正規兵がいないという致命的な弱点を、この血縁と地縁に基づく強固な共同体の結束力で補おうとした。彼女は自ら百姓たちに鉄砲の扱いを教え、武家の女たちに薙刀を持たせて武装させた 11 。これは、城内の全ての人的資源を動員し、共同体の存亡をかけた総力戦を組織したことを意味する。鶴崎城の戦いは、戦国時代の合戦が、武士という専門戦闘員階級だけの専有物ではなかったことを示す、貴重な事例なのである。

【表1:鶴崎城の戦い 主要登場人物と兵力比較】

陣営

指揮官

主要人物

推定兵力

兵員構成

鶴崎城(大友方)

吉岡妙林尼

-

500未満

老兵、農民、武家の女性、子供

包囲軍(島津方)

伊集院久宣 野村文綱 白浜重政

-

約3,000

薩摩・大隅・日向の正規兵

この表が示すように、両軍の戦力差は単なる数だけでなく、「質」においても絶望的であった。片や九州最強を誇る島津の正規軍、片や非戦闘員の寄せ集め。この圧倒的な戦力差こそが、妙林尼の戦術がいかに常軌を逸し、その後の勝利がいかに奇跡的であったかを物語っている。

第三章:籠城戦のリアルタイム詳解

第一節:島津軍の来襲と「琵琶の首」の攻防(天正14年12月12日以降)

戸次川での勝利の熱気も冷めやらぬうちに、島津家久の命を受けた伊集院久宣、野村文綱、白浜重政率いる3千の軍勢は、高田方面から北上し、鶴崎城へと迫った。彼らは城を望む対岸の種具山などに陣を敷き、降伏を促す使者を送ったが、妙林尼はこれを一蹴した 11

妙林尼は、敵の攻撃が「琵琶の首」に集中することを見越し、この隘路に全ての防御能力を注ぎ込んだ。急ごしらえで二重、三重の堀や柵を設け、敵の突撃路となる場所には、巧妙に偽装した落とし穴を無数に掘らせた。その穴の底には、鋭く研ぎ澄ました竹の切り口を上向きに立て、竹槍の逆茂木とした 11

やがて、島津軍の総攻撃が開始された。鬨の声を上げ、「琵琶の首」に殺到する島津の兵たち。しかし、勢い込んで柵に取り付こうとした先鋒部隊は、次々と足元の地面が崩れ、落とし穴へと転落していった 11 。底の竹槍に体を貫かれ、あるいは折り重なって圧死する者、混乱して逃げ惑う者で、攻撃隊はたちまち機能不全に陥る。その混乱の極みにある敵兵に向け、柵の背後から妙林尼が訓練した農民鉄砲隊が一斉に火を噴いた。狙いは正確であり、多くの島津兵がその場に斃れた 11 。初戦は、寄せ集めの城兵による、あまりにも見事な防衛成功に終わった。

この原始的ともいえる罠が、なぜ歴戦の島津兵にこれほどまでに有効だったのか。第一に、戸次川の圧勝で勢いに乗る島津軍は、女子供しかいないと侮っていた城が、本格的な野戦築城を施しているとは想定しておらず、完全に油断していた。第二に、突撃の最中に足元が崩れるという恐怖は、兵士の攻撃衝動を心理的に削ぐ上で絶大な効果を持つ。一度恐怖を植え付けられれば、兵士は次からの突撃においても足元を気にしてしまい、本来の力を発揮できなくなる。妙林尼は、物理的な損害を与えるだけでなく、敵兵の士気そのものを巧みに削いでいた。これは、戦力を単なる「兵士の数」ではなく、「戦う意志」の総体として捉える、高度な戦術眼の現れであった。

第二節:十六度にわたる猛攻と妙林尼の智謀

初戦で手痛い損害を被った島津軍であったが、それで引き下がるわけにはいかなかった。その後も幾度となく、力押しによる総攻撃を繰り返した。後世の軍記物によれば、その攻撃回数は実に16回にも及んだとされている 15

しかし、妙林尼の指揮は冷静沈着かつ的確であった。彼女は、限られた兵力と弾薬を巧みに運用し、全ての攻撃を撃退し続けた。一説には城内に300挺近い鉄砲が備蓄されていたとも言われ 16 、これを最も効果的な瞬間に集中使用することで、敵に城壁へ取り付くことすら許さなかった。士気の低い寄せ集めの兵たちは、彼女の卓越した指揮の下、まるで精鋭部隊のように機能し、島津の猛攻をことごとく跳ね返したのである。

第三節:兵糧尽き、偽りの和睦へ

数ヶ月にわたる攻防の末、鶴崎城は物理的な限界を迎えつつあった。執拗な攻撃は凌いだものの、城内の兵糧と弾薬はついに底を突き始めたのである 5 。これ以上の籠城は、城内の人々の餓死を意味していた。

一方、攻めあぐねていた島津軍の将・野村文綱もまた、焦りを募らせていた。小城一つにこれほど手こずり、いたずらに時と兵を失うことは、島津軍全体の戦略にとっても得策ではない。そこで文綱は、城内にいる全ての者の生命の保証を条件として、和睦と開城を提案した 12

妙林尼は、これ以上の無益な犠牲を避けるため、この条件を呑むことを決断する。しかし、彼女にとって城を明け渡すことは、戦いの終わりを意味するものではなかった。それは、次なる戦いのための、巧妙な布石の始まりに過ぎなかったのである。

第四章:束の間の静寂 ― 油断を誘う饗応

和睦が成立し、鶴崎城は島津軍の手に渡った。伊集院久宣、野村文綱、白浜重政らの部隊が城内に進駐し、妙林尼をはじめとする城内の人々は、約束通り生命を保証され、地下などで暮らすことを許された 12

ここから、妙林尼の第二の戦いが始まった。彼女はそれまでの敵対的な態度を一変させ、あたかも島津方に心服したかのように振る舞った。そして、城内にいた武家の女性たちと共に、進駐してきた島津の将兵たちを連夜、酒宴を開いてもてなしたのである 17 。名目は、互いの健闘を称え、武人としての誼を通じるというものであった。

この饗応は徹底しており、島津の将兵たちは、妙林尼の器量の大きさと細やかな心遣いにすっかり感服し、警戒心を完全に解いてしまった。特に将の一人、野村文綱は妙林尼に個人的な好意を寄せるようになったとまで伝えられている 12 。妙林尼は、この饗応を通じて敵将たちの人間的な側面にまで深く入り込み、貴重な内部情報を収集しつつ、復讐の機会を虎視眈々と窺っていた。

彼女は、開城によって物理的な「戦闘」のフェーズを終えると、即座に「心理戦・情報戦」へと移行した。武力では到底かなわない相手に対し、彼女は「饗応」という文化的な慣習と、「出家した尼」という自身の立場を最大の武器として利用した。当時の武家社会において、女性、それも仏門に入った尼は、直接的な軍事的脅威とは見なされにくい存在であった。妙林尼はこの社会的なステレオタイプを巧みに逆手に取り、最も警戒されにくい立場から敵の中枢に接近し、その油断を誘った。これは、戦いを単に戦場での物理的な衝突として捉えるのではなく、人間の心理や社会規範をも利用する、より広範な闘争として捉えていた証左である。

第五章:逆襲の狼煙 ― 乙津川の奇襲

第一節:豊臣軍来襲と島津軍の撤退命令(天正15年3月)

妙林尼が敵を歓待し、油断させている間に、九州全体の戦局は劇的に動いていた。天正15年(1587年)3月、豊臣秀吉は徳川家康を臣従させ、満を持して自ら大軍を率いて九州へ上陸。先鋒として豊臣秀長が率いる10万ともいわれる大軍が豊後方面へと進軍を開始した 3

戦局は一変し、島津軍にとって圧倒的に不利となった。豊後国に深く侵攻していた島津の諸部隊に対し、全軍撤退の命令が下された 14 。鶴崎城に駐留していた伊集院久宣らの部隊も、占領地を放棄し、本国である日向へ向けて撤退を開始することになったのである。

第二節:決行 ― 泥酔の敵将、闇夜の鉄砲隊(天正15年3月8日)

撤退の報は、妙林尼が待ち望んでいた好機であった。彼女は、撤退の前夜、これまでの労をねぎらい、別れを惜しむとして最後の盛大な送別の宴を催した。島津の将兵たちは、もはや味方同然と信じきっていた妙林尼の歓待を受け、何の疑いもなく酒を酌み交わし、多くが泥酔した 20

その裏で、妙林尼は密かに城を抜け出し、かねてより連絡を取り合っていた吉岡家の旧臣や地元の協力者たちに檄を飛ばしていた。そして、島津軍の撤退路となる乙津川の渡河点、寺司浜(てらじはま)へと先回りさせ、川岸の竹藪や葦の中に鉄砲隊を潜ませたのである 11

この奇襲の成功は、完璧な情報統制と欺瞞作戦の上に成り立っていた。妙林尼は、島津軍が撤退するという情報を得た上で、自らも島津方に寝返り、共に日向へ赴きたいと申し出るという偽の意思表示までしていた可能性がある 17 。これにより、敵は最後の瞬間まで妙林尼を「味方」だと信じ込み、一切の警戒を怠った。彼女は、敵の情報を得るだけでなく、敵に偽の情報を与えることで、その行動を完全にコントロールしていたのである。これは単なる待ち伏せ攻撃ではなく、敵の認識そのものを操作する、高度な諜報・謀略活動であった。

明けて天正15年3月8日。二日酔いの残る島津軍は、重い足取りで鶴崎城を発ち、乙津川の渡河点に差しかかった。兵士たちが油断しきって川を渡り始めた、まさにその時であった。静寂を破り、対岸の竹藪から一斉に鉄砲が火を噴いた 11

不意の銃撃に、島津軍は大混乱に陥る。誰が、どこから撃っているのかも分からぬまま、兵士たちは右往左往するばかり。そこへ、藪の中から鬨の声を上げて妙林尼の手勢が襲いかかった 11 。我先にと逃げ惑う兵士たちは、退路を断たれ、あるいは川に飛び込んで溺死し、あるいは岸辺で次々と討ち取られていった。寺司浜は、阿鼻叫喚の地獄と化した 16

第六章:戦いの終結と戦果

第一節:島津軍の損害と将帥の末路

乙津川の奇襲は、完璧な成功を収めた。この戦いで、鶴崎城攻略部隊を率いていた島津軍の主将三名のうち、伊集院美作守久宣と白浜周防守重政がその場で討ち取られた 5

もう一人の将、野村備中守文綱は、胸に矢を受ける重傷を負いながらも、かろうじて戦場を離脱することに成功した。しかし、この時の傷がもとで、後に日向の高城にて息を引き取ったと伝えられる 5 。結果として、鶴崎城を攻めた島津軍の指揮官は、全員がこの妙林尼の計略によって命を落とすことになったのである。

将帥のみならず、兵士の損害も甚大であった。この奇襲による島津軍の戦死者は300名以上にのぼったと記録されている 11 。これは、派遣された部隊3千の実に1割以上が一挙に失われたことを意味し、一個の部隊としては壊滅的な損害であった。

第二節:妙林尼の戦勝報告と大友家の反応

戦いが終わると、妙林尼は討ち取った島津兵の中から、特に身分の高い武将のものと思われる首級63を検分させた 11

翌3月9日、妙林尼はこの63の首を臼杵城に送り、籠城を続ける主君・大友宗麟のもとへ献上した 11 。敗戦続きで意気消沈していた臼杵城内は、この予期せぬ大勝利の報と、目の前にずらりと並べられた敵将の首に、驚きと歓喜に包まれた。宗麟をはじめ、城内の将兵一同は、妙林尼の類まれなる忠義と武功を絶賛したという 11

戦国時代において、自己申告による戦功は必ずしも信用されなかった。特に、妙林尼のような非正規の指揮官からの報告は、疑ってかかられる可能性もあった。しかし、「首」という動かぬ物的証拠は、その戦果を誰もが否定できない形で証明する。63もの首、それも名のある将のものが含まれていたことは、この勝利がまぐれや小競り合いではなく、敵部隊に壊滅的打撃を与えた決定的なものであったことを示している。この戦勝報告は、敗戦ムードに沈む大友家全体の士気を大いに高揚させる、何よりの良薬となった。妙林尼は、戦術的に敵を殲滅しただけでなく、戦果報告という政治的・戦略的行為においても、最も効果的な手段を選択したのであった。

終章:鶴崎の女丈夫、その後の歴史的評価

吉岡妙林尼の武勇伝は、その劇的な展開から、後世に編纂された軍記物語に多く取り上げられた。そのため、16度にも及ぶ攻撃の撃退や、饗応の具体的な様子など、一部に物語的な創作や誇張が含まれている可能性は否定できない 17 。事実、彼女の生没年や出自といった正確な記録は乏しく、その人物像の多くは伝説の霧に包まれている 1

しかしながら、島津家の有力武将であった伊集院久宣らがこの地で討死したという事実は、複数の資料で一致しており 5 、妙林尼という女性が中心となって島津軍に手痛い一撃を与えたという物語の核は、歴史的事実であったと考えられている。

日本の歴史叙述は、伝統的に勝者、中央、そして男性の視点から語られてきた 17 。その中で、妙林尼の物語は、これらすべてに対する強力な「対抗言説(カウンターナラティブ)」としての価値を持つ。彼女は、①九州という「地方」の、②最終的に秀吉に救済される「敗者」である大友方の、③「女性」という三重のマイノリティの立場にありながら、局地戦において知略の限りを尽くし、完全な「勝者」となった。

彼女の存在は、著名な大名や武将たちの動向だけで語られがちな戦国史に、名もなき民や女性たちがいかに主体的に、そして死活的に乱世に関わっていたかという、もう一つのリアルな歴史の側面を我々に提示してくれる。彼女の記録を詳細に分析することは、歴史をより複眼的かつ公正に理解するために不可欠な作業である。

激戦の地となった乙津川のほとりには、戦死者を弔うための「千人塚」が建てられ、その悲劇は地域の伝承として今に伝わっている 14 。そして、妙林尼が命を懸けて守り抜いた鶴崎城の跡地には、現在、鶴崎小学校と鶴崎高校が建ち、子供たちの声が響いている 14


【表2:鶴崎城の戦い 詳細年表】

年月日(西暦換算)

出来事

関連人物

典拠資料

天正14年12月12日 (1587/1/20)

戸次川の戦い。豊臣・大友連合軍が島津家久軍に大敗。

島津家久、仙石秀久、長宗我部信親

9

天正14年12月12日以降

島津家久、伊集院久宣ら3千を鶴崎城へ派遣。包囲戦開始。

伊集院久宣、野村文綱、妙林尼

5

天正14年12月~15年2月頃

籠城戦。「琵琶の首」での攻防。島津軍の攻撃を16度撃退。

妙林尼

11

天正15年2月下旬~3月上旬頃

兵糧・弾薬が尽き、城兵の助命を条件に和睦・開城。

妙林尼、野村文綱

12

天正15年3月

豊臣秀吉の本隊が九州に接近。豊後の島津軍に撤退命令。

豊臣秀吉、豊臣秀長

7

天正15年3月8日 (1587/4/15)

島津軍が鶴崎城から撤退開始。妙林尼、乙津川で奇襲。

妙林尼、伊集院久宣、白浜重政

11

天正15年3月8日

乙津川の戦い(寺司浜の戦い)。伊集院久宣、白浜重政戦死。

伊集院久宣、白浜重政

5

天正15年3月9日 (1587/4/16)

妙林尼、敵将の首63を臼杵城の大友宗麟へ送る。

妙林尼、大友宗麟

11

時期不明

野村文綱、乙津川での戦傷がもとで日向にて死亡。

野村文綱

5

引用文献

  1. 妙林尼 戦国の姫・女武将たち/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46540/
  2. 九州制覇の夢 - 鹿児島県 http://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/josetsu/theme/chusei/kyushu/index.html
  3. 豊薩合戦、そして豊臣軍襲来/戦国時代の九州戦線、島津四兄弟の進撃(7) https://rekishikomugae.net/entry/2024/01/23/203258
  4. 九州平定 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%B9%B3%E5%AE%9A
  5. 豊薩合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%96%A9%E5%90%88%E6%88%A6
  6. 「九州征伐(1586~87年)」豊臣vs島津!九州島大規模南進作戦の顛末 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/713
  7. 1587年 – 89年 九州征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1587/
  8. 戸次川古戦場 - しまづくめ https://sengoku-shimadzu.com/spot/%E6%88%B8%E6%AC%A1%E5%B7%9D%E5%8F%A4%E6%88%A6%E5%A0%B4/
  9. 戸次川の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E6%AC%A1%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  10. 戸次川の戦い(九州征伐)古戦場:大分県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/hetsugigawa/
  11. 大友戦記 鶴崎城攻防戦 http://www.oct-net.ne.jp/moriichi/story12.html
  12. 吉岡妙林尼 戦国武将を支えた女剣士/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/19219/
  13. 鶴崎城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E5%B4%8E%E5%9F%8E
  14. 鶴崎城攻防戦 http://www.oct-net.ne.jp/moriichi/battle12.html
  15. 守るために戦いを選んだ!非戦闘員と共に敵軍を16回退けた女性 ... https://mag.japaaan.com/archives/197723
  16. 『吉岡妙林尼』あの島津軍を壊滅させた尼御前 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=kM1qw2PjT9A
  17. 吉岡妙林尼~鶴崎城を島津軍から奪還 - 名古屋学院大学 https://www.ngu.jp/media/20220923.pdf
  18. 戦国最強の島津をビビらせた女?16回もの攻撃を凌いだ知略、妙林尼ら戦国の強〜い女性たち https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/129421/
  19. 鶴崎城の見所と写真・100人城主の評価(大分県大分市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1800/
  20. 戦国最強の女将 吉岡 妙林尼|ひでさん - note https://note.com/hido/n/nb6297f31d114
  21. 宗麟 ザビエルを招く - 大分市 https://www.city.oita.oita.jp/o205/documents/senngokukiturusaki.pdf